「あゝもし、一寸ちよつと。」
「は、わたし……でございますか。」
 電車でんしや赤十字病院下せきじふじびやうゐんしたりて、むかうへ大溝おほどぶについて、みさきなりにみちうねつて、あれから病院びやうゐんくのにさかがある。あのさかあがぐちところで、うへからをとこが、あがつて中年増ちうどしまなまめかしいのと行違ゆきちがつて、うへしたへ五六はなれたところで、をとここゑけると、なまめかしいのはぐに聞取きゝとつて、嬌娜しなやか振返ふりかへつた。
 兩方りやうはうあひだには、そでむすんでまとひつくやうに、ほんのりとならぬかをりたゞよふ。……をんなは、薄色縮緬うすいろちりめん紋着もんつき單羽織ひとへばおりを、ほつそり、やせぎすな撫肩なでがたにすらりとた、ひぢけて、桔梗色ききやういろ風呂敷包ふろしきづつみひとつた。よつツのはしやはらかにむすんだなかから、大輪おほりん杜若かきつばたはなのぞくも風情ふぜいで、緋牡丹ひぼたんも、白百合しらゆりも、きつるいろきそうてうつる。……盛花もりばなかごらしい。いづれ病院びやうゐん[#ルビの「びやうゐん」は底本では「びやうろん」]見舞みまひしなであらう。みちをしたうててふないが、さそたもと色香いろかときめく。……
 かるすその、すら/\と蹴出けだしにかへるとおないろ洋傘かうもりを、日中ひなかあたるのに、かざしはしないで、片影かたかげ土手どていて、しと/\とつたは、るさへ帶腰おびごし弱々よわ/\しいので、坂道さかみち得堪えたへぬらしい、なよ/\とした風情ふぜいである。
貴女あなた、」
 とんで、ト引返ひきかへした、鳥打とりうちかぶつたをとこは、高足駄たかあしだで、ステツキいためうあつらへ。みちかわいたのに、爪皮つまかはどろでもれる、あめあがりの朝早あさはや泥濘ぬかるみなかたらしい。……くもあついのにカラ/\歩行あるきで、あせばんだかほる。
唐突だしぬけにおまをして失禮しつれいですが、」
「はい。」
 と一文字いちもんじまゆはきりゝとしながら、すゞしいやさしく見越みこす。
これから何方どちららつしやる?……なに病院びやうゐんへお見舞みまひのやうにお見受みうまをします。……失禮しつれいですが、」
「えゝ、うなんでございます。」
 此處こゝみまもつたのを、かる見迎みむかへて、ひと莞爾につこりして、
いゝえ、お知己ちかづきでも、お見知越みしりごしのものでもありません。眞個まつたく唯今たゞいま行違ゆきちがひましたばかり……ですから失禮しつれいなんですけれども。」
 とつて、づツとつた。
べつなんでもありませんが、一寸ちよつと御注意ごちういまでにまをさうとおもつて、いまね、貴女あなたらつしやらうと病院びやうゐん途中とちうですがね。」
「はあ、……」と、くのにはひつたをんなかほは、途中とちう不意ふいかはつたかとおもふ、すゞしけれども五月ごぐわつなかばの太陽したに、さびしいかげした。
 をとこは、自分じぶんくちから言出いひだしたことで、おもひもけぬ心配しんぱいをさせるのをどくさうに、なか打消うちけ口吻くちぶりで、
「……あま唐突だしぬけで、へんにおおもひでせう。なに御心配ごしんぱいことぢやありません。」
なんでございます、まあ、」と立停たちどまつてたのが、ふたツばかり薄彩色うすさいしき裾捌すそさばきで、にしたかごはなかげが、そでからしろはださつ透通すきとほるかとえて、小戻こもどりして、トなゝめに向合むきあふ。
「をかしなやつ一人ひとり此方側こちらがは土塀どべいまへに、砂利じやりうへしやがみましてね、とほるものを待構まちかまへてるんです。」
「えゝ、をかしなやつが、――待構まちかまへて――あのをんなをですか。」
いゝえ御婦人ごふじんかぎつたことはありますまいとも。……げんわたくし迷惑めいわくをしたんですから……だれだつて見境みさかひはないんでせう。其奴そいつ砂利じやりつかんで滅茶々々めちや/\擲附ぶツつけるんです。」
可厭いやですねえ。」
 とくちむすんで前途ゆくて見遣みやつた、まゆひそんで、をんな洋傘かうもり持直もちなほす。
むねだの、うでだの、ふたツは、あぶな頬邊ほつぺたを、」
 とてたが、近々ちか/″\見合みあはせた、うらゝかひとみたてにもれとか。

わたし見舞みまひつた歸途かへりです。」
 とをとこ口早くちばやつゞけて、
ゆきには、なんにも、そんなやつなかつたんです。もつと大勢おほぜい人通ひとゞほりがありましたからかなかつたかもれません。かへり病院びやうゐん彼方あつちかどを、此方こつちまがると、其奴そいつ姿すがたがぽつねんとしてひとツ。それが、うへの、ずんどに、だゞつぴろむかし大手前おほてまへつたとほりへ、くわツあたつて、うやつてかげもない。」
 とくもあふぐと、とりるやうにをんな見上みあげた。
泥濘ぬかるみ捏返こねかへしたのが、のまゝからいて、うみ荒磯あらいそつたところに、硫黄ゆわうこしけて、暑苦あつくるしいくろかたちしやがんでるんですが。
 何心なにごころなく、まばゆがつて、すツとぼ/\、御覽ごらんとほ高足駄たかあしだ歩行あるいてると、ばらり/\、カチリてツちや砂利じやりげてるのが、はなれたところからもわかりましたよ。
 中途ちうとちるのは、とゞかないので。砂利じやりが、病院びやうゐん裏門うらもんの、あの日中ひなか陰氣いんきな、枯野かれのしづむとつた、さびしいあか土塀どべいへ、トン……と……あひいては、トーンとあたるんです。
 なんですかね、島流しまながしにでもつて、こゝろ遣場やりばのなさに、砂利じやりつかんでうみ投込なげこんででもるやうな、心細こゝろぼそい、可哀あはれふうえて、それ病院びやうゐん土塀どべいねらつてるんですから、あゝ、どくだ。……
 年紀としわかし……許嫁いひなづけか、なにか、へておもひとでも、入院にふゐんしてて、療治れうぢとゞかなかつたところから、無理むりとはつても、世間せけんには愚癡ぐちからおこる、人怨ひとうらみ。よくあるならひで――醫師いしやぬかり、看護婦かんごふ不深切ふしんせつなんでも病院びやうゐん越度をちどおもつて、それ口惜くやしさに、ものぐるはしくおほきたてものを呪詛のろつてるんだらう。……
 とわたしおもひました。うね、一目ひとめて、をとこのいくらかへんだ、とことは、顏色かほいろわかりましたつけ。……ふちあをくつて、いろあかちやけたのに、あつくちびるかわいて、だらりといて、したしさうにあへぎ/\――下司げす人相にんさうですよ――かみながいのが、帽子ばうししたからまゆうへへ、ばさ/\にかぶさつて、そして血走ちばしつてるんですから。……」
矢張やつぱり、病院びやうゐんうらんでるんですかねえ、だれかがつてさ、貴方あなた。」
 と見舞みまひ途中とちうつてか、をんないて俯向うつむいた。
「まあ、うらしくおもふんです。」
どくですわね。」
 とかほげる。
雖然けれどもおどろくぢやありませんか。突然いきなり、ばら/\と擲附ぶつかつたんですからね。なにをする……もなんにもありはしない。狂人きちがひだつてこと初手しよてかられてるんですから。
 ――頬邊ほつぺたは、鹽梅あんばいかすつたばかりなんですけれども、ぴしり/\ひどいのがましたよ。またうまいんだ、貴女あなたいしげる手際てぎはが。面啖めんくらつて、へどもどしながら、そんななかでもそれでも、なん拍子ひやうしだか、かみなが工合ぐあひひ、またしまらないだらけたふうが、朝鮮てうせん支那しな留學生りうがくせいら。……おや、とおもふと、ばら/\とまた投附なげつけながら、……
 ――畜生ちくしやう畜生ちくしやう――と口惜くやしさうにわめ調子てうしが、立派りつぱ同一おなじ先祖せんぞらしい、おたがひの。」
 とフト苦笑にがわらひした。
「それから本音ほんねきました。
 ――畜生ちくしやうあま畜生ちくしやう――
 大變たいへんだ。色情狂いろきちがひ。いや、をんな怨恨うらみのあるやつだ……
 と……なにしろひどつてげたんです。たついまことなんです。
 やつ此處こゝまでて、べつ追掛おひかけてはませんでした――そでなんかはらつて、んだふものだ、とおもひましてね、あせいて、なんです、さかりようとすると、したから、ぞろ/\と十四五にん、いろのはかまと、リボンで、一組ひとくみ總出そうでつたらしい女學生ぢよがくせい、十五六から二十はたちぐらゐなのがそろつてました。……」

なかに、一人ひとり、でつぷりとふとつた、にくづきのい、西洋人せいやうじんのおばあさんの、くろふく裾長すそながるのがました。何處どこ宗教しうけう學校がくかうらしい。
 今時分いまじぶん、こんなところへ、運動會うんどうくわいではありますまい。矢張やつぱ見舞みまひか、それとも死體したい引取ひきとりくか、どつちみちたのもしさうなのは、そのばあさんの、晃乎きらりむねけた、金屬製きんぞくせい十字架じふじかで。――
 ずらりと女學生ぢよがくせいたちをしたがへて、ほゝあごをだぶ/″\、白髮しらがうづまきかせて、反身そりみところが、なんですかねわたしには、彼處あすこる、狂人きちがひを、救助船たすけぶね濟度さいどあらはれたやうにえたんです。
 が、矢張やつぱいしげるか、うか、しきり樣子やうすたくつたもんですからね。御苦勞樣ごくらうさまさか下口おりくち暫時しばらくつてて、遣過やりすごしたのを、あとからついてあがつて、其處そこつてながめたもんです。
 ふねくやうに連中れんぢう大手おほて眞中まんなか洋傘かうもり五色ごしきなみとほりました。
 がかりなくもは、くろかげで、晴天せいてんにむら/\といたとおもふと、颶風はやてだ。貴女あなた。……だれもおばあさんの御馬前ごばぜん討死うちじにする約束やくそくかねいらしい。われち、とりぶやうに、ばら/\ると、さすがは救世主キリストのお乳母うばさん、のさつと太陽した一人ひとりうづたかくろふく突立つゝたつて、狂人きちがひ向合むきあつてかゞみましたつけが、かなはなくつたとえて、いてストンと貴女あなたくつうらかへしてげた、げるとるとはやこと!……卷狩まきがりゐのしゝですな、踏留ふみとまつた學生がくせい突退つきのけて、眞暗まつくら三寶さんばう眞先まつさき素飛すつとびました。
 それは可笑をかしいくらゐでした。が、狂人きちがひは、とると、もとのところへ、のまゝしやがんで、げたのがまがかどで二三にん見返みかへつてえなくなる時分じぶんには、また……カチリ、ばら/\。寂然ひつそりした日中ひなか硫黄ゆわうしま陰氣いんき音響ひゞき
 とほりものでもするらしい、人足ひとあし麻布あざぶそらまで途絶とだえてる……
 ところへ、貴女あなたがおいでなすつたのに、うしてお出合であまをしたんです。
 りもしないものが、突然とつぜんおどろかせまをして、御迷惑ごめいわくところはおゆるください。
 わたしだつて、御覽ごらんとほり、べつ怪我けがもせず無事ぶじなんですから、故々わざ/\はなしをするほどでもないのかもれませんが、でも、けてらつしやるはうからうとおもつたからです。……失禮しつれいしましたね。」
 とう、氣咎きとがめがするらしく、きふ別構わかれがまへに、鳥打とりうちける。
なんとも、しんせつに……眞個ほんとわたし、」
 とどうをゆら/\と身動みうごきしたが、はしたなき風情ふぜいえず、ひとなさけ汲入くみいれた、やさしい風采とりなり
貴方あなたうしたらいでせうね、わたし……」
りたけとほはなれて、むかがはをおとほんなさい。なんならあらかじ用心ようじんで、ちやううして人通ひとゞほりはなし――かまはず駈出かけだしたらいでせう……」
わたしけられませんの。」
 と心細こゝろぼそさうに、なよやかなかたた。
くるしくつて。」
成程なるほどけられますまいな。」
 とばうひさしおさへたまゝつた。
もちものはおあんなさるし……では、うなさるとい。……日當ひあたりに御難儀ごなんぎでも暫時しばらく此處こゝにおいでなすつて、二三にんだれるのを待合まちあはせて、それとなく一所いつしよらしつたらいでせう。……」
 とけて、きはめて計略けいりやく平凡へいぼんなのに、われながらをとこどくらしかつた。
なんだか、むかし道中だうちうに、山犬やまいぬたとときのやうですが。」
いゝえ山犬やまいぬならまだしもでございます……そんなひと……氣味きみわるい、わたしうしませう。」
 とこうじたさまして、しろ駒下駄こまげたの、爪尖つまさきをコト/\ときざ洋傘かうもりさきが、ふるへるばかり、うちにつたうてはなれる。華奢きやしやなのを、あのくちびるあつい、おほきなべろりとしたくちだとたてくはへてねまい。
「ですから、矢張やつぱ人通ひとゞほりをお待合まちあはせなさるがい。なに圖々づう/\しく、わたしが、おおくまをしませう、とひかねもしませんが、じつは、つた、狂人きちがひですから、二人ふたり連立つれだつてまゐつたんぢや、荒立あらだてさせるやうなものですからね。……」

 をんな分別ふんべつせたむねを、すつとばすさま立直たちなほる。
ちやう鹽梅あんばいに、貴下あなたがおひなさいましたやうな、大勢おほぜい御婦人ごふじんづれでも來合きあはせてくださればうございますけれどもねえ……でないと……畜生ちくしやう……だの――阿魔あま――だのツて……なんですか、をんな怨恨うらみ、」
 とひかけて――あしもずらして高足駄たかあしだを――ものをで、そつ引留ひきとめて、
貴方あなた、……仰有おつしやいましたんですねえ。」
當推あてずゐですがね。」
「でもなんだか、そんなくちくやうですと。……あの、どんな、一寸ちよいとどんなふうをとこでせう?」
うですね、年少としわか田舍ゐなか大盡だいじんが、相場さうばかゝつて失敗しつぱいでもしたか、をんな引掛ひつかゝつてひど費消つかひぎた……とでもふのかとえる樣子やうすです。あつくるしいね、かすりの、大島おほしまなにかでせう、襟垢えりあかいたあはせに、白縮緬しろちりめん兵子帶へこおびはらわたのやうにいて、近頃ちかごろだれます、鐵無地てつむぢ羽織はおりて、温氣うんきに、めりやすの襯衣しやつです。そして、大開おほはだけにつたあしに、ずぼんを穿いて、うす鶸茶ひわちやきぬの、手巾ハンケチ念入ねんいりやつを、あぶらぎつた、じと/\したくび玉突たまつき給仕きふじのネクタイとふうに、ぶらりとむすんで、おもて摺切すりきれた嵩高かさだか下駄げたに、げた紺足袋こんたび穿いてます。」
「それは/\……」
 とかるふ……まぶちがふつくりとつて、ことなつた意味いみ笑顏ゑがほせた、と同時どうじいちじるしくまゆせた。
「そして、塀際へいぎはますんですね……しやがんで、」
「えゝ、此方こちらの。」
 とよこステツキした、をとこまたやゝさかしたはなれたのである。
此方こつちの。……」
 とをんな見返みかへつたまゝ、さかうへへ、しろ足袋たびさきが、つまれつつ、
あがかどからえますか。」
えますとも、乾溝からどぶ背後うしろがずらりと垣根かきねで、半分はんぶんれたまつおほき這出はひだしてます。そのまへに、つくねた黒土くろつちから蒸氣いきれつやうなかたちるんですよ。」
可厭いやな、土蜘蛛つちぐもたやうな。」
 ともすそをすらりと駒下駄こまげた踏代ふみかへて向直むきなほると、なかむかうむきに、すつとした襟足えりあしで、毛筋けすぢとほつた水髮みづがみびんつや。とけさうなほそ黄金脚きんあしの、淺黄あさぎ翡翠ひすゐ照映てりはえてしろい……横顏よこがほ見返みかへつた。
貴方あなた後生ごしやうですから。ねえ、後生ごしやうですから、其處そこくださいましよ、きつとよ……」
 と一て、ちらりとひとみらしたとおもふと、身輕みがるにすら/\とた。あがぐち電信でんしんはしらたてに、かたくねつて、洋傘かうもりはしらすがつて、うなじをしなやかに、やはらかなたぼおとして、……おび模樣もやうさつく……羽織はおりこしたわめながら、せはしさうに、ぢつのぞいたが、みさきにかくれてほしらぬ可恐おそろしうみうかゞ風情ふぜいえた。
 をとこつてうごけなかつた。
 とあわたゞしくかたくと、
「おゝ、可厭いやだ。」
 とそでもすそも、はないろさつしらけた。ぶる/\とふるへて、退さがる。
うしました。」とをとこもどつた。
「まあ……たまらない。貴方あなた此方こちらます……お日樣ひさまいた所爲せゐか、たゞれてけたやうに眞赤まつかつて……」
 いまさらのことではない。
勿論もちろん血走ちばしつてますから、」
 とステツキあつかひながら、
矢張やつぱいしげてましたか。」
なんですかうやつて、」
 とつたとき洋傘かさ花籠はなかご持添もちそへて、トあらためて、眞白まつしろうでげた。
いしげるんでせうか、それが、あの此方こつちまねくやうにえたんですもの。うしたらいでせう。」
 と蓮葉はすは手首てくびつゝましげに、そでげてたもとけると、手巾ハンケチをはらりとる。……

 をんなかる吐息といきして、
しませう……わたしかないできますわ。」と正面しやうめんをとこて、さかうへにしたのである。
病院びやうゐんへ、」
「はあ、」
其奴そいつこまりましたな。」
 をとこ實際じつさい當惑たうわくしたらしかつた。
「いや、それわたしよわりました。らずにおいでなさればなんことはないものを。」
「あら、貴方あなたなんことはない……どころなもんですか。澤山たくさんですわ。わたしう……」
いゝえ雖然けれども不意ふいだつたら、おげなすつてもんだんでせう。お怪我けがほどもなかつたんでせうのに。」
隨分ずゐぶんでござんすのね。」
 と皓齒しらはえて、口許くちもと婀娜あだたる微笑ほゝゑみ。……かないとこゝろまると、さらりと屈託くつたくけたさまで、
まへとほけるばかりで、身體からだすくみます。歩行あるけなくつたところを、つかまつたらうしませう……わたしんでしまひますよ……をんなよわいものですねえ。」
 とつた手巾ハンケチ裏透うらすくばかり、くちびるかるおさへて伏目ふしめつたが、
いし其處そこたれましたら、どんなでせう。いなづまでも投附なげつけられるやうでせう。……わたし此處こゝ兵隊へいたいさんの行列ぎやうれつて、背後うしろからまゐるのだつて可厭いやことでございます――かへりますわ。」
 とあらためて判然はつきりつた。
「しかし、折角せつかく御遠方ごゑんぱうからぢやありませんか。」
築地つきぢはうから、……貴方あなたは?」
「……しばはうへ、」
 とつたが、何故なぜか、うろ/\と四邊あたりた。
おんな電車でんしやでござんすのね。」
やう……」
 とおほきにためらふていで、
「ですが、らつしやらないでもいんですか。お約束やくそくでもあつたんだと――うにか出來できさうなものですがね、――また不思議ふしぎ人足ひとあし途絶とだえましたな。こんなことつてないはずです。」
 くも所々ところ/″\すみにじんだ、てりまたかつつよい。が、なんとなくしめりびておもかつた。
かまひません、毎日まいにちのやうにまゐるんですから……まあ、にぎやかなところですのに……魔日まびつてふんでせう、こんなことがあるものです。おや、氣味きみわるい、……さあ、まゐりませう。」
 とフト思出おもひだしたやうに花籠はなかごを、ト伏目ふしめた、ほゝ菖蒲あやめかげさすばかり。
一寸ちよつと、おくださいましよ。……折角せつかくつてまゐつたんですから、ばかり、記念しるしに。……」
 で、をとこさうとして、引込ひつこめた。――をんなくちで、風呂敷ふろしき桔梗色ききやういろなのをいたから。百合ゆりは、薔薇ばらは、撫子なでしこつゆかゞやくばかりにえたが、それよりもくちびるは、とき鐵漿かねふくんだか、とかげさして、はれぬなまめかしいものであつた。
 花片はなびらいたはるよ、てふつばさづるかと、はら/\ときぬ手巾ハンケチかろはらつて、の一りん薔薇ばらくと、おもいやうにしなつて、せなぢさまに、うへへ、――さかうへへ、とほりのはしへ、――はな眞紅まつかなのが、ゆる不知火しらぬひ、めらりとんで、荒海あらうみたゞよ風情ふぜいに、日向ひなた大地だいちちたのである。
 菖蒲あやめつて、足許あしもとげた、薄紫うすむらさき足袋たびめる。
「や、をしい、貴女あなた。」
いゝえこゝろざしです……病人びやうにんゆめてくれますでせう。……もし、恐入おそれいりますが、」
 はなの、うして、二本ふたもとばかりかれたあとを、をとこかごのまゝ、撫子なでしこも、百合ゆりむね滿つるばかりあづけられた。
 あひだに、風呂敷ふろしきは、手早てばやたゝんでたもとれて、をんな背後うしろのものをさへぎるやうに、洋傘かうもりをすつとかざす。とかげが、またかごはなうつすいろへつつうつる。……へだてたカアテンのうちなる白晝まひるに、花園はなぞのゆめごとき、をとこかほぢつて、
恐入おそれいりました。うぞ此方こつちへ。貴方あなた御一所ごいつしよに、後生ごしやうですから。……背後うしろから追掛おつかけてるやうでらないんですもの。」

「では、御一所ごいつしよに。」
「まあ、うれしい。」
 と莞爾につこりして、かぜみだれる花片はなびらも、つゆらさぬ身繕みづくろひおびおさへたパチンどめかるひとつトンとてた。
「あつ。」
 とおもはず……をとこ驚駭おどろき※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつた。……とおびはさんで、胸先むなさきちゝをおさへた美女たをやめしべかとえる……下〆したじめのほのめくなかに、状袋じやうぶくろはしえた、手紙てがみが一つう
「あゝ……」と途端とたんに、をんな心附こゝろづいたらしく、手紙てがみけて、
「……ひろつたんですよ。手紙てがみは、」
「え、」
 と、こゑないまで、したかわいたか、いきせはしく、をとこあわたゞしく、懷中ふところ突込つゝこんだが、かほいろせてさつかはつた。
せてください、一寸ちよつとうぞ、一寸ちよつとうぞ。」
「さあ/\。……」
 と如何いかにも氣易きやすく、わけのささうに、手巾ハンケチくちりながら、指環ゆびわたま光澤つやへてうつくしく手紙てがみいてわたす。
 ふうれてた。……
「あゝ、これだ。」
 歩行あるいてあしとまるまで、落膽がつかり氣落きおちがしたらしい。
難有ありがたかつた、難有ありがたかつた……よく、貴女あなた、」
 と、ものめづらしげにみまもつたのは、わざひろふために、に、此處こゝあらはれたうつくしいひとともおもつたらう。……
「よく、ひろつてくだすつた。」
「まあ、うれしいこと、」
 と仇氣あどけないまで、をんなもともに嬉々いそ/\して、
おもけなくおためにつて……一寸ちよつとうれしいことわたしは。……矢張やつぱり何事なにごとこゝろつうじますのですわね。」と撫子なでしこまた路傍みちばたへ。わすれていたか、と小草をぐさにこぼれる。……
何處どこでおひろくだすつた。」
其處そこで。其處そこまゐりますわ、さかしたです。……いましがた貴方あなたにおかゝります、一寸ちよつとさきなんですか、フツと打棄うつちやつてけないがしましたから。……それも殿方とのがたのだと、なんですけれど、やさしい御婦人ごふじんのおでしたからひろひました。もつとも、あの、にせて殿方とのがたのてのやうにいてはありますけれど、それ一目ひとめればわかりますわ。」
 と莞爾につこり。で、なゝめにる……
 をとこ悚然ぞつとしたやうだつた。
なかやしませんか。」とこゑしづむ。
いゝえ。」
大切たいせつことなんですから。もしか御覽ごらんなすつたら、かまひません、――つてください、たと、貴女あなたたと……かまはないからつてください。」
 とむづかしいかほをする。
ますもんですか、」とわざとらしいが、つんとした、目許めもとほかは、うつくしい。
「いや、これわるかつた。まあ、あらためて、あらためて御禮おれいまをします。……實際じつさい手紙てがみ遺失おとしたとかなかつたうちに、貴女あなたからもどつたのは、なんともひやうのない幸福しあはせなんです。……たとひ、かうして、貴女あなたひろつてくださるのが、ちやんきまつた運命うんめいで、當人たうにんそれつてて、芝居しばゐをするで、たゞ遺失おとしたとおもふだけのことをしてろ、とはれても、可厭いやです。金輪際こんりんざい出來できません。
 洒落しやれ遺失おとしたとおもふのさへ、のくらゐなんですもの。實際じつさい遺失おとして、遺失おとした、とつて御覽ごらんなさい。
 さがさう、たづねようとおもまへに、土塀どべいしやがんで砂利所じやりどころか、石垣いしがきでも引拔ひきぬいて、四邊あたり八方はつぱう投附なげつけるかもわからなかつたんです。……
 おもつても悚然ぞつとする。――
 動悸どうきわかりませう、ふるへるのを御覽ごらんなさい、ステツキにもはづかしい。
 それを――時計とけいはりひとつて、あとへつゞくほどの心配しんぱいもさせないで、あつとおもふと、ぐにひろつていてくだすつたのがわかつた。
 御恩ごおんわすれない、實際じつさいわすれません。」
「まあ、そんなに御大切ごたいせつなものなんですか……」
「ですから、それですから、失禮しつれいだけれどもおまをすんです。」
大丈夫だいぢやうぶなかはしませんよ。」
 とおびうすくてらくなもの。……

けつして、」
 とまたこゑちかられた。をとこ立淀たちよどむまで歩行あるくのもおそつて、
貴女あなたをおうたがまをすんぢやない。もと/\ふうれて手紙てがみですから、たとひ御覽ごらんつたにしろ、それふのぢやありません。が、またそれだとのつもりで、どんなにしても、貴女あなたに、あらためておねがまをさなければらないこともあるんですから。……」
他言たごんしては不可いけない、ごく祕密ないしよに、とふやうなことなんですわね。」
 とすましてふ。
 益々ます/\あせつて、
「ですから眞個ほんとうことつてください、たならたと、……たのむんですから。」
いゝえはいたしませんもの、ですがね。旗野はたのさん、」
 とをんな不意ふいせいんだ。
「…………」
 またひやりとした、旗野はたのは、禮吉れいきちふ、美術學校びじゆつがくかう出身しゆつしん蒔繪師まきゑしである。
 呆氣あつけられてみまもるのを、やさしい洋傘かうもりかげから、打傾うちかたむいて流眄ながしめで、
「お手紙てがみ上書うはがきおぼえましたの……下郎げらうくちのさがないもんですわね。」とまた微笑びせうす。
 禮吉れいきちはれず、くるしげなゑみうかべて、
「おひとわるいな。」
 とあきらめたやうにつたが、また其處そこどころではささうな、こゑ※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)あせつて、
眞個ほんとうつてください。唯今たゞいまひましたやうに、遺失おとすのを、なんだつてそんなに心配しんぱいします。たゞひとれるのが可恐おそろしいんでせう。……なにわたしかまはない。わたし身體からだかまはないが、もしか、世間せけんれるやうなことがあると、先方さきひと大變たいへんなんです。
 うやつて、奴凧やつこだこ足駄あしだ穿いて澁谷しぶやちたやうに、ふらついてるのも、つまこの手紙てがみのためで、……それなか文句もんくようではありません――ふみがらの始末しまつなんです。一體いつたいは、すぐにもいてしまはずなんですが、生憎あいにく何處どこ停車場ステイシヨンにも暖爐ストオブ時分じぶん茶屋小屋ちややこや火鉢ひばちにほはすと、いた一端ひとはし燒切やけきらないうちに、ぎつけられて、あやしまれて、それがもとこと破滅はめつりさうで、危險きけん不可いけない。自分じぶんいへで、とへば猶更なほさらです……いてある事柄ことがら事柄ことがらだけに、すぐにもえさしがつて、天井裏てんじやううらけさうで可恐おそろしい。かくしてくにも、なんなかも、どんなはこ安心あんしんならず……じやうをさせば、此處こゝ大事だいじしまつてあると吹聽ふいちやうするも同一おなじります。
 昨日きのふ晩方ばんがた受取うけとつてから以來いらいこれ跡方あとかたもなしにかたちすのに屈託くつたくして、昨夜ゆうべ一目ひとめねむりません。……此處こゝます途中とちうでも、しててばひとる……たもとなか兩手りやうてけば、けたのが一層いつそ一片ひとひらでも世間せけんつてさうでせう。みづながせば何處どこくゞつて――いけがあります――ひと住居すまひながれてて、なかでもかくさなければらないもののまりさうで身體からだふるへる。
 けてれば遺失おとしさうだ、――とつて、そででも、たもとでも、う、うか/\だとられも仕兼しかねない。……
 ……憂慮きづかひさに、――懷中ふところで、確乎しつかりけてただけに、御覽ごらんなさい。なにかにまぎれて、ふとこゝろをとられた一寸ちよいと一分いつぷんに、うつかり遺失おとしたぢやありませんか。
 これおもふと……いしげた狂人きちがひふのも、女學生ぢよがくせいれたくろばあさんの行列ぎやうれつも、けもののやうに、とりのやうに、つた、けたとうちに、それみな手紙てがみ處置しよちするための魔性ましやう變化へんげかもれないとおもふんです。
 いや、もない、彼處あすこつてる、貴女あなたとおはなしをするうちは、實際じつさい胴忘どうわすれに手紙てがみのことをわすれてました。……
 貴女あなた……氣障きざはりでせうが、見惚みとれたらしい。さあ、うまではぢ外聞ぐわいぶんわすれて、げます……次第しだいによつてはまた打明うちあけて、うへに、あらためておたのやうもありませうから、なかの文句もんくたならたとつたかしてください。ねがひます、嘆願たんぐわんするから……」
拜見はいけんしましたよ。」
 とすつきりつた。
「えゝ!」
 ひとみすわらず、せたをとこかほを、水晶すゐしやうけたるごとひとみつやめてぢつると、わすれたさましたまぶち、なくてた、手巾ハンケチつゆかゝかつた[#「かゝかつた」はママ]
「あゝ、先方さきかたがおうらやましい。そんなに御苦勞ごくらうなさるんですか。」
ひとが、んだことにりますから。」
「だつて、なん企謀たくらみあそばすんではなし、ぬしのあるかただとつて、たゞ夜半よなかしのんでおひなさいます、のあの、垣根かきね隙間すきまそつとおらせだけの玉章ふみなんですわ。――あゝ、此處こゝでしたよ。」
 をとこ呼吸いきめた途端とたんに、立留たちどまつたさかくち。……病院下びやうゐんしたかどは、遺失おとすくらゐか、路傍みちばた手紙てがみをのせてても、こひ宛名あてなとゞきさうな、つか辻堂つじだうさいかみ道陸神だうろくじんのあとらしいところである。
溝石みぞいしうへに、眞個ほんとうに、うつくしいかたでおきなすつたやうに、容子ようすよく、ちやんとつかつてましたよ。」
 とふ。其處そこ花籠はなかごから、一本ひともと白百合しらゆりがはらりと仰向あをむけにこぼれてちた……ちよろ/\ながれにかげ宿やどる……百合ゆりはまた鹿も、ひめも、ばら/\とつゞいてこぼれた。
「あゝ、かごから……」
かまふもんですか。」
 と、撫子なでしこ一束ひとたばいたが、かごつて、はたとどぶなかてると、かろ翡翠かはせみかげひるがへつてちた。
旗野はたのさん、」
「…………」
貴方あなた祕密ないしよが、わたしにはれましても、お差支さしつかへのないことをおらせまをしませうか、――あんま御心配ごしんぱいなすつておいとしいんですもの。眞個ほんとに、殿方とのがたはおやさしい。」
 とこゑくもらす、そらにはかげすゞしかつた。
うして、うしてです。」
「あのね、見舞みまひにきますのは、わたし主人しゆじん……まあ、旦那だんななんですよ。」
如何いかにも。」
見舞みまひ盛花もりばなを、貴方あなたなんだとおもひます――わざとね――青山あをやま墓地ぼちつて、方々はう/″\はか手向たむけてあります、其中そのなかから、りたけれてないのをつて、こしらへてたんですもの、……
 貴方あなたこのわたしこゝろわかつて……わかつて?
 わかつて?……
 そんなら、御安心ごあんしんなさいまし。」
 と莞爾につこりした。……
 禮吉れいきち悚然ぞつとしながら、それでも青山あをやま墓地ぼちなかを、青葉あをばがくれに、はなむ、しろさをおもつた。……
 とき可恐おそろしかつたのは、さかうへへ、あれなる狂人きちがひあらはれたことである。……
 をんなつた、土蜘蛛つちぐもごとく、横這よこばひに、しやがんだなりで、さかをずる/\とつては、つてはて、所々ところ/″\一本ひともと一輪いちりん途中とちうてた、いろ/\のはなつてはぎ、めるやうにいでは、つてはつてはた。
 二人ふたりいそいで電車でんしやつた。
 が、この電車でんしやが、あの……車庫しやこところで、一寸ちよつと手間てまれて、やがて發車はつしやしてもなく、はしへ、横搖よこゆれにんで進行中しんかうちう疾風しつぷうごとけてくだん狂人きちがひが、あしからちう飛乘とびのらうとしたれると、づんとつて、屋根やねよりたかく、火山くわざんいはごと刎上はねあげられて、五體ごたいくだいた。
 飛乘とびの瞬間しゆんかんかほは、あへくち海鼠なまこふくんだやうであつた。
 それも、をんなのためにくるつたものだとく。……薔薇ばらは、百合ゆりは、ちら/\と、いちはしを――はしを――さんはしを。

底本:「鏡花全集 巻十五」岩波書店
   1940(昭和15)年9月20日第1刷発行
   1987(昭和62)年11月2日第3刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:川山隆
2011年8月6日作成
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