この元日に飛行機にのった。三月ごろから内地に航空路ができるについて読売新聞で試験飛行をやった。それに乗ったのである。ノースウエスト航空会社のDC四型という四発機。四千五百メートルぐらいの高度で大阪まで往復したのだが、戦前までの航空旅行の概念とはよほど違っている。煖房は完備しているし、どういう仕掛だか空気は常に室内に充満しているし、雲海の上へでるとアスファルトの路上を高級自動車で走るよりも動揺がないし、プロペラの音に妨げられずに会話ができるし、両耳へ無電かなんかの管をはめこんだ飛行士はタバコを吸いチューインガムをかみ談笑しながらノンビリ運転しているし、人間の深刻な動作や表情を全く必要としない機械や計器が完備しているらしい。障害物がないだけ自動車よりも面倒がいらないという感じで、不安というものは感じられない。読売新聞社のビラを空からまくために六百メートルの低空で東京の上空を二周したが、この時だけは参った。図体の大きな飛行機が窮屈そうに身をかしげて、甚しい緩速で旋回飛行をやるというのが無理なんだね。エレベーターの沈下するショックが間断なくつづき、今にも失速して落ちるかと思うこと頻りである。大阪まで一時間で飛ぶ飛行機が、わざわざ二十何分もかかって東京を二周したのだから。三分もたつと、みんな顔面蒼白となり、言葉を失ってノビたのである。この航空旅行ができることによって、私も日本地理を書くことになったが、したがって航空旅行ができるまでは、遠方を飛び歩くことができない。
 元日の午前十時に丸ビルのノースウエスト航空会社へ集合することになっていた。伊東に住む私は前日から小石川の「モミヂ」に泊りこみ、増淵四段と碁をうって大晦日を送るという平穏風流な越年ぶり。
 さて元旦九時半に出動する。このとき呆れたことには、元旦午前というものは、大東京に殆ど人影がないのだね。時々都内電車だけが仕方がねえやというようにゴットンゴットン走っているだけだ。さすがに犬は歩いているよ。後楽園の競輪場も野球場も人がいないし、省線電車の出入口にも人の動きが見当らないという深夜のような白昼風景。ところが、ですよ。この自動車がいよいよ皇居前にさしかかった時に、驚くべし。東京駅と二重橋の間だけは、続々とつづく黒蟻のような人間の波がゴッタ返しているのです。これを民草というのだそうだが、うまいことを云うものだ。まったく草だ。踏んでも、つかみとっても枯れることのない雑草のエネルギーを感じた。雑草は続々と丸ビル横のペーヴメントを流れる。雑草が必ずノースウエスト航空会社の窓の外で立止って中をのぞきこむのは、その中に高峰秀子と乙羽信子の両嬢がいるためだ。実に雑草は目がとどく。天皇にだけしか目が届かんというわけではないのである。
 世界に妖雲たちこめ、隣の朝鮮ではポンポン鉄砲の打ちッこしているという時に、こういう民草のエネルギーを見せつけられてごらんなさい。深夜のように人気の死んだ大通りから、皇居前の広茫たる大平原へさしかかって、ですよ。又、いよいよ、日本も発狂しはじめたか、と思いますよ。一方にマルクスレーニン筋金入りの集団発狂あれば、一方に皇居前で拍手かしわでをうつ集団発狂あり、左右から集団発狂にはさまれては、もはや日本は助からないという感じであった。
 元旦匆々そうそうこういう怖しい風景を見ているから、日本地理第一章、伊勢の巻とあれば、出発に先立って私の足はワナワナとふるえる。いかなる妖怪、怪人が行手に待ち伏せているか見当がつかない。汽車にのる。室内温度二十五度。流汗リンリ。外套をぬぐ。上衣もぬぐ。ついにセーターもぬぐ。からくもリンリの方をくいとめたが、流汗はくいとめることができなかった。出発第一歩から、限度を忘れた世界へ叩きこまれてしまった。
 名古屋で下車して帰りの特急券を買うために方々うろつく。駅内の案内所が甚しく不親切で、旅先の心細さが身にしみる。ともかく元気になれたのは宇治山田駅へ着いてからで、駅内の交通交社案内所が親切そのものであったからだ。どういう手数もいとわず、遠隔の地とレンラクして、種々予定を立ててくれる。万事ここへ任せれば安心の感。土地不案内の旅行者にこれほど心強いことはないのである。
 我々が宿泊を予定してきた油屋は戦火でなくなっていた。外宮げくうが戦災をうけたことは聞いていたが、宇治山田の街がやられたのは初耳で、翌日街を廻ってみると古市を中心に旧街道が点々と戦火をうけている。その復興が殆ど出来ていないのは、この市が最も復興しにくい事情にあるからで、今年の正月に至って、五ヶ日間にはじめて二十万人の参拝客が下車したという話であった。去年の下車客、その五分の一の由。
 私は皇居前の雑草の行列にドギモをぬかれていたせいで、伊勢では誰にもドギモをぬかれず、雑草の代表選手の行うところを、我自ら行って雑草どものドギモをぬいてやろうと腹案を立てていた。案内役の田川君には気の毒であるが、未だ夜の明けやらぬうちに神宮へ参拝して、行く手にミソギを行う怪人物の待つあれば我も亦ミソギして技を競い、耳の中から如意棒をとりだし、丁々発矢、雲をよび竜と化し、寸分油断なく後れとるまじと深く心に期していた。
 内宮に歩いて二三分という近いところに「鮓久スシキュウ」という妙な名の旅館がある。未明に参拝するのだから、近い宿でないとグアイがわるい。そこへ到着、直ちに書店へ電話して「宇治山田市史」というような本がないかと問い合せるが、ハッキリしない。田川君業をにやして、山田孝雄よしお先生宅へ走ろうとしたが、先生すでに仙台へ去ってなし。時に「鮓久」主人妙な一巻を女中に持たせてよこす。表紙には随筆と墨書してあるが、中味はペンで書いたものだ。ここの先々代が古老の話を書きとめておいたものである。これが大そう役に立った。なぜなら、この聞き書きは、神宮よりも主として市井の小祠について記されたもので、庚神だの道祖神などについて録されていたからだ。一例、次の如し。道祖神というものは、通例、道の岐れるところに在るものだが、宇治山田のはそうでなく何でもないところに在るのが多い。それについて、辰五郎という古老(勿論今は死んでいるが、当時八十五)の談によると、昔は岐れ道にあったが、慶応四年行幸のあったとき、通路に当って目ざわりだというので、他へ移したものだ、という。本来の位置が変更して行く一つの場合にすぎないが、しかし、これによって推察されることは、物の本来の位置などはかくの如くに浮動的で、軽々に信用しがたいということだ。
 翌朝三時半、目をさます。旅館から借りた本を読む。外は風雨。六時田川君を起す。六時十分、出発。外は真ッ暗。人通り全くなし。宇治橋の上に雪がつもっている。足跡なく、我々の足跡のみクッキリのこる。即ち、我らの先にこの橋を渡った者一人もなしという絶好のアリバイ。伊勢の神様は正直だ。時に暗黒の頭上をとぶ爆音あり。思えば私も元旦にほぼこの上空らしきところを通過した記憶がある。去年の夏ごろから東海道の航空路は変ったらしい。私は伊東に住む故に、分るのである。去年の初夏から、しきりに伊東上空を飛行機がとぶようになった。その時までは全く爆音をきかない伊東市だったのである。私はそれを朝鮮事変のせいだと思った。戦線へとぶ飛行機だと思っていたのだ。ところがこの元旦に旅客機にのると、箱根をとばずに、伊豆半島を横切り、駿河湾を横断し、清水辺から陸地にかかって渥美半島先端から伊勢湾を通過。つまり伊東上空をとんでいたのは旅客機だったことが判った。思うに昨春丹沢山遭難以来、航路が変ったのであろう。
 怪物の待ち伏せるものなく、我らをもって第一着となすという明確な証拠があってはハリアイがないこと夥しい。東京の雑草どもも伊勢までは根気がつづかぬらしいと判明すれば、神様に同情したくもなろうというもの。よって五十鈴川で顔を洗い手を洗う。水温は山中の谷川に比較すれば問題にならぬほど、生ぬるい。伊東の音無川は河床から温泉がわいて甚しく生ぬるい谷川であるが、五十鈴川はそれよりもちょッとだけ冷めたい程度で、これなら真冬でもミソギは楽ですよ。中部山岳地帯の谷川ともなれば、真夏でも、五秒間膝から下を入れていられないほど身を切る冷めたさのものだ。神楽殿でニワトリがないている。鶏小屋をのぞきこんだが、暗くて、どんなニワトリだかシカと見えなかった。拝殿前で一人の衛士とすれ違う。これが我らの往復に於て道ですれちがった唯一の人物であった。戻り道で夜が明けそめる。断雲が四散し、一面に美しい青空一色になろうとしている。神楽殿に灯がともり白衣の人々が起きて働きだしている。我らを見て白衣の人一人、お札を売る所の灯をつける。よって神材のクズで作ったエト(つまり今年は兎)のお守り、エハガキ等々、金二百六十円也の買い物をする。生れて始めてお守りを買ったのである。買わないワケにゆきませんや。神域寂として鎮まり、人間は拙者ら二人。そのためにワザワザ白衣の御方が電燈をひねって立ち現れておいでだから、知らんフリして通過するワケにゆかないです。神様からオツリを貰うのも不敬であるから四十円は奉納してきました。なお本殿に向って参拝の時には、外套をぬぎ襟巻をとりました。全て雑草の為すべきことは、これを為し遂げたのであります。宇治橋へ戻ってきたら、すでに橋の上の雪が掃かれていた。けだし、いつまでたっても、たった二ツの足跡というのは、小学校の一年生にもいとカンタンに真相が見破られて、足跡を残した拙者にしても何となく罪を犯し神様を土足にかけたようで軽妙な気持ではなかったのである。
 神域に最も接近した民家を「ダルマヤ」と云い、その看板と並んでウェルカムという横文字が書いてありました。全ての家が門を閉し、炊煙いまだ上らず人ッ子一人通らぬ神様の街は寂しいものです。この味気なさに比べれば、古市の遊女屋に泊った方が健全であったかも知れません。

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 日本歴史というものは、奈良朝以前のことはどこまで信用していいのか全く見当がつけかねるようだ。神代記は云うも更なり、この神宮を伊勢の地に移したという崇神垂仁両朝の記事の如きも、伝説であって、歴史ではない。
 神話とか、記紀以前の人皇史は、民間伝承というものでもない。日本にはそれまでに何回もの侵略や征服が行われたに相違ない。そういうことが何回あったか判らないが、その最後の征服者が天皇家であったことだけは確かなのである。そして天皇家に直接征服されたものが、大国主命だか、長スネ彦だか、蘇我氏だか、それも見当はつけ難いが、征服しても、征服しきれないのは民間信仰あるいは人気というようなものだ。
 今日の全国の神社の分布から考えて、民間に最大の人気を博していたのは大国主命、それにつづいてスサノオの命である。大国主命は曾て日本の統治者であった如くであり、それが天皇家か、天皇家以前の誰かに征服されて亡びた如くであるが、その民間の人気は全く衰えなかった。しかし、大国主が日本元来の首長であったと断定することはできない。彼も亦誰かを征服したのかも知れないし、朝鮮から渡ってきた外来人種であったかも知れないのである。
 天皇家は日本を征服したが、民間信仰や人気をくつがえすことはできない。人民の伝承の中に生きている大国主やスサノオの人気を否定し禁圧することができないとすれば、それを自分の陣営へとり入れるのが当然だ。明治時代に朝鮮を征服してその王様を日本の宮様にし、日本天皇の親類にしたように、死んだ大国主やスサノオを自分の祖先の親類一族にすること、これが日本神話の形成された要因の一つである。要するに、今日天皇が民衆に博しているような人気を、当時の大国主が博していたのであろう。
 崇神垂仁朝に伊勢に大神宮を移した時には、この神一ツを祀ったのではなく、同時に天神地祗あらゆる神々を各地に祀ったのであるが、伊勢と並んで大立物と目されるものに大神オオミワ神社、これが大国主を祀る総本山だ。石上神宮が又曲者で、これもその近いころに征服された豪族の氏神の如くであり、大倭神社なるものも強力だった国ツ神、亡びた豪族の産土うぶすな神の如くである。征服した各豪族の産土神を興し、その祖神を神話にとり入れて同族親類とし、人心シュウランに努めたものと思われるのである。
 こういう神話の人物、いわゆる国ツ神とよばれ、天皇家以前に日本の一地域の統治者の一人であったと目せられる人物のうちで、甚しく奇怪滑稽で、おまけに最も深く伊勢と縁のあるのが猿田彦という人物だ。
 神話によると、天孫降臨の時、天のヤチマタという辻に立っていたのが猿田彦。身の丈七尺、鼻が七寸、目の玉が八咫鏡やたのかがみの如く、口尻が輝くというのは何のことだか分らないが、赤ホオズキの如し、何が赤ホオズキだか、とにかく天狗の先祖のような異形な先生である。
 変な奴が立っているから天孫一行も行悩み、天ノウズメの命という女神に命じて、お前は面勝オモカツだから、あの怪物をまるめてこいと使者に立てたのだそうだ。最初の軍使は男に非ず、女であった。面勝というのは心臓に毛が生えたというような意味だろうか。天のウズメは胸もあらわに、ヘソの下に紐をたれ、ストリップの要領で天狗の先祖のところへ押しかけて行った。その次の条になると、学者の諸先生方々はこれを美しく、つまりワイセツの意味でなく解釈しようと懸命に努力されるのが例であるが、どうもムリがすぎるようだ。最も平易に解して、色ごとでギャングを手なずけたと見るのが至当のようである。よって猿田彦は天孫の先導に立ち、任終って、故郷の伊勢五十鈴川上に帰るに当り天のウズメに送ってくれと同行をもとめ、送られて帰ったという。御両氏、後日円満に夫婦の如くであったように思われる。
 要するに猿田彦なる先生は、伊勢五十鈴川上に住む親分、ギャングの親玉であったらしい。垂仁天皇の朝、倭姫命やまとひめのみことが霊地をさがして歩く折、猿田彦の子孫と称する者が五十鈴川上に霊地があると知らせに伺候し、かくてそこに神鏡を奉安するに至ったという。もっとも、このことを記している倭姫世記という本は信用ができない本だそうだ。
 この親分に限って生国居住地がハッキリしている。五十鈴川上のギャングなのである。ところが当時の他の親分が、みんな然るべき大神社に祀られているのに、この親分は天孫の道案内まで務めながら、彼を祀った著名な大神社というものはない。故郷の五十鈴川上の猿田彦神社の如きもチッポケ千万なもの、大国主の大三輪神社その他諸国に数々の大神社、スサノオの八坂神社等々に比べて、神話中の立居振舞相当なるにも拘らず、後世のモテナシ、まことに哀れである。今回の戦争の結末にてらしても、色仕掛にまるめられて侵略者の道案内をつとめたなどという親分は、いずれの国に拘らず、国民に愛されないのかも知れない。彼は神楽の中では、赤ッ面の鼻の長いピエロである。彼は自分の領地をさいて、侵略者の祖神を祀る霊地に捧げるほど奉仕的な忠義者であったが、意外にも世間の受けが悪く、天皇家の史家も芸術家もサジを投げて、忠義な彼を愚かなピエロにしなければならなかったのかも知れない。即ち後日の彼の運命は滑稽にして悲惨である。貝の口へ手の指を突っこんで締めつけられて海中へひきこまれ、ソコドキ、ツブタチ、アワダツという三ツの慌しいモガキ方をして死んだそうである。多情多恨で、失敗を演じているのは神々の通例、大国主などはそれによって人気いや増す有様であるのに、猿田彦はどうもいけない。節操なき者はついに民衆に愛されないのか。大国主は戦い敗れて亡びた首長であった。猿田彦は裏ッ先に節を屈し、美姫を得て終身栄えたであろう。しかも民衆の批判は、彼をして貝に指をはさまれ、海中へひきこまれてもがいて死なねばならぬように要求する。しかし彼の実人生は決してそうではなかったであろう。五十鈴川上の地を神霊の地として朝廷に捧げたのは、彼の子孫ではなくて彼自身であったかも知れない。そうすることによってマーケットの親分となり、十手捕縄も同時にあずかり、代議士にも当選して、存分に栄え、大威張りしてめでたく往生をとげたのかも知れない。それ故に彼の死後が栄えないのが当然であるか。民衆の批判が常に正当だとは限らない。民衆の批判の陰に泣きくれている魂もある。その魂の言葉を綴るのが文学の役目でもあるのである。
 庚神は猿田彦を祀ったものだという説もある。宇治には北向庚神をはじめ七ツの庚神があるそうだ。このことは鮓久の先々代のメモによって知ったのである。しかし、庚神の祭神が猿田彦だというのは大いに当てにならないことで、この祭神の正体が判明する時は、古代日本の正体がよほど判明した時だ。

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 旅行者の多くは見落しておられるかも知れない。現に宇治山田へ三度目という田川君が見落していたが、あの地方一帯の民家の三分の一は、入口にシメをはり「蘇民将来子孫」とか「笑門」という札を掲げているのである。正月ごとに新しくかけかえて一年中ぶらさげておくのである。
 武塔神が北海から南海の女をよばいに旅行の折、その地に蘇民将来という兄弟があった。兄は貧乏、弟は富んでいたが、武塔神が宿を乞うと弟は拒絶したが、兄は快く泊めて粟をたいてモテナシてくれた。八年後に武塔神が再び訪れよしみに報いようと茅の輪をつくって兄の一家に帯びさせた。その年に疫病起って蘇民一家を残すほかの住民はみんな死んだ。即ち吾はスナノオの命なり、後世疫病ある時は蘇民将来子孫なりと云い、茅の輪をもって腰に帯をすれば難をまぬかれるだろう、と教えて立ち去った、という伝説によるのである。
 元来京都祇園社の信仰にもとづくもので、祗園の末社に蘇民社というのがあるそうだ。その他諸国に蘇民将来子孫の護符をうりだす神社仏閣はいくつか在るとの由であるが、伊勢のはどこの神社の発行でもない。手製のもので、裏面には急々如律令と書くのだそうだ。昔はたぶん軒並みに全部やっていたものと思われるが、今ではシメだけで護符をつけない家が半分以上ある。
 蘇民将来の伝説は、道祖神、石神シャグジ、庚神などの正体と共に、今もって全く謎だ。ソミンショーライという音からして日本語とは異質の感じであるが、蘇民という漢字にこだわるのは、いけないようだ。なぜなら、伊勢地方に於ては「蘇民将来子孫」の札よりも「笑門」の札が数倍多く、信州だかでは蘇民祭をソウミン祭と云ってる所もあるそうで、ソミン、ソウミン、それからショウモン、いずれも同一の何かをなまっているように思われる。どれが原音であるか、又、どれが原音に最も近いか、それは今では判断がつかない。祗園社の蘇民伝説、武塔神やスサノオが蘇民の情誼じょうぎに報いたという説は、どこにも有りふれた報恩説話に後世の人がかこつけただけで、ソミン札の原因はそういうものではなく、もっと深くある地区の民衆の魂に根ざしている何かがあるように思われる。しかし武塔神の伝説にも特に「南海の女によばいして」と、蘇民の居住地を南海と示しているのは注意すべきではなかろうか。この地方のように、民家の半分ちかくが今もって蘇民将来子孫の護符をはりだしている地が他にもあるのか私は知らない。京都では軒並みにチマキを門にぶらさげて魔除けにしているが、蘇民将来の護符はあんまり見かけない。
 宇治山田郊外には蘇民の森というのがあるのである。二見村の旧五十鈴川の流域にある。今の五十鈴川には二ツの河口があり、二見の江村へそそいでいるのが古いのだそうだ。古い河口の海岸にあるのが例の夫婦岩で、昔は川が最良の交通路だから、遺跡が陸伝いよりも河沿いに残るのが、自然である。地形によってはとりわけそうで、内宮外宮間は鎌倉ごろまで山伝いで、平坦な路がなかったという話であるから、神宮のできた初期に於ては、町の賑いは五十鈴川が海にそそぐところ、二見ヶ浦のあたりに在ったのかも知れないし、猿田彦の縄張りも、その辺の賑いを背景にしていたのかも知れない。蘇民の森は、松下神社と云い、旧河口にちかいところの鳥羽街道にあるのだが、祭神はスサノオの命を中に、右に不詳一座、左に菅原道実とある。道実は雷と化して京都をおびやかしたオトドだから、スサノオの命と並んで祀られるのは理のあるところ。不詳一座というのが何様だか知れないが、他の二神から推して荒々しい神様であることは想像できる。荒々しいという意味は、その裏側に、その神の一生が悲劇的であった、ということを意味しており、その悲劇的な一生に寄せる民衆の同情が、その神の怒りや荒々しさの肯定となって現れてもいるのである。
 本殿裏が蘇民の森だが、裏へまわってみると、この森はどう考えても古墳である。その古墳は神殿の真後の円形の塚一ツであるか、更にその後の山もふくめて特殊な形をなしているのか私などには分らないが、塚であることだけは確かなようだ。そして、例の私の悪癖たるタンテイ眼によると(学者の鑑定眼とちがって私のは探偵眼だからなさけない)不詳一座という名なしの神様がこの塚の中に眠りつつある当人であり、思うに旧二見ヶ浦マーケットの親分あたりではないかと思うのである。
 さて、私がいとも不思議なタンテイ眼を臆面もなくルルと述べ来った理由をお話しなければならないことになってきた。
 伊勢の国、宇治山田といえば、大神宮、天皇家の祖神を祭る霊地であり、天皇家に深く又古いツナガリのある独特のものが民家の中にもひそんでいようと思われるのが当然なのである。ところが実情はそうではなくて、天皇家の日本支配以前のものに相違ない原始宗教めくものが、他の土地よりもむしろ根強く残り、すでにその意味は失われているが、形態だけは伝承されている。民家が魔除けに門にはるのは大神宮のお守りではなくて蘇民将来子孫の護符であるし、明らかにこの土地の豪族であり、しかも最初に朝廷へ帰順し道案内の功績をのこした猿田彦は、朝廷の敵であった豪族が諸国に多くの大神社に祀られて多大の民間信仰をうけた形跡を残しているにひきかえて、その郷土に於てすらも、さしたる神様ではないのである。
 私の伊勢神話は、ここから小説になるのである。
 猿田彦は最初に天孫民族に帰順し、その祖神を自分の土地に勧請するほどの赤誠を見せたがために、却って人望を失った。しかし猿田彦は天孫民族の後楯を得たことによって、彼の競争相手であり、たぶん彼よりも強大な豪族であった二見の誰かを倒すことができたのである。私がかく推察するのは、猿田彦の居住地たる五十鈴川上にくらべて、五十鈴河口の二見が当時としてはより賑やかで恵まれた聚落であったに相違ないという想像にもとづき、したがって、そこにより強大な親分がいた筈だという空想上の産物だ。それが蘇民将来だか誰だか分らないが、あるいは蘇民の森の塚にねむり表向きスサノオの名をかりている神名不詳の一座に相当するのかも知れない。最初の帰順者、最初の忠臣である故に、人気を失った猿田彦と、その犠牲者である故にひそかにしたわれる神名不詳の塚の主。
 貝に指をはさまれて海底へひきこまれて死んだという猿田彦は海岸の住人には人望がなかったらしいな。伊勢からは建国当初海産物の貢物が夥しかったというが、これも猿田彦のニラミで、ムリに供出させたのかも知れん。だいたい日本神話というものは、民間伝承から取捨選択し、神々の人気を考慮して、都合よくツジツマを合せたと見られるフシが多い。猿田彦は最初の帰順者、道案内の功臣でありながら、民間に人気がないために、神話の上でも奇怪なピエロに表現されざるを得なかったのではなかろうか。ムリにツジツマを合せたから、日本神話はダブッてもいる。神武天皇を案内した金鵄きんしは、全身光りかがやくという猿田彦に当るのであろう。猿田彦も天のヤチマタに立ち、顔を合せる天孫族が目をあけることができなかったというあたりは実にサッソウたる武者ぶりであるが、これぐらい竜頭蛇尾、威厳を失うこと甚しい神様というものは他に類がないようだ。せッせと忠義をつくしながら、不忠であり敵であった者が主人の親類に祭りあげられるにひきかえて自分はピエロにされるという、こういう定めの人間はいつの時代にもいるのである。
 伊勢は天孫族の祖神を祀る霊地であるというよりも、征服者と被征服者の暗黙のカットウを生々しくはらみ、一脈今日の世界に通じる悲劇発祥の地、人間の悲しい定めの一ツを現実に結実した史地と見ては不可であろうか。

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 私は伊勢へ旅立つに当り、大神宮や猿田彦のほかに、三ツの見学を心がけていた。一ツは志摩の海女。一ツは御木本の真珠。一ツは松阪の牛肉。
 伊豆の海で年々テングサとりをやっているのは、今では主として志摩の海女だ。伊豆育ちの海女はいないのである。以前は朝鮮済州島の海女が多かったそうだ。この島の海女は日本海の荒波にもまれて育っているから、寒気になれ、沖縄の潜水夫が日本近海で随一の海士であるのと並んで最も優秀な海女であるという。志摩の海女はそれに次ぐものだそうだ。
 志摩は、日本の建国当初から海草やナマコなどの海産物を夥しく朝廷へ貢物しているのであるから、海女の歴史はその頃からの古いものであるらしい。だいたい海産物の中でもナマコを食うなどとは甚しく凡庸ならざる所業で、よほど海の物を食いあげた上でなければ手が出ないように思われるが、志摩人は原始時代から海の物をモリモリ食っていたのであろう。ナマコだのコンニャクを最初に食った人間は相当の英雄豪傑に相違ない。
 鮓久で私たちの接待に当った老女中は海女村の出身で、その半生を転々と各地の旅館の女中で暮してきたという大奥の局のような落ちつき払った人物であった。四月から十月までが海女の働くシーズンで、冬には四五人ずつ集団をくみ旅館の女中などに稼ぎにでるのが多いそうだが、彼女らの団結心たるや猛烈で、一人が事を起したあげく、未だ帰るべき時期でもないのに帰郷すると云いだすと、他の全員も必ずそれに殉じて同時に帰郷し、あたかも雁の如くに列を離れる者がないそうである。
「なんであんなに団結心が堅いのやら、わからんですわ」
 と、老女中は自分の同族を他人のように批評した。
 私は志摩の海女にあこがれているのである。彼女らの生活にふれてみたいのだ。なぜなら彼女らは千年の余、先祖代々同じ生業をくりかえし、海産物の生態に変化がなかった如くに、彼女らの生態にも変化なく今日に至っているように思われるからである。あいにく海女のシーズンではなく、彼女らの多くは他の土地へ女中かなんぞに稼ぎに出ているらしいので、海女村探訪をあきらめなければならなかった。ムリに押しかけて行って、武塔神の如くに南海の女をよばいに来たと思われては、同行の青年紳士にも気の毒だ。
 至れりつくせり親切な交通公社の事務員も、御木本のことになると、顔を曇らせ、困りきってしばし口をつぐんだ。
 日本の大臣でも見学を拒絶されることが多いそうだ。せっかく遠路遥々出向いてムダ足をふんでもつまらないから。と云うのであった。
 なるほど、きいてみれば尤もなことだ。だいたい養殖真珠をやっているのは御木本だけではないけれども、世界各地の業者が技をこらしても、御木本ほどの真珠がつくれないのだそうだ。その秘術によって声価を独占しているのだから、それを見破られると元も子もなくなる。見学を拒絶するのは当然だろう。私が見たって、秘術を見破る眼力は全然ないのであるが、それに私が最も見たいのは養殖の秘術じゃなくて、御木本家に蔵するところの百七十グレーンという日本一の真珠なのだ。
 私は宝石というものを、生れてこの方、一度も見たことがない。ダイヤも、サファイヤも、ルビーも、真珠も、すべてそのケシ粒ほどの如きものすらも手にとって眺めたことが一度もないという貧乏性なのである。天賞堂の主人に頼んで、せめて宝石の見物だけでもさせて貰おうかと考えているのであるが、日本という貧乏国には、その宝石を所持すると必ず不幸が訪れるというような曰く附きの大宝石はなさそうだ。私はそういう大宝石が見たいのである。宝石の美は、魅力は如何。いっぺんぐらいシミジミ見たいのは人情だろう。御木本の百七十グレーンという真珠は白蝶貝やアコヤ貝じゃなくてアワビの中から現れたというから日本的である。島原の切支丹キリシタン浪人が天草四郎を担ぎあげて天人に仕立てたとき、アワビの中からクルスが現れたなどと奇蹟をセンデンしたというし、池上本門寺の末寺にもアワビから出た仏像を拝ませるところがあった。たぶん出来損いの真珠であろう。宝石に魔力ありや? あったら、お目にかかりたい。魔力というものは、なつかしいや。しかし、実在するのだろうか。
 志摩の海女も、御木本の真珠もあきらめて松阪へ牛肉を食いに行く。これ又、かねての念願である。松阪牛、和田金の牛肉と、音にきくこと久しいから、道々甚しく胸がときめくのである。交通公社が電話で予約しておいてくれたから、用意の部屋へ通る。
「あなた方は御運がよろしいのですよ。昨日、品評会で一等の牛を殺したのです。この肉は一般のお客様には出しませんし、まだ、どなたにもお売りしておりません」
 と、女中さんに大そう恩にきせられた。女中さんの言、甚だしく主家に忠、主家の肉を讃美して、誇大にすぎるウラミがあるようだ。曰く、和田金の牛は米飯を食い、ビールをのんで育つのだ、と。
 しかし後刻、主人にきくと、時には米飯を食わせ、ビールを一ダースぐらい、のませることもある、という程度であった。胃の悪い時にビールをのませると、消化がよくなるのだそうだ。その他、豆カス、モチ米など食わせることもあるし、黒砂糖湯をのませたり、カイバを黒砂糖湯でたきこむこともあるそうだ。又、焼酎を牛に吹きかけてアンマすると肉がよくなるそうで、時々二升ぐらい吹きかけるが、牛飼いが、半分飲み飲み吹きかけるから実績は一升ぐらい吹きかけたことにしかならない由。こういう秘術をつくして、松阪牛独特の美しいカノコシボリの牛肉が仕上るのだそうだ。どうも本居宣長の故里であり、牛肉まで神話の如くに神秘的だ。
 松阪牛というのは、松阪で生れた牛ではないのである。生れは兵庫県キノサキ、つまり神戸牛の仔牛。これを和歌山で二三歳まで育て、最後に松阪へつれてきて三月から半年かけて育成、最後の仕上げをする。松阪が最後の育成に適しているのは、薬草などが自生している土地柄にもよるが、肥育の第一番の秘訣は愛撫、愛情であるという。たまにサイダー十本にナマ卵をぶちこみ泡の立つ奴を牛にのませたりすることも秘訣だけれども、実際は愛情、主人の情が牛に通じることによって、牛がスクスク肥育するというのであるが、このへんは伊勢神話の現代篇としてお聞きとり願う。松阪くんだりへ来て、奇妙な教祖に会ったものだ。この教祖は来客があって昼酒をしたたかきこしめしグデングデンに酔ってロレツがよく廻らないのである。
「私は六十をだいぶ過ぎていますが、まだこの通り。毎日松阪牛肉を食べるからで」
 教祖は私をおびやかす。この時だけは、ちょッと驚いた。あんまり教祖的でありすぎるからゴセンタクをそっくり信用する勇気がくずれるのだ。彼はうち見たところ、どうしても五十前後六十をだいぶ過ぎているというのは本当かな。蘇民将来子孫の土地は面妖である。
 和田金の牛肉はたしかにうまい。けれども、そう神秘的にうまいわけではない。ロースのカノコシボリの光沢が美しいのにくらべれば、牛肉の味自体は光沢だけのものはない。特別頭ぬけてうまいわけではないのだ。一般の牛に比べれば開きはあるが、神戸牛にくらべれば、そう開きのあるものではない。当然そうあるべきことである。教祖のゴセンタクがどうあろうとも、牛肉自体は料理の素材ではあるが、料理そのものではない。食べ物は料理に至って職人の腕の相違というものも現れ、大きな開きもついてくるかも知れないが、素材自体の開きなど、一級品同志になれば知れたものであろう。目くじら立てて、あげつろう種類のものではなかろうではないか。しかし、教祖のゴセンタクほど神秘的ではないが、うまいことは確かである。伊東市ではロクな牛肉が手に入らぬから、たしかに松阪牛にはタンノウした。それに特別手がけて肥育した牛肉は消化がよいのか、もたれなかった。牛の飲んだビールやサイダーが私の胃袋を愛撫してくれるのかも知れない。まことに伊勢は神国である。
 和田金でひさぐ牛、一ヶ月三十五頭ぐらいの由。予約がないと席がないほど千客万来のところへ、店頭で牛肉を買っている人々のごった返す混雑といったらないのである。平和な時世にこういう混雑はめったに見られる光景ではない。それにつけても、松阪という町は殺風景で汚い町だ。全く間に合せに出来ているような町で、三井という日本一の大金持が現れた町は、さすがにかくあるべきか。その松阪の三井邸は戦後人手に渡って旅館となり、めっぽう高いので名をなしているそうである。
 伊勢の町々といえば鳥羽へドライブした程度で、あとは車窓から見ただけであるが、鳥羽だの渡鹿野などという南海のヘンピな漁村がいかにも古来住みなしたという落着いた町の構えであるのに比べて、街道筋の市街はなんとなく間に合せという殺風景な汚らしさがつきまとっているようである。伊勢は海から。実にその感が深い。他の土地に於ては、漁村は小汚いものである。伊東などは漁場のうちでは相当に富裕な方に思われるのだが、漁師町の殺風景な汚なさは他と変りがない。伊勢に於ては、その反対で、街道筋の殺風景なのに比べて、はるか南海のヘンピな海辺に、落着いた聚落があるのである。鳥羽や志摩の入りくんだ湾が、海を荒々しいものではなく、庭のような親密なものにもしているであろう。伊勢は海の国。海から育った国。海人の国という感が深いのである。
 今でも汽車の通わぬ南海の果に、大神宮よりも古く、海と一心同体の生活をしていた人たちが、今もその地に住みついているのである。恐らく日本に於ける最も古い土着人の一つがこの地この海に住みついているのではなかろうか。太古の人が住みつくには最も適した地勢なのだ。南海の果であるし、湾は深く入りくんで風浪をふせぎ、島は多く散在して海産物に恵まれているのだから。彼らは歴史の変動にも殆ど影響をうけることがなかったようだ。たまさかに、武塔神のように荒々しい豪傑が南海の女のもとに夜ばいにくることはあっても、彼らの受けた侵略はその程度のもので、古代から今に海人たる生業を根強く伝承しているように思われる。南海の果の聚落で、どうして一泊しなかったのか、思えば残念でたまらない。

底本:「坂口安吾全集 11」筑摩書房
   1998(平成10)年12月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 第二九巻第四号」
   1951(昭和26)年3月1日発行
初出:「文藝春秋 第二九巻第四号」
   1951(昭和26)年3月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:深津辰男・美智子
2010年1月5日作成
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