一

 ものの真相はなかなか小さな虫の生活でさえきわめられるものではない。人間と人間との交渉など、どうして満足にそのすべてを見尽せよう。到底及びもつかないことだ。
 微妙な心の動きは、わが心の姿さえ、動揺のしやすくて、信実まことは書きにくいのに、今日こんにちの問題の女史ひとをどうして書けよう。ほんの、わたしが知っている彼女の一小部分を――それとて、日常かたわらにある人の、片っぽの目が一分間見ていたよりも、知らなすぎるくらいなもので、毎朝彼女の目覚めざめ軒端のきばにとまる小雀こすずめのほうが、よっぽど起居を知っているともいえる。ただ、わたしの強味は、おなじ時代に、おなじ空気を呼吸しているということだけだ。
 火の国筑紫つくしの女王白蓮びゃくれんと、誇らかな名をよばれ、いまは、府下中野の町の、細い小路のかたわらに、低い垣根と、粗雑な建具とをもった小屋しょうおくに暮している※(「火+華」、第3水準1-87-62)あきこさんのへやは、日差しは晴やかなうちだが、垣の菊は霜にいたんで。古くなったタオルの手拭てぬぐいが、日当りの縁に幾本か干してあるのが、妙にこの女人ひとにそぐわない感じだ。
 おもやせがして、一層美をそえた大きい眼、すんなりとした鼻、小さい口、こてをあてた頭髪かみの毛が、やや細ったのもいたいたしい。金紗きんしゃお召の一つ綿入れに、長じゅばんの袖は紫友禅のモスリン。五つぎぬぎ、金冠をもぎとった、爵位も金権も何もない裸体になっても、離れぬ美と才と、彼女の持つものだけをもって、粛然としている。黒い一閑張いっかんばりの机の上には、新らしい聖書が置かれてある。仏の道に行き、哲学を求め、いままた聖書にたずねるものはなにか――やがて妙諦みょうていを得て、一切を公平に、偽りなく自叙伝に書かれたら、こんなものはらなくなる小記だ。
 ※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんは、故伯爵前光卿さきみつきょうを父とし、柳原二位のおつぼね伯母おばとして生れた、現伯爵貴族院議員柳原義光氏の妹で、生母は柳橋の芸妓だということを、ずっとのちに知ったひとだ。夜会ばやり、舞踏ばやりの鹿鳴館ろくめいかん時代、明治十八年に生れた。晩年こそ謹厳いやしくもされなかった大御所おおごしょ古稀庵こきあん老人でさえ、ダンス熱に夢中になって、山県のやり踊りの名さえ残した時代、上流の俊髦しゅんぼう前光卿は沐猴もくこうかんしたのは違う大宮人おおみやびとの、温雅優麗な貴公子を父として、昔ならばきさきがねともなりる藤原氏の姫君に、歌人としての才能をもって生れてきた。
 実家だと思っていたほど、可愛がられて育った、養家さと親のうちは、品川の漁師だった。その家でのびのびと育って年頃のあまり違わない兄や、姉のある実家に取られてから、漁師言葉のあらくれたのも愛敬あいきょうに、愛されて、幸福に、はなやいだ生涯の来るのを待っていたが、花ならばこれから咲こうとする十六の年に、暗い運命の一歩にふみだした。ういういしい花嫁ぎみの行く道には、祝いの花がまかれないで、のろいの手がひろげられていたのか、京都下加茂しもがもの北小路家へ迎えられるとほどもなく、男の子一人を産んで帰った。その十六の年の日記こそ、涙のつづりの書出しであった。

 芸術の神は嫉妬しっと深いものだという。涙に裂くパンの味を知らない幸福なものにはうかがい知れない殿堂だという。
 だが、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんは明治四十四年の春、廿七歳のとき、伯爵母堂とともに別居していた麻布笄町こうがいちょうの別邸から、福岡の炭鉱王伊藤伝右衛門氏にとつぐまで、別段文芸に関心はもっていられなかったようだった。竹柏園ちくはくえんに通われたこともあったようだったが、ぬきんでた詠があるとはきかなかった。しかし、その結婚から、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんという美しい女性の存在が世に知られて、物議をもかもした。それは、伝右衛門氏が五十二歳であるということや、無学な鉱夫あがりの成金なりきんだなぞということから、胡砂こさふく異境にとついだ「王昭君おうしょうくん」のそれのように伝えられ、この結婚には、拾万円の仕度金が出たと、物質問題までがからんで、階級差別もまだはなはだしかったころなので、人身御供ひとみごくうだとまでいわれ、哀れまれたのだった。
 人身売買と、親戚しんせき補助とは、似ていて違っているが、犠牲心の動きか、いられたためか、父と子のような年のちがいや醜美はともかくとして、石炭掘りから仕上げて、字は読めても書けない金持ちと、伝統と血統を誇るお公卿くげさまとの縁組みは、とつひとが若く美貌びぼうであればあるだけ、愛惜と同情とは、物語りをつくり、物質が影にあるとおもうのは余儀ないことで、それについて伯爵家からの弁明はきかなかった。
 だが、そのままでは、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんはありふれた家庭悲劇の女主人公になってしまう。甘んじて強いられた犠牲となったのかどうか。それは彼女の後日が生きて語ったではないか。

 この手紙は今年の春(大正十一年)中野の隠れからうけた一節で、
只今お手紙ありがたく拝見いたしました。実はわたくし、二、三日前からすこし気分がすぐれませんのでとこについております。急に脈がむやみと多くなって、頭がいやあな気持ちになる、なんとも名のつけられない病気が時たま起りますので。でも今日は大分だいぶよろしゅう御座いますから、早速御返事申上げて置こうと、床の中での乱筆よろしく御判読願い上げます。(中略)仰せの通り世間のとかくのうわさの中にはずい分、いやなと思う事もないでも御座いませんけど、これも致方いたしかたがないなり行きだと、今までもあまり気にかけたことも御座いません。
 私信の一部を公にしては悪いが、わたしの筆に幾万言をついやして現わそうとするよりも、この書簡の断片の方がどれだけ雄弁に語っているか知れない。はじめからそういうふうに冷淡に、うわさを噂として聞流す女性はすくない。
 いつぞや九条武子くじょうたけこさんと座談のおり、旅行のことからの話ついでに、
別府べっぷには※(「火+華」、第3水準1-87-62)あきさまの御別荘がおありですから、それはよろしう御座いますの。随分前から御一緒に行くお約束になっていて、やっと参りましたのよ。伊藤さんがお迎えながらいらっしゃるはずでしたところ、風邪かぜをおひきになったって電報が来たものですから、※(「火+華」、第3水準1-87-62)さまは急いでお帰りになりましたの。だから残念でしたわ。」
 語る人のあでやかな笑顔えがお。それよりも前に、わたしはかなり重く信用してよい人から、こういうふうにも聞いていた。
白蓮さんは伝右衛門氏のことを、此方このかたが、此方がといわれるので、何となく御主人へ対して気の毒な気がして返事がしにくかった。それに、あの人の歌は、どこまでが芸術で、どこまでが生活なのか――あの生活がいやなのだとはどうしても思われない。
 手紙のことといい、武子さんの話の断片といい、この歌の評といい、突然なので、知らない読者には解しかねるであろうが、この間には、例の白蓮女史失踪しっそう事件があり、彼女の生活の豪華であったことが、知らぬものもないというほどであり、和歌集『踏絵ふみえ』を出してから、その物語りめく美姫びきの情炎に、世人は魅せられていたからだ。
 この結婚は、無理だというのが公評になっていた。作品を通して眺めた夫人は、キリスト教徒のためされた、踏絵や、火刑よりも苦しい炮烙ほうらくの刑にいる。けれどためす人は、それほど惨虐な心を抱いているのではない。それどころか、宝としてしっかりと握っていたのだとも思われる。冷たさにも、熱さにも、他の苦痛など、てんで考えている暇のない専有慾の満足と、自由を願うものとの葛藤かっとうだったのだ。もとより、いつもつかむものは強い力をもち、かよわいものが折り伏せられるのはつねだが――

       二

 ――これは前のつづきではない。前章は、大正十一年の二月に書いたのだが、その続きがどうしても見当らない、図書館にも幾度かいって探してもらったが、続きのったはずの雑誌はあっても出ていない。そこで、よく考えてみたらば、こんなことがあったのを忘れて、続きが出たとばかり思っていたのだった。
 こんなこととは、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんの兄さんの柳原伯が、わたくしの母をわざわざ横浜の手前の生麦なまむぎまでたずねられて、続稿を、やめさせてくれまいかと頼まれたのだった。箱入り一閑張りの、細長い柱かけの、瓢箪ひょうたんの花入れのお土産みやげを取出して見せながら、母は言い憎そうにいうのだった。わたしは、そのふらふら瓢箪をみながら、めるとも止めないともいわないで、母のいうことだけきいていた。
「お困りだそうだから――」
 わたしはただ笑った。ありとある新聞が、徹底的に書きつくしたのに、今になってと。だが、その、今になってが困るのかなと思った。だが、母の弱さにも嘆息ためいきした。母は合資ごうしの、倒れかけた紅葉館こうようかんを建て直して、もうけを新株にして、株式組織に固め、株主をよろこばせたうえで、追出おいだされた。年老いて、我家わがやほうり出しておいて、故中沢彦吉さんに見出みいだされたからと、意気に感じて、の目もないで尽した誠実はみとめられずに、喧嘩けんかのように出されて、子たちがいる家にも足むけが出来ないと、死にもしかねない有様に、当時、草茫々ぼうぼうとした、あばを生麦に見つけだして、そこに連れて来てあげて、やっと心持ちを柔らげさせたのではなかったか。そのおり、利益のあったときには、長谷川さん長谷川さんとやさしくした株主のだれが、優しい言葉をかけたか? もとより、無智だった母の、法律的なことは知らずに、感情からのゆきちがいはあったとしても、権利、義務を主とした会社ではなく、酒とこびの附属する料理店で、お客であって株主でもある人たちは、一番やすく遊んで食べて、利益も得ている、その株主の一人で柳原さんもあったのだ。顔馴染かおなじみを利用するのが、あんまり現金すぎるとも思い、引受けた母までがいやだった。だからといって、それとこれを混じて、ものを書くような卑劣さを持つかとおもわれるより、そう思うほうが、よっぽどいやしいと思ったのだった。だが、原稿の続きは出なかったのだ。ガン張っても誌面は自分のものでないから、どうにもしようがなかったのだ。だから、つづきはわるいが、ここからは新しく書くことにする。

 白蓮さんを見たのは、歌集『踏絵』が出て、神田錦町かんだにしきちょうの三河屋という西洋料理やで披露があったとき、佐佐木信綱先生から、御招待があったのでいったときだった。柳原伯夫人のお姉さんの、樺山かばやま常子夫人が介添かいぞえで、しっとりとしていられたが、白蓮さんには『踏絵』で感じた人柄よりも、ちょくで、うるおいがないと思ったのは、あまりに、『踏絵』の序文が、
「白蓮」は藤原氏の娘なり「王政ふたたびかへりて十八」の秋、ひむがしの都に生れ、今は遠く筑紫つくしはてにあり。――半生ようやくすぎてかへり見る一生の「白き道」に咲き出でし心の花、花としいはばなほあだにぞすぎむ。――さはれ、その夢と悩みと憂愁と沈思とのこもりてなりしこの三百余首を貫ける、深刻にかつ沈痛なる歌風の個性にいたりては、まさしく作者の独創といふべく、この点において、作者はまたく明治大正の女歌人にして、またあくまでも白蓮その人なり。ここにおいてか、紫のゆかりふかき身をもて西の国にあなる藤原氏の一女を、わが『踏絵』の作者白蓮として見ることは、われらの喜びとするところなり。

 こういう書きかたであって、しかも『踏絵』が次に示すような、哀愁をおびた、情熱的パッショネートななかに、悲しいあきらめさえみせているので、感じやすいわたしは自分から、すっかりつくりあげた人品ひとがらを「嫦娥じょうが」というふうにきめてしまっていたのだった。『踏絵』の装幀そうていが、古い沼の水のような青い色に、見返しが銀で、白蓮にたとえたとかきいたが、それからくる感じも手伝って、嫦娥と思いこませ、この世の人にはない気高さを、まだ見ぬ作者から受取ろうとしていた。
 だが、わたしは、そのおりの印象を、ふらんすの貴婦人のように、ほそやかに美しい、りんとしているといっている。そして、泉鏡花さんに、『踏絵』の和歌うたから想像した、火のような情を、涙のように美しく冷たいからだで包んでしまった、この玲瓏れいろうたる貴女きじょを、貴下あなたの筆でいかしてくださいと古い美人伝では、いっている。貴下のお書きになる種々な人物のなかで、わたくしの一番好きな、気高い、いつも白と紫のきぬを重ねて着ているような、なんとなく霊気といったものが、その女をとりまいている。たとえていえば、玲瓏たる富士の峰が紫にいて見えるような型の、貴女をといっている。これはだいぶ歌集『踏絵』に魅せられていた。
 たしかに、わたしは『踏絵』のうたと序文によっぱらいすぎてはいたが、昔ならば、女御にょごきさきがねとよばれるきわの女性が、つくしびとにさらわれて、遠いあなたの空から、都をしのび、いまは哲学めいたよみものを好むとあれば、わたしのはかなんだロマンスは上々のもので、かえって実在の人を見て、いますこしうちしめりておわし候え、と願ったのもよんどころない。それほどに『踏絵』一巻は人の心をとらえた。

われは此処ここに神はいづくにましますや星のまたたき寂しき夜なり
われといふ小さきものを天地あめつちの中に生みける不可思議おもふ
踏絵もてためさるる日のしごとも歌反故ほぐいだき立てる火の前
われは知る強き百千ももちの恋ゆゑに百千の敵は嬉しきものと
天地あめつちの一大事なりわが胸の秘密のとびらたれか開きぬ
わがたまわれそむきておも見せず昨日きのうも今日も寂しき日かな
骨肉こつにくは父と母とにまかせ来ぬわがたましいよ誰れにかへさむ
追憶のとばりのかげにまぼろしの人ふと入れて今日もながむる
船ゆけば一筋白き道のありわれには続く悲しびのあと
たれか似る鳴けようたへとあやさるる緋房ひぶさかごの美しき鳥

 歌集のようになるが、もう二、三首ひきたい。
殊更ことさらに黒き花などかざしけるわが十六の涙の日記
わが足は大地だいちにつきてはなれ得ぬその身もてなほあくがるる空
毒の香たきて静かに眠らばや小がめの花のくづるる夕べ
おとなしく身をまかせつる幾年いくとしは親を恨みし反逆者ぞ
殉教者の如くに清く美しく君に死なばや白百合のとこ
昔よりわれあらざりし其世より命ありきや鈴蘭の花
息絶ゆるその刹那せつなこそ知るべくやしにおもむき恋のおもむき

 三十三歳の豊麗な、筑紫つくしの女王白蓮は、『踏絵』一巻でもろもろの人を魅了しつくしてしまって、銅御殿あかがねごてんの女王火の国の白蓮と、その才華美貌をたたえる声は、高まるばかりであった。伝右衛門氏は、それほどの女性ひとを、金でつかんでいるというふうに、好意をよせられないのもしかたがなかった。
 だが、その時でも、どこまであの生活がいやなのか、あの歌のどこまでが真実なのかといったのは、彼女をよく知っていた人だと私は前にもいったが――

       三

 大正十年十月廿二日の、『東京朝日新聞』朝刊の社会面をひらくと、白蓮女史失踪しっそうのニュースが、全面をめつくし、「同棲どうせい十年の良人おっとを捨てて、白蓮女史情人のもとへ走る。夫は五十二歳、女は二十七歳で結婚」と標柱して、左角の上には、伊藤※(「火+華」、第3水準1-87-62)あきこの最近の写真の下に宮崎竜介りゅうすけ氏のが一つわくにあり、右下には、伊藤伝右衛門氏と※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんの結婚記念写真が出ていた。
 その記事によると、十月二十日午前九時三十分の特急列車で、福岡へかえる伝右衛門氏を東京駅へ見送りにいったまま、白蓮女史は旅館、日本橋の島屋しまやへかえらず、いなくなってしまったということや、恋人は帝大新人会員の宮崎竜介氏であることや、結婚の間違っていたことや、柳原家の驚きや、まだ福岡の伊藤氏は知らないということが、紙面一ぱいで、誰にも、ああと叫ばせた。
 次の日、廿三日の朝刊社会面には、伝右衛門氏へあてた、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんからの最後の手紙――絶縁状が出た。
 全文を引かせてもらうと、
私は今貴方あなたの妻として最後の手紙を差上げます。
今私がこの手紙を差上げるということは貴方にとって、突然であるかもしれませんが私としては当然の結果に外ならないので御座います。貴方と私との結婚当初から今日までを回顧して私は今最善の理性と勇気との命ずる処に従ってこの道を取るに至ったので御座います。御承知の通り結婚当初から貴方と私との間には全く愛と理解とを欠いていました、この因襲的結婚に私が屈従したのは私の周囲の結婚に対する無理解とそして私の弱少の結果で御座いました。しかし私はおろかにもこの結婚を有意義ならしめ出来得る限り愛と力とをこの中に見出して行きたいと期待し、かつ努力しようと決心しました。私がはかない期待を抱いて東京から九州へ参りましてから今はもう十年になりますがその間の私の生活はただ遣瀬やるせない涙を以ておおわれました。私の期待はすべて裏切られ私の努力は凡て水泡に帰しました。貴方の家庭は私の全く予期しない複雑なものでありました。私はここにくどくどしくは申しませんが、貴方に仕えている多くの女性の中には貴方との間に単なる主従関係のみが存在するとは思われないものもあります、貴方の家庭で主婦の実権を全く他の女性に奪われていたこともありました。それも貴方の御意志であった事は勿論もちろんです。私はこの意外な家庭の空気に驚いたものです。こういう状態において貴方と私との間に真の愛や理解がはぐくまれようはずがありません。私はこれらの事についてしばしば漏らした不平や反抗に対して貴方はあるいは離別するとか里方さとかたに預けるとか申されて実に冷酷な態度を取られた事をお忘れにはなりますまい。またかなり複雑な家庭が生む様々な出来事に対しても、常に貴方の愛はなく従って妻としてのあたいを認められない私はどんなに頼り少く淋しい日を送ったかはよもや御承知なきはずはないと存じます。
私は折々我身の不幸を果敢はかなんで死を考えた事もありました。しかし私は出来得る限り苦悩を、憂愁をおさえて今日まで参りました。この不遇なる運命を慰めるものは、ただ歌と詩とのみでありました。愛なき結婚が生んだこの不遇と、この不遇から受けた痛手いたでから私の生涯は所詮しょせん暗いとばりの中に終るものだとあきらめた事もありました。しかしさいわいにして私には一人の愛する人が与えられて私はその愛によって今復活しようとしているのであります。このままにして置いては貴方に対して罪ならぬ罪を犯すことになることをおそれます。もはや今日は私の良心の命ずるままに不自然なる既往の生活を根本的に改造すべき時機に臨みました。虚偽を去り真実につくの時がまいりました。ってこの手紙により私は金力きんりょくを以って女性の人格的尊厳を無視する貴方に永久の訣別けつべつを告げます。私は私の個性の自由と尊貴をまもりかつつちかうために貴方のもとを離れます。永い間私を御養育下された御配慮に対しては厚く御礼を申上げます。
二伸、私の宝石類を書留郵便で返送致します。衣類などは照山てるやま支配人への手紙に同封しました目録通り、すべてそれぞれに分け与えて下さいまし。私の実印は御送り致しませんが、もし私の名義となっているものがありましたらその名義変更のためには何時いつでも捺印なついん致します。
     十月廿一日
※(「火+華」、第3水準1-87-62)
       伊藤伝右衛門様

 この手紙が出るまでもなく、前日の家出だけでも、事件はおかまの湯が煮えこぼれるような、大騒ぎになっていた。各新聞社は、隠れの捜索に血眼ちまなこだったが、絶縁状が『朝日新聞』だけへ出ると物議はやかましくなった。しかも、その手紙が、肝心なおっと伝右衛門氏の手にはまだ渡っていないのに、新聞の方がさきへ発表したというので騒いだ。黒幕があるというのだ。
 おなじ廿三日の、おなじ欄に、伝右衛門氏の九州福岡での談話が載った――
「天才的の妻を理解していた」という見出しで、
たがいの世界はちがっていても、謙遜けんそんしあうのが夫婦の道、だが絶縁状を見たうえは、何とか処置する。
勿論、今朝けさの(廿二日)新聞で事情の大略は知ったが、しかし、そんな事が実際あるべきものとは思われない。※(「火+華」、第3水準1-87-62)子としても、そんな無分別なことを果してしたものだろうか、本月末には博多はかたに帰って来る約束をしてある。家庭のことを振りかえって見ても、不愉快や、不満に思うふし毛頭もうとうあるはずがないと思います。随分我儘わがままな女です。何不自由なく、世間せけんから天才とか何とかいわれるまで勉強もさせ、小遣こづかいだって月五十円はおろか一万円にものぼることすらある。あの女を、伊藤なればこそ養っているなどとうわさもある。
それは柳原さんや、入江いりえさんも知っている。
私は田舎者の無教育ですから、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子が住んでいる文学の世界などは毛頭知りません。だからその点遠慮して、どんな事をしようが、何一ツ小言こごとをいった事はありません。

「忘れがたき別府の一夜いちや」の題下には、大正八年一月末に(『踏絵』が出てから数えて三年目)湯の町の別府に、宮崎氏が白蓮さんをたずねた。その後『解放』の同人たちに噂が高く、春秋の上京に、散歩、観劇などを共にしていたとある。
 雑誌『解放』は、吉野博士を中心にして、帝大法科新人会の人たちが編輯へんしゅうをしていた、高級な思想文芸雑誌だった。白蓮女史の劇作「指鬘外道しまんげどう」を掲載することについて、誰かがうちあわせにゆくことになり、宮崎氏がいったのだった。そのあとでは、宮崎氏の机上はうずたかくなるほど、電報で恋の歌がくるというので、みんながうらやんだということだった。
 この事件についての、世間の反響の一部分を、おなじ新聞からとってみると、廿三日のに、九大の久保猪之吉くぼいのきち博士夫人より江さんが――この夫妻も、帝大在学「雷会」時代からの歌人で、
上京前に訪問したら、涙ぐんで、めいりこんでいて「伊藤が愛がないのでさびしくてしかたがない。高いがけの上からでも飛降とびおりて死んでしまいたい」といっていたが、感情がこうじてこんな事になったのか、ある意味で白蓮さんはうたを実行されたのだ。
と語っている。
 また、九条武子さんは、まあと大きな吐息をついて、
只今が初耳でございます、随分思いきった事をなさいましたねえ。あの方とは、昨年お目にかかりましたのちは、お互にちょいちょいゆきはしておりますが、唯うたのお友達というだけ、それほど深い話もありません。先日も九州でおめにかかりましたが、それほど深いお悩みのあることは、素振そぶりにもお見せになりませんでした。御主人は太っ腹な、それは気持ちのいい方です。まさか短気なことは遊ばしはしませんでしょうね。お年もとり、御思慮も深い方ですが、どうなる事でしょう。
と、さすがに友達の身を案じて、じっとしてはいられぬというおももちだったとある。
 博多中券はかたなかけんの芸妓ふな子は二十歳で、白蓮さんに受出されて、おていさんという本名になって、伊藤家にいる。そのひとのいうのには、
※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんは、お父さまにつかえているつもりだといって、平生へいぜいからさびしそうにしていたが、(私が)めかけになったのもうけだされたのも、奥さまからなので、いやだけれど納得したのに――
といっている。
 廿三日附朝刊には、論説も「※(「火+華」、第3水準1-87-62)子事件について」とあって、その概略をつまんでみると、
※(「火+華」、第3水準1-87-62)子の事件はあくまで慨嘆すべきものか、あるいはかえって謳歌おうかすべきものか、吾人ごじんはこれを報道した責任として、ここにいささか批評を試みたい。(略)
彼女の精神生活は甚だ同情すべきものだが、技巧と粉飾が臭気の高い歌で訴えるように事実苦しみぬいていたかどうか。(略)この行動が、はたして自動的か他動的か、これもまた批判してその価値をさだめる有力な材料でなくてはならない――
――※(「火+華」、第3水準1-87-62)子事件の真相と※(「火+華」、第3水準1-87-62)子の思想とによってわかるるものと思う。更に細論の機会をまたんとす。
といっている。
 廿五日ごろになると、帝大法科の教授連が批判回避の申合せをし、白蓮問題は、しばらく何もいうまいということになったが、牧野、穂積ほづみ両博士が興味をもっているとあり、投書の「鉄箒てつそう」欄が段々やかましくなっている。
白村はくそんの近代の恋愛観のエッセイを読み続けてゆくと、家名、利害をはさまず、人格と人格の結合、魂と魂との接触というが、白蓮、伊藤、宮崎各々おのおの辿たどるべきをたどった。(鉄箒)
「法廷に立て」伝右衛門が白蓮女史に送った手紙誰が書いたのか、甚だもって伝右衛門らしくない。彼がとる態度は、有夫かんの告訴、白蓮は愛人をともなって法廷に立て。(鉄箒)
「栄華の反映」自分を崇拝している年下の男の方が、自分の弱点を知る石炭みたいな男より我儘が出来るのが当然だが愛がなくてもの同棲十年は、相当情誼じょうぎを与えたはずだ。(鉄箒)
天才は不遇なうちに味もあれば同情もあるのだ――虚名を求めて彼女のてつを踏むときバクレンとなるなかれ。(鉄箒)

「鉄箒」欄がいっている伝右衛門の手紙というのを引きたいが、夕刊紙かまたは他紙のであったのか、見当らなかった。震災が中にあったので、とっておいた参考紙も失なってしまったのでいまではわからない。
 で、柳原家の方では、合理的処置――円満離婚の上で自邸に引取る方針だ。その上で当事者の考えで解決するといい、宮崎氏は、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子はきっと保護する。ただ父に(滔天とうてん氏)しかられはしまいかと、いかにも若々しい学徒の純情でいっている。

 厨川白村くりやがわはくそん氏の「近代の恋愛観」が廿回ばかりつづいて、やはり『東朝』に出ていた時分だったので、白村氏は「鉄箒氏」に答えて、
――今日の見合いの方法に、改良を加え青年男女に正当な接触を与えるのが、今日の社会のために望ましい事である。私は本紙に、近代の恋愛観というのをそうし、連載中※(「火+華」、第3水準1-87-62)子事件突発。近代生活の重要な問題として、概括的に一般に恋愛と結婚について述べたかの一文の中に、今回の事件について、すべて私の見解にはあまり明瞭めいりょうすぎて、露骨なほど明かに書いておいたから、いま質問を受けるのを遺憾と思う。
――今度の行動には多くの欠点手落ちがあった。絶縁状が相手に落ちないうちに発表され、自分が独立しないで多くの人に依頼したこと、自らしょうを夫に与えていた事、非難の点多し。これは外面的な、従属的なことである。
――今度のようなことは、男でも女でもちょっと思いきって決行出来ないのが普通だ。それを断行した事によって、このインフェルノから救われたのは、独り『踏絵』の女詩人ばかりではなく、伝右衛門氏にとってもまた幸福であったことを考えねばならぬ。(概略)

 白蓮さんの方で、着物も指輪も手紙をつけて送りかえしたといえば、伝右衛門氏の側では、絶縁状は未開封のまま突きもどすといい、正式に離婚をするといっている。各々の立場が違って、宮崎氏の方は、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんの環境から見ても、どこまでもああした、自覚的態度を強調させようとし、事件が大袈裟おおげさになることは、もとより覚悟の上であったろうが、絶縁状の字句が、何やらん書生流で、ほんとに、しんから底から、がまんのなりかねた女がつきつける手紙としては――情熱の歌人の書いたものとしては、おなじキッパリしすぎるなかに欠けたもののある感じと、踊らせよう、騒ぎたたせようとするいとがあるふうにも感じられる子供っぽい理窟りくつ世馴よなれない腕白わんぱくさがあるのとは反対に、伝右衛門氏の方で、正式に離縁というのは、どことなく、どっしりして、わるあがきがちょっとなされたかたちにもとれる。
 廿三日には隠れ家も知れて、黒ちりめんの羽織を着て、おもやつれのした写真まで出ていた。軽い風邪かぜで寝ていて、親戚しんせきの人にも面会を避けると、自殺の噂が立ったり、警察でも調べたとあった。
 そのころ、丁度ワシントン会議のあったころで、徳川公爵や、加藤友三郎大将の両全権が、鹿島丸かしままるでアラスカの沖を通っている時に、日本からの無電は白蓮事件をつたえ、乗組の客はみんな緊張して、すさまじい論戦が戦わされた。それは廿四日のことだとも伝えてきた。
 と、いうだけでも、どんなにこの事件が、何処どこもかもを沸騰させたかということがわかるではないか。まして生家の御同族がたをや! 真に、白蓮※(「火+華」、第3水準1-87-62)子は身の置きどころもない観だった。

 だが、ああいった武子さんは、自分で綿入れを縫って隠れ家へ届けている。
 わたしが訪ねたのは、もう写真班の攻撃もなくなった、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんの廻りも、やっと落附いてきた時分だった。山本安夫と表札は男名でも、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんと台所に女の人がいただけだった。ふと、せたひとの、帯のまわりのふくよかなのが目についた。そのことを、どこの何にも書いてなかったのは、気がつかなかったのかも知れないが、うるささが倍加しなくてよかったと、わたしは心で悦んでいた。さらあんで、台所の婦人ひとがこしらえてくれたお汁粉しるこの、赤いおわんふたをとりながら、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんが薄いお汁粉をき廻しているはしの手を見ると、新聞の鉄箒欄の人は、自分を崇拝している年下の男の方が、我儘が出来るのは当然だがといったが、どんなところから割出したものかと思った。昨日きのうまでは、精神的の苦痛はあっても、いわゆる我儘な生活が出来たのだ。こんどは、精神的幸福はあっても、我儘な生活が出来るわけがないではないかといいたかった。ほんとの、生きた生活に直面するのに――生きた生活とは、そんな生優なまやさしいものではない。

 長男香織かおりさんは生れた。生れる子供の籍だけは、こちらへほしいとは伝右衛門氏の願いだった。柳原家で拒んだのだという。生れた子のことで、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんは姿をかくさなければならなかった。わたしは子供を離さずに転々していた※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんを、あんなに好いたことはなかった。昨日は下総しもうさに、明日あすは京都の尼寺にと、行衛ゆくえのさだまらないのを、はらはらして遠く見ていた。あとでの話では、かえってその時分は経済的に楽だったのだということで、何処かしらから物質は乏しくなく届いていた。つらかったのは宮崎家の人となってから、れぬ上に、幼児は二人になり、竜介氏は喀血かくけつがつづいて――ただ一人のたよりの人は喀血がつづく容体で――その時の心持ちはと、あるとき、語りながら※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんはおもてをふせた。
 ※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんは働きだした。達者たっしゃに書いた。長編小説でもなんでも書いた。選挙運動には銀座の街頭にたって、短冊たんざくを書いて売った。家庭には荒くれた男の人たちも多くいるし、廃娼はいしょうしたいひとたちも飛込んできた。そのなかで一ぱいに立ち働らきもする。かつての溜息ためいきは、栄耀えようもちの皮だと悟りもした。
 いつわらぬ心境を歌にきこうと、最近、以前のと近ごろとの歌を自選してくださいとおたのみしたらば、こんなのが来た。
筑紫のころ
われはここに神はいづこにましますや星のまたたきさびしき夜なり
和田津海わだつみの沖に火もゆる火の国にわれありそや思はれ人は
われなくばわが世もあらじ人もあらじまして身をやく思ひもあらじ
その
思ひきや月も流転るてんのかげぞかしわがこしかたに何をなげかむ
かへりおそきわれを待ちかねいねし子の枕辺まくらべにおく小さき包
子らはまだ起きて待つやと生垣いけがきあいよりのぞく我家のあかり
子をもてば恋もなみだも忘れたれああ窓にさす小さなる月
ああけふも嬉しやかくていきの身のわがふみてたつ大地はめぐる

 なんという落附いた境地だろう。この安心立命の地を、武子さんはどう眺めたろう。おおそういえば、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんは面白い話をしたことがある。武子さんが九州へゆかれたとき、伊藤伝右衛門氏は、筑紫の女王のところへ、本願寺の生菩薩いきぼさつさまが来られるときいて有頂天うちょうてんになり、座ぶとんはそろえて、緞子どんす、夜具類はちりめん、ふすまをはりかえさせ、調度は何もかも新しく、善つくし、美を尽さねばならぬときめた。それはおなじ九州のある豪家へ武子さんがばれた時には、何千円かを差上げて来ていただいたというのに、我家わがやへは無償でこられるということより何より、それほどの人にわが成金なりきんぶりと、何処にも負けない豪奢ごうしゃぶりを見せなければおさまらないのだった。それをふと、
 本願寺さまだってお手もとが――武子さんはそんなにおごってはいません、といってしまったらば、急に見下げて、何もかも新しい調度は取消しにして、何もさせないので困ってしまったということだ。
 それが、何もかもを語っているとおもう。出来ない辛抱は、今の道にくるまでの、新らしい生活にもあったかもしれない。けれど、澄みたる月は暴風雨あらしのあとにこそ来る。あらしはすぎた。※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんのこしかたも大きな暴風雨あらしだった。
――昭和十年九月十七日――
※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんの生母おかあさんのことも、このごろわかったが、もうお墓の下へはいっていて、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんは墓参りをしただけで、なんにも言えなかったのだ。若くて死んだお母さんは、柳橋でおりょうさんと名乗り、左褄ひだりづまをとった人だった。姉さんは吉原芸妓の名妓だったが、その老女は、※(「火+華」、第3水準1-87-62)子さんをめいだということを、どんな親しい人にも言ったことがないほどかたい人だった。この姉妹は幕末の外国奉行新見豊前守にいみぶぜんのかみの遺児だという。ここにも悲しきひとはいたのだ。



底本:「新編 近代美人伝(下)」岩波文庫、岩波書店
   1985(昭和60)年12月16日第1刷発行
   1993(平成5)年8月18日第4刷発行
底本の親本:「近代美人伝」サイレン社
   1936(昭和11)年2月発行
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2007年8月13日作成
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