(明治二十年二月十三日[#改行]本會第二十七會ニテ述ブ)
坪井正五郎
MS君は報告第十一号に「コロボックル果シテ北海道ニ住ミシヤ」と題する一編を載せて「此疑問ヲ决定討究スルハ我邦人類學上重要ノ事ト信ズレバ」云々と記されましたが私も左樣に考へますから此事に付いて思ふ所を述べやうと存じます
MS君は北海道の諸地方から出る土器や石器をコロボックルのものとするなら之々の個條をも併せて信じなければならぬだろうとて六個條を連ねられましたが[#「ましたが」は底本では「ましが」]直に一致し難い所が有りまする
第一即ち「コロボックル人種は甞て日本内地ニ蔓延シ信美北越武總羽等ハ其巣窟ナリシコト」と第二即ち「コロボックル人種ハ日本人ト交通セシコト」との二ヶ條はコロボックル論者は何れも信ずる所で有りませうが第三即ち日本歴史上ノ蝦夷ヲ以テコロボックルニ當テザルヲ得ザルコト」とは必しも信ずるには及びますまい否寧信じない有でまり方せう[#「信じない有でまり方せう」はママ]何故と云ふにアイノが蝦夷或は蝦夷の一部で有たとは明な事で有るのに其蝦夷を以てコロボックルで有るとは决して云へない事です、元來蝦夷と云ふ語は所謂東夷と同意に廣くも用ゐ又は東夷の一部分として狹くも用ゐる樣です若しMS君の言はるる蝦夷が廣い意味の蝦夷ならばアイノコロボックルも蝦夷の内と云へますし狹い意味の蝦夷ならばコロボックルは蝦夷でない東夷と云へませう、コロボックルが蝦夷で有ると云ふなら兎も角も「蝦夷ヲ以テコロボックルト見爲サザルヲ得ザルヤ明ナリ」とは解し難ひ言葉です如此譯故第三は削り去るべき事と考ます
第四に「アイノノ祖先は土器石鏃石斧類を使用製造セザリシコト」と有るのを貝塚より出づると同種の土器石鏃石斧云々との意と見て製造と云ふ方へ力を入れれば其一部分は信用すべき事です
第五に「アイノノ祖先ハ穴居セザリシコト」と有るは札幌近傍に有る樣な竪穴に住まざりしとの意とすれば信ずべき事です
次に第六として「野蠻人ノ口碑ヲ慢リ[#「慢リ」はママ]ニ信用スルコト」と有りますが其説明中に「野蠻人ノ口碑ト雖モ事理ニ合スルヲ信用スルモ妨ナシ」云々と記された通り故愈事理に合はざる以上は斯く云ふ可きですが其研究の定らぬ中は別個條として連ぬべき事とは思ひません
MS君は右の六ヶ條を擧げたる次に「一々之ヲ論難シ第二説(貝塚より出づるが如き土器石器はアイノの祖先が造りたりと云ふ説)ノ信ズ可キヲ主張セントス」とて考を記されました
第一と第二の條下には若しも貝塚より出る樣な石器土器をコロボックルのものとするなら是等をも信じなければならないと云ふ事を繰り返へされたまでにて何所が所謂論難やら一向解し兼ねます第三は前に述べた通り故省いて第四に移て見るに「凡ソ人類ノ開化ノ順序ヲ考フルニ未ダ金鐵ノ用ヲ知ラザル時ニ當テハ必ズ石器及粗造ノ土器ヲ使用スルヲ以テ自然ノ理トス」といふを土臺としてアイノも開化人種と交通せぬ時は是等の器物を造たに違ないとの意を述べられました併し乍ら此土臺は慥で有りませうか必ズ語の用ゐる事が出來ませうか植物性の物では木の皮や木の葉を折り重ね綴合せても器が出來ますし椰子の實だの瓢の實だの竹の筒抔も土器の代用品と成ります動物性の物では貝殼や角や頭蓋抔が器と成ります固形物を入れるなら種々の籠細工で足りるでは有りませんかタイラア氏やジョリイ氏は土器を造ることを知る前に斯樣な器を用ゐた事が有たらうと記されました石器に至てはMS君の云はるる通りでせう是私が一部分は信ずると云た所以です既に石器が有れば木を繰拔いて器を作る事も出來て愈土器の必用が減じますアイノは今でこそ小刀を以て木細工をしますが昔は石の利器を以てしたかも知れません多分したで有りませう去らば開化人と交通しない時には自製の木具を用ゐたと考ふるも妨ないでは有りませんか日本人がアイノに與ふる物品に木碗木櫃耳盥の樣な木具の多いのもアイノが古來木具を用ゐたのに基くのかと思はれます
斯く申したらアイノ論者は是前後不揃の説で有る既に當時用ゐない石器を古代に用ゐたとすれば土器も其通り古代に用ゐたとして好いではないかと云はるるかも知れませんが私の申すのは只木細工抔をする一種の利器の事で固より貝塚[#「貝塚」は底本では「具塚」]より出づる諸種の石器一般の事では無く其存亡と土器の存亡とは其輕重の差が有ります
第五の穴居云々は成程或アイノは穴に住んだと云ふことを証しますが其穴と札幌近傍に在る穴と同種だか[#「同種だか」は底本では「同種だが」]どうだか解りませんよしやアイノが似寄りの穴に住んだとてコロボックルの有無に重大な關係は有りません
第六は前に申せし通り故此所には記しません
去らばMS君は或アイノが穴居したと云ふ例を擧げられしまでにて第二説を主張さるる程の根據を示されませんMS君は又コロボックルアイノに逐はれアイノが日本人に逐はれたといふを不都合の樣に記されましたがコロボックルアイノは同時に日本人に接して居たもので日本人はアイノコロボックルを逐ひアイノコロボックルを逐ひ日本人に逐はれたと見れれば差閊ないでは有りませんか既に第二條の所に云た通りコロボックルと日本人と交通した事は信ずべきと思ひます
北海道の諸地方から出る土器石器類の中には内地の物と違て極めて新しく見ゆるのが有りますし宮部金吾氏に從へば彼地の貝塚からは菱の實や蟹の爪抔の出た事が有ります又竪穴は埋り易いものであるのに兎も角も形の存して居るものの多い等の事實によれば是等の遺跡は何れも甚古いものとは思はれません然るにアイノは日本人から器物を獲た爲に或石の利器を失たのみならず石鏃や石榛[#「石榛」はママ]や凹みある石器や壺鉢の類や土偶や土製の飾玉や小版抔の製造或は用法迄も全く失ひ其言ひ傳へを全く忘れて妄説を稱べるとは甚信じ難い事では有りませんか夫よりはコロボックルが住んだと云ふを信ずる方が當然と考へます北海道にアイノならざる人民が居たとすれば渡瀬庄三郎氏の述べられた手宮の彫刻(報告第一卷第八ページ)田内捨六氏の發見されたヲシヨロの環状石籬(報告第一卷第三十ページ)莊司平吉氏の採集された異樣の文字ある器物抔も説明が付き易いでは有りませんか
コロボックル説は未だ証據だてられたのでは有りません只實らしく思はるると云ふばかりです夫故に此事を明にするは甚面白い事で先づ貝塚及び貝塚より出づる諸種の遺物を研究して當時生活の有樣を考へアイノの性質風俗習慣[#「習慣」は底本では「習貫」]を詳にして甞て貝塚及び貝塚より出づる如き物品を製造した痕跡が有るか無いかを慥め貝塚や其中に有る樣な器物の出づる遺跡は北方何所迄有るかを極め今尚是等を作り或は甞て作たと思はるる人民が居るかどうかを探り尋ぬるのが肝要な事で有りまする
近年シャムシュからシコタンへ移した土人は丈が五尺以下で色が白く女は束髮で手に入墨をして居り衣服は男女共にロシヤ風の洋服で有るが住居は竪穴で有るとの事です丈の短いのと竪穴に住むのとはコロボックルに付た口碑に合ひますから細考すべき事と思ひます(MS君はコロボは小と云ふ義と記されましたがチャンバアレーン氏の著されたメモアー)にはコロは蕗の義と有ります去らばコロボクグル或はコロボックルとは蕗の下の人と云ふ意でござります報告第十一號に載せた廣澤安住氏の寄書に童人種と有るも此土人の事でせうが其記事中に「陶器ナドノ如キ今アイノニハ造リ得ザレトモ童人種ハ却テ之ヲ能ク成セリ」と有るは實に研究すべき事で有りまする
身現に北海道に在り或は甞て彼地に趣いてアイノ若くはシャムシュ土人に接したる人々は勿論苟も此大問題に關する事實を知り考説を有する諸君は多少長短を論ぜず續々論辨通知有らん事偏に冀望する所で有りまする
附けて申す、「コロボックル果シテ北海道ニ住ミシヤ」の寄稿者は其論中に「中里村貝塚ノ説ニ於テ論シタレバ」云々と書かれましたから諸君も其誰たるを察しられたでは有りませうがMSの畧字を以て出されました事故此所にもMS君を以て呼びました以後斯かる眞面目の論説には姓名を明記されん事を願ひます

底本:「日本考古学選集 2 坪井正五郎集―上巻」築地書館
   1971(昭和46)年7月20日発行
初出:「東京人類学会報告 2-12」
  1887(明治20)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※変体仮名と仮名の合字、仮名の繰り返し記号は、通常の仮名に書き換えました。
※傍線は底本では該当文字列の左側にあります。
入力:Nana ohbe
校正:しだひろし
2009年2月10日作成
2009年3月12日修正
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