わたくしはこのごろジヨオジ・ムウアの書いたものを讀んでゐる。それについての話を少しして見よう。別にムウアの書物が珍らしいといふのではない。今まであまり人の口にかゝらなかつたと云ふまでゝあるが、むかふでも多少評判になつてきてゐるやうである。なかなか變つたことを書いてゐる。そのまた文章が素敵におもしろい。ムウアはもう六十四五歳にもなるかとおもふ。
 ムウアは美術の評論が得意で、文學のこともあげつらふ。隨筆も書けば小説も書く。わたくしはまだ小説の方は讀んでゐないが、評論はその文章と相待つて奇警なところがある。英國文壇に初めて自然主義を導入したのが、このムウアである。
 ムウアは愛蘭土の産で、若い時から巴里に遊學して、暢氣に畫の修業などをやつてゐた。それに就て「若人の讖悔記」と題する本がある。この本を讀むとその時代の藝術界の空氣とその中に浸つてゐた彼の經歴とがよく判る。それが丁度ゾラが自然主義を唱へてゐたをりで、それまではまだロマンチツクの考を有つてゐたのが、それ以來急に内部革命を來して、ゾラが小説にプロツトは必要でないなどと主張する形勢を見てとつて胸を躍らしたと云つてゐる。それから詩の方へも入り込んで、ボオドレエル其他近代詩人に追々興味を有つやうになつた。
 當時に於けるムウアの巴里生活は頗る放縱であつたらしい。何しろ生家に資産があつたので、日常の小遣に困ることはない。始終例のヌウヴエル・アテエネなんどに出入してゐた。さういふ場所で詩人や美術家の連中と話し込みながら夜を更かし、舖道の月を踏んで歸るのが愉快だつたと語つてゐる。そして自分の部屋に日本の佛像を飾つたり、或は蛇を飼つたりしてゐたさうである。
 その後、家の都合で、巴里を切りあげて英國へ歸らなければならぬやうになつたが、その時ムウアは得意の絶頂で、右の手にナチユラリズム、左の手にクラシシズム、まさかの用意にシンボリズムを懷にすると云ふ氣張かたであつた。
 然るに佛蘭西で心ゆくばかりの生活を營み、且つ佛蘭西語に習熟したムウアには英國語が甚だ慊らない。俗惡で、とても好い文章など書けさうもない氣がして、それで始めのうちは嫌ひでたまらなかつたさうである。その後ウオタア・ペエタアの文章を讀んで見て英文の面白味が會得され、それから外の文章も味ふことができるやうになつたと云つてゐる。
 ムウアは英國に歸つてから、大に評論の筆を執り、自然主義や象徴主義を論じ、マラルメの散文詩を飜譯したり、ランボオの才を稱へたり、ヒユイスマンスの文をステンドグラスのやうだなどと云つて紹介した。
 然しムウアは漸次自然主義には慊らなくなつて、見たまゝを書け、主觀を交へるなと云ふ自然主義に對する不滿を述べて、こんなことを云つてゐる。
「たとへばこゝに店飾があつて、そしてここに一の描寫が立派に出來てゐたとしても、その描寫の價値がどこにあるかと云へば、それは寧ろ店飾をした主人にあるのではないか」
 またこんなことも云つてゐる。
「若し自然主義が後の文學によい感化を與へたところがあるとすれば、即ち自然主義の齎らした効果を擧げるとすれば、それは描寫と云ふよりも、その文章である。語彙を豐富にし、精細にした點である。これだけは自然主義の効果と云つてよい」
 それであるから、ムウアは藝術觀に於ても全く唯美派的で、「藝術は藝術のための藝術で、これは希臘の昔から今日に及んで變らぬものだ」と云ひ切り、作家は須くそのテムペラメントを發揮すべしと説いてゐる。從つてゾラに對しても、作物そのものは劣ると見做し、殊にゴンクウル兄弟に就て、こきおろしてゐる。
「ゴンクウル兄弟などは藝術家でない。藝術はそんな合名會社風に出來るものではない。一體日記をつけて、自分達の名を後世に殘さうと思ふことからして如何にもさもしい根性だ」と云つてゐる。
 然しゾラ以前のバルザツクはひどく好きで、「勿論、バルザツクはシエエクスピイアよりもいゝ」と云つたので、英國人には餘り好まれなかつた。
 繪畫の方では、マネエなどの、多少新味のあるうちにクラシツクの線のあらはれてゐるのが好きで、今日で謂ふところのモネエ以下の印象派には重きを置いてゐない。そして「モネエの畫は漆喰細工だ。亞米利加人向きだ」と云つてけなしつけてゐる。
 ムウアはまた批評家が英吉利のウイスラアを印象派の中に入れてゐるのは大間違だと斷定して、「彼はクラシツクのクラシツクだ。形の完全と色の調和を求めることにおいては、希臘人よりももつとデリケエトな考をもつてゐる」と云ひ、かの有名なノクタアンの畫についても「これは決して寫生で出來たものではない。彼の頭の中に初めからあつたものだ。要するにウイスラアはウイスラアの天稟を遺憾なく表現すればよいのだ」と説いてゐる。
 十年一日の如く、オペラの踊子と競馬の畫ばかり描いてゐるドガに關しても、世間では彼を印象派の中に數へてゐるが、これも大のクラシツクである、誤解であると云つて、盛んにその描法等を説明して細い議論をしてゐる。
 すべてがこんな風で、ムウアは如何にも奇矯な言を弄するやうに見えるけれども、もと/\畫の心得のある人であるから一概にその言を卻けるわけにもゆかない。詳しく見くらべたら、さう一口にマネエもドガもまたウイスラアも印象派の中に押籠めたくはないだらう。
 なほムウアは平民主義が甚だ嫌ひである。「あの蒼白い顏をした平民主義の基督が出てから世の中が駄目になつた」などと云つてゐる。文壇の平民主義に對しても快く思つてをらぬことは言ふまでもない。
(談話筆記)

底本:「明治文學全集 99 明治文學囘顧録集(二)」筑摩書房
   1980(昭和55)年8月20日初版第1刷発行
底本の親本:「飛雲抄」書物展望社
   1938(昭和13)年12月10日
初出:「文章世界」
   1910(明治43)年8月
※初出時の表題は、「自然主義を英國文壇に入れたジヨージ・ムアー」。
入力:広橋はやみ
校正:川山隆
2007年8月14日作成
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