私は二ヶ月前からゴルフをはじめた。しかしゴルフ道具一式は何年も前から持っていた。ゴルフ靴もボールも何ダースも買いこんで持っていたが、二ヶ月前までゴルフをやらなかったのである。
 なぜやらなかったかというとむろん然るべき理由はある。そしてそれは一つの訓戒を守ったためであるけれども、訓戒を守ることは大切だということを、その結果として近ごろ痛感しているのである。
 私は子供の時から胃弱で、それが唯一の持病である。そのため適度の運動が必要で、終戦後キャッチボールをやった。手軽にできる運動はそれだけだからだ。
 ところが私の年齢ではキャッチボールは無理だ。十ぐらい投げただけで肩の痛さが堪えがたくなり、運動の役にたたない。
 そのとき、さる人がゴルフをすすめて、胃弱にこれぐらい適当なスポーツはないから是非これにしなさい、道具を格安でゆずろうという。その人は大金満家でゴルフ狂であったから、最高級のゴルフセットを四つも五つも持っていた。その一つを私にゆずってくれることになった。
 五十本ぐらいもある大きなセットでウィルソンの最高級品とかいう話であったが、十万円か十五万円ぐらいか、売る方も値のつけようがないらしい。買う方に至っては、そんな大金が有りっこない。そのうちに金ができたら買いましょうなぞとお茶を濁していた。
 そのころ獅子文六さんと会ったら、ゴルフをしなさい安吾さんや、とすすめるから、実は拙者もそのつもりで、十万円だか十五万円だかの金策に頭をなやましている旨を有りのまま伝えた。
 すると文六さんは話半ばにカンラカラカラと笑いとばして、おもむろに眉をしかめて、
「世の中にお前さんぐらいバカな買い物をする人はないね」
「昔の金に換算すると、十五万円でも格安らしいですがね」
「いけませんよ。十万円は天下の大金です。初心者がそんなゴルフセットを持つ必要はない。お前さんは四万五千円で犬を買ったろう。犬に四万五千円の大金を投じるとは、なさけない人だね」
 その席に坂西志保さんがいた。坂西さんは犬猫の大経験者であるから、
「コリーは高価な犬ですよ」
 と取りなしたが、微醺びくんをおびている文六さんは受けつけない。
「安吾さんの買い物には乱世の兆があるね。私が格安で手頃のゴルフセットを世話するから、乱世の商談はやめにしなさい」
 その晩は文六さんのウィスキーの肴にされたが、もともとゴルフ道具は高価なもので、特に私が買う筈だったのは最高級品だったから、乱世の兆があるほどのソロバンとも思われない。要するに私は文六さんのウィスキーの肴にされただけだろうと考えて、当夜のことは忘れてしまった。すると、そうでないことが起ったのである。

 みんな忘れたころに、運送屋が大きな荷物をドサリと持ちこんだ。同時に文六さんからのハガキがとどいた。
 弟が新しいセットを手に入れて古いのが要らなくなったから君にゆずらせる。高級品ではないが、初心者には十分と思う。代金は二万円だが、ついでの時でよろしいという文面であった。
 ちょうど東京でゴルフ道具のブローカーをやってる人が来合わせていた。アチラ物なら五万円ぐらいでお世話しますというような話の最中であった。
 文六さんが送ってくれたセットは、アイアンは全部マクレガーであった。ちょうど五万円という話の最中の品物であるから、相場にしては安すぎるが、と訊くと、
「そういう値はバカげてますな」
 彼はいきなりシャッポをつかみとって、さっさと帰ってしまった。文六さんはブローカーを走らせたのである。
 ところが文六さんが私にゴルフをすすめるについて、特に一ヶ条だけ訓戒を垂れたことがあったのである。
「ゴルフというものはヘタがたのしむ遊びであるが、ヘタにも限度があって、我流でやると進歩がない。習いはじめに悪いフォームが身につくとそれまでだから、最初の何ヶ月はプロについて正しいフォームを身につけなければならない。この一ヶ条は堅く守らなければいけませんぜ」
 ということをまア五六ぺんはコンコンと訓戒をうけた。よほど我流の悪癖を身につけ易い人物と見立てたらしい。
 一しょにゴルフ場へでかけようと計画をたててるうちに、張本人の文六さんが胃カイヨーで入院手術した。退院して湯河原で静養中に、ゴルフボールを一ダース退院祝いにぶらさげて遊びに行くと、さっそく箱をあけボールをとりだして眺めたり撫でたり、まるで舐めやしないかと思うような喜びようであった。しかし、そのあとが、よくなかった。
「ニューボールというものは仲間同士がトーナメントでもやる時に三つほどずつおろすようにしなければならない。初心者がニューボールで練習するなどとは言語道断の話で、ゴルフ場へ行くとキャデーが中ブルのボールを安い値で売っているから、練習はそれで間に合う。ニューボールを何十ダース何百ダース所蔵するのは心あたたまるものではあるが、それは使わずに、時に眺めつつ所蔵せることを楽しむ境地がよろしいな。安吾さんもゴルフとともに、この心あたたまる境地を会得して欲しいな」
 また乱世の兆しについて一本クギを打たれたのである。文六さんが乱世の兆しを排撃するについては、口頭だけでなく実質的に力行の士であることを体得していたから、論争の余地がないのである。
「半年後にはゴルフができると思うから、それまでにプロについて正しいフォームを身につけておいてくれたまえ」
 約束して別れた。

 そのころ私は伊東温泉に住んでいた。伊東には川奈に日本一のゴルフ場がある。もっとも、当時は占領軍に接収されていて、日本人は立入ることができなかった。
 私の住居から百メートルぐらいのところに尾崎士郎さんが住んでた。士郎さんのところへ出入りする人で、彼の小説の中でカチンスキーとよばれて登場する怪人物がいる。カチンスキーといっても先祖代々の日本人であるが、ゴルフ界で顔の売れた世話人である。私がゴルフ道具を手に入れたときいて、やってきて、
「川奈へゴルフに行きましょう」
 と誘う。
「あそこは日本人が行けないのでしょう」
「普通はそうですが、ボクと一しょなら行けるんです。進駐軍が川奈を接収したとき、司令官に頼まれて、いわれた数だけのゴルフ用具をそろえてやったんです。お礼に何をやろうかといわれたときに、ボクとボクの友だちにゴルフをさせろといってみたんです。よろしい、ではお前とその他七人のお前の友だちはゴルフをしてよろしいということになったんです。七人の名前を書きだしてきましたが、要するに一度に七人以内ならだれでもいいんですよ」
「それは、ありがたいね。じゃア、あなたにゴルフを教えてもらおう」
「ぼくはゴルフをやらないんです。ぼくはゴルフの道具を銀行、会社へ売りこんだり、ゴルフ場の工事を請負ったりしてたでしょう。ボクがヘタでなってないフォームでバカな振り方をやるとお客がよろこんで、つまり、商売のコツだから、ボクは昔からゴルフやらんです。ハハ」
 怪人物の言辞はモーローとして心もとないから、私は士郎さんをたずねて、きいた。
「カチンスキー氏が川奈のゴルフ場へ出入できるというのは本当ですかね」
「それは本当だ。とても顔がきくんだ。司令官がでてきて、食堂へ案内してコーヒーをのませるぐらい顔がきくよ」
「オレは英語がしゃべれないから、そう顔がきいてもこまるな」
「イヤ、キミはこまらんよ。司令官が食堂へつれて行くのはカチンスキーだけだ。先日カチンスキーの会社の社長が彼の案内で川奈へ行ったが司令官はカチンスキーだけ食堂へつれて行ってコーヒーをのませてくれて、カチンスキーは二時間ぐらいコーヒーをのんでたそうだ。社長はその間、吹きさらしのゴルフ場へ放ッぽりだされていたそうだよ。キミも食堂へ案内される心配はない」
「カチンスキー氏は英語が達者なのかね」
「イヤ。全然できないが、二時間でも半日でも持つそうだ」
 妙な人物がいるものだ。カチンスキー氏の社長はゴルフを知ってるだろうから、吹きさらしの中で二時間放ッぽりだされても持つかも知れんが全然ゴルフを知らない私はカゼをひくだけの話である。
 こういう次第で、日本一のゴルフ場で人のできない練習の機会には恵まれていたが、私は怖れをなして行かなかったのである。

 一九五二年二月二十九日というハンパな日に、私は群馬県桐生市という赤城山麓の織物都市へ引っ越した。
 私は引っ越してくるまで知らなかったが、そこは書上文左衛門という桐生一の旧家で桐生一の富豪の母屋であった。せまい部屋が一ツもない。どの部屋からも一陣の突風が吹き起りそうな広さがあった。
 ここを探してくれたのは作家の南川潤である。潤さんはこの母屋に人が住んでいないことを知っていたが、まさか人に貸すとは思わずに、念のため訊いてもらったのだそうだ。すると意外にも実にアッサリ貸してくれたのだそうで、私も引っ越してみて、貸すのが当り前だと思った。
 誰かが住んでいなければ、夜な夜な怪風吹き起り、日中といえども台所や座敷などにツムジ風などが起り、ネズミその他のジャングルとなるであろう。かと云って、タダモノの住みこなせる家ではない。第一、当家の人々が奥の方に然るべき住み心持よき家をつくって移住しているほどだ。トラック一台の荷物なぞは、片隅のゴミのようでしかない。
 どうしたら人間が住めるであろうかと皆々が思案投首というところへ、文左衛門さんがやってきて、
「山寺のようでしょう」
 と云う。まさしくその通りだから
「まったく、そうです」
「御挨拶ですね。オヤ、あなた、ゴルフをおやりですね」
「やりません」
「道具があるじゃありませんか」
 私は返事をしなかった。ゴルフの道具はある。たしかである。しかし、ゴルフは知らない。たしかである。そのナゼであるかは、何年前かに文六さんのウィスキーの肴にされたテンマツから話をしないと、誰にもわかってもらえない。そして、そのテンマツを語るにはハナシ家が高座で一席うかがうぐらいのイキサツがあって、途中できりあげることも、途中から切りだすこともできない。要するに、返答しない方が無難なのである。
 しかし、文左衛門さんはイサイかまわず「私のウチの裏庭にゴルフの練習場があります。戦前に造ったもので、いたんでいますが、練習に差支えはありませんから、御自由にお使いなさい」
 言いのこしてさッさと行ってしまった。文左衛門さんはその後私の顔を見るたびに裏庭の練習場を使いなさいとすすめるが、私はかりそめにもゴルフクラブを手にとらなかった。それは文六教祖の訓戒をケンケンフクヨウしているからで、はじめにはプロについて正しいフォームを習いなさい、この一ヶ条だけは守りなさいという。だいたい教祖の言辞が学校の先生や大臣、長官の訓辞よりもなぜ信仰されるかというに、たいがい教祖の訓戒は一ヶ条ぐらいしかない。ここが教祖の自信マンマンたるところで、また実力あるところである。大臣や先生どもの訓辞はとてもこうはいかない。

 二ヶ月前の話である。桐生市の主として織物業のダンナ方が集って、桐生ゴルフクラブというのができた。
 その練習場に当分文左衛門さんの裏庭を用いるから、私にも入会しなさいとすすめられた。
 毎週一回プロがきて手ほどきしてくれる。これがそもそも文六教祖の訓戒に背かないところへ、私が居住している邸内で練習できるのだから、こんな願ってもないことはない。
 そこで私は二ヶ月前に女房といっしょにゴルフクラブに入会した。けれども、さらに私の初練習は一ヶ月おくれたのである。
 なぜなら、私は今年の夏に生れてはじめて水ムシというものができた。これが足ばかりでなく、手にもできた。方々から水ムシの妙薬と称する日本の物、アチラの物、十種ぐらいもらった。また薬局では家伝の妙薬をすすめてくれるというような次第で、これらの薬を正しく用いておけば無難だったのである。
 私は一気に水ムシを退治しようと思って、一番強烈な薬を用いた。すると水ムシよりも先に指の皮膚が参ってしまって、サンタンたるものになった。そして薬がしみて用いられなくなったから、しからばというので、犬になめさせた。
 なぜなら、破傷風の特効薬は洋の東西を問わず犬の唾液から製する。目下それ以外に製法がないということを伝え聞いていたからである。破傷風菌が死ぬぐらいなら水ムシ菌も参るだろうと考えたわけだ。
 ところが犬の舌は非常にざらっぽいものだ。それに私のウチのコリーは狼と甲乙ないぐらい野性マンマンたる奴で、その上いっぺんたのまれるとそれからは私を見るたびに指をなめにくる。放っとけば一日中でもなめている奴だから、たちまち指が荒れ放題に荒れはててしまった。水ムシの域をはるかに通り越して、ヒビ、アカギレ、骨までとどくような口が諸方にできてしまったのである。
 文六さんがゴルフに於て厳に我流をいましめたのは、あるいは私の人生万般に於てこの傾向ありと見たせいかも知れない。ともかく水ムシに於てたしかにそうであった。そしてそのためにゴルフの初練習もおくれることになってしまったのである。
 私が改めて文六教祖の訓戒を身にしみて思い味ったのは当然であったろう。そのうえ、私の初練習が一ヶ月おくれているうちに、クラブの練習場が他に新築され、かつまた一同は上達して、私だけ取り残された。そこで私はプロにたのんで、私だけ邸内の裏庭で一人ひそかに腕をみがくことにした。そこはもう他のクラブ員に見すてられて、今では文左衛門さんと私と女房だけの練習場であった。そして、デブの私が一番進歩がおそいのである。
「ゴルフに於ては天才は存在せず、万人が同じように上達しうるものです」
 今や私の第二の教祖村田プロはこう私を慰めつつ、女房はとっくにアイアンで習っているが、あなたはまだまだ、と私だけは永遠の如くにドライバアを振りつづけるのである。

 ザトペックがヘルシンキのマラソンで優勝したとき日本の新聞記者がインタビューした。今まで五千、一万で優勝したランナーがマラソンにでて優勝した例がない。そこで
「あなたは常識を破ったが……」
 と質問すると、ザトペックが答えて
「君の常識とは、なんだね」
 と訊いたそうだ。
 日本でははなはだ「常識」ができやすい。五千、一万の優勝者がマラソンを狙って、三、四人失敗すると、それでもう「不可能」という常識ができてしまう。スポーツライターと読者だけがその常識を信用するのじゃなくて、その実技の専門家まで自製の「常識」を信仰してしまうのだから、かなわない。
 専門家に不可能の常識があってはいけないもので、あらゆる可能性を予定していないと本当の進歩は考えられない。真に人にまさる独創はそこからしか起らないものだ。
 百メートル選手がマラソンで優勝するのは一応不可能と見てよろしいかも知れないが(これとても絶対に不可能だとはきまっていない)五千、一万の優勝者がマラソンに優勝不可能だときめこむのは滑稽千万の話である。
 日本の軍事専門家や学術専門家も、自分の専門分野における一人ぎりの常識にしばられて、妙に相手を見くびり常識範囲の精度に酔払っていたように見うけられるが、われわれの日常生活にも愛きょうのある常識がたくさんあるようだ。
 シャモの喧嘩なぞにも常識がある。一度負けたシャモは負け癖がついて、もう勝てないという常識があって、負けたシャモは羽毛をむしッて鍋に煮て食うことになっている。
 久生十蘭君の小説に、パリのシャモの喧嘩を主題にしたのがあって、負けたシャモが一年の猛訓練をつみ、翌年同じ相手に復讐するという物語である。
 パリのシャモが特別のわけはなかろう。また、久生君の小説が同君の独創的な発想によるもので、パリの事実に即しているわけではないかも知れないが、そういうことはとにかくとして、一応負けたシャモは勝てないときめこむよりは、訓練次第で再び優勝者になりうる、と考える方が正しいように私は思う。
 シャモについての経験はないが私自身の実験した例では、犬の場合、仔犬のときに喧嘩に負けた犬は、生涯喧嘩に尻ごみするという風に日本ではいわれているがこれもウソである。
 仔犬の時には自信がないから、よその犬を見ても尻ごみするのは普通だが、大きくなると、そうではない。子供時代に負けた相手をたちまちやり返すようになりうるものだ。
 シェパードや日本犬が喧嘩に強いというのも伝説にすぎない。小さくともテリヤ系の犬には猛犬が多いし、一見女性的なコリーなども怖るべき闘争性をもっている。
 日本の常識(それが専門家の常識ですらも)を鵜のみにすると、手塩にかけたせっかくのシャモを鍋で煮て食うようなことになってしまう。

 相撲というものはお酒でも飲みながら見物するに適したもので、愛嬌をたのしむゲームだろうと私は思っている。
 むろん相撲とり当人の身になれば真剣な本場所で遊びどころじゃないだろうが、見世物本来の性格は諸事そうで、芝居にしろ、文学にしろ、演者当人は一生ケンメイであるが、要するによき酒の肴になればよろしいものなのである。
 相撲の勝敗は近代スポーツのような合理性がない。そこが相撲の愛嬌である。大きな男がせまい土俵から一足出ると負けなのだから、幼稚園以下の遊びである。それをよりぬきの大男が技をねり業をこらしてやるところに益々愛嬌があろうというものだ。
 勝敗判定のルールも子供なみで、立派に相手を寄り倒しても、足の指先が土俵からチョイと出たために負けたりする。これを「勇み足」という。可愛い名だ。何々山勇み足で負け、という。名で慰めているようなところが、ガンゼない子供をあやしているようでおもしろい。
 野球のような近代スポーツでも、死球をくらったのにそれがバットをこすったりするとアウトになる。痛い思いをしてアウトになってはマシャクに合わない話だけれども、だいたいスポーツは御愛嬌で、そう合理的にいくものではない。相撲は特別御愛嬌である。
 相撲の愛嬌のうちでも私が一番好きなのは「うっちゃり」という手である。これぐらい勝敗判定のモーローたる規準はめったにない。実際の組打ちの場合、あれからどっちが勝つだろうかと考える。
 ボクシングでもレスリングでも柔道でも、一応きまったところで勝敗がつく。実際の組打ちとしてトコトンの勝敗は分からないかも知れんが、一応はキマリがついている。
「うっちゃり」はそうじゃないな。誰の目にも勝敗はこれからという出発点である。あれから上になり下になりして、一勝負はじまろうというスタートで勝負が終りをつげてしまう。いかにも子供なみで、おもしろい。
 しかし、実際の組打ちの場合に、下へ落ちてからどっちの態勢が有利なのだろうか。
 土俵という限定があって生じてくる現象なのだから、実際の組打ちに当てはめて、あとを考えるのはマチガイかも知れないが「うっちゃりきまって……」という。「うっちゃり」にも相撲上ではキマリがあるところが、私は甚だおもしろいと思う。
 土俵という限定があって「うっちゃり」という手がある以上、むつかしい術をつくして積極的に業をかけるよりも安直にうっちゃって勝った方が楽のようだ。
 わざと寄らせてうっちゃる。うっちゃり専門という力士が現われると風雲を巻き起すだろうと考えるが、どういうものだろうか。昔は引分け専門の力士もいたし、足ぐせの名人、吊り専門、寄り身の名人といろいろあったが、うっちゃりの名人というのは聞かない名人だ。
「うっちゃり」も勝のうちだから、わざと寄らせてうっちゃる名人が現われると、オチオチ寄れなくて、おもしろかろう。

「うッちゃり」のアベコベの寄りでは、三根山が現役中の専門家である。
 彼は相手を土俵から寄り出すことしか考えていない。相撲は土俵という制限の中の競技であるから、当然こういう専門の狙いをもった力士が現われてよろしいわけだ。したがって「うッちゃり」専門の力士が現われてもよろしいわけなのである。
 三根山は立った瞬間に寄っている。そのまま一気に寄りきれば勝つが、途中で食いとめられると、九十五パーセント負けてしまう。二、三年前までは百パーセント負けた。
 三根山は私と友だちの唯一の力士である。私のウチでは三根山の取組をラジオできいているとき
「立ち上りました、立ち上りました」
 と云ったとたん、一、二秒でワーと観衆の声がきこえると、
「三根山が勝ったよ」
 と云い合って、みんなでニヤリと顔を見合せる。
 立ち上って、二、三秒、五秒ぐらいすぎても勝負がきまらないと、女房が
「ラジオ止めましょうか」
 と云う。私はやや助平根性を起して
「マ、待て、待て」
 と云うが、十秒たって勝負がきまらなければ、もう待つことはない。
「ラジオ止めちまえ」
 ということになってしまう。彼の勝つときは大がい一、二秒の相撲である。つまり立ち上ったとたん寄りきってしまう。食い止められると、九十五パーセント負ける。なぜなら彼は非力だからである。
 彼は身長は私と同じぐらい、六寸五分ぐらいである。しかし、骨格は私の方がシッカリしているかも知れない。しかも、彼は甚しくふとっている。つまり甚だ弱々しい骨格の上に人の何倍もある肉をつけているだけなのだ。だから、力がないのである。ただ体重の重さをきかせて寄る一手である。
 その代り相撲とりになって以来、他の何事も考えずに寄りの一手にぶちこんできた。巴潟という彼の師匠が選んで教えた一手なのである。
 むろん相手の力士は三根山が寄りの一手で出てくることを百も承知でその用心専一に心がけているところへ、あくまで寄って出るのだから、十数年この一手でみがきあげた寄りとはいえ、楽じゃない。
「たまには投げて勝ってみせろよ」
 酔っ払った私が、ついむごいことを言うと、三根山はションボリして
「巡業中、その稽古をしていますが……」
 と口ごもる。稽古は熱心だが、非力だから無理なのだ。ふとり方が異常なのだ。
「もう五貫ふとりたい」二十七八貫のころ、そう云っていた。重さで寄る以外に手がないからだ。
 昨年から急に四十何貫になってしまった。今度はふとりすぎだ。あの弱い骨格では支えるにも楽じゃない。
 しかし、全然非力で、五秒以内に寄り切れば勝、食いとめられれば負け、という三根山は私のいちばん好きな力士である。

 相撲四十八手のうちに「かわずがけ」というのがある。河津三郎が股野と相撲をとって勝った手だといわれている。
 講談本によると、怪力の股野が河津を吊り上げて今や大地へたたきつけんばかり勝敗定まったりと思うときに、吊られた河津が片手を股野の首にまき、片足をからんで力をこめると、股野の膝が折れてズデンドウと仰に倒れたということになっている。
 四十八手の「かわずがけ」がこういうのかどうか私は知らない。私が見た本場所で「かわずがけ」できまった勝負を見たこともない。
 私は伊東温泉に住んでたとき、ゆかりの土地であるから「曾我物語」を気の向くままに足でしらべてみたりしたが、当時の地名は概ね今も残っていて、人名地名のわずらわしい本であるが、その土地で読むとたのしんで読める。
 しかし「曾我物語」の原本には「かわずがけ」に相当する手が現れていない。河津と股野の相撲のくだりはコクメイの描写があって両者の身長や姿形まで描かれているが、講談本とちがって河津は楽々と勝っている。
 一度は両手を押えて膝をつかせ、二度目は目よりも高く差し上げて片手で投げとばしたことになっている。足をからむ手は現れていないのである。
 河津が股野と組んでみると、予期に反して股野の力は大そう弱い。しかし日本一と名の高い股野を手ひどく負かしては気の毒と両手を押えて膝をつかせる。すると股野は、今のは木の根につまずいたのだ。それ、ここに木の根があると地を指し示して取り直しをもとめる。描写がこまかくて面白い。
 この相撲をとった奥野の狩の帰り道に河津三郎は殺される。河津の子供の曾我五郎十郎の仇討がそこからはじまるのである。
 河津三郎の墓は、ようやく大正のころ伊東の瓶山というところに発見された。
 瓶山のはずれ、久須美神社と相対して万林寺という寺があって、その裏山のヤブの中に墓がある。今でも、近所の子供に道をきいても知らない。幅一尺ぐらいの道とヤブの区別のつかないようなのを登るのである。その道は自然の岩肌にギザギザをつけて滑りどめにした道で、そのギザギザも磨滅し、道とヤブの区別も定かでない。河津の首を山上に埋めたときから変りのない道のようであった。
 誰の物ともわからなかった墓石の下を掘ったら首瓶がでてきて、それが河津三郎の首瓶であることを物語る品々が出て来たのだそうだ。近年のことである。
 その墓は谷を距てて父伊東祐親の墓と相対している。
 この瓶山からは昔二ツの首瓶がでたことがあって、五郎十郎の首瓶だと伝えられているが、その証拠はない。
「かわずがけ」の豪傑は数百年間、今に至っても小鳥のほかに訪う者がないようなヤブの中に、詩人のような孤独の姿を存しているのであるが、思えば当時は、腕力が詩であった時代かも知れぬ。今また然り西部劇かね。

 相撲の手料理を総称してチャンコ料理といっている。他のスポーツマンが減量に骨を折るのに、相撲ばかりはふとるために大骨を折るから、美食家である。三段目ぐらいまでは兄弟子連の食事の支度が相撲と同じぐらい忙しく、ために彼らは一様に美食家であるばかりでなく一応の料理人でもある。
 特に彼らのチャンコ鍋というものは有名であるが、厳密にチャンコ鍋という特定の料理があるわけではない。
 獣肉、魚肉、野菜類、好みのまま一しょくたに煮て、主としてポンズで食べる。食べあげると雑炊にする。内容の問題ではなく、相撲の食う鍋はみんなチャンコ鍋である。
 中に最も手のこんだのをソップだきと云って、一日がかりで甘辛の味のついたソップをつくり、これに獣魚、野菜をぶちこんで食う。ソップづくりに手間がかかるだけで他に特別のことはない。
 ソップはスープのこと。また相撲社会では獣骨(ガラ)をソップと云い、やせた相撲とりをソップという。ふとったのはアンコである。ソップ型、アンコ型という。
 ソップだきだけが手がこんでるせいか、世間ではこれだけをチャンコ鍋と云ってるけれども、相撲とりは彼らの日常の鍋料理を全部チャンコ鍋と云っており、面倒な流儀などはないのである。主として九州博多の水タキやフグチリの系統だと思えばマチガイない。
 戦争中、松浦潟や豊島が焼死した空襲に、顔と手をやられて廃業した新川という相撲とりがある。六尺の大男で前途有望と云われていたが、十両で廃業せざるをえなくなって、日本橋で料理屋をはじめた。
 終戦後の食糧難のころ、私はこの相撲とりのおかげでうまい物が食えた。なぜなら彼は驚くべき特権階級だったからである。
 戦争中に廃業したのだが、奴め終戦後も五年間ぐらいチョンマゲを落さなかった。このチョンマゲが大変な特権なのである。
 チョンマゲをつけた六尺の大男が買出に行くと、農家の人たちは、お相撲さんか、ヤレ気の毒なと言って米だけでなく、鶏でも卵でも安値でジャンジャン売ってくれる。
 米の大袋を背負い、両手に十羽の鶏をぶら下げて大道せましと歩いても、ヤァお相撲さんか、腹がへるだろう、とお巡りさんが全然可愛がってくれるのである。
 だから奴めは、
「チョンマゲに足を向けてねられません」
 と言って五年間マゲを落さなかった。無理しても足はマゲに向きっこない。
 乗物難のころに、遠い所から、一斗ダルを小学生が弁当箱をぶら下げてるように運んできてくれるので、私も大そう助かった。乱世にはこういう友だちをもつに限る。
 また乱世になったら、図体の大きな人はさっそく髪の毛をのばしチョンマゲを結う心構えをもちなさい。食糧難の心配はない。私が乱世に実見した最もユーモラスな抜け穴は、新川関のチョンマゲであった。

 冬になると東京の居酒屋では「アンコウ鍋」が江戸前の肴として珍重されるが、だいたい居酒屋で食べさせる江戸前の肴は、湯どうふ、サシミ、スダコ等というものだから、その中ではたしかにアンコウ鍋は抜群だ。だから私もよく食った。私の名がアンゴだから、
「また友食いしてやがるな」
 なぞと云われながら食ったものだ。けれども、現代のように、フグチリ、秋田のショッツル鍋、広島のカキ鍋というような諸国の珍味が居ながらに食べられるようになると、アンコウ鍋はさして精彩あるものではない。
 ところが、ここにアンコウのドブ煮という奇怪な食べ物があって、これは日本の食べ物の中の絶品という気がするのである。
 ちょうど去年の今ごろ、銚子の船長から、このアンコウのドブ煮をもらった。
 銚子港で船といえば漁船のことで、船長とは漁師のカシラ以外の何者でもない。アンコウのドブ煮とは、銚子の漁師の食べ物なのだ。
 アンコウは普通長さ一メートル余、幅一尺余、平たく、まるく、ノッペラボーの化け物のような大魚であるが、こいつを一匹マルマル全部食ってしまう。何物も残さずに食いあげてしまうのだから、とても一般家庭で食べるわけにいかない食べ方である。
 アンコウの身のうまいところと、臓物のうまいところだけ、まず取りわける。残ったのを骨も皮も肉も臓物も頭も一しょくたに、たたきつぶし、すりつぶし、つぶしにつぶし、しぼりにしぼって汁をとる。
 この汁にミソを入れ、さきに取りわけておいた身と臓物のうまいところをグツグツ煮て食うのである。野菜を入れるならネギがよい。
 つまり、汁も身も全部アンコウで、他にミソを使う以外には一てきの水すらも使用することがない。
 コッテリと複雑微妙、実にうまい食べ物だ。ちょっと、しつこいけれども食ってる時には、そのしつこさが、またよい。翌日になると、しつこさが鼻について、二日つづけて食う気にならない。
 もっとも私が初対面に食べすぎたせいもあった。初対面の食べ物にのぼせるほど夢中になってモリモリ食ったのである。いくら食っても一匹マルマルつぶしたアンコウは減り目が見えやしない。そこが玉にキズである。
 漁師とか相撲の食べ物にふさわしい荒っぽい料理だが、味はコッテリと微妙である。天プラやフグチリを食ってるときに、その淡泊さに飽いて、アア、アンコウのドブ煮が食いたいな、と思うことがあるが、とても家庭料理というわけにはいかないし、どこの料理屋でも知らない食べ物だから、どうにもならない。
 マンボウという直径一間もあるまんまるい大きな魚があるが、あの肉と骨と皮をしぼって汁をとり臓物を味噌煮にして食うとアンコウ以上にうまいかも知れぬ。量的に海賊的な食べ物のようだが、マンボウの透明無味な肉はしぼって汁とするにふさわしく、すごい美味が得られるかも知れないと思うのである。

 相撲が手料理のフグを食ってあたら名力士が落命した例はそう多くはないが、彼らが手料理のフグを食ってるのはしょッちゅうのことで、中毒ていどの被害ならたいがいの上位力士が体験しているようである。三根山は甚だしく温厚、謹厳、キマジメのハニカミ屋で、かりそめにも大言壮語などすることのない人である。三根の後輩の新川なぞも一しょに酒をのんでる時に、
「あなた方が手料理のフグで時々中毒なさるッて本当ですか」
 と女房が訊いたところが、新川は威勢よく、
「ヘエ。そうですとも。あんなものは、腐ったワラジを食うと治ります」
 三根山は子供が悪事を白状するようにションボリしながら、トツトツと語る。
「ウチの部屋ではクソ、人糞ですが、アレを無理に食うのがよろしいと言ってまして、私もしびれかけてしまったときに無理にアレをおしこんでもらって、幸い吐き下して命拾いしたことがあります」
 女房の奴ギョッと目をまるくして思わず尻ごみしたものである。私もこのときは驚いたな。
 新川は当時日本橋で料理店をやってたが、
「相撲と申しても広うござんす。私のフグ料理は念には念を入れて日本一に安全ですから、いっぺん賞味して下さい」
 と言ってたが、ある日ちょうど材料がそろって特別のチャンコ鍋をつくりますから食べに来て下さいと言ってきたから、女房をつれて出かけた。
 すると奴めモミ手しながら私にだけそッと冷蔵庫をあけて見せた。中にキラキラと赤く光沢を放っている美しい一山のマコがある。
「奥さんに言うと気絶するといけませんから食べるまで黙ってますが、本日の特別料理は実はアレです」
 私もゾクゾクと寒気がした。
 そもそも新川がなぜ相撲を廃業したかというと、空襲で顔と手に大火傷を負ったせいもあるが、不動岩とガッキと四ツに組んだ時に不動岩の歯が新川のミケン深く食いこんだ。この二ツが重なって視力が甚だしく減退し、夜道は一人で歩けないほどの弱視となったせいなのである。
 こういう目の悪い六尺の大男が野球のグローブをはめたような手にマコを握って光にすかしながらピンセットで血管をぬくのであるが、この血管が一本でも残っていると、食った者は死んでしまう。
「ヤ。女房に限らず、拙者も本日の特別料理は棄権いたそう」
「ジョ冗談じゃないですよ。よその料理人の一時間の仕事を私は三時間の手間をかけて念には念を入れてやってまさア。私のフグが危いなんて、とんでもない」
「イヤ。東京には腐ったワラジもないし、君の店は水洗式で人糞もないから、残念ながら辞退いたそう」
 平あやまりにあやまって、虎口を脱したことがあった。

 今年の雑誌の新年号に「雪女」の絵や話を三四見かけたが、新潟という名題の雪国に生まれた私が、雪女の話も、うわさも、きいたことがなく要するに雪女の怖さを知らないのである。
 田舎の人というものは、夜間に子供が外へ出ようとすると、幽霊がでるぞ、キツネに化かされるな、なぞとさも怖しげに言いたてて面白がっているものであるが、私もおどかされた経験は大いにあるけれども、雪女がでるぞといっておどかされた記憶がない。私の少年時代といえば、明治末期から大正の、まだランプをつけていた時代であるが、それですら、そうである。いったい雪女が精神的に実在しているのは、どこの国なのだろう。あんまり雪の降らない地方の伝説であろう。
 東京の探偵小説家が雪の何尺も降りつもった晩の屋外の殺人事件を真ッ暗闇で起ったように書いた。それが、雪が降りしきっている最中でなく、降り止んだとたんに行われた事件として書いたから、なおひどい。
 雪の晩というものは、大そう明かるいものだ。ホタルの光はとにかくとして、大雪の降りやんだ後なら昔の和書は読めるかも知れないぐらい明かるい。
 だから雪の夜道は子供の一人歩きにもそう怖しいものではない。雪国の夜の凄味といえば、大雪の降りつもりつつある時にはあらゆる音がなくなってしまうもので、夜の屋内でコタツに当たりながら底の知れない無音状態を知覚しつつある時はやや無気味である。それは屋内においてのことで、屋外は雪降りで明かるくてさしたる凄味はないのである。
 雪の夜のコタツは怪談のさかえるにふさわしい場であるが、雪そのものは怪談のタネには向かないものである。
 日本人は怪談が好きである。怪談というものの真打は幽霊で、キツネ、タヌキ、雪女等の妖怪変化の類は前座にすぎない。そして、雪女の怪が、雪国生まれの私にすらソラゾラしいように、妖怪変化の類は所詮人智に及ばず、どことなく間がぬけていて愛嬌があるものだ。ところが、幽霊という大真打はそうはいかない。
 要するに幽霊の凄味は、人に恨みがあるものかないものか、という凄味で、われわれの血肉に響いて通じるものがある。
 そして日本にこれほど怪談がはびこり栄えたというのも、泣く子と地頭にかてない庶民が権力に抵抗する最後のものとして、これしか武器がなかったせいかも知れない。
 ところがこの幽霊にふるえているのが自分も幽霊になる必要のある弱くて正直な庶民の方で、悪党や権力者は幽霊をせせら笑っていられる怪力を持っているから始末がわるい。
 現代は怪談を通りこして、幽霊妖怪の実在する時代である。広島には石に映ったまま消えない人間の影が実在しているし、原子バクダンというものは、そのバクハツの姿のはなはだしく美しいものではあるが、人はそれを見た瞬間に死ななければならない。ローレライの唄声をきいた人が死ぬまでの時間よりもはるかに短い一瞬のうちに、自らの影を地に残して消え去っているのである。

 私の住む町の一人の郵便集配人が年賀状は人々が待っているものだからと高熱をおして配達にでて倒れた。愛すべき実在のサンタクロース氏である。
 年賀状はムダだ、虚礼廃止だなどと昔から云われていることであるが、人生にムダや遊びが許されなかったら生きる瀬がありゃしない。正月だのお祭などはそれを楽しく暮す人にとっては大切な生活で決してムダでも虚礼でもない。
 キリスト教国でもない日本人がクリスマスを祝うのはケシカランなぞとヤボなことはいわない方がよい。すべて興隆する民族は清濁合せのむものであり、また清濁合せのみつつある時に興隆しているものである。
 純血種だのユダヤ追放だのと旗ジルシをかかげたドイツや日本は戦争に負けるタイプであった。
 実際上にあらゆる民族をいれ、自由に長所をとりいれたアメリカとロシヤはまさに民族興隆の時で、勝つタイプであった。この二ツの民族が戦ってどちらが勝つかと言えば、先に純血だの異族追放などと言いだした方が負けると私は考える。
 日本人もクリスマスだ、メーデーだとよそのお祭をとりいれて盛大に無邪気にやっているのは、むしろ頼もしい。こういう庶民生活は健全で、むしろ民族興隆の種子を存するものと見てもよい。
 私のように何十年も年賀状一本書いたことがなく、特に新年をたのしむ気持もなく、人からの年賀状を待つ気持なぞも持合せがないというのは、不健全で、決して賀すべきことではない。
 年賀状は人々が待っているからというので高熱をおかして配達にでて倒れたという生き方には民族興隆の健全な庶民生活の裏づけを暗示するものがある。そして、こういう庶民が代表する日本というものは、まだまだこれから生長する民族であろう。法隆寺だの古い伝統などと云ってるのは日本人中の別種族で、日本庶民はまさに十二歳くらいの未来の民族かも知れないと私は思う。私のように年賀状も書かないニヒリズムからは何も生れてくるものはないのである。
 人のお正月に景気を添える一助になるなら筆不精をおしても年賀状は大いに書くべきで、私も来年はそうしてみようかなぞと考えたりしたが、この考えが来年の正月まで持つかどうか怪しいものだ。
 私のところへは未知の人からの賀状の方が多い。したがって、度々転居ぐせのある私の現住所へ届くには日数がかかって、松飾りをとってから連日舞いこんでくるのである。
 遠方のどこかで未知の人々が私の新年を祝ってくれているなぞとは身に余ることで、それに対して私も来年は年賀状をだそう。気楽に十二歳のこれから生長する日本人の一員になりたいという風に考えるのだがニヒリズムとセンチメンタリズムは仲が良いようで、いざとなるとダメらしい。私自身の私生活は生長しない人種の方にきめてしまうべきかも知れない。

 私は一昨年秋田犬を訪ねて秋田へいった。秋田市には秋田犬が見当らず、青森県境にちかい山間の大館市で、秋田犬にお目にかかった。
 この大館市が秋田犬の本場であるが、そこに秋田犬保存会長の平泉さんという犬好きの人がいて、秋田犬の内幕を語ってくれた。
 大館にも純粋の秋田犬は二百七十匹ぐらいしかおらない。秋田犬はテンパーに弱くて死に易いように近親結婚の結果、繁殖率が低くなって絶滅を辿るのみであるという。そこで、大館でも、秋田犬と称して大概雑種を製造、ハンバイしており、また三川秋田と称して、三川犬と秋田犬との交配種が全国に秋田犬と称するものの主流をなしているのだそうだ。
 本当の秋田犬というものはそんなに珍貴なのかと驚いて、そっくりこのことを書いたところが、雑種秋田の製造を職業にしている人々の総攻撃をくらってへいこうしたことがあった。
 しかし私は一番正直なところを一ツだけ書かなかったのであるが、純粋の秋田犬というものは実は近年完成したばかりの雑種なのである。明治時代にはあんな大きな日本犬は存在しなかった。
 日本犬に西洋の大型種を加えて体形が大きくできておる。そしてそれが当然の結果として、日本犬の形態を主にしたのと、西洋犬に近いのと二種類できた。
 この日本犬的なのが秋田犬で、西洋的なのが土佐犬である。だから大館市や弘前市の近所には土佐犬の産地があるのである。秋田犬、土佐犬の産地があるというといかにもインチキのようだが、実際はどの純粋種だってそう古い歴史があるわけではなく、いろいろ手を加えて改良したり、より良い新鍾をつくり出したりするところに面白味もあるし、犬好きの極致もそこにいたって極まるのじゃないかと思う。
 シートンの説によると、あらゆる種類の犬をかけあわせて雑種をつくった場合、つまり犬の最大公約数がどういう形をとるかというと、だいたい小型日本犬に似た形のものが生ずるようである。この島国ではいろいろの種類の犬がいるが結局最大公約数的に雑種化したであろうから、シートンの説くものが日本犬の形に似ているのは偶然でないように思う。
 犬屋は純粋種に似せることを目的にしているから、私が本当のことを書くと困るのだけれども、規格とか標準以上の改良種や、新種をつくることを目的にし、商法の上でもそれを明らかにしておけば、めいわくするはずもなく、その方が本当に面白味もあり、やりがいもあり、モウケにもなる仕事のはずなのだ。ある筈のない規格などをつくって、それに似せよう合わせようとする方がこっけいなのだ。
 今日の秋田犬も土佐犬も明治時代までは存在しなかったように、こんごより以上の日本犬が現われてもフシギではない。愛犬家も純粋種の規格などにとらわれずに自分で改良を志し、自分の好みの雑種を考案されたら、むしろ楽しみじゃないかと私は思っている。

 先日友人のところへ群馬県下仁田というところから女中がきた。そのとき女中が就職条件として、
「どうかコンニャクだけは食べさせないで下さい」
 とたのんだそうである。
 下仁田は日本一のコンニャクの名産地だそうで、コンニャクは下仁田と相場がきまったものだそうだ。それで下仁田自身コンニャクを産するばかりでなく、全国からコンニャクの原料が集まり、ここで加工荷造りして、下仁田コンニャクと名を改めて全国へ売りさばかれるのだそうだ。
 下仁田はコンニャクのほかにネギも名産地で、全村コンニャクとネギ以外に何もないそうだ。友人宅の女中となった娘は米の代わりにコンニャクを食べる村の生活に絶望し、コンニャクから逃れたい一心で女中になったのだそうである。
 しかしまた下仁田周辺は天下名題のコーズ牧場はじめ大牧場地帯で、見はるかす山も平野も牛とコンニャクとネギだというから、そっくりスキヤキ地帯でもある。
 二十年ほど昔になるが、高原療養所でコンニャクストライキという騒動があった。食事にコンニャクばかり食べさせるのは怪しからんと、患者がハンストを起したのである。
 ところが病院側でコンニャクの栄養分析というものを見せた。コンニャクは殆ど百%カルシュームで、結核患者の栄養食としては至極適当なものであることが諸本の一致して説くところであった。
 患者の方はコンニャクのほかにもその他何々の待遇改善要求があったのだが、コンニャクはカルシューム也という一撃によって全的に闘志を失い、もろくも敗北したという戦史があるのである。
 つまり患者の方では、コンニャクこそは論より証拠、敵の最大弱点であると一途に思いこんでいたところに敗因があったらしい。かようにコンニャクというものは、見るからに、また見れば見るほどタンゲイすべからざる怪物で、こういうものを食いこなすようにしてしまったのは何物の力であるか、と考えると、人生は不可解の感を深めざるを得ないのである。
 古事記を読むと、われわれの祖先は神話の昔からナマコを愛食している。磯の国々から朝廷への税としてナマコをほしたイリコというものを大昔から欠かさず奉っている。
 中原中也という夭折した詩人が
「陸のコンニャク海のナマコ」
 と呪文を唱えて大そう怖れていたが、私もナマコがどうしても食べられない。しかるに磯の魚貝も数ある中で、神代の昔からナマコを愛食していたわれわれの祖先というのは、無類の食通なのか、悪食なのか、タンゲイすべからざる祖先である。
 いかに強力な暴君といえども臣民にコンニャクとナマコを強制することは不可能であろう。しかるに多くの人々はおのずからコンニャクとナマコを食べこなしている。人間はタンゲイすべからざるものである。

 私は長らく昔なら語り草になるような貧乏ぐらしをやってきた。しかしそれも「昔なら」で今では全く珍しくない。戦争中から戦後にかけては、多くの人々が空襲で家財を失い、食糧の欠配、よろこんで犬猫をくらい、豚のエサや雑草をくろう有様で、天下の珍事に類していた私の貧乏すらも物の数ではなくなってしまった。
 私の貧乏は本人が覚悟の上のことであるから何でもないけれども、戦争の貧乏は人々がそれを欲していないのに身にふりかかってきたことで、しかも全く餓鬼道の底に達した貧苦であるから哀れである。
 ちょうど太平洋戦争に突入する年のころ、私は小田原市のガランドウというペンキ屋の飯を食っていた。小田原の緑新道といえば目貫きの商店街であるが、そこに飯場の掘立小屋のような汚いウチがあって、それがガランドウの店だ。もっともお手のものの大きな看板でごまかしてるから通りから一見しただけでは分らないが内実は掘立小屋なのだ。店から奥の台所まで土間つづきと云いたいが、実はほかならぬ地球のむきだしの表土である。その地球の表土の上にフロ桶もあるし、下駄をぬいで上れば茶の間もある。
 ガランドウは今では十一人の子持ちであるが、当時は八人の子持ちで、小田原きっての貧乏で勇名をとどろかしていたのである。
 しかし今から思うと彼の貧乏は豪勢なものであった。彼は肉屋と魚屋に予約しておって、ハキダメへすてる臓物シッポ脳味噌アラの類を石油カンにつめて届けてもらう。本日は十五銭でよろしとか、本日は二十銭なぞと運んできた小僧がお金を受けとって行く。だいたい石油カン一ツのハキダメ向けに色をつけた品が十五銭から二十銭ぐらいで買えた。
 ところがこれが非常に美味である。魚のアラが美味であることは浜そだちの日本人なら大がい知っているが、日本の肉屋がハキダメへ捨ててるものが獣肉中の王座を占める珍味だということは全く知られていない。
 私が去年ヒダの高山でランチを食ったら山奥には珍しく牛のシッポのシチュウを使っていた。シチュウには普通牛のシッポを使う。タン(舌)はしつこいが、シッポはあっさりしていて素朴ななつかしい味である。
 けれども牛のシッポや脳味噌を使う料理屋は田舎にはたくさんはないから、主としてハキダメへ捨ててしまう。こういうものを石油カンに一ぱい十五銭か二十銭で買って、親子十人に居候を入れて飽食していたのである。
 もっとも、巴里パリや北京の料理人なら天下の珍味に仕立てる材料もガランドウの手にかかってはただ鍋にグツグツ煮るだけのことで、アクをぬくことを知らないから、決して美味をたのしむというわけにはいかなかったが、ハキダメへ捨てるものを常食してやがると人々に後指をさされた彼の貧乏も、今から思えば豪勢きわまる貧乏だ。そして八人の子供はまるまるとふとっていたものである。

 東京に今なおクサリ鎌の術を伝える人がいるそうだから型を見せていただこうと、一昨年訪れたことがある。ところが主人は戦災でクサリ鎌を失った由で、
「私はクサリ鎌をやるにはやりますが、元来はじょうを学んだものです」
「杖と仰有おっしゃると、夢想権之助の?」
「左様です。福岡に夢想権之助の神伝夢想流が今なお伝わっておりまして、自分はそれを学んだものです」
 東京の警視庁で杖を教えている清水隆次という先生であることが分った。
 清水さんは昭和五年の天覧試合だかに杖術の型を披露するため、神伝夢想流の先生にともなわれその高弟として上京したのだそうだ。そのとき杖の威力が警視庁の認めるところとなり、清水さんが乞われて東京に止って術を伝えて今日に至っている由。
 むかし共産党その他の暴動対策に警視庁の新撰組という棒部隊が出動したが、これぞ清水さんが術を伝えた産物で、あの棒が神伝夢想流の杖だそうだ。
 清水さんから杖の型を見せていただいて、一時はただ呆然とするほど驚いたものである。
 生涯不敗を誇った宮本武蔵も夢想権之助の杖にだけは手ひどい目にあっている。ヒイキ目に見て引き分け程度の勝負であったらしいが、武蔵という人は後世の剣客と違って、剣の他流だけを相手にした人ではなく、槍でもクサリ鎌でもあらゆる武器も相手と見て剣を学んだ人だ。そういう武蔵だから、ともかく杖と一応勝負に持ってゆけたが、一般の剣客ではとうてい問題にならないだろうと私は思った。
 剣というものはツカと刃がきまっていて、攻撃は一点からしか起らないが、杖は全部がツカでも刃でもあるし槍でもあり、剣のつもりで一点を見ていると、上下左右の思わざるところから攻撃が起り、まるで百本の杖に攻められているような幻惑をうける。
 その上、両手の幅と頭上へ手をのばした高さがあれば使えるから三畳の室内で自由に術をふるうことができる。棒を刀のように振り廻すものとでも考えたら大マチガイで、まるで棒が手中に吸いこまれて、前後左右上下の諸方から無際限に目にもとまらぬ早さでとびだし襲いかかってくるものと思い知っておかねばならぬ。
 男女ともに護身用としてこれほど得がたい術はないように思ったが、特に家に留守をまもる婦人にはこの上もない術であろう。
 もっとも人が護身用の術を必要とするような時代は慶賀すべきではないけれども、血なまぐさい乱世の気配は遠ざかるどころか益々近づくおもむきもあって、かかるときに、大男の暴漢ヌッと室内に上りこむや、ギャッと叫び、とたんにヒバラを押えてひッくり返っている。小娘が四尺二寸の杖をたずさえてニコヤカに現れるなぞという図は愛嬌もあり実効もあって面白い。
 亭主の威力地におち、女房が武力をふるうに至ると、乱世もおさまるかも知れない。

 むかし立川文庫という少年用の講談本があった。たいがいの男の子はこれを愛読する一期間をへて成人したものである。
 私はそのなかで、真庭念流という独特の剣法を使う樋口十郎左衛門になんとなく郷愁に似たような愛着を感じていたものだ。
 上州の馬庭という寒村に、先祖代々念流という独特の剣法を伝える樋口十郎左衛門がすんでいる。代々里に隠れて、敢て立身をもとめない。門弟は主として里人で、里人みな剣を使う。里人のなかに四天王小天狗八剣士などというのがあり、他流の豪傑がこの田舎剣法にからかいに行くと、野良の百姓にコロコロやられてしまう。こんな村が実在したら、さぞ面白かろうと思わず郷愁に似た感慨を覚えるような物語なのである。
 ところが、この村が、そして剣法が、歴史的に実在したばかりでなく、今日に於ても尚昔日のままに実在しているのである。
 群馬県多野郡入野村字馬庭。そこに樋口家も、その道場も、また今なお剣を使う百姓たちも、そして四天王すらも、みんな実在している。
 高崎から上信電鉄という下仁田行きの電車で山峡の里にはいったところ、上毛三碑といって国史上重要な意味をもつ千何百年の石碑が三ツある。その三碑の所在するちょうど中程のところに馬庭という里がある。
 しかし、樋口家は三碑のように馬庭の里に千何百年の剣の歴史を伝えているわけではない。もとは木曾義仲を育てた樋口次郎から起っている。木曾に樋口村というのがあって、そこの出身である。恐らく長男が木曾に残り、次男が村をでて上州馬庭に至ったものらしい。しかし、木曾の樋口家には念流は伝わらない。念流はもっぱら馬庭の樋口家に当主で二十四代の血脈と流儀を伝えている。
 昔のままそっくり今も姿を伝えているというので、私は道場の新年鏡びらきの祝儀を見物にでかけた。
 なんとまア、今の世に、こんなほほえましい風景を見ようなぞとは夢にも思われないようなことであった。
 私は何気なく門をくぐったが、門につらなる物置のようなのが、実は昔のままの道場なのであった。
 門の中、庭先には、アメ屋や、オデン屋や、フーセン屋や、オモチャ屋などが店をだして、村の祭礼と同じようにピイピイ、ジャカジャカやっている。鏡びらき祝儀の試合はこの中に三十枚のムシロをしいて行うのである。昔からの例だそうだ。
 村の祭礼風景と同じようなのは当たり前だ。門弟はみんな村の百姓で、四天王も村の百姓だ。つまり馬庭では道場の祝儀にまさる祭礼はないわけだ。村をでて都会で家をなしている八十の老門弟もこの日のために帰郷してなつかしい剣を握る。感動が顔にかがやいている。
 門構えとそれに連る道場だけは物々しかったが、樋口家自身もたった四間の小さな百姓屋なのである。

 真庭念流の稽古では、今もって昔ながらの独特の面小手を用いている。白布に綿をつめたもので、むろん顔面をまもる金具なぞはない。胴もない。ただナギナタ相手の稽古に、スネに竹製の胴をつけることがある。小手は主として右手だけである。
 それというのが、念流は突きもなく、胴を払うこともなく、小手を狙うこともない。
 常にただ一手、身切りと称して真向から竹割りに頭上へ斬り下すだけである。
 また、それを受けるには、体をひらいて同時に敵のミケンへ斬り下しているか「まき落し」と称して敵のツバ元へとびこみ、こっちのツバ元をひっかけ、小手に小手をまいてひき落す、あるいは一瞬とびのいて空をきらせてひき落す。
 基本としては、ただそれだけだ。それが基本の全部であるばかりでなく、念流の殆ど全部でもあって、チャンチャンバラバラの打ち合いが完全にないのである。
 つまり、徹頭徹尾、真剣勝負用のもので、一撃で相手を倒すか、相手の一撃をかわして倒すか、それだけの稽古である。
 そういう剣法だから、今のチャンチャンバラバラ用の剣法とまったくちがって、だいいちに、すくなくとも三間以上はなれて向い合う。そして、三、四間はなれたところから、ジリジリと間をはかって、一撃に決する。
 したがって、構えが特に独特のうちでも独特で、基本の構え、そして一番普通の構えを「無構え」と称する。
 右足を前に出して膝を九十度に折り、左足は後にグッとひいて、ややオリシキに似ているが、あれよりも後足がグッとうしろへ引かれていることと、後足の膝が地についていないところが違っている。
 つまり、百メートルを全速力で疾走する人の瞬間写真のような姿で、その瞬間の姿は宙に浮いて走っているが、真庭念流の場合は両足が地についているだけの相違である。
 力はその足に、特に後足にこもっている。いつでも地をけって飛びだす柔軟性をひそめて全部の力の支点となっている。
 木剣はやや腕をまげて軽くひきつけて横に倒してかまえている。野球のバットを腰に構えたように横に木剣を倒して持つ。まだ力は木剣よりも足にかかっているのだ。速力が全部なのだ。それが真庭念流の構えである。
 フシギな構えであるが、実は怖しいほど実用的な、理にかなった構えなのかも知れない。こうして、ジリジリと間をはかって、一瞬に三、四間の間をつめて一撃に勝負を決する。一撃に敵をうつにも、敵の一撃をかわして仕止めるにも、一番都合のよい構えかも知れないという気がした。
 しかし、一見、変なヘッピリ腰で、いかにも、野良の百姓がクワやスキの片手間に会得したような風変りなものに見えるから、ヘッピリ腰の百姓剣法などと他流に笑われ易かったらしいが、実はアベコベで、これぐらい真剣勝負だけ考えて、必殺を狙った剣法は珍しい。その必殺に凝った激しい狙いが、逆にヘッピリ腰の百姓剣法に見えるだけなのだ。

 真庭念流の道場には豪傑然とした、また武芸者然とした人が一人もいない。二十歳から八十いくつまでの高弟全部が集まっていたが、七十をすぎている人も数名はおる。いずれもただの里の人々である。
 今まで握っていたクワを捨て、手足と顔を洗って、折目のついた縞の着物に着代え、木綿のゴツゴツした袴をはいて現われてきた人たちで、まれに一、二名紋服を着ていた老人もいたが、多くの老人は生涯紋服を着たことのなかった人であろう。最高の晴れ着といえば、折目のついた縞の着物で、いまそれを着て、袴のモモ立ちをとって、木剣を握っているのである。
 平々凡々たる農民たち、むしろよその農民よりも人相のやわらかな老いたる農夫たちが、ひとたび木剣を握って「無構え」に構えた瞬間、唐突に人相が一変してしまう。
 念流に限らず、昔の剣法は「ヤッ、トォーッ!」というカケ声を使ったものらしい。江戸のころは剣術をヤットオといい、剣士をヤットオ使いといったものだ。そのヤットオというカケ声を私は生まれてはじめてここで聞いた。
 極意書を見せてもらった。虎の巻、獅子の巻、竜の巻、象の巻、犬の巻などがあって、虎の巻が最後の奥許しである。私は虎の巻の内容を見たのは生まれてはじめてのことであったが、念流の場合は、主として剣を使うに当たっての礼と作法を説いたもので各条の下半分はシッタンという梵字で書かれたダラニ様のものであった。ダラニの末尾は全て「ソワカ」という言葉で終っていたようである。
 天正年間、今から三百七十年ほど昔に、真庭念流八世又七郎という人が四代中絶していた念流を偽庵という隠士から伝授をうけた伝書や、その先代が柏原肥前守から神道流の伝授を受けた伝書など調べればまだいくらでも出てきそうな古文書が、破れほうけた古ツヅラ三ツにギッシリつめて無造作に押入れの隅にほうりこんである。
 なくなりもせず自然にたまったから保存してあるというだけのオーヨーな無造作加減で、それは官に仕えず、代々里に伝わったために、おのずから保存されたオーヨーな筋道を語るものでもあろう。
 また、樋口家そのものが、二十四代剣を伝えるとはいうものの、立派なのは道場だけで、豪農でもなく、中農ですらもない。小部屋が四ツあるだけのただの小百姓にすぎないということも、おのずからに全てが保存される原因であったかも知れない。
 二十四代も伝わる剣の教祖の家が小百姓のままだというのは素晴らしい話じゃないか。だから、また、馬庭の里の界隈では、あらゆる里人、あらゆる百姓の魂の中に正しい剣が生きつづけてきたのであろう。正しい生活として、正しい趣味として、正しい誇りとして生きつづけてきた。今もなおつつましく生きている。亡びることのない生活として。
 こんななつかしい里が、昔あったことすらも異様であるのに、今も実在するというのは、素晴らしいことだ。

 常人と狂人の差は程度の問題だといわれているが、職業上個人の思考や行為の振幅が常態以上に大きいことを必要とする立場の人たちは、職業上の立場と個人の立場が混線して、個人の狂気が判然しない場合などがある。
 たとえばヒットラーはその破壊面から狂人のように描かれたり考えられたりされ易いけれども、その建設面から見れば天才と称せざるを得ない。
 しかし、天才とは狂気の同義語でもあって、ヒットラー狂人説を否定することも不可能であろう。
 だいたいにおいて一代にして名をなした独裁者のような偉大な成り上り者は概ね天才的な人物であるから狂人と紙一重の危険人物と考えてよろしいかと思う。
 したがって、彼なくしては為しがたかったような建設的な業績を残す代りに、狂気の所産を置きミヤゲにする場合もすくなくない。歴史を読んでいると、ここのところは狂気の所産と判断せざるを得ない場合を見出すことが多いものである。
 歴史的に考えても、独裁者は概ね狂人的と見てよろしいようだ。そのために、せっかくの業績をのこしながら自らをもまた人民の生活をも破滅にみちびいている場合が少くない。
 要するに、独裁という様式が、彼の天才を生かし易い代りに、彼の狂気をも生かし易いところに欠点があるのであろう。狂気を押えるブレーキの機構を設ければ、彼の天才を押えるブレーキにもなり易いから、とかくヤリクリは面倒なものだ。
 日本の独裁者で誰がどのような狂気を行っているかというと、まず豊臣秀吉の朝鮮征伐をあげることができる。
 秀吉は愛児鶴松を失ったときに発狂状態になった。常態を逸してフラフラと有馬温泉へ保養に行き、鬱々たる十数日の物思いのアゲク突如として朝鮮征伐を発令したのである。
 この命令は、当時においても秀吉の発狂の産物だと世人にもっぱら取沙汰されたことは、当時の文書に見かけることができる。町人たちからそういう批判の声が起ったというのはよくよくのことで、前後の史実から考えても、狂気の所産と見るべきもののようだ。
 もとより朝鮮征伐というよりも、明との貿易再開ということは秀吉のかねての念願で、その志は早くあったし、またその志は真剣でもあった。その志が深くまた真剣であるために、狂気に飛躍したときに行ってしまう。
 しかし、彼が望んだ最大のことは明との貿易で、それによって巨万の富を手に入れたいのが目的であるにも拘らず、それが戦争目的の上には常にヒタ隠しに隠されていた。
 今なら貿易とか経済問題が最大の戦争理由となることは常識であるが、当時においては、そうではなくて、開戦に必要なのは他の大義名分であった。今度の太平洋戦争においても実は経済的に追いつめられて開戦しながら、大東亜理念という宗教的な大義名分を真向うにかかげたところを見ると、これは日本の性格的なものかも知れない。ところで秀吉の狂気は、信長の遺伝のようなものでもあった。

 信長がひところ切支丹キリシタンの最大の保護者であったことは人に知られているが、晩年に於て切支丹の敵となり、外国宣教師の呪いをうけていることは案外知られていない。
 なにぶん信長の伝記作者の目から見ると、切支丹の問題はさしたることではなかったから、具体的にどんな弾圧をしたかということはよく分らないが、外国宣教師が本国へ送った報告によると、信長が悪魔にみいられて信教の敵となり、そのあげく奇妙なことを発案し実行しつつあるように伝えている。
 それによると、信長は安土城内に総見寺をつくり、その本尊として釈尊ではなく、彼自身の像を飾ることを考えている。信長は日本中の人間に自分の像を礼拝させる野望にみいられて悪魔になったというのである。
 安土城と総見寺が完成して今日に残っていると嘘か本当かも分るし、とにかく信長というはなはだ独創的な人物の独特の着想も知ることができるのだけれども、わずかに土台ぐらいしか残っていないから、何も分らない。
 しかし、切支丹教徒の邪推にしても、信長が自分の像をお寺の本尊にして、日本中の人間に礼拝させる野望につかれているというのはいかにも独創的で面白い。邪推としても独創的であるし、本当としても独創的だ。どっちにしても痛快的にバカげている。
 信長は一面非常に謹直で合理派で現実主義者でありながら、宗教を軽蔑しつつ独特な角度からいつも宗教と甚だ密接につながっていたり、晩年に至ってまだ日本の半分も平定しないのに支那、朝鮮の征服を壮語したり、また明智光秀と妙にモツレた友情をもつに至っている点など、彼の性格に於て狂気と紙一重のところにあるものか、晩年における狂気の事実を考えさせるものがあるように思う。
 彼の一生の行跡では喧躁なほど開放的なものと、蓋を閉じた貝のように陰気なものとが交錯していて、一見して彼ほど激烈で狂的な独裁者は日本の史上では類が少いように思われる。
 徳川家康は温厚な古狸のように考えられているが、彼の側近の記録によると、自分に不利なことが起ると、たちまち顔色が蒼ざめ、ボリボリ爪をかむ癖があったという。そして、さてははかられたか、もうダメか、なぞと独り言をつぶやき、一時的にウワの空の状態がつづいたという。関ヶ原の時なぞも金吾中納言の裏切りが起る直前までというものは、味方の旗色が悪かったので、彼は全くテンドウし、蒼ざめて独り言を云いながら爪をかんでいたそうである。
 平凡で小心なタイプであるが、こういう人が天下を握って家をまもるという段になると、やたらに近親を疑って謀殺に励まざるを得ないような狂気も察せられようというものだ。
 もともと狂的な人がエラくなっても、凡人がエラくなっても、権力を握るということは、なかばキチガイの門を開くことを意味するのではないかと私は思う。
 他の時は知らず、特に昨今においては、世界も日本もその傾向はなはだいちじるしいように私は思っているのである。

 昨夕フラリと浅草へ遊びに行った。ちょうど一年目だ。自然、淀橋太郎とか森川信というような浅草生えぬきの旧友と飲み屋で顔が合う。話は自然に余人の旧悪に及ばず、主として拙者の旧悪のみが酒の肴となるのは不徳の致すところであろう。
 なるほど人にいわれてみると、私はバカの仕放題をしてきたようである。その一端を御披露に及び、諸賢の興を添え、あるいは興をさますのも、バカの務めの一ツかも知れない。それは九州に多少の縁がある話でもある。
 それは戦局不利に傾きつつある大晦日のことであったが、私は徹宵泥酔に及んで某女優に数時間にわたって結婚の儀を申し入れて叱られるような賑やかな出来事があって、そのアゲクに塚本のデブチャンという非常に義侠心に富み、働けど働けど女房に軽蔑され、また常に失恋しつつある人物にいたく同情をかい、彼の無尽蔵の悪酒をジャンジャン提供されて元日を迎えたのである。
 元日も朝から晩まで飲んだアゲク、この義侠心に富むデブチャンとつれだち、かの大根女優が主役をつとめている国際劇場へ、大いに彼女の美徳をたたえ、声援を送りに、一升ビンをぶらさげ、デブチャンの自転車に相乗りしてでかけたのである。このデブチャンは泥酔すると人や大荷物をつみあげて自転車を運転してみせる悪癖があり、また奇妙に運転がタシカであった。
 淀橋太郎の説によると、私は上衣をぬぎ、ワイシャツ姿で舞台後方に現れ、
「ウマイ、ウマイ」
 といって、三十分間ほど休みなく拍手を送って大根女優を声援し、益々彼女の軽蔑を買い、劇場をなやませて疲れを見せなかったそうであるが、どういうワケだか私にも分らないが、ダンシングチームの楽屋を訪れ、
「諸嬢の芸は未熟である」
 と訓辞をたれ、次にはるか舞台天井の鉄筋の上へあがってしまった。
 そこで私は気がついて、さてはここで落命致すかと泥酔しながらも心細い思いをしたが、妙に楽々と元へもどることができた。
 そのときは無事であったが、すぐそのあとで燈火管制の道を歩いて、防空壕へ落ちてケガをし、一チョウラの洋服のズボンの膝を半分の余もさいてしまった。
 こうして仁侠に富むデブチャンにだけは益々見放されることがなく、非常に彼を憎みまた軽蔑している女房のもとへ悪酒を盗みに忍ぶようなことをして三が日をともに祝った。
 ところがこのデブチャンは天下に稀れな働き者で、二日の早朝にはもうちょっと座を立って浦安から小魚や貝を仕入れてきて、半分は愛人に与え、半分は夕方ちょっと座を立って商いをしてモウケてくる。
 しかも女房と愛人に徹底的に軽蔑されていたのである。
 こうして新年の三日間デブチャンの悪酒のフルマイをうけて半死半生となった私は、たしか四日朝、九州の炭坑へ石炭増産週間の一役をかって、膝のさけたズボンをはいて関門トンネルをくぐった。

 私のような無名の三文文士が戦時中の石炭増産週間の一役をかうとはおよそ柄にない話であるが、大井広介が北九州の某炭坑にユカリの人物で、彼は石炭増産週間につき中央の文士を炭坑夫の慰問ゲキレイに派遣するよう頼まれたが、然るべき文士にはたのまず、お酒や食べ物に不自由している友人のノンダクレや食いしんぼうを選んだのである。
 そこで檀一雄、半田義之、南川潤に私というテアイがヨシクマ炭坑その他へ姿を現すこととなったのである。
 その日北九州は積雪十五センチ。
 ところが新年の三が日半死半生の悪酔いによってミソギをした私は、北九州の炭坑においては大そうリリしく立働き、文士も一かどのサムライであるというような声価を高めた。人は見かけによらないのである。
 檀君らは、小生を最年長の故によって、事々に代表者とあがめ、ために私は雪上にハダカで演説もしなければならなかったし、坑内千五百尺の底においてアッサク空気のドリルをつかい、またダイナマイトを爆発させなければならなかった。ところが私は戦争で気がたっていたせいか易々これらをなしとげ、まったく動じる色がなかったので、採鉱課長が公式の席において「坂口氏は当炭坑が坑夫として採用したい唯一の人材である」というような讃辞を呈し、私はまたそれに答えて
「落盤事故がなかったのは、小生のイカンと致すところである」というように述べておいた。
 私にダイナマイトを点火してごらんなさいというので「当炭坑において、一人の坑夫が一時にダイナマイトを点火した記録はなん発であるか」
「およそ二十発であろう」
「しからば余も一時に二十発点火いたそう」
「強がってはいかん。すでに貴公の顔色は変っている。特に貴公の名誉を考え、四発を点火していただく。導火線は本来二分チョッキリで導火するものであるが、目下は芸者がそれを作っているから不揃いで、一分二十秒から二分まで、四十秒もひらきがある。注意したまえ」
 そこで四発のダイナマイトをつめはじめると、とたんに檀一雄を先頭にして、採鉱課長をのぞく全員が百メートルも逃げてしまった。その逃げ足の早さはおどろくべきものがあった。
 私はそれまでの生涯においても、その後の生涯においても、彼の人物はもっとも能なしの、用にたたない人間である、と万人に折紙をつけられてきたが、北九州の炭坑においては、連日ハダカで積雪をふんで坑内へくぐり、彼のみが役に立つ唯一の人材であるといわれた。まさしく生涯に一度だけのことらしい。
 あるいは正月三日デブチャンの義侠の悪酒で半死半生のミソギを終えて直行したのが効果があったのかも知れない。

 今期の芥川賞選考委員会に、二つの放送局から録音の申込みがあったそうだ。芥川賞の審査内容を具体的に報告しろというような文芸批評家の意見が諸々にあがっていた折であるから、これも世論の一とみて一度録音してみるのも面白いかも知れない。どうせ一度で終りになるのはわかっている。交替に演壇に上がって演説するのと違って、銘々が自分の席でしゃべる。文士は演説的にしゃべるように心得がないところへ芥川賞の選考委員は選りに選って言葉のはっきりしないのが揃っている。
 宇野浩二氏のように一間離れても聞きとれないようなひとりごとをつぶやくような人もいるし、全然他人の発言と連絡なく電光石火の一言を叫んだと思うと沈黙してしばし語らぬ人もいるし、しかもそれらの議論が一名ずつ別個に行われるわけではなくて「それもある」と合槌を打つ人「それはつまらん」吐き捨てるようにつぶやく人。同時にいろいろの雑音が重なり起って、しかも、それを単に雑音と思うと大間違いで、それはつまらん、というつぶやきがその人の掛値なしの全部の意見であったりするから、それを録音で聞きとることができる道理がないのである。
 なにがなにやらわからないという見本までに一応録音してみるのもお慰みかと思うが、主催者の日本文学振興会では、技術的に録音不可能の理由で拒絶したとの話であった。その方が怪音を未然に防いで、なお結構であったろう。
 文士というものは、筆の上で偽わることのできないのが持って生まれた性根なのだから、各選者の選後評というものを読めば、選考事情はそれで一目瞭然なのである。
 しかるにそれを読んでいながら、なお選考委員会の内容を具体的に報告しろなどという批評家は、文章を読むことを知らない人間だといわざるをえない。
 今期の芥川賞には、森鴎外の小倉滞在中の日記をテーマにした九州在住の作家の作品が当選作の一つとなった。
 ところが、この作品が選考委員会で論議されているうちというもの、小倉日記はオグラ日記と発音されていたのである。
 私のような無学者は例外として、芥川賞の選考委員は言葉についてははなはだ深い造詣の持主が多いのである。
 九州の人がきけば小倉をオグラと読みながら造詣もウンチクもあるまいと思うであろうが、早い話が、小倉百人一首というように、実は小さな倉と書いてオグラと読むのが一般的なのである。九州小倉という地名の読み方に歴史的な重要性というようなこともないようだから、偉い先生方がその読み方を知らなかったといってとがめるわけにゆかない。
 むしろ、日本の地名や人名のわずらわしさ、また、そのわずらわしさを生み出している漢字の罪の深さというものを痛感したのであった。

 あるとき尾崎士郎のところから使いが見えて、九州鹿児島から人が来て、西郷どん大好物の「酒ズシ」というものを作ったから食いにこい、というので勇んで出かけた。
 漁師や山男のサシミ、焼魚、焼肉の類でも料理で通用するのが日本料理であるが、西郷どんの大好物はそれらに比べて手がこんでいるけれども、料理といってよいのかどうか、乱暴千万な食べ物だった。
 私の食った酒ズシは一升のメシに一升の酒をぶちこみ、いろいろのイキのよい魚をぶちこんだものであるが、どうもメシが酒くさすぎるのが玉にキズで、そこがキズなら外に取り柄がない。三ツ一しょにしてこんな酒くさい食べ物をつくるよりも、一升の酒をイキのよい魚で一パイのんで、あとで一升のメシを茶漬けでカッこむ方がうまかろう。すると自然に腹の中で酒ズシができる。
 三ツ別々に食っては月並みだ。もっと文明開化の料理らしく複雑に手のこんだものを作ろうじゃないか、というので酒と肴とメシを一しょにして料理にしたツモリかも知れないが、腹の中で自然にできるものを、先に慌てて作ったという気がして仕様がない。
 もう一ツ私の閉口した料理がある。カニミソという奴だ。口のまがるほど辛いのはまだよいが、トゲがさして痛くて噛めない。私はあれを食った時に、九州の豪傑どもはうまいというのと痛いというのと混同しているのじゃないかと怪しんだ。九州では痛いというのも味覚のうちで、チョイとナイフで腕を斬って、血をすすって「うむ、これはいける」とたのしむ。そういうような心境が発達もしくは転化して、カニミソに至って極まったところへ、白秋先生が誕生したりしていよいよ天下の大事になったのではないかという風に空想したのである。
 ある料理をすすめて客人にもてなす。「いかがですか、うまいですか」「ハ、ちょっと痛いです」というような会話の発生しうる場合は、カニミソのほかにはめったに考えられないばかりでなく、カニミソにおいては、そういう会話の発生するのが当然なのだから凄味がある。
 しかし、この二ツの珍妙な食べ物は、いかにも愛嬌があって食べてみると、バカバカしかったり、痛かったりするだけだけれども、そのもたらす余韻というものは、たのしく、また、なつかしい。
 一ツはいかにも手がこんで、文明開化の如くだけれども、腹の中で自然にまとまるものを先に慌てて作ったオモムキであるし、一ツは野蛮そのものの如くであるが、実はむしろカニそのものに噛みつくよりも一歩料理に近づいているのかも知れない。
 善良で素朴な魂が自我流に編みだした独特の通味というより仕方がなく、私は時々、酒ズシとカニミソが九州という善良な魂のような気がして仕方がない時があるのである。

 信州松代藩主に真田幸弘という殿様があった。
 家来の一人に大そう小鳥好きがいて鳥カゴに小鳥を飼って愛玩していたところ、ある日殿様に呼出され、ちょうど鳥カゴと同じようなカゴの中へ入れられてカギをかけられてしまった。
 時間が来ると誰かが水とムスビを差入れてくれる。やがて殿様が現われて
「どうだ、外へ出たいか」
「はい、出とうございます」
 と家来はポロポロと涙をこぼして答えた。
「そうだろう。出たいであろう。お前は小鳥を鳥カゴへ入れて愛玩しているそうだが、小鳥の身になってみるがよい。今のお前と同じことだ。どうだ、わかるか」
「ハイ。よく、わかりました。さっそく小鳥を放しますから、ゴカンベン下さいまし」
「それならば今回は許してつかわす」
 と放してもらったそうだ。この殿様は名君のホマレ高く、その名君の業績を臣下が録して世に残した本に『日暮硯』というのがある。この話はその本の中に名君のホマレ高い行いの一つとして述べられているものだ。
 今の世にこれを名君と思う人はある筈がない。天下のバカ殿様と思うに決まっている。
 ところが『日暮硯』という本はなかなか愛読された本で、戦争中には大衆向きの文庫本の中にまでこの本が印刷されていたものなのだ。
 ノド元すぐればで我々はもう忘れているが、戦争というものは、このような天下のバカ殿様が名君になってしまうほど怖しいものなのである。
 ところが徳川時代には、事実において、これが名君で通ったのだから、民の生活というものは陰惨で救いがたい。立派な大身の士ですら小鳥を飼うこともできない。百姓や女子供にノビノビと自由をたのしむことなど一瞬といえどもありえようとは思われない。
 ところが、これがまた素人考えというもので、町人百姓はずっといじめられ通しでいながら、実は侍のもたなかった自分のタノシミや文化というものをいつもちゃんと持っていた。下は盆踊から上は天下の芸術に至るまで民は殿様の鳥カゴの中に入れられながらも自分の文化を放したことはないのである。
 むしろこのようにいじめられてひそかに身につけた自分だけの秘密の文化というものは自由に許されたものよりも香りが高く、独特な風格を持つにいたるのかも知れぬ。
 私はそのようなものの現代版として宝塚少女歌劇を思うのである。
 女大学の風潮が現代まで残存して日本の少女をいためつけ、いびつにした産物として現われてきた奇形児の如くでもあるが、同時に、それ故にひそかに、まためざましく生育した独特な芸術でもある。
 日本の男子はこれを軽蔑してまだ見ることすらも知らないけれども、実は歌舞伎もこれに及ばず、ストリップもこれに及ばない。
 なぜなら少女自身が少女の意中の男子を表現しているからである。それは壮大で、正しくて、完全で、男が見ると泣きたくなるほどりりしいものだ。この上もなく健全な夢の世界である。そして、美しい。ヒゲの男子は一見すべし。

 田舎の人は西洋の映画を見ると筋がわからないという。その理由は簡単なようだ。
 たとえば一人の男が失業して街を歩いている、レストランのショーウィンドに求人のはり紙を見て扉を押して消える。つぎの場面にはもうコックとかボーイとかの姿で現われている。これがわからないのだ。
 日本の映画の場合はレストランの扉を押して消えるとつぎに受付で支配人はいますかというやりとりから、さらに支配人に会って雇われる筋道がみんな現われてくる。こういう手続きを順々にふまないと田舎の人にはわからないのであるが、これは映画の本筋には無関係なことで、これまでくどい手順をふんで田舎のセンスに順応するというのは芸術としては非常に退歩だ。
 イタリア映画にも、日本映画に似たような田舎くさい、のろまなセンスがあり、やたらにリリシズムに陶酔したがるところなどもよく似ている。同格のレベルといえよう。
 フランスやアメリカには、こういう泥臭ささがさすがにない。全般的にレベルが相当違うようだ。私は戦争中日映というニューズと文化映画、宣伝映画などを作っている会社につとめていた。ここは海外への映画宣伝工作の元締めだから海外の映画もここに集まる。しょっ中試写をやって関係者がそれをみていたが、私が見たのではマレー映画というのが実にはなはだしく退屈きわまるものではあるが、これくらい独得なものは二つとない。なんとも珍無類なものであった。マライ映画は普通二十五、六巻から三十巻ぐらいの長さで物語の筋は単純きわまる恋愛物語だけれども、飯を食ったり、顔を洗ったり、洗濯したり、日常の当たり前のことをするのに大部分のフィルムを使う。
 アリババと四十人の盗賊の映画も三十巻ほどの長さで、まずアリババが目をさまし、顔を洗い、朝食をとりながら兄と口げんかするのに何巻もかかってしまう。
 マライ人がこういう映画をつくって、みずから楽しんでいるから日本映画をもっていって見せても、テンポが早すぎてわからないといっててんでうけなかった。そのかわり日本映画に食事の場面や顔を洗う場面、寝床などであくびをして目をさます場面などがあると、ああ、やってるやってると、わあわあと拍手喝采だそうである。
 もう一つ面白いのは、マライ映画はたいがい恋愛が悲恋に終って、めでたしめでたしのあべこべに終るばかりでなく、例外ないほど一方が自殺してしまう。ながいことかかってさんざん涙の袖をしぼらせてあえなく自殺するのである。ところが現地で多年の調査統計のようなものを調べてみると、マライ人にはほとんど自殺するということはない。つまりマライ人は絶対といっていいほど自殺することのない人間なのだそうだ。
 そこは映画もよくできていて主人公が自殺する、すると暗転、寝室の場面が現われ主人公がふっと眼を覚ます、いまのは夢だった、めでたし、めでたしと本当の終りになるのである。
 映画による文化の序列をみせられるようで、変な悲しい気がしないでもなかった。

 皆さんが世界漫遊にでかけて恐らく日本人が誰も行ったことのないようなモロッコとか、さてはコンゴーのジャングルの土人から、コシマキのようなものをミヤゲに買う。天下の珍品を買ったと打ち喜んで日本へもどると、日本の女の子がそれと全く同じ物をネッカチーフやスカートに用いているので、目をまわして、しばし気絶してしまうことになる。アフリカのミヤゲ物は買わない方がよいのである。
 桐生の織物組合長S君は私のゴルフ仲間で飲み仲間でもあり、また彼は素人考古学者、江戸文学素人大家等々、甚だ賑やかな人物である。彼は戦争前も戦争後も一貫して外貨カクトクの貿易用織物以外は絶対に作らぬという意地を通している。貿易が杜絶えて大貧乏におちいっても国内物を作って一時をしのぐというミジメなアガキをしない。歯をくいしばって貧乏の意地を通すのである。
「意地じゃアねえよ。奴の機械はタケが長くて国内物に合わないからだよ」
 と商売仇は陰で悪く云うけれども、とにかくこの人物が一質して得体の知れない製品に打ちこんできた情熱というものは、ドンキホーテの生涯に通じる雄渾な悲哀があってアダオロソカにはできないものがあるようだ。
 あるときイエメンの宗教大臣から直々の註文がきた。註文主から考えてもイエメンの宗教用の織物に相違ないが、その中に二種類だけ非常にデザインの秀抜なものがあった。S君はシメタと思った。
 なにしろ勝手知らぬ異境の人を相手の取引きのことで、一番閉口するのはデザインだ。どういうものが愛されるか、という段になると、フランス人だのイギリス人相手なら目安がつくけれども、イエメンだのモロッコだのコンゴーのジャングルときてはだいたい見本が一ツも手にはいらない。そこへイエメンの宗教大臣から秀抜なデザインの註文があったから、さっそくこれを盗用することにして、註文の何倍も製造して、各貿易商やアフリカの取引先に見本を配って、今か今かと註文を待った。いつまで経っても註文がこない。
 そのうちイエメンの人に会ったから、盗用した二種類の織物を示して、
「これ、どうしてよそから註文が来ないでしょうね。すばらしい花模様だが」
「それ、花じゃないよ」
「これが花弁でしょうが」
「イイエ、イエメンの王様の誕生日のお祝い、とかいてあるそれは文字だよ。誕生日の記念品だ。署名入りだから、ほかにだれも買わないのは当たり前だ」
「じゃア来年の誕生日、また……」
「年号もはいっているよ」
 S君、他の一ツをとりだして「こッちは字がないんですよ。こッちをもっと買って下さいな」
「それは今後十年間はタップリ間に合っとる。そう余計作っておく品物ではない」
「何に使うものですか」
「棺桶の上にかけて葬るものだ」

 その後、イエメンの王様の誕生日の祝い物と、棺桶のカケモノとがダンピングされて、日本国内津々浦々に行きわたって、ミーチャン、ハーチャンのネッカチーフやフトンなぞになったのはいうまでもない。イエメンの棺桶と同じ物をカケブトンにして安眠している日本人がいるわけだ。私のところでも、これでカーテンをつくることになっている。
 現在S君が作っているのはモロッコ行きの女の頭巾と、コンゴーのジャングルに住む土人のマフラーというものである。
 このマフラーは貿易用語で、中間の貿易商がかりにマフラーとよんでるだけのことだ。実はクビではなくて、頭にまくか、かぶるかするものだそうだ。つまりターバンとよぶべきかも知れないが、コンゴーの土人は回教徒ではないから、ターバンともちがって、たぶん独特なハチマキの締め方のような作法があるのであろう。貿易商も知らないし、S君も知らないのである。
 終戦後はモロッコ向けもコンゴー向けもアメリカのバイヤーが中間に立ち、アメリカ経由で貿易している。
「そんな変テコなジャングル相手の取引なんぞやって、あとで勘定がとれなくて泣きついたって知らねえぞ」
 とS君は事実に日本の役人や関係者に重々モットモな勧告をうけたそうだ。ところが案ずるよりは生むが易いとはこのことで、よそとの取引よりも早々とまたキチンキチンと勘定をくれるそうだ。
 モロッコには私にフランス語を教えてくれた山田吉彦先生こと「キチガイ部落」の作者キダミノル氏が行っている。
 しかし、コンゴーのジャングルにわけこんだ日本人は今に至るも絶無ではないかと私は考えている。もっとも去年、上野動物園の園長さんかが猛獣買いにアフリカへ行ったようだ。
 バイヤーの要求するコストの関係で安物の染料しか使えないから、モロッコ向けやコンゴー向けは雨に合うと色が落ちる。ところが、よくしたもので、色が落ちるといって苦情が来たことがない。
「なぜ苦情が来ねえのだろうな」
 とS君は考えた。どんな風に使われているのか一切合切わからないのだから、来るべき苦情が来ないのも心細さのタネになるらしい。
「モロッコやコンゴーは雨が降らねえらしいな。それに湿度が低くって、汗もでねえのかも知れないな」
「全身が真っ黒だから、色が落ちて身体や顔についても気がつかないのだろう」
「イヤ。黒い身体に珍しい色がつくから、喜んでいるのだ」
 勝手なことをいいながら作っている。天罰テキメンで、バッタリ註文が絶えた。
 こうなるとコンゴーの土人の代わりに安染料で顔にシミをつけさせられるのはミーチャン、ハーチャンだ。今や日本は山奥や浜辺においてもS君ダンピングのコンゴーマフラーが女の子の頭にまかれ、クビにまかれ、甚しきはスカートにも、ブラウスにもなっている。
 目の高い人はイエメンの王様の記念品や棺桶のカケモノの方を掘りだすべきである。

 檀一雄が石神井というところにちょっとした小粋な家を買った。いかにも当たり前の中産階級の住宅であるが、さてよく調べてみるといろいろ風変わりなところがある。
 私が泊っているうちに、夜ねていて非常に息がつまるので気がついたが、相当な住宅でありながら、欄間のようなもの一つもない。どの部屋もフスマを閉じると他の部屋からのぞかれるすき間がなくなるようにできている。その上、屋根裏に秘密の部屋ができていて、イントク物資を貯蔵するようにできているそうである。あるいはキチガイ的の人物の作品であろうと思った。
 こういう特別仕掛けの住宅を見せつけられた上に、なんとなく妖雲ただよう天下の形勢というものを横目でにらんでいると、イヤでも何か買いだめて次の戦争に備えを立てないとオクレをとって取り返しのつかないことになりそうな心細い思いになるのだ。
 ところが、私のように、平時に於て全然貯蓄の精神の欠けている人間というものは、戦争に備えても買いだめのできないように出来ておって、私が檀君のところに泊っている折、さきの戦争では一番タバコに困って往生したから、今度戦争があったらタバコだけは泰平楽してやろうというので、カンヅメのタバコを一日に一個買いだめることにした。
 ところが全然ダメだ。一ヶ月後には買ったタバコがどこかへ姿を消して一つも残っていないし、また新しく買うことも忘れている。どうしても買いだめの出来ないタチの人間というものは仕方がないのであるから、別の工夫をしなければならないと考えた。伊東の温泉療養所のお医者さんが戦争中催眠薬で雀をねむらせて捕え、大いに美食をたのしんだそうで、伊東の肝臓先生という医者が私にその実験をして見せてくれた。ゴハンツブにカルモチンなぞの粉末をたっぷりつけてお盆に入れて庭へだしておく。どの催眠薬もたいがい甘いものだから、雀はよろこんで食べる。けれども生憎あいにくなことに、スズメは食べるとパッと逃げてしまう癖があるから肝臓先生のお庭の中で眠らずに、よそのお庭へ逃げてから眠る。
 われわれはそれをよそのお庭まであちこち追っかけて二、三羽眠ったやつを捕えたが、眠るというよりも、死んでしまう。小さいスズメはゴハン一ツブにタップリまぶした粉末でも十分に致死量らしく、口から白いものを吐いて死んでしまうのである。大の男がよその庭を毎日スズメを追っかけて走り回るわけには行かないから、すくなくとも催眠薬でスズメをとらえるには、雀が食い逃げしてもなお自分の庭のうち、というだけの広い庭が必要で、ところがそういう広い庭があるほどなら何でも自給自足できて、雀を追ッかける苦労なぞは必要なしというものだ。
 むしろ鉄砲でも買っておく方が確実のように思ったが、私は短気であるから、ムカッ腹を立てたとき、もしものことを起すと大変だという心配があって、それも控えなければならない。
 そこへ耳よりな話がおこった。

 あるとき、私のところへ犬屋がやってきて、
「先生は犬の通だそうですから伺いますが、柴犬やもしくは小型の日本犬はポインターなぞよりも優秀な猟犬だそうですが本当ですか」
「それは訓練次第でそうなるかも知れないね」
「いえ、生まれつきですよ。実はね、この近所の百姓が飼ってる犬なんですが、夜中に外へ放すと、夜明けまでに必ず山の鳥を一、二羽つかまえてもどるそうで、おまけに自分では手をつけずに、まるまる主人に差出すそうです」
 この犬屋はまだ犬の素人だ。軍隊でシェパードを扱わされた経験で、戦後犬屋のカンバンだけは掲げたが、ずッと開店休業で犬屋ズレが全然ない代わり、素人にもだまされてしまうという頼りない犬屋であった。
 だから私は彼の話なぞは全くマトモに受けとらないことにしているのだが、この時ばかりは話があまり巧すぎるから半分外れても大したものだと考えた。
「それでその犬がどうしたのさ」
「その犬の仔を買わないかてんですが、親の性能を見なくちゃ何ともいえませんや。でまア、これから出かけるんですけど、先生一しょに、いかがですか」
「性能をしらべるッて、どうするのだい」
「実は私は泊りこんで、犬が獲物を持参するのを見とどけようというわけです」
「そんな悠長なのはオレはイヤだよ。じゃア君が見とどけて本当に優秀だったら、仔犬をオレが買ってもいいよ」
「そうですか。じゃアひとつ今晩徹夜でやりますから、吉報待ってて下さい」
 彼は金モウケの当てがついたから大そう張りきって出かけて行った。
 夕方彼はションボリ小犬をだいてもどってきた。
「早いじゃないか。どうしたい」
「ダメですよ。犬の商売人に一パイ引っかかるところでしたよ」
「犬の商売人て、君がそうじゃないのか」
「もっとほかに悪い商人がいるんです。私が目当てのウチへ行ってそこの柴犬のことをきいてみると、みんなウソなんですね。まアたまに鳥をとってくることはあるそうですが、それはよそで飼ってる鶏を盗んでくるんだそうですよ。その鶏を外で食べずに持ってくるのは自分の小屋で食べるためだそうです。その百姓が正直者で、悪い犬屋とグルにならずにみんな正直に云ってくれたから助かりましたが、これ、どうです。買いますか? 問題の仔犬ですが」
「よせやい。タネがわかれば、買うことはないじゃないか」
「タダくれたもんですからね。イヤにアッサリとタダでくれましたよ。どうも変だよ。まア、タダだからいいけれども、どうです。いくらでもいいですが、買いませんか」
「イヤだよ」
 この犬は後日大メシ食らいで有名になった。耳よりな話というものは、ろくなことがないものである。
 それでも私がこの犬の持主にならなかったことは大出来と云わなければならない。

 どういう風向きか知らないが、近ごろ法律なぞという堅ゾウが女性に甘くなった。
 フランスでは浮気の大臣を射殺した奥さんが無罪になったが、日本でもバラバラ事件が意外に刑が軽かったり、情夫の奥さんをチョイと注射で殺した女医がやっぱり十五年ぐらいの刑で、野郎ではとてもこうマケてもらえないようなことが多々起っている。
 御婦人に甘いのは結構なことで、私も別にケチをつける気はないのだが、殺されてバラバラにされた亭主の方は大迷惑で、テメエが悪いから殺されてバラバラにされたんだなぞと太鼓判を押された上に、まさかユーレイになって法廷へ申開きに現われるわけにもいかないから泣き寝入りとは踏まれたりけられたり、つらい話である。
 しかし、思うに、裁判という世界一番の堅ゾウすらも女に甘いのは、これは女がまだ至らないからである。女の子が男なみのことをやっているのは、情夫を殺したり、メカケを殺したり、亭主をバラバラにしたり、というような人殺しだけで、ほかのことではまだ一向にパッとしない。
 政治などでも、衰えたりとはいえ、まだ女代議士の先生が何人か健在でいらせられるはずであるが、活躍しているのは、もっぱら男の狸ばかりで、女の狐がいくらかでも天下をギョッとさせたようなことは一度もないじゃないか。
 たまにギョッとさせたことはあっても、酔っぱらッて抱きついて口説かれたとか口説かれないとかのバクロ演説では話にならない。女の子が酔っぱらッてズロースをかなぐりすてるようなことをすれば、天下の野郎どもがギョッとするのは当たり前のことで、人殺しと同じことだ。智恵のある芸じゃない。
 男女同権いらい、近来とみに女の子がカスんでしまったのは、どういうわけであろうか。
 野郎どもが狸だかイタチだかネズミだかわからないようなチョロチョロした小者ばかりになって、かりにも獅子とか虎とかワニとかウワバミのような大者がいなくなってしまった。
 こういう時こそ女狐なぞが豆狸やイタチの襟首をつかまえてダッキのお千かお万ぐらいの真価を発揮してくれそうなものだとひそかに期待したところが、そうはいかない。
 私が思うには、獅子とか虎とかウワバミというものはまだしも女に敵しがたいところがあるが、豆狸やネズミやイタチは女狐ていどを手玉にとるには至芸に達していて、女は全然カスまざるをえなかったのではないかと思う。してみると、泉山三六先生なぞは、やっぱりウワバミていどの大物かも知れないのである。
 目下日本の女の子は人殺しとストリップにおいてもっぱら天分を発揮しているにすぎないが、亭主をバラバラにしたり、ズロースをかなぐりすてて天下の野郎どもを驚倒させるのは、女の子なら誰でもできる下の下のことと心得るべきである。
 昔はケイセイといって、吉原のパンパンすらも城を傾ける怪力を発揮したものであるが、ちかごろの女は裁判という山ダシの堅ゾウをチョロマカす程度にすぎない。ああ女子衰えたり、衰えたり。

 私はたいがい旅先でアンマをとるので、北は奥州から南は九州まで一応アンマにもんでもらったけれども、アンマ術ばかりは日本全国同じことで、特殊な地域にローカルでユニークな流派が存在するということはないようであった。
 仙台から北の牡鹿半島のノドクビに石の巻という漁港がある。ここにまだ三十そこそこの女アンマがいて、自分勝手なモミ方をする。ツボを心得ているようないないような不確かな手際で、指圧ともアンマともつかなくて、それでも怪力のせいか気持がよい。
「今日は旅館の特別の頼みで来てやったが、本当は私はウチを出ることはない。毎日朝から病人がつめかけて押すな押すなの繁盛なのさ」
 と言っていたが、私の背中を散々探ったあげく、
「アンタの脊椎は右に軽く曲っとる。これが万病の元だから、これを真ッ直にするようにしなければいけない」
 モットモらしくそんなことを言った。そのとき文藝春秋社のN君がいっしょに居たが、私が寝たあと、彼に向って、
「アンタの同行者は脊椎の曲りを直さないと病気が治らない」
 と長々と一席ぶって戻ったそうである。その翌る晩もこのアンマをよんで訊いてみた。
「アンタのウチは代々この土地のアンマか」
「イエ、私は満州からの引揚者だ」
「満州でアンマをやっとったのか」
「収容所でアンマを覚えたのさ」
 なるほどと私は思った。終戦後、引揚げの途中にアンマ――主として指圧を覚えたという半分神がかり的な術者が多いのである。
 大磯にAさんという指圧がおって、あるとき、福田恆存と三枝博音両氏の紹介状をもって私のところへモミにきた。
 この人がやっぱり引揚げの途中に指圧を覚えたといっていたが、目下宣伝中だから安くするといって、毎週ノコノコ出張して大そう安くもむので、その後きいてみると私の知人の中で彼にモマれている人の数は少からぬようであった。
 この人々は殆ど神がかりのところはなかったけれども、引揚げの途中で指圧を覚えて開業したと云う人には、小石川の旅館でも、熱海でも会っている。神がかりと云って悪ければ、本人が治病の能力を自ら真剣に思いこんでいることが特徴であった。
 私のように、定期的に肩がこって、どうにも一週に二、三度はもみほぐしてもらわないと眠れないような人間は、神がかりの指圧にかかってもキキメがない。
 指圧のツボと、ハリのツボは同じであるし、灸点のツボはややズレているけれども、ハリの名人なら灸とハリのツボの相違もよく心得ているもので、結局ハリや灸にも心得のあるアンマの名人にもんでもらうのが一番よいのである。しかしそのようなアンマの名人は温泉地と花柳地に片寄って集まってしまい、ほかの土地ではなかなかうまいアンマが見当らなくなってしまった。要するに戦後日本のアンマにも大移動が起ったのである。

 私は終戦後どういうキッカケであったかわからないが碁、将棋、野球、ボクシング等々実に雑多な観戦記の依頼をうけ、まるで観戦屋という新商売の元祖の観を呈したことがあった。二代目が現れないうちに元祖も廃業してしまったけれども、なぜ廃業したかと言えば、こッちは碁将棋をよく知らないから、見ていても全然わからないのに、徹夜のオツキアイをするのは何とも辛くて仕様がないからである。いったん辛いと思い出すと、三十分のオツキアイも辛くなる。こッちが興味を失えば、碁将棋ぐらい見ていてつまらないものはない。
 そういう次第で、いろいろと時の大勝負、大試合を見物した中で、一ツだけ二度と見ることができそうもない珍勝負があった。
 呉清源と岩本本因坊との十番碁の第一局であるが、当時、呉清源をめぐってモロモロの十番碁が行われて、みんな呉清源の一方的勝利に帰している。そういう十番碁のうちで、終戦後における公式十番碁のトップを切ったのが、この岩本本因坊との対局で、ましてその第一局であるから重大な一局だった。
 ところが、この第一局は呉清源がコックリコックリ本当に居眠りしながら勝ってしまった。バカバカしいといったって、これぐらいバカバカしい対局があったものではない。あのときは、呉清源がまだジコーサマのお弟子のころであった。
 二人の対局棋士と観戦記者の私の三人は対局の前夜七時までに東京小石川のモミヂという対局場の旅館に集合して、その晩から対局の終るまでまる四日間門外不出カンヅメになる規定になっていた。
 このカンヅメは呉清源からの申出によるもので、呉清源がなぜこのような申出をしたかというと、今から二十年ほど前に当時五段の呉清源と本因坊秀哉名人とが対局したことがある。このとき呉清源必勝の局面が打ち掛けになったとき、坊門の棋士が総勢集まって研究し、前田六段(当時)がついに起死回生の名手を発見し、そのために碁がひっくり返って本因坊の二目勝になったという秘史があるからなのである。
 本因坊戦にはこういう因縁があるから、呉清源が要心深く対局者の門外不出絶対カンヅメを厳重に申出たのはモットモなことでもあった。
 ついでに観戦記者の私までがカンヅメになる必要はなさそうなものだが、私は一歩門外にでると、銀座へ消えるか、新宿へ消えるか、消えたが最後二、三日は行方不明という悪癖があって、碁の因縁とは関係のない理由によってカンキン状態にされてしまったのである。
 さて対局前夜の七時までに三人が集まって、一しょに仲よく夕食を共にすることになっていたのに、岩本本因坊と私が時間通り到着して、七時になり、腹ペコの状態で八時まで待っても呉清源が現れない。
 呉清源は支那の人らしく約束には甚だ固いんだからと安心しきっていた新聞社の人が念のため彼の家へ電話をかけてみると、意外にも、ジコーサマ一行が上京して呉清源をさらって行ったというのだ。

 当時ジコーサマは奥州津軽あたりの北の涯へ落ちのびて、神サマの一族高弟と信者全部ひッくるめても三十人ぐらいしかおらぬという哀れな勢力となっていた。
 北の涯へ落ちのびても、日夜近隣の大人、子供に投石されるような惨めさで、義経、ベンケイも北辺へ落ちのびてからはダメであったが、ジコーサマもそれ以下である。辛くも呉清源の対局料が命の綱で、彼が某新聞からいただいている専属料と対局料がいくばくかは知らないけれども、それに一文も手をつけず神サマに捧呈しなければならないらしかった。
 そして対局に上京という時には、東京までの切符は新聞社が送ってくれるから、呉清源は神サマから金三百円のコヅカイを下げ渡されて上京するのだという話が伝わっていた。上京中の費用一切と帰りの切符は新聞社がもってくれるから、その三百円もいらないようなものかも知れないが、月々大枚の対局料と専属料をもらっている呉清源が自分で自由になる金といえば上京のたびに下げ渡される三百円だけで、他は手をつけずに神サマに捧呈しなければならない。
 その呉清源がこのたび本因坊と天下分け目の決戦をするというのでジコーサマが一族全員ひきつれて応援に上京したというのだ。とはいえ、これはどうやら口実で、北の涯も住みにくくなったので、呉清源が天下分け目の大勝負を機に引き払って呉清源にオンブに来たのだろうと消息通は云っていた。
 ジコーサマ一族は突然上京して、呉清源の宿へころがりこんだ。そしていつものデンでいきなりマンマクを張って一家を占領しドンチャカピーピーお祈りをやりだしたから、怒ったのは宿主だ。
 この宿主は第三国人だかで、呉清源とは特別な縁故の人であったが、ジコーサマとは何のツナがりもない赤の他人であるが、あまりの乱暴ローゼキにカンカンに立腹して、家屋不法侵入占拠等々と警察へ訴えた。
 当時は占領後まだ日は浅い時で、第三国人の勢力が強い時でもあるが、ジコーサマの乱暴ローゼキが何と云ってもたしかに訴えの通りに相違ないのであるから、警察も放っておくわけにはゆかない。
 そこでジコーサマ一族を召捕って留置場へブチこんでしまった。
 もっとも、呉清源だけは留置場へブチこまれない。ブチこまれないのは当然で、彼もまた法律的には不法侵入を受けた方の被害者側であるから、彼をブチこむことはできやしない。けれどもブチ込まれないためには呉清源の大ハンモン、大苦難がはじまった。
 彼はなんとしても神サマ一行を留置場から助け出さなければならない。神サマの法難も自分の至らぬためという自責に苦しみ、碁をうつほかに何も知らない彼がトンチンカンな救出運動にキリキリ舞いをはじめたのである。
 幸い警察も呉清源に同情していたし、間に立って口をきく人もあって、ジコーサマ一行は一晩で放免され、新しい神殿をさがして、呉清源ともども横浜方面へ去ったという。それが本因坊や私が対局場で待っている日の出来事だ。それ以来、呉清源の行方が知れなくなったし、ジコーサマの行方もわからないという。

 私たちは諦めて八時ごろから夕食をはじめ、呉清源がどうなることやら、うっかりすると明日の対局もおぼつかないような状態になってきたから、夕食を早めにきりあげて、私は早くねてしまった。
 主催の新聞社の驚きは大変なもので、呉清源は支那の人で本来約束に堅い人だからというので安心しきっていて、ジコーサマの上京を知りながらも早めに手を打たせなかった。しかし気がついてみると、相手がジコーサマだけに、呉清源には約束を守る自由すらも許してもらえないだろう。今夜のうちにジコーサマの行方を突きとめて呉清源を連れ出さないと、明日の天下待望の対局がオジャンになるとその時になってようやく気がついた。
 そこで新聞社の全機能をあげてジコーサマの行方を追いはじめたが、我々の食事中にも往復している刻々の通報はいつも形勢非で、ジコーサマの行方は全く手がかりがなかった。
 実に二十名ちかい奇怪な一行が、逃げ隠れするワケではなく、人よりも物々しく道中していても、判らない時には判らないもので、夜半になっても遂にジコーサマの行方は誰にも突きとめられなかったのである。
 けれども、夜半ちかい十一時半、呉清源はただ一人、風のようにモミヂ旅館へ姿を現した。ヨレヨレの国民服をきて、長さ一尺足らず、幅四、五寸の手垢でよごれたズックの小さなボストンバッグを手にもって、疲れきって現れたのである。
 そしてワアッという泣かんばかりの女中たちの歓声に迎えられ、座敷へみちびかれると、カモイの下をくぐって一足ふみこむや、突ッ立ッたまま、ただ一言
「オフロ」
 と云ったそうだ。
 岩本本因坊は翌朝七時ごろ目をさまして私と朝食をとったが、呉清源は八時をすぎてから、ようやく起きてきた。
 私たちが食事中のところへズカズカと出てきて、食卓の上の物を鋭い目でジッと見下していたが、
「ミソ汁にタマゴを落して。ゴハンはいらない」
 と立ったまま女中に云った。
 まったく蒼ざめてショースイしきった顔である。彼は女中をよんで自分の部屋から例のフトコロへ入りそうな小さなボストンバッグを持参させた。
 そのボストンバッグから、まだ青くて小さなリンゴを一ツとりだした。恐らく津軽出発に当ってジコーサマが与えた食べ物であろうけれども、ほかならぬリンゴの国から来ていながら、これはまた何たる貧弱なリンゴであるか。一口にスッポリはいるぐらい小さくて青いリンゴだ。
 あまりの哀れなリンゴに我々が茫然と見つめていると、目ざとい女中が、
「リンゴでしたら、この旅館にもございますから」
 と、大急ぎで大きな赤々と立派なリンゴをもってきた。呉清源はそれを食べ、タマゴを落したミソ汁をのんで朝食を終り、定刻九時にややおくれて対局がはじまった。

 握った結果、呉清源の白番ときまった。このとき岩本本因坊が、いかにも困ったナという顔をしたのが印象的であった。互先の十番碁であるから、コミナシである。さすれば黒番絶対有利だから、黒番ときまった本因坊のいかにも当惑したような顔がフシギであった。あとで本因坊に訊いてみたら「こういう重大な対局の第一局というと堅くなりますから、負けてフシギのない白を握る方が気持が楽で打ちよいような感じがするんですな」ということであった。黒番だと是が非でも勝たなければならないという気持に追われるのが苦痛で不利だというわけだ。
 たしかに勝負というものは、そういう気分でかなり支配されるもので、秀策流に黒番絶対というわけにゆかないものであろう。呉清源が宗教に走らざるを得ないのも、勝負というものが黒番絶対というような理づめだけで扱いきれないものがあるからに相違ない。
 しかし、本因坊の当惑顔がいかにも受けた打撃が深刻らしく甚だ印象的であったから、先手後手だけのことでこれほど心が動くようでは本因坊が危いのではないか、ということが何より先に感じられてならなかった。それというのも、その当惑顔が白番に当ったためではなく、そのアベコベだということがどうしても私の胸にひッかかるからであったろう。
 黒番に当ったための気持の上の不利ということも分るけれども、白番に当ったための事実上の不利の方が精神上だけの不利よりも確実な不利であるから、どっちに当ったにしても、これほど深い当惑顔をしなければならない本因坊にバランスを失した弱点があるように感じられて仕方がなかったのである。
 しかるに対局がはじまってまもなく、誰よりも盤側に控えている私が一番先に気がついたのだけれども、本因坊が負けるなんてとんでもない、てんで勝負になりゃしないだろうと即断しなければならないような事態が起った。本因坊の手番の間、呉清源はコックリコックリ居眠りしているのである。
 だいたい碁打というものは相手の手番のときでも盤面を見つめて顔をうつ向けにしている。呉清源は特に片手もしくは両手をタタミについて盤面の上にかがみこむ習慣であるから、ちょいと見た目には居眠りとは気がつかないが、よく見ると、まごう方ない居眠りだ。時々ハッと目をあける。そして、さッと便所へ立つ。しきりに便所へ立つ。それは小用のためではなくて、顔や目を冷水で洗ってくるのに相違ない。
 戻ってきたときは、いかにも目がパッチリしたようだが、坐るとまもなく、またコックリコックリ自然にやりだしてしまう。
 恐らくジコーサマの上京以来というもの眠るヒマがなかったのであろう。ジコーサマの上京以来というと、まる二日半ぐらい眠らなかったことになるそうだが、昨夜十一時半にモミヂ旅館へ着いてからでは、その睡眠不足を取り返すことができなかったのであろう。

 碁将棋の専門家の手合は、中盤の難所にかかったころから夜が更けてくる。これからが一番むつかしいという時に、棋士は疲れきってモーローとした顔をしながら、盤面の勝負のほかに疲労を相手に悪戦苦闘しているものだ。そこで私はあるとき将棋の木村十四世名人にこういった。
「あなた方はこれからが一番難所というときにフラフラしながらやってるが、夕食のあとかなんかで一、二時間ねむったらどんなもんです。疲れた頭で二時間ムダに考えるよりも、寝た方がむしろ得じゃないかね」
 すると木村はトンキョウな大声を発して否定した。
「とんでもない。ねむれるものなら、ねたいのは山々だけど、ねむれやしないよ。対局の前夜から棋士は不眠を克服するのに苦労するのだもの」
 なるほど、モットモ千万とはこのことで、十分に眠れば有利と分りながら、眠ることができないほど棋士は亢奮しているものなのであろう。呉清源とても神経質では人後におちない人物だから、その対局心理に変りのあろうはずはない。
 しかるに呉清源が衆人環視の対局の席で自然にコックリコックリやるというのは、その睡魔がいかに深刻なものであるか、連日の睡眠不足のほどが察しられようというものだ。呉清源がこの対局をいかに重大に考えていたかということは、対局者は対局中門外不出絶対カンヅメという条件を持ちだしたことでも明らかで、その対局中に自然にウトウトやるのだから、この睡魔は絶対の不可抗力であったろう。
 第二日目も、呉清源は居眠りこそしなかったけれども、まだ疲労の色が濃かった。
 三日目に至って、呉清源はようやく疲れがとれたらしく、清々した態度になったが、碁打は碁の対局の日数を重ねて疲れを深めるのが自然であるのに、呉清源のこの場合は、対局の日数経るごとに疲れがとれてきたのだから、なんとも変則的で、バカバカしい限りであった。
 しかも、白番の呉清源が三目勝ってしまったのである。あとで本因坊の感想によると、敗因は呉清源の目がパッチリした三日目になって生じたものではなく、第一日目の封じ手が悪かったということである。この封じ手に本因坊はこりにこって、複雑な手を打った。
 居眠りしている呉清源は、その悪条件とニラミ合せて、はなはだ分り易い割り切れた石ばかり打ってるのに、睡眠十分の本因坊はこりにこり、考えに考えて自分でもハッキリ分らないような面倒な石を打った。
 だいたい自分でもよく分らないような複雑な手を打つことが、いかなる場合においても負けの要素かも知れないが、眠り男を相手にして、こりにこり考えに考えて負けたというのがおかしくてしようがない。私は敗因を説明するヒョウヒョウと仙人じみた本因坊と向いあいながら、笑いがこみあげてきてしようがなかった。

 昔はあの山に人を化かすタヌキがでるとか、あの村には人魂がとぶなぞといった。
 今日では、空とぶ円盤が村の上空を通って行った、なぞという。
 いつの時代を問わず、人生の景物のようなものがあって、半分怖がったり、薄気味わるがったりしながら、実は結構そんなことで人生に興を添え、また人生をたのしんでいるのである。
 ところが、その人生の景品のようなものが、誰かの場合に事実となったときは、その誰かサンにとっては一大事である。
「御隠居さん。隣りの八サンが先夜の碁の仕返しだといって意気ごんで見えましたが」
「そうかい。ちょうどツレヅレの折だ。カモがきたな。遠慮なしに上りなよ。八サンや」
 というので、二人で夜の更けるのも忘れてパチリパチリやってる。
「旗色が悪いじゃないか。やに考えこんでるな。ムダだよ、考えたって」
「エー、おかまいなく」
「ハッハ。かまいたくなろうじゃないか。時に、なんだな。ちかごろ方々で、化け物の話がでるじゃないか。曲り角でバッタリ人に会って、顔を見たらノッペラボーだったとか、トントンと戸を叩く奴があるから、誰でえてんで、戸をあけるとノッペラボーがジッと立ってたなんてね。どうも、つまらねえことをいいふらす奴があるな。おい、いい加減にしなよ。八サンや。お前、ねむってるんじゃなかろうね」
「ヘエ、ねてるもんですか」
「ヘタの考え休むに似たり。寝てねえなら、そろそろ何とかしなさいよ。そううつむいて、いくら考えたって、いい知恵が浮かびゃしないよ。お前の頭じゃアね。そろそろ夜なか近くになったところへ、こッちは手持無沙汰で仕様がねえから、襟元からゾクゾク寒気がしやがるな。なんとか挨拶したらどうだい」
「ヘエ」
「オヤ。どう挨拶した?」
「こんな風にですか」
「エ?」
 身動きもせずに考えこんでいた八公が、盤面の上にかがみこんだ顔をジリジリジリと起して、ヒョイと立てると、ノッペラボー。
「キャーッ!」
 隠居が金切声をたてて逃げると、隣室にねていた女中のオサンが顔をだして、
「旦那どうかなさいましたか」
「助けてくれ。ノッペラボーがでた」
「こんな風なですか」
 ヒョイと見ると女中がまたノッペラボーだから、隠居はウンと気を失って、お目出たくなってしまった。人はこういう怪談をたのしむけれども、隠居の身になると、やりきれない。
 昨年の三月と十二月と今年の一月と、三度にわたって北海道の北の海岸に空とぶ円盤が現れ、この日撃者はいずれも米軍の優秀な空軍将校で、その報告は具体的で精密で、ついに空とぶ円盤は、日本の空に至って、人生の景物ではなく、実在の怪物になったらしいということである。
 原子バクダンといい、空とぶ円盤といい、こういう怪物が日本に限って実在化するのは、当人には助からない話である。

 首相が議会で行った演説によると、大戦は遠ざかったそうである。
 なるほど、大戦は遠ざかっているのかも知れないが、その代り、どこかの小さい国に小戦が近づいているのかも知れない。
 現に、世界大戦は行われていないけれども、朝鮮や仏印では小戦が行われている。
 そして、朝鮮や仏印にとっては、小戦も大戦も変りなくただ戦争が現に行われているという事実があるだけの話だ。
 たぶん朝鮮の政治家が、
「オイ、安心しろやい。どうやら、大戦は遠ざかったぜ」
 などといえば、国民にぶん殴られるに相違ない。
 日本の現状はといえば、よその国では架空の怪談で人生の景品にすぎないような空とぶ円盤が、日本の北辺の海岸では実在する怪物らしい有様で、世間なみに怪談に打ち興じていられない身分のようである。
 パリだのヘルシンキだのモロッコだのというところで、そこのアンチャン連が、
「ナア、オイ、大戦は遠ざかったぜ」
「そいつア、オメデてえな」
 といっているときに、かりに日本に小戦がオッ始まっていたぶんには助からない。
 パリやヘルシンキやモロッコの姐さんが、朝目をさまして、コーヒーをすすりながら、新聞をよんでる。
「チョイと、ちかごろ物騒だわよ、この町は。またピストル強盗が現れたわよ。ピストルなんてもの製造禁止しちまえばいいのにね。オヤ? まだどこかで戦争してるとこがあるらしいわね。チョーセンと、ならびにニッポンか。これ、どこの国?」
「それはファーイーストといって、この大陸のはるか東のドン端れに、チョーセンとニッポンてえ国があるらしいな。なんしろ、はるか東のまた東、ドン端れだから、ロクな土地じゃアねえや。おまけに、そこから向うは太平洋てえ世界一の大きな海で何千里というもの人が住まねえ海なんだなア。天然自然に、そこんとこで小戦をやるてえシキタリになってからてえものは天下は太平だな」
「戦争はもうないッて話だわね」
「あんなものは、もう、はやらねえよ。もう戦争なんぞ、どこにもねえ」
「チョイと。ホックはめてよ」
「アイヨ。ウーム、いい香水の香りだ」
 なんて、大戦の遠ざかった国はまことに人情こまやかでよろしいけれども、そのときドン端れの小戦国では大変な騒ぎなのである。
「もう食べ物の配給が四十五日ないんですけど、ここんとこで、二、三日分、だしていただけませんか」
「ナニィ。原子バクダンがいつハレツするか分りゃしねえぞ。メシなんぞ食ったって、ムダだ」
「でも腹がへって動けねえ」
「キサマ、危険思想にかぶれたな」
 ジェット機というすばらしいオモチャが空をとび、原子バクダンという美しい花火が咲いて、眺めは素敵だそうである。

 私が観戦記者として見物したいろいろの試合の中で世間的にはさして重大な対局ではなかったけれども、私にとってはどれよりも忘れがたいものが一ツある。
 昭和二十二年の暮ちかいころであったと思う。その年には、それまで不敗を誇っていた将棋の木村が塚田に敗れて名人位を失った。それからというもの、木村は全く気持の上でダメになったらしく、順位戦でも、他の対局でも負けつづけで、哀れサンタンたる有様であった。
 そのとき、名古屋の某紙の主催で、木村と升田の三番将棋の第一局が行われることになった。この第三局目はたしか九州で行われたように記憶するが、私のはその第一局目で、名古屋市で行われた。
 不敗を誇った木村に最初に黒星をつけたのは升田で、木村の自信の喪失はそのときから始まったと云われているが、名人位を失ってからのサンタンたる戦歴の中でも特に升田に対しては特別で、終戦後その時まで五局だか七局だか升田と対戦して一度も勝ったことがない。蛇の前の蛙のようにダラシがないのである。
 私がこの観戦記を引き受けたのは、ひとつは木村になんとか罪ほろぼしをしたいような気持のせいがあった。
 私は木村が塚田に敗れて名人位を失った一局を観戦して、木村敗戦の有様をツブサに描写したことがある。それを読者は面白く読むかも知れないが、負けた当人が負けた姿の描写をやられては堪らないに相違なく、木村が気持の上でダメになった原因の一部には、私の冷酷な文章が含まれているような気がして、なんとなく気が咎めておったのである。
 木村が自信を喪失したソモソモは升田に三番棒に負けたためで、その後は名人位も失う、順位戦にも勝てない、まして升田には益々手も足もでないという有様であるが、そのソモソモが升田に負けたことにあるなら、升田に勝てば自信もよみがえるだろう。
 なんとかして木村を升田に勝たせ、その勝利の姿を描写して罪ほろぼしをしてやりたい、というのが私のひそかな気持であった。
 むろん将棋に素人の私が技術上のことで木村に助力できる筈もないが、木村が私の文章を根に含んでそれで気持を腐らせているとすれば、その気持をほぐす力が私にある筈だということを考えていたからである。
 それで当時身体の調子の悪い時で旅にでるのが甚だイヤであったけれども、そうしなければ自分の気持のオサマリがつかないような思いがあったので、名古屋へでかけることにした。
 そのころは、まだ敗戦都市の焼跡が一向に復興しておらぬ時で、料亭は表向き閉鎖され、自由に酒を買うことも飲むこともできないような悲惨な時であった。そこで私は自分の飲みしろにニッカウィスキーを一本外套のポケットに入れて出発したのを覚えている。
 指定の列車にのると、二等車の片隅に浮かない顔の木村がションボリ乗っていた。この男が勝ってくれればよいが、負ければまたそれを描写しなければならぬ。筆は偽れないから、どうも困ったなと、悄然たる木村の姿に私の気持は滅入って仕様がなかった。

 名古屋へついたら、市の中央いたるところ丸坊主の原ッパばかりで、復興のおそいのに呆れ果てたのを忘れない。
 升田はすでに前日から名古屋へ来ておって、私たちが新聞社へつくと、国民服をきて現れた。私はこれが升田との初対面であった。そのほかに、名古屋在住の棋士で、明日の手合に立会人の板谷八段も来たが、彼は当時まだ五段ぐらいの無名の棋士であった。
 升田も板谷も出来損いの剣術使いのような面魂で、肩先三寸斬られた傷がまだ治らないような風態である。
 そこへもってきて、名古屋の新聞の御歴々というのが、どれが社長で、どれが編集局長で、どれが平社員だかとても区別のつけようがなかったのであるが、いずれもゲリラ部隊の新聞隊員という活気横溢の気鋭の士で「名古屋にもちょッとしたコーヒーを飲ませるウチがあるから」と、ワッショイ、ワッショイ、バラックのコーヒー店を占領する。
 当時はちょッとしたコーヒーを飲ませる店がたしかに国宝的な時世であったが、国宝を鑑賞するにしては、どうも作法が荒っぽい。ゲリラ部隊が博物館へ坐りこんだような勇しい風景であった。
 それより設けの酒席へくりこむ。ところが当時は料亭閉鎖の暗黒時代であるから、レッキとした新聞社の宴会だというのに、クラヤミの裏木戸からコソコソと泥棒のように一人ずつ忍びこむ。日本人全体が精神的にゲリラ化していた時世でもあったのである。
 一パイ飲むまでの道程がこのようにゲリラ以外の何物でもなかったから、酒がまわると、大変な騒ぎになってしまった。もっとも、この責任の半分ぐらいは、あるいは私が負うべきであったかも知れない。
 なにぶん私の外套のポケットには私の飲みしろに用意してきたウィスキーが一本ぶちこまれている。新聞社の人々は「名古屋に於ては名古屋の酒を」と云って、はじめはなかなかウィスキーを飲ませてくれなかった。相当酒がまわってからウィスキーを飲みはじめたから、なおいけなかった。
 おまけに新聞社の御歴々は見かけのゲリラ風にも拘らず、義理堅いこと夥しく「その貴重なるウィスキーは一滴たりとも我々の受くべきにあらず」と固辞してついに誰も受ける者がいないから、ウィスキーは升田と私がほゞ半分ずつ、一滴ものこさず飲みほしてしまったのである。そこで升田が酔っぱらってしまった。
「木村は弱い。ワシァ木村を負かしたとき、あとで並べて研究してみたら、読みの深さが違うとるのを発見して、なんや木村ちゅうのはこんなもんか思うた。こんなヘボには負けとうても負けられん。なんぼでも負かしたる」
 次第に大きな声で叫びはじめた。元々地声の大きい升田のことで、ついに部屋一パイに響き渡る大音声となってしまった。

 木村もはじめのうちは苦笑しながら
「まだお前なんかに負けねえよ」
 とつぶやく程度であったが、升田は泥酔しているから非常にしつこい。いつまでもからむばかりでなく、その度が次第にひどくなるから、木村も次第にムキになった。
 彼は明日の対局を考えて酒をすごさぬように要心していたが、適度の酒ははいってるし、元々負けぎらいの男だから、ついには満面朱をそそいで
「将棋は実力の勝負だ。腕でこい」
「アッハッハ。なんぼでも、負かしたる。よう、勝てんやないか。オイ、木村。弱いもんや」
「弱いのは、お前だ。オレがいくらボケたって、まだお前より弱かアねえや」
「ホ。勝てたら、勝ってみい」
「アア。勝ってみせるよ」
 だいたいこの宴会のはじまるに先立って、木村と升田の座を遠く離しておいた。云うまでもなく二人の仲が悪いから、酔っ払って事が起きては面倒だというので、木村が南正面なら升田は東正面に当る位置に、間に数名の人をはさんで遠く離れているばかりでなく、顔を見合うこともできないような位置に二人の席を定めておいた。
 いかにもキメのこまかい行き届いた神経のようであるが、ここがまた案外ゲリラ神経というのかも知れない。ゲリラや野武士が一番心配するのは酒席の喧嘩やそこから発した果し合いなぞかも知れず、紳士のタシナミにしてはいささか神経の行き届きすぎたウラミがあって、こういうところがいま考えると愛嬌あふれ、おかしくて仕様がない。
 それで事もなく宴会が終れば、それはむしろ甚だ人をバカにし人を軽く見たようなものであるが、幸いにも誰もバカにされずに、首尾一貫してゲリラの精神に添うことができた。めでたい話で、いかにも時代風俗であったと云えよう。
 二人は正面を向いたままでは相手の顔が見えないのだから、各々首をねじまげて遠く人々の頭ごしに睨み合って
「オレが強い」
「お前が弱いや」
 と、しまいには強い弱いと力一パイの声で喚き合うだけになってしまった。
 しかし、むろんゲリラの中に拙者の一人存在する限り、必ず喧嘩がはじまるかも知れないが、必ずまるく収まるのもフシギなもので、頃合いをはかって、二羽のシャモの喚き立つうちに、宴はめでたく終りとなった。
 さて我々は明日の対局場でもある旅館へおもむいて寝ることになったが、強い弱いで喚き合ってすぐ眠るわけにもいかないから、三人で碁を打つことになった。
 木村も升田も碁は腕自慢だし、私も文士のうちでは強い方だ。みんな同じぐらいの腕前で、強い弱いを碁に持って行って争うぶんには平穏である。碁を打つうちに升田の酔いもいくらかさめたし、碁は打ち分けに終ったように思う。そして和気アイアイのうちに碁を終り、十二時ごろ各自の寝室へひきとった。

 前夜にあのように殺気立った割に、翌朝の対局は別に事もなく開始されたが、升田は前夜の泥酔がたたって大そう顔色が蒼く、対局条件としては申分ない悪さだったようである。
 泥酔にまかせて眠ってしまえば、まだしも良かったかも知れないが、碁を打って眠れなくしたのかも知れない。もっとも、碁を打とうといいだしたのは升田だった。
 その前夜、この旅館に土蔵破りがあった。そのためこの晩は徹夜の警戒員がつめておって、ちょうど升田の寝室はその詰所の前の離れであった。眠れない升田は、徹夜の警戒員の話声や足音に悩まされたと云っていた。明け方になっていくらか眠りをとった程度のようであった。
 しかし、覇気マンマンの升田は、従来の戦績もあって、木村をのんでいるから、軽く一ひねりと考えて、殆ど悪条件を気にかけていなかった。
 そして朝の十時ごろはじまった将棋は夕食前からもう乱戦という非常に激しいチャンバラ将棋になってしまった。
 升田は自分の守備をお留守に、バタバタバタと敵を倒す攻め手を構想し、それに熱中し、酔っていたようだ。こういうところに、当時の升田のまだ至らない思い上りがあったのであるが、しかし、当日の悪条件が彼に軽率な戦法を選ばせたと見てやる方が穏当かも知れない。
 ところが、歩が一ツ足りなかった為か何かで、二三十手先までのバタバタバタがどうしてもできない。たしか歩が一ツと、一手か二手の余裕があると、全然破れる筈のない手つかずの木村の堅陣がバタバタバタと二三十手で即詰まで行く仕掛けになっていた。そのバタバタバタの大構想は対局を終るまで木村が全く見落していたほどの凄味のある着想であったらしいが、あいにくなことに歩が一ツと、一手か二手の余裕が足りなかった。
 升田がそれに気がついたのは、夜の九時ごろであったろうか。
 夕方の四時五時ごろからその構想に熱中しだした升田は、すでにバタバタバタの成功を確信して勝ち誇っていたようだ。
 しかるに持ちゴマに不足があって、木村をバタバタバタにかける前に自分の方が危いことに気がついた。
 そのときの升田の驚愕といったらなかった。ガクゼン顔色を失うとは正にこのことで、朝から真ッ蒼の顔がさらにガクゼンと色を失った。
 升田という棋士は、自分の将棋がよい時は、鼻唄がでる。浪花節をうなる。放言する。実に傍若無人であるが、自分の形勢が悪くなると、打って変ってガクゼン色を失い、モミクチャになって、呻吟懊悩し、のたうちまわる。まことに壮観である。
 だから彼が勝ち誇って傍若無人の時も憎めない。そこにはカサにかかった悪意がなく、むしろ天真ランマン、悪童の弱点をさらけだしているだけなのである。自分が悪いとなったら、七転八倒、話の外の騒ぎである。

 碁将棋では、盤外作戦ということを云う。盤外の言動で相手をじらせて、平静な思考力を失わせようという作戦のことだ。
 この作戦にかけては、戦前派では木村が、戦後派では升田が大家のようなことを云われている。しかし、私の見たところでは、木村は大家かも知れないが、升田はアベコベだ。むしろ人の盤外作戦にひっかかり易い方である。
 彼の対局中の言動は傍若無人であるが、実は無邪気である。たまたまそれに悪意ありと邪推した人が勝手に架空の盤外作戦にひっかかるだけの話である。
 一枚上手を行って升田を怒らせたりジラせたりするような悪どいことをやれば、升田はたぶん誰よりも人の盤外作戦にひっかかってしまうだろうと私は思う。
 彼が案外人の盤外作戦にひっかからないのは、腕に差があるからであろう。そして、腕に差のない大山や塚田は盤外作戦をやらないタチの棋士だから、破綻を見せずにすんでいるのだろうと私は思っている。
 とにかく升田はいったん形勢不利と見ると、一人で勝手に破綻して、七転八倒、ムチャクチャにのたうちまわるのだから、相手に負けずに、自分に負けるような脆さがある。彼のように鋭敏な才子は、自分の鋭敏さに傷を負うから、鈍根の人とツリアイがとれてしまうのである。
 この晩の七転八倒は言語道断で、
「一歩足りない。一歩足りない。番丁皿屋敷。バンサラお菊の場……」
 などと、いってることは冗談のようだが、眼は血走り、頬骨はにわかに角のようにとがり、まったく血の気を失って、全身石のように硬直のオモムキである。
「さては、そうか。負かされたか……」
 負かされる三四時間前から、負かされた、負かされたとガマが脂汗をしたたらせるような悲痛きわまる呻きをあげて身もだえているのだ。
 相手を一気にバタバタバタの遠大な着想に熱中しすぎて、自分の方がバタバタバタになってしまったのである。カンタンに勝負はきまってしまった。
 この対局中の木村の態度は立派であった。いささかも相手を見くびらず、むしろ相手の才能に敬意すらも払いつつ、謙虚に己れの全力をつくすという着実な構えがみなぎっており、最後までそれが少しも崩れなかった。
 彼がその春塚田に敗れて名人位を失ったときは、敗れつつも傲慢であった。その後の彼が順位戦等で不成績であった時も、十年不敗の昔の殻をすてきれぬ傲慢さが彼の実力を封じていたのだろうと思う。
 私はこの対局に於けるミジンもケレンのない彼の謙虚着実な対局態度に接し、よく苦難を越えて殻をすてた彼の生長にカンパイしたい喜びを感じたのである。
 それにしても前夜の乱酔から升田の七転八倒に至るまで、賑やかなことこの上もない対局で、また盤側にはテンヤワンヤのゲリラ隊あり、ケンラン無比の大試合であったと云えよう。

 私は若い時から引越しの性分があった。小学校の先生をしたり、大学生になったりして小さな借家を一軒かりて、ノンキ坊の兄と婆やと三人ぐらしをしていた頃から、たいがい私の独断で、東京のあッちこッち引越して歩いた。
 兄は三種類ぐらいの運動の選手であったから、お金がかかる。家計費をチョロマカスので、それを私の小遣いでうめるのが毎月の例であるから、てんで私に頭が上らない。私が勝手にだんだん田舎の奥へひッこむのに、不平もいわずについてきた。
 おしまいに練馬の奥へ土着した。毎日毎日大根ばっかり食わせやがるナと思ったが、当時は別にセンサクもしなかった。ところが、兄があんまり家計費をチョロマカスのでオカズが買えなくなり、百姓が腐った大根を畑のアゼへ捨てておくのを拾ってきて食わせていたのだそうだ。後年この婆やが息をひきとる前に、遺言みたいに白状して死んだのである。この兄は長ずるにおよんで全然社の公金をチョロマカスことを知らないバカ正直の社長になって金で大苦労しているが、私の方は長ずるにしたがい悪事を覚えハシにも棒にもかからない放浪児になってしまった。
 北斎も引越し癖があって、百回にちかい引越しをやっている。女房、子供があっても、この性分はどうにもならない。北斎の引越しには美人の娘が車の後押ししてたそうだ。
 北斎の引越しは江戸の諸方に限られていたが、私のは、旅先で土着してしまうようなシキタリが十年もつづいている。
 終戦後、女房などという思いもよらなかったものがぶらさがってついてくるようになっても、やっぱりこの性分は直りッこない。しかし、引越しの性分というものにも、だいたい周期というものがあって、中には夜逃げだとか、環境が気に入らないことからという不測の事故もあるかも知れんが、北斎のように百回ちかい引越しはひどすぎるようだ。だいたい半年に一度ぐらいの周期になるのであろう。
 私のは一年前後の周期が普通で、北斎以上に長生きしても、彼のレコードは破れない。その代り、汽車もトラックもあるから、日本中を自分の住居に選ぶことができる。
 むろん私がお金持なら、日本中至るところに別荘をたてて転々とうつり歩くことができるから、あの野郎引越しキチガイだ、なぞといわれずにすむのであるが、これも貧の致すところ、よんどころない。
 しかし、持って生れた祖国というものは、どうにもならぬ。外国を転々と引越して歩くわけにもいかぬ。さすがに画家には北斎以上の引越し先生がいて、巴里へ引越したりするけれども、巴里へ住みついてしまうというのは本当の引越し先生のやることではなかろう。どこにも住みきれないのが引越し屋なのである。
 外国を転々と引越すわけにもいかないと思えば、私のような引越し屋にも、祖国というものの大切さが身にしみるのである。

 終戦後、私が非常に恩恵に浴して有難いと思っているのは、DDTとペニシリン及びその一族の青カビ薬である。
 終戦直後、歯の劇痛に二ヶ月というもの苦しめられて、氷で冷やしながらうなりつづけたことがあった。歯痛は私の持病で、これには毎年泣かされたものであるが、ペニシリンが流布してからの昨今はもう問題ではない。
 終戦前後東京にハンランしたシラミも、夏の大敵のノミも、DDTの登場にあうや問題ではなくなった。コリーという毛の多い犬と同居生活していても、まれに一匹のノミを室内に発見して大騒ぎするような昨今である。
 これぞ文明の神器と私は大そう感激して、DDT、ペニシリン、オーレオマイシン、クロロマイセチン、テラマイシンという神族をわが家へ勧請し、一タン緩急にそなえて崇敬をはらっている。
 友人は面倒がはぶけるから大そう喜んで、各員ならびに各員の家族が病気になると、わが家へやってくる。ひどい奴は電話で、
「どうでえ。君ンとこにオーダンにきく薬はねえか。すまねえが、ちょいと効能書を読んでみてくれ」
 こういう結果になったについては、私に甚だ愚かな悪癖があったせいだ。
 私はあるときテラマイシン等一族の青カビ族の効能書を読んでるうちに、ツツガ虫も治る、という件りを発見してキモをつぶし、
「オレの生まれた新潟県中カンバラはアガノ川ッてところはツツガ虫の名産地だ。今でもオレの村では毎朝目がさめると、オトッツァン、ツツガナキヤ、とあいさつしてウレシ涙にくれるほどツツガ虫をこわがっていらア。オレの子供のころ新潟の医科大学にはツツガ虫を二十年も研究して、いまだに虫の正体を発見することができないといって悪戦苦闘していた悲痛な学長がいたものだ。正体がわからんぐらいだから、ツツガ虫の病人が助からないのは当り前の話だ。しかるに、どうだ、この神薬現れるや、歯の痛みのかたわらに、チョイと淋病でも肺炎でもツツガ虫でも治してしまうじゃないか。凄いもんだ。おどろいたか」
 といって、客あるごとに神棚をひらいて神体を拝ませて、御利益を説きながら一パイのんで酔っぱらう。いつのころから、こういう悪癖がついたのか忘れたが、犬の大敵、ジステンパーという命とりの病気を軽くクロロマイセチンで治してみせて、また新しく威張りたてたりするものだから、
「どうでえ。うちのロービョーがちょいと正体不明の病気でヨチヨチしているから、お前ンとこの神薬を一服やってみたいと思うが」
「なんだい、ロービョウーってのは?」
「学がねえな。老いたる猫だ」
 いろいろな狼藉者が現れて、ウチの神棚を騒がせる。そのたびに効能書を一読して、
「こッちの英語の効能書にこう書いてあるぜ。尚他の何病に利くや見当がつかねえから、新病を治した者は報告してくれとあらア。よーし、ウチの婆アにのませて、四十五年来の眼病を治してやろう」
 と持ち帰る奴もいる。しかし、まア、とにかく病気が治って結構な話である。

 伊豆の伊東で八畳六畳四畳半というたった三間の家に住んでいて、それでも寒くて仕様がなかった。
 東京から遊びに来た人は伊東は暖いというけれども、住んでる人間には比較がないから暖さは分らない。肌に感じるのは冬の寒さだけだ。むしろ伊東の冬は暖いだろうと当にしていただけに寒さがこたえたのである。
 ところが上州赤城山麓、冬のカラッ風で有名な土地へ越してきて、今年は生れてはじめての寒さ知らずの冬をすごした。
 寒いにきまった土地であるし、私の借家というのが土地第一の旧家の母屋で十八畳十五畳という部屋ばかりである。戦闘準備なくしては今冬の無事越年を期しがたいというので、一番でッかいストーブを買ってきて十八畳の部屋へデンとそなえてやった。
 九州の炭坑に三が日もぐりこんだがおかげで石炭のメキキができるようになったが、わが家の石炭は石炭とボタのアイノコだ。それでもせっせとたくと二十度の室内温度を保つことができる。
 私が大いに威張っていると、私のたのんだ元税務署長という計理士が現れて、
「なんにもないウチだなア、このウチは」
「エヘン、エヘン」
 といって、私はストーブの方へセキをしてみせたが、先生はちッとも気がつかない。この土地じゃア珍しくないらしいや。
 しかし、ストーブの威力はたいしたものだ。赤城オロシのカラッ風も平チャラじゃないか。なんとまア冬というものはよきシーズンであるか、とビールをかたむける。
 私の育った越後も寒かった。あすこにはコタツというものがあるが、背中が寒いから、まんまるくなってコタツに当っている。ノビノビと健全なる暖房じゃない。
 田舎では今でもソダを燃してイブされながら暖をとる。鉢の木だ。
「ナア、オイ。燃しても煙のでねえ物があるてえと、冬に眼が痛むてえことがねえな」
「そうだとも。じっくり考えてみるべい」
 というので、煙突の代りに炭を発明した。これが運の尽きで、冬期の眼病はまぬがれたが、冬は全然暖くならなかったのである。
 どうも日本人の発明には、こういう凝ったところがある。冬をより暖くするよりも眼に適したように改革するという風情に富んでいるのである。
 サムライのチョンマゲなんぞも非常に秀でた発明であったかも知れない。
「コレ、コレ。どうも人間は、年をとるとハゲるな」
「無念ながら、そのようで」
「人間のハゲにはヒタイからハゲるのと、脳天からハゲるのと二種類あるな」
「御明察で」
「この両方のハゲが分らぬようなマゲを発明いたせ」
 というのでチョンマゲができたのかも知れないな。とにかく、日本人は工夫の好きな国民であるが、思いつきの根本がトンチンカンな国民である。

 わが家の北西に小さなコンクリート製の池がある。池の向うのクサムラと縁の下の間を、時々フッと影ともカゲロウともつかないものが行ったりもどったりするのである。
 はじめは池の水面が起す物理現象の類いかと思っていたが、日暮れちかくなると、特にそれが起って、どうも姿はシカととらえがたいけれども動物のようである。私がこれを女房に語ると、
「私はとっくに気づいていたわ。姿はわからないけど、動物に相違ないわ」
 というので、そういうケッタイな物が縁の下に土着していては気になるから、土地の古老(というほどの年でもないが)にきいてみた。
「ウーム、そうか。すると、君のウチの天井でネズミを追ッかける奴はいないか」
「ネズミはしょっちゅう追ッかけられてるな。追いつめられてチューチュー泣いてる奴もいる」
「それだ。君のウチにネコはいねえだろう。それはイタチだ。縁の下の先生はイタチだぜ。オレの子供のころはオレンチにもイタチがいたが、洪水の時にイタチがいなくなって、一丈あまりの青大将が住みつきやがったよ。ここのウチぐらいの古い建物にイタチだけなら恵まれてるぜ」
 それからまもなく、そのクサムラで生れたての小さな動物を女中がつかまえた。
「これイタチの子ですか」
「待て、待て。動物辞典と百科辞典をもってこい。エエト、これがイタチの大人か。大人と子供は似ていないが、イモムシと蝶々にくらべれば大そうよく似ているといわねばならぬ。よーし。これはイタチだ。こいつを育ててミンクの毛皮をとってやるぞ」
 縁日で廿日ネズミのカゴを買ってきて入れておいたら、入れ物に似てしまったのか、ネズミになってしまった。
 また初冬の小春日和の一日、日和で季節をカンちがいしたらしくスイッチョンがノコノコまいこんだから、これを生け捕りにしてカステラの空箱に入れて、
「昔、松永弾正というロベスピエールとフーシェのアイノコのような悪党ボスが人のできないことをやってみせるといって松虫を飼って三年生かしたそうだ。このスイッチョンは本人自身が来年も生きる目算で身を隠していた奴に相違ないから、うまく飼うと三年はおろか、十年二十年と生きのびてヒゲが白髪となり人語を解するに至るぞ。これを見世物にだして、老後を安穏に暮すから、者ども、ユダンなく育てろ」
 そこで人間が寝しずまって部屋がつめたくなってからは、拙者の部屋へつれてきて、暑からず、また寒からぬように、いろいろと身の廻りのメンドウを見てやって、それをハリアイに毎晩いそいそと徹夜の仕事をした。
 ところが女というものは大事を託するに足らん。拙者の不在中、スイッチョンを箱からだして、愛玩して、脚を一本落してしまった。スイッチョンは無事越年し大寒を元気よく迎えながら、これがもとで死んでしまった。悲しいかな。

 外国映画を見ていると、法廷に立たされた妙麗な美人が、
「年齢は?」
「五ツ」
 なぞと、それで済んでいる。いかめしい法廷に多少のシャレッ気が吹きこんで、なんとなく風情があって悪くはない。けれども懲役だの死刑なぞというものが厳存するこの場所の本質を考えると、ムダな風情だという気持にならなくもない。
 徴兵検査に特に風情を添えてみようじゃないかというので、壮丁は法廷の女の子なみにデタラメの年齢をいってよろしいということにする。
「いくつだ?」
「エエ。五ツでござんす」
「ちとマセとるな。ようし、合格。その次」
「八十八歳」
「米寿か。合格」
 モロモロのものを駈りたてて行く戦争という屠殺場の凄味がアリアリ実感できるようで、シャレッ気を添えるよりも、陰惨な気がする。風情のありうべからざるところに風情を添えようたってムリだ。
 新国軍の誕生だの徴兵是非などが新聞雑誌に論議されてワイワイ世論をまき起しているけれども、銃後に原バクがチャンと落ッこッてる今日の戦争において、兵隊と銃後に変りはない。むしろ日本のようにせまい国土においては、もうどこにいても水バクの被害からぬけだすことができない有様で、こうなっては疎開もききゃしない。人間が一まとめに燃えるのを待つようなものだ。
「どうだい。そろそろ戦争がはじまるてえが、内地にいちゃアどこも危くって仕様がねえな。いッそ軍隊へ疎開しようじゃないか」
「そいつァうまい考えだ。お前は陸軍に疎開するか」
「オレは海軍だ」
 こういう気転のきいた兵隊がどんどん戦線へかけつける。
「なア、オイ。兵隊になって、よかったなア。内地にマゴマゴしてる奴の気が知れねえな。トーチカはあるし、コンクリート製の地下防空壕はあるし、ホンモノの防毒面までムリにくれやがるし、兵隊てえものは死なねえようにできてるもんだなア。それで、お前、メシはタダだ。欠配もねえや。これで何だな、酒と女の配給がもうちょっと多いと申分ないのだがなア」
「そこが戦争でえ。我慢しろい」
 東京と大阪と名古屋と北九州の四区域に水素バクダンが落ちただけで日本人はあらかた消えてなくなるらしい。国土という絶対面でこういう抵抗力の絶無な国民がこれからの戦争を考えたってムリである。
「どうでえ、戦争と手を切りたいてえ話なんだがなア。雷除ケの神サマへ願をかけてみるか」
「よせやい、文明の人間が。落ちてくるものは、仕方がねえや」
 原子バクダンというものが人間の頭上に落ちたのは後にも先にもこの国だけだが、この楽天国の人間は悠々虚心タンカイである。

 お前サンはどんな酒や料理が好きか。そんなことを問い合わしてくる雑誌新聞などが少なくない。お前サンの趣味は何か、という質問が一番多い。
「なにイ。バカにするな。オレの趣味はモロモロあるぞオ」
 と言って威張り返るわけにもいかないからもっぱら返事をださない。
 江戸の小咄に、
「コレ、長吉。人間にはそれぞれ好き嫌いがあるてえが、お前が好きな物はなんだ」
「エッヘッヘ」
「イヤな笑い方だな。ハッキリ云ってみな」
「ヘエ。二番目が酒です」
 このシャレはなかなか上等である。大ゲサに云えば、哲理的な味もある。
 二番目は酒、で一番目の分るところが絶妙である。「なるほど。シャレの手としちゃア、気がきいてるぜ。よーし、オレもやろう」
 というので、二番目を言っただけで一番目がピタリという奴はほかにないかとウの目タカの目で探しても、オイソレと見つかるものではない。シャレは類型をさがして、お手本に似せようと心掛けるようでは、もうシャレ本来の精彩を失ってしまうものだ。
 こういうシャレが実在しては、お前の趣味は? ときかれても、バカバカしくて、それではと返事をする気になれないのが当り前であろう。また、きく方も、きく方だ。
 しかし、突きつめればそういうものではあるが、何事につけても「二番目が酒です」式では人生花も実もない。造った物はこわれる。人間は死ぬ。色即是空。これじゃ出家遁世する以外に手がない。
「与太郎じゃねえか。大きくなったな。いくつになった?」
「きいて、どうする」
「年ぐらいきいたっていいじゃないか。そう、そう、今度中学校をでたってな。お前、なんになる」
「死ねば白骨となるな」
「止しやがれ。当り前じゃねえか。子供てえものは大人になったら何になりたいてえこと考えてるものだ。お前は何になる?」
「何になるったって、してくれなかったら、どうする。オレが何になるか、方々の試験官に問い合わしてくれ」
「ヤな小僧だな。何になりてえか、てんだ」
「王様になりたい」
 これでは花も実もないというよりも、個性がないというべきだ。煎じつめればそういうものであっても、人間には個性というものがあって、その特別の限界の中で諸条件に相応した独自のものがなければならぬ。我々の人生は、死ねば白骨となるものではなく、生きてるうちが花の人生だ。与太郎のようなのは、利口そうにみえるバカというべきだろう。
 ところが与太郎のような返事がすぐれたものだと思っている人がある。議会の答弁や腹芸なぞと云われているものが大がいそうだ。個性をはぐらかした答弁は、与太郎程度のバカにもできることで、個性を明確にすることの方が実はむつかしいことなのだ。

 死刑囚が脱獄したというので、その夜の東京は戒厳令下のような物々しさであったらしいが、翌日事も起さずに京都で縛についたのはおめでたい。
 彼らが脱走直後誰何すいかをうけたときは、一人は本名を名乗り、一人は実物の外人登録証を示して、不逞な気概当たるべからざるものがあったようだ。
 ところが、翌日京都で誰何をうけたときは、疲れきってトボトボ歩いておって、前日の不逞な気概はもうなかったらしい。
 毒を食わば皿までと云って、どうせオレは死刑になる身だからと、自分の生存慾をとげるために無造作に人殺しを重ねそうに思われるけれども、人間はそう理づめ一方に行為できるほど単純な動物ではないようだ。
 人を殺したその場に於ては血に狂って、毒を食わば皿までと、無抵抗な幼児などまで一撃のもとに殺すような例は多々あるようだが、いったん興奮がおさまれば、オレは死刑になる身だからという理論を立ててむやみやたらに人を殺すことがそう簡単にできるものではなかろう。
 我々の実生活をふりかえっても、理論的に行為するということは大そうな難事業である。何でもして働く気になれば人間生きられないことはないと分っていても、昔の地位や身分にとらわれて生活苦に追われ自殺するというような例も少くない。
「ヤイ、八五郎、そこへ坐れ。お前またカミサンをぶんなぐって片腕を折っちまったそうだな。バカヤローめ。男の力というものは、そんなところに使うもんじゃねえや。女というものは弱いもんだ。いたわってやらなきゃアいけねえ」
 なぞと威張って説教しているクマ公が、それから五分後に、女房の返答が気にいらないというので、脳天に一撃を加えている。八五郎がおどろいて、
「よしねえ、クマアニィ。女というものはいたわらなくちゃアいけねえと、いまオレに説教したばかりじゃねえか」
「何を云やアがる。オレのことはオレでするんだ。よけいなお世話だ」
 だいたい人間の行為はこの程度にガンゼないものと見てよろしかろう。誰しも人にお説教する程度の物の理は弁えていても、自分自身が理の如くに行為できるわけではない。
 二人の死刑囚は脱獄という目的に全精力をすりへらしたのかも知れない。そして、脱獄の興奮がつづいているうちは、誰何されても不逞な気概にあふれていたが、その興奮がしずまると、やっぱりタダの人間だ。
 脱獄という差しせまった大目的に比べて、脱獄後どうしようという目的はバクゼンたるものであったろう。したがって、脱獄という目的を果たし、その興奮がおさまった後では、途方にくれたかも知れない。
 人間というものはハッキリと目的が定まり、それに向かって進む時がいちばん強いものである。生命力が完全燃焼するのも、その時である。
 脱獄という目的に生命力の限りをつくし、目的を果たしたあとで途方にくれていた二人の死刑囚を考えると、いじらしいような気持にもなるのである。

 私の家には妙な水槽がある。広さはタタミ一畳ぐらい、深さは七寸ぐらい、コンクリート製である。これが地中にあるなら話は分るが、空中にある。下に一尺五寸ぐらいの台石が四ツあって、その上に乗っかっているのだ。池の高さは茶の間の縁側と同じである。
「わが家の池は四ツ足で、空中に存在している」
 と云っても、またかのキチガイがバカなことを云ってると考えて誰も信用してくれない。たぶん戦争中、防火用水として造ったのだろうと考えて、家主にきいたら、
「イエ、池です。金魚を入れて眺めるには縁側に近い方がいいでしょう」
 このことあって以来、私は家主を尊敬することにしたのである。縁側と池は一寸ほどしか離れていない。ここに金魚を飼うべきであるとはその時まで気がつかなかったが、そこでわが家も池の水をカラにしてボーフラを防ぐよりも、満々と水をみたし金魚を飼ってボーフラを防ぐ方が風流にかなっていると気がついた。
 まず三十匹の金魚を放したところが、三日間で全部死んだ。再びテイネイに池の水がえをして新たに三十匹の金魚を放ったら、これまた三日間で全滅した。
 池から二間の距離のところに高い石塀がある。この石塀には甲羅をへて化けそうな蔓が入りみだれて絡みついている。私はちょうどさる外国の探偵小説を読んだばかりであった。一人の少年が蔓の花粉で殺人を計画するという話である。
「さては蔓の花粉だな。これには相当の毒がある」
「蔓の花なんて咲いてないわ」
「ウーム。左様か。しからば山ツツジの毒である。そもそもツツジにはシキシマその他十何種もあるが、山ツツジという一種に限って毒がある。そして、このツツジの名産地は赤城山だ。赤城山頂は天下に名高いツツジの名所だが、これがみんな山ツツジである。したがってこのへんのツツジもたぶん山ツツジだろう。それによって金魚が死んだな」
「ツツジのどこに毒があるの?」
「そもそも山ツツジの毒は――」
 実は知らないのである。この土地へ引ッ越したら、群馬の県花ツツジについて、というパンフレットをもらった。その中に書いてあったのだが、ツツジのどこに毒があるかということまでは記述がなかったのである。百科辞典や植物辞典もかねて調べてみたのだが、山ツツジに毒があるということすらも記載がなかったのである。
 女房の奴に問いつめられて、仕方がないから、群馬大学の友人に電話をかけた。
「エエと、それは困ったな。当大学には植物学者がおらんわ。いま、植物辞典をみてあげるよ」
「ダメ、ダメ。植物辞典には出てこないよ。よろし。じゃア、内科の医者にきいてやろう。赤城山でツツジの毒に当てられた患者を手がけているかも知れないからな」内科の先生にきいたら「ツツジに毒がありますかア」目を丸くして叫ぶ有様、話にならない。

 そこで私は医者をおどかしてやった。
「この町に殺人鬼が現れて――たとえばアンゴという怖るべき殺人鬼が現れて、山ツツジで人を殺したら、この町の医者には死因が分らないな。よーし、次から次へと殺してやるぞオ」
「おどかすのは止しなさいよ。アナタは目ツキが変だから、心配するよ」
 ところが人生はよくできてるもので、私が山ツツジの毒の所在について転々ハンモンしているところへ図書館長が文化会の用件で現れた。
 この老いたる館長は非常な篤学者ときいていたから、私はきいた。
「赤城山のツツジは山ツツジだそうですね」
「左様です。赤城のほかに富士山なぞにもこの種のツツジがあります」
「山ツツジには毒があるそうですが」
「ございます。むかし赤城には放牧しておったのですが、牛馬も知っておると見えまして、ツツジはよけて食べ残しましたので、あのように面白い形にツツジの群が残ったのかも知れません」
「どこに毒があるのですか」
「花にも、葉にもございます。毒と申しましても、腹痛を起す程度で、よほど多量に食べなければ生命に別条ないと思いますが」
 これによって、殺人鬼の件もオジャンになった。実はその毒性次第では「ツツジ殺人事件」という探偵小説を書いて一モウケしてやろうともくろんでいたのである。
 わが家のツツジを庭師にきくと
「これはキリシマですよ。山ツツジは町の中にはめったにないですよ」
 という話で、要するに金魚の死因も分らなくなってしまったのである。家主の家の老女中に金魚がみんな死んだ話をすると
「あの池は金魚の死ぬ池なんですよ。ウチでも放すとたんに死にましたね」
 変な池だ。それはつまり池が空中に浮いてるために金魚が心臓を痛めるのであると新説を主張してゆずらぬ人士も現れたが、私はすべて邪説を一蹴し
「よーし。必ず金魚を生かしてみせるぞ」
 また三十匹放させた。金魚屋のオヤジもおそるおそる手ミヤゲにボーフラを持参して現れて
「変だねえ。金魚がいくら死に易くってもそうむやみに死ぬもんじゃないよ。オレのウチの金魚が悪いせいじゃないよ」
 ブツブツ云いながら金魚の人工呼吸法などを女どもに伝授して帰って行った。
 この中からも十五匹ほど死んだが、死ぬたびに補充して病金現れるや人工呼吸をほどこし、日夜水を調節し、ついに秋の頃には死なない金魚を飼いならしてしまったのである。近所のドブに、否、わが家のドブにすら糸ミミズが豊富であるから、朝晩これを食事に与え、その発育の目ざましさは金魚屋を驚倒せしめた。
 即ち先般金魚屋のオヤジが見学に現れて
「ウチのランチュウみんな死んだが、アンタのランチュウみんな生きてるね」
 恨めしそうにわが家の池を眺め、トボトボと退去した。ついに本職を降参させることができたのである。

 私は長崎が好きだ。長崎の食べ物も好きである。そして、チャンポンが何より好きである。ブタの角煮もうまいけれども、あれはそもそも沖縄のラフテとどっちが本家なのであろうか。全く同じ物である。
 長崎の角煮はシッポクという宴会料理で、家庭ではあまりやらないようだ。ラフテの方は沖縄の家庭料理だそうだから、ラフテの方が本家かも知れないと私は思っている。
 私は太平洋戦争のはじまる直前のころに、天草、島原などをめぐり歩いた。天草島原の乱を調べるためであった。有家だの口ノ津だの天草下田、大江などとあんまり東京の人の行かない土地のひなびた宿屋を泊り歩いたが、どこへ泊っても、味噌汁の中に至るまで魚が一パイ。朝食の膳からサシミ、焼魚、煮魚とイキのよい魚のでるわ、でるわ。
 東京ではもう物資欠乏の頃であったが、欠食児ももてあまさざるを得ない豊富さであった。欠食の都会人を憐んでもてなしてくれたのかも知れない。
 しかし私は長崎以来チャンポンに親しみ、天草の本渡でチャンポン屋をさがしてバスに乗りおくれたこともあるし、三角の渡船場へ降りたとたんに「チャンポンあります」の紙キレを見つけて、そう腹も減っていないのにフラフラと坐りこんだこともある。昼メシにチャンポンを食うのがタノシミであった。どこで食っても、一応うまかった。
 むかし、東京にも長崎チャンポンを食べさせる店があった。そのころの東京のは主としてモヤシを盛りあげていた。東京人の好みに合うように自然そうなったのかも知れない。
 私はそのチャンポンしか知らなかったから、はじめて長崎へ行ったときは、東京のチャンポンがうまいような気がしたが、食べるにしたがい、たちまちそうでなくなって、長崎式に限ると思うようになった。
 私はナマのキャベツは好きではないが、チャンポンの上に山の如くに盛りあげてくるナマがかったキャベツならうまいと思うから妙だ。それに、いかにもモリモリ食らうという感じで、精気ハツラツたる爽快味を感じるのである。
 私が長崎へ旅行したときは、いつも酒ばかり飲んでいて食慾が少なかったから、チャンポンの大量なのをもてあましたが、ちかごろは酒量が少なくなったところへ、ゴルフに凝ったせいか食慾がいくらか逞しくなったから、長崎チャンポンを二ツほど一時にペロリと平らげに行ってみたいなぞとふと思うことがある。
 私は元来メン類が好物であるが、日本の物は淡泊すぎ、支那のはしつこく、チャンポンがちょうどよい。
 けれども、チャンポンをなつかしむ思いのうちには、味覚はさておいて、あの巨大な量と、それをペロリペロリと平らげてゆく食慾の爽快さ、巨大な量を軽くあしらうように平らげてしまう落付き払った食慾の快味などをなつかしむことも強いのだ。ザルソバやラーメンには、そういう快感は思い描くことができない。
 豊富な量と旺盛な食慾。それは私が少年期すぎて失ってしまったものでもある。

 私はたしか昭和十六年であったと思うが、天草島原の乱を調べにそのゆかりの土地を見て歩いた。そのとき、原城の跡がほぼ原型のまま畑になっているのに一驚したのであった。
 もともとこの城は天草四郎が立てこもったときにすでに廃城であった。
 新しく島原城を築くために有馬の原城をとりこわし石垣などを島原へ運んで新築の城の石垣に用いた。
 したがって、原城の方は城の建物や石垣が取り去られて、丘だけが城の姿をとどめていたのである。
 天草四郎はここへ籠って、バラックの城をつくり、失われた石垣の代りには竹矢来や木柵をめぐらした。
 幕府軍はその対面の丘に砲台を築いて攻撃した。その大砲のタマは原城までとどかなかったが、砲台は昔の図面通りに今もその姿を知ることができる。
 しかし一番おどろくべきことは城址で、建物と石垣はないが、形はそっくり往時のままといってよい。
 籠城の百姓軍が全滅したとき、城内の空壕の中に女子供が三千人隠れているのが発見され、これが棄教を肯んぜず、※(「口+喜」、第3水準1-15-18)々として斬首された。「※(「口+喜」、第3水準1-15-18)々として」死んだことは松平伊豆の長男の日記に書かれている。こうして城内の者は、男も女も子供も全滅してしまったのである。
 このときの女子供三千名が隠れていたという空壕まで、昔のままと信ずべき姿で現存しているのである。広さは百坪ほどもあろうか。深さはかなり深い。四メートルぐらいかも知れぬ。そこへ降りて行く道はないのに、ジャガ芋畑になっていた。
 この空壕の底面を耕している百姓は、自分の昇降や、肥桶の運搬にどういう方法を用いているのだろうかと私はいぶかった。
 島原の乱から三百余年もすぎているのだから誰かが昇降の道ぐらい作ってもよさそうなものだ。三百何年間、道をつくらずに梯子かなにかで用を弁じているのだとすれば、痛快きわまるほど悠々たる世界ではある。
 私はおかしくてたまらなかったから、梯子の所在や、梯子の昇降口と見られる地点を捜してみたが、一面の畑があるばかりで梯子などは存在せず、また特に踏み荒された所も、昇降口と目される空地も見出すことができなかった。
 今ここを耕している人たちは、ここで戦死した人たちの子孫ではないのである。
 このへんの農民はみんな原城にこもって老若男女ともに全滅してしまったから、一揆に参加しなかった二、三の村をのぞいて南高来郡は全く無人の村となり、累々たる白骨だけが天日にさらされていたのである。
 その状態で十年すぎ、十年目に他国から農民を移住させて、新しく村をひらき、耕作をはじめたのだ。
 はじめの十年ぐらいは、この空壕や城址を怖れたかも知れないが、そんな気持が永続するはずのないことは広島、長崎の例でも知り得よう。だから三百余年すぎて昔の原形のまま畑と化しているのも他の理由によるものであろうけれども、昇降の道すらもいまだにないとは突ッ拍子もない話であろう。

 歴史小説を書いていると、読者にはちょっと想像もできないほどバカバカしいところで苦労しなければならないものなのである。
 たとえば女の名前である。
 史上有名な女の名ならむろん苦労の必要はないが、たとえば信長の母の名は何であるかという段になると大騒ぎになる。系図を捜しても、過去帳を見ても、位牌を突きとめても、名はでてこない。
 昔の系図を見ると、男の名はみんなでてくる。次男坊でも、十男坊でも、ちゃんとそれぞれの名前がある。ところが女の方は正妻の長女に生まれても、ただ「女」である。そして某に嫁したと云って、結婚した男の名の方がでてくるだけだ。
 そこで結婚した某の方の系図を調べてみると、ここでも「女」としか書かれていない。某の女と結婚したとあるだけで、ここではその父親の姓名が書かれている。女はどッちの系図でもただの女でしかないのである。
 武州高麗村の高麗家は千何百年間特殊な血統を守った由緒ある家だから、その系図の様式に特別なものがあるかと思って一見させてもらったら、ここでも女の子とおッ母さんは千何百年間ずッとただの「女」であった。女に名の記されたものは完全に一ツもなかったのである。
 もっとも、この系図は鎌倉時代に焼失して再製作したもので、一族重臣の系図を集め、それを参照して再製作した。だからそのとき鎌倉の様式が採り入れられたのかも知れぬ。
 鎌倉といえば、武家時代。男の力だけが物を云う時代で、まさに女が完全に名なしの「女」にすぎなくなったのは、この時代に於てであったろう。
 ところが、小説というものは事実を伝える学問とは違って、無い物は無いでは済まないのである。
 信長のおッ母さんや、お嫁さんや、お妾さんや、娘さんぐらいになると、どうしても名前をつけなければならぬ。
「コレ、何々院何々大姉よ」
 と云って戒名で呼ぶわけには参らない。私の恋しい織田信長サンのお嬢サンよ、という恋文を書かせるわけにもいかない。
 そこで、どうしても、いい加減の名前をでッちあげなければならないのである。
 ところが、女の名前は完全に不明也ときまっていればノンビリとデタラメの名前をでッちあげて落付き払っていられるけれども、思わぬところに本名がでていることもあるから、どうも後味がよろしくない。
 何とか軍記というような後世の俗書などに何々院何々大姉がちゃんと生きた人間の名前で恋を語らっていることもあるから油断ができないのだ。
 もっとも、何とか軍記の作者もおそらくデタラメにつけた名だろうと私は思う。我々にとっては江戸時代も鎌倉時代も同じように昔であるが、江戸時代と鎌倉時代、戦国時代の間にだって大変な距りがあるのだ。
 どうせウソを書く小説だと悟りはひらいているつもりだが、どうも後味はよくないものだ。

 一九五三年八月二十日に世界に大異変が起り、新しく生れ変るそうだ。これはエジプトのピラミッドの中から現れた何千年前の予言だそうである。
 島原の乱の時に、島民をアジって一揆に走らせた黒幕の策師たちは、追放のバテレン(神父)ママコスの予言というのを用いた。五五〇年、日域に神童現れ、習わざるに諸学に通じている。そのとき海に山に白旗なびき、神の世となるであろう云々、というような予言だ。
 追放のバテレン・ママコスという名は、実際の追放バテレンに該当する名が見当らないが、当時外国人や外国語に全く無縁無智の日本人が、いかにもそれらしいママコスなぞという名をデタラメに発明できようとは思われないから、何かの根拠はある名だろう。
 日域に神童現れとは、実在の神童天草四郎に附会したもの。山に海に白旗なびき、の海の方は当時続々来朝しはじめて、やがて通商を国禁されたマニラやマカオ等からの救援の外国船を指すのであろう。
 これをたった一字変えるだけで、つまり白旗を赤旗にするだけで、現代の予言の一つに流用できそうなところが面白い。
 現代においても、いつごろが第三次大戦の危機かというようなことは、アメリカやヨーロッパのジャーナリズム、日本の易断所などで二、三年前から予言めいたことをやりつけてることで、論証的に論断しても、予言は予言である。
 むしろ現代においては、論証的思弁的でない予言はないと云ってよい。それらの易断所は太平洋戦争の時には日本の大勝を易断している筈である。当るも八卦当らぬも八卦という通りだ。二ツに一ツだから率のよい当て物だ。
 私は去年さる雑誌社に西鶴の飜案小説をたのまれたおかげで、江戸時代に仕掛け山伏というものが存在したことを知った。
 山伏がゴマをたいて祈ると、御幣がコトコト動きだし、御燈明が風もないのに自然に消えてしまう。そういう法力を見せるから、失せ物が現れなくとも、病気が治らなくとも信仰が絶えないらしい。
 この御幣をさしておく容器の中に生きたドジョウが入れてある。山伏は荒々しく祈りながら錫杖をドシンドシン突きならすから、それにおどろいてドジョウが騒ぎ出す。御幣がうごくのだそうだ。
 また御燈明の方は砂時計の仕掛けを利用したもので、一定時間に一定量の油が底から抜かれる仕掛けになっていて、祈りの終る時に自然にパッと消えるのだそうだ。
 これを仕掛け山伏というのだそうだが、現代の何々教でも、この仕掛けで結構通用しそうじゃないか。
 とにかく現代は、ジャーナリズムも教祖も予言狂時代である。戦争なんか勝手にしやがれという連中は、クイズや競輪で、これも当てッこに熱中している。
 ピラミッドの御神タクも雄大で結構だが、ふたたび古事記の御神タクが復活しないよう祈るや切である。

 近頃の外国映画には拷問と手術の場面が多い。鎖でぶらさげてコテで肌を焼くという拷問が主である。手術の方は素人の応急手術の場面が多く、内臓からピストルのタマをぬいて、これもコテで焼いて消毒する。
 こんな場面は映画の筋や効果の上から不必要だと思うのに、焼ゴテを当ててウーウーと呻かせる。焼ゴテで呻かせるのに特別の趣味があるとしか思われない。
 その場面がなければ芸術上の効果が減ずるという必然性によるものなら話は分るけれども、なくてすむのにわざと見せるのは悪趣味という以外に仕様がない。
 支那の小説には、敵の首をナマスにして食ったりするのがでてくるが、日本の軍記は温和で、チャンチャンバラバラまでは型の如くだが、しつこい憎悪はでてこない。しつこい殺し方はでてこない。その代り、殺されたのがユーレイになると世界一しつこいな。
 けれども日本にナブリ殺しや拷問がなかったわけではなく、特に切支丹の拷問では、あの手この手の変化の数々において世界無比のところがあったかも知れない。
 その方法は斬首、ハリツケ、火アブリ、水責め、氷責め、熱湯責め、ノコギリびき、蓑踊り、穴吊し等々いろいろある。それは死刑の方法の如くであるが、棄教すればカンベンしてくれるのだから、この場合は拷問と云った方がよろしいかと思う。
 氷責めは仙台の広瀬川で一度行われた例があるだけだが、あとは九州が切支丹の本場だから主として九州で行われた。
 熱湯責めは雲仙で行われたが、今はもう熱湯責めのできるような場所はないようだ。蓑踊りは人間を簀巻きもしくは俵づめのようにして火をつける。ミノムシの動くようにもがくのでこの名がでたという。
 一番最後に発明したのが穴吊しであるが、具体的にどういう方法であったか、どうもよく分らない。
 だいたいこのように拷問や処刑の方法が変化したのには理由があった。はじめには斬首やハリツケであったが、見物人に挨拶したり説教したり、改心をすすめたりして堂々と死ぬので、見物人や首斬り役人まで改心して信者になる者が処刑のたびに増加した。
 これはイカンというので、死の荘厳を封じなければイカンということになった。火アブリは死ぬまでの時間が長く、それまで説教しつづけるので最も荘厳でいけなかった。
 最後に発明したのが穴吊しだ。手足を各々縛して妙な逆さ吊しか何かにするらしいが、これをやられると、実に滑稽きわまるもがき方をし、見ていると、おかしくなるばかりで全然重々しいところがない。おまけに声がでなくて、説教ができない。四、五日ぶらさがって、実につまらなく死ぬので、見物人もバカバカしくなるのだという。この穴吊しの発明いらい、急速に信者が減った。
 この穴吊しの発明の必要や過程を考えると、どこかユーモアがある。発明者の側の真剣な懊悩ぶりがうかがわれて、変にユーモラスなのかも知れない。再びこのようなことが日本において行われぬように祈るや切である。

 西洋映画によく現れる焼ゴテ拷問で思いだすのは、日本のお灸である。
 お灸の方は日本ではもっぱら落語の材料で愛嬌がある。しかし、自発的にやることだから愛嬌があるのだけれども、弘法灸なぞというデカイ奴を無理にやられることになれば、これも拷問であろう。日本では子供をおどかすのに、お灸をすえるぞ、という脅迫の言辞を慣用するところを見ても、お灸は自発的にやらない限り愛嬌のあるものではない。
 落語で大きなお灸をすえて人を笑わせるのは八さん熊さんであるが、実際に弘法灸という大きなお灸の信者にはむしろ女が多いということである。
 そう云われて思いだすのは、私が三十年も昔に当時まったく武蔵野のままだった世田ヶ谷で小学校の代用教員をやってたとき、その学校の向いにアワシマ様という昔からお灸で有名なお寺があった。月に二度か一度、お灸の日がある。すると続々田ンボ道を歩いてアワシマ様の門内に吸いこまれて行くのは東京の花柳地の姐さんとおぼしきキレイドコロならびにその一族とおぼしき人種が主であったのである。
 終戦後私の家にいた女中にも、弘法灸の信者がいて、夏になると月に一度お灸をすえに埼玉在へでかけていった。まだ二十ぐらいの娘である。
 お灸という自発的な拷問には、治病という効能のほかに、一種のエクスタシーがあるのかも知れない。
 金瓶梅には雷雨のさなかに女の腹部に灸をすえる件りが時々現れる。
 すると、西洋映画の焼ゴテの拷問の場面も、ある種の観客に対しては、何らかの陶酔を与えるのかも知れない。西洋にはお灸がないから、西洋の女の中には、ああいう映画をお灸代りにたのしんでいるのかナなぞと考えたりしたのである。
 江戸ッ子は朝湯の熱いのに我慢してつかるのが昔から自慢だ。
「オレは江戸ッ子だ。アツ湯好きだ」
 なんてのが、きまったタンカの一ツである。
「なんでえ、田舎ッペイ。屁のような湯へへいってやがるナ」
 なぞと云って、田舎ッペイはヌル湯好きと相場がきまっている。皮膚の感覚に都会と田舎にそう違いのある筈もないだろう。
 私は戦争中に皮膚病をやり、昨年また水ムシに悩んだときに他人が手をふれると飛び上るような熱湯へ患部をつける快感を知ったのである。そこで私は考えた。
「江戸ッ子のアツ湯好きというのは、江戸ッ子がみんな皮膚病のせいだろう」
 都会生活には皮膚病になり易い環境が多い。田舎の生活は土や泥になじんでいても、皮膚病には縁が遠いのかも知れない。
 私はちかごろ、そうきめてしまって、
「江戸ッ子だい、アツ湯好きだ」
 というセリフをきくと、ははア、ヒゼンの虫がタンカをきって威張ってやがる、と思うことにしているのである。

 おひな様だからよもぎの餅が食べたいなどと女どもが餅屋へ出かけた。なるほどにわかに春めいた陽気であるが、よもぎはともかくとして戦争中雑草を食わねばならなかった日々のことを考えると、あのころは人はやせ、しかし天はうららかであったことを思う。
 人間の記憶というものは妙なもので貧乏時代の苦しいときを思い出しても、それにつれて浮び出てくるお天気はいつもいいお天気のことしか記憶にない。
「人間の過去はいつでも晴天らしいや」と私は近ごろふと思った。雨の日、嵐の日がないわけではなく、雨漏りに苦しんで水の落ちてこないわずかの場所に小さくなって寝たような思い出すらも、それにもう一つのお天気がつきまとっていてそれがうららかなお天気なのだ。そしてそれが思い出のつねに主たるお天気だ。
 だから人間は思い出に化かされやすい。戦争中雑草やさなぎを食べなければならなかった思い出でもお天気の方の感傷に耽ればなつかしくさえなるのだ。
 東京の方ではあのころついに二ヶ月近い欠配になった。それでもどうやら生きていたのだから不思議だ。あのころといっても六、七年前までそうなのだ。
 東京では薩摩いもの茎というのが秋になると山のように配給になった。それを小量ずつ御飯に混ぜて食えとでもいうのなら話は通じないこともないが、米の方がないのだから薩摩いもの茎が主食のようなものだった。この茎だけは惜しみなく随分くれた。サナギを混ぜたパンがうまいといって随分歓迎したものだ。タバコの代わりにアザミを吸っているともっとうまい草があるといって葉っぱの白い草を教えられた。
「何という名?」
「この名はねえ、名はあるのかね、草に一々必ず名がなければならないという考え方は面白くないかもしれないよ」
 名のある方が素姓がしれてるらしくてよいにきまってらあ。
「この葉っぱの様子がタバコの葉ににてるだろう」
 それでなんとなく理屈もとおった。吸えばまんざらでもない気がした。まったく気分の問題だ。名も知らないような雑草に味の上下があるものか、まったく味がないわけではない。ないどころか強烈無比の味がある。まるで巨砲のような強烈な味だ。巨砲の音階を味わいわけるバカがいるものか。
 東京ではみるみる野犬も根だやしに喰べ尽されてしまったものだ。はじめのうちは赤犬は食えるそうだなどといわれていたが、またたくうちに白犬も黒犬もいなくなってしまったのである。広い焼野にはもう犬もいない。瘠せた人間がいるだけだ。お天気がうららかだ。いつもさんさんと太陽が輝いている。そして雑草だけが青々としている。太陽と雑草と瘠せた人間、そこから育った現代である。

 近ごろは戦前と同じように日本の空を広告のビラまきの飛行機が景気よくとぶようになった。一昨年の元旦のことであるが、私は某新聞主催の終戦後初のビラまき飛行機にのった。御承知のように、終戦後はずっと日本人が飛行機を所有することも、とばすこともできない定めになっていて、日本の旅客機も許可されていなかった。その年の秋ごろ日本の旅客機が許可ときまって、そのハシリの意味で、某新聞が元旦に東京、大阪間の貸しきり飛行機をとばせる許しをうけた。終戦後日本人を満載した初の飛行機上から、東海道をビラをまいて通ろうという趣向だ。DC4型という四発の一番普通の旅客機であった。
 その日の乗客は高峰秀子、乙羽信子というようなキレイドコロをはじめとして、当時巨人軍の青田君だの、大臣だの、その他私の知らないダンナ方がたくさん乗っていた。私は当日のレポートを書く職人なのである。
 新聞社の方では通過の都市ごとにその上空を一周して元旦のあいさつのビラをまくつもりで、ビラまき役のサムライが何人も乗りこんで張りきっておったのである。さてそのビラをサムライたちがせっせと機上に運んでいると、機長がきて、
「それ、なんだ」
「元旦の挨拶状だ」
「それをどうするのだ」
「通過の大都市の上空でまく。すなわち、まず東京、この上空はとくに大まわり中まわり小まわりと三回まわる。つぎに横浜、清水、静岡、浜松、名古屋、大阪といったグアイだね」
「それは、よせよ」
「なぜ?」
「悪いことはいわない。オレは機長だ。空の上へあがったら、オレにまかせておけ」
「そうはいかんよ。商売だ。アンタはアメリカ人だからセンデンということは百も二百も承知だろう。日本のセンデンも必死だぜ」
「そんなら、東京の上空だけ一まわりしてやる。それ以外はあきらめろよ。悪いことは言わない。今にわかるよ」
 サムライ大将が私のところへ浮かない顔付でやってきて
「あのキャプテン変なこと言いおるよ。東京の空一まわりでやめとけとはなぜだい」
 むろん誰にもワケがわからない。ところが飛行機が離陸して一分三十秒すぎるともう分ってきたね。
 あれが皇居だ、あれが銀座だとハシャイでいたのは一分三十秒である。三分すぎたときには下界を眺めているお嬢さんもダンナもいない。ビラまきのサムライも蒼白になってビラとゲロを一しょにまいている。
 大きな飛行機が速度を落し窮屈そうに胴体をまげて低空を旋回するということは大変なことなのだ。グッグッとキリもなく沈んだり傾いたりする。旋回を終って高空へ舞いあがるまでは、青田君以外は半死半生であった。彼は戦闘機のりの兵隊サンだったのだ。

 東京の大田区鵜の木のあたりに今も鎌倉街道の一部がのこっている。墓地に沿うて丘をくねくねと曲っている道であるが、その幅は一間ぐらいしかない。これが昔の幹線道路かと思うと、昔の話にしても異様だ。
 しかし現代の幹線第一号の東海道の国道でも、京浜国道をはずれると哀れなもので、ろくに舗装もされてないし、人道もない。昔の山道に毛の生えたようなものだ。
 関東平野を歩いていると、見渡す限り平らな畑だというのに、コの字やくの字の道を歩かせられる。はなはだしい時はキンチャク型に大廻りさせられ、キンチャクのクビを結べば二町足らずのところを十町も歩かねばならないところがある。
 昔はそこにヤブがあったり池があったりして廻り道をつくったのであろうが、今は一面に平坦なのだから、キンチャクのクビに新しく道をつければよいのに、それをやらない。連絡ということについては全然無関心で、昔ながらの不便を当然としているようだ。
 伊豆半島は東京近郊の最大の観光地で、したがって日本随一の観光地と云ってよかろう。ところがここの道路がまたひどい。
 私が伊東にいたころ、私の小学校の幼な友達が時々遊びにきた。彼はさる自動車のタイヤ会社の社員であった。どうして彼がチョイチョイ伊東へ来るかというと、タイヤの試験にくるのである。
「伊豆の道路で試験してパスしたタイヤなら日本中の道路で走れるのさ」
「なぜ?」
「つまり伊豆の道路がボロ道路だから、ここでパンクしなきゃ日本中のどの道でもパンクしない折紙がつくのだな」
 ひどい話があるものだが、ミジンといえどもウソでない。伊豆の道路で試験して折紙のついたタイヤが日本中走っているのだ。日本一の観光地の道路がこれだ。
 もっとも、部分的に京浜第二国道のようなチョイとした道路もある。戦争中の私の住居はその道路沿いにあったが、屋根をつきぬき二階をつきぬき階下の畳をつきぬいて縁の下に達してゴロンと横にのびる小型焼夷弾が、この国道ではハネ返ってしまうばかりか、路面にはぶつかった傷跡もつかなかった。これぐらいの道路になると、いかにも現代道路の感であるが、そんなのは極めて一部分にすぎない。
 ちかごろ小型自動車が流行しているから、テキメンに跳ねたり横にころがりそうになったりして、道路の悪さが身にしみて分るようになった。
 チャチに舗装してハゲチョロになったニセの近代道路が一番ひどい。まだしも砂利をマンベンなくしいた田舎道の方がよい。
 ところがどの都市も一足でると、幹線に限ってこのニセモノ近代道路である。歯をくいしばってジッと黙って乗っていないと舌を噛みきる怖れがある。
 こういう道路を幹線と称し国道と称して日本中に張りめぐらして観光国家もないものである。もっとも鎌倉時代よりは進歩している。

 昔私は京都伏見の計理士の二階に下宿していた。ちょっと小ギレイな家で、その二階八畳と六畳の二間そっくり占領したのだが、それで間代は二円であった。
 京都は諸事倹約の土地柄で、生活費の安いところであるが、別して伏見のイナリ界隈は安いとされている。
 なぜかというと、ここは貧乏人の集るところだ。零落した人がこの界隈へ集ってきて、しがない稼ぎをしながら一陽来復をまつ。そういう零落した家族が諸方の二階にトグロをまいている。三間も四間もある二階そっくり借りて間代は三円四円ぐらいだ。
 もっとも、一般に京都の古い建物の二階というのは、天井が低く小窓があるだけの物置同然の陰気で不要な部分であるから、間貸し賃も格安なのかも知れない。
 ところが私の借りた二階は、新築したばかりの建物だ。一応階下は京風に入口の戸をあけるとズッと土間が通っているが、二階は東京風に床間づきの、立派な居間につくられていて、家全体のうちで二階が一番居心地よくできている。その二階全部借りきって金二円だから大そう安い。
 その代り、道路一つ距てて前方一面は広々と全部火薬庫なのである。伏見はイナリ様の町でもあるが、当時はまた陸軍の町でもあった。私の住居の前は陸軍の火薬庫で、桝型の山がズラリと並んでおり、その上を銃剣もった兵隊さんが常時グルグルと歩いている。彼がもしも私の友人なら二階の窓から彼と話をすることもできる。
 私のような風来坊に火薬庫なぞが心配の筈はない。二階のタバコの火で火薬がバクハツしやしまいし、これはどうも値段が安くて気に入ったと大喜びで引越した。
 アルジの計理士もすこぶるの好人物で、赤面恐怖症という持病だ。ちょっとのことで赤面して物がいえなくなってしまう。今なら計理士のつとまるはずがないが当時は平和で税金と人間の関係なぞも平和であったから、こういう計理士が存在した。忙しくなると、どこからかソロバンの達者な十三ぐらいの子供が一人加勢に現われてネジバチ巻でパチパチやってる。アルジは独身であった。
 ところが月末になると、アルジはきまったように姿を消す。親類に病人ができたとか、オヤジが急病だとかと云って、
「ちょッと、たのんまッさ」
 と云って一週間ぐらい消え失せてしまう。月が変って二三日目にお酒で赤い顔をしてヒョッコリ戻ってきて、
「嵐山は見ごろどッせ。いッといでやす」
 必ず風流なことを云う。今月は宇治の茶ツミがどうだとか、というような風流なことを必ず云う。
 ところが、彼の留守中、私は多忙をきわめるのだ。月末の借金取りのヒンパンにやってくること。京都は今もって義理堅いのか、この借金取りも月末すぎるとピタリと来なくなる。すると彼が戻ってきて、風流なことを云うのであった。私は二円の家賃を払って借金とりの言いわけ役に住込んだようなものだった。

 京都伏見の計理士の二階に住んでいた何ヶ月というもの毎月の月末になると是非もなく他人の借金の言訳をしなければならないハメになった。そのとき私は他人の借金の言訳というものは楽なものだということをつくづく味わったのである。
 全然自分に関係がなく気の咎めるところがないから、唱歌をうたうように気も軽く述べたてることができる。
「どうも相すみません」
 なぞと、頼まれたわけでもないのに、自然に声がでて、自然に頭がペコペコさがるから、万事が立板に水である。それを卑屈だと思うような考えは起らない。むしろ名優が演技をたのしむ心境と申してよろしいほどオーヨーである。
「春さきとは申しながら、まだ山風が吹きすさんで寒気身にしみる折から、遠路おでかけで、まことに大変なことですな。あいにくなことで」
 なぞと、ふだんの私なら思いつくはずもない美辞麗句がおのずからに湧きおこる。これを詩境というのかも知れない。
 自分の借金の言訳はとてもこう快適にできるものではない。第一、私がおのずから借金の言訳をしてやるハメになったアルジは計理士なのである。
 計理士と申せば、人の税金を計理して税務署と交渉談合する役目で、これこそ他人の借金の言訳業のようなものではないか。つまり本職も自分の借金の言訳はできないのである。私はその本職の借金を言訳してやった。
 どんな執念深い債鬼が押し寄せても人の借金の言訳ならなんでもないものだ。むしろ敵が執念深いほどハリアイがあるぐらいタノシミもでてくるもので、
「なんだい、今の奴は。やにアッサリ帰っちまいやがったな」
 なぞと物足りない気持になる。敵が債鬼然とした風貌をしていると、さてこそ来たれとおのずから私の身構えも変り、とたんにイソイソと、
「やア、いらっしゃい。本日はお寒い陽気で、都大路を山風が吹き走り」
 とニコニコしながらモミ手をして出むかえるような心境になるものだ。
 同じ他人の借金でも、取立ての方は決してできるものではない。取立てるということは積極的な事実であるが、言訳の方はもともとゼロで、こっちも元々手ブラであるし先方も手ブラで帰るだけのことだから、そこにおのずから詩境も生じてくるのであろう。
 総じて借金というものは、無を本質とするせいか、あるいは時々無から有が生じる奇跡もあるせいか、甚だ詩境に通じているもののようである。詩境を会得しないと借金の哀れさが救えないせいもあるかも知れない。
 私もずいぶん人に借金をしたが、敵ながらアッパレな奴だと思ったのは私の義兄に当る山中の造り酒屋のアルジで、私の借金の申込みに対して巻紙にしたためた長文の返事をくれたが、近ごろ山中も雪が消えてホトトギスのなく気候になったなぞ書き起し、全文風景の描写ばかりで借金のことには一字もふれていない返事であった。

 終戦後は盤石が高価になったせいか町内の碁会所というものが甚だしく少くなった。
 昔私の住んでいた蒲田の矢口の渡しというところに焼け残った碁席が一軒あったが、一度遊びに行ったところ誰も客が来ていない。今住んでいる桐生も焼け残った町だから最近碁会所の一ツが再開店して路上から内部が見えるが、いつも老人連がせいぜい三四人集っているだけだ。
 戦前は若いサラリーマンや労働者にも相当普及して、元気のいいのが碁会所へ来ていたものだが、思うにあの連中、もしくはあの連中の後継者たるべき若者はパチンコとか競輪に熱をあげているのだろう。
 特にパチンコ屋と町の碁会所とはその簡単なヒマツブシという点で甚だ類似した性格があるから、碁会所へ通う可能性の青年はパチンコ族になったと見てよかろう。パチンコ屋で一番根気よくねばっているようなのが昔なら碁席の常連になっているのかも知れない。
 私も一度、人に世話して碁席をやらせたことがある。京都伏見で計理士の次に弁当屋の二階に住んだ。この弁当屋に宴会席のつもりで造っておいた特別の二階があって、シガない弁当屋になってからは宴会もないから不要な物になっている。ここに碁会所をひらかせたのである。
 なぜ碁会所を開かせたかというと、ここのオヤジが日本一に碁が好きだ。そのくせ日本一に碁がヘタなのである。
「ちょっと教えてくれまへんか」
 と云って、仕事がヒマになるとすぐ碁盤をもってくる。そのころは私も碁がヘタだった。段にセイモクという仁にまたセイモクもおかなければならないほどヘタであった。ところがオヤジはその私にセイモクおく仁にまたセイモクおいても勝てない。置石の数で勘定すると三十六級という位置に相当することになるが、この位置の碁打が実際的にどういう手を打つかというと、つまり当りの石をつなぐ。それだけである。
 碁には四ツ目殺しという第一課がある。石の生き死にとはどんな形か、ということだ。その第一課の生き死にをどうやら心得ているだけなのである。
 もう三十年も碁に凝っていて、それだけしか進歩しないというのだから珍しい。生き死にがどうやら分るだけであとは石を当てずっぽうにベタベタ並べていて、それでどこが面白いのかヨソ目には見当もつかないが、当人は面白くてたまらぬという。こんなのが呉清源の碁譜をよんで分る筈がないのに、毎朝新聞を待ちかねて読んで、
「さすがヤ。ええ手うちよるなア」
 膝をうって感心している。
 このオヤジが一日に三度も四度もヒマあるたびに碁盤をもってきて挑戦する。仕方がないから相手してやる。セイモクにコミ百の約束でうっても私がかつ。つまりオヤジの石は隅の一二ヶ所しか生きないのだ。負ければ負けるほど勇み立って挑戦するから、
「もうダメだ。そんなに碁が打ちたきゃ二階で碁会所をやりなさい。アンタと同じようなヘボもくるだろう」
 と碁会所をひらかせたのである。

 そのころは十円か十五円でちょっとした盤石が買えたから、碁好きの隠居の内職仕事には碁会所もマンザラではなかったようだ。碁の方は将棋とちがって賭けを商売にしているようなのが入りこまないから、客の柄もよい。
 しかし、私の碁会所は失敗であった。なんしろオヤジが生き死にしか知らない。顧問格で、いわば碁会所の教師格に当たる私が段にセイモクの仁にまたセイモクでは話にならない。
 京都は絵描きの町で、長髪ボウボウたる修業者が方々にゴロゴロしておって、絵師さんとか先生とよばれている。一般にゴロゴロしている長髪族はみんな先生だ。だからオヤジも私を先生とよぶ。これがいけなかった。碁会所のお客は碁の先生とまちがえ、おそるおそる私に御教授をねごう。次には私の弱いのにおどろく段どりとなる。
「あんた、なんの先生どす?」
「オレもよう知らんなア」
「もうちょッと碁のうてる人いまへんか」
 たいがいのお客が二度とこない。二度三度つづけてくるのは同格以下のヘボばかりで、よその碁会所で相手にしないヤッカイ者のヘボばかり集ってしまった。
 天下のヘボが六、七人で我物顔に碁会所を占領したから、益々誰も寄りつかない。常連どもは大よろこびで、
「この碁席はノンビリしてまんなア」
「碁はコセコセしたらあかんわ」
 コセコセしとらんわけである。右の隅でできたシチョウが左の隅の壁にぶつかってオダブツと定まってから、
「ウーム、やっぱりシチョウか」
「もうちょっと早う分らなあかんわ」
 なぞとやってる。この連中が相談して、
「毎日の常連は会員ちゅうことにして、値下げしなあかん。どや」
 一日十五銭のところを会員に限り十銭ということになったが、会員のほかには誰も来やしないから、要するに席料十銭ということだ。おまけに会員七、八人しか居ないから、平均一日五人集ればよろしい方。一日のアガリ五十銭なら上々で、平均月に十二、三円のアガリしかなかったようだ。
 私がここに下宿していた一年間はそれでもヘボが集まって賑やかにやっていたが、私が東京に戻るとまもなく碁席はつぶれたそうである。
 この弁当屋は一食十三銭、お酒一本十二銭であった。毎晩存分に飲んでも、私の生活費は二十五円ぐらいのもので、もしも人に希望や野心がなければ、これぐらい太平楽な生活はなかった。
 しかし若い人間にとって希望を失った太平楽ぐらい味気ないものはない。今にして考えると、碁会所というものの性格自体が隠居のヒマつぶし、希望を失った太平楽そのもののような気がする。そしてこの乱世に碁会所が栄えないのは尤もだという気がするのである。

 終戦後は日本全国おしなべて同じようになってしまった。駅を降りるとまずマーケットがある。戦災都市ばかりでなく、焼けない都市まで、無理に無い土地を苦面して駅の付近にマーケットを造ってことさら町を汚くしているから笑わせるのである。
 私の住んでいる桐生市とても同じことだ。もう田舎の小都市の独特の性格というようなものは、旅行者には分らない。ブラックマーケット。アンチャン。パンパン。パチンコ。
 ところが住みついてみると、東京や大阪のような大都会とハッキリした相違が一ツだけあることに気がついた。それは公衆に使用されている便所である。
 桐生に映画館は七ツほどあるが、田舎都市の映画館のことだから古ぼけた薄汚い建物が多く、その便所は特に建物はいたんでいる。けれども、常に掃除が行き届いていて、いつ使用しても不快を感じることがない。どの映画館もそうである。
 東京はこうはいかない。戦後のみではなく戦前においても銀座のスキヤ橋横の公衆便所など、東京の中心にありながら、常に悪臭を放つための存在でしかなかった。駅の構内や映画館の便所なども同断で、常人の神経では用をたしうるものではない。
 私は東京でありがたいと思うのはデパートの存在で、ここの便所だけは掃除が行き届いている。最近は用いないから知らないが、戦前にはちゃんと紙もそなえてあった。
 私は桐生の映画館の便所の掃除が常に行き届いているのを発見して以来、この田舎の小都市に愛情を深めるようになった。
 シツケというものがあれば汚い便所で我慢できるものではない。ガラスが破損して板をぶちつけてるようなガタピシの便所でも、掃除さえ行き届いていれば、気分的に清潔なものである。
 貧乏な日本の田舎に水洗便所は望みがたいことであるから、ガタピシ便所でも仕方がないが、要は気分の問題だろう。
 犬ですら自分の居住区域には決して便をしないものだ。豚ですら広い土地に放しておくと小屋の中や近所には決して排便しないそうだ。それが動物にそなわる生れながらの美醜感覚というものだろう。
 都会人ほどこの感覚に鋭敏でなければならないはずだが、東京の公衆用の便所の汚さというものは物凄いものである。こういう環境にとりまかれて平然たる神経が、国民道徳を論じたって、ツケ焼刃にきまってらア。東京の便所にくらべれば、ストリップの方がどれくらい清潔だか知れやしない。
 温泉の一流旅館へ行っても、便所に紙のあるところがない。毎日紙を盗む奴があるにしても、イクラのことでもないじゃないか。一流旅館と称するからには、ちゃんと紙のあるべき場所に紙ぐらい備えておくがよい。用紙用の金具だけがむなしくぶら下っているのを見るのは、たまらないほど魂の貧困を感じさせられる。ここに住んでいる人たちの魂は、犬や豚よりも下落しているようだと思う。そう感じさせるのが通例の日本の便所だ。

 終戦後、ふと名のある人の邸宅別荘が人手に渡って旅館になったのが多い。東京、阪神、著名な温泉場はとくに多い。いなかへ行っても、やっぱりある。
 伊勢の松坂は天下の富豪三井家の発祥の地だが、そこへ牛肉を食いにでかけたら、三井の本邸が旅館兼料理屋になっていた。
 碁や将棋の対局は静かな環境が必要だから、新聞社主催の大切な対局になると、たいがい元何々という静かな旅館を用いることが多い。私はよく観戦記者にたのまれて出かけたから、自然そういう旅館へ出入する機会が多かった。
 またわれわれ文士が温泉なぞへ仕事に行くと、こんど新しい別館ができましたなぞと云って案内されるのがたいがいそうであるし、雑誌社や新聞社が仕事の都合で部屋を世話してくれるときも、静かな環境をと考えてくれるせいか、元何々邸という庭園のひろい旅館へ案内されることが多い。
 そんなわけで、自分でそれを意志したわけではないのに、自然諸方の元何々邸へ泊ることが多かった。元宮様邸、元富豪邸、元貴族邸、元大臣邸、元大将邸といろいろ泊らざるをえなかったが、なんといっても元富豪邸が一番よろしい。庭園も邸宅もバカ広いけれども、富豪邸はたいがい新しい建築で現代生活に相応してできているから、どんなに広くても居住性というものが主として考えられていて居心持は悪くないようにできている。
 人間の住む家に居住性が主になっているのは当り前じゃないかといって怒る人がいるかも知れんが、それが素人考えというものだ。全然居住に適しないようにできてる家もあるものだ。
 そういう例で私がキモをつぶしたばかりでなく、カゼをひいて四十度ちかい熱をだしてしまったのに元宮様邸というのがある。
 何宮様だか忘れてしまったが、京都の御所のちかくの電車通りと川に面した邸である。私が五年前に泊ったときは清洲とかいう旅館であったが、この名も確かではない。
 当時私は小説の中に京都弁の必要があって京都へでかけた。ちょうど大晦日の晩で、どこの一流旅館も新年中は休みだとかで部屋がなく、駅の案内所がここを世話してくれたのである。
 さて部屋へ通されて参った。三十畳敷というバカ広い部屋で、キャッチボールができるほどだ。
「京都は冷えまっさかい、オコタ用意しましょ」
 と気をきかしてコタツを用意してくれたが、三十畳のマンナカに小さなコタツに当たってると、三十畳の寒気がウワァーッと背中へしがみついてくるのである。一夜でカゼをひいてしまった。
 この部屋を一足でると便所があったが、この便所にはまだ電燈がひいてなかった。むろん建物全体が電燈以前の存在であるが、現代に至ってもまだ便所にまでは電燈をひかなかったというノンキな話なのである。居住に適しない家というのがあるもんですよ。

 熱海の伊豆山のはずれに桃李境という静かな旅館がある。伊豆山もここがはずれで、あたりは海と山ばかり、いささか人里はなれた不便な場所である。私は数年前、よくここへ仕事にでかけた。当時久米正雄氏もここを仕事場に使っていたようだ。
 この旅館は部屋の造りが新婚旅行とかアベック向きにできていて湯殿も便所も附属して独立しているから、我々の仕事部屋にも都合がよかったが、土曜日曜になると、やっぱり団体がおしかけてくることが多い。そういう賑やかな日のこと、女中がきて、
「団体で賑やかでお仕事におこまりでしょう。ウチの隣りが松井石根いわね大将のお宅で、庭づたいに往復できます。こういう時の用意にウチでお借りしてありますので、よろしかったらお使いになりましては」
 という。それでは、と私は引越した。
 私は例の温泉別館のデンで、松井石根大将の家を旅館が借りとって自由に使用してるものと考えて引越した。ところが、そうではなかった。
 まだ家族がそこに住んでる。私が通されたのは大将の書斎とおぼしき一室であったが、そこもそっくり大将が住んでたままの調度があって、いつ大将が巣鴨から出獄してきてもすぐ使えるようになっている。当時大将はまだ巣鴨に入獄していた。私もいささか毒気をぬかれたていで、
「君のウチの別館かと思ったら、まだ大将のウチじゃないか」
「ええ。でも、いつお借りしてもよろしいような約束になっております」
「ここを使うのはボクがはじめてだね」
「ええ、まア……」
 といって、女中は言葉を濁したが、私の前に久米正雄氏もここへ案内されたことがあったが、一日で逃げだしたという戦歴があったのである。
 別荘ならばともかく、本宅である。入牢じゅろうしている人の愛惜の品々がそっくりしている書斎。たぶんその人が死刑になれば魂魄はここへもどってきて、今私の坐してるフトンに坐って机に向うに相違ないような気がする。机の上に満州国の張総理が大将のために書いた額がかかっていた。
 私はそこで三日間仕事に没頭した。そして夕方本館の大湯へ行くと、久米正雄氏がつかっていたが、
「いまラジオでいっていたが、とうとう判決が下りましたね」
「え?」
「お隣りは絞首刑でね」
 A級戦犯の判決のことなのだ。私も呆れてしまって、
「なんてことだ。よりによって、私がその書斎を借りてるときに判決とは」
「アッ。あなたですか。いま住んでる人は。誰かがいるなと思ったが、それはまア運のわるい……」
 久米さんは私が絞首刑の判決をうけたような気の毒そうな顔をした。私は翌朝早々と東京へ戻った。

 土地自慢の過ぎたのも困るけれども、土地にない物を珍重しすぎるのも困るものだ。
 上州はソバの産地でうまいところだときいていたから、ソバ好きの私は喜んで越してきたところが、繁華街は軒並みにスシ屋ばかりで、ソバ屋の数は至って少い。どうしてこうスシ屋が多いのか一驚せざるを得ない。ソバ屋は薄汚い店ばかりだが、スシ屋は磨き立てたような江戸前の店構えがそろっていて、これだけのスシ屋がみんな盛業中とは呆れ果てたスシ食い族の棲息地である。
 桐生市の魚屋は水戸作とか水戸孫とか、たいがい水戸が頭についている。夏になると水戸の海岸へ海水浴のバスがでる。すると昔から海では水戸とレンラクがあったのだろう。今の鉄道地図では、汽車は東京を廻らないと水戸へ行けないから六、七時間かかる。その水戸が一番ちかい海なのだから、海の魚というものは稀代の大御馳走なのだろう。中にもナマの魚肉を用いるスシというものが何よりの御馳走というわけかも知れぬ。
 海に遠い京都でも、祭の御馳走はサバのスシときまっている。しかし、さすがに京のサバズシはイキの悪さを承知の上で、それを生かすように特別の工夫をほどこしたスシだから風味はわるくない。
 上州のスシは江戸前の握りズシをイキの悪い魚でマネをしただけのものだから、私にはソバの方がどれくらい御馳走か分らないが、土地の人は自宅でソバに食傷しているのであろう。
 上州は変ったところで、新年に餅を食べない家が少くない。先祖代々食べないのだそうだ。とくに多野郡というところは、全郡ほとんど新年にウドンを食べる習慣だそうだ。
 私は新年に餅を食べない習慣の人々が日本に存在するということを、この土地へくるまで知らなかった。その後、きくところによると、名古屋近郊にもそういう村があるそうで、あるいは諸々に分布しているのかも知れない。上州ではそれが広範囲にわたっており、新年に餅を食べないことが異とされていない。
 餅を食べないばかりでなく、代りに食うウドンは至って粗食で、その部落では新年を慶祝する風習がないもののようである。
 それではどんなお祭をとくに祝うのかと郡誌をひっくり返したり古老にきいたりしてみたが、ほかには別に変った風習もないようだ。しかし、新年を祝わない村の分布を全国的に調べると何かが出てくるかも知れない。
 とにかくこの辺は、古来ウドンとソバを常時食べておって、食べ物の豊富な現代に至って、ウドンとソバを常時食うことの味気なさを痛感した人種が住んでいるもののようだ。それらの田舎の人たちが休日に集まってきて遊んで帰る前橋とか桐生という都市のソバ屋の少いことと軒並みにスシ屋が並んでいる盛観を見れば、海へのノスタルジイよりも、ウドンへの反逆を感ぜざるを得ない。
 その点では、西洋料理と支那料理屋が多い点で、日本全体がそうなのかも知れない。

 私は少年時代には夏になると一日中海で暮した。私ぐらい遊び好きの子供はいなかったから、毎年まだ誰も海へ遊びに行かないうちに遊びはじめ、海に人の姿がなくなってから遊びおさめる。盛夏の候には、人がいないうちに海へでて、人の姿がなくなってから家へ帰る。遊びにかけては無性にタフに私とつきあうことのできる子供はいなかった。
 日本海は九月の声をきくと急速に秋になる。二百十日の嵐でも吹けば、再び夏に戻るということはない。私の海水浴だけはそれからもつづく。
 なぜなら、気候はうそ寒くなっても、海の水はまだあたたかい。十月になっても、あたたかい。五月、六月の水の方が冬の名残りでむしろ冷たいものである。私の日本海での海水浴の記録は十月十日までであるが、それは十月十日という日がなんとなく記念日らしくて気に入ったからその日で打ち切りにしただけで、まだ海水浴はできたのである。
 長ずるに及んで、私は多汗症のせいもあるが、少年時代の習慣で、一日に一度は水につからないと夏が来たような気がしないという因果な性分になった。
 遠い海まで泳ぎに行けないから、風呂桶に水をみたして冷水浴をする。東京の水道の水は生ぬるくて冷水浴の喜びは味えないが、私は幸い東京でも井戸のあるところに住んでいたから、存分に冷水浴をたのしむことができた。
 満々と汲みたての井戸水に五分間もつかっていると骨のシンまで冷えてくる。そこをもう一ツ我慢してつかっているには、そろそろ歯を食いしばらなければならない。そのへんまで我慢して悠々と風呂桶をでるのは悪い気持ではない。
 盛夏の候も、暑い日ざかりに冷水浴を三度もすると、あまり暑さを感ぜずに過すことができる。その代り、胃腸にはわるい。とかく下痢をしがちである。しかし、近年は、これをやらないと、夏の日中には仕事ができないから、今でもやらざるを得ないのである。
 戦争中、燃料がなくて秋になっても風呂が燃せなくなったから、ままよ、いつまで水風呂に入れるか、ひとつ試してやろうと考えた。また一ツには、いずれ本土も戦場になって、寝るに家もないような事態をむかえるかも知れないから、観音様の縁の下で冬を越している乞食に負けないような体質を用意しておこうと考えたせいもあったのである。
 毎日歯をくいしばって水風呂につかっていたが、十二月六日という日に、水からあがるとボウとして、フラフラとぶッ倒れてしまった。
 私は冬になっても、夏と同じだけの長時間水につかることを心掛けていた。それが無理であったようだ。その他、当時は食糧難で、栄養失調の気味もあり、不覚にも流しの上へヘタヘタとくずれて、しばしノビテしまったのである。
 そういう次第で冷水浴の記録は十二月六日までであるが、この不覚は今でもシャクの種で、不幸にして再び戦争があるときはせめてこの記録を破ってやろうと考えている。

 芸ごとというものは、変に小利巧で、目先がきいて、損得勘定に明るすぎるようだと大成しないものである。一徹で、人の言葉に耳をかたむけず、一人よがりに打ちこむようなバカなところがないと、本当に個性を生かした芸というものは育たない。
 そこで私の仲間の間ではバカヤローということは何よりも尊敬すべき愛称になっている。
「お前は立派なバカヤローだ」
 といわれると、大いに感激して、
「そうか。お前はそれを認めてくれるか」
 と堅く手を握りあって意気投合する。酔っ払うと、
「オレはバカだ。日本一のバカだぞ。それが分らねえのか、このヤロー」
 と云って威張りたがる奴もいる。
 しかし、酒場で酒をのんで酔っ払っているのは芸術家だけとは限らないから、詩人が酔っ払ったあげく見知らぬ隣人に、
「貴公もバカヤローらしいいい顔をしているな。どうだ。大いに飲もうや、なア、バカヤロー」
 と杯をさすと、相手は血相を変えて、
「なにッ。オレをバカヤローと言ったな」とビールビンを握りしめて立ち上る代議士のような人種も少くない。だから詩人も酔って事を起すことはあるが、酔わずにバカヤロー騒動を起すことはないものである。
 大臣だの代議士という連中は言葉というものを知らない。言葉の味というものについては平時に於ても無縁粗雑な生活を送っているから、国会でバカヤローについて争議を起すような不覚なことになるのである。
 もともとバカとかバカヤローという言葉は甚だしく語呂がよく滑りがよいから、誰しも日に三度ぐらい、食事同様つい使いたくなる言葉である。
 こういう使い心持がよくてつい滑りだすような軽快な言葉は、それを発することによって人に喜ばれ、人に快感を与えるように意味を切り換えておく方が便利だ。
 言葉というものは個人が特殊に私用することができるものであるから、自分の独特の意味や慣用をつくっておくと便利なものである。
「お前は信頼すべき大バカヤローである」
 と表彰状を与えるような慣例をつくっておけば、口が滑ってもマチガイはない。
 又もし万全を期したい場合には、相手をバカ呼ばわりする必要の起った際に、
「このシァン(犬)め!」
「コッション(ブタ)ヤロー!」
 と呟くような習慣をつくっておくと、無能な代議士にききとがめられるような心配はまずあるまい。
 要するに日本の大臣や代議士は平素に於て言葉の味を解する生活と無縁な、粗雑無頼な生活を送っているから、埒もないことで国会が荒れるようなことになってしまう。
 私は酒に酔ってざッと二十何年間というもの人をバカヤローとよんでいるが、相手は感激して、時には涙すら浮かべて私の手をシッカと握りしめるばかりで、怒られたことなぞは一度もなかったのである。

 昔、所沢に飛行学校があるころ、飛行機のりの猛者がよく飯能の「山の家」というところへ飲みに行くという話をきいた。
 ワンのフタをあけると芋虫の煮つけであったり、蛇がトグロをまいていたりする。実は普通の料理を虫や蛇の形にしただけのことだそうだ。飛行機のりの猛者は喜ぶかも知れないが、よい趣味ではない。私は友人の飛行機のりからその話をきいただけでウンザリして、誘われたけれども行く気持になれなかった。
 ところが一昨年、ふとしたことで飯能へ行って、どうしてもそこで中食をたべる必要にせまられたとき、土地の自動車の運転手が案内したのが「山の家」だ。天覧山という飯能の名所の地にあるのである。
 私はそこへ到着して、もっぱら山の幸を供する料理屋であるときいて、さては例の芋虫のウチだなと思いだした。
 今ではもうワンのフタをあけても芋虫や蛇がトグロをまいているようなことはない。サツマ芋の中においしいうま煮をつめてきたりして、アベコベにとても気がきいている。
 いかにも山の物ばかりだ。この土地にふさわしい季節の山の物である。山の野菜、山の肉。どの料理も手数を省かずによくギンミした風情で、味もよろしいばかりでなく、一皿の量が少量なので酒飲みには大そうよかった。
 その代り少量ずつの料理が、次から次へ十いくつも現れてきて、それぞれ風味に変化があって、うまかった。飛行機のりの猛者が賞味したのは、あながち芋虫や蛇がトグロを巻いているせいだけではなかったらしい。しかし彼らはそっちに主点をおいて吹聴するから誤解をまねくのである。
 私が旅をした範囲で山の芋をこんなに豊かな風情をそえて食べさせてくれた店はほかにない。その上、値が安いのだ。
 飛騨の高山に有名な精進料理屋がある。これも、京都や東京の精進料理よりむしろうまい。しかし、あんまり都会風でありすぎる。飛騨の高山という山奥で食ってるような気がしない。土地の性格をぬきんでて日本的な味覚でござるというのもまた一そう結構ではあろうが、どだい精進料理というものは、野菜の味をわざと肉の味に似せたりして味気ないものだ。それに二十にちかい皿数がでて、それがみんな野菜だというのも味気ない。私は野菜料理が好きであるが、二十皿もうちつづいた野菜料理というのは味気ないものだ。
 私は坊主の学校で坊主の学問を学んだから、そのころ坊主の食べ物に興味をもって、オーバクの普茶ふちゃ料理などというものをわざわざ京都や宇治へ食べに行ったりした。さすがに京都には書生をおどろかすに足る精進料理屋が何軒かあった。相当に美味だとも思った。
 私の学友にオーバク宗の坊さんの子供がいたから、
「君たち、うまい物を食ってるなア」
 と云ったら、
「冗談じゃないよ。汚ならしい坊主と同じワンに口をつけて飲みわけるのは、やりきれやしないよ」
 と渋い顔をした。その顔が今も忘れられない。さぞイヤなことだろうと同感もした。

 二三年前まで近藤日出造君の編輯による『漫画』という雑誌があった。漫画的な社会時評に重点をおいたかなりシンラツで肩のこらない良い雑誌であったが、売行きは悪かったらしい。ちょっと高踏的でありすぎたのかも知れない。
 ある時、私が呉清源と本因坊の十番碁を観戦していると、近藤君が婦人記者をさしむけてよこした。碁について十枚ばかり『漫画』に随想を書いてくれというのだ。
「碁の随想って、格別そんなのも持合わせがないよ」
 と私が答えると、彼女の返答が奇想天外である。
「なんでもいいんです。たとえば……いったい、白い石と黒い石を並べて、どこが面白いんですか」
 私が言葉に窮していると
「大の男が石を並べてどこが面白いのか私には分らないんですけど、私ばかりじゃありませんわ。たいがいそんな風に考えてるらしいんです。ですから、大の男が石を並べてなぜ面白いか、あるいは面白くなくともいいんですけど、そんなことを書いていただけたら……」
 呉清源と本因坊の試合場へ乗りこんできて、大胆不敵とも何とも話にならない。総理大臣や代議士ならバカヤローと叫ぶかも知れないが、私はこの女の子にケムにまかれて、生きた漫画にされたような感であった。私が編輯者にケムにまかれたのは、この御婦人の場合だけである。
 この婦人記者にケムにまかれたせいではないけれども、その後私は碁と遠ざかって、時々行われる文士仲間の碁会にも出席したことがない。昔は私が誰よりも熱心で、その次が豊島与志雄、尾崎一雄両氏であったろう。
 文士の碁は勝敗にタンタンとしていてネバリがないから、よそと試合すると必ず負ける。将棋の連中、医者のクラブ、弁護士クラブ、木谷会などというのに連敗して、一度も勝ったタメシがない。
 豊島与志雄、川端康成、村松梢風、榊山潤、尾崎一雄、火野葦平、梅崎春生、私なぞと名ばかりの有段者がズラリとそろっていて、上は何段か知れないけれども、相当の高段を奪取した猛者もいるようだ。私が二段になったときいて、初段の火野葦平は日本棋院へ訴状を送り
「自分は安吾二段を白番で大破せしめた記録があるから三段をよこせ」
 と食い下がって、ついに物にしたらしい。
 いつか将棋の木村名人と村松梢風さんと私と三人で夕飯を食っていたとき、村松さんの曰く
「ねえ、木村さん。ボクは将棋はコマの並べ方を知ってるだけで、カケ値のないところ、小学生にも負ける程度に何も知らないんです。ですが、ひとつ、ボクに初段くれませんか。つまり、日本一の弱い初段という意味で」
 このときは私も呆れ果てたが、木村名人よく梢風先生の熱情をくんで初段を与えたから、文士の段は当てにならないのである。

 先日はじめてゴルフコースへでてタマを打ってみた。やりだしてから三ヶ月ちょっとのゴルフで、今まではもっぱら屋内練習場でカンバスに叩きつけて稽古していたゴルフである。
「コースへでるとまるでフォームが狂ってしまうものです。悲観なさらぬように」
 と私がいっぺんでゴルフをなげると思ってか、プロが口ぐせのように云っていた。私もヘタなゴルフを人に見られるのが羞かしいから、十三日の金曜日というのを選んで、これならあまり人もでていないだろうと思って出かけた。大当てちがいで、十三日の金曜だからゴルフでもやって平穏に暮そうやと人が集ってきた様子であった。
 自分がヘタだということは重々心得ての出陣であるから、その方は全然気にならなかったが、他のゴルファーの行動があまりセカセカと忙しそうなので、ウンザリしてしまった。
 まるでもうできるだけ早くコースを一巡しようというのでワキ目もふらず歩くことを目的にしているように見える。打球よりもウォーキングが目的のようにセカセカと忙しそうに先を急いでいる。
「どうぞお先きに」
 みんな先へ行ってもらう。次から次へと私たちを追い越して、みんなセカセカとたちまち彼方へ消え去って見えなくなって行く。
 後から後からと追い越してもらうのはあまり愉快ではないけれども、彼らや彼女らのただセカセカとワキ目もふらずに先を急ぐ多忙のていが、どうにもなじめなかった。
 彼や彼女らがゴルフがうまいからではないのであった。大半の彼や彼女らは三ヶ月半の私よりもはるかにフォームがデタラメであった。
 ただ目的の穴ボコへボールをころがしこむためなら、フォームなぞいらない。ハーフショットで大急ぎで一直線にタマを押していって一回りしてしまえばいいのだ。
 私はいくら人にさそわれても麻雀をやらないのは、麻雀がヘタのせいではなく、日本人の麻雀がセカセカと忙しすぎるからだ。ワキ目もふらず、息もつかずに、パイをめくって、パイをすてて、パイを倒してロン。ただもう休みのない手の運動にすぎない。あんなに落ちつきのない遊びに私はタノシミを見出すことはできないのである。
「麻雀はゲームをたのしむものじゃなくて賭をたのしむものさ。だから自然いそがしい」
「それならダイスをふるがいいや」
 私はバカバカしくて麻雀という手の忙しい運動には絶対に参加しないことにしているのである。
 ところが、ゴルフも麻雀と同じことだ。麻雀は手でセカセカと休みなしに忙しくやるが、ゴルフは足でセカセカと忙しくやる。足と手の相違があるだけで、セカセカと血走った忙しさは同じことだ。
 サンドイッチや紅茶をのみながらゆっくり楽しむつもりでその用意をしてでかけた私はただウンザリして帰ってきた。

 歴史上実在する人物で、非常に重大な役割を果しておきながら、その前後の経歴はケムのようにモーローと失われている人物はたくさんいる。そういう人物の中で一きわ異色あるのが聖フランシスコ・サビエルを日本へ案内したヤジローという人物である。
 ヤジロー(もしくはアンジローとも云われているが)は鹿児島の産である。当時日本へ来朝しはじめたばかりのポルトガル商船が鹿児島の近所の港に泊っていると、ヤジローが駈けこんできて、
「悪漢に追跡されてるから、かくまってくれ」
 と船長にたのんだ。この船長とヤジローは懇意の仲であったらしい。それでヤジローは貿易商じゃないかなどと云われているが、外国船の船長と懇意になるのは貿易商とは限らない。ヨタモノなどは特に花街などでネンゴロになりやすいものだが、ヤジローは武士だという説もある。ヨタ侍かも知れない。とにかく誰かに追跡されていたのである。その追跡者は一人ではなく、集団をなしていた。
 船長はヤジローに同情し、彼を船にのせて鹿児島をはなれ、印度についた。ここでヤジローは布教中のサビエルに会って弟子入りしたのである。
 サビエルがヤジローに会って感心したのは、彼が非常に礼儀正しいことと、学の素養があって、いわば大いに文化人であったという点であった。サビエルがその時まで布教していた東洋は不潔で未開な人々ばかりであったから、ヤジローが普通の日本人なら、日本とは大そうな文化国、君子国であると考え、これぞ布教の地と考えた。そこでヤジローを案内に立てて日本布教を志し、彼のふるさと鹿児島に上陸第一歩を印したのである。
 ヤジローが天竺から本場の坊主をつれてきたというので、その評判は大そうなものであったらしい。ヤジローは天竺の師匠とともに殿様にも招待されて大そう面目をほどこした。
 当時ヤソ教なぞは日本に知られていないから、サビエルは天竺の本場の坊主という風に考えられていた。ヤジローがそう紹介したのかも知れない。
 サビエルの行いがあまりにも正しく清いので、鹿児島一の名僧忍室がひそかにヤソ教に帰依する心を起したほどであるが、そのサビエルのメガネにかない、特に信心堅固で行いが清く正しいことでサビエルを感心させたヤジローの消息は、それッきり歴史上からケムとなって消え失せている。
 彼はパウロという教名をもらい、日本人で洗礼をうけた第一号なのであるが、ふるさとへ戻って以来はヤジローの名もパウロの活躍もでてこない。人に殺されたという説もある。たぶん再び悪事を重ねて、どうにかなったのであろうが、帰国とともに清く正しい信心生活から足を洗ったのはタシカであろう。
 コマメで、キテンがきいて、一応思慮があって、礼儀正しくて、いかにも日本風のヨタモノであったからサビエルを感心させることができたのだろうが、現代日本にはなんとヤジローが多いではありませんか。

 私は日本の生活日常品のうちで他国に類のない優秀品が一ツあると考えている。フロシキである。
 特に大きいフロシキの効能は絶大だ。雑品を一まとめに運ぶことができて、用のない時は小さくタタンでフトコロに忍ばせておくことができる。
 私は洋服をきる時にはズボンのポケットに麻の特大のハンカチを入れておく。いざというときフロシキの代用品にもなるからである。麻のハンカチはフロシキ大でもカサばらなくて荷に感じない。
 私のような不精者はいかにして簡便に暮すか、本能的に常時用意を怠らぬもので、長い独身生活の放浪に常時身辺においたものは、おのずからその用意にかなったものであった。
 独身の放浪生活に一番都合よくできているのは旅行用具である。コッヘルやハンゴーのような世帯じみたものはさておいて、まず、リュックサック。これがいかに便利かということは、戦時の食糧難で買いだしに精根使い果たした全日本人が身にしみたところであろう。
 古い毛布を利用して大きな南京袋をこしらえる。この袋の入口にヒモを通す。この中へスッポリもぐりこんで、顔だけ出す。内側からヒモをしめてヒモを結んでしまうと、どんな山中のキャンプにも寒さ知らずであるが、これがまた日常においても簡単に役に立つ。ケイタイも便利であるが、何よりも隙間風がはいらないから温かいのである。
 むかし、登山用の山刀というものがあった。鉄製のサヤのもあったし、木製のサヤのもあったが、この山刀の斬れ味は格別で、薪を叩き斬ることもできれば、リンゴやジャガイモの皮をむくこともできて、万能の用途があった。この山刀を買う時には、値段をいとわず斬れ味をギンミすべきで、二級品を買わないような根性を身につけておかなければならないものだ。二級品で万能の用を間に合わせようというのはムリである。
 尖端にとがった金具のついてるハイキング用のステッキもいろいろの役に立つものだけれども、都会生活で舗道の上をついて歩く時に甚だ不便で、もてあましてしまう。
 ケイタイ食糧というとだれしもカンヅメと考えるが、カンヅメは一度あけると食ってしまう必要があって実は不便だ。それに重い。フリカケというのが一番便利である。また梅干しをビンにつめてケイタイするのがよい。
 ベルゲノンという胃の薬のビンが、大きさといいネジのついたフタといい、物をつめるに便利で、アルコールなどもつめてケイタイすることができたが、今のはフタがコルクづめで役に立たなくなった。
 最後にビローの話で恐れ入るが、むかし、私はタオルをフンドシに用いていた。タオルの一方にヒモを通すことができるようにしておく。入浴のときヒモをとってタオルに用いると、身体を洗って自然にフンドシのセンタクもできる。肌ざわりよく湿気を防ぎ、寒暑ともに良いものである。

 むかし我々の先祖は忍術というものを空想した。自分の現実がかくあればどんなに良かろうと考えたに相違ないが、またとてもできない望みであることを悟りきっていたに相違ない。その忍術もどうやら今では古くなった。なぜなら、現代の兵器は忍術よりも発達してしまったオモムキがあるからだ。
 エイッと睨むと相手がバッタリ倒れるぐらいのことは四百年前に伝来した鉄砲がすでに現実に行うことができたものだ。
 猿飛佐助や悟空は空を走るが、ジェット機には及ばないだろう。なぜなら佐助や悟空の走りすぎたあとでその音がきこえたという怪談は、空想力の横溢していた我々の先祖も考えることができなかったのである。
 箱根の山を通る旅人がにわかに着物をまくりあげたり裸になったりして、
「ヤア、えれェ深い川だ」
 と草の中をエッサコラサと歩いている。キツネに化かされたのである。
 しかし、現代に於てはポケットに忍ばせた小さなバクダンを一ツ投げこめば、江戸城の侍どもをみんなクシャミさせたり泣かせたりすることができる。猿飛佐助のイタズラぐらいは現代にとっても兵器の類とは見なされていない。せいぜい火焔ビンや竹槍を相手のメーデーごっこの余興にすぎない。
 佐助が印を結ぶと無数の怪獣が現れて敵に攻めかかる。けれどもそれは無数の戦車のゴウゴウたる突撃に比すべくもない。雷サマとなって敵城を叩きつぶす魔法の力は空想上の破壊力の限界であったかも知れないが、B29のバクダンや艦砲射撃は軽くそれ以上の破壊力をもたらしているようだ。
 原子バクダンの破壊力に至っては、いかなる民族の忍術も魔法もそれを空想することができなかった。
 ピカッと光った瞬間に何キロ四方の人間が大地に己れの影を焼き残して自らは消滅している。同時にあらゆる物体が火をふきだしている。直径何キロのキノコ雲が一天をおおうて殺人力のこもっている黒色の雨を降らせる。恐らく東京の真上でバクハツした水素バクダンは一瞬に千万ちかい人々を殺傷するであろうが、いかに万能の空想力でも、そこまで考えた空想はなかったようだ。
 つまり空想という無限のものにも実はおのずからの限界があって、それ以上は空想にしても納得できない、夢物語にしても納得できないというおのずからの一線があるのだろう。
 現代の兵器はその空想の限界すらも突きぬけてしまったのだ。私の耳には猿飛佐助と霧隠才蔵の会話がきこえてくるのである。
「広島と長崎に黒い雨が降って何十万という人間が死んだとよ」
「ピカッと光ったら、みんな死んでたそうだ。どうだい。アニイの忍術も、できるかい」
「できやしねえや。オレのできないことをやるようじゃ、おッつけ人間は亡びるぜ」
 猿飛佐助の意見によると、破壊力が忍術の限界を越えた時が、戦争をやめる時だそうだ。

 熱海の来の宮に重箱というウナギ屋がある。もと東京下谷に江戸時代から名のあった家である。熱海の奥にひっこんで以来も味の落ちることはなく、私の食った限りでは、天下にここよりうまいウナギはない。
 重箱のオヤジは江戸は下谷で久保田万太郎宗匠と小学校を一しょに卒業した仲であるが、彼の主として用いるウナギは九州ヤナガワのものか東京でクダリと称する近在のウナギかで、いくら腕自慢でも原料が悪いとうまいカバヤキはできないそうだ。
 彼は天性ウナギに徹した誠実な職人であるが、したがって彼は保守家でもあり、万太郎宗匠の親友でもあるから、私が新カナヅカイで物を書くのが気に入らないのである。
「ドジョウという字はアッシの子供の時分はドゼウとカナで書いたもので、ドゼウときまったものでしたよ」
 彼はこういって私の新カナヅカイに抗議を申しこんだ。他のいかなる引例も用いないで、ウナギの親類のドゼウだけを引いてきたのはさすがにアッパレと申さなければならない。
 たしかにドジョウは明治時代はドゼウとカナをふったもので、今でも駒形の有名なドジョウ屋の看板には「どぜう」とある。
 けれども江戸以前にはむしろ「どでう」と書いたのが多い。
「どでう」と「どぜう」とどちらが正しいかをきめるのは困難で、したがって「ドジョウ」がいけないという根拠もなかろう。
 篤学で名のある作家に「かげらふ」という作品がある。
 この「かげらふ」は蜻蛉の意であるが、昔は陽炎を「かぎろひ」といった。その「かぎろひ」のはかなさにたとえて蜻蛉の「かげろふ」の名もできたものらしいから、語源的にも「かげろふ」は「ろ」であって、「ら」ではないことがハッキリしているようだ。
 ずいぶん篤学な人でも、つい「かげらふ」なぞと誤りやすいほど、日本古来のカナヅカイはヤッカイなものだ。
 池袋から赤羽へ行く省線に「十条」という駅がある。この駅名はカナ書き時代「でうでう」と書かれていた。
 上の「でう」は十であるからジュウと発音し、下の「でう」は条であるからジョウと発音する必要がある。
 なるほど昔から「でう」と書いて、ジュウとよんだばかりでなく、ジョウとよんだにも相違ないのは、ドデウと書いてもドゼウと同様にドジョウのことを指してるのでも分るのである。
「皆サン。デウデウと書いて上のデウはジュウとよみ、下のデウはジョウとよまなければなりません。昔の人はチャンとそうよんだものです。ですから、今の人がそうよまないとすれば、それはその人が学問がなくて、不勉強のせいです。その人は落第します」
 昔のカナヅカイというものは、まさに右の通りのものである。それを知らないと語源がアイマイになる例もあるが、それは専門の学者にまかせておけばタクサンだ。

 私の町には二十円でテレビジョンを見せる常設小屋がある。これは違法なのだそうだが、これがなければ今のところこの町の人はテレビジョンを見ることができない。そして多くの人がよろこんで見物にでかける。人気は上乗である。
 私も先日これを見物にでかけて、テレビを見ずに過少評価していたことをさとった。おそらくテレビを見たことのない人は、みんな過少評価している人だろう。実物を見てしかも過少評価している人があるとすれば、その人は物を見物するタノシミを知らない人か、よほどガンメイで頭の悪い人にきまっていると私は思った。
 現在のテレビですらも野球のようにスピーディなゲームを動きにつれて移動することもクローズアップすることもできるのだから、もっと技術が発達すれば、たぶん見物するタノシミはテレビひとつで間に合うようになるであろう。
 野球も角力すもうも映画も舞踊も芝居も、常設館から各家庭へ個別に進出することとなる。これは興行というものにとって、革命を意味する。
 むかし音楽や劇は貴人の城内に於てしか演じられなかったもので、その見物に招待をうけることすら同時に自らも貴人族たることの証明を得たようなものだった。
 くだって芸術は常設館に進出して庶民の物となったが、今度は庶民の各家庭を訪問して演じるというしだいであり、庶民はテレビを得て往時の貴人の位置を占めたわけであり、すくなくとも見物するタノシミにおいてこれ以上の革命はもはや考えられない。
 しかも、映画というお手本のあとに生れたせいであろうが、テレビの映写技術は短日月にも拘らず意外に進歩しておって、移動やクローズアップなぞ、すでに相当にやっておる。独唱家が苦しい声をはりあげなければならない時には遠景にしてやることも、客席へ角度を向けかえてやることもできる。こういう技法の結果として必然的に「テレビ劇」というものも考えられる。
 私は三好十郎氏の「冒した人」という劇など、テレビでやったら成功するんじゃないかと思った。なぜなら、この芝居は舞台をはみだすほど動きが大きく、またクローズアップが効果的な場面なぞが多いからである。
 現在の新劇は劇場に悩んでいるが、もはや劇場に悩む必要はない。テレビを通して、各家庭を直接訪問する劇を考えるべきである。それが新劇の、否、創作劇というものの今後の正しい在り方だと私は思った。劇も雑誌や新聞と同じように直接各家庭を訪問するものとなり、それが今後の永遠の性格になるだろうと私は思った。
 すくなくとも、見物するというタノシミはすべて家庭で間に合うようになる。野球でも音楽でも、自分でそれをやって楽しむよりも見て楽しむ人の多い日本では、やがてテレビは急速に民衆の物となるだろう。興行の最後的な革命が現に行われているわけだ。

 それは昭和二十三年十二月三十一日のことであったと記憶するが、その朝七時ごろ東京駅発の急行で私は京都へ旅立った。小説の中に京都弁の必要が生じたためである。
 当時は物資窮乏の時代だから、年内は車内暖房を行わないことになっており、霜をふんで駅へ駈けつけた私はガタガタと車内ではただふるえ通していた。
 ところがこの列車は――すくなくとも私の乗っていた一両は全然寒さ知らずの怪漢によって占領されていたのである。怪漢とはいうものの、実は御婦人もいる。
 その御婦人は体重二十貫以下ではあり得ない。おびただしい荷物を書生風の男どもに持ちこませて車内に鎮座したが、よほど旅なれているものと見え、ただちに毛布をだして腰から下にまいて坐ると、おびただしい荷物の中をかきまわして点検をはじめた。
 別に見たいわけではないけれども、私の筋向いだから、自然に見える。カマボコだかツクダニだか菓子だか知れないが、同じ包み物がそれぞれ何十となくぎっしりつめこまれている。
「あんた、これ、いくつ買った?」
 書生にきく。書生がへどもどして返答すると、指おり算えて、それじゃいくつ足りない、ダメじゃないの、とブツブツ云っている。
 急行の停車する駅ごとで、小田原のカマボコだ、静岡のワサビヅケだと名物と名のつくものは十も二十もワッショイワッショイと両手で抱えきれないほど買いこむ。
 するとそれはこの御婦人だけではないのである。車中の怪漢は窓から手を出して待って買うようなナマぬるいことをしているヒマがないらしく、ワッととびだして我先にとワッショイワッショイ両手に抱えきれないだけ買いこむ意気なのである。
 私の真向いに坐っていたマンまるい顔の愛嬌のある小男がまた忙しい。はじめはヒザの上へトランクをのせ、その上で原稿を書いていたが、その形では速力が出ないらしく、二人分の座席を占領し、一人分の座席の上へヘッピリ腰で坐って書きはじめた。ワキ目をふらない。目は血走っているのである。
 名古屋近辺で原稿ができ上ったらしく、今度は胸をグッとはり手をふりながら原稿を読み始めた。
「日本は魚の国である」
 彼は慌てて何かチョコチョコと書きこむ。
「魚をたべましょう」
 彼はまたチョコチョコと書きこむ。
「魚をふやし、魚をとり、魚をたべ」
 徹頭徹尾魚である。無我夢中で手をふりながら演説し、またチョコチョコと書きこんでいる。そのくせ駅へ停車すると、彼もワッととびだして抱えきれないほど名物を買いこむのである。多忙そのものである。正月私が京都のギオンを歩いていたら、彼がミカン箱の上で魚の演説をしていた。デブ婦人は大そう言葉がゾンザイで柄がわるいから女代議士かと思ったら、九州某県の代議士の奥サンだった。解散の翌日か二日目の車内風景である。

 私はあるとき忍術使いの子孫という人に会ったことがある。忍術を見せてくれと頼んだけれども、どうしても見せてくれない。仕方がないから、どれぐらいのことができるんですか、ときいたら、
「訓練によって、高さは一間、幅は三間とぶことができる」
 と答えてくれた。私はおかしさを噛みころすのに苦労しなければならなかった。
 一間というと約一メートル八五ぐらいかな。たしかヘルシンキでは走高飛の予選通過が一メートル八五ぐらいじゃなかったかと思う。
 日本レコードでは二メートルぐらいであろうが、一メートル八五なら日本でも現在とべる人は十名はいないであろう。だから、術として一間とべれば相当なものだ。愉快なのは幅三間の方である。
 幅三間を室内のタタミの上で眺めるとずいぶん長い距離のように見える。とても飛べないように見える。これに比べると高さ一間は飛べそうに見える。なぜなら、女の子供が路上で頭上に精一パイ高くあげたナワを飛びっこしているからだ。
 けれども子供のナワとびは足でさわって重みで落して飛ぶのだから、身体が飛んでいる高さは一尺五寸ぐらいのものだろう。実際には一尺五寸ぐらいしか飛んでいないのである。
 ところが幅とびの方は、女でも三間は飛んでいるのだ。走幅飛の日本の女子のレコードは六メートルちょっと、即ち二十尺である。二十尺は三間を越すこと二尺のオツリがでている。女の子でもそれほど飛ぶ。
 男に至っては、七メートル三〇ぐらい飛ばないとヘルシンキでは予選も通過できない。つまり二十四尺余で、四間である。世界レコードに至っては八メートル二〇ぐらいだ。四間半である。
 跳躍日本もヘルシンキでは不振をきわめたが、それでも三間をとぶ人間なら男女合わせて日本には二十万や五十万はいるだろう。別に術を習わなくとも、威勢のよい男の子なら楽にとべるのである。
 忍術に速歩の法と称するものがあって、身体を横向きに、カニの横バイのように歩くのが速いなぞと書いてある。この辺は文学としてなら、愛嬌があって、思いつきかも知れないが、現代の忍術使いの教祖がまことしやかに説いては話にならない。
 唐手秘伝と称して、縁日なぞで、紙にブラ下げた青竹を木刀で割って見せて、薬なぞ売ってる。これを唐手の広西五段(唐手では現在五段が最高位)に訊いたら、
「あれは一週間も練習すると誰でもできるんですよ。紙にブラ下げてるから竹が折れるのです。ハリガネのような強いものにブラ下げて叩くと、その抵抗が竹に加わり竹はハネ返るばかりで、どんな名人がやっても折れやしません。抵抗のない紙にブラ下げるから折れるんで、ちょっとした物理の応用ですよ。術じゃないです」
 という話であった。

 私は稀代の酒飲みのように取沙汰されているけれども、実は甚だお羞しい次第で、それほどの豪傑ではないのである。なんとか世間の取沙汰なみの飲みっぷりもしてみせたいと思わぬでもないが、胃袋が言うことをきいてくれない。
 私が生涯で最も飲みっぷりを見せたのは、終戦後の三年間ぐらいのものだろう。長い戦争中、酒に飢えていた。その禁断を開放された痛飲が三年はつづいた。
 その三年間は天下にロクな酒のない時代で、カストリが主役の時代であったが、カストリにはメチルが少いというので安心してのんだ。
 カストリの臭気が鼻について、どうしても飲めなくなったので、ショーチューを飲むことにしたが、これにはメチルを混入した危険なものが多い。
 ところがたまたま新橋マーケットのボンジュールという店を知るようになった。ここの主人の小林さんは終戦までドイツ駐在の外交官だった人で世に稀な謹厳な紳士であった。この人のショーチューなら安心だろうというので、上京すればここで飲み、あるいはショーチューのカメを届けてもらったりして飲んでいた。そのおかげをこうむって、メチルにも当らずにいまもって生きのびているのかも知れない。この店は、いまは有楽町にマルセーユと名乗っている。この店名は私が命名したものである。
 しかし、やがて、ルパンという地下室の酒場で、サントリーやニッカやトミーモルトなぞが飲めるようになった。ルパンは戦前から名のあった銀座のバーであるが、こんどのは洋酒専門の酒場であった。
 カストリやショーチューの臭い酒を飲んでいたのが、にわかにサントリーやニッカを飲みだしたから、うまくて仕様がない。私が生涯で一番よく飲んだのはこの店である。たいがいサントリーを二本ずつのんだ。その代り、ここでお酒を飲んだ時ほど泥酔したこともない。あれぐらい前後不覚に酔っ払って良く生き延びていられたものだと思う。一足でればパンパンやアンチャンが神出鬼没をきわめている暗黒街なのである。
 むろん焼跡の露にうたれて寝ていたこともあるし、コンクリートの上にねて風をひいたこともある。スリにはずいぶんやられたが、ヨタモノにやられたのは一度しかない。
 私がルパンをでて焼跡で小便していると、二人のヨタモノが左右からサッと寄ってきて、私のポケットをさぐって逃げ去ったのである。アッという間の出来事で、彼らが逃げ去ったとき、私の小便はまだ半分しか終っていなかった。私が小便を終ってふりむいたときには、あたりには誰の姿も見えなかった。
 彼らは慌てていたから、私のチリ紙と手帖を奪っただけで、お金をとり忘れていた。彼らはお金というものが財布の中にある物と考え、財布らしき分厚なものだけ盗み去ったのだが、私はお札を紙クズのようにポケットにねじこんでおくだけだから、先生方は気がつかなかったのである。

 昔はどこの酒屋でもコップ酒というものを飲ませたが、近ごろは見かけない。酒の統制以来、小売店と飲食店の区別が厳重になって法規で取締られているのかも知れないが、馬方なぞが車をチョイととめて、キューッと一パイひッかけてまた歩きだす風景はわるくないものである。
 コップ酒専門で天下に名高いのは新橋の三河屋だ。電気ブランの浅草のヤマニバーとともに、財布の軽い呑んべいには有りがたい存在で、私もずいぶんお世話になった。
 コップ酒には昔から定まった飲み方がある。皿にコップをのせて酒をつぐ。ナミナミと溢れて皿にも一パイになるように酒をつぐ。これがコップ洒の一パイである。飲み助はまずコップの酒をキューと半分ほどのみ、皿の酒をコップへうつして改めてコップ一パイの酒を味う段どりとなる。
 ところが、コップ酒には「半分」という飲み方がある。
「半分おくれ」
「ヘーイ」
 と云ってチョッキリ一パイ持ってきてくれる。その代り皿にこぼれていない。けれども、この「半分」を二度飲む方が一度「一パイ」を飲むより量が多い。つまり半分を二度ならコップにチョッキリ二ハイのめるが、一パイだとコップの一パイと皿の半バイで一パイ半しかのめない。
 そこでコップ酒というものは「半分」をたのむのが有利と定まっているが、初心者は云いにくいものであるし、常連になっても見栄があって気軽には頼めないウラミがある。
 ここの心理をうまく捉えて当てたのが新橋の三河屋である。この店には「一パイ」という酒の売り方がないのである。客がたのまなくとも「半分」しか売らない。つまり、はじめから半分の値でコップ一パイナミナミとうる。これを定法としたのである。
 財布の軽い飲み助にとっては、これだけでも大そうな魅力で、五十銭銀貨一枚握って存分に飲めたものである。イカの塩カラを山盛りにした大ドンブリが各テーブルに備えてあって、客は立ったままコップを握り勝手に塩カラをつまんでのむ。
 茨城県の利根川べり、取手とりで界隈ではこの居酒屋のコップ酒を「トンパチ」という。この辺では昔からの通称らしい。トンパチは「当八」の意だと土地の連中は云っている。
 つまり一升を一合ずつ売れば十パイになるのが当り前だが、オマケをつけて盛りをよくするから一升を八パイで売ってしまう。一升が八パイ当りで盛りがよいから当八だというのである。
 村の飲み助どもは
「トンパチやんべい」
 といって居酒屋へ集ってくる。たいがいの人は酔うと仕事の上の自慢話をして酒をのむものであるが、農夫たちはオレの畑のナスは日本一のナスだぞ、というような話は決してしない。
「ナンダ、吉田の政治は。オレを総理大臣にしてみろ。なア、そうだろう」
 なぞと気焔をあげるのが普通である。

 ひところ友人が胸を病んで入院中なのを見舞って高原療養所を訪れたことがあったが、そのとき一驚したことがあった。
 私が行くたび五、六名の青年の患者たちが寄り集って一しょに食事するならいであった。敗戦後の物資も人手も不自由な時であるから、入院患者は自分の食物を自分で煮炊きしなければならない。
 私をむかえて集ってくれる患者たちは、食事の時になると、それぞれの大きな鍋をかかえてくる。この鍋は彼らの御飯である。副食物は付近の農家の人らしいのが卵やモツや野菜などを売りに来ていたようである。これも彼らがそれぞれ器用に料理する。何もせずに寝ているよりも、気が紛れて幾分は身体のタシになるような一得はあるかも知れない。
 私は彼らの抱えてきた大きな鍋の内容を見たときに、これは一日ぶんの御飯だろうと考えた。むろん配給の一日分、二合何勺よりは多い量で、人によってそれぞれ異るけれども、大男で病人でない私の一日分の量よりも多いと思われるのが普通であった。
 ところが皮膚の透きとおるように青白い彼らが、この鍋を例外なくペロペロとなめるように平らげてしまうのである。各人の前にひろげたいろいろの手製の料理、レバー焼きだの肉のカンヅメだの、イモやカボチャの煮つけなどを交換し合いながら
「病院の配給料理はまずいね」
 などとこぼしてはいるが、その配給料理の味のないようなカボチャの煮たのまで一ツ残さず食いあげてしまう。
 青年男子とは云いながら、皮膚や骨柄の感じなどは深窓の佳人とでも云いたいような優形な彼らが、大江山の怪物のような食慾を発揮するから、私は目を見はったのである。一人の例外もなく、そうだった。
「特に結核の薬というのは、ないでしょう。ボクたちののんでる薬はオナカのすく薬だからね」
 なぞと彼らは自己弁護をこころみたが、オナカのすく薬なら私も年中用いているが、こんな大食はとてもできない。
 私の友人は東京で三人の名医に診てもらい、成形手術をたのんでみたが、余命はそれぞれ三ヶ月乃至三週間という見立てで、手術をするだけムダだと見放されて、高原療養所へ来たのであった。
 その彼は今では東京で働いているし、一しょに食卓をかこんだ青年たちも、それぞれ退院して、職業につき、結婚しているそうである。
 彼の余命を三ヶ月乃至三週間と診断した三人は東京でも第一級の名医である。私はその人たちの診断にはアヤマリがなかったのだと考えている。
 彼らを生き返らせたのは、彼らの健康な胃袋だと私は痛感したのである。
 高田保は奇蹟と云われながら何年も生きて仕事をつづけていたが、彼もケンタンそのものだった。要するにエネルギーの補給源は胃袋で、胃袋が病的なのが何よりも病的なのかも知れない。人間はケンタンでなければならないと痛感したのである。

 私が今までつきあった酒友を通観して、全体的に酒豪が多いと思うのは、力士と海軍々人である。同じ軍人でも、陸軍に比べて海軍々人は底のぬけたところがあって、酒においても底なしの感がある。また同じ船乗りでも、商船の船乗りは酒よりも雰囲気や女をたのしむ通人的な資性があるが、海軍々人ときてはただもう傍若無人に酒を浴びる風情で、あくまで勇壮カッパツである。彼らの身体は云い合したように骨ぶとで、顔や手は赤銅色で、身体の構造が酒を浴びるようにできているようだ。
 酒豪は極まるところ容積の問題だから、角力取に酒豪が揃っているのは当り前だ。彼らの話をどこまで信用してよいか分らないが、今も話に残っているのは戦争中大関をとっていた五ツ海で、一晩に一斗のんだと云われている。彼は身体の幅がバカに広くて、まるでツイタテのような大男だったから、胃袋の容積が超特別であることは想像できるが、一斗のんだかどうか私が見たわけではないから請合えない。
 私が見たうちで一番の大酒のみは自殺した田中英光である。
 通説では文士は酒豪が多いようにいわれているが、商売柄運動不足で胃弱ぞろいだから、酔って賑やかなのは多いが、酒豪というほどの豪傑は少いのである。
 田中英光だけは特別だった。なにしろ彼は往年ロスアンゼルスのオリンピックに出場したボートの選手で六尺、二十貫という健康児なのである。胃袋は特に健康だった。私の見かけた酒豪のうちでは、彼が日本一であるばかりか、二番との差もケタ違いのようだ。
 彼は一日に三本ぐらいのウィスキーは軽くのむ。まだ足りなくて、酒やビールの梯子酒をするばかりでなく、酒だけではきかないので、酒のサカナに催眠薬をのむのである。
 人々は催眠薬をのむと眠ってしまうから気がつかないが、催眠薬というものは、その酩酊の作用においてはアルコールよりも強烈なものである。
 アドルムの十粒ものんで眠らずに起きていれば、一升の酒に足をとられたことのない男でも千鳥足になるし、ロレツもまわらなくなり、酔ッ払いよりもオシャベリになるものである。
 田中英光はアドルムを二十粒三十粒ぐらいウィスキーのサカナにのんでいた。たぶん、その方が安い値段で酔えたからだろうと思う。カルモチンだと百粒ボリボリかみながらウィスキーをのむ。自殺の時はアドルム三百錠のんだそうだ。
 私が熱海で仕事をしていたとき、彼は愛人をつれて遊びにきた。私は仕事中のタノシミに銀座のルパンからサントリーを一ダースとりよせてまだ手をつけずにいたのを、彼は三日のうちに飲みあげてしまった。コップにウィスキーをついでビールのようにグイグイのむのである。おまけにビール二ダースと酒二升ほど寝酒に飲みほしていた。彼の連日が殆どこうで、それで自殺の瞬間まで肉体は健康そのものであったらしい。白骨は壺二ツに入りきれない程だったそうだ。

「超音ジェット機」という映画によると飛行機がマック一(音速)に近づくと空気の抵抗の壁にぶつかり機体がはげしく震動し上昇桿がきかなくなって墜落してしまう。
 たまたまテスト・パイロットの一人に戦争中墜落しかけた男があった。その墜落の最中に彼は夢中で上昇桿を下部に押していた。つまり下降の方へ押したのである。すると意外にも機体は上昇して墜落を免れたのである。その墜落の途中にあるいは音速に達していたのではないかと彼は考えた。「音速の壁にぶつかったとき桿を下降の方へ押すと上昇することが理論的に考えられないか」と彼はジェット機の設計者に訊いたが、音速の壁の正体自体がわからない状態では何事がなぜ可能だかわかりゃしないという。そこでテスト・パイロットは決意する。「やってみよう。上昇の時下降の方へ桿を押す勇気の問題だ」一度墜落の時夢中にやったことであるがこれを意識的にやるのはめざましい勇気が必要だ。思いきってそれをやった。意外にも再び成功、彼はマック一を無事に突破したのである。
 これが事実か虚構か私はしらない。しかし考えさせられる話である。
 科学の世界は窮極においてはすべて理論で割切れうるかも知れないけれども、この理論的世界においてすら一つの発見や発明には理論に先だち冒険を必要とするもののようである。創造や発明とは常に音速の壁を破る作業かも知れない。
 近ごろの精神病院では電気やインシュリンでショック療法というのをやる。人体に猛烈なショックを加えて精神の構造の狂ったのを修繕しようというわけだ。
 どれだけの理論があるのか私にはわからないけれども私の素人考えでは理論的に確実な根拠があるようには思われない。
 パチンコが狂うとパチンコ屋の親父がハコをポンポンとたたく。すると狂いがなおる時もある。置時計が狂うとガチャガチャとゆさぶったり振り回したりするとカチカチ動き出すこともある。どこに理論があるわけでもないが、なにか狂った時に人が自然に行う修繕の方法である。精神病のショック療法も素人の修繕作業に毛の生えたていどの試みに過ぎないと思うがどんなものだろうか。日本人というパチンコのハコを医者がもっともらしくトントンたたいているような気がするのである。
 テスト・パイロットが音速の壁を突き破る時にも上昇のために下降の桿を押すという理論的にでたらめなことを決行する勇気が必要であった。しかり、異常な勇気である。自分の生命をかけているのだから……。
 けれどもショック療法とか新薬の場合には学者自身は音速の壁と戦っているつもりでも試めされているのは彼自身の生命ではなく患者の生命なのである。ここのところを取違えてもらいたくない。学問という名に隠れて良心を失うのは容易である。

 私は昨年末からプロについてゴルフの稽古をはじめたおかげで、私が昔やったスポーツにいろいろフォームの狂いがあったことをさとった。
 ゴルフは野球の打法に似てはいるが、その他の多くのスポーツの基本的なフォームとの類似点も甚しく多い。野球の場合はタマがどこへどの早さでくるか分らないのを打つのだから、その打法も複雑で、完全なフォームというものは考えられないかも知れないが、ゴルフは停止したタマを打つのだから、完全なフォームというものが考えられるのである。したがって、あらゆるスポーツに基本的な身体の動かし方、使い方というものがゴルフによって会得しうるのである。
 今にして思うと、私の砲丸投や円盤投のフィニッシュには狂いがあった。腰が流れていたのである。あのころは陸上競技の草分け時代で、コーチにつくことができないから、概ね我流でやらざるを得なかった。したがってフォームも狂っていたはずだ。一番大事なところが狂っていたのである。
 ゴルフの打法では足のカカトに重点を置いて身体の回転を起すことにきびしい注意をうけるが、野球における投手の投球動作でも、そのフィニッシュにおける足の爪先の方向や踏ん張りに主点をおき、そこを中心に身体の回転を起すことをきびしく注意したら、一段とスピードが加わるのじゃないかと思う。日本のプロ野球の投手たちのフォームですら概ね自然発生的で、コーチによって基本的に改良されたようなフォームはなかなか見られない。
 日本では野球ほど普及したスポーツはないかも知れない。しかし、一般に普及しているのはキャッチボールというべきだ。これはもはや野球から独立して別種の国民スポーツと見るべきではなかろうか。
 私のゴルフの稽古場の隣には弓の練習場がある。そこには殆ど練習者の姿を見かけることができない。それを見るたびに思うのだ。
「あの的に当てるのが、弓の矢でなくて、野球のタマでも面白いじゃないか。たいがいの男の子がよろこんでぶつけッこするだろう」
 キャッチボールを独立した競技化して的をねらったら、結構たのしめるスポーツになりゃしないかと思う。
 投捕手間ぐらいの距離。一、二塁間ぐらいの距離。ひところ日本のプロ野球でもアメリカの例にならって、二塁にタルを立てて、捕手がタルの孔にタマを当ててひッくり返す余興をやったことがある。そういうことのできるアメリカ人の捕手がいたからで、その他の日本人の捕手ではめったに当りッこないから余興にならないらしい。プロの捕手もできない芸当を、アマチュアがポコポコ当ててぶッ倒すのは愉快だろうし、できないはずもない。
 投球という独立の競技ができて、投球法というものが基本的に研究されれば、アマチュアでも、プロ野球の投手や捕手のできない正確でスピードのある投球ができるようになる可能性はありうるのだ。また遠投の距離を争うゲームも面白いだろうと思う。

 私は野球を見物するのはあまり好きではない。巨人軍程度ならまアまアであるが、だいたい日本のプロ野球はプロにしてはヘタすぎるから、見ていても楽しくない。
 それでも近ごろはいくらかうまくなった方で、全体として打撃のレベルもあがっているし、投手が四球をやたらにださなくなっただけでもマシであろう。以前はむやみに四球四球で、それだけでゲームがだらけてしまったものであった。プロと名がつく以上、プロらしい実力が伴わないと、どうしても楽しんで見ることができない。
 その点、高校野球はヘタを承知で見物するから、むしろ楽しく見ることができる。そういうわけで、私は昔から甲子園のファンなのである。わざわざ見物にでかけることもあるが、甲子園での人気は大変なものだけれども、東京の予選なぞはおよそ侘しい限りで、戦争中のことであるが、当時黄金時代の日大三中と荏原中学が一回戦で顔があった。これが事実上の優勝戦であるばかりか、その勝者は甲子園で優勝するだろうと考えられていたほどの東京では珍しい実力の充実した両チームの対戦であった。
 私はそれを神宮球場へ見物に行った。あの広い神宮球場に、見物人は私ひとりである。両校の応援団も来ていない。まもなくデブデブとふとった紳士が見物にきて、自然私の横へ寄ってきて、二人であれこれ話しながら見物していたが、おそらく野球関係者であろう。たぶん現在プロ野球の大立者の誰かが彼であるに相違ない。ともかく、神宮球場でたった二人で野球を見物したのであった。この試合は日大三中が四対三で勝って甲子園へ出場したが、案外呆気なく敗退した。投手に好選手がいなかったのである。近鉄の関根がまだ一年生ぐらいで日大三中の二塁をやっていた。ギッチョの二塁で目立ったが、荏原の二塁は東急の浜田であった。二人ともそのチームの最年少選手であったように思うが、さすがに素質は当時からかなり光っていた。
 昨年桐生へ転居いらい、また高校野球を見物するのが楽しみになった。なぜなら、桐生は高校野球では全国屈指の名門で、したがって関東各地の優秀チームが練習試合にやってくるからである。
 夏の甲子園の北関東大会も去年は桐生で行われたが、優勝侯補筆頭の桐生工高を破って甲子園へ出場したのが水戸商高で、その遊撃がいま西鉄の新人豊田であった。
 昔から高校野球は巨人ばやりで、やたらに図体の大きいのを選手に仕立てたがるが、図体が大きいだけが能じゃない。豊田選手は相当に図体は大きいけれども、スタートは早いし、肩はよし、打撃はよくふるっており、抜群の素質を示していた。めったに出てくる選手ではない。
 たまたま読売の記者が来たとき、彼の話をして巨人へ引ッこぬきたまえとすすめたが、すでに西鉄と契約の後だった。この豊田君が加入のせいで、私はちかごろすッかり西鉄ビイキになってしまった。

 戦争の真ッ最中にも桜の花が咲いていた。当り前の話であるが、私はとても異様な気がしたことが忘れられないのである。
 焼夷弾の大空襲は三月十日からはじまり、ちょうど桜の満開のころが、東京がバタバタと焼け野原になって行く最中であった。
 私の住んでるあたりではちょうど桜の咲いてるときに空襲があって、一晩で焼け野原になったあと、三十軒ばかり焼け残ったところに桜の木が二本、咲いた花をつけたままやっぱり焼け残っていたのが異様であった。
 すぐ近所の防空壕で人が死んでるのを掘りだして、その木の下へ並べ、太陽がピカピカ照っていた。我々も当時は死人などには馴れきってしまって、なんの感傷も起らない。死人の方にはなんの感傷も起らぬけれども、桜の花の方に変に気持がひっかかって仕様がなかった。
 桜の花の下に死にたいと歌をよんだ人もあるが、およそそこでは人間が死ぬなどということが一顧にも価いすることではなかったのだ。焼死者を見ても焼鳥を見てると全く同じだけの無関心しか起らない状態で、それは我々が焼死者を見なれたせいによるのではなくて、自分だって一時間後にこうなるかも知れない。自分の代りに誰かがこうなっているだけで、自分もいずれはこんなものだという不逞な悟りから来ていたようである。別に悟るために苦心して悟ったわけではなく、現実がおのずから押しつけた不逞な悟りであった。どうにも逃げられない悟りである。そういう悟りの頭上に桜の花が咲いてれば変テコなものである。
 三月十日の初の大空襲に十万ちかい人が死んで、その死者を一時上野の山に集めて焼いたりした。
 まもなくその上野の山にやっぱり桜の花がさいて、しかしそこには緋のモーセンも茶店もなければ、人通りもありゃしない。ただもう桜の花ざかりを野ッ原と同じように風がヒョウヒョウと吹いていただけである。そして花ビラが散っていた。
 我々は桜の森に花がさけば、いつも賑やかな花見の風景を考えなれている。そのときの桜の花は陽気千万で、夜桜などと電燈で照して人が集れば、これはまたなまめかしいものである。
 けれども花見の人の一人もいない満開の桜の森というものは、情緒などはどこにもなく、およそ人間の気と絶縁した冷たさがみなぎっていて、ふと気がつくと、にわかに逃げだしたくなるような静寂がはりつめているのであった。
 ある謡曲に子を失って発狂した母が子をたずねて旅にでて、満開の桜の下でわが子の幻を見て狂い死する物語があるが、まさに花見の人の姿のない桜の花ざかりの下というものは、その物語にふさわしい狂的な冷たさがみなぎっているような感にうたれた。
 あのころ、焼死者と焼鳥とに区別をつけがたいほど無関心な悟りにおちこんでいた私の心に今もしみついている風景である。

 田舎の新聞を読んでいると、都の風を遠くはなれた山奥の里々、やっぱり人々がそれぞれの必死の苦心をはらって良く生き良く努めている涙ぐましいような出来事が目にふれるものである。
 上州沼田というところは、講談本では真田氏の城下として名高い。真田昌幸に二子があり、弟が有名なる幸村であるが、沼田は兄の方の居城である。豊臣残党と徳川方と対立したとき、昌幸は苦心のあげく、兄を徳川方に、弟を豊臣方にそれぞれ敵味方に組をわけた。こうすれば、どっちが負けても、真田という血統は存続するわけだ。これもずいぶん涙ぐましい苦心と云わなければなるまい。もともとこういう涙ぐましい歴史の土地だ。
 いま、上越線というのが、ここを通っている。フシギな駅である。車窓から眺めると、一方は赤城山につらなる七、八十メートルの丘陵で、一方は利根川だ。利根川もこのへんは上流で、水青く神秘な色をたたえている。まことに景色はよいが、町の姿はどこにも見えない。
「沼田って町は今はなくなったのかい」と誰しもフシギに思うが、実は七、八十メートルの切り立った丘の上へ登ると古い町が現われてくるのである。昔ながらの古い町の姿である。
 この古い町にもパチンコ屋ができた。そして御多分にもれず、山里のアンチャンが集まってきて、朝っぱらから夜おそくまでワキ目もふらずチンジャラジャラとやっている。そこでその隣に先祖代々静かな営業をつづけてきた青白い亭主が立腹したのである。日ねもす鳴りつづく騒音に頭痛がひどくなって、夜になっても安眠できない。
 そこでパチンコ屋へ再三ねじこんで
「音を低くしろ」
 と談判したけれども、ラジオとちがって、パチンコの音を低くするわけに行かない。交番へも交渉したがパチンコも天下公認の営業であってみれば、騒音の調節ができないから営業停止というわけには参らない。
 一切の努力が水泡に帰し、たよる味方がなくなったときに、天啓の如く一策が男の頭に宿ったのである。翌日早朝、パチンコ屋の開店とともに店を訪れた。
「パチンコのタマは全部でいくらある」
「一万円ほどです」
「よし。みんな買う」
 彼は一万円払ってパチンコのタマを買い占めた。これで当分隣家の騒音がきこえなくなろうというものだ。どっこいしょとタマを背負って出ようとすると
「モシモシ」と呼びとめられた。
「なんの用だ」
「パチンコをやって下さい」
「バカぬかせ。パチンコをやらないために買い占めたんだ」
「それは法律違反です。パチンコのタマを店の外に持ちだすと懲役ですよ」
 男は警察で男泣きに泣いたそうだが、気の毒ながら法律は法律である。哀れや男は刀折れ矢つきて惨敗してしまったのである。

 私は弟子というものをとらないことにしている。文学は一人に師事するものはむしろ良くないことのようだ。古今東西の良書に師事すれば足りる。一人の師について、師匠に似たものを作るようではダメにきまっているのである。
 けれども、どんなに田舎へ引ッこんでも、弟子入り志願者の来訪が絶えないから、
「お目にかかりませんが、自信のある作品ができたら送ってよこしなさい。立派な作品なら世にでるようにできるだけのことはしますが、文学に情実はありませんから、お会いしてもムダです」
 こんな意味のことを紙に書いて、戸口に張りだしておいたこともあるし、家人に持たせておいて、弟子入り志願者の来訪にそなえておいたこともある。
 その私にもたッた一人弟子がいるのである。もっとも、私が弟子入りを許したわけではなく、彼が勝手に私の弟子を称し、私に対してもそれを勝手に宣言しただけのことなのである。
 終戦まもなく物資の何もないころにスコッチウィスキーを送ってよこした者があった。そのスコッチは今でもヤミですら手に入らない高級品であった。
「土蔵の中からオヤジの秘蔵品を失敬して差上げます。弟子入りのシルシです。お邪魔すると悪いからお訪ねしませんが、一度だけ会って下さい。そして先生とよぶことを許して下さい」
 そういう意味のハガキもとどいた。法政大学の生徒でムラサキという人物である。ところがこれは変名で、私のところへ便りをくれるたびに姓が変っている。
「この前はムラサキでしたが、気に入らなくなりましたので改名いたしました」
 という風にコトワリ書きがついている。しょッちゅう変っているので覚えきれない。これが私の本名ですと四国から便りをくれたが、本名をバカバカしくて覚える気持にならないのである。
 彼は自ら宣言した通り、一度しか私を訪ねてこなかったが、本人が私の弟子のツモリでいることはマチガイがなかった。
 私が伊東で税務署の差押えをうけ、それが東京の新聞の雑報にも報じられたとき、その翌日、彼は火事見舞いのように駈けつけてくれた。
「途方にくれていられるだろうと思いまして、とにかく、これを持ってきました」
 彼がカバンから取りだしたのは登山用のコッヘルであった。これ二つで煮炊きができると思ったのだろう。私は彼が考えたほど差押えに驚きもしていなかったが、彼の変テコな友情に感謝したのである。
「君は勝手にオレの弟子を称するが、作品を書いたことがあるのかね」
「作品なんか、どうでもいいんです」
 三十分ぐらい居たかと思うと、彼はたちまち風のように去ってしまった。もう入学して五、六年になるが、まだ大学生のようであった。
「そんな世話のかからない弟子がいるもんかねえ」
 と友達がうらやましがっているのである。

 陽気のせいで例年のように愛きょうのある訪問客がくる。先日は二人連れでやってきた。三十前くらいの二人連れだが、色の浅黒いがっちりした方が蒼白なやつれた男を紹介しながら、
「これが京マチ子にほれましてね。映画を見たことはないんですが、雑誌の表紙の京マチ子にほれましてそれからずっと思いつめて仕事もやめてしまったのです。この男の心境をきいていただきたいと思いまして」
「そんな心境はききたくないよ、早く精神病院へ入院させなさい」
「つきましては先生にオクリモノを差上げたい。私たちはシシュウを商売にしておりますからシシュウを差上げたいと思います」
「つきましてはって何についたつもりだね。どうも何もついたところがないようだから早く帰ってぐっすり寝なさい」
「つきまして……つまりそれは」
「何にもついてはしないだろう」
「ハハア」
「早く帰り給え」
 敵がまごまごしているうちに追返してしまう。これが自然に覚えた手である。キチガイというものはへんに合理精神が発達しているもので、当人は不合理なことをしていても合理的なことをしているつもりなのである。そういう狂人独得の性癖があるからテキも変だと気がつくに相違ない。言葉尻を捕えて反問するとそこは気狂いのことで、はっと気がつくとひどくマゴマゴしてシリメツレツになってしまうのである。
 そのときお引取を願うとすごすご引下る。気の毒やらおかしいやらであるが、常時そういう訪客に襲われていると、自然に意地の悪い撃退法にジュクタツせざるをえなくなるのである。
 春先になるとこういう変った訪問が多くなる。中には気の毒な人もあって伊東の漁師のオカミさんが相談にきたことがあったが、だんなの漁師はときどき仕事ができなくなる。漁に出ているうちにふっと気が変になって、友だちが一所懸命魚を釣ってるのに彼はただ船の中をノソノソ歩いていたりする。ふだん真面目一方の温良な漁師なのである。私が一度精神病院へ入院したことのある人間と知ってどうしたら治るだろうかと聴きにきたのである。
「僕なんかに相談したってどうにもなりません。精神病院へ入院させて万事お医者さんにまかしなさい。かならず治りますよ」
 そう奨める以外に仕方がない。彼女にしてみれば精神病院へ入院させるのは外聞が悪い。なんとか素人療法がないものかと思いなやんでのことであったろう。
 漁村だの農村だのの人々は人間同士の摩擦よりも魚や大根なぞとより多くカットウをおこしているように思われるが、意外にも狂人が多いものである。しかしそれらの狂人は愛きょうあって害の少ない人々であり、日本人を善導し、あげくに戦争をやろうと考えるような真人間らしい気狂いがなにより困るのである。

 私が東大の精神科というところに入院して、最も意外にも、また面白くも感じたことは、そこの看護婦さんたちが非常に患者を愛していたことであった。患者というよりも、この場合は、ハッキリ狂人という方がよろしいだろう。彼女らは他の科へは行きたくない、という者が多かった。狂人は可愛いとハッキリいいきる人たちが多かったのである。私も同感せざるを得なかったのである。狂人は時に乱暴する。けれども、やがて従順となる。また本来従順でもある。彼らの正体を知ってしまえば、これぐらいつきあい易い人たちはない。なぜなら、裏がないからだ。看護婦たちが正気の人間よりも狂人の方が可愛いというのはもっともである。
 二人の患者が同室している部屋があった。一方はコクメイに日記をつけ、これをだれにも見せず肌身放さず身につけている。一方の患者はこれが見たくて仕様がないのである。ついに一日、一方が襲撃して日記を奪った。その日いらい、奪った方が肌身放さず所持するようになったばかりでなく、毎日コクメイに日記の続きを自分がつけはじめたのである。
 子供同志もよくこんなことをやる。けれども、子供になくて狂人の方にだけあることは、奪った日記を読んでしまうと放りださずに、日記の続きを自分がつけはじめたということだ。
 狂人の世界には、こういう根気のよいことが多いのである。他人の生活を奪って、そっくり自分の生活にしてしまう根気は見上げたものである。
 一見バカバカしいように見えるかも知れないが、私はうらやましかった。その狂人の根気が私にも欲しかったのだ。それだけの根気があったら、いまよりもマシな、立派な芸術がつくれるだろうなと、自分がミジメに思われて悲しくなったりした。
 日記を奪われた方の患者は二十一、二のガッシリした元気のよい若者だった。彼もまた根気がよかった。彼はちょっと悪いことをして婦長さんに叱られ、罰として病室のドアをみがくように命じられた。
 婦長さんも他の看護婦たちもその日は忙しかったのか、彼がせっせとドアをみがいていることをウッカリしていたのである。夕方気がついた時は、彼はまだ一心不乱になって一枚のドアをみがきたてており、ペンキが全部ハゲてしまっていた。彼はまた婦長さんに叱られてショゲてしまったのである。
 女は男よりも根気がよいそうだ。したがって、単純なことをくりかえす労働は女に限るということだ。しかし、いかに女が根気がよくても彼ほど一心不乱に没入はできない。
 この根気と、日記を奪って続きをつけはじめた根気とを二ツ合せると、個人の短い生涯にも大きな仕事ができるだろうと思った。
 私は彼らと同じように精神病院へ入院していながら彼らとはアベコベに、まことに根気のないことをつくづく悲しく思ったのである。その悲しさは日がたつにつれて、ますます深まるばかりである。

 伊東に住んでいたころ、付近の山々には猪がすんでおり、町の猟天狗で猪を仕止めてくる人も少くなかった。すると軒先へ猪をぶらさげて、猪肉売りますのハリガミをだしておく。売ってお金モウケが目的ではなく、射止めた猪をみせたいのだろう。そのころ私は猪の仔がほしいなと思った。
 桐生の近所の山々や隣村では熊がとれる。仕止めた親熊の仔をつれてきて飼っている人もある。私も熊の仔がほしいなど思った。
 いつか宝塚へ遊びに行ったら、事務所の連中が熊の仔を放し飼いにしていた。三、四ヶ月まではよかったが、だんだん歯や爪が生えてくると、人に傷つけることがあるので動物園へ移してしまったそうだ。
 私はコリーという犬を飼ってるうちに、だんだん猛獣とよばれるものを飼ってみたくなったのである。シートンもいってるように、コリーは猛獣と変りはない。特に狼とほとんど同じだ。ケンカすればコリーの方が狼に勝つのである。ところが、コリーぐらい人間に親しみを感じている犬はほかにない。コリーの習性や性癖から判断して、たぶん猛獣とよばれているケダモノ、実は人間の親友になりうる温和な連中ではないかと考えるようになったのである。そして小さいうちから育てて見たいと思うようになった。
 人々は猛獣の性癖を知らないから、カンちがいしている点が多いと思う。たとえばコリーには他の犬に見られない多くの性癖がある。まず愛情の表現としてペロペロ顔や手足をなめてくれる。人が負傷して血がでると、心配して、せっせとなめてくれる。なめることは、犬が傷を治す何よりの方法なのだ。こういう愛情の表現を、人を食う一歩手前の作法だとカンちがいしているのではなかろうか。
 また、愛情の表現として噛むのもケダモノの性癖で、しかし決して傷は与えない。大きくなればなるほど、傷をつけないように噛む。主人に反抗して噛むときでも傷をつけないように注意しているものだ。問題はツメだ。コリーの場合、ツメが武器でないから、安心して引ッかく。愛情の表現として、手でひッぱたく。大の男もよろけるほど力が強い。ノシノシ乗っかってペロペロなめる。すごく重くて息ができないほどになるが、噛む以外は傷をつけないものと思い込んでいるから、人が苦しんでいるのに平気だ。こういう食違いがこまるのである。
 もっともライオンなぞは山猫科だから、ツメで相手に傷つけることを心得ていて用心してくれるかも知れないが、さもないと、ツメのある猛獣とはちょっと親友になれない。なぜなら、ひッかいたり、ひッぱたくのが親友たる情愛の表現だからである。
 コリーは主人が思うようにしてくれないと、狼も逃げるほど物凄い形相で主人にとびかかりガブ、ガブ、ガブと噛みついてくるが、実は傷をつけていないのだ。だから私は非常に猛獣を信用しているのだ。すくなくとも、武器を持った人間よりはどれぐらい紳士だか分らないのである。

 人間は言葉で話を交わしているから、犬も吠え声がかれらの言葉のように思われ易いが、必ずしも、そうではないようだ。
 吠え声も無論意味をもっている。警戒のうなり、怒り声、不満の声、呼ぶ声、恐怖の悲鳴等々、それぞれ変化はある。けれども、もうちょっと複雑なナイショ話をするときには、犬は決して吠え声を用いないものだ。
 たとえば「私はここにいますよ」ということを主人にしらせるには、吠える代わりに、むしろブルブルッと身体をふるう音響で存在を示す。また犬同士で自分の存在を示しあったり身分証明の方法としては小便を用いる。
 空腹の表現としては、主人の手足をチクチクと小刻みに噛んだり、物をくわえてみせたりする。
 犬は主人の日常品のうちで何が大切な品であるかを観察していて、それをくわえることによって自分の意志を示そうとすることもある。たとえば私のコリーはタバコやメガネや腕時計をくわえて自分の食慾を表わす。
 テレ隠しには、とびついてペロペロなめたり、腕でとめると、その腕をかいくぐってすりぬけて跳びついたりする。
 悪うございました、という謝罪の意を表したり、憐みを乞うたりするには、手足をそろえて、肩をすくめ、うなだれ、目をそらしてみせたりする。
 そのとき後足がすぐ地をけって跳び立ちうる状態にそろえられていたり、そらした目が実はそれとなくジッと主人にそそがれている時には、彼の謝罪の意志は微弱で、事と次第によっては主人ともう一戦やる覚悟をもっており、彼の腹の中はまだブスブス燃えているのだ。
 犬は主人の言葉を理解しようと努める。主人の言葉がわからないと、犬はクビをかしげる。
 犬と犬が路上で会ったとき唸りや、吠え声で敵意や警戒を示したり、シッポをふって親愛を示したりするが吠え声で会話することはなく、吠え声で相手を理解し合うということは決してしないものである。つまり吠え声には本能的な衝動を示す以上の複雑な表現力がないのである。
 相手に信頼や恭順を示すには身体をすりよせて腹を出してみせる。腹部は犬の弱点で、彼らのケンカの身構えはノドから腹部を守る構えであるが、その弱点をさらけだしてみせることによって信頼や恭順や求愛を示す。
 一般に犬は飼主を信頼するが人間を信頼していない。コリー種の犬はそこが普通の犬とちがっている。コリーは来客と子供たちに最大の敬意を表わす。わが家の訪客なら安心だと思っているし、子供は自分よりも弱いことを知っているから安心して親愛の情をヒレキするだろう。シッポをふってグルグルまわりながら歓迎してペロペロなめる。あまり警戒の必要のない人間ならどんな人間でも信頼するのである。
 私は飼主の友でしかない普通の犬はキライだ。コリーは人間全体に親愛を表わす。少くとも彼らの素性が知れさえすれば。この愛情は清潔であるが普通の犬よりはむしろ猛獣とよばれるものがこれに近い性癖を持っているように私は考えている。

 百回を重ねて皆さんとお別れすることになったが、拙文を愛読していただいたことは感謝にたえない次第です。
 時々読者から愛情のこもった手紙をいただいたが、どの文章に一番多くのお手紙をいただいたかというと、「日本の便所」という小文についてでした。それから察せられることは、日本の住居では便所というものが居住者の現代感覚に合わないにも拘らず、経済的また習慣的にやむをえず我慢している状態ではないかということでした。
 むろん水洗式にすることができれば、便所への関心は一切不必要になるでしょうが、日本の現在の生活程度ではそれが不可能だ。そこから、各人各様に金をかけずに便所を清潔に保つ工夫が試みられているようで、私が読者からいただいた手紙には、私はこんな風に工夫している、というような性質のものもあった。
 たまたま私が借家している桐生市の書上文左衛門邸は、便所に独特な工夫が施してあります。それは私が転々と諸方に居を移しながら、今まで見たことのなかった独特のものです。
 つまり、普通、便所の真下にツボがあって、そのため下を見ると汚い物が見えもするし、汲み取り方がわるいと、上へハネてきたりして困るものです。
 この便所は真下が傾斜しておって、ツボは便所の外にあります。ハイセツ物は真下の傾斜をズリ落ちてツボにおさまる仕掛ですから、汚い物も直接見えないし、ハネることもありません。また装置も簡便で、傾斜をつけて横へずらした手間が多いだけです。
 ただ問題は汲み取り口で、便所の裏庭の土の下にツボがあるのですから、大雨が降って庭に水がたまると、それが便所にあつまる怖れがある。水の流れこまない用心が必要です。
 便所の話がでたら最後だと申しますが、これをささやかなプレゼントに、退却します。さようなら。

底本:「坂口安吾全集 13」筑摩書房
   1999(平成11)年2月20日初版第1刷発行
底本の親本:「西日本新聞 第二四九四六号〜第二五〇四六号」
   1953(昭和28)年1月2日〜4月13日
初出:「西日本新聞 第二四九四六号〜第二五〇四六号」
   1953(昭和28)年1月2日〜4月13日
入力:tatsuki
校正:成宮佐知子
2013年6月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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