新酒

「……先生、お茶が入りました」
「う、う、う」
「だいぶと、おひまのようですね。……鞴祭ふいごまつりの蜜柑がございます、ひとつ召しあがれ」
「かたじけない。……季節はずれに、ひどくポカつくんで、うっとりしていた」
 大きなあくびをひとつすると、盆のほうへ手をのばして蜜柑をとりあげる。
 十一月の入りかけに、四五日ぐっと冷えたが、また、ねじが戻って、この三四日は、春のような暖かさ。
 黒塗の出格子窓から射しこむ陽の光が、けば立った坊主畳ぼうずだたみの上へいっぱいにさす。
 赤坂、喰違くいちがい松平佐渡守まつだいらさどのかみの中間部屋。
 この顎十郎、どういうものか、中間、陸尺、馬丁なぞという手やいに、たいへん人気がある。あちらの部屋からも、こちらの部屋からも、どうかわっしどものほうへも、と迎いに来る。
 ※(「ころもへん+施のつくり」、第3水準1-91-72)ふきのすりきれた古袷と剥げッちょろ塗鞘の両刀だけの身上しんしょう
 本郷の金助町に、北町奉行所の与力筆頭をつとめる森川庄兵衛というれっきとした叔父がいて、そこへさえ帰れば、小遣いに困るようなこともないのだが、この十月、甲府の勤番をやめてヒョロリと江戸へ舞いもどって来た日いらい、ほうぼうの部屋をころがり歩いて、叔父の家へは消息しょうそくさえしない。
 叔父庄兵衛の組下で神田の御用聞、ひょろりの松五郎だけが顎十郎が江戸に帰って来ていることを知っているが、金助町へ知らせないようにと堅く口どめしてある。
 そういうわけだから、金ッ気などのあろうわけがない、まるっきり文無し。中間、陸尺のほうでもそんなことは先刻ご承知。
 無理にじぶんの部屋へ引っぱってカモにしようの、振るまいにつこうのというのではない。気ままに寝ッころがらしておいて、寄ってたかって世話を焼き、ぽってりと長い顎を撫でて、うへえと悦に入る長閑のどかな顔が見たいのだという。
 脇坂わきざかの部屋を振りだしに榎坂えのきざか山口周防守やまぐちすおうのかみの大部屋、馬場先門ばばさきもん土井大炊頭どいおおいのかみ、水道橋の水戸みとさまの部屋というぐあいに順々にまわって、十日ほど前から、この松平佐渡守の中間部屋に流連荒亡りゅうれんこうぼうしている。
 顎十郎は、色のいい蜜柑を手の中でころがしながら、
「おい、三平、これが鞴祭の蜜柑か」
「へい」
 顎十郎はニヤリと笑って、
「ごまかしても、だめだ。……こりゃあ、鞴祭のき蜜柑じゃねえ、屋敷の御厨みくりや部屋からくすねてきたんだろう」
 三平という中間は、えへ、と頭へ手をやって、
「あいかわらず先生にはかなわない。……ど、どうして、それがわかります。……蜜柑にしるしでもついていますか」
「これは、河内かわちで出来る『八代やつしろ』という変り蜜柑で、鍛冶屋や鋳物師いものしの二階の窓から往来おうらいへほおる安蜜柑じゃねえ。……ご親類の松平河内守まつだいらかわちのかみから八日祭のおつかいものに届いたものに相違ない。……それを、お前がチョロリとちょろまかして来た。……どうだ、お見とおしだろう」
 三平は恐れ入って、
「まったくのその通りなんで……。さっきお雑蔵ぞうぐらの前をとおると、入口の戸があいていてトバ口に蜜柑の籠がつんだしてある。……いい色ですから、先生にお目にかけようと思って……」
「つかみ出して、早いとこ、へそのあたりへ五つ六つ落しこんだ……」
「えッ、臍……どうして、そんなことまで」
「蜜柑の肌にふんどしのあとがついている」
「じょ、冗談……」
 顎十郎は、ゆっくり蜜柑をむきながら、
「だいぶ、ひっそりしているな、みな、出はらったか」
「さきほどお城からお下りになりますと、すぐお伴をそろえて神田橋の勘定屋敷かんじょうやしきへお出かけになりましたんで……」
「この月は、佐渡守はお勝手方の月番じゃなかったはずだが」
「へえ、そうなんで。……あッしどもは、くわしいことは知りませんが、なにか、金座きんざにどえらい間違いがあったんだそうで……」
「ほほう」
「駕籠があがるとき、チラとお見かけしたところじゃ、なにか、だいぶとむつかしい顔をしていらしたようです。……日頃、落着いた殿さまが、あんな取りつめた顔をなさるからは、なにか、よっぽどのことがあったのだろうと思いますが……」
 のんきなことを言いあっているとき、部屋の上框かみがまちのほうで、
「ちょいと……おたずね申します」
 三平は、いどころで、無精ッたらしく首だけ上框のほうへねじむけ、
「なんだ、なんだ……なにをおたずね申してえんだ。……いま手がふさがっているから、そこで大きな声で我鳴がなりねえ」
「こちらに、もしや、仙波先生がおいでではありませんでしょうか」
「仙波先生なら……」
 顎十郎は首をふって、
「いねえと言え、いねえと言え」
 上框のほうでは、その声を聞きつけて、
「そういう声は阿古十郎さん。……居留守をつかおうたって駄目です、ここまで筒ぬけですよ」
 顎十郎は、額へ手をやって、
「ほい、しまった、聞えたか」
「聞えたかはないでしょう。……あっしですよ、ひょろ松です」
「うむ、ひょろ松か。……わかったらしょうがない、まあ、上れ」
 大きな囲炉裏の縁をまわってこっちの部屋へやってきたのは例のひょろりの松五郎。
 二升入りの角樽つのだるを投げだすように坊主畳の上へおくと、首すじの汗をぬぐいながら、
「あなたのいどころを捜すので、お曲輪くるわ中の大部屋をきいてまわりましたよ。……脇坂の部屋へ行きゃ榎坂へ行った。……榎坂へ行きゃ、土井さまの部屋へ行った。……この角樽をさげて汗だくだく、足を擂木すりこぎのようにしてようやく捜しあてたのに、いねえと言えはないでしょう」
 顎十郎は、長い顎のさきを撫でながら、のんびりした声で、
「お前はとかく厄介なことばかり持ちこむんで恐れる。……見りゃあ、角樽なんかかつぎこんだようだが、これは悪いきざしだ。また、いつものように、折入ってひとつ、お願い、と来るのじゃないのか。……おれは、もうごめんだぜ」
 ひょろ松は喰いさがって、
「そう早く話がわかってくださりゃ、これに越したことはありません。……じつは、お見とおしの通りなんで。……ときに、これは、昨日、品川へついたばかりの堺の新酒。……わずかばかりですが持ってまいりました」
 顎十郎は、いまいましそうな顔で、
「長ながひでりつづきのところへ、なだからついた新酒というんじゃ、聞いただけでも待ちきれねえ」
「まあ、ひとつ召しあがれ」
 茶碗の茶をすてて、角樽からドクドクとついで差しだすのを、受けとってグイ飲みすると、
「……このあいだの時化しけで、遠州灘あたりでだいぶん揉まれたと見えて、よく、こなれている。……これは至極しごく。……それで、願いというのはどんなことだ」
 ひょろ松は膝をかたくして、
「……じつは、きのう金座から出た二十万両……。そのうち三万二千両の金が、そっくり掏りかえられたんで……」
「ほほう、三万二千両とは大きいな。……金座に、なにか騒動があったという話は、いま聞いたばかしのところだったが。……それで、いってえ、そりゃあ、どうしたという間違いだったんだ」
「……節季の御用に神田橋のお勘定屋敷へおくる御用金で、万両箱が十六、千両箱が四十。……金座のほうからは常式方送役人じょうしきかたおくりやくにんが二人、勘定所からは勝手方勘定吟味役かってがたかんじょうぎんみやくが二人つきそって、常盤橋ときわばしぎわから船で神田川をこぎのぼる途中、稲荷河岸とうかんがしのあたりで上総の石船にっかけられ、不意をくらって、四人の役人は船頭もろとも、もろに川なかへ投げだされ、御用船のほうは上り下りの荷足にたり狭間はざまへはさまって退くも引くもならなくなってしまった……」
 顎十郎は話などはそっちのけ。三平と引っくみになって、大恐悦おおきょうえつのていで間をおかず茶碗のやりとりをしている。
 ひょろ松は気にして、
「聞いているんですか」
 顎十郎は※(「口+愛」、第3水準1-15-23)おくびをしながら、
「聞いている、聞いている。……ひッ」
「……役人のはうは、濡れねずみになって船へはいあがり、ぶつぶつ言いながら船頭を急がせて川なかへ押しだそうとしたが、いまも申したように、ギッシリ荷足と組みあってしまって思うようにならない。……あっちの荷足をしかりつけ、こっちの肥船こえぶねをおどかして、ようやく川なかへ漕ぎだしたんですが、このごたくさのあいだに衝きあたった石船のほうは、いちはやく逃げてしまって影もかたちもない。……念のために金箱のかずを読んで見ると、相違なくそっくりある。……濡れねずみになったほうは災難とあきらめて、ようやく神田橋ぎわまで辿りつき、受けわたしをすませて二十万両の金は無事に勘定屋敷のお金蔵へおさまった……」
「ひッ……な、なあるほど……ひッ」
「……ご承知の通り、勘定所へは毎朝、五ツに奉行がひとり出所しておおよその庶務をとり、九ツにお城へあがるのが毎日のきまりなんですが、その日も例の通り、朝早くお当番がひとり出て、きのう金座から届いた二十万両のうち小口の千両箱を二つ三つ持ちださせて、お役儀やくぎまでに改めて見ると、小判どころか錆釘さびくぎや石ころがギッシリとつまっている。……これは、と驚いて、急に下役を呼びあつめ、きのう届いた二十万両、片ッぱしから蓋をあけて調べて行くと、万両箱のほうには変りはないが四十の千両箱のうち三十二だけが、これがみんな古釘……」
「うむ……うむ」
「つまるところ、石船に衝きあてられたほんのちょっとしたドサクサのあいだに、掏りかえられたのにちがいない。……それはそれとしても、なにしろもう朝がけ、川には荷足も数多く、ひと目もある中で、どんな方法でそんな素早いことをやりやがったものか。……金高も金高ですが、やりかたがあまりにも不敵。お上の御威勢にもかかわることですから、浅草の橋場はしば中川口なかかわぐちのお船改番所ふなあらためばんしょの関所をしめ、下り船の船どめをして一艘ずつしらみつぶしに調べあげているんですが、いまだに、なんの手がかりもねえようなわけなんで……。それでね、阿古十郎さん……」
 返事がないので、のぞきこんで見ると、顎十郎、膝に手をついたままいびきをかいて眠っている。

   金座きんざ

 金座は、俗に、お金改所かねあらためどころともいって、いまの造幣局ぞうへいきょく
 日本橋、蠣殻町かきがらちょう二丁目にある銀座が分判銀ぶばんぎん朱判銀しゅばんぎんを鋳造するのにたいして、金座のほうは大判、小判、分判金ぶばんきんを専門に鋳造する。
 江戸金座は元禄のころまでは、手前吹き、つまり下請したうけ制度で、請負配下が鋳造した判金を、金銀改役後藤庄三郎ごとうしょうざぶろうが検定極印ごくいんをおして、はじめて通用することになっていたが、元禄八年に、幕府の財政の窮迫を救うため、時の勘定奉行萩原近江守はぎわらおうみのかみが、小判の直吹じかぶき制度を採用することになり、本郷霊雲寺わきの大根畑(地名)に幕府直属の吹所ふきどころ(鋳造所)をつくり、諸国の金座人をここへ集め、金座を芙蓉ふよう間詰まづめ、勘定奉行支配下においた。
 元禄十一年に、金座を日本橋本町ほんちょう一丁目、常盤橋わきに移し、明治二年に造幣局が新設されるまでずっとその位置にあった。
 金座は、奥行き七十二けん、間口四十六間の広大な地域をしめ、黒板塀をめぐらして厳重に外部と遮断し、入口のお長屋門は日没の合図とともに閉じられ、以後、ぜったい出入禁止の定めになっていた。
 黒板塀の地内には、事務所にあたる金局きんきょく、鋳造所の吹所、局長の官舎にあたるお金改役御役宅、下役、職人の住むお長屋と四つのくるわにわかれ、いまの日本銀行のあるところが後藤の役宅で、金吹町かねふきちょうのあたりにお長屋の廓があった。
 金局には、一口に金座人という改役、年寄役、触頭ふれがしら役、勘定役、ひら役などの役づきの家がらが二十戸ほど居住し、金座人のほかに座人格、座人並、手伝い、小役人などという役があった。
 吹所には、吹所棟梁とうりょうが十人、その下に棟梁手伝いがいて、約二百人の職人を支配していた。
 金座の仕事は、第一に、小判、分判の金吹で、幕府の御手山おてやま、その他、諸国の山から出る山金を買入れて小判をつくるが、そのほかに上納金の鑑定封印、潰金つぶしきん、はずし金の買入れ、両替屋から瑕金きずきん軽目金かるめきんをあつめて、これを改鋳する仕事もした。
 吹所の一廓は、吹屋、打物場うちものば下鉢取場したはちとりば、吹所棟梁詰所、細工場さいくば色附場いろつけばの六むねにわかれていた。
 小判吹きはなかなか手のかかるもので、まず位改くらいあらためといって、金質の検査をし、その後に、さまざまの金質のものを一定の品位にする位戻くらいもどしということをやり、砕金さいきんといって地金じがねを細かに貫目を改め、火を入れて焼金やきがねにし、銀、銅、その他をまぜる寄吹よせぶきの工程をへ、それから判合はんあい、つまり、品質を決定し、それを打ちのばして延金のべきんにし、型で打抜き、刻印をし、色附をしてようやく小判ができあがる。
 金局では、一枚ずつ改めて包装し、千両、二千両箱におさめてこれを金蔵へ収納する。
 なにしろ通貨をあつかう場所なので、金局の平役以下、手伝い、小役人、吹所の棟梁、手伝い、職人らはみな金座地内の長屋にすみ、節季せっきのほかは門外に出ることは法度はっと。たまの外出のときもやかましい検査があって、ようやくゆるされる。金座の人間ばかりではなく、出入りの商人などもいちいち鑑札で門を通り、それも厳重にしきった長屋門口からおくへ立入ることは絶対にできなかった。……ここだけは別世界、江戸の市中にありながら、とんと離れ小島のようなあんばい。
 ちょうど、七ツ下り。
 むりやりひょろ松に揺りおこされて曳きずられて来られたものと見え、いつものトホンとしたやつに余醺よくんかすみがかかり、しごく曖昧な顔で金座の門の前に突っ立って、顎十郎先生、なにを言うかと思ったら、
「ほう、……だいぶと、凧があがっているの」
 冬晴れのまっさおに澄みわたった空いちめんに、まるで模様のように浮いている凧、凧。
 五角、扇形おうぎがた軍配ぐんばい与勘平よかんぺい印絆纒しるしばんてんさかずき蝙蝠こうもりたことんび烏賊いかやっこ福助ふくすけ瓢箪ひょうたん、切抜き……。
 十一月のはじめから二月の末までは江戸の凧あげ季節で、大供まで子供にまじって凧合戦たこがっせんをする。
 雁木がんぎといって、いかり形にった木片に刃物をとりつけ、これをむこうの糸にからませ、引っきって凧をぶんどる。
 この凧合戦のために、屋敷や町家まちやの屋根瓦がむやみにこわされる。毎年、凧の屋根なおしに数十両、数百両もかかる。
 ひょろ松は気を悪くして、
「なにを、のんきなことを言っているんです。……凧なんぞどうでもいい、ともかく内部なかへ入りましょう」
「まあまあ、急ぐな。……公事くじにも占相せんそうということがあずかって力をなす。……おれは、いま金座の人相を見ているところだ」
 のんびりと川むこうを指さし、
「……神田川をへだてて、むかいは松平越前守えちぜんのかみ上屋敷かみやしき。……西どなりは、鞘町さやまち、東どなりは道路をへだてて石町こくちょう……。どちらの空を見ても、清朗和順せいろうわじゅんの気がただよっているのに、金座の上だけに、なにやら悪湿あくしつの気がたなびいている。……なるほど、このなかには、二百人からの人間がかごの鳥同然に押しこめられ、他人のために朝から晩までせっせと小判をつくっている。ひとの恨みと金の恨みがあいよって、それで、こんな悪気あっきが立ちのぼるのだろうて……」
 ひょろ松は、へこたれて、
「どうも、あなたが喋りだすと、裾から火がついたようになるんで、手がつけられねえ。……さあさあ、もう、そのくらいにしておいてください」
「……よしよし、では入ってやるが、だが、ひょろ松、くどいようだが、叔父の禿げあたまには極内ごくないだぞ」
「それは、嚥みこんでいますが、どうして、そうまで金助町に内証にしたがるんです。……中間部屋なんぞにゴロついていないで、旦那のところへお帰りになって藤波と正面きって張りあってくだすったら、旦那もどんなにかお喜びだと思うんですがねえ」
「いやいや、それはお前の考えちがい。……叔父はな、おれを風来坊ふうらいぼう大痴おおたわけだと思っている。……興ざめさせるのもおかげがねえでな。……これも、叔父孝行のうちだ」
 門番詰所へ行って、役所の割符わっぷをだすと、門番頭のうらなり面が、ジロリと顎十郎を見て、
「おつれは」
「同心並新役、仙波阿古十郎」
 怪訝けげんな顔をするのを、かまわずにツイと押しとおって、長屋わきから中門口へかかる。六尺棒を持った番衆が四人突っ立っていて、どちらから。
 そこを通りぬけると、金座の役宅門へかかる。ここでもまた、どちらから。
 顎十郎は閉口して、
「どうも、手がかかるの。金というものはこんなに大切なものとは、こんにちまで知らなかった」
 門を通って、ようやく役所の玄関。
 名のりをあげると、座人格の下役が出てきて、勘定場へ案内する。
 五十畳ほどの座敷へ二列ならびに帳場格子をおいて、二十人ばかりの勘定役、改役がいそがしそうに小判をはかったり、包装したりしている。
 一段高くなったところに、年寄の座があって、老眼鏡をかけた、松助まつすけの堀部弥兵衛のようなのがしとねをなおす。
「お役目、ご苦労」
 顎十郎、すました顔で、おほん、と咳ばらいで受けて、
「さっそくですが、三万二千両……御用金が差しおくりになることは、よほど以前からわかっていたのですか」
 年寄役は慇懃いんぎんにうなずいて、
「さようでございます。……これは節季の御用で、毎年のきまりでございますから、金座では、九月のすえから用意をいたしておきます。……しかし、差しおくりになる日は、勘定所のほうから、いつ何時、と、お触れがある定めになっております」
「なるほど……差しおくりの日がきまったのは、何日のことですか」
「七日の夜。……あの騒ぎのございました前日の、夜の五ツ頃(八時)、御用金は、八日朝の辰の刻(八時)までに川便でおくれというふれがとどきました」
「すると、差立ての日は、その前日までわからなかったのですな」
「さようでございます」
「御用金が、金座の門を出たのは何刻ごろで?」
「ちょうど、六ツ(六時)でございました」
「勘定所の触役がきたのが前の晩の五ツで、御用金が金座をでたのが次の朝の六ツ。それまでのあいだに外出したものは何人ほどありましたか。……御門帳がありましたら、拝見いたしたい」
「……いや、わたくしどもでも、きびしく門帳をしらべましたが、いちにんも他出した者はおりませんでした」
「いや、よくわかりました。……それで、金蔵の金箱をあずかるお役人は何人ほどおられますか」
「ただいまのところ、五人でございます。……封金の員数をあらため、千両、二千両、五千両、一万両と、それぞれ箱入りにして封印をいたし、金蔵方の受帳へあげて蔵へ収納いたします」
「なにか、定期に収納金の内容あらためのようなことをなさいますか。……たとえば、棚おろしといったぐあいにですな」
「ございます。……七、八両月は吹屋の休みで、このあいだに封印ずれの改めをいたします」
「年に一度?」
「はい、年に一度。……なにかほかに……」
「いや、このくらいで……」
 勘定場を出ると、そこから吹所のある一廓のほうへやって行く。
 ここにもまた、厳重な中門。
 吹所のひろい地内に十棟の吹屋があって、屋根の煙ぬきから、さかんな煙をあげている。
 十人の吹所棟梁が吹屋をひとつずつあずかり、薄ぐらい大ふいご仕立ての炉のそばで棟梁手伝いのさしずで、大勢の職人が褌ひとつになって、金をのばしたり打ちぬいたり、いそがしそうに働いている。
 顎十郎は、吹屋のトバ口に立って、うっそりと眺めていたが、ひょろ松のほうへ振りかえって、
「ああしてこねたりのばしたりしているところを見ると、まるで餅屋だな。……おい、見ろ、むこうの鞴のそばでは、金を水引みずひきのように細長く引きのばして遊んでいる。……さあ、帰ろう。こんなところに、いつまで突っ立っていたって、はじまらねえ」
 吹屋の門を出て、職人下役の住居すまいになっている長屋の一廓へやってくると、そこの空地で下役の子供たちが十人ばかり、揃ってまっくろな烏凧からすだこをあげて遊んでいる。
 どれもこれも、いじけたような身なりの悪い子供。
 顎十郎は足をとめて、子供たちの凧をぼんやりと見あげていたが、そのうちになにを考えたのか、手近のひとりのほうへ寄って行き、
「坊や、変った凧をあげてるな」
「なにが変っているもんか。凧屋へ行きゃ、ひとつ二文で売っているなみ凧だ」
「見れば、みんな烏凧ばかり。……よく気がそろうな」
 頭の鉢のひらいた十歳ばかりのひねこびた子供で、舌で唇をペロリとやると、うわ眼で顎十郎の顔を見あげながら、
「……金座の烏組といや、江戸の名物のひとつなんだが、お前、知らなかったのか。……国はどこだい」
「いや、これはあやまった。……そりゃそうと、なぜ外へでて揚げないのだ」
 ふん、と鼻で笑って、
「おう、ありがてえな、おいらを出してくれるかい。……おいらッち、なにもこんな狭えところで揚げたかあねえんだ……さあ、出しておくれ、外へ!」
「そりゃあ気の毒だな。……では、お前たちは、いつもこの空地でばかり凧をあげているんだな」
「ほっとけ、おとな……。子供にからかうなよ。出せねえなら大きな口をきくな」
「いや、これは悪かった。……さあ、もう、あっちへ行って遊びな」
「……おい、お前は同心くずれだろう。……妙な面だな」
「妙な面で悪かった」
「なにを言ってやがる。……おい、同心くずれ、おいらにきくこたア、それだけか。……さっきの青瓢箪あおびょうたんはもっとくわしくきいたぜ。……誰にたのまれて凧をあげているんだ……。お前らの仲間にゃ、あまり悧口なやつはいねえな。……へッ、越後から米をきに来やしめえし、たのまれて凧をあげるやつがあるかい、笑わせやがら」
 顎十郎はニヤリと笑って、
「おう、そうか。……青瓢箪が来て、そんなことをきいて行ったか。……眼のつりあがった……鼻の高い……権高けんだかな、いやみな面だったろう」
「ああ、そうだよ。……南の与力で、藤波っていうんだそうだ」
 顎十郎は、ひょろ松のほうへ振りかえり、
「……ひょろ松、藤波はえらいことを考えている。……なるほど、あいつの思いつきそうなことだ。このぶんでは、どうやら、こんどもまた、あいつの負だな。……さあ、もういい、おれはこれから松平佐渡の部屋へ帰るから。……いずれまた、そのうち……」
 あっけにとられているひょろ松をそこへ残して、ノソノソと長屋門を出ていった。

   二番原にばんはら

 朝のうちは霜柱しもばしらが立つが、陽がのぼると相変らず春のようないい陽気。河岸ッぷちの空地の草の上に陽炎かげろうがゆらめく。
 神田、鎌倉河岸から雉子橋きじばしぎわまで、ずっと火除地ひよけちで、二番原から四番原までのひろい空地は子供たちのいい凧あげ場になっている。
 神田川をへだてたむこうが、一ツ橋さまの屋敷で、塀の松の上、紺青色こんじょういろに深みわたった空のなかに、ものの百ばかりも、さまざまな凧が浮かんでいる。
 十二三を頭に七つ八つぐらいなのが小百人、駈けまわったり、からみあったり、夢中になって遊んでいる子供たちにまじって、土手ッぷちの草むらで凧をあげている顎十郎。
 垢じんだ素袷を前さがりに着、凧の糸のはしを帯前にむすびつけ、懐手の大あぐら。衿もとから手さきだけ出して長い顎のはしをつまみながら、高くあがった烏凧をトホンと見あげてござる。
 顎十郎のからす凧は、黒い翼をそらせ、青い青い空の高みで、ちょうど生きた烏のようにゆっくりと身をゆすっている。
 五角、軍配、奴、切抜き……極彩色ごくさいしきの凧ばかりのなかで、黒一色の顎十郎のからす凧がひどく目立つ。
 黒塗の上へ湿気しっけどめにうすく明礬どうさをひいてあるので、陽の光をうけて傾くたびに、ギラリと銀色に光る。
 小川町おがわまち紙凧たこ屋、凧八で十文で買ったからす凧。けさ早くから二番原へやってきて、夢中になって凧あげをしている。
 鬢の毛を風にほおけ立たせ、だいぶご機嫌のていで、空を見あげながらニヤついているところへ、通りかかったのが、れいのひょろ松。
 呉服橋うちの北町奉行所から、神田の自分のすまいへ帰るちょうど道順。
 いつもの癖で、セカセカと前のめりになりながら、二番原へはいって来た。
 フイと足をとめて、顎十郎のうしろ姿を眺めていたが、まぎれもないとわかると、呆れかえったという顔で近づいてきて、
「阿古十郎さん、……あなたは、まあ、いったい、なにをしていらっしゃるんです」
 顎十郎は、ゆっくりと振りかえって、
「おう、ひょろ松か……」
「ひょろ松か、も、ないもんです。……なにをしているんですってば」
「なにをって、見たらわかるだろう、凧をあげている」
 ひょろ松は、ふくれッ面をして、
「あなたのようなのんきな人を見たことがない。……いよいよ南と北のあいがかり、火の出るようなつばぜりあいになってるというのに、こんなところで凧あげなんかしているひとがありますか! 呆れかえってものが言えやしない」
「すっかり病みつきになってな。……ひょろ松、おもしろいからお前もやって見ろ」
「ちッ、凧どころの騒ぎですか。……南では、藤波が金座のお蔵方の立馬左内たつまさないというのを、こんどの立役者だときわめをつけ、十歳とおになるせがれもろとも番屋へひきあげ、追っつけ口書をとろうとしているというのに、北の大将は餓鬼がきどもにまじって、火除地の原っぱで凧あげたあ、どうですか。……役割部屋へたずねて行くと、毎日、朝っから飛びだして、夕方でなけりゃ帰らないということだから、てっきり身を入れてやっていてくださるんだとばかり思っていたら、あなたは、こんなところで遊んでいたんですか」
「ああ、そうだよ」
 ひょろ松は泣きだしそうな顔で、
「そうだよ、は泣かせるね。……こんなことなら、いっそはなッから頼りにするんじゃなかった。……当にしていたばっかりに、あっしの方はてんで持駒もちごまなし。……あっしのほうはどうしてくれるんです」
 顎十郎は、ちょいと凧の糸をあしらってから、
「……ほう、藤波がそんな早いことをやったか。……それにしても、そんな子供までひきあげたのは、どういう経緯いきさつのあることなんだ」
 ひょろ松は、顎十郎のそばへしゃがみながら、
「……つまり、御用金が金座から出た朝、凧をあげたのは、その子供ひとりだったんで……」
「それが、どうしたというんだ」
「……ご承知のように、御用金が金座を出たのが朝の六ツ刻。……ところが、左内のせがれのよし太郎というのが、それから半刻ほど前に長屋の空地で、たったひとりで凧をあげていた。……いくら好きでも、六ツといえば夜があけたばかり。……そういう時刻に凧をあげるのはおかしい。……ところで、芳太郎の父親の左内はお金蔵方。……藤波の推察じゃ、これから間もなく金座から御用金が出るということを、子供のからす凧でそとの一味に合図したのにちがいない……」
「ふ、ふ、ふ」
「藤波が言うには、毎年のきまりで、節季の御用金が間もなく川便で勘定所へ差しおくられることはわかっている。……そとの一味のほうは、贋の千両箱を石船に積みこみ、よっぽど以前から稲荷河岸あたりに、もやって待たせてある。……金座で合図の凧さえあがれば、すぐ相手に通じるような手はずにしてあったのにちがいないというんです」
「その子供のあげた凧は、いったい、どんな凧だったんだ」
「金座の烏組といって、南うらの小田原町おだわらちょうのとんび凧と喧嘩をするのを商売のようにしているんですから、金座の子供の凧といえばからす凧にきまっている。……ところで、その子供があげたのは、その朝にかぎって、六角の白地に赤の丹後縞たんごじまを太く二本入れたけん凧だったんで……」
「丹後縞というのは、長崎凧によくある図がらだが、それは買った凧なのか」
「いえ、そうじゃないんで。……父親の左内が伜につくってやったものなんです」
「それで、その凧はどうした」
「れいの通り、小田原町のとんび凧が、ひっからんで持って行ってしまったんだそうで。……たぶん、その凧に、細かい手はずを書きつけた結び文でもつけてあって、それで持って行ったのだろうと、まあ藤波は、そう言うんです」
 顎十郎は、ははん、と曖昧な声を出して、
「だいぶこじつけたな。……それで、子供はなんと言っているのだ」
「いつも烏凧ばかりでおかげがねえから、父親に白凧をつくってくれと前まえからせがんでいたところ、やっとのことでつくってくれたので嬉しくってたまらない。……夜があけるのを待ちかねてあげたのだ、と言っているそうです」
 顎十郎は、うなずいて、
「だいたい、そんなところだろう。……おれならば、これほどの大仕事に子供なんざつかわねえ。……なんと言っても子供は正直だから、突っこめばすぐ底を割ってしまう。……だが、そうまで道具立てが揃っていて、相手が藤波じゃ、どう言いひらきをしてもまず通るまい。……気の毒なものだな」
「などと澄ましていてはいけません。……それで、あなたの御推察はどうなんです。なにか、おかんがえが出来ましたか」
「いや、まだまだ。……おかんがえなんてえところまで行っていない、トバ口ぐらいのところだ」
 ノッソリと立ちあがると、凧糸をたぐって凧をおろしにかかりながら、
「ときに、ひょろ松、お前、あの前の晩の四ツごろ、金座の川むこうの松平越前のうまや小火ぼやがあったことを知っていたか」
 ひょろ松は首をふって、
「いえ、存じませんで。……なにしろ、この件にかかりっきりで、とても小火までは手がまわりませんや」
「江戸の御用聞はおっとりしているというが、ほんとうだ。……小火がでた松平越前の屋敷は、川ひとつへだてて、ちょうど金座のまむかいなんだが、お前は、はてな、とも思わないのか」
 ひょろ松は笑って、
「川越しに、金座から放火つけびでもしたわけでもありますまい、それが、なぜ妙なんで」
 顎十郎は、たんねんに糸巻に凧糸をまきつけると、凧と糸巻を手に持って、
「……きのう金座から帰って、部屋で寝ころがっていたら、松平越前の厩番が遊びにきて、ゆうべの四ツごろ、行灯あんどん凧が厩の屋根へ落っこちてボウボウ燃えあがった。……早く見つけて大事にならねえうちに消しとめたが、もうすこし気がつかずにいたら、飛んだ大ごとになっていた。……おかげで、こちとらは、水だ、竜吐水りゅうどすいだ、で、えらい骨を折らされた、と言っていた。……どうだ、ひょろ松、これでも妙だとは思わないか」
「へへえ、行灯凧がね……」
「わからなけりゃ、わからなくともいい……。おれは、これから松平越前の厩へ行って見るつもりだが、ちょいと話したいことがあるからといって、藤波を呼んで来てくれ。……おれからの呼びだしだといや、あいつも意地づくだから、かならずやって来るだろう」
「そんなお使いならお安いご用ですが、藤波に呼びだしをかける以上、なにか、きっぱりしたお見こみでもあるのですか」
「見こみは、これから考える。……まあ、なんでもいいから、藤波のところへ行って、ご足労だが、仙波阿古十郎が松平越前の厩わきで待っているからすぐ出むいてくれ、と言ってくれ」
「へい、よろしゅうございます。……どうせ、あなたのすることだ、まともに受けてたんじゃしょうがねえ。……よござんす、行くだけは行って来ますから、泣かずに遊んでいらっしゃい」

   小火

 矢場のとなりが広い馬場で、その横に厩が長い横羽目を見せている。
 二日前の晩、小火があったあとで、厩の片はしのほうが五間ばかり半こげになり、馬立ての丸太が黒こげになって、ビショビショの地面の上にいくつも寝ころんでいる。
 火事あとの水たまりを、ヒョイヒョイと飛びこえながらこっちへやって来るのは、江戸一といわれる捕物の名人、南町奉行所の控同心、藤波友衛。
 れいによって、癇走った顔をトゲトゲと尖らせ、切れの長いひと皮まぶたのあいだから白眼がちの眼を光らせながら近づいて来ると、冷酷そうな、うすい唇をへの字にひきむすんで、ものも言わずにぬうと突っ立つ。
 顎十郎は馬鹿ていねいに腰をかがめ、
「これは藤波先生、遠路のところを、ようこそ。……さすが、江戸一の捕物の名人といわれるだけあって、職務にはご熱心、はばかりながら、感佩かんぱいいたしました」
 藤波はにべもなく、
「それで、ご用といわれるのは?」
「わざわざお呼立てして恐縮でしたが、チトお目にかけたいものがあって……」
「だから、なんだ、と訊いている」
「御用繁多のあなたをこんなところへお呼立てする以上、申すまでもなく、このたびの金座の件……」
 藤波は、ふん、と陰気に笑って、
「また、出しゃばりか。……おおかた、そんなことだろうと思った」
 顎十郎は、へへ、と顎を撫でて、
「いや、出しゃばりと言われると恐縮いたしますが、聞くところでは、あなたは金座のお金蔵方、立馬左内のせがれの芳太郎という子供をお手あてになったそうで……」
「それが、どうした」
「いちいちおとがめでは、お話もできません、まあ、平に平に。……くどいことはお嫌いのようですから、ざっくばらんに申しますが、どうも芳太郎という子供がかわいそうで、なんとかして、無実のあかしを立ててやりたい、……それで、出しゃばりのそしりもかえりみず、出しゃばりをしているわけなんで……。ご承知の通り、手前は当今、ほうぼうの役割部屋で養われている名もない権八、これで功名しようの、あなたをやっつけようの、そんな娑婆しゃばッけは毛頭もうとうない。……ただもう、その無実の人間を助けるのが道楽とでも申しますか……」
 藤波は、キュッと眼尻をつりあげて、
「だいぶ、気障きざなセリフがまじるようだが、では、あなたは芳太郎が無実だという、たしかな証拠をにぎっているとでも言うのか」
「証拠になるかならないか、それは、これからご相談しようと思うのですが……」
 おほん、と咳ばらいをして、
「このたびのあなたのお手あての理由は、芳太郎という子供が、時ならぬ朝の六ツごろ、白地に赤二本引きの丹後縞のけん凧をあげた。……これが金座から御用金がでる半刻ほど前。……あなたのお見こみでは、立馬左内が、きょう間もなく御用金が金座を出るのを知って、稲荷河岸あたりで待っている一味の石船にそれを合図するため、どこからでも目立つ白地に赤びきの長崎凧を、せがれの芳太郎にあげさせた……。それにちがいはありませんか」
 藤波は冷然たる面もちで、
「いかにもその通り、それが?」
「まあ、平に平に……。それが、その凧をどこかの凧が切って持って行った。……それというのは、たぶん、その凧にくわしい手はずを書いた結び文でもしてあったのだろう……」
「それが、どうした」
「つかぬことを伺うようですが、では、その凧は、たしかに石船の一味の手へ入ったというお見こみなんでしょうな」
「なにをくだらん、……手に入ったればこそ、ああいうことが出来たのだ」
 顎十郎はうなずいて、
「なるほど、理詰ですな」
 と言うと、キョロリと藤波の顔を眺め、
「ときに、藤波さん、もう十一月だというのに、この二三日、どうしてこうポカつくか、ご存じですか?……まるで、春の気候ですな」
 藤波は、いよいよ癇を立て、
「手前は、あなたと時候の挨拶をするために、こんなところまで出かけて来たのじゃねえ。そんなくだらないことなら、手前はもうこのへんで……」
 顎十郎は、大袈裟に引きとめるしぐさで、
「まあまあ、お待ちなさい。……相変らず、あなたも癇性だ。……お返事がなければ、手前が釈義いたしましょう。……なぜ、こうポカつくかといえば、この二三日、ずっと南よりの東風こちが吹いているからなんです。嘘だと思うなら、浅草の測量所へ行って天文方のお日記を見ていらっしゃい。東東微南と書いてあります。というのは、じつは手前が調べて来たのだから、これに間違いはない」
「風は、東からも吹きゃ、西からも吹く。……それが不思議だとでもいわれるのか」
 顎十郎は手で押さえて、
「不思議はないが、いわくがある。……ねえ、藤波さん、……一昨日の夜の四ツ(十時)頃、ごらんの通り、この厩が燃上った。……大体において、火の気のないところなんで、どうして、こんなところから火が出たかというと、それは、行灯凧が塀越しにむこうからのびてきて、この屋根へ落っこちたからなんで。……それを見ていた馬丁が五人もいるんだから、これには間違いはないんです。……行灯凧の燃えのこりは、のちほどお目にかけますが、ところでね、藤波さん、いったいぜんたい、どの方面から行灯凧をあげればちょうどこの辺へのびて来るでしょう。……いま申したように、この二三日来、ずっと下総東風しもおさこちが吹いているんです」
「うむ」
「うむ、というのは、大体お察しになれたというご返事だと思いますが、ここから川をへだてて金座の長屋は、ちょうど真西にあたる」
「…………」
「神田橋の勘定所から、金座へ御用金差しまわしの触役ふれやくが来たのはその晩の五ツ(八時)ごろ。……この厩に小火が起きたのは、それから一刻後の四ツごろ。……その行灯凧が、きっと金座であげたのだろうとは言いませんが、稲荷河岸の石船に合図をしようと思うなら、なにも、次の夜あけまで待つ必要はない。この通り、行灯凧というのもあるんだから、やろうと思えば、その夜のうちに合図もできるだろうということなんです。……なるほど、白地に赤二本引きのけん凧も目立つだろうが、なんと言っても、夜あげる行灯凧にはかなわない。……それに、おなじ合図をするなら、すこしでも早くやるほうが万事について都合がいい。それが、人情というものでしょうからね。……それで、あなたは、芳太郎が、行灯凧もあげたということまで突きとめましたか」
 藤波は苦りきって、
「いや、そこまでは、まだ調べがとどいておらん。……行灯凧のためにここに小火があったということは、まだ届けいでがなかったでな」
「そのへんが、お役所の不自由なところ。……手前のほうは、松平の中間部屋に寝ころがっていて、チラとこの話を小耳にはさんだ。……いわば、怪我の功名だったんですが、こういうところから推しますと、芳太郎はどうも罪にはならんようですな、……言うまでもなく、行灯凧は、『陣中狼火のろしの法』のひとつで、凧糸のつりにむずかしい呼吸のあるもの、また、これをあげるにも相当のわざがあって、八歳や十歳の子供などにあつかえるようなしろものじゃない。……なにしろ、行灯仕立てにして、その中に火のついた蝋燭が一本立っている……火を消さぬように、行灯を焼かぬように、これを高くあげるにはなかなかコツがいる。あげるまでのあいだに、十中の九までは行灯を燃やしてしまうのが普通です」
 藤波は、腕を組んで、眼を伏せて考え沈んでいたが、フイと顔をあげると、
「いちおう理屈は通るようだが、それだと言って、立馬に罪がないとは言いきれない。長崎ふうのけん凧をつくって子供にあたえるくらいなら、そうとう凧に心得のあるやつ。行灯凧だってあげるだろう。……夜のうちに、自分で行灯凧をあげ、朝になって、御用金が金座を出る間ぎわに、間もなくこれから出るぞという合図に、こんどは、せがれに白地に赤二本引きの凧をあげさせた……」
 顎十郎は、首をふって、
「どうもいけませんな。凧をつくる男なら、金座にもうひとり名人がいる。……それは、やはりお金蔵方のひとりで、石井宇蔵いしいうぞうという男です。そいつが金座の子供の烏凧をぜんぶ作ってやっている。……これは余談ですが、手前に言わせれば、芳太郎の凧は合図でもなんでもありゃしない、いわんや、結び文などはもってのほか。……あなたは、その凧に結び文をつける約束ができていて、石船のほうでそれを雁木にひっかけて持って行ったのだと言われる。……ところで、そんなことは、まるっきりなかったんです」
 藤波は含み笑いをして、
「ほほう、まるで、見ていたようなことを言う。……そんな大きな口をきくからには、なにか、たしかな証拠でもあるのでしょうな」
「あればこそ、こんなふうにも申しているんです。……その証拠をお目にかけますから、まあ、こちらへいらっしゃい」
 顎十郎は先に立って厩を離れ、矢場の※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)あずちのうしろをまわって塀ぎわのひろい空地に出ると、急に足をとめ、蟠屈ばんくつたる大きな老松おいまつこずえをさしながら藤波のほうへ振りかえり、
「芳太郎の凧が、合図でもなんでもなかったという証拠は、まず、あの通り、……芳太郎の凧は、雁木にからめてられたんでもなんでもない。あれ、あの枝にひっからまってブラさがっています」
 指さされたほうを見あげると、いかにも、まだ紙の色もまあたらしい白地に赤二引の丹後縞のけん凧がブラさがって、ブラブラと風に揺れている。
「いかがです。金座の塀の内からは、この松は見えない。……芳太郎のほうは、れいの通り、とんび組がきて引っきって行ったのだろうと思ったのだろうが、じつは、こんな始末だったんです。……あの凧に結び文があったかないか調べるまでもない。……かりに、そうだとすると、芳太郎の凧がこんなところにひっかかっている以上、むこうへ合図が渡らないたはず[#「渡らないたはず」はママ]なのに、ご承知のように、石船はチャンと動き出している。……この理から推して、芳太郎の凧は、合図でもなんでもなかったのだと言ってるんです。……要するに、合図があったのは芳太郎の凧あげ以前のことだったと思うほかはない。……どうです、ご納得がゆきましたか」
 と、小馬鹿にしたように、顎をふって、
「天の理というものは微妙なもので、この二三んち来、風がいつも同じ方向から吹いていたなんてことは、これは、まったく天のなせるわざ。……金座からあげた芳太郎の凧がここに落ちるなら、むこうの厩に落ちた行灯凧も、従って、やはり金座から出たと思えないことはない。これは、あながち、こじつけとも言われますまい」
 急に真顔になって、
「じつは、あの事件があって以来、手前は、一ツ橋そとの二番原へ行って、凧をあげながらいろいろなことを考えておった。……凧あげも存外ぞんがいおもしろいものですが、そうしているうちに、チョイとした妙なことに気がついたんです。……さっきも言ったように、これで功名しようの、あなたをへこまそうのというんじゃない、ほんのお道楽。……これから、妙の妙たるゆえんをお目にかけますから、お嫌でなかったら、金座のへんまでお伴したいものですが」
 藤波は、キリッと歯を噛んで眼をそらしていたが、忌々しそうに頷くと、
「よろしい、お伴しよう」
 と、ホロ苦く呟いた。

   からすとんび

 松平越前の脇門を出ると、顎十郎は、手にからす凧と糸巻を持って、うっそりと常盤橋を渡りかける。渡りきったところが、ちょうど金座の横手。
 塀越しに金座の屋の棟を見ると、れいの通り、地内の空地からあげる烏凧が十二、三も空に浮かびあがっている。
 顎十郎は、薄馬鹿のように空のほうを顎でしゃくりながら、
「……どうです、相変らずやっていますな。……手前は知らなかったが、金座のからす組、小田原町のとんび組といや、下町では有名なもんだそうで、この凧合戦を見にわざわざ山の手からやって来るひともあるくらいだそうです」
 藤波は、気のない調子で、
「ふむ、ふむ」
 顎十郎のほうは、ひどく上機嫌で、ああんと口をあけて、からす凧を眼で追いながら、
「……もう、間もなく、むこうの小田原町のほうから鳶凧がやって来て、ここでひと合戦はじまります。このへんで、ゆっくり見物しますかな。……それにしても、ただぼんやり見ているのも無聊ぶりょう。……さいわい手前もからす凧を持って来ましたから、この塀そとで凧あげをしましょう。……どうです、藤波さん、あなたもひとつ。……これが風をはらんで空に舞いあがって行くのを見ていると、なんとなく気宇がひらけて愉快なものです」
 藤波はいら立って、
「あげるなら、あげるがよろしいが、さっきの話のほうはどうなるんです。……なにか、奇妙なものを見せるということだったが……」
 顎十郎はニヤリと笑って、
「ですから、これよりおもむろにご高覧こうらんきょうします。……せいてはことを仕損ずる。……まあまあ、手前の凧あげでも見ておいでなさい。……仙波阿古十郎、これから凧をあげます。神田小川町は凧八のからす凧、これよりとんびお迎いのていとござい」
 テンテレツク、と口三味線くちじゃみせんで囃しながら、器用な手つきで凧糸をさばき、はずみをつけてヒョイと風に乗せる。
 顎十郎のからす凧は、いったん地面を這って、あぶなく塀ぎわの小溝へ落ちかけたが、そこで、あふッとひと煽りあおりつけられると、ツイと横ざまにのしあがってグングンと空へ。……糸巻からくりだされた糸の先にあやつられ、黒い翼に陽の光をうけて鈍銀色にぶぎんいろに光りながら、まるで、のびあがるようにどこまでもあがって行く。
 のばせるだけ凧糸をくりだすと、顎十郎は、藤波のほうへ振りかえって、
「どうです、なかなかあざやかなもんでしょう。……陽の光をうけてゆるゆると舞っているところなんざあ、まるで生物いきもののよう。こうして糸を持っていると、ブルブルと震えが伝わって来て高みの心が手に感じられるようで、なんともいい心持なものです」
 顎十郎は、自分のからす凧と金座の地内からあがっているからす凧を互いちがいに指さしながら、
「ときに、藤波さん、手前のからす凧はこの通りあんな高みまであがって行きますが、金座のからす凧のほうは、どういうものか、みなあんなふうに、妙に屋棟やのむねちかくを這いまわっている……十が十、ひとつ残らずそうなんだから、チト変だとは思いませんか」
 藤波は気もなく、
「それは、凧の出来にもよれば、大きさにもよる。また、釣のぐあいによって、いろいろあがり方がちがうだろう、かくべつ不思議なんというこっちゃない」
「おや、そうですか。それならそれでいいですが……」
 急に頓狂な声をあげ、
「おお、来ました、来ました!……小田原町のほうから三つばかり鳶凧がやって来ました。これから凧合戦がはじまりますぜ」
 小田原町の方角から烏凧の二倍もあろうという大きなとんび凧が三つ。羽紋をえがいた銀泥ぎんでいを光らせながらズーッと金座の上のほうへ襲いかかって来て、手近のからす凧へ雁木をひっかけはじめた。
 烏凧のほうでも負けてはいずに、三方から競いかかるようにして鳶凧にかかって行く。
 多勢に無勢で、とんび凧は、一時、形勢が悪くなったように見えたが、凧の大身おおみを利用して強引にのしかかり、ひとつずつ烏を雁木にひっかけて小田原町のほうへ逃げのびてしまった。……と思う間もなく、また次の新手あらてが三つ、ツイとこちらへ流れて来る。
 顎十郎は手をうって、
「これは面白くなった、ひとつ、手前もこの合戦にくわわりましょう」
 と言って、凧糸をあやつって烏凧を金座の上のほうへむけてやる。
 ところが、どういうものか、とんび凧は顎十郎の凧を相手にしない。のびて行く顎十郎のからす凧をよけるようにしては、下廻っている金座の烏凧にばかり襲いかかる。顎十郎が焦立って鳶のほうへむければむけるだけ、鳶はうるさそうにツイと身をかわして顎十郎のからす凧を避ける。
 顎十郎はニヤニヤ笑いをしながら、
「どうです、藤波さん、烏凧にしるしがあるわけじゃあるまいし、妙に手前の凧を相手にしない。これはまた、いったい、どうしたというのでしょう」
 藤波は思わず横手をうって、
「つまり、金座の凧にいわくがある!」
 顎十郎はヘラヘラと笑いだして、
「そこまでおわかりになれば、なにもこの上、手間をかける必要はない。……この二日来、手前が観察したことを、まとめてここでご披露しましょう」
 と、言葉を切り、
「……たぶん、もうお察しのように、手前がこの金座のちかくで凧をあげるのは今が最初じゃない、あの事件のあった日から、これで三度目。……ところで、ごらんの通り、手前のからす凧だけ鳶がよけて行く……てんで相手にもしないということを発見した。……これは妙だと思いましてね、あらためて金座の中へ入って子供にまじってあげて見た。……しかるにです、やっぱり手前の烏凧だけが相手にされない。……なぜ、こうなんだろうと、いろいろ観察してみると、手前の凧は、ほかの金座の凧とはあがり方がちがう。……手前が小川町の凧八で買った凧は、ひどく高みへ飛びあがるが、金座の子供の凧は妙に下まわる。そういうちがいがある。……駈けあがらないのは金座の烏凧のくせなんで、それが、遠くからでもチャンと見わけがつくらしいんですな。……そこで、小川町の凧八へ行って聞いてみた。どうして金座の烏凧だけがあんなあがり方をするのだとね。……すると、凧八がいうには金座の子供にからす凧を売ったおぼえはありませんから、それはたぶん、金座のだれかが手づくりをしてやるんでしょうという返事です。……それから、暇にあかせて日本橋、京橋、神田とあらゆる凧屋を一軒のこらず聞いてまわりましたが、どの凧屋でも金座の子供に売っていない。……なにしろ、こんなふうに、少くとも日に三つや四つは切って持って行かれるんだから、ぜひあとの補充がいるわけ、ところが、いま言ったようにひとつも凧屋から出ていない。すると、これは凧八がいう通り金座に器用なやつがいて、切られるたびに子供らに新しい凧をつくってやっているのだと思うほかはない。……調べてみると、それが、それ、石井宇蔵という金蔵方」
「……なるほど」
「ところで、問題は、金座の凧が妙にはねあがらないということ。……これは、いったいどうしたというもんでしょうね」
「なにか、釣のぐあいでも……」
「釣もそうでしょうが、手前は、それを、普通のからす凧より重いためだと睨んだ」
 藤波は引きとって、
「大ぶりな鳶凧と闘わせるためには、いささか、こちらの凧を重くしておかなくてはなるまい」
 顎十郎はうなずいて、
「そうそう、手前も最初はそう思った。それはわかったが、そんならば手前の軽い凧へとっかかって来なければならないはず。ところが、かならず手前の凧を避けて行く。どう考えても、金座の凧しか欲しくないのだと見える」
 またしても、ニヤリと笑って、
「このへんが、なかなか微妙でね、チョイと頭をひねりましたが、しかし、すぐ解決した。なにもかも、この凧合戦のアヤをすっかり見ぬいてしまったんです」
 ペロンと舌を出して、下唇に湿しめしをくれると、
「……もともと、手前は、石船の衝突は、まともな事件だとは思っていない。……あれは、川なかですりかえたと思わせるための見せかけで、あのときは、なんの事件もなかったものと睨んでいる。……なぜかと言いますとね、どんな器用なことをしても、あのわずかなあいだ、しかも朝がけ、ひと目のたくさんあるなかで三十二の千両箱をすりかえるなんてえ芸当ができるわけのもんじゃない。……すると、どういうことになる。……三十二の千両箱は、石船ですりかえられたんじゃなくて、金座をでる前にもうそうなっていたんだと考えるほかはない。……言うまでもなく、あの事件の後前あとさきにはすりかえができるような、そういう隙は一度もなかったから。……賊は、実は金座の中にいるので、それを外部の事件と見せかけるために、ああいう手のこんだことをやった。……そういう見せかけの事件をつくろうとしたことが、逆に、事件はすでに金座の中にあったのだということを裏書することになるんですな。……では、どんな工合にしてやった?……聞くところでは、一度、小判に極印を打って包装して千両箱におさめ、これを金蔵に収納すると、一年一度しか金箱のなかを改めない。……そのくせ、金蔵方は無造作に、しょっちゅう金蔵に出たり入ったりしているんです。……すこし気長にかまえさえすれば、毎日すこしずつ千両箱の中身を古釘にすりかえるくらいなことはいくらだってできる。一日に百両づつみ二包みずつ掏りかえて行ったとしても、わずか半年で千両箱の三十ぐらいは空になる」
「いかにも!」
「……そこで、その金はどうした? 最初のうちならともかく、おいおい金高が多くなれば、ちょっとやそっとの場所へかくしておけるもんじゃない。……無理に通用させるからこそ十両は十両で通るが、天保の改鋳以来、金分はほんの二分。……そんなものを金座の人間ともあろうものが、後生大事にかかえちゃいない。……吹屋の棟梁とうりょう結託けったくして小判を吹きわけて純金分だけにしておけば、ほんのわずかの量ですむ。……まあ、手前はこう睨んだ。純金分にすると、なるほど金目はへるようだが、何年か後に、どこかの山の中へでもこっそり吹屋をつくって、元の小判に吹きかえればいいわけ。餅屋は餅屋で、そんなことはわけはない。……ところで、それにしたって、それだけのものを金座のなかへ匿しておくというのはあぶない。なんとかして、そとへ持ちだしたいと思うでしょう。その末、思いついたのがつまり烏凧。……ねえ、藤波さん、金座の烏凧にかぎって、ひどく重みがついていて、なんとなく高くあがれずに下まわるのはそのせいです。……そして、また、小田原町のとんび凧が下廻る烏凧ばかりねらうのも、じつにそのせいなんです」
 藤波は、さすがに我を折って、
「いや、これはどうもなかなかのご明察」
 顎十郎はかくべつ手柄顔もせず、
「論より証拠、ひとつ、分捕ってその実体をお目にかけますかな」
 自分のからす凧を手ぢかの金座の烏凧のほうへむけて行き、雁木にからませてグイと引っきり、スルスルと手もとへひきよせ、つかんで来た烏凧の竹の骨を両手でへしおると、竹の骨のなかでキラリと光った黄金色きんいろの細い線。……小判を純金に吹きわけて、金の針金にして凧の竹骨のなかに忍ばせてあった。
 顎十郎は、へへん、と笑って、
「……さあ、藤波さん、早く行って小田原町のとんびをみんな召捕っておしまいなさい。早くしないと、空へ逃げてしまいますぜ。……それから、金蔵方の石井宇蔵、ほかに吹屋の棟梁がひとり……」

底本:「久生十蘭全集 4[#「4」はローマ数字、1-13-24]」三一書房
   1970(昭和45)年3月31日第1版第1刷発行
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月11日作成
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