一

 ゆるやかな傾斜が、午後になると西南の陽をいっぱいに受けていた。一本の太い楢の枝が屋根代用となり、その下に密生している若い楢の梢が適当な防空天幕となっている。このなかの熊笹をかりとって、筵三畳の防空陣である。山すその青田から吹きあげる風が、山全体の濶葉樹の梢をゆすり、風の音がさわさわと深緑の感覚を呼ぶ。
 この樹の下に四人の子どもはぼくをとりまいて風の音をきいていた。風の音にまじって虫の声がきこえ、小鳥の遠音もまじってくる。筵の上にあおむけに寝そべっていると、青い木もれ陽が、どの顔をも美しく彩るのである。彼らの心は、どれもたのしく明るく、ともすればバネのようにはねかえろうとする弾力が見られる。これが空襲を避けている子どもたちの顔であるとは思われないのである。
 子どもたちが、心明るく楽しい時は、自由のなかにひたっている時であり、たいていおとなの世界から解放されている時である。ぼくは毛布にくるまったまま、黙って彼らを見守っていて、警報のサイレンによって、子どもたちに待避を命ずるだけの存在たろうとしていた。
 午睡からさめると、まず六歳になる女の子は、その上の九つになる兄と虫あさりをする。兄たちが自然観察のために昆虫採集をするので、この女の子は、なかなか虫たちと友だちである。もういつのまにか二人の姿は、木立のむこうに見えかくれしながら、虫をあさっている。
 木の枝にぶらぶらさげていたぼくの腕時計を眺めていた長男坊は、次男坊を促して勉強を始めようとしている。ここへ移った時、ぼくは二人に、戦争中も大好きな数学の研究を止めなかったアルキメデスの話をしてやったのだった。
 おれの円を踏んではいかん。
と無知なローマ兵に叫んだ彼が、その無知な兵卒のために、まれにみるこの数学者の血は、彼自身の描いた円の上を鮮血に彩ってたおれたという話。そのあとで尋常科五年の長男は、四年の次男と約束し合っていた。
 よし、ぼくらもどんな空襲にあっても勉強を休むまい。空襲で死ぬときは鉛筆を握って死ぬぞ。

     二

 その子どもたちも、平和日本の秋を迎え、あの防空のために待避した山には、どんぐりがみのり、味のよい茸が子どもたちを呼んでいた。
 ぼくの病気も解放された心の明るさに伴って一枚一枚皮をはぐように気分のよい日がつづいた。子どもたちは、戦争など、とうの昔に終わったというようなケロリとした気分で、ぼくのために川魚をとったり、茸をとったりして、まずしいぼくの食膳を喜ばせたりした。
 子どもたちの学校も、どうにかもとのように授業をはじめるようになった。ぶ厚い防空頭巾をかなぐりすてた、軽々した学生帽でうれしそうに登校する。十月も半ばすぎて、一昨年六月生まれた士郎がようやく立つようになった頃、ぼくに関する大赦の新聞記事が、世間の話題となった。ぼくの方二間の住まいが俄かに、にぎやかな人びとの来訪によってにぎわっていたある日、長男は学校から帰るとぼくに向かってたずねる。
 キョウサントウって何だや。
 ぼくはギクリとした心を平気に装いながらも、この子どもが、どこからこんな問題を拾ってきたのだろうかと考えてみた。そしてぼくはこの子が誰からか、からかわれでもしたのだろうと察して、
 だれかに、何とか言われたか。
と笑ってたずねると、今日学校で上級の男の子がキョウサン、キョウサン、キョウサントウとからかったと、朗らかにいう。そこでぼくは、それで何といったのときくと、
 ンダズー(そうだよと肯定する方言)
と言ったと朗らかに笑っている。ぼくは妻と一しょに「ンダズ」はふるっていると笑ってしまった。
 それから次つぎに皮をはがれるようにすすんでいる民主主義日本の荒い息吹きのなかで、子どもたちは新聞をあさり、私と妻の話に耳を傾け、ある時は私と来客の間に割り入って話をきくのである。そしていつの間にか、進歩党や、自由党、社会党についての子どもらしい解決をやっているのである。
 次男の哲は、自分の名前から思いついたらしく、「社会党の書記長」を自任し、長男坊は、例の「ンダズ」事件以来「キョウサントウ」を自称して朗らかなのである。そして進歩党は誰かと笑いながらきくと
 ぼくの家に進歩党はいないや。
とすましたものなのである。なるほど、この父であってみれば戦争犯罪人はわが家にはいない筈なのである。
 ぼくの机から最近の大学新聞をひっぱり出して眺めていた二人は、ローマ字書きの記事を見つけて争いをはじめた。弟はローマ字だといい、兄は英語だというのである。しばらく争っていたが、その裁きをぼくのところに持ち込んできた。ぼくは改めて二人のいい分をきいてから、
 では、読んでみるから、お前たちでどっちが勝ちであるかきめてごらん。
といって羽仁五郎の「人民の方へむけ」という論文をゆっくりよみはじめた。三、四行よむと、二人は顔を見合わせて、「あ、わかった」といった顔つきである。ぼくは読むのをやめてしまった。この勝負、どうやら兄の負けなのである。そこでぼくはその論文のなかからつぎの一節を抜き書きして与え、ローマ字五十音に合わせてよんでごらんと課題する。
 デモクラシートハ、ジンミンノタメノ、セイジデアル。

     三

 自由をたたかいとるために、ながい苦しみを味わってきたこの父であるが、それにしても、わが子に自由を与えることのいかにむずかしいことか。
 ともすれば、封建的な権力をふりかざして子どもに接し、あとでぞっとするのである。わが家の言論の自由は、子どものためにこそ伸ばさなければならないと心をくだくのである。
 考えて見れば、子どもたちばかりの社会があったら、どんなにのびのびと心たのしい明るい社会をつくるだろうかと思うのである。
 おとながつくった風俗や習慣などけしとんでしまい、本能さえも別ものにつくりあげるかもしれない。そして子どもたちはこうした自由な環境、すべてを自分たちの手でうごかして見ることの環境としての夢を学校に求めていくのである。
 しかしそのたのしかるべき自由の学園は、すでにおとなの鋳型によって、もっとも不自由な天地となって子どもたちを縛るのである。いわゆる「すべからず」の学風が今の学園を支配しているのである。
 ボクラの先生は、質問すると叱るよ。
 ××先生はぼくらが掃除していると日なたぼっこしてるんだぜ。
 ○○先生は、新聞なんかみんなウソだと言ってたよ。
 このような学校にも嵐が訪れている。その嵐が吹きやむと間もなく暖かい春が訪れてくるであろうか。
 子どもには、いつも子どもの生話をたのしむ場としての学校。
 子どもなりに、豊かな文化を恵まれ自由がいきいきと世のなかにまでかよっている学校。
 親も教師も、子どもについての悩みは、ここに再出発の姿勢をかまえるべきだ。世の親と教師こそ子どもの前に総ざんげしなければなるまい。日本の人びとがながく冬のなかにおしこめられて自由を失っていたように日本の子どもも、そうした桎梏の環境のなかで揉まれながら冷たくかたい凍原のなかで春を待っていたのである。
 前途は暗く、胸の塞がる時、幾度となく私は迷ったり蹉いたりした。私の歩んだ道がどんなに寂しい時でも、私は自分の出発した時と同じように生を肯定しようとする心に帰って行った。
──藤村『春を待ちつつ』──
 どうやら私には、このようにして待ちこがれた春が訪れようとして、光がやわらかに私のからだにさしはじめたような気がする。だが私の愛する教育の世界、それにもましていとおしむ子どもたちの世界にはいつになったら春が訪れることであろうか。
 私は白いチョークを握って、すばらしい軽い音を黒板にひびかせながら、子どもと向かい合っている幻想のなかにいてほほえましくなるのである。
二十二年 新しい年を迎えて

底本:「村山俊太郎著作集 第三巻」百合出版
   1968年(昭和43)4月5日第1版第1刷発行
入力:しだひろし
校正:土屋隆
2010年2月16日作成
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