それにつけて、四時の天候なども甚だ不順であって、凶作が続き、雨量多く、毎日、じめじめとイヤな日和ばかりで、米は一円に二斗八升(一銭に二合八勺)という高値となる。今までは円に四斗もあったものが、こう暴騰すれば世の中も騒がしくなるは当り前である。しかし、米は高くなったからといって、日常のものが、それに伴れて高くなるということはなく、やっぱり、百で六杯のそばは以前通り、職人の手間賃も元通りである。かと思うと、一方には沢庵一本が七十二文とか天保一枚とかいう高いものになって来る。つまり、経済界が乱調子になったことでありますが、こういう世の中の行き詰まった折から「貧窮人騒ぎ」というものが突発して来ました。
或る人が中ノ郷の枳殻寺の近所を通ると、紙の旗や蓆旗を立てて、大勢が一団となり、鬨の声を揚げ、米屋を毀ち壊して、勝手に米穀を奪って行く現場を見た。妙なことがあるもの、変な話しだ、と昨日目撃したことを隣人に語っていると、もう江戸市中全体にその暴挙が伝播して、其所にも此所にも「貧窮人騒ぎ」というものが頻々と起っている。それは実にその伝播の迅さといっては恐ろしい位のもの、一種の群衆心理と申すか、世間はこの噂で持ち切り、人心恟々の体でありました。
また、或る人のいうには、
「何某の大店の表看板を打ち毀して、芝の愛宕山へ持って行ってあったそうな。不思議なこともあるものだ」
という話。その話を聞いているものは、誰も彼も、妙な顔をしている。昔、やっぱり米騒動のあった折に、大若衆が出て来て、そんなことをしたものだという。やっぱり、今度のそれも大若衆がやったのであろうなど腹の中で考えて一層不安が増し、取り沙汰が喧しくなるという風で、物情実に騒然たる有様であった。
私は、師匠の店におって仕事をしている間、子供心にも、これらの世間話しを聞きますにつけて、自分の両親たちのことが心配でならないのでありました。一心に毎日の仕事をしている中にも、ふと、家のことを思い出すと、仕事の手を留めて、茫然とその事を考えている。今頃、父はどうしていられることだろう。母様は何をしていられることか。……と思い出しますと、どうもこうして師匠の家に自分だけ安閑とはしていられない気がして来るのでありました。
自分の父は、幼い時、その親が身体を悪くされたために、自分の身を犠牲にして、一生懸命一家のために尽くされたという。自分は、その父が家のために尽くしたという年齢よりも、まだ、ずっとおとなになっているのに、こうして、師匠の家に安閑として家のことや、親たちのことを他所に見ているというは、何んたる不孝のことであろう。ここはこうしている場合ではない。自分も父のしたように、自分の父に対して、その危急を手助けしなければならない。――
こう私は思い詰めぬわけに行かなかった。
或る日、日暮れに、ふらふらと、黙って、師匠の家を出て、親の家へ帰って来ました。
父は稀見な顔をして、私を見ていました。母は、それでも、何かと私に優しいことをいってくれていました。
私は父に向い、
「実は、世間がいかにも騒々しく、いろいろな噂を聞きますので、家のことが心配でたまりませんから、明日からあなたと一緒に商売をして、何なりとお手助けしようと思い、それで戻って参りましたので……」
こういう意味のことを、恐る恐る述べました。それで父の意も解け、顔色も和らぐことかと思ったのは間違いで、父は恐ろしく厳励しい声で、私に怒鳴りつけて来ました。
「馬鹿野郎、汝は、もう俺のいったことを忘れてしまったか。汝が初め、師匠のお宅へ奉公に出る前の晩、俺は汝に何んといった。一旦、師匠の家へ行った以上、どういうことがあろうとも、年季の済まぬ中にこの家の敷居を跨いではならんといったではないか。途中で帰って来れば足骨をぶち折ると確かにいい附けた俺の心を汝は何んと聞いたのだ。俺は子供の時、一家の事情によって身に附くような職をも覚えず中途半パな人間になってしまったが、汝にはそれをさせたくないという親の心が分らんのか。世間が騒がしかろうが、貧乏をしようが、汝の手助けを当てにする位なら汝を奉公になど出しはしない。一旦師匠の家に住み込んで、年季も満足に勤め上げず、中途で師匠を暇取るというような心掛けで、汝は何が出来ると思う。帰って親の手助けをしようなどと、生意気なことをいうな。俺には知己も交際もある。汝のような中途半パで帰って来た不埒な奴を家に置いたとあっては、俺が世間へ顔向けが出来ない。今日限り親子の緑を切るから勝手にしろ、予ていった通り、足骨を打ち折ってもやりたいが、今晩だけは勘弁してやる。何処でも出て行って、その腐った性根を叩き直せ」
こういうわけで実に恐ろしい見幕。ぐずぐずしていると、本当に足骨を打ち折られそうでありますが、しかし私はこの父の厳しい譴責によって、つくづく自分の非を悟りましたので、散々その場で父に謝罪を致し、以来決して不心得を致しませんによって、今度だけはお許しを願いますと、涙を流して申しました。
「そうか。それが分ればそれでよい。俺には長男巳之助があり汝は次男だが、母には汝は一人の児だによって母に免じて今度は許す。汝が一人前の人間になるまで、ドンナことがあっても俺は汝の腕を借せとはいわぬ。家のことなど考えず、一生懸命仕事を励み、師匠のため尽くせ。それが汝のすることだ。分れば、それで好い」
こういった後、父も機嫌を直してくれまして、それから母がお茶を入れ、菓子など食べ、早速その晩、師匠の家へ立ち帰り、一層身を入れ仕事を励んだことでありました。
思うに、この時、父がかく厳しく訓誡してくれましたことはまことに親の慈悲であって、こうした教訓を与えられず、甘い言葉を掛けられ、また父の都合上から、私の小さな力でも借りようとしたならば、私の将来もほとんど想像されたことであります。もしこれが普通の人であったら、こうも私の父の如く、厳しくキッパリと頭からやっつけはしなかったと思いますが、全く、この時、かく手厳しく譴責されたことは、私の身に取り、ドンナに幸福であったことか分りません。父の賜によって、将来世に立ち、まず押しも押されもせぬ人間一生をかく通り越し来たことは心に感謝する次第であります。
私の父は、前にも度々申した如く、まことに気性の潔い、正直真ッ法で、それに乾児のものなどに対しては同情深く、身銭を切っては尽くすという気前で、自分の親のことを自慢するようであるが、なかなかよく出来た人であった。後年隠居を致し、私から小遣いを貰って、神詣でなどに参りまして、貰っただけの小遣いはそれだけ綺麗に使って来たもので……それも自分のためというよりは、何んでも、江戸の名物と名のつくものを買って来て、家のものにお土産にして、皆で一緒にお茶を入れて、それを食べて喜んでいる所など、昔ながらの気性が少しも変りませんでした。よく、芝口のおはぎ、神明の太々餅、土橋の大黒鮨などがお土産にされたものでありました。
底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
1929(昭和4)年1月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2006年9月8日作成
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