只今後藤さんから御紹介を得まして、頗る過當な御評價でくすぐつたい思ひを致しました。併ながら名物に旨いものなしと申しますから、御紹介通りのことを申上げることが出來るか、頗る自信を缺いて居ります。私は今晩は日本の眞の姿と云ふことに付てお話を申上げたいのであります。希臘の哲學者の言葉に、人間第一の務は己を知ると云ふことだと申して居ります。洵に適切の言葉と思ひます。是と同じく日本人は日本自體を知らなければならぬと思ふのであります。所が日本に付ての知識と云ふものは極めて貧弱なもので、吾々は第一東京に住んで居つて東京全市がどうなつて居るかと云ふことは能く分らない。向ふ三軒兩隣しか實際知らない。其他は風の噂、新聞の報道などで想像して居るやうな譯であります。吾々日本のことに付て色々言ふが、實は日本のことをはつきり分つて居る人はどの位あるか頗る疑問なのであります。それで日本を先づ寫して見なければなりませぬ。其寫す鏡が頗る乏しいのです。所謂山鳥のおろの鏡で、山鳥と云ふものは自分の體が非常に綺麗だと思つて、河へ臨んで自分の姿を寫して、あゝ綺麗な鳥だと思つて居る中に自分自ら迷つて水に落ちて死んでしまふ、愚ろかな鳥です。之を山鳥のおろの鏡と申します。日本を寫す鏡はどうも山鳥のおろの鏡もなきにしもあらず、又正しき鏡を持つて居つても其鏡は目を寫すなり、鼻を寫すとか、部分的にしか寫らないで、六尺大の一枚磨の大きな硝子へ寫すと云ふやうな鏡を持つて居る人は甚だ少いやうに思ふのです。そこで私は日本の眞の姿はどうなつて居るかと云ふことを研究して見たいと思ふのであります。
 日本に付ては三つの見方があると思ふのです。第一に外國人が見た日本、是は幾ら上手な油繪描でも西洋人が日本人の顏を描くと、目は吊上つて齒が飛び出て髮の毛が棕櫚見たいに突立つて居る妙な顏を描く、ポンチの顏を描く積りでないが、西洋人が描くと日本人がさう寫るのです。さう云ふことのあるやうに、日本も西洋人が見ると兎角間違ひ易い。第二には日本人自體が間違つて居る。近世文明と云ふが是は皆西洋人から借りたものである。西洋なかりせば日本は發達しない。是は西洋から歸つて來たり、新しい學問をする人がさう思ふ。第三は我國は神國であつて決して他國と同じ國でない、隨神の國であるから外國などと質が違ふのであると云ふ神憑の議論である。此三つがあると思ひますが、是は固より間違ひと思ひます。外國人がどうして間違ふかと云ふと、日本が嘉永六年亞米利加のペルリに迫られていや/\ながら國を開いたのでありますが、それから四十何年明治三十年頃には立派な近世化した日本となつた。西洋各國では封建時代の域を脱して近世國家となるのには長きは三百年、短いのでも百五十年掛かつて居る。然るに日本は僅に四五十年で近世日本を拵へた。不思議だ、ミラクルである、是はどう云ふ譯であらうか、此ことは餘程の問題だと云ふ譯である。それに付て第一疑を抱いたのが佛蘭西のオーギスト・ルボンと云ふ學者でありまして、群衆心理と云ふ説を唱へ出した人である。是は近頃の佛蘭西の軍人などが非常に多くルボンの門から出て居つて、歐洲大戰に參加した、愛國心もあり、哲學者でもある。此ルボンが今を去ること二十何年前に我が大使であつた本野一郎君に對して日本の出現は不思議だ、僅か四五十年で近世國家となつた。其有樣は恰も彗星が燦然として天體に現はれて來たやうなもので、世界を驚かして居る。併ながら彗星の運命は軈て地平線の彼方に消える運命を持つて居る。日本の如き國が四五十年にして近世國家となると云ふことは進化の法則に於て分らない。恐らくは彗星の運命ではないかと思ふと云ふ問題を出したのである。本野君は之に答へて、我國は四五十年で出來た國ではない、二千五百年の間掛かつて歩一歩踏締て出來て來た國民だと言つたらば、ルボンはいやそれは何處の國でも皆何千年も歴史を持つて居る。併し日本の歴史を讀んで見るが、大抵大名の戰爭と公卿の陰謀だ、是より他に記事はない。其日本がどうしてこんな長足の進歩をしたか分らない。君が二千五百年の間歩一歩踏締めたと云ふならばそれを一つ君の立場から書いたらどうかと云ふ譯で、本野が承知して、宜しい、然らば日本の立場を書くと云ふので歸つて來まして、自分の友人として君が一番適任であるからそれを書かぬかと云ふことを私に勸めました。それが土臺となつて私が日本經濟史を書いたのであります。是は獨りルボンばかりではない。日本の事が分つて居るやうな學者でもどうして四五十年の間に斯うなつたかと云ふことに疑を抱いて居る。然し日本が四五十年の間に近世國家になつたと云ふことが抑々間違ひなのである。彼等は歐羅巴と交際する以前に日本は殆ど文明らしいものを持つて居らなかつたやうに思ふのです。それから色々の間違ひが起る。其ことに付てお話を申上げて見たいと思ひます。
 何處の國でもあるのですが、西洋人は殊にひどいが、日本も亦其病は免かれぬ。國の歴史は其國だけの歴史であつて、世界共通のものがあつて何處の國でも世界史の一部分が其國の歴史であると云ふことを氣が附かない。日本の如きも日本は特別な國だと思つて居るが、皆世界の歴史の一部分であります。皆さん御承知の通り何處の國でも最初は奴隷を本として經濟を立てゝ居ります。奴隷と云ふのは勞働即ち勞働力です。其奴隷は隣の村へ行つて奪つて來る奴隷があり、戰爭で取る奴隷もあり、刑罰に依つて生れる奴隷もある。奴隷の源は色々ありますが、兎に角奴隷なかりせば勞働力がないから、奴隷を基礎として經濟を立てゝ行く。我國の如きも即ち最初は奴隷經濟であつた。あなた方は奴隷と云ふと日本にさう澤山ないもののやうにお思ひになるかも知れませぬが、歐洲の歴史は羅馬のスパルタカスの奴隷戰爭以來奴隷と自由人民の爭ひが歐洲の中世史であります。日本も其通りで奈良朝時代は純然たる奴隷經濟であります。奈良に正倉院と云ふ帝室のお藏があります。其處に殘つて居る戸籍斷片、昔行はれた戸籍のちり/\ばら/\になつたものがあります。それを見ますと其戸籍に主人は幾歳、妻は幾歳、男の奴隷何歳、女の奴隷何歳と皆籍が載つて居ります。斷片でありまして全體を見ることは出來ませぬが、それから推測して見ると大きな家には三人四人の奴隷が必ずあつたやうです。それから聖徳太子が蘇我の一族と戰はれたときは蘇我の一族には澤山の兵がありました。其奴隷がやはり四五百人あつた。さう云ふ風に總て奴隷を基礎として經濟を立てゝ居つたのです。是は何時頃まで續いたかと云ふと奈良朝の終り迄奴隷がありました。其奴隷は立派に大寶令と云ふ法律にも載つて居りまして、奴隷は奴隷としての存在があつて、奴隷と良民は結婚が出來ない、奴隷の女と良民の男と通じて子が生れゝば其子は良民である。奴隷の男と良民の女と通じて子が出來ればそれは奴隷とすると云ふやうに非常に制限的な法律がある。併ながら奴隷も亦存在があつて大寶令と云ふ法律即ち大化革新の後を全くする爲に出來た法律には、天下の土地を皆國有の土地としてしまつて、豪族が澤山の土地を持つことを禁じて、土地は悉く分配をして、良民には一人二反歩、妻は一反歩半、其子供は其何分の一、奴隷は其何分の一と云ふ風に奴隷にも田を呉れるやうになつて居りまして、保護もあり制限もあつたのです。斯う云ふやうなことが段々續いて來まして奈良朝の終り迄ありましたが英吉利も丁度其頃は立派な奴隷制度でありまして、第十三世紀まで奴隷制度が續いたのです。それで大寶令と云ふのは大寶年間に出來た法律で、西暦八百年西洋の八世紀に當ります。其大寶令には天下の民を分けて奴隷と良民との二つにする。良民は三級に分ける。第一級は三十貫文の錢を持つて居るものが良民である。第三級の民は一貫文の錢を持つて居れば三級の民である。但し錢のない場合には米若くは奴隷を以て錢に換算する。奴隷一人は六百文に換算すると云ふ規則です。奴隷一人半持てば三級の民になる。さう云ふやうなことで立派に奴隷制度が成立つて居りました。所が英吉利の如きは十三世紀まで奴隷經濟が續きましたが、日本では西洋の九世紀の終り十世紀の初めに至つて此奴隷經濟がなくなつてしまひました。それはどう云ふ譯かと云ふと、自然の勢ひ奴隷經濟だけでは成立たぬので土地經濟が起きて來たのです。奴隷時代には土地は澤山あつて人口は少い、だから其邊の土地は勝手に取れる。唯之を耕作する耕作力がないから奴隷を集めて之を耕作するので奴隷經濟が起つた。然るに日本では西暦十世紀頃即ち奈良朝の終り平安朝の初めには人口が大分殖えて來まして、到る所耕作せられる土地がある。そこで豪族若くは大官は既に耕作せられた土地に繩張をして是は自分の領分であると云ふことを決めますから、多くの奴隷を持つよりは多くの土地を持つと云ふことが世の中の希望であつた。豪族は成べく多くの土地を持ちたい、土地から野菜が出る、農産物が出る、貢物が出ると云ふことであるから土地を澤山持ちたいと云ふことが希望で、それから土地を本とする經濟が成立つて來た。それで英吉利の如きは丁度同じ時代に奴隷が段々少くなつて來てマノール・ハウスが出て來た。マノール・ハウスは日本の莊園見たいなものである。封建制度の前身でありますが、マノール・ランドと言ひまして別莊地と言ふのです。何處々々の土地は貴族のものである、豪族のものであると決めてしまつて、其處に住んで居る人民から税を取ると云ふことを本として來ましたから、茲に於てか奴隷が段々減つて土地を澤山取ると云ふ習慣になつて來まして、そこで土地を本として經濟を立てると云ふことになつて來た。日本では莊園と云ふものがあつたことは皆さん大抵御承知でせうが、之の起原は次の樣な譯であります。即ち大化革新に於て天下の土地を分けて百姓に平均一人二反歩づゝ呉れると云ふことになりましたが、是は支那の法律の飜譯なのです。其頃留學生や坊さんが支那へ留學して行きました。所が支那は其頃唐の大宗と云ふ天子の頃で盛んであつた。其唐の制度、唐以前の制度を見た所が、土地を持つことを制限して、豪族が餘り土地を兼併しないやうにすると云ふ時代であつたが、是こそ眞理である、之が國を救ふの道だと思つて歸つて來た留學生は持つて來た法律を飜譯して日本に應用したのです。其隋の法律や唐の法律を文字其儘使つて居りました。そこで日本の事情と云ふことを考へないで土地を[#「土地を」は底本では「士地を」]分割して制限すると云ふことになつて來たのですが、併し是は日本人の自然の勢ひに副はないのですから、段々何時の間にか毎年土地を變へると云ふことが三年に一度になり、五年に一度、十年に一度、甚しきは六十年に一度思出したやうに土地を分割すると云ふことになり、到頭土地分割は止めになつてしまつた。そこで人口は殖えて耕作せられた土地が多くなつて來たので之を持ちたいと云ふ希望が朝廷の貴族、大官あたりに非常に盛になつて來ましたから、土地を持ちたいと云ふことを法律化して來たのです。それはどうするかと云ふと、其頃お寺と神社には今申上げたやうに土地を澤山持つて居つても差支ない、之を分割して百姓に分けてやらないで宜いと云ふことであつた。そこで其神樣と佛樣の持つて居る土地は寺のものであり神社のものであるから、役人は入ることならぬ。其處から租税を取ることはならぬと云ふことにしたのです。そこで神社は人を使ひお寺も奴隷を使ひどん/\耕作して、其米の收入に依つて富を増すと云ふことになつて來た。朝廷の役人は之を見て神社とお寺の眞似をしようと云ふので、或る土地を區劃して之に莊園と名付けて、是は自分の別莊であり必要な土地である。之を神社やお寺の持つて居る土地と同樣の取扱をして戴きたいと云ふことを朝廷に希望するのです。所が朝廷と言つても貴族が作つて居る朝廷ですから、有力な貴族が願へば直ぐ判を捺して許すと云ふことになり、どん/\莊園が出て來て、到る所に莊園が盛になつて來た。今の近衞總理大臣の先祖の近衞家と云ふものは九州に於て日向、薩摩、大隅と云ふ三つの國を莊園に持つて居つた。島津と云ふものは其莊園のマネージヤーに過ぎなかつたのです。それで近衞家はどう云ふ收入を得るかと云ふと、其處から毎年金を一包、鷹の羽を二十枚、鷹の羽は弓に使ふのです。馬を何匹と云ふ位の收入を得てそれだけの土地を持つて居る。其實際の利益は誰が持つかと云ふと其莊園を管理して居る人間が利益をして居る。さう云ふ譯であるから莊園と云ふものは大變都合の好いものである。相競うて莊園をどん/\拵へる。貴族の妾までも莊園を持つと云ふことになり、どん/″\莊園は許された。其結果はどうなつたかと云ふと――國家の持つて居つて地方官が租税を取り得る土地を公田と云ふのですが、公田よりも莊園の數が多くなつてしまつた。朝廷を支へるのは公田から來る租税で支へて行くのですが、公田が段々少くなつてしまつて皆莊園になつてしまつた。奴隷と云ふものは今まで公田即ち地方官の勢力のある公田と云ふ土地を耕して居る其百姓に使はれて居つたのですが、莊園と云ふものが出來て大變樂なものださうだ、彼處へ入れば苦役を免かれるのであるからと云ふので、奴隷が何時の間にか莊園へ流れ込んでしまつて行方が分らない。數百年の間逃げる途中で捕つたり殺されたりした者があるが、結局そんな有爲轉變の間に奴隷は何時の間にか砂に水を撒いたやうに引いてしまつた。さうして莊園が非常に強いものになつて來た。英吉利のマノール・ランドも其通りです。マノール・ランドにどん/″\人が入り込んでしまつて、其のときの王樣とか何とかの苦役を離れてしまひますから奴隷が何時の間にか分らなく消えてしまつた。莊園と云ふのは一面から見れば朝廷の土地を一個人が奪ふのであるから甚だ不法であるが、同時に之が爲に奴隷制度が消えたと云ふのは一つの好い效果だと思ふのであります。
 偖てさう云ふ風に莊園が出來て、莊園は今までは唯畑や田圃にずつと連絡したものでありましたが、其莊園には役人が居り、支配人が居る。租税を取つたり何かするのには役人が要る。澤山の人が集まると泥棒も出て來ると云ふので、泥棒を防いだり租税の監督をしたりする爲に先づ郡役所と云ふやうなものが自然莊園に出來る。持主は京都に居る。唯出先の支配人が居る役所が出來る。其役所で自然に泥棒を防ぐ爲に、或は官吏が威張る爲に、段々一種の地方政府見たいなものが其處に出來て來る。さうすると地方政府の役人に奉仕する爲に小間物屋も出來れば機屋も出來ると云ふ譯で一種の町が出來る。さうすると其處に經濟上の中心が出來て來て、唯莊園から鷹の羽を取るだけでは詰らぬ。米、味噌を取るだけでは詰らぬ、物を買ふと云ふ必要が出て來て、貨幣制度が其處にやつと成立つて來て、どん/″\貨幣で物を買ふと云ふことになつて來て、莊園が貨幣制度の發祥地になつて來た。茲に於てか今までは天下の土地は澤山あつたが莊園に分割してしまつて餘分はないのである。誰でも取れると云ふ土地はなくなつて來たから、今度は其貨幣を澤山持つて居る人が勢力があると云ふことになり、是に於てか貨幣制度が出來て來たのです。此通り最初は奴隷經濟、次は土地經濟、其次は貨幣經濟になる。即ち何處の國を見ても第一奴隷經濟、第二は土地經濟、第三は貨幣經濟と言ふ順序になつて居る。是は世界共通何處の國でも其例を外れるものはないのです。日本獨り此例に外れることはない。皆西洋の歴史と同じことなのです。勿論人間は皆二つの目、一つの口、鼻、二つの耳、是は決まり切つて居るが、其人の血液の工合で色々顏の形が變つて來る。人の備ふべき機關は同じことであるが、それが集つて顏になるときには千萬人悉く違つた顏をするやうに、各國共に歴史の過程は同じことであり、起源も同じことであるが、其現れ方は別々になつて來る。だから各國共通と言つても同一とはいかない。江南の橘は江北に行けば枸橘となると云ふやうなもので、其土地に依つて形は變つて來るが原則は同じことである。然るに西洋人は日本が各國共通の過程を經て來たものであると云ふことを知らないで、突然日本へ來て此半開國が五十年の間に近世國日本になつたのは不思議だと思つて、どうも此疑問は解釋出來ぬと云ふが少しも解釋の出來ぬことはない。此通り西洋各國と同じことを經て來たのです。
 そこでもう一つ同じことを申すが、此莊園の中から君臣の關係と云ふものが出て來た。今お話したやうに莊園は誰が持つて居るかと云ふと京都の公卿、豪族が持つて居つたのでありますが、京都の公卿も段々飯が食へなくなり豪族も段々狹い京都に居るよりは地方に出て、自分の持つて居る土地へ行つて自由に生活したいと云ふので地方へ分れて、それが後には源氏となり平家となりました。莊園が餘り激しいので後三條天皇と云ふ天子樣が、莊園は色々の弊害の本で、朝廷の持つて居る土地を莊園にしてしまつて、さうして朝廷へ出すべき租税が減ると云ふことは不法であるから、莊園は悉く沒却してしまふと云ふことをお考へになつた。但し莊園も朝廷から立派な認可状のあるものは之を許すが、認可状のないものは取上げると云ふことになつた。所が認可状なんてものは有る者は百人か二百人しかない。皆盲判を捺してどん/″\勝手に莊園にしてしまつたのですから、莊園の認可状を朝廷から貰つた者は昔は知らず今はないのです。そこで關東八州、今の東京を中心とした八箇國、此邊の莊園の者が非常に騷ぎ出した。皆さんが歴史や芝居で御承知の畠山莊司重忠と云ふ人がありますが、莊司と云ふのは其邊の莊園を司つて居る人なのです。即ち莊園のマネージヤーです。それが皆武士なのです。後三條天皇が莊園を取上げると云ふなら是は何か方法を考へなければならぬ。今源義家、頼家と云ふのが東北を征伐して前九年、後三年を經て歸つて來て、赫々たる大功を奏して武名天下に轟いて居る。丁度我國で滿洲事變を終へて歸つて來た軍隊のやうなものです。其源義家に吾々の莊園を獻上してしまつて是は源家のものであると云ふことにしたら、後三條天皇も武力に憚つてお取上げになるまいと云ふことを考へ出した。其頃は新聞もなければ政治家も居なかつたが此關八州の田舍の武士が中々巧いことを考へたのです。それで義家に吾々關八州の者は悉く莊園を源氏に獻上したいから受けて呉れと言つたら、義家は宜しいと言つて取つてしまつた。是に於て關東八州は一朝にして源氏のものとなつてしまひ、莊園は朝廷に取上げることは其武力に對して出來ないので其儘になつてしまつた。そこで今お話した通り莊園は初めは京都の公卿や豪族が遙に二三百里隔てゝ支配して居つたのですが、段々子供が多くなると其土地へ行つて土着すると云ふやうなことから莊園が武力の中心となつて來た。終ひには莊園と莊園と戰ふと云ふことになるから兵力を養はなければならぬやうになつた。そこで今までは朝廷と臣民は遙に離れて居つて、君臣ではあるが情誼が通じない。然るに武藏の誰、上總の誰と云ふ莊園を持つて居る者は其處へ土着してさうして百姓を育てゝ兵隊にして手柄があれば褒める、罪があれば殺す、恩威並に施すので土着の豪族と其莊園の中の人民との間に自然に君臣の關係が出て來た。此人に服從して手柄があれば褒められる、嬉しいことである。惡いことをすれば殺される、恐しいことだと云ふので、所謂君臣の關係が出て來た。それが段々數十年重なると君臣の情誼が出來て來て、君の爲には討死しなければならぬものだと云ふやうなことになり、其處から一種の道徳が出て來た。西洋の諺に光は堅いものが打當つたときに出る、道徳も戰爭から生れると云ふ言葉があります。其頃は將門も居れば那須與一も居ると云ふやうな譯で始終小戰爭が絶えない。其小戰爭の中から結束して戰ふ、結束して主に叛かないと云ふ道徳、主君の命令に叛かぬと云ふ道徳、戰場に出ては汚いことをしないで、敵を殺すのにも立派に殺さなければならぬと云ふやうな所謂英語で言ふとコード・オヴ・オノア、日本語で言ふと戰場の手前で、所謂戰場の手柄は唯敵の足を取つたり卑怯なことをして勝つてはいかぬ、立派に勝たなければならぬと云ふやうな一種の道徳が其處から守り立てられて、所謂武士道の本となつて來たのであります。それを我國では武士道は日本專有のものと言ひますが、西洋も皆共通です。西洋には諸君が御承知の通りナイト若くはシヴアーリーと云ふのがあります。所謂飜譯して騎士と云ふのです。シヴアーリーと云ふものは何かと云ふと貴族に仕へて其貴婦人の前では跪いて禮儀をする、婦人を保護すると云ふことがシヴアーリーの役目であると云ふやうに段々盛立てられて、それが終ひには一變してゼントルマンの紳士道になつて來たのである。此シヴアーリーが一種の日本の武士道と同じくナイト・フードと云ふものがありまして戰場に於て手柄を立て立派なことをした者は、王樣が刀の背を以て脊中を三つ叩く、之が即ち名譽を與へたのです。其名譽を受けた者は世間から非常に褒められると云ふやうなことで、名譽と權力を以てシヴアーリーの道徳は成立つて來ましたが、ラスキンと云ふ學者はシヴアーリーとは何ぞ、一本の劍、一匹の良き馬、一日食べられるだけのものがあれば滿足して公の爲に戰ふのが之がシヴアーリーであると言つたが、日本の武士道も其通り、十年も掛かつて貯へた金は何を買ふかと云ふと良き馬を買ふ。君から非常な賜物を貰つた、それは何にしたかと云ふと正宗の刀を買つたと云ふやうに、一本の劍一匹の馬に全力を盡したと云ふことは東西古今同じことなのである。西洋では之をシヴアーリーと云ふ。シヴアーリーと云ふのはコート・オヴ・アームと言ひまして、軍服に一種の標が付くのです。是は日本の武士の紋所のやうなものである。尤も東京では車夫でも紋を付けて居りますが、是は今日の話で、昔はやはり紋所と云ふものは立派な武士でなければ付けなかつたのです。西洋のコート・オヴ・アーム、日本の紋所皆同じことです。武士道に依つて己を押へて公の爲、主君の爲に盡すと云ふことは獨り日本に限つたことはない、世界共通のことです。
 話が少し脇道に入りましたが、斯う云ふやうな譯で各國共歴史は皆共通であります。西洋人が笑つたとき日本が泣いてゐた譯ではない。西洋人と同じく悲しみ、西洋人が怒るが如く怒り、西洋人の喜ぶが如く二千五百年間送つて來たので、唯西洋人が來たときに文明の形が違つてゐたと云ふだけの話である。西洋人は西洋と交際して日本の文明が初めて生れたやうに言ふ。或は又それを日本で信ずる者もあります。さうでない、日本は歐洲と交通以前既に立派な文明を持つて居つた。今申上げた大化改新と云ふと西歴六百五十年であります。其頃はまだ農業をするのに鐵が少いから鐵で拵へた鍬と木で拵へた鍬と二つ使つて居つた。然るにそれが七八十年の後には木の鍬と云ふものは全く無くなつて、鐵の鍬ばかり使ふやうになつた。西歴の七百年、大寶元年文武天皇が右大臣阿部の御主人アベノオヌシと云ふ者に賜物を下さつた。それは絹五百匹、絹糸四百卷、金鍬一萬挺下さると云ふことが歴史に載つて居る。一萬挺の金鍬を下さると云ふことは如何に其ときの生産力があつたかと云ふことが分る。其頃はまだ都附近だけが鐵の鍬ばかり使つて居りました。田舍へ行けば木の鍬も混ぜて使つて居たことゝ思ふが、使つて見て木の鍬よりも鐵の鍬の方が良いから出來る限り皆鐵鍬を使ひ、期年にして皆鐵の鍬となつた。然るに英吉利はどうかと云ふと十世紀頃まだ木の鍬を使つて居つた。其農業状態は日本の方が餘程進んで居つたのです。是は唯鍬一つのことですが鍬を造ると云ふことは鐵を採る技術があると云ふことである。其多くは砂鐵です。其砂鐵を溶かして金物を造ると云ふ技術があつたといふことなのです。唯一人や二人で出來るものではなく一般の風習にならなければ其技術は出來るものではない。其位な文明があつたのである。今申上げた大寶令時代には貴族の家は立派な瓦で屋根を葺いて居りました。今日言ふ金漆が既に大寶時代には出來て居ります。今何と言ひますか透して先の見える透織と云ふ綾織があります。是は中々精巧な織物でありますが、此透織の織物がもう大寶時代には出來て居る。奈良の大佛はあれは其後變つたものでありますが、一丈六尺の金銅、金と銅と合せた金銅の佛像を作つて居りますが、其金銅佛を作ると云ふことはそれだけぢやない。それを生出す計畫を立て原圖を拵へてやるだけの技術が最早出來て居つたのです。是は僅に其一例を擧げたに過ぎませぬ。
 西洋ではジヤスチニアンの法律と云ふものがあつて、是は古今の法律の中でも立派なもので西洋の歴史の中で最も秀でた山と言はれて居る。其ジヤスチニアンの法典と云ふものは西洋の法典の中最高峯と言はれて居ります。それは西洋の紀元五百二十九年に發布せられたもので、我國の大寶令はそれから百七十年程遲れて居りますが、大寶令と云ふものは一つの立派な憲法でありまして、聖徳太子の憲法などは道徳を言ふだけであるが、大寶令は政府の組織、それから奴隷制度、商賣の制度、監獄の制度、交通の方法一切を規定した立派なものなのである。是は支那の法律を餘程採りましたが、さう云ふ立派な法律を作り得る程の頭の學者、政治家があつたのです。其位に立派に出來て居つたのですから、歐羅巴から文明を受けて初めて日本が半開國から立派な國になつたと云ふことは是は誤解であります。
 もう一例を擧げますと、今申上げたやうに西洋では貨幣經濟時代になりまして色々に經濟機構が變つて來て、此數百年間の經濟機構の中心はギルド即ち同業組合と云ふやうなものであつたのです、吾々は此ギルドと云ふものを見て、あゝ成程西洋の商人は立派なことを考へると思うて居ると、豈圖らんや、日本では既に座と云ふものが出來て居つて、是が即ち一種のギルドである。座と云ふものは何かと言ふと、金座、銀座と云ふ、諸君が人形町をお通りになると金座と云ふ處がある。あれは金貨を拵へる金座と云ふものがあつた其跡だから金座と言ふ。座と云ふものは何かと言ふと、特許せられたる商賣であります。それで我國でも貨幣經濟となつて色々の制度が出て來ましたが、其中から西洋と同じことを言へば座と云ふものが出來た。座は同業が相聯合して政府に冥加金のやうなものを納める。何百年來やつて居つたとか、親の代からやつて居つたとか、色々理窟があつて政府が認定して座とすると云ふことになると、外の競爭を許さい[#「許さい」はママ]。絹は絹の座、鹽を扱ふ者は鹽の座、鎌倉へ行くと材木座と云ふ處をお通りでせうが、あれは材木商人が寄つて政府の許可を得た特許商人の所です。此座が段々擴がつて京都の近邊の大津邊りには馬の座といふものがある。即ち物を運ぶ馬です。其馬は大津が日本全國の馬の座の中心であつて、大津の座の許可を得なければ馬を取扱ふことは出來ぬと云ふやうなことに迄なつて來た。所謂特許商人です。最も著しいのは、京都の山崎の八幡宮であつて、朝廷の由緒の深い所で、八幡樣にお燈明を上げるが、燈明には荏の油を使ふのである。荏の油は何處から出るかと言ふと、播磨の國から出る。播磨の國から荏の油を取寄せて、山崎の神樣にお燈明を上げるのである。其山崎の神主がそれを管理して居る。そこで其中に經濟論が出て來て、其頃淀川を上る舟から税を取りましたが、荏の油は神樣へ捧げる油であるから税を取ることはならぬ、一切自由と云ふことを要求して、是は又權力者が之を認めたのです。さうすると山崎の神主も男ばかりでなく、細君もあり子供もあるから段々子供が殖える、子供が殖えると山崎の家に居られませぬから、それが京都へ移つて町人となる。町人となると此荏の油の特許權は山崎の神主が持つて居るのであるから、神主の體から出た子供の體にも特許權がある筈だと云ふので、京都へばら/\散つて居る其神主の子供の體に荏の油の特許權がついて、京都に於ては此座の外は油を賣ることはならぬことになつた。それから小野宮の神主と云ふものが又麹と云ふものは小野の神樣へ仕ふるものが元であるから、麹の特許權は小野の神主が持つて、其小野の神主の體から生れた子供は京都へ行つても特許權を持つて居ると云ふやうなことで、京都で色々な座が澤山さう云ふ風に出來て來た。それは上から出たのですが、下から出たのもある。そこでさう云ふやうなものが政府からも許され、仕來りにも據る座と云ふものが出來て、座でなければ商賣が出來ないと云ふことになつた。歐洲の自治體と云ふものは何かと言ふと、皆座の商人が自治體の中心でありまして、即ち自治體と云ふものは一種の村若くは町であります。其中で座をやるやうな人間が有力者なのであり口利であり金が使へる。それが中心となつて所謂人民自治、自治してゐながら、實は權力者がやる。上の者がやらないで下の權力者がやつて居る。然るに京都に於てやはり同じ状態で上京下京と云ふものがある。足利時代の中頃に上京と下京とが戰爭をしたことがあります。上京も下京も其中心は何であつたかと言ふと、座の商人が中心で戰爭をした。上京下京は自治體とは今日言ひませぬが、其頃は自治體であり、座がその中心で、それが戰爭せいと言ふと戰爭をすると云ふやうなことで、此點は西洋のギルドと同じことで、而も是は何かと言ふと、ギルドはキリスト教の神に仕へる儀式から是が出來て、向ふのギルドの元は神樣にあるやうに、日本の座の元はやはり神樣から起きて居る。洵に不思議な位一致して居るのであります。斯う云ふ譯ですから、日本の歴史は即ち西洋史と同じく世界史の一部分なのです。違つた所はあるが、共通の所がある。地理學者から聽きますと、世界の地層と云ふものは何萬年前には斯う云ふ土があり、何萬年後に斯う云ふ土があつて、地球を横斷して見ると地層は皆同じことだと、言ふのです。然るに或る處に於て其地層が引つ繰返つて居る。何かと言ふと、それは地震の爲めだと言ふのです。歴史も其通りで歴史の斷面を取つて見ると、西洋も日本も皆共通で、第一は奴隷經濟、第二は土地經濟、第三は貨幣經濟、貨幣經濟の中から、經濟機構が生れて來て、座(ギルド)と云ふものが生れる、同じことである。唯其間に政治上の革命や外國との關係で一種の變動は來て居りますが、歴史の斷面と云ふものは、略※(二の字点、1-2-22)相似たものであります。
 それから歐羅巴では八世紀の中頃即ち七百二十年頃東ローマのレオ・イソーリアンと云ふ法王が偶像を禁止する法令を發して、他宗を皆悉く滅してしまふと云ふ運動を起した。所謂宗教の規格統一で、スタンダルゼーシヨンをやつた。それから色々殘酷なことが行はれて來ました。然るに日本では略※(二の字点、1-2-22)同時代に行基と云ふ坊さんが出て來た、是は非常な博學で、偉い人であつた。其頃坊さんは皆朝廷に仕へて紫の着物を着たり爵位を貰つたりして威張つて居つたが、行基だけは朝廷に仕へない。木の下、山の中、野の端を勸化して歩いて佛法を説いて廻つた。是が神佛混淆と云ふことを考へた。佛樣と云ふものも外ではない、大日如來は即ち天照皇太神である。現はれる所は違つて居るが元は同じことなんだと云ふ説を唱へ出して、神道と佛教の統一を圖つた。それが數百年經つてから神佛混淆して、神樣の所に佛樣があつたり、佛樣の所に神樣があるやうになつたのですが、今申上げたやうに、東ローマのイソーリアン法王は權力を以て宗教を統一して、反對の宗教を滅してしまひましたが、行基は反對を滅さぬで、反對の方も皆統一してしまつて、天照皇太神は即ち大日如來だと云ふことで、之を統一をしかけた。結果は違ひますが、宗教を統一すると云ふ考は同じことであります。
 それから日本に近年自由貿易と云ふことも唱へられて來ました。斯う云ふ統制時代になつては、自由貿易と云ふことも行詰つたやうでありますが、併しながら自由貿易なるものは世界普通の状態に於ては立派な眞理である。唯各國が墻壁を築いて重税をかける、割當をする、禁止をすると云ふやうなことをするから、自由貿易が行はれないが、世界の形勢が變れば、やはり自由貿易になるであらうと思ひます。其自由貿易と云ふフイロソフイーは吾々は西洋の學者から習つたのでありますが、併しながら學者が説を立てる以前に日本には事實に於て自由貿易はあつたのです。今申上げたやうに、商賣が總て座の專有物になつて、特許を經たる商人でなければ商賣が出來ないと云ふことになつて、流弊甚だしく、京都大津の座の商人は、京都から伊勢へ至る道路を悉く座の商人に取つてしまつた。座の商人の仲間でなければ商品を持つて其處を通過することはならぬ。又座に屬して居らぬ商人があるから、それを通したい場合には、税を納めて荷物を通すと云ふことにして、座が天下を占領してしまつた。日本全國到る處座の組織が立派に成立つて來たのです。其弊害が餘り甚だしいので、座以外の商人が非常に苦痛を訴へ、商賣は自由にして貰ひたいと云ふ聲を出して來たのです。自由貿易とか、政治上の自由とか哲學で申しますが、是では商賣が出來ないから自由に商賣さして呉れと云ふ聲を代表したのは織田信長でありまして、織田信長は唯比叡山を燒討したとか、明智光秀に殘酷なことをしたとか云ふやうなことだけ傳はつて居るが、立派な政治家で、座が天下を專有することは善くない、商人が自由に商賣することは尤もであるから座を禁止してしまへと云ふので、信長の政權の到る處座を皆廢してしまつた。秀吉は信長の弟子だから此説を信じて、一切の座を禁じた。九州征伐に行つた時第一に博多に行つて大きな旗を立てゝ「此處座あるべからず」と云ふ號令を出した。是が内地に於ける自由貿易の元祖であります。此説が又外國貿易にも行はるゝやうになつて來ました。是は唯商人が苦痛であるばかりでなく、實驗から行つて自由にした方が天下の爲になると云ふことを考へられたのであります。日本ではどうも學者よりは實行家が先になるやうであります。其頃港へ入れば必ず港で税を取られたのでありますが、數百年の經驗が税を取らないと船が澤山寄る、澤山寄れば港が繁昌すると云ふことを考へて、樂津と云ふことを考へた。樂津と云ふのは税を取らない自由港と云ふ意味です。樂津は即ち自由港であります。それから又市場を立てゝ商賣をする、日本橋にも四日市などゝ云ふ名前が殘つて居る。あれは四日目々々々に市を立てた。今のやうな店を張つて居るのでなく、月に三日目とか四日目に離れた處から其處へ行つて市を開いて商賣をする。其市が大名の狙ひ場所で、市を開くと市へ行つて大名の家來が入用な品物を取上げる、税を出せとか云ふことになる。所が多年の經驗に依つてどうも物を取つたり税を取ると人が集まらぬ。すつぽかして自由にさしたらどうだ。町人もさう言ふから、それを許して見たらどうだと云ふので自由にしたのを名づけて樂市と言つた。所謂フリーマーケツトです。それをやつて見ると、どん/″\人が寄る。成程之に限る。人が澤山寄れば町が潤ふ、町が潤へば大名に税を出すことも出來ると云ふことで、樂津、樂市と云ふムーヴメントがありまして、信長は其樂津、樂市の説を採つて、之を實行してさうして、秀吉が更に之を大成したのであります。偖て秀吉の後に徳川家康が出て來たことは御承知の通りであります。是は又秀吉と同じことで商賣は自由でなければならぬと云ふことを信じて居ります。是が元和二年と云ふと西暦千六百六十年ですから、家康が天下の主人となつて二十年以後でありますが、安南へ商賣に行く彌七郎と云ふ船乘がある、之に對して商賣を差許すチヤーターを與へる。但し此許可を與へるに付ては此事を心得ろと云ふ訓令があります。「凡そ會場の事は、有無を通じて以て人と己れとを利する也、人を損じて自ら益するに非ず、利を共にする者は小と雖も却て大也、利を共にせざる者は大と雖も却て小也異域の我國に於ける風俗原理異なると雖も、天賦の理未だ曾て同じからざるはなし、其同じきを忘れず其異なるを怪しまず、少しも欺くことなかれ、且つ彼之れを知らずと雖も、我れ豈之を知らざらんや、若し他の仁人君子を見れば即ち父師の如くに之を敬ひ、以て其國の禁令を問ひ、其國の風教に隨ひ……」斯う云ふ訓令を授けて居る。イギリス邊りの自由主義と云ふのは、東印度邊りと商賣をして、或る會社が利を專らにする、それに對して吾々も參加したいと云ふのがイギリスの自由貿易の起りでありますが、一國の政府が外國へ出る商人に對して、貿易とは人を損じて己れを利するに非ず、己れを利し併せて他を利するなりと云ふ訓令を與へたのは、恐らく世界の歴史あつて以來家康が初めであると思ふ。此文章を書いたのは林羅山と云ふ漢學者であります。漢學者は親孝行とか何とかばかり言ふかと思ふと、立派な理窟を知つて、其意見が政府の政策となつて現はれると云ふのは、學者も隨分使ひ甲斐のあるものと思ひます。
 以上の如く日本はアメリカと國を開いて交はる以前に立派な文明を持つて居つたのです。それがどうして西洋と違つた形になつて來たかと言ふと、是が徳川氏の非常な過失である。今のやうな奴隷經濟から土地經濟、貨幣經濟となつて、經濟上の色々な機構が生れて來て自然に發達して居れば、日本は歐洲と同じ所へ行つて居る筈なのである。然るに徳川氏が關ヶ原の一戰に勝つて、關ヶ原から逃げ散つた所の豐臣氏の家來、之に耶蘇教徒が[#「耶蘇教徒が」は底本では「耶蘇數徒が」]多い。蘇耶教徒は外國へ行つて居るのもある。之と交通して又再び反革命を起しはしないかと云ふ心配から、一切外國へ出ることはならぬ、外國へ行つた者は歸つてはならぬ。外國と商賣することはならぬ。外國との商賣は支那人とオランダ人が來るから、それに許す、斯う云ふことにしたのです。所が日本人は唯座つて支那人が何か買ひに來ると賣る、オランダ人が買ひに來ると賣ると云ふだけである。オランダ人が持つて來たものを、向ふの言値で買ふと云ふだけである。商賣と云ふものは、天下を自由に歩いて高い處に賣り安い處から買つて來るのが商賣であるが、それが出來ないのです。支那人は勝手に日本の物を買出して持つて行く、オランダ人は高い物を賣付けて物を安く買出して行く。是が殆ど三百年間續いた。それで全く自然の状態から日本の經濟機構は後戻りをしなければならぬことになつて、總てが不自然になつて來た。水が流れて出るのを止めてしまつたのですから、非常な不自然である。長崎が其頃の外國貿易の港でありますが、オランダ人と商賣をして之を高く買つても、京都へ賣り江戸へ賣れば又儲かるのです。非常な利益がある。其非常な利益を誰が持つかと言ふと、江戸の商人が十何人、堺の商人が十何人、博多、長崎、大阪、京都、此大都會から五六十人の特權を持つた商人が、長崎から外國へ輸出する品物をマネーヂしてゐる。それだけが非常な利益を懷ろへ入れることになりますから、非常に不平が多い。茲に於てか長崎の役場では竈銀と云ふものを拵へた。非常な儲だからして竈を持つて居る者に此利益の何分かを分けてやる、即ち一軒の家を持つて居る者に利益を分けてやると云ふので、利益を皆長崎の港へ分けてやつた。それでないと餘り見つともなくて、徳川氏の干渉を恐れて、江戸、長崎、堺、博多の商人だけでは儲けきれないので、竈銀と云ふ名前を付けて其中から利益を配當すると云ふやうなことをしたが、斯く總て商賣が不自然になつて來た。そこで貨幣制度も外國貿易の取締も妙な工合になつて來て、さうして外國とは交通しないから西洋にどんな事があつても分らぬ。オランダの商人が、船に乘つて來ると、船長――其船の船長であるけれども商人なんである、其船長から風聞書と云ふものを取る。お前はジヤバを經て來たらうが西洋にはどんな事があつたか聞かせろと言つて訊くが、彼等は「ナポレオンなる者生れ候由」と云ふやうなことを書いて唯一行か二行で世界の形勢を報告する。幕府の役人が之を見て世界の形勢は斯うだと思つて居る。豈圖らんや世界はさうではない、もうサイエンスの時代、機械の時代となつて居り、ナポレオンが出て來てまるで泥の中から大將を造るやうな事業をして居る。もう向ふでは封建制度を壞して、兵士と雖も大將になり得ると云ふ大變革をして居るのを知らないで居る。それで總ての制度は後れてしまつて居る。そこへ持つて來てペルリが來て國を開いた。吾々は三百年間のハンデキヤツプを持つて西洋と並んで立上つた。斯う云ふやうな状態である。それを四五十年の間に吾々が取戻して同等となつて更に手を伸すと云ふのである。ですから新日本は外國の文明で出來たのではない。是は日本人自力の力が刺戟によつて發達したのであります。それだけの力がなければ出來るものではない。今日八幡の製鐵所が世界有數の製鐵所であると云ふことは、大きな仕掛でやることは西洋から學んだが、製鐵の事業は吾々は既に三四百年以前からやつて居つた。日本の清盛時代に支那に宋と云ふ朝廷があつた。歐陽修と云ふのは其時代の學者で、日本邊りでは歐陽修の文章を讀んで感服する學者が多い。其歐陽修が日本刀と云ふ歌を作つて居る。日本刀と云ふものは璞を切るべく龍を斬るべし精悍無比天下斯の如き名刀なしと云ふ歌を歌つて居る。是は誰が打つたかと言ふと、堺邊りの工人が打つたものである。小仕掛に砂鐵からそれだけのものを造り得る者が今日あれだけの製鐵所を拵へても少しも不思議はない。唯仕掛が大きく機械を學んだと云ふに過ぎない。それを動かす頭と手は吾々にあつたのです。又、吾々がポルトガルやオランダと貿易を始めた時は色々珍しいものが來る中に天鵞絨と云ふものがあつた。此天鵞絨と云ふものは如何にも軟かくて立派なものであるが、どうかして此製法を學びたいと思ふが、ポルトガル人は教へない。所が堺の商人が何とかして習ひたいと思ふが教へない、困つて居る所に、或年來に天鵞絨をほごして見ると、其隅の方に針金が一本入つて居つた。それで針金を中心にして織るなと云ふことを考へて直ぐ天鵞絨を拵へた。是程精工業に巧妙な者が今日コツトンに於て天下有數の地位を得たからと云つて少しも不思議はない。唯マンチエスターから機械を學んだと云ふだけである。之を運轉する機能と頭と指先は吾々は既にもう持つて居つた。工業に付てさへも斯の如しであります。
 近頃自由主義が宜しくない、議會政治が宜しくない、是は皆西洋の制度を學んだものだと云ふやうなことを言ひますが、議會制度を西洋から學んだと云ふことは、形は確にさうであります。併しながら我國はそれを生むべき運命を持つて居る。お話申した如く、封建時代に於ては、武士が刀を以て百姓を抑へて居つたのですが、天下泰平となつては刀では利かないで、利くのは黄金の力のみとなつた。江戸の士が非常に威張つて居つたが、年々歳々金に困つて町人から金を借りるのですが、盆暮に取るべき米の切手を抵當として町人から金を借りると云ふやうなことで、段々士族は黄金の前に頭を下げるやうになつて、終ひには江戸の町人は大名の如く挾箱を擔がして從者を連れて數十人列を作つて江戸を歩くやうになりました。唯大名が歩くときは挾箱に槍を立てゝ歩くが、町人の悲しさには槍を立てることは出來ないから六尺棒を持つて歩いた。江戸の士は無氣力であるから彼奴等は雨龍だと言つて笑つて僅かに鬱憤を漏した。雨龍と云ふのは、御承知の如く龍と言へば角があるが、雨龍は大きな恐しい蛇であるが角がないから、彼奴等は雨龍見たやうに、威張つても槍を立てることは出來ないぢやないかと言うて聊か冷笑して居つたが、冷笑して居る間に段々士は衰へて金を貸して呉れと言ひ、次には金を呉れと言ひ、終ひには強請ると云ふやうになつて來た。黄金のある所は勢力のある所でありまして、段々實力のある者は威張ると云ふことになつて來るのは、是は理の當然であります。
 イギリスの如きは議會と云ふものは何で出來たかと言ふと、今日の如く自由投票普通選擧などと云ふものではなく大地主即ち大名です。イギリス王がフランスと戰爭をするのには金が要る。其大名大地主が税を掛けられる。税を掛けられるなら吾々は政治の發言權を持ちたいと云ふやうなことで、議會が權力を得た。日本も其通りもう士の武權が衰へて中産階級が黄金の權力を持つときには政治に發言するのは、勢ひの當然なんです。徳川幕府は伏見鳥羽の戰で負けましたから、薩長が之を倒したと言ふが、成程薩長は之を倒すのに功勞はあつたに相違ないが、併し薩長のみの力で倒したのではなく、最早黄金が盡きて倒れて居つた。天保以來四五十年掛つて、黄金に銅を混ぜ鉛を混ぜて貨幣の數を殖してやつて來たが、到底政府の維持が出來ない。其中にアメリカが來るから軍艦を造らなければならぬ、大砲も買はなければならぬ、あるものは皆出してしまつた、長州征伐で皆使つてしまつた。徳川慶喜が大阪で負けて江戸へ逃げて來るときは、大阪城にいざと云ふときの軍用金として積んだものが二十八萬兩しかなかつた。是が一切合切の金なのである。それを持つて軍艦に乘つて江戸まで逃げて來たのですが、西郷隆盛などが江戸へ來て、先づ第一に大江戸の金座を押へた時金座に何があつたか、天保錢、文久錢、一分金、小判合せて十五萬兩しかなかつた。徳川政府が三百年掛つて政權を持つてゐながら、それだけの金しかなかつたのです。二十八萬兩に十五萬兩で四十三萬兩と云ふものは、幕府の兵を動かすのに一箇月分しかない金である。即ち幕府が倒れたと云ふことは、財政に於て倒れたのである。どうにも斯うにもならなかつた。昔衣川の戰に義經が戰つた時辨慶が出て行つて數百本の矢を負つても辨慶は倒れないでえらいものだと思つてゐましたが、終ひに行つて見たら、辨慶は矢を負つて立ちながら死んで居つた。之を衣川の立往生と言ひますが、幕府は實は形は生きて居つたが、數十年間立往生をして居つた衣川の辨慶見たやうなものである。薩長が功勞があつたと言ふが、其立往生して居つた幕府をぽつと押倒したに過ぎない。斯う云ふやうなことで、黄金なくして權力はないから、中産階級が既に力が出來たときは何等かの形で政治に發言をするのは自然の勢であります。幕府の終りに於ては江戸に數萬の士が居つたけれども、彰義隊となつて上野に立籠つた者は僅かなものである。彼處へ立籠つた者は、下總、上州、群馬あの邊の土豪で、劍術を稽古して居つた者が出て來て、幕府の士と一緒に彰義隊を拵へたので、中心は土豪であつた。土豪は黄金があり學問があり、劍術を稽古して居るから、天下の風雲に乘じて何かして見たいと云ふのが出て來た。即ち中産階級が黄金を以て權力を取掛つて來た。是が泰平の世となつて、西洋に斯う云ふものがある、吾々の平生言ふ萬機公論と云ふのは、成程西洋の議會に似て居るぢやないか、それを一つやらうぢやないかと云ふことが議會の始めで、形は西洋のものであるが、之を要求すべき中産階級は既に成長して居つた。斯う云ふやうな譯で日本は西洋列國と同じ過程を經て來て同じ結論に達して、中産階級は天下の權力を取ると云ふ時代になつて來た。西洋からは色々惡い事も入つて來ませうが善い事も入つて來た。併し惡い事は西洋ばかりでなく、日本固有の惡い事もある。惡い事は西洋から來たもので、日本は神國で日本だけが良い、さう云ふ理屈は立たない。西洋も持つて居るが如く惡を持つて居り、西洋の持つて居るが如く善を持つて居る。善惡共に天下共通の道に依つて成立つて來たのですから、吾々は日本を世界の歴史の一部分と見て、日本の姿を決して山鳥のおろの鏡で見てはならぬ。同時に神がかりで日本だけがえらいと思つてはならぬ。又西洋かぶれした學者のやうに西洋の眞似をして來たからえらいとも思はぬ。吾々が二千五百年の間掛つて此の吾々の血液に壓力が掛つて、是が泰平となつて發達したもので、今日の日本は模倣でなくして發達であります。眞似でなくして自力であると云ふことを吾々は承知したいと思ひます。まだ色々お話したいのですが、最早時間が迫つて來ましたから今日は是だけにして置きます。御清聽を感謝致します。(拍手)
(をはり)

底本:「日本の眞の姿」石井氏還暦記念講演會
   1938(昭和13)年11月17日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「大化改新」と「大化革新」、「付」と「附」、「連」と「聯」、「どん/\」と「どん/″\」の混在は底本通りです。
入力:kamille
校正:小林繁雄
2010年5月24日作成
2011年4月14日修正
青空文庫作成ファイル:
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