昨日・今日・明日

 当時の言い方に従えば、○○県の○○海岸にある第○○高射砲隊のイ隊長は、連日酒をくらって、部下を相手にくだを巻き、○○名の部下は一人残らず軍隊ぎらいになってしまった。
 彼は蓄音機という綽名を持ち、一年三百六十五日、一日も欠かさず、お前たちの生命は俺のものだという意味の、愚劣な、そしてその埋め合わせといわん許りに長ったらしい、同じ演説を、朝夕二回ずつ呶鳴り散らして、年中声が涸れ、浪花節語りのように咽を悪くし、十分毎にペッペッと痰を吐き散らしていた。が、彼は部下の顔を痰壺の代りに使うという厄介な病気を持っていた。もっとも、彼が部下の顔へ痰をひっ掛けるのは、機嫌のわるい時に限っていた。が、彼には機嫌の良い時は殆んどなかったから、彼の不幸な部下の中で「蓄音機の痰壺」になることを免れた幸福な兵隊は一人もいなかった。
 なお、彼は部下の顔を痰壺にする代りに、その痰壺の掃除をしてやるといわん許りに、彼の手を部下の顔へ持って行ったが、しかしその掃除のやり方は少し投げやりで乱暴であったから、かなり大きな音を立てた。彼は祭りの太鼓の音のように、この音が気に入っていたらしく、彼自身太鼓たたきになったような気になったのか、この音楽的情熱を満足させるために、鼻血が出るまで打ち続けるのであった。
 そして、この太鼓打ちの運動で腹の工合が良くなるのか、彼は馬のようにくらった。鯨のように飲んだのは勿論である。
 もっとも、彼は部下の余興を見なければ、酒が咽へ通らないという奇病を持っていたから、その鯨のような飲酒欲を満足させるためには、兵隊たちは常に自分の隠し芸をそれぞれストックして置く必要があった。
 余興の中で、隊長を喜ばせるのは、何といってもまず浪花節であった。
「浪花節をやれ、浪花節だ。浪花節をやらんか。何ッ? やれない。貴様のような奴は兵隊の屑だぞ!」
 そして、隊長は浪花節はおろか何一つ隠し芸のない彼の所謂「兵隊の屑」には、
「何にも出来んけりゃ、逆立ちして歩いてみろ!」
 と、命じたが、彼に言わせると、
「浪花節は上手な程よろしい。逆立ちは下手な程よろしい」
 隊で逆立ちの一番下手なのは、大学出の白崎恭助一等兵だったから、白崎は落語家出身で浪花節の巧い赤井新次一等兵と共に、常に隊長の酒の肴になっていた。
 おかげで、白崎は大学で覚えたことをすっかり忘れてしまうくらい、毎日逆立ちをやらされ、赤井は本職の落語を忘れてしまうくらい、毎日浪花節を唸らされて、いわば隊長の肴になるために、応召したようなものであった。
 しかし、彼等は隊長の酒の肴になるためにのみ応召したのではない。――というのは、つまり隊長に言わせれば、
「お前たちは俺の酒の肴になると同時に、俺の酒の肴の徴発もしなければならんぞ」
 という意味なのである。
 言いかえれば、赤井、白崎の二人は、浪花節、逆立ちを或いは上手に或いは下手に隊長の前でやって見せると共に、外出時間を貰って、鶏、牛肉、魚などの徴発をして来なければ、一人前の兵隊とは言えない、というわけである。
 その日、隊長は鶏のスキ焼きをしたいと思った。
 隊長がそう思ったということは、即ち地球から鶏が姿を消してしまわない限り、赤井、白崎の両名はその欲すると欲せざるとを問わず、唐天竺までも鶏を探し出して来なければならないということと同じである。
 そして、そのことはまた、もし二人が隊長の定めた時間内に、鶏を持参して帰らなければ、
「鶏の徴発が出来んとは、貴様はそれでも日本軍人か、いやしくも日本の軍人である限り、百姓どもは喜んで鶏を提出する筈だ。――さては貴様らは俺に鶏を食べさすまいとして、わざと徴発して来なかったのだな」
 という言葉の終らぬ内に、例の「痰壺の掃除」乃至「祭りの太鼓打ち」がはじまり、下手すると半殺しの目に会わされるだろうということと、全く同じことを意味するのである。二タス二ガ四ニ相等シイのと同じように「隊長ハ鶏ノスキ焼キガ食ベタイ」「二人ハ鶏ノ徴発ニ赴カネバナラヌ」「徴発出来ナケレバ半殺シニナル」という三つの意味は相等しいのである。
「二時間以内だッ」
 この命令に押し飛ばされて、二人はゴムマリのように隊を飛び出すと、泡を食って農家をかけずり廻った。
 ところが、二人はもともと万年一等兵であった。その証拠には浪花節が上手でも、逆立ちが下手でも、とにかく兵隊としての要領の拙さでは逕庭がなかった。ことに命令されたことをテキパキ実行できないというへまさ加減では、この二人に並ぶ者はない。おまけに兵隊にあるまじいことには、兵隊につきものの厚かましさが欠けていた。
 このような二人には、だから鶏の徴発は頗るむずかしかった。が、よしんば二人が要領のよい厚かましい兵隊であったところで、隊長の酒の肴を供出するような農民は昭和二十年の八月にはもういなかった。
「こんなスカタンな、滅茶苦茶な戦争されて、一時間のちの命もわからんようなことにされながら、いくら兵隊さんにでも、へいと言って出せるもんですか」
 そう言われると、二人は、
「自分たちもそう思います」
 と、うっかり(というより寧ろ本心から)そう答えてしまい、これでは手ぶらで帰るより仕方がなかった。
 しかし、聴けば、たった一軒、兵隊さんになら、どんなことでも喜んできくという「兵隊きちがい」の松尾という家があるという。
 二人は早速いそいそと松尾家を訪問した。ところが、
「鶏ですか。惜しいことをしましたよ。あればお安いことなんですが、うちに一羽残っていた奴を今さきつぶしてしまった所なんですよ。一足違いでしたよ」
 という返事である。
 しょんぼりと松尾家の玄関を出ると、
「どうせ、こんなことだろうと思った」
 と、白崎は赤井の顔を見ながら、苦笑した。白崎はかねがね、
「俺はいつも何々しようとした途端に、必ず際どい所で故障がはいるのだ」
 と、言っており、何か自分の運命というものに諦めをつけていたのである。
 やがて二人はとぼとぼ帰って行った。暮れにくい夏の日もいつか暮れて行き、落日の最後の明りが西の空に沈んでしまうと、夜がするすると落ちて来た。
 急いで帰らねば、外出時間が切れてしまう。しかし、このまま手ぶらで帰れば、咽から手の出るほどスキ焼きを待ちこがれている隊長の手が、狂暴に動き出して、半殺しの目に会わされるだろうことは地球が、まるい事実よりも明らかである。
 そう思うと、二人の足は自然渋って来た。
「撲られに帰るのに、あわてて帰る奴がいるものか」
 しかし急がねば遅れる。遅れたが最後無事には済むまい。
「脱走したくなるのはこんな時だなア」
 降るような星空を仰いで、白崎は呟いた。
「ほんまに、そやなア」
 赤井は隊の外へ出ると、大阪弁が出た。
「――しやけど、脱走したら非国民やなア」
「うん。しかし、蓄音機の前で浪花節を唸ったり逆立ちをしたり、徴発に廻ったりするのが立派な国民というわけでもないだろう」
「そない言ったら、そやなア」
「しかし、何だか脱走はいやだなア。卑怯だよ、第一……」
「ほな、撲られに帰るいうのやなア」
「いや」
 と、白崎は急に眼を光らせて、
「撲りに帰る」
「えっ、誰をや」
「蓄音機さ」
 白崎は古綿を千切って捨てるように言った。
「蓄音機に撲られるより、蓄音機を撲る方が気が利いてるよ。あの蓄音機め、こわしてやる。脱走よりは男らしいよ」
「えっ? 本まか?」
 赤井は思わず白崎の横顔を覗きこんだ。
「本まや」
 と、白崎も大阪弁をつかって、微笑した。
「――あの蓄音機は、士官学校を出て軍人を職業として選んだというただそれだけのことを、特権として、人間が人間に与え得る最大の侮辱を俺たちに与えながら、神様よりも威張ってやがる。おまけに、勝って威張るのは月並みで面白くないというので負けそうになってから、ますます威張り出しやがった。負けながら威張るのが、最大の威張り方だと、やに下っているんだろう。もっとも戦局がこうなって来れば、もう威張るよりほかに、存在の示し方がないと思ってるんだろう。――俺は兵隊として、蓄音機の侮辱を我慢するが、人間としてもう我慢できない。赤井、君は我慢できるか」
「いや、出来ん。あいつは、今日半日のうちに、俺のことを、七通りの呼び方で呼びやがった。「おい、屑!」「おい、蠅!」「おい、南京虫!」「おい、蛆虫!」「おい、しらみ!」「おい、百足!」「おい、豚!」――何をぬかしやがるんや。俺が豚やったら、あいつは、豚もあいつを見たら反吐をはく現糞の悪い奴ちゃ」
 ひょうきんな、落語家らしい言い方だったが、言っているうちに、赤井も次第に昂奮して来て、
「白崎はん、あんた蓄音機を撲るんやったら、俺も撲る! さア、行きまひょ。撲りに」
「よし、行こう!」
 二人は血相を変えて、隊へ帰って行った。そして、隊長の部屋へ、ものも言わずにはいって行った。
 が、隊長はいなかった。
「おい、隊長はどこだッ? 隊長はどこだッ? 蓄音機はどこだッ?」
「蓄音機は司令部へ行ったぜ」
 と、若い当番兵が答えた。
「今、司令部から電話掛って来て、あわてて駈けつけて行きやがった。赤鬼みたいに酔っぱらっとったが、出て行く時は青鬼みたいに青うなっとったぜ。どうやら、日本は降伏するらしい。明日の正午に、重大放送があるということだ」
「えっ? 降伏……? 赤鬼が青鬼になった……? ふーん」
 白崎は思わず唸ったが、やがて昂奮が静まって来ると、がっくりしたように、
「俺はいつも何々しようとした途端に、必ず際どい所で故障がはいるんだ」
 と、呟いた。

 復員列車といおうか、買い出し列車といおうか、汽車は震災当時の避難列車を思わせるような混み方であった。
 一本の足を一寸動かすだけでも、一日の配給量の半分のカロリーが消耗されるくらいの努力が要り、便所へも行けず、窓以外には出入口はないのも同然であった。
 その位混むと、乗客は次第に人間らしい感覚を失って、自然動物的な感覚になって、浅ましくわめき散らすのだったが、わずかに人間的な感覚といえば、何となくみじめな想いと、そして突如として肚の底からこみ上げて来る得体の知れない何ものかに対する得体の知れぬ怒りであろうか。
 そんな混雑した汽車の片隅に、白崎と赤井の二人は、しょんぼりと浮かぬ顔でうずくまっていた。
 汽車が沼津へ着いた時である。
「お願いです。この窓あけて下さいません?」
 焼跡らしい、みすぼらしいプラットホームで、一人の若い洋装の女が、おずおずと、しかし必死に白崎のいる窓を敲いた。
「窓から乗るんですか」
 と、白崎は窓をあけた。
「ええ」
 彼はほっとしたのだった。どこの窓も、これ以上の混雑をいやがって、乗客のために明けてやろうとしなかったのだ。
「大丈夫ですか。はいれますか。――じゃ、荷物を先に入れなさい」
 荷物を先に受け取って、それから窓にしがみついた女の腕を、白崎はひきずり上げた。びっくりするような柔かい感触だった。
 女の身体が車内へはいったのと、汽車が動きだしたのと同時だった。
「どうもありがとうございました」
「いや、しかし、勇敢ですな」
「でも、窓からでないと……。プラットホームで五時間も立ち往生してましたわ。おかげで……」
「しかし、驚きましたなア。もっともロミオとジュリエットは窓から……」
 と、言いかけて、白崎は赧くなっている女の顔を見て、おやっと思った。その美しさにびっくりしたのではない。いや、はにかんで眼を伏せると、長い睫毛が濡れたように瞼にかぶさって、まるで眠っているように見えるその美しさには、勿論どきんとしたが、しかし、それよりも。
「あのウ、失礼ですが、あなたはいつか僕らの隊へ、歌の慰問に来て下すった方ではないでしょうか」
「はあ……?」
 半分かしげた首で、すぐうなずいたが、急にぱっと眼を輝かせると、
「あッ、高射砲陣地、想い出しましたわ。あなたは……」
 彼女は「妻を娶らば才たけて、みめ美わしく情けあり、友を選ばば書を読みて、六分の侠気、四分の熱……」という歌を歌い終った時、いきなり、
「今の歌もう一度歌って下さい」
 と叫んだ兵隊が、この人だと思いだしたのである。
 そのことを言うと、白崎は頭をかいて、
「いやア、実は僕は元来歌というものが余り好きじゃないんですが、あの歌は僕の高等学校の寮歌だったもんですから、ついなつかしくって……」
「あら、じゃ、学校は京都でしたの」
「ええ、三高です」
 と、いうと、なつかしそうに、
「私、京都ですの。沼津の田舎へ疎開していたのですけど、これから……」
「京都へ……?」
「ええ」
 じゃ、自分たちは大阪までだから、京都まで話が出来ると思うと、白崎は何かほのぼのとたのしかったが、ふと、赤井が二人の話ののけ者になっているのに気がついたので、
「ところで、あの時、あなたのあとで、落語をやった男がいるでしょう? ――この赤井君です」
 と、紹介した。
「どうぞ、御ひいきに――」
 ペコンと、ひょうきんな恰好で頭を下げたが、しかし、どこか赤井の顔は寂しそうだった。これから大阪へ帰っても、果して妻や子は無事に迎えてくれるだろうかと、消息の絶えている妻子のことを案じているせいかも知れなかった。
 そう思うと、白崎の眉はふと曇ったが、やがてまた彼女と語っている内に、何か晴々とした表情になって来た。
 だから、京都までの時間は直ぐ経ってしまった。
 山科トンネルを過ぎると、京都であった。そのトンネルの長さも、白崎にはあっという間に過ぎてしまう短かさであった。
 汽車の中は、依然として混雑を極めていた。彼女はやはり窓から降りなければならなかった。
「大丈夫ですか。降りる方がむつかしいですよ」
「でも、やってみます。荷物お願いします」
 彼女は窓の上に手を掛けて、機械体操の要領で足をそろえて窓の外へ出そうとした。
「あッ、危い!」
 彼女の手が窓からはなれようとした途端、白崎はうしろから抱きかかえた。オーバの上からだったが、彼女の肌の柔かさと、体温がじかに触れるような気がして、白崎の手はやけどをしたような熱さにしびれた。
 あわてて手を離した時、彼女の身体は巧くプラットホームの上へ辷り落ちていた。
「どうも、ありがとうございました」
「いやあ、――あ、荷物、荷物……」
 赤井と二人掛りで渡して、
「これだけですか」
「はあ、どうも……」
「じゃ、気をつけて、ごきげんよう」
「ごきげんよう、どうもいろいろと……」
 頭を下げたが、しかし彼女は立ち去ろうとしなかった。
「どうぞもう……。御遠慮なく……。市電がなくなるといけませんから」
 もう夜の十時十八分であった。
「でも、あと二分ですから、見送らせていただきますわ」
 時計を見て、言った。発車は十時二十分である。
「二分か。この二分の間に、俺は何か言わねばならない」
 と、白崎はひそかに呟いた。
「――しかし、何を言えばいいんだろう。いや、俺の言いたいことって一体何だろう」
 そう呟きながら、白崎はホームに立っている彼女の顔をしみじみと見た。その匂うばかりの美しさ!
「しかし、奇遇でしたね」
 と、思わず白崎は言った。
「――おかげで退屈しないで済みました。汽車の旅って奴は、誰とでもいい、道連れはないよりあった方がいいもんですなア。どんないやな奴でも、道連れがいないよりあった方がいい」
「あらッ、じゃ、私はそのいやな奴ですの?」
「いや、そんなわけでは……。いや、断じて……」
「べつに構いませんわ」
 白崎が狼狽しているので、彼女はふっと微笑した。すると、白崎はますます狼狽して、
「困ったなア。いや、けっしていやな奴では……。いや、全くいい道連れでしたよ。しかし、思えば不思議ですね。元来、僕は音痴で、小学校からずっと唱歌は四点で、今でも満足に歌える歌は一つもありません。その僕が声楽家のあなたと道連れになるなんて……。いや、実際ひどい音痴でしてね。だから歌は余り好きな方じゃなかったんですよ。いや、むしろ大きらいな方なんですよ」
 言っているうちに、白崎は、ああ俺は何てへまなことを言ってるんだろうと、げっそりした。だから、すぐ、
「しかし、今は歌が……」
 好きになりましたよと言い掛けた途端、発車のベルが鳴り、そして汽笛の響きが言葉を消してしまった。
 そして、汽車が動きだした。
「さよなら」
「さよなら」
 白崎は、ああ、俺は最後に一番まずいことを言ってしまった。俺はいつも何々しようとした途端に、必ず際どい所で故障がはいる! と、がっかりしながら、しかし何か甘い気持が残った。
 彼女の姿はやがて見えなくなった。
 白崎はやっと窓から首をひっ込めて、そしてひょいと足許を見た途端、
「おやッ! このトランクは……?」
「あッ、あの娘さんのや」
 と、赤井もびっくりしたような声を出した。
「渡すのを忘れたんだ。君、あの人の名前知ってる?」
「いや、知らん。あんたが知らんもん、俺が知る道理がないやろ」
「それもそうだな。そう言えばたしかに、トランクを渡すのを忘れたのはうかつだったが、名前をきくのを忘れたのも、うかつだったな」
 白崎はそう呟いた。
 やがて、汽車が大阪駅につくと、白崎は赤井と別れて上本町のわが家に帰って行った。
 ところが、帰ってみると、かつてのわが家の姿はもうそこになく、バラックの入口に「白崎」という申訳の表札の文字が、鈍い裸電燈の明りに、わずかにそれと読めた。
「やあ、うちもやられたんですか」
「やられたよ。田舎へ引っ込もうと思ったんだが、お前が帰って来てうろうろすると可哀想だと思ったから、とにかく建てて置いたよ」
 それが、父一人子一人の、久し振りの挨拶だった。
「荷物はそれだけか」
「少ないでしょう?」
「いや、多い。多すぎる。どうも近所に体裁が悪いよ。もっとも近所といっても、焼跡ばかしだが……」
「そう言われるだろうと思って、大阪駅の浮浪者に、毛布だとか米だとかパンだとか、相当くれてやって来たんですよ」
「ほう、そいつは殊勝だ」
「もっとも市電がなかったので、背中の荷を軽くしなければ焼跡を歩いて帰れませんからね」
「そんなことだろうと思ったよ。しかし、ついでにそのトランクもくれてやって来たのなら、なお良かったんだが……」
「いや、これはだめですよ。こりゃ僕のじゃありませんからね」
「じゃ、誰のだ」
「あはは……」
「変な笑い方をするなよ。あはは……。何だか胸に一物、背中に荷物ってとこかな。あはは……」
「あはは……」
 父子は愉快そうに笑っていた。
 丁度その頃、赤井は南炭屋町の焼跡にしょんぼり佇んでいた。
 かつて、わが家のあったのは、この路地の中だと、さすがに見当はついたが、しかし、わが家の姿は勿論、妻や子の姿は、どこへ消えてしまったのか、まるで見当がつかなかった。
 眼の底が次第に白く更け、白い風が白く走る寒々とした焼跡に、赤井はちょぼんと佇んでいたが、やがてとぼとぼと歩きだした。が、どこへ行こうとするのか、妻子を探す当てもなく、また、今夜の宿を借りる当てもない。
 当てもないままに、赤井はひょこひょことさまようていたが、やがて耳の千切れるような寒さにたまりかねたのか、わずかの温みを求めて、足は自然に難波駅の地下鉄の構内に向いた。
 そして構内に蠢いている浮浪者の群れの中にはいった赤井は、背中に背負っていた毛布をおろしてその中にくるまると、ごろりと横になった。すると、かたわらに顫えていた十位の女の子が、
「おっちゃん、うちも中イ入れて」
 と、寄って来た。
「よっしゃ、はいりイ。寒いのンか。さア、はいりイ」
「おおけに、ああ、温いわ。――おっちゃん、うちおなかペコペコや」
「おっさんもペコペコや。パン食べよか」
「おっちゃん、パン持ったはるのン?」
「うん。持ってるぜ」
「ああ、ほんまに。うちに一口だけ噛らせて」
「一口だけ言わんと、ぎょうさん(沢山)食べ!」
 ほろりとした声になった。女の子は夢中になって、ガツガツと食べると、
「おっちゃん、うちミネちゃん言うねん。年は九つ」
 いじらしい許りの自己紹介だった。
「ふーん。ミネちゃんのお父つぁんやお母はんは……?」
 きくと、ミネ子はわっと泣きだした。
「判った、判った。もう泣きな、泣きな。ミネちゃんが泣くと、おっさんまで泣きとなる」
 しかし、なかなか泣きやまなかった。
「難儀やなア。もう泣きな。おっさんが今おもろい話聴かしたるさかい、涙拭いて聴きや」
 そして、小声で落語を語りだすと、ミネ子ははじめ面白そうに聴いていたが、しかし直ぐシクシクと泣きだした。赤井の声も次第に涙を帯びて来て、半泣きの声になり、もうあとが続かなかった。そんな心の底に、生死もわからぬ妻子のことがあった。
「おい、巧いぞ。もっとやってくれ」
 浮浪者の中から、声が来た。
「阿呆いえ。そんな殺生な注文があるか。こんな時に、落語やれいうのは、葬式の日にヤッチョロマカセを踊れいうより、殺生やぜ」
 言いながら、涕き声になると、ひしとミネ子を抱きしめて、
「ミネちゃん、おっさんの子になるか」
「なる。おっちゃん、ミネちゃんのお父ちゃんやな。ほな、ミネちゃんのお母ちゃんは……?」
「…………」
 赤井は鉛のように寂しくだまっていた。眼の奥がじーんと熱くなり、そして、かつての落語家の頬をポトリと伝う涙は、この子の母親になる筈の自分の妻と、そしてこの子のきょうだいになる筈の自分の子を、明日はどこへ探しに行けば良いのかという頼り無さだった。
 夜が明けると、赤井はミネ子と二人で、大阪中を歩きまわった。
 一方、白崎も何となくそわそわと探したい人があった。が、その人は京都に住んでいる声楽家だというだけで、まるで見当がつかなかった。
 そして、月日が流れた。

 大阪駅の前に、ずらりと並んだ靴磨きの群れ、その中に赤井はミネ子とささやかな靴磨きの店を張っていた。
 大阪中の寄席は殆んど焼けてしまっていたので、二流の落語家の赤井にはもう稼げる寄席はなかったし、よしんば寄席があっても、もう落語は語りたくなかった。だから、二人の口を糊するには、靴磨きにでもなるか、市電の切符を売って歩くかの二つだった。靴磨きは、隊におった時毎日上官の靴を磨かされていたので、経験がある。一つには、大阪で一番雑閙のはげしい駅前におれば、ひょっとして妻子にめぐり会えるかも知れないという淡い望みもあった。
 ある日、いつものように駅前にうずくまっていると、いきなりぬっと横柄に靴を出した男がある。
「へい」
 と、磨きだして、ひょいとその客の顔を見上げた途端、赤井はいきなり起ち上って、手にしていたブラシで、その客の顔を撲った。かつての隊長だったのだ。
「おい、何をするか。乱暴な」
 隊長は驚いたが、
「あッ、貴様は赤井だな」
 と判ると、いきなり胸倉を掴んだ。
「おや、やる気やな。面白い! 撲れるものなら撲ってみろ! しかし、言っとくが、もし、俺の身体に指一本でも触れてみやがれ……」
 赤井は、なんだ、なんだと集まって来た弥次馬を見廻しながら、
「この人達に、貴様が戦争の終った日に、何と何とをトラックで運ばせたか、一部始終ばらしたるぞ!」
 そう言うと、隊長は思わず真赧になって、唸っていたが、やがて、
「覚えとれ!」
 そして、そわそわと逃げるように立ち去った。顔に靴墨の跡を残したまま。
「阿呆! 貴様のような阿呆のこと、いつまでも覚えてられるか。あはは……」
 赤井はサバサバとした笑いを、久し振りに笑った。
 やがて、一日の仕事が終って、日が暮れると、赤井はミネ子の手をひいて、南炭屋町のわが家の焼跡に作った壕舎へ帰って行った。
 昼間の出来事で溜飲は下がったものの、しかし、夜の道は暗く寂しく、妻や子は死んでいるのか生きているのかと思えば、足は自然重かった。
 途中にあるバラックから灯が洩れ、ラジオの歌が聴こえていた。
「あ、ラジオが聴こえてる」
 と、ミネ子は立ち停った。歌は「荒城の月」だった。
 ミネ子のつきあいで聴いているうちに、赤井はふと、
「聴いたような声やな」
 と、さすがに声の商売だけに、敏感だった。
「あッ、そうや。慰問で聴いた歌や」
 そう判った途端、赤井は何思ったかミネ子の手をひっぱって、大阪の放送局のある馬場町の方へかけ出して行った。
 丁度その頃、白崎もその放送を聴いていた。バラックにはもう、ラジオも電話もついていたのだ。父が声を掛けた。
「おい、第二放送に変えようか」
「いや、この方がいいですよ」
「歌はきらいだった筈だが……」
「あはは……」
 他愛なく笑って、「荒城の月」を聴いていたが、急に、
「お父さん、今日の新聞は……?」
「お前の膝の上だ」
「あッ、そうか」
 頭に手を当てて、膝の上を見て、ラジオ欄の「独唱と管弦楽、杉山節子、伴奏大阪放管」という所を見ると、
「杉山節子……? そうだ、たしかそんな名前だった。大阪放管? じゃ、大阪からの放送だ」
 と、呟いていたが、やがてそわそわと起ち上って、電話を掛けに行った。
「……もしもし、放送局ですか。実は今放送しておられる杉山節子さんに急用なんですが、電話口へ呼んで下さいませんか」
「うふふ……」
 交換手は笑って、
「放送中の人を、電話口に呼べませんよ」
「あッ、なるほど、こりゃうっかりしてました。もしもし、じゃ、杉山さんにお言伝けを……。あ、もしもし、話し中……。えっ? 電熱器を百台……? えっ? 何ですって? 梅田新道の事務所へ届けてくれ? もしもし、放送局へ掛けてるんですよ、こちらは……。えっ? 莫迦野郎? 何っ? 何が莫迦野郎だ?」
 混線していた。
「ああ、俺はいつも何々しようとした途端、必ず際どい所で故障がはいるのだ」
 と、がっかりしながら、電話を切ると、暫らくぽかんと突っ立っていたが、やがて何思ったのか、あわててトランクを手にすると、そわそわと出て行った。
 ノッポの大股で、上本町から馬場町まですぐだった。
 放送局の受付へかけつけた時、
「やあ。白崎はん、あんたも来やはりましたか」
 声を掛けたのは、赤井だった。
「やア。到頭トランクの主が見つかった」
 一階の第一スタジオの前のホールで放送の済むのを待っていると、階段を降りて来た演芸係長の佐川が、赤井を見つけて、
「おやッ、珍らしい。赤団治さんじゃありませんか」
 と、寄って来た。色の白い、上品な佐川の顔や、どこか済まし込んだその物の言い方には、赤井はさすがに記憶があった。
「やア、その節はいろいろと……」
 赤井は応召前、佐川の世話で二三度放送したことがあった。
「もう、落語はおやりにならないんでやすか」
「へえ。もうさっぱりやめました。やる気になれまへんねッ」
「はあ、そうでやすか。しかし、惜しいですな。どうです、一度放送してみませんか。新作ものを一つ……」
 仕事に熱心な佐川は、新しい芸人を見つけると、貪欲な企画熱をあげるのだった。頼み方はおだやかだが、自分の企画に悦に入っている執拗さがあった。
「いや、お言葉はありがたく頂戴しまっけど、どうも、人を笑わすいう気になれまへんので……」
 赤井がそう断ると、傍で聴いていた白崎はいきなり、
「君、やり給え! 第一、僕や君が今日の放送であのトランクの主を見つけて、かけつけて来たように、君の放送を聴いて、どこかにいる君の奥さんやお子さんが、君に会いにかけつけて来るかも知れないぜ」
 そう言うと、赤井の眼は急に生々と輝いた。
「それもそやなア。ほな、一つ佐川さんにお願いしまひょかな」
「そうでやすか。じゃ、上へ行って打ち合わせましょう」
 赤井とミネ子が四階の演芸部の部屋へ上って行くのと同時に、杉山節子が第一スタジオから出て来た。
「やア」
「あらッ」
「トランク持って来ました」
「まア」
 節子は思わず白崎の手を握った。甘い歌を歌ったあとなので、そんな動作が自然に出たのだろうか。たしかに仕事のあとで昂奮していた。節子は生々と頬を染めながら、
「このトランクには、音楽会に要るイブニングや楽譜がはいってましたの。これから、音楽会へも出られますわ。ほんとうに、ありがとうございました。ほんとにお世話ばかし掛けて……」
「いやア。お礼いわれるほどの……。第一、僕が京都駅でうっかりしてたのが悪かったのですよ。しかし、もし僕にお礼して下さるのなら、これからあなたの音楽会の切符を送って下さいませんか。僕はそそっかしいので、あなたの音楽会の広告が出ていても、うっかり見逃しそうですから……」
「はあ。でも、歌はおきらいなのでしょう?」
 微笑していた。
「いや、あれは取消しです。速記録から除いて貰いましょう。本員の失言でした」
「まア」
「あはは……。僕いま、親父の出している変てこな雑誌の編集を手伝っていて、実は音楽どころじゃないんです」と、白崎はまたまずいことを言いだしたが、しかし、あわてて、
「――でも、切符送って下されば、どんなに忙しくても聴きに行きますよ」
 どうやら、あなたのせいで歌が好きになりましたと、やっと甘い言葉が言えて、ほっとしたが、全身汗だらけだった。
 それから、二週間のちの夜、赤井の新作落語が放送された。
 第五スタジオの控室で、放送開始時間を待っていると、給仕が、
「赤団治さんに御面会です。お宅の奥さんが受付へ来ておられます」と、知らせに来た。
「えっ、女房が……? 新聞を見て来よったんやろか。すぐ行きます。おおけに……」
 飛び上って出て行こうとすると、佐川が、
「赤団治さん、そろそろ放送時間です」
 と、停めた。
 赤井はやがて、傍にいた白崎が、
「何々しようとした途端に、際どい所で故障がはいるのは、俺だけじゃなかったな」
 と言う言葉を背中に聴きながら、放送室へはいって行った。

底本:「定本織田作之助全集 第五巻」文泉堂出版
   1976(昭和51)年4月25日発行
   1995(平成7)年3月20日第3版発行
初出:「キング 三月号」
   1946(昭和21)年3月
入力:桃沢まり
校正:小林繁雄
2007年4月13日作成
2011年6月20日修正
青空文庫作成ファイル:
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