父親も街子も、ほんとに幸福そうでありました。
何よりも好いことに、街子は父親の仕事を好きなばかりでなく、父親の技倆を尊敬さえしていたことです。
ところが街子にとって、容易ならぬ悲みが一つ出来たのであります。それは稲荷様の祭の日のことでありました。毎年の習で、ことしも稲荷様の境内から町内の掛行燈の絵は、みんな街子の父親が描いたのです。地口行燈と言って、おどけた絵に川柳など添えてかいてあるもので、通る人は一つずつそれをよんで見て喜んでいました。仕立おろしのセルをすらりときた若い奥様に、「どうだ、愉快だね。こんな風な絵は国宝だよ」そう言って見てゆく旦那様もありました。
街子はそれをきいてこのうえもなく幸福で、「それはあたしの父さんが描いたんですよ」そう言いたいほどでした。
ところが街子とおんなじ年に小学校を出て、いまは女学校へ上っているお友達が三人、やはり地口行燈のまえに立っていました。街子はなつかしくて傍へよってゆきました。するとその時、三人はどっと笑い出しました。
「なんて古くさい絵でしょう」
「馬鹿にしてるわ」
「この眼はどうでしょう」
そんなことを言いながらまたころげるように笑っていました。
それを聞いた哀れな街子は、人の影へかくれるようにしながら、家の方へ駈け出しました。それが街子の最初の悲みでありました。
底本:「童話集 春」小学館文庫、小学館
2004(平成16)年8月1日初版第1刷発行
底本の親本:「童話 春」研究社
1926(大正15)年12月
入力:noir
校正:noriko saito
2006年7月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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