一

 それは、はなやかな日がさして、だまされたようなあったかい日だった。
 遠藤清子の墓石おはかの建ったお寺は、谷中やなか五重塔ごじゅうのとうを右に見て、左へ曲った通りだと、もう、法要のある時刻にも近いので、急いで家を出た。
 と、何やら途中から気流が荒くなって来たように感じた。
「これは、途中で降られそうで――」
と、自動車くるまの運転手は、前の硝子ガラスから、行く手の空をのぞいて言った。
 黒い雲が出ている。もっと丁寧にいうと、朱のなかへ、灰と、黒とを流しこんだような濁りがたなびいている。こちらの晴天とは激しいちがいの雲行きだ。
 赤坂からは、上野公園奥の、谷中墓地までは、だいぶ距離があるので、大雨たいうには、神田かんだへかかると出合ってしまった。冬の雨にも、こんな豪宕ごうとうなのがあるかと思うばかりのすさまじさだ。
 私はすっかり湿っぽく、寒っぽくなってしまって、やがてお寺へ着いたが、そこでは、そんなに降らなかったのか、午前中からの暖かい日ざしに、何処どこもかも明け放したままになって、火鉢ひばちだけが、火がつぎそえられてあった。
 その日のお施主せしゅ側は、以前もと青鞜社せいとうしゃの同人たちだった。平塚ひらつからいてう、荒木郁子あらきいくこという人たちが専ら肝入きもいやくをつとめていた。死後、いつまでも、お墓がなかった遠藤清子きよこのために、お友達たちがそれをした日の、供養くようのあつまりだった。
 会計報告が、つつましやかに、秘々ひそひそと示された。ずっと一隅いちぐうによって、白髪しらがの、羽織はかまかくばった感じの老人と、そのほかにも一、二の洋服のひとがいたので、その人たちへの遠慮で、あとのことなどの相談をした。会費と、後々のちのち影向料えこうりょうとがあつめられたりした。
 やがて、本堂へ案内された。打そろって座についたが、本堂は硝子障子が多いので、書院よりは明るいが、そのひえはひどかった。読経どきょうもすこしも有難みを誘わなかったが、私は、眼の前の畳のあらい目をみつめているうちに、そのあたりの空間へ、白光りの、炎とも、湯気ゆげとも、線光とも、なんとも形容の出来ない妙なものが、チラチラとしてきた。
 ――遠藤清子さんはよろこんでいるだろう。
 たしかにそうも思いはしたが、それよりも、急に、わたしの胸をいてきたものがある。廿五年の歳月は、こんなにもみんなをわしたかと――
 誰の頭髪あたまにも、みんな白髪しらがの一本や二本――もっとあるであろう。その面上にも、細かき、荒き、しわが見える。
 ひとり、ひとりが、焼香に立った。
 悪寒おかんが、ぞっと、背筋せすじをはしると、あたしはがくがく寒がった。雨のなかを通りぬけて来た時からの異状が、その時になって現われたのだが、すぐうしろにいた岡田八千代おかだやちよさんがびっくりして、
「はやく、火鉢のある方へ行かなければ。」
と案じてくれた。生田花世いくたはなよさんも、外套がいとうをもって来ましょうかといってくれた。
 みんなも気がついて、向うへ行っていよとすすめる。焼香もすましているので、あたしは親切な友達たちのいう言葉にしたがった。
 外套にくるまって、火鉢にかじりついていると、どんなふうかと案じて来てくれながら、そうではないような様子に、
「おお寒い寒い。」
と、自分も逃げて来たように言って、八千代さんはそこらの障子をめてくれてそばへ来た。
「どう? お寺で風邪かぜなんぞひいたらいけないから。」
 あたしは大丈夫と言いながら丸くなって、友達の顔も見なかった。見たら、涙が出そうでしかたがない。
 みんな、たいした苦労だ――
と、そればかりをむように思った。みんな、跣足はだしで火を踏んだような人たちだ。今日こんにち若人わこうどたちの眼から見たらば、灰か、炭のように、黒っぽけて見えもするであろうが、みんな火のように燃えていて、みな、それぞれ、その一人々々が、苦闘して、今日の、若き女人ひとたちが達しるというより、その出発点とするところまでのいばらの道を切り開き、築きあげて来たのだ。いたずらにえた髪のしもでもなく、欠伸あくびをしてつくった小皺こじわでもない。
 ――その間に、こんなにも、こんなにも、女人おんなの出る道は進展した――
 前の、あまり生々いきいきしたグループのなかで、何時いつまでもいつまでも話しこんでいたあたしは、あんまりちがった仲間のなかにいて、たしかに戸まどいもしているのだった。年月などというものを、さほどに意識しない日頃であって、何時いつも若い友達と一緒になっていられる幸福のために、かえって、しにもの狂いであった誰彼たれかれなしの過去に、ひたと、おもてをこすりつけられたような思いだった。
 表面おもてに、溌剌はつらつと見えるからといって、青春者わかいひとたちが、やはり世の中へたつのは、多少とも死もの狂いであるのと同様、先覚者さきのひとたちも決して休止状態でいるのではない。おなじ時代を歩んでいるのではあるが、まあ、なんと、今日いまから見れば、そんな些事ことを――といわれるほどの、何もかもの試練にさらされて来た人たちだろう――
 私は、神近市子かみちかいちこさんの横顔を眺め、舞踊家林きん子になった、日向ひなたさんに、この人だけは面影おもかげのかわらない美しい丸髷まるまげを見た。
きよも、よろこんでおりましょう。」
と、もとの座についた、白髪の老人は、重い口調で挨拶あいさつをしていられる。
 それをきくと、周囲の人がわやわやとして、
「長い間、お心が解けなかったそうですが、いま、お兄さんがそう仰しゃったので、これで、仏さまとの仲も、解けて――」
と、いうような意味の言葉を、一言ひとことずつ、つづるように言った。とはいえ、解けあわぬ兄妹きょうだいでも、遺骨は墓地に納めさせてくれてあったのを、その人々も知っている。墓を建てたのを、差出たことをしたと思われないようにとも、友達たちは老人をいたわるようにいった。
「どういたしまして、よく、あれの心を知ってやってくださる、あなたがたに、こうして頂いた事は、よい友達をもった、彼女あれの名誉で――」
と、兄という人は思慮深くいうのだった。
「あなた方は、彼女あれのことばかりお聞きなさってでしょうが――」
と、老人は、感慨をめて、わたくしも困りましたと言っていた。
 そんな事も、よく聞きたいが、老人とわたしの座とは、かなり間がへだたっている。それに、洋服の男子ひとが、その老人の方へむかって坐って、何か話しかけているので、老人のいうことは、半分もきこえてこなかった。
彼女あれも、さぞ、わからない兄だと思ったでございましょうが、わたくしも困りました。わたくしの眼の悪くなったのも――」
と、黄白きじろい四角い顔の、れあがったような眼瞼まぶたてのひらをかぶせて、
「ただいまで申す、なぐりこみのようなことを、彼女あれがいたしましたので――」
 新旧思想の衝突――さまざまな家族苦難の一節の、そんなことを話すように、口がほぐれて来たのは、記念の写真をとったり、お墓へ参ったりしたあと、谷中やなか名物の芋阪いもざか羽二重団子はぶたえだんごなどを食べだしてからだった。
「それはどんな訳で?」
と、きいたものがある。
「荷物でしたかなんだか、なんでもわたせと、男どもを連れて押かけてくるというので、それならばと、こちらでも、用心して人もいたのですが――戸障子をたたきこわすような騒ぎで、その時、乱暴人あばれものに眼を打たれました。」
 視力もなくしたとでもいったのか、まあね、という嘆息もまじってきこえた。
「あ、あすこの――あの時の方ですか?」
 後向きの男の人の一人が、そんなふうに言っている。も一人の人は、遠藤氏といって清子さんとは同姓であって、死ぬきわまで一緒に暮していた人だということを、誰だったか、ささやいていた。
 雑誌『青鞜せいとう』や、その他の書籍がひろげられて、なき人の書いたものが載っているのを、人々は見廻した。しめやかではあるが、わやわやしたなかなので、気分も悪いわたしは、近間ちかまで話している、ほんの一つ二つの逸話しか耳に残らなかった。
「ごく若い時には日本髷にほんがみがすきでね。それも、銀杏いちょうがえしにきれをかけたり、花櫛はなぐしがすきで、その姿で婦人記者だというのだから、訪問されてびっくりする。」
「『二十世紀婦人』の記者でしたろう、その時分は。」
「たしか、東洋学生会の仲間で、印度人に、英語を教えていたでしょう。」
 人々の眼には、ずっと若い時分の、遠藤清子さんが話されていた。わたしの眼には、それよりずっとあとの、大正六、七年ごろ、もう最後に近いおりの、がくりとほおのおちた、鶴見つるみのわたしの家で会食したおりの、つかれはてた顔ばかりが浮んでいる。
 荒木郁子さんが、清子さん母子の墓のことを気にかけていたのは、清子さんの死後託された男の子を、震災のおり見失なって以来、十年にもなるがわからないから、その子も一緒に入れて建てたいという発願ほつがんだった。
 郁子さんは、玉茗館ぎょくめいかんという旅館の娘だったので、清子さんの遺児はその遺志によって、『青鞜』同人たちから、郁子さんに依託することになった。そして、あの大正十二年の大震火災のおり、広い二階座敷にいたその子は、表階段おもてばしごの方へ逃げた。郁子さんは、裏階段うらかいだんのがれた。表階段おもてばしごの方へけていった後姿は見たが、それっきりで、どんなに探しても現われてこないのだった。その子は――民雄たみおは、岩野泡鳴いわのほうめい氏の遺児ではあったが、当時の岩野夫人清子には実子ではないという事だった。父につかないで、清子さんの養子になり、離婚後も母と子として一緒にいた薄命な子だった。
 泡鳴氏には、ほかにも子供は沢山ある。清子さんより先妻のお子、清子さんよりのちの妻の子。だが、清子さんとの結婚が風がわりであるばかりか、その子になっている民雄も、また別の腹に生れている不幸ふしあわせな子だ。
 四十九歳で死んだ岩野泡鳴も、十九年間、わびしく墓表ぼひょうばかりで、それも朽ち倒れかけた時、やはり荒木郁子さんの骨折りで、昨年、知友によって立派な墓石が建てられた。この人の半獣主義、刹那せつな哲学、新自由主義は、文芸愛好者の、あまりにもよく知っていることだが、まだ知らぬ人のためにもと、昨年建てられた石碑の、碑文は、もっとも簡単でよく述べられているから、それをしるしておこう。

岩野泡鳴本名美衛よしえ、明治六年一月二十日淡路国あわじのくに洲本すもとに生る。享年四十八歳、大正九年五月九日病死す。爾来じらい墓石なきを悲み、友人相寄り此処にこの碑を建つ。泡鳴著作多く、詩歌しいかに小説に、独自の異才を放つ。その感情の豊饒ほうじょうと、着想の奇抜は、時人を驚せり。その表現の率直なるは善良なる趣味性をそこなふの感あるも、誰も泡鳴の天賦を疑ふものあるを聞かず、彼が文学的円熟期に入らずして死せるは、最も惜しむべきものとす。泡鳴初め浪漫主義を信じ、転じて表象主義に入り、再転して霊肉合致がっちより本能の重大を力説して刹那主義なる新語を鋳造せり。泡鳴は人生の神秘を意識し、その絶対的単純化にる生活力の充実を期せるものなり、ついに彼は、その信念を進めて新日本主義となせり。思ふに泡鳴は、一時代先んじたるものにして、まさきたらんとする時代を暗示せり。
 碑文はヨネ・ノグチ氏の撰である。(句点は仮に読みやすいように筆者が入れた。)
死ぬることおろかなりといひて
高笑ひ君はまことに
命惜しみき
 泡鳴子をおもうと、蒲原有明かんばらありあけ氏の歌も刻されてある。

 かくのごとき文人と、その最も、思想的にも人間的にも精悍せいかんであったであろう時期に、深い交渉をもったのが遠藤清子なのであった。
 一方に泡鳴氏が、一風も二風もある、風変りの人であるのに、彼女もまた、一通りのものでない考えを、恋愛と結婚についてもっていた。それがまた、潔癖すぎるほどに堅固に霊の結合をとなえ、精神的な融合から、性の問題にはいるべきだと、実に、きびしすぎるほど真面目まじめに、彼女自身への貞操を守っているのだった。
 彼女は、泡鳴氏に結婚を申込まれる前に、五年間もある人を思っていて、そして失恋している。プラトニックラブにやぶれた彼女は、国府津こうづの海に入水じゅすいしたほど、「恋」に全霊的であり、彼女は事業も名誉も第二義的のもので、恋を生命としていたものは、それに破れれば現世に生きる意義を見出せないとまでいっている。そして、その最初の恋を、心の底にいつまでも宿していた。
 彼女は、明治末期の、女性覚醒かくせい期に生れあわせて、彼女は大きな理想のもとに、それまでの女性とは異なる、生活方針を創造しようとした。我国において最初、覚醒運動を起した仲間の一人なので、彼女は彼女のゆく道を正しく歩もうとたたかったのだ。その理想主義者――泡鳴にいわせればローマン主義者の、愛の闘争は、破れたといっても決して敗北とはいわれまい。
 そこへ忽然こつぜんと現われたのが、半獣主義を標榜ひょうぼうする泡鳴だったのだ。
 明治四十二年十二月に、泡鳴は、突然面識もない彼女に、逢いに行って、二時間ばかりの間、率直に自分の半生の経歴を、告白的にあからさまに語りきかせた。清子はそのおりのことを日記では、泡鳴氏の素行には同感できなかったが、恬淡てんたんな性質には敬意を持つことが出来たと書いている。
 その日はそれで帰ったが、五日ほどたつと、泡鳴は二度目の訪問をした。その日は清子の父親が来あわせていたので、
明日あした、も一度会見したい。実は、重大な御相談があるのだが。」
と言って帰っていった。翌日は、ちゃんとやって来て、こんどは家庭の事情を告白した。
 ――妻とは名義だけであって、物質の補助をしてやるだけだから――
「三年以上も絶縁しているのだが、妻の同意がないので、正式の離婚が出来ないでいるだけだ。」
 だから、気にかけないで清子に同棲どうせいしてほしい、同時に結婚もしてくれと申込んだ。
 午後二時ごろ、お昼飯ひるはんをたべに、麻布あざぶ竜土軒りゅうどけんへ行き、清子は井目せいもくをおいて、泡鳴と碁を二回かこんだが、二度とも清子がけた。そのあとを、二時間ばかり、泡鳴が玉突きをするのを見物していたが、こうした友人づきあいが、すっかり打解けた気分にはいりこめたものと見えて、幽霊坂の上でわかれる時には、引っこしの話までまとまって、新らしく家を借りる金を十五円泡鳴は清子に渡した。
「愛のない結婚なんて、自身をはずかしめることだし、男を欺く罪悪だ。」
と清子は結婚は拒絶したが、一家に同棲して見るのは承知した。
「無論、あなたの人格を尊重して――」
という約束をした。
 この約束は、突飛とっぴなようでもあるけれど、二度の告白で、泡鳴の正直さは、正直な彼女の心に触れたのでもあったろうが、だが、彼女は独りになると机の前で考えこんだ。愛は霊からはいったものでなければ本当でない、そして、正しい理智から出発したものでなければならないという、平常へいぜいからの持論が拒んだ。
 ――あたしは、あなたに友情以上はもてない。
 そう書いて、預かったお金を封入してかえそうとするうちに泡鳴の方から手紙が来た。
 勿論もちろん第一条件だけでも拒絶されるよりもよいが、第二条件もなるべく考え直して承諾してもらいたい――そんな文面だった。
「あなたは、樗牛ちょぎゅうを愛読することから来たロマンチスト、僕があなたのロマンチストになるか、君が新自然主義になるか。」
 泡鳴はそんなふうにもいったが、ともかく共同生活にはいる話は、手っとりばやくまとまったのだった。
 それまで、彼女は、五年間ばかりいた赤坂檜町ひのきちょう十番地の家を引き払うことにしたのだ。拾った猫で、よくれているのがいたが、泡鳴がきらいだというので、近所へあずけてまで行くことにした。たしかに清子は、泡鳴に引かれたものであったには違いない。
 その前年かに、泡鳴は小説「耽溺たんでき」を『新小説』に書いている。自然主義の波は澎湃ほうはいとして、田山花袋たやまかたいの「蒲団ふとん」が現れた時でもあった。
 ここで、泡鳴と清子の、不思議な生活がはじまることを書こうとする前に、婦人解放の先駆、青鞜社の文学運動が、男の連中をも、かなり刺激したことを思出した。生田春月いくたしゅんげつさんが、花世はなよさんに求婚したのも、そんなふうな動機だった。
 そしてまた、そのころは、自由劇場が、小山内おさないさんによって提唱され、劇運動の炬火きょかを押出した時でもあった。
 偶然といえば、今、わたしが机にむかっているところは、赤坂檜町である。十番地は乃木坂のぎざかのちかく、わたしの住居すまいの裏のがけの上になっている。いま、音楽家の原信子はらのぶこの住んでいるところとの間になっている。あたしが、はじめに赤坂の家から遠藤清子のお墓にゆくところを書きだしたのも、ふと、その事を思ったからだ。しかも、泡鳴が清子を訪れたのは十二月の一日がはじめてで、十日にはもう大久保おおくぼ移転ひっこしている。
 今日は、昭和となってから十二年、もっとも画期的な年の、南京ナンキン陥落をつげたその十二月であり、暦は廿二日だが――新劇運動の親、小山内かおる氏のなくなったのも、クリスマスの晩で、十年前のこの月廿五日のよいだった。そして、自由劇場再進出の計画が、市川左団次いちかわさだんじによって実現されようとしている。
 私は、霜白き暁を、多少の感傷をもって黙然もくねんとしている。

       二

 テトテトと、暁の霜にえるラッパの響きに、眠りついたばかりのとこのなかで、清子はうっすら眼をさました。
 歩兵一聯隊れんたいの起床ラッパを、赤坂檜町の旧居で聴いている錯覚をおこしていたが、近くで猫が、咽喉のどを鳴らしている気もした。
 はっきりしない頭のどこかで、猫は近所へあずけて来たはずだがと、預けたとはいえ、空家あきやへ残して来た、黒と灰色とのまだらの毛並が、老人としよりのゴマシオ頭のように小汚こぎたならしくなってしまっていた、老猫おいねこのことがうかんだ。
 ――あれは、ひとの縁日へいった時、米屋の横の、どぶっぷちに捨てられていたのを拾ってやったのだが、また宿なしになってしまやしないかしら。
 泡鳴氏が汚ながるし、きらいなので、捨てて来はしたが――
 と、そう思うと、引越しのとき、山のように積んだ荷車の、荷物の上へせっかく捨てた古柄杓ふるひしゃくを、泡鳴氏は拾って載せた――あんなことをしなければ好いのにと、見ないふりをして眼をらしたが、冬の薄らが、かたむきかけたのをせた背に受けて、古びしゃくを拾いあげて荷物の上にさしこんでいる、いやだった姿が、まぶたの上にはっきりとした。
「あ、赤坂の旧家うちじゃない。」
 パッチリと眼がさめると、猫だと思ったのは、隣室となりから、男のいびきがきこえていたのだった。
 ラッパの音は、戸山学校からきこえてくるのだった。大久保の新居に来ての朝夕、馴染なじみのない場処ところでありながら、赤坂に住んだ五年間と変らないのは、陸軍のラッパの、音をきくことだけだった。
 ――もう、やがて、二十日ぢかくにもなる――
 目がさめさえすれば、妙にしょんぼりと、越して来た日のことが、目に浮ぶのが、この頃のならわしになっていて、十二月九日に泡鳴氏と、此処ここ同棲どうせいしはじめてからのことが、またしても繰返して思いだされるのだった。荷物を出してから、二人して来たこの家に、家主やぬしのところから提燈ちょうちんを借りて来て、二人は相対していた。冷々ひえびえした夕闇ゆうやみのなかで、提燈をかかえるようにして暖まったり、タバコを吸ったりして荷物のくるのを待った。
 お蕎麦そばで夕食をすませると、もう荷物も着くだろうと、うちのなかを見廻して清子は言った。
「とにかく、同棲しても、まだ友人関係なのですから、あたしの寝間ねまは、此処を茶の間にして、そっちの六畳ときめますから。」
「では、僕は、八畳の方か。あすこ、客間だね。」
と泡鳴氏はいった。二人は寒い、なんにもまだ置いてないへやに眼をやった――その寝間から、いびきはれてくるのだった。
「あんなに、泣いたり、怒ったりしても、よく寝られるものだ。」
 清子は毎夜のように持ちあがる、二人の間の暗闘――許す、許さぬのからみあいを思った。おれは腹を切るといって怒るかと思えば、これほど熱愛をささげる誠意をまないのかと泣く男が、まくらにつくと、ぐっすりと寝てしまうのを、不眠症になってしまって、朝まで眠れない自分とを思いくらべた。
 ――けれど、だんだん私は岩野を好きになっている。
と思わないわけにはゆかない。けれど、恋愛こいの芽もまだ宿してはいないと、心でかむりは横に強く振った。
 そんなことを思う傍らで、まだ移転ひっこしの日のつづきを思い出しているのだった。翌日に着いた泡鳴の荷物は、荷車に二台の書籍と、あとは夜着よぎと、鉄の手焙てあぶりだけだった。
「僕は、なにしろ、かに缶詰かんづめで失敗したから、何にもない。洋服が一着あるのだけれど、移転ひっこしの金が足りなかったから、しちに入れてしまった。」
 その費用の幾分でも、分担しようと、清子が銀時計を出すと、
「君のものなんぞ出さなくったってい。何しろ、樺太からふとで、蟹の缶詰で一儲ひともうけしようと思ったのだが――蟹はあるが、缶の方がうまくいかなかったんだ。」
 彼はてれくさく、笑いながら言った。
 ――いところのある人だ――
 清子はほおをおさえた手に、頬骨がさわる気がした。毎朝見る鏡に、眼ばかり大きくなってゆくのがわかるのだが、こう段々に、夜が苦しいものになって来てはたまらないし、眼のさめた瞬間の心さびしさも、朝々ごとに、たまらないものに思った。
 腕力をもってくるなら、反抗する決心もあるが、沁々しみじみと訴えられるのはつらい。自分の思想を守るのに、そんなことで屈伏したり、陥落は出来ないとも思った。
 最初の「霊の恋」の対手あいての男は、もう、すっかりめてしまっているのに、
「あなたは、泡鳴氏と、もう結婚したのですか。」
と、この同棲の新居へたずねて来て言った。
「どうとも、あなたの御想像にまかせます。」
と答えただけで、並んで月を見た。泡鳴もそれを見ていた。あとで嫌味いやみをいったが、十月の冬の月は、皎々しろじろえ渡っていた。
 お互の胸は、月と我々との距離だけの隔りを持っていると、その時はっきりそう思った。その男への執着でなく、霊の恋の記念のものだけが焼きすてかねて、再び見まい、手にも触れまいと、一包にくくって、行李こうりの底に押籠おしこんでしまった。
 ――だから、言って見れば、泡鳴に、霊の恋が芽生めばえさえすればいのだ――
 けれど、それは、半獣主義を標榜する人に無理はわかっている。といって、それがそうならないからこそ、もろともに悩み呻吟うめくのではないか――
 彼女は、窓の外の、軒端のきばで笑っているような、すずめの朝の声をきくまいとした。蒲団ふとんをひきかぶるようにして、外は、霜柱が鋭いことであろうと思った。なにもかもが、きびしすぎると感じながら、自分の主張は曲げられないと、キッシリと眼を閉じていた。見かけだけは仲のい、新婚夫婦に見えて、霊肉合致の域にいたるまで、触れさせまいとする闘いに、互に心肉のしのぎを削っている、妙な生活!
 去年の今ごろ(明治四十一年)は、日本婦人の権利擁護のために、治安警察第五条解禁の運動に朝から晩までけ廻っていたものだが、今年は肉と霊との恋愛合戦に、血みどろの戦いだ!
 彼女は、首をすくめて、ふとんをかぶると、大丸髷おおまるまげが枕にひっかかった。
       *
 許す許さぬの解決はつかないままだが、日が立つにつけ、この同棲生活の厳寒も、いくらかゆるんで来た。いらいらした霜柱も解けかけて来た。杉の木の二、三本あった庭には、赤坂からもって来た、乙女椿おとめつばきや、紅梅や、海棠かいどうなどが、咲いたり、つぼみふくらんだりした。清子の大好きな草花のさまざまな種類が、植えられたり種をかれたりした。
「まあ、あなたが、そんな事して下さるようになったわね。」
と清子がいうように、泡鳴氏が土をいじっていることがある。文壇の交友たちの話をきくことも多くなって、清子も小説を書こうと思いたったりしはじめた。
 一ツ石鹸箱シャボンばこをもって、連立つれだって洗湯おゆにゆくことも、この二人にはめずらしくはなかった。男湯の方で、水野葉舟ようしゅうや戸川秋骨しゅうこつ氏と大声で話合っているのを、清子は女湯の浴槽ゆぶねにつかってのどかにきいていることもあった。今日も、一足おくれて帰ってくると、うちのなかで女の声がしていた。
「いま現金がないから、そのうち金のある時に返すといっているのに。かないのか。」
と、言っていたが、
「さあ、これが証文だ。」
 何か書いて渡している様子だった。帰してしまうと、六畳の部屋へ顔を差入れて、化粧をしている清子の鏡のなかへ、自分の顔をうつしこんだ泡鳴は、
彼女あれだよ、放浪(小説)のモデルの女は。缶詰事業のとき、彼女あいつの着物も質に入れてしまったので、返してくれといって来たのだ。金がなければ、証文にしろといって、持っていった。」
 清子は、今帰っていった女のことなどは、あんまり気にならなかった。鏡にむかって、びんを掛きながら、思いだしていたのは、いつぞや、此処へ来て間もなく、やっぱりお湯から帰ってくると、主客の問答を、襖越ふすまごしにきいた。
「まだか?」
「まだだ。」
 その時の客は、正宗白鳥まさむねはくちょう氏だったのだ。泡鳴氏の友達の方には、もっと手厳しいのがあって、ハガキで、そんなことをしていて、清子に男が出来たらどうするとか、彼女は生理的不具者なので、よんどころなくそうしているのだろうなぞといってきているのもあるのだった。
 清子には、そんなことはなんでもない非難だと思えた。それよりも辛抱のならない女客があることがいやだった。それは、泡鳴氏の先妻幸子さちこだ。三年前から別居しているという彼女は、冷やかな調子で、
「私は、もらうものさえ貰えばいんですからね。どうせ、このひととは気が合わないんだから、このひとはこのひとで、勝手なことをなさるがいいんです。あなたとは、気があっているそうだから結構でさあね。」
 永遠性を誓えない邪恋を押退おしのけ純一無二のものでなければならないと、いやしむべき肉の恋をこばんで、苦しむ身に投げつける言葉のそれは、まだ忍耐がまんするとしても、名ばかりの夫妻とはいえ、夫が厳冬のも二時三時まで書いていることを、この女は知らないのだろうか、文学家の朝夕ちょうせきは、思ったより悲惨なものであるのに、その金を催促に来て、いう言葉がそれなのだ。
 ――あの、賤しい女に、なんで、わたしは見下げられるのだ――と、ふと、そのことを、いま、帰っていった、ふすまの向うの女の声から、連想を呼び出されていたところだったのだ。
「なにをぼんやりしているのさ。」
 泡鳴氏は、はりあいなさそうにいった。
「ふん、これね、なんだか冷たい恋のようで、わたしたちに似ているから。」
と、清子は心にもないことをいって、はぐらかして、生けてあった連翹れんぎょうの黄色い花を指さしたが、鏡の中に、陰気くさい、気むずかしい顔をしている自分を見出すと、彼女は、またしても家のなかの空気を暗くしてしまう自分を、どうしようもなくなって、気をかえに散歩にでも一緒に行こうと、立上ると、八畳の部屋をのぞいた。すると、泡鳴氏は後むきになって横になっていた。清子はその背中から、悶々もんもんとしている憂愁を見てとった。
       *
「僕はもうあきらめる。僕にそういう心を起させるものを切りすてる。泣くには及ばない。」
 せせぐり泣く枕許まくらもとで泡鳴はそういった。そんな事をさせてはならないと、二十八歳の処女は泣いたのだ。とはいえ、二ツの思想が同棲している以上、この争闘あらそいはくりかえされなければならない。
 彼女は、どうかすると早起はやおきをして、台所に出たり、部屋の大掃除をしたり、菜漬なづけをつけたりする。と思うと、戸山が原へ、銀のような色の月光を浴びにいったりする。「別れたる妻に送る手紙」という小説を書いた、近松秋江ちかまつしゅうこう氏に同情して、この人のロストラブの哀史を、同情をもって読んでみようと思うといったりしていた。
 立場の違う苦しみに、互に、なぶり殺しのような日をおくりながら、二人の相愛の気持ちは日々に深まっていったのだった。日記をつけるのにも、岩野氏とか、泡鳴氏とか書いたのが、「君」となったが、三月ばかりするうちに、主人あるじという字になった。
「あのひとって、随分失礼なひとだ。不作法ったってなんだって、教養のある婦人ひとだというのに、いつだって案内もなしで、いきなり上りこんでくるなんて我慢が出来ない。」
 彼女は先妻の幸子が、いつもの癖で、ずかずか上り込んで来て、いつものくせで、朝、起きはぐれているところを、荒い足音で、わざと目をさまさせられたのをいきどおった。
 中学教師をしていた時代の泡鳴と、女学校教師だった幸子とは、泡鳴が樺太からふとへ蟹の事業をはじめる前に別れたのだが、清子は友人同棲をはじめてからも、幸子に同情して、泡鳴に復帰するようにさえ勧めたこともある。米や炭を送って、幸子の生活をたすけもした。それなのに、何時いつも来ると、自分が退いてやっているのだぞといわないばかりの仕打ちに、清子は腹を立てた。
 だが、そんな不愉快な日ばかりもなかったのは、若葉の道をじゃがさをさしかけて、連れ立って入湯おゆにゆくような、気楽さも楽しんでいる。
 ――主人あるじの体量、万年湯ではかったら、十四貫三百五十あったといって、よろこんでいらっしゃったと、日記につけたりしている。
 暑い晩に、泡鳴は半裸体で原稿を書き、彼女はかたわらでルビを振っている。と、青蛙あおがえるが飛び込んで来た。泡鳴は団扇うちわで追いまわし、清子も手伝った。によって来た馬追虫うまおいもいる、こおろぎもいる、おけらもいるという騒ぎに、仔犬こいぬもはしゃいで玄関から上ってくれば、飼猫かいねこも出て来た。虫のとりあいをして、猫がこおろぎを食べると、犬がくやしがってワンワンえたてた。
「まるで動物園だ。」
と泡鳴が笑っているという図もあったりした。家庭生活にそこまで、犬も猫もきらいな泡鳴をひっぱりこみ、浸らせた清子の、一筋でない信念の強さがそれでも知れるが、そればかりではなかった。泡鳴は、そうしたなごやかな団欒だんらんには、勧進帳をうたったりなんかして、来あわした妹に、こんなことは兄さんはじめてだと、びっくりさせたりした。
 ――進んでノラともなれず、退いて半獣主義に同化することも出来ない。恋と思想と一致しない。私たちは常に絶えざる苦悶くもん懊悩おうのうとを免かれない。しかも君に対する恋の執着はどうすることも出来なくなっている――
 それは偽りのない彼女の告白だ。
 泡鳴は、金が出来たら広い場処に移って、かぎのかかる部屋をつくってあげようといい、結婚式は立派にしようと、優しくいった。
 けれど、けれど、清子の思想は主張は、強かった。四十三年の一年は、その相剋そうこくをつづけて、四十四年の一月、熱海あたみへの三泊旅行も、以前の関係のままで押通した。
 熱海の間歇かんけつ温泉ではないが、この、珍無類夫妻の間には、間歇的に例の無言の闘争が始まるのだった。そして、彼女は終日おしになり、泡鳴はいろいろの所作をした。
「泣いたり、怒鳴ったりするのは、まだ悲しみや怒りのきわみじゃない。悲痛のきょくは沈黙だ。沈黙が最も深い悲痛だ。」
と、泡鳴は言った。
 飽満ほうまんのちにくるたるみならば、まだ忍べるが、根本の愛の要求に錯誤があるからだと、彼女は悩みになやみぬいた、その夜の夜明けに、いよいよ気分をかえて、新しく彼を愛してゆこうと決心した。
「理智の判断を捨ててしまって、盲目に恋に身を投げだそう。そうしたら泡鳴も満足し、自分の淋しさも消えるかもしれない。」
 自分をくなすことは、もっと大きな自分をつくるために必要かもしれないと、彼女は自分に言いきかせた。そして、それをするならば、それは今日だ、この覚悟がくずれないうちにと思った。
 打明けるには、こころよい顔をしていたかった。気分を軽くするために、晴れた日の下に出た。お友達のうちで闘球をして遊んで、夕ぐれになって帰るとき、これならば、心から笑って話せると思った。新しい恋人の心持ちで話しあおうと急いだ。はずみきって玄関から上りながら、旦那さまおうちときいたら、ばあやは、お出かけですと答えた。
 清子の勢いこんだ覚悟はくじけてしまった。
 泡鳴氏も苛々いらいらして酒ばかり飲んだ。そして、
「私は不幸な男だ。あなたも不幸ふしあわせだ。その上、貧乏はする。さぞ詰らないだろう。」
とつくづく言った。精神的にも、物質的にも、なんとか打破しなければいけない。それには、生活をすっかりえるのに、限ると思ったためかどうか、『大阪新報』に入社することになった。あとから清子も行くことになる前に、音楽家の北村氏夫妻が、新劇団体をつくるのに、女優にならないかと勧められて、清子の心は動いた。
「僕は自分の妻を、公衆ひとに見せるのはいやだな。」
と泡鳴は反対した。それには、うんといわなかった清子も、稽古けいこを見にいってくると、すっかりいやになって断ってしまった。
       *
 いよいよ泡鳴が大阪へ出立しゅったつする二日前の、三月廿六日の日記には、
 ――私の心は黒い夜の森のような、重い空気につつまれている――
と清子は書いている。二人でえても離れて心配するよりいいというような泡鳴からの手紙を読むと、想思の人が東西を離れるようになるとは、ほんとに憂世うきよではあるといい、苦労をともにする人は、呼べど答えぬ百余里の彼方かなた難波なにわの宿にいるといい、すこしばかりの金を手にすると、この金を旅費にして、大阪にゆこうかしら、会いたいのは私ばかりでもあるまいからと、一緒にいれば、争闘あらそいつづける泡鳴を恋い慕った。かえるの声が気のせいか、オオサカオオサカときこえるともいうようになっていた。
君帰り物語りすと見しは夢、ふとうたたねの春宵しゅんしょうの夢
君住むは西方せいほう百里飛鳥とぶとりの、翼うらやみ大空を見る
と、だらしがないほど彼女は恋しさを告白するようになった。
 とうとう、婆やを連れて、大阪へ、家財道具そっくり持ってゆく日が来た。
       *
 大阪郊外池田山のふもと家居かきょした彼女は、汽車に乗っただけで、郊外から郊外へ移って来たほど気が軽かった。
 青菜にもやのかかる宵は、青葉の匂いのはげしいころだった。おなじような郊外の住家すみかというが、二階から六甲山も眺められる池田での生活には、彼女はガラリと様子が一変してしまった。主人あるじが、今朝けさのお出かけには御機嫌がよかったのに、お帰りになってから悪い、私がお出むかえしなかったからだろうか、なんぞというようになった。だが、それは表面だけで、四十四年五月十一日の日記には、
 ――私は結婚生活に経験がない。始めて男性に心身を許してしまった今日こんにち、私の結婚生活に対する幻影は早くもさめてしまった。古人が結婚は恋愛の墓だといっている。私は、恋人の努力によって、内外一致した恋愛生活が、真の結婚生活だと信じていた。結婚を葬るのは、当事者の努力が足りないためだと思っていた。しかし、これは私一人のイリュージョンかもしれない――
と、何処どこやらに絶望をみながら、それでも、純一に夫を愛そうと、恋の自伝を書くために、行李こうりの底へ押込めておいた、五年間もつづけたという霊の恋の、形見の書簡を、陶器せとものの火鉢をひっぱり出して燃してしまった。電燈が薄ぐらく曇る煙りのなかで、泡鳴を揺り起して見せると、
「妙なことをする人だ。急に何を思出したんだ、この夜更よふけに。」
と、もうそんな事には興味ももたなかった彼は、ともすると、
「なにも、いやいやいてもらいたくない。」
というようになった。
       *
 前号に、荒木郁子さんに養われて、震災の時に死んだ男の子を、清子の実子でないように書いたが、それは、あんまり諸方きあわせたための行きちがいであった。生田花世さんは、その頃、ペンネームを長曾部ながそべ菊子といわれたが、芸術まず生活の実行からと、水野葉舟氏の家に女中奉公をされていた。仲のよかった岩野、水野の両家の交わりは、紫紺の釣金つりがねマントを着て、大丸髷の清子女史を伴なった泡鳴氏がお得意のおもで、
「清子も、とうとう僕の子を、ここへ入れている。」
と、細君のおなかをさして、満足気にいってたのを見て知っているということだった。
 釣鐘マントの流行は大正三、四年ごろだった。その時分に、この夫妻は大阪から帰って、東京巣鴨宮仲すがもみやなかに住んでいた。四年の夏のころ、清子の健康はすぐれていなかったことや、大正十二年に九歳位だというのにも合っている。しかも、泡鳴氏が清子さんに別れる時、
「もう、あなたとも、永久のお別れですね。」
といったとき、泡鳴氏はこういっている。
「おれはそうは思わない。いつ喧嘩けんかして帰って来るかも分らない。それに坊やは時々見にくるよ。」
 泡鳴氏は、そのころ、筆記者に雇った蒲原房枝かんばらふさえのちの夫人)と、不義の交わりがつづいていたのだった。
「蒲原とのことならば、もう一月も前から……が出来できていたのだが、私はあなたに対する尊敬は、今日でも持っている。」
とその関係を軽い調子で告白したのだった。
 それは、清子にとって、重大なことだった。同棲して七年間、泡鳴の品行に一点の汚点もなくなったことは、清子の誇りでもあり、泡鳴の誇りでもあったのだ。多年の放縦ほうしょう生活を改めたという、家庭の美事光明びじこうみょうが、一瞬にひっくりかえってしまったのだ。
 清子はその侮辱を、冷静に考え処理しなければならないと思ったが、昂奮こうふんした。謀反者むほんしゃの間にいることがたまらなかった。
 蒲原房枝は彼女にこういった。
「こんな関係になりましたからって、決して定まった月給よりほか頂こうとは思っていません。私は、お金をもらって囲われているようなことはしたくないのです。」
 それからの泡鳴は、いっそ知れてしまったのをよい事にして、夜ごとに公然と、蒲原のところへ出かけて行くようになった。
 千仭せんじんの底へつきおとされた気持ち――清子にとって、それよりもたまらないのは、そうなっても夫婦関係をつづけようとすることだった。
 別居か離別か、その二ツに惑った彼女は、青鞜社せいとうしゃに平塚明子はるこさんをたずねた。
 別居する決心がついた。収入の三分の二を渡してもらって、子供を養い、妻としての権利をもつのを条件に、私製証書は二通つくられた。
 あんまり事件ことが突然なので、誰も彼もびっくりしたが、岩野氏はあっさりと、荷物を積んだ車と一緒に、
「さようなら。」
といって出ていってしまった
 白々しらじらしい寂寞せきばく
 彼女はこんなことをいったことがある。
「あたしは芝で生れて神田かんだで育って、綾瀬あやせ隅田川すみだがわ上流)の水郷すいごうに、父と住んでいたことがある。あたしの十二の時、桜のさかりに大火事に焼かれて、それでうちは没落しはじめたのです。その時の、赤い赤い火事に、幼い心をうたれた紅さと、泡鳴氏が出ていった夏の日の――八月でしたが、あの真昼の、まっ白な空虚さは、心からも、眼からもわすれられない。」
       *
 その後の清子さんは、切花きりばなや、鉢植の西洋花を売る店をひらいた。
 泡鳴氏からの物質は約束通り届けられなかったものと見えた。後には、店の面倒をよく見てくれたり、深切にしてくれた青年と結婚した。大正九年に、その人との中に女の子が生れたので、夫の郷里京都へ、もろもろの問題を解決に旅立ったが、持病の胆石が悪化して、京都帝大病院でなくなった。
 暮の押迫った時分だった。『青鞜』はもうなくなったが、新婦人協会の仕事で、平塚さんは東京が離れられなかった。ありったけの手許の金を送ってやると、
「まあ、あの人も、仕事のことで、いま、お金がなくって困っているだろうに、送ってくれるなんて、少しでも、これは実に尊いお金だ。」
と、悦んだが、その時分には死を充分覚悟していて、泡鳴氏との遺児を、友達に頼みたいということを、遺言の第一に書いた。
 悲しい結びつきであった。泡鳴氏にしても、大正四年四月、「新体詩作法」と、「新体詩史」を合したものを提出して、博士論文を要求していたのだが、審議にのぼっていた時に、清子さんと蒲原房枝とをめぐる事件の、世評がやかましくなったので、ほとんど通過する間際まぎわになって否定されたということだ。
 廿八歳まで、霊肉一致の、恋愛至上主義に生きぬこうとした意志の強い女性の、ほんとにこれは、断片を語るにすぎないが、彼女が、泡鳴氏との同居に、頑固かたくななほど身を守っていた明治四十三年は、幸徳こうとく事件があったりした時だった。

底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「婦人公論」
   1938(昭和13)年2〜3月
初出:「婦人公論」
   1938(昭和13)年2〜3月
入力:門田裕志
校正:川山隆
2007年9月5日作成
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