(一)

 彼は木製玩具の様に、何事も考へずに帰途に着いた。
 地面は光つてゐて、馬糞が転げて凍みついてゐた。
 いくつか街角をまがり、広い道路に出たり、狭い道路に出たりしてゐるうちに、彼の下宿豊明館の黒い低い塀が見えた。
 彼は不意にぎくりと咽喉を割かれたやうに感じた。
 ――ちえつ、俺の部屋の置物の位置が、少しでも動かされてゐたら承知が出来ないぞ。
 彼は山犬のやうな感情がこみあげてきて、部屋の方にむかつてワン/\と吠え、また後悔をした。
 彼の親友である水島と或る女とが恋仲となつた。
 二人の恋仲は、まるで綱引のやうな態度で、長い間かゝつても少しの進展もしなかつた、声援をしたり、野次つたり見物したりしてゐた彼は、まつたく退屈をしてしまつたのだ。
 ――そんな馬鹿な恋愛があるかい学生同志ぢやあるまいし、三十をすぎた、不良老年の癖に。
 水島が彼にむかつて、彼女とは現在でも、肉的な交際がないと誇りらしい表情で、打開けたとき、彼はとびに不意に頭骸骨を空にさらはれたかのやうな、気抜けな有様で、穴のあくほど水島の顔を、暫らくは凝然じつと見てゐた。
 ――でも君、女は若いんだし可哀さうだからな、それに家庭的な事情が僕達の前に横たはつてゐる大きな難関なんだ、もし僕が女と関係をした後で、二人が結婚まで進まなかつたらどうだらう、
 ――女を疵物にしては、良心に恥ぢるといふ意味だね。
 ――さうだよ、それに違ないよ、女の籍は絶対に抜けないらしいんだ僕の婿入りそんなことは僕の方の家庭の事情でできないことだしな。
 水島は、ほつと吐息をついた、第三者の立場にある彼は、水島の恋愛事件に対しては、彼が横合から水島の女を奪はうとしない限り永久に第三者の立場にあつた、だから彼は、勝手なことを考へ、勝手な助言を水島にした。彼はもう見物にあきがきたのであつた。
 ――水島の女に、ちよつとちよつかいをかけてやらうかしら、あの女の手は美しい、そつと俺の手をのつけても、邪慳に振りはらふやうなことはしないだらう。
 退屈さに彼はこんなことを考へたりした、横合から割込んだらう、水島はきつと友達甲斐がないことをいきどほり、狼のやうな血走つた眼となり、長い間の交友関係も粉砕され、牙を鳴らして襲ひかゝつて来るであらう。
 かうした策戦がまた案外効を奏して、お互に相離れまいと、この乱暴な侵入者を必死と拒み、女や水島の情熱はよみがへり、二人の恋愛は、その最後の土地まで、馬車を疾走させるのでないか、などと彼は友人の遅々とした遊びごとにいら/\と気を揉んでゐた。

    (二)

 水島が毎日のやうに、彼の下宿に訪ねてきては、嘆息をした。
 その姿は耕作もせず、ぼんやり鍬に頬杖をしてゐる農夫のやうなものであつた。
 ――収穫をどんなに夢想しても駄目だよ、君は鍬を動かしてゐないぢやないか。
 事実水島の態度は『雲の上の花園』をさまよふ園丁のやうなものであつた。
 夢を見続けて、実行といふことを侮蔑してゐた。
 ――恋愛といふものは、君等のやうに、長い間楽しめるものぢやないんだ、時日を要するといふことが既にもう失敗だね。それに女などといふものは、非常に敏感ですぐ冷静になりたがるものだ。だから何より女を絶えず興奮させてをくといふことが大切なことだ。
 と――彼は煽動した。
 水島も、内心あまりに遊びすぎたことを後悔した。そして結局女から何物をも得てゐないことを考へ、寂しがつた。殊に女をすつかり訓練してしまつたことが、既に救ひのないことだと観念した。
 ――随分愉快に楽しんだよ、このまゝ二人が別れたところで、僕としては充分に遊び尽したから悔ひはないよ。
 水島は眼を伏せてこんなこともいつた、然し舞台の上の俳優がふつと消えてしまつたのも、気づかずに、広い劇場の座席にたつた一人坐つてゐるやうな、馬鹿げた観客にはなりたくなかつたので、彼はせつせと水島をけしかけた。
 或る日、水島は朗かな顔をして下宿を訪ねてきた。
 その顔は何事かに感謝をしてゐるかのやうに。
 話題は、涯かな遠くの方から出発して、水島自身の恋愛事件に到達した。
 水島は前夜、活動常設館に女を誘つて出かけたといふ、二人は活動写真館の三階に陣取つた、この三階は屋根裏で、天井が低く暗かつたので、人眼をはゞかる二人にとつて屈強な坐席であつた。
 ――男は、女の膝を枕にして、仰向きに寝て足を長く伸ばした。(丁度酔つてゞもゐるやうに)
 暗い中では映像が、青い影をいりみだして明滅した。
 ちやつぷりんが高い屋根から舗道の上に墜落したが、ゴムまりのやうに跳ねあがり、折柄通かゝつた貨物自動車の屋根に顛落し、何処といふあてもなく運び去られた。
 観客はどつと声をあげて笑つた。女といふものは、笑ふときでも、泣くときでも、怒るときでも、体を大きくゆすぶるものである。

    (三)

 水島の恋人は、皆といつしよに声をあげて、笑ひ、大げさに体をゆすぶり、いかにもお可笑くてたまらないといつた風に、体を前に屈めて、素早く、膝の上の水島の顔に接吻をしてしまつたのであつた。
 そして続けさまに、続けさまに速射砲のやうに、ちやつぷりんが尻餅をついたといつては笑ひ、電車にはねとばされたといつては笑ひ、その度毎に彼女は水島に接吻の雨を降らした、喜劇は短かつた次には長い/\悲劇物が映写された。
 彼女はしく/\と泣きながら、そして今度は沈着いて悠つくり水島に長い/\接吻を与へることができた。

 水島と彼女との恋愛は、活動常設館での出来事以来、活気づいてきた。そして素晴らしい奇蹟が、すぐ眼の前に待ちもうけてゐるかのやうに、水島の眼はちかちかと忙しく光り、また隠れてゐた天才的なものが、いつぺんに顕はれてきたかのやうに、彼は調子づいた奇術師に等しい活動館での接吻がなによりそれを物語つてゐた。
 そして悪い友人は、それに油をそゝいだ。
 水島と女との奇蹟のために、彼は下宿の自分の六畳間を提供したのであつた。
 もつとも親愛なる友人の恋の成功のために――。
 彼は昼、会社の事務机にもたれて、二人の恋人の深刻な遊びが、自分の下宿の六畳間で行はれてゐるであらうことを想像した。
 ――水島、煮へきらないぞ、君の愚にもない人道主義を蹴飛ばしてしまへ、戦闘的であれだ。と彼が水島の背をぽんとたゝいたとき水島はにこ/\笑ひながら、ちらりと決意を見せた。
 其日、彼は会社の仕事の忙しさに追はれ、二人の恋の祝福のために自分の部屋をかしたことなどを、からりと忘れてしまつてゐたが、彼が小路をまがつて、下宿の黒い塀を発見したとき、ふつと思ひ出したのであつた。
 彼はあわてゝ靴を投るやうに脱いで、玄関にかけあがつた。
 ――お帰んなさい。
 遠くの方から、下宿の妻君の声が聞えた。
 ――水島がやつて来たかい。
 ――参りましたよ。例のとね。
 下宿の妻君は、意味ありげに笑ひながら、水島の恋人の、姿態をたくみに真似た道化た格好をし、仰山に手をひろげて、廊下に半身を現した。
 ――ちえつ。
 彼は舌打をした、何処かに隠れてゐた敵意に似たものが、ふつと舞あがつたのである。
 そして自分の部屋の前に立ち、その襖をあけようか、開けまいかと、長い間思案をした。
 部屋を思ひ切つてあけて見た、しかし何の異状もなかつた。
 室の中には、非常に寒い空気が充満してゐたきりで、彼が会社に出掛けた朝のまんまになつてゐた。
 机の上には、一日ぢゆうの埃が灰のやうに白くつもつてゐて、水島と彼女とが、きつと花弁のやうに寄りそつて坐つてゐたことであらう、あたりの位置にも何事も起つた様子がなかつた。しかし彼は焦々として室中を見廻し
 ――眼に見えない、いりみだれた指紋で、室中めちやめちやにしてしまつた。
 彼はかうぶつ/″\いつて部屋を出た、そして泥棒猫のやうに、がさ/″\下宿の戸棚を探してゐたがやがて一握りの塩を掴んでき、先づ一番神聖でなければならない机の上に、そして天井に壁に、四方八方に撒いた。
 お可笑さがこみあげてきたが、彼はどうしても笑ふことができないので苦しんだ。

底本:「新版・小熊秀雄全集第一巻」創樹社
   1990(平成2)年11月15日新版第1刷発行
底本の親本:「旭川新聞」旭川新聞社
   1927(昭和2)年2月8日〜9日、11日
初出:「旭川新聞」旭川新聞社
   1927(昭和2)年2月8日〜9日、11日
※「三十をすぎた、不良老年の癖に。」は底本では「三十をすぎた。不良老年の癖に、」となっていますが、底本第五巻月報の「訂正」にしたがって変更しました。
入力:八巻美恵
校正:浜野 智
2006年3月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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