一九三九年、アーチボルド・マックリーシュ氏がアメリカ国会図書館長に任命されたときは、全米図書館人は、彼がこの道のズブの素人であるという理由をもって反対したものであった。
 彼は詩人であり、かの『化石の森』『リンカーン』の作者であるシャーッウドと親友でもあり、また、ルーズベルトの『炉辺閑話』等の文章のブラックチェンバーであったといわれている。
 それが突如、国会図書館長となったのだから、一つのセンセーションを全米図書館界に起したことは容易に想像される。
 彼はしかし、実に颯爽と、この図書館の改良に着手したのである。戦争という現実が、国会図書館をして、閑日月を楽しむ底の読書機構であることをゆるさなかったのではあろうが、この大任に敢然とついた素人としてのマックリーシュの心境は、察するに余りあるものがある。
 後にユネスコの大憲章の筆を取ったヒューマニスト詩人としての彼が、敢えて事務官としての図書館長として、五年間を如何に過したか、恐らくそれにはおのずから、映画のシナリオにふさわしい心の中のさ迷いが、彼の眼の前に展けたに違いない。
 敢えてその中に彼が飛び込み、かつその中に溺れなかった所以は、集団的組織の中に適応することのできる近代精神の詩人であったからであろうか。かかる人の中に生まれる新しい美こそ、いま正に創られつつある美にほかならないものである。
 彼は、彼のこの興味ある五年間の任期の記録を、The Reorganization of the Library of Congress, 1939-1944 の中で報告している。
 その中には、まことに世界の図書館が、自らを転換すべき大いなる曲り角を示すところのもの、生々しい断層の痕を示している。
 彼は就任すると共に、実に多くの有能な委員会を組織して、その凡ての委員会の構造の中核に、自分の身を没してしまった。決して彼は英雄とはならなかった。凡ての図書館職員が英雄となることによって、更に彼を拒否した図書館界の人々を英雄とすることによって、彼の全委員会は立派に任務を果たし、彼はその全運営の聴き役となることによって、大改革を遂行したのであった。そして、彼がこの国会図書館を去ってみると、そこには全く新しい型の、未来の意味における英雄のおもかげが、ホーフツとそこにフェードアウトしながら、映画における最も印象的な推移で、姿をあらわしている。

 彼はその報告で次のようにのべている。「国会図書館の改組は、多くの男女のお互いの事務の中から行なわれたのであって、この報告もまた、この人達の事務にほかならない」と考えて、決して自分の事業とはしないのである。
 この最初に出た報告そのものの主題は、やがて、この五年間の改組の基本的主題へと展開してゆくのである。彼の五年間の仕事は、集団をテーマとした一つの作曲であり、一つの作詩でもあった。
「私の在職五カ年の間になし遂げたいろいろな改変のうち、私が最も誇りに思うのは、職員をして益々積極的に、運営の流れの中に引きずり込むように変え得たことである」といっている。すなわち、自分の命令に従えたことにあるのではなくして、大きな組織が構成され、その組織体が、一つ一つ積極的な意欲のもとに、大きな流れの中に流れ込んで行ったことを、彼は誇りとしたのである。

 一九三九年における国会図書館は、真の意味での組織‘Organization’ではなかった。むしろそれは、或る人(それは偉大なるハーバート・パトナム氏を指す)の影響をうけて動いているというべきである。すなわち、大いなる一人の影‘Shadow of a man’の中に動いていた。
 パトナム氏の偉大なる影の中の王国の中に、数々の王国が、数十年の一つ一つの伝統をもって、各々巍然としてその偉容をととのえたのであった。それは味もあれば、香りもある機構であったであろう。
 しかし、それは、戦争の中で、部署をもつことのできるところの機械的統一の精密さにおいて、欠くるところのものがあったというべきである。それは組織としての構成としては、未完成のものであった。
 この一人の人格のもとに構成されている構造から、精密機械の組織ともいうべき巨大なる機構としての図書館にうつるにあたって、その目に見えない中心になったのが、アーチボルド・マックリーシュ氏であった。彼は、すでに「影を失った人」であった。新しい詩を身をもって描いた人であった。
「ハーバート・パトナムより、アーチボルド・マックリーシュに」図書館長が移った国会図書館は、まことに世界の図書館の概念が移りゆく、大いなる曲り角をしめしているのである。

 一九三九年は、世界が個人文化より集団文化に移らんとする歴史の傾斜の中で、世界の人々が呻きのたうっていた年でもあった。
 図書館の副館長マルチン・ロバーツ氏は、本の注文の書類の前に坐って、一日十二時間から十四時間働いていた。それにもかかわらず、法律図書館長のジョン・ヴァンス氏は、注文の書が後れることの原因を「自分が買いたいと思う本も、購入書類が副館長の事務室に積みあげられるが故に、いつも逃がしてしまう」とマックリーシュ氏に断乎として主張するのであった。
 六百万冊のうち、百五十万冊(ほんとうは一、六七〇、一六一冊)は未整理として残っていた。一年間に三万冊の割合で、図書ならびにパンフレットが未整理として残りつつあった。一九三九年度には、十七万冊が行方不明になっていた。それは、各々の部門と部門の連絡の不充分な裂目の中にすべりこんでしまい、一つのカオスと成っていったからである。それは、後に五万冊にまで減じたが、何処かに、きわめるべき組織の誤謬が残っていた。製本すべき本も三十七万冊が、読むあたわざるかたちで待機していた。
 かかる各部門の独立は、会計を複雑にし、マックリーシュ氏が会計検査院から五人の委員会を組織せしめ、また一九三九年より一九四二年まで調査せしめたにもかかわらず、その清算は完成しなかったのである。
 整理能力も、世紀の初めよりは半減していた。カードの配布も非常に後れていた。それは各課が、各々独立の目録と函架と索引の伝統をもっていたからであった。

 マックリーシュ氏は、これ等の批判をするべく小委員会を組織した。この委員会は、五カ年営々とキタンなく批判し、それは極秘にされて、マックリーシュ氏の手許に握りしめられていた。
 整理が受入れに追付けないこと、立法リファレンスに専門家が欠けていること、図書館員の俸給が甚だしく低いこと、行政手腕のある職員が欠けていること等々の結論は、マックリーシュ氏の胸の中に、深い傷としてえりこまれたのである。
 そこで彼は、副館長のもとに、整理の全組織を統一せしめる大手術を加えた。そして、事務局の理事に有能の士ベルナール・クラップ氏(現副館長)を据えて、全体を精密機械の如く組織化したのである。
 かくして、全く面目一新して、「この戦いに勝ったのは国会図書館の能率化にある」と人をしていわしめる、集団組織にまとめあげていったのである。

 顧みれば、遠く我が館の組織も、このマックリーシュ氏の汗の代償の結論としての組織の上に成立しているというべきである。来日の四年前、この機能化の努力の真只中にあったクラップ氏が、図書館協会のブラウン氏と共に協力せられて、我が国立国会図書館は出来上ったのである。
 この苦しみの中に夢みられ、更に発展したのが、未だ米国国会図書館の組織にもない「支部図書館」の機構にほかならない。より大いなる組織化へのスローガンの発展の結論として、我が支部図書館は生まれ出たものである。
 マックリーシュ氏の歩みのあとを辿ってつきすすめば、その靴跡は、真直ぐにわれわれの上に、太平洋を越えて続いていると、私は深い感慨とともに思わずにいられない。

底本:「論理とその実践――組織論から図書館像へ――」てんびん社
   1972(昭和47)年11月20日第1刷発行
   1976(昭和51)年3月20日第2刷発行
初出:「びぶろす」
   1950(昭和25)年2月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2008年1月26日作成
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