ああ、もう、死んでしまはうか……
 自分の正直さが、といふよりも歌ひたい欲望が、といふよりも酔つてゐたい性情が、強ければ強いだけ、〈頭を上げれば叩かれる〉此の世の中では、損を来たすこととなり、損も今では積り積つて、此のさき生活のあてもなくなりさうになつてゐることを思ふと、死んでしまはうかと思ふより、ほかに仕方もないことであつた。
『どうせ死ぬのなら、僕は戦争に行つて死ぬのならよかつた』と、病床の中から母に語つたといふ、一昨年死んだ弟のことを思ひ出しては、いとほしくて、涙が流れるのであつた。――苦しい受験生活の後で、漸く入学が出来たかと思へば、その年の秋から床に就き、どやどやつと病状が進んで、もう百中九十九迄助からないことが事実になつたのだと思つた弟が、母にさう云つた時には恐らく、私なぞの未だ知らない真実があつたに相違ない。
 弟は、母にだけさう云つたのだし、母も亦弟が死んでしまつてからさう云つたと語つてきかせた。聞いた時には一寸、何故生きてゐるうちに話して呉れなかつたのかと、怨めしい気持がしたが、俯いてゐる母をジツと見てゐると、生きてゐるうちには語りたくなかつたのだと分つた。
 死ぬが死ぬまで、大概の人間が、死ぬのだとは信じ切れないのでこそ、人は生きてゆく所以ゆゑんでもあるのだが、母も亦私も、祖母も亦他の弟達も、死ぬが死ぬまで、死ぬだらうと思ひながらも死ぬのだとは思つてゐなかつたので、いよいよ死んでしまつた時には、悲しみよりもまづ、ホーラ、ホラ/\と、ギヨツとして顔を見合せるといつた気持が湧起つたのだつた。
 秋床に就き、東京の病院に翌年三月迄ゐて、郷里に帰つた。そしてその年の十月二十三日には、不帰の客となつたのだつたが、私は八月初めに帰り、九月八日迄弟の傍にゐた。死ぬにしてもそんなに早く死ぬとは思つてゐなかつたし、案外癒るのだらうとさへ思つてゐた私は、『尿器をとつてくれ』といふ弟の声が、余りにも弱々しい時には腹さへ立てた。
 医者が来ると、母を出して、私は弟の部屋から引込むのであつたが、或る日私は、自分の耳の下の二分ばかり小高くなつた※(「月+俘のつくり」、第4水準2-85-37)はれものを診察して貰はうと思つたので、弟の寝てゐる部屋に出て行つた。
 弟は、私が現れると、私を見て、それから医者の顔を見た。私の下手な挨拶、それでも父のゐない家では、私が戸主なのだから、それにたまにしか帰つて来ない田舎のことだし、私自身は不評判な息子なのだからと思ふと、せいぜい世俗的な丁寧さをもつてくる私の挨拶を見て、弟はあてがはづれたといふ顔をしてゐたし、私自身も一寸恥しくなつた。
 医者は弟から二尺位離れた位置に、聴診器をあてるでもなく、何をするでもなく、坐つて弟を時々視守つてゐた。私はあとで知つたことだが、医者はもう到底駄目だと前々から思つてゐたので、毎日やつて来ては、三十分なり一時間なり、さうして弟の相手になつてやつてゐるのだつた。
 ヂツと医者が弟を視ると、弟は直ぐにその次には、私の顔を見るのであつた。その眼は澄みきつて、レンズのやうで、むしろ生き物のものといふよりは器物きぶつのやうであつた。縁側に吊した金魚鉢か何かのやうに、こはれ易く、庭の緑を映してゐるやうなものであつた。これが自分の弟であらうかと、時偶そんな気持になる程、その眼は弱々しく、自分の眼との間に、不思議な距離が感じられるのであつた。
 いたいたしいなと思ふと、その次にはもうはやく癒ればいいのにと、思ふのは利己の心であつた。
『もつと気持を大きくもつて、少々努めてでも大きい声を出すやうな気持になれば、案外さつさと癒るのだらうとわたくしは思ひますが』と、私は強ひて笑顔を作りながら、弟の顔を伺ひ/\医者に向つて云つた。
『だつてそんなに云つたつてと弟は、医者の顔をチラと見て、私に云つた。『そんな気持になれないのだから仕方がない……』と云つた弟の眼には涙がにじんでゐた。悪かつたと私が思つてゐると、
『いいえいいえ、昂奮なすつちや不可いけません。昂奮なすつちや不可ません』と、私に背を向けたまゝ、医者は弟をなだめすかしてゐるのであつた。
 私と弟との間に暫らく、緊張した沈黙が続いてゐると、医者は振返つて私の方を向いて云つた。
『ですから、弟さんには、何時もお話ししてゐるのです。人は諦めが肝心なのです。誰しも、と云つて医者は急にお経でも誦むやうな気持になつて、一度は死ぬことなのです。さう思つて諦められてですな、ゆつくりした気持でゐられゝば一日でも長く生きてゐられることがお出来なるのです。』
 私はギヨツとして聴いてゐた。話しながら医者が再び弟の方を向いてをり、はじめて云つてゐることではないといふ調子であり、弟がまた、まんざらシラジラと初めて聞くやうな顔も出来ないといつた表情をして、私の方に視線を送つた時には私はギヨツとした。弟の眼は、秘密が露見した時に人がする眼であり、まあそんなことを云つて呉れてはと、周章あわててゐる私を見た時に、弟の眼はタジ/\とした。
 医者はまあ、弟に前々からそんなことを云つて聞かせてゐたのであつたか? だがもうその言葉を、弟から撤回するすべはない……私は何といつてよいか分らなかつた。とりかへしのつかない思ひに、ただただ周章てふためいてゐた。それから尚医者の繰返す所によると、医者はもう、ハツキリと此の病気は癒らないのだからと、もうだいぶ前から云つてゐたのだといふことが、分つた。
 弟はとみると、私に秘してゐたことがすまなかつたといふ気持もまじへて、まじまじとうるんだ眼をして私を見てゐた。『だが別に、かくしてゐたといふわけではない』と、私のする察しが、同時に弟の眼の推移でもあるのであつた時には、私はすみやかに下を向くよりほかはなかつた。
 而も猶、弟は自分の死を信じてゐたであらうか? 否! 誰としてからが、自分の死を、真個信じるといふことは、根本的にはないのである。一般には、此のやうな場合、弟は既に死を信じてゐたものと語られる。而もそれは、約束しておいたから、明日はあの男も喫茶店で待つてゐるであらうといふので、明日あの男は喫茶店にゐるよといふのと同様で、それは猶信じてゐるのではなく、信じたとすることによつて人の世の生活が進展する、たづきたるに過ぎぬ。
『ええ、ええ、と、医者のダミ声は云ふのであつた。平気で、平気で、気持をゆたらかに持たれて……』
『馬鹿ツ!』といふのと同じ顔をして、私は医者の顔に向つた。けれどもその私の顔はまた直ぐに赦罪の顔になり、世間普通のとりつくろひの感情となつた。すると弟は、チラリとその時私を見た。
 さうだ、さうだと、近頃でもその時のことを思ひ出すと、わけても酒をあふつた夜なぞ、独りになると思ふのだ、私はシラジラしい男だ。――人々よ、君等には私をシラジラしい男といふ権利がある!……
 だがまた、これは場違ひな話ではあるが、さうした私の心理の傾きを、或る時は、私がメタフィジックな函数を持ち客観性を失はない所以だと思ふのであつてみれば、そしてそれも亦、まんざら理由のないことでもないのであつてみれば、私はでは、どうした心構へをとればよいのであらうか?
 だからさ、だから『悲しみのみ永遠にして』と、ヴィニィの言ふのは本当だなぞと、考へることは出来るにしても、はやさう考へる段となれば、早くも私の悲しみはゴマ化されてゐるに過ぎない。……
 だから、だから人間は、気狂ひにならないために概念作用を持つてゐる……か。
 さうかさうかだ。だがここに到つて自体考へなぞといふものが、凡そなつちやあゐないものであることを、思はないではゐられない。
『その※(「月+俘のつくり」、第4水準2-85-37)おできは、と医者は席を立たうと思つたかして、私の方に向き直ると云ふのであつた。放つて置かれゝば何時か自然に取れます。手術して取れないこともありませんが、痕跡あとが残りますしそれに、さうお邪魔でもないでせう。』
 弟は私がそれを聞いてる間、ズツと私を視守つてゐた。医者はもう一度弟の方を向き、『ではまた明日みやうにち。お静かにしていらつしやい。』弟は医者の顔をジツと視てゐるだけで、一言も云はなかつた。
 私は何か、心残りであつた。死を観念させられてゐる弟の前で、一寸した※(「月+俘のつくり」、第4水準2-85-37)はれもののことなぞ持出したことはと、そんな気持もするのであつた。
 医者が帰つた後で、うつかりまた耳の下へ手をやつてゐるのを、弟の眼がマジマジとするので気が付いて、急に手を下ろすと、一瞬弟の眼は後悔の色を浮かべるのであつた。暑い日で、扇風器が廻つてゐたが、医者が帰つたので、少しそれをとめてくれと弟は云つた。やがてぐるりと寝返りをうつて、向ふへ向いたが、その時の頬のあたりは、今でも思ひ出すと涙が滲む。

 九月八日の宵であつた。私はその夜の汽車で東京に向けて立つことにしてゐた。弟の寝てゐる蚊帳かやのそばにお膳を出して、私はそこで、グイグイと酒を飲んでゐた。『今度はうんと、勉強すらあ』なぞと、時々蚊帳の中の、よくは見えない弟に対して話しかけながら、私は少々無理にお酒を飲んでゐた。
 それでも今晩立つのだといへば、若々しく、私は東京の下宿屋の有様なぞをも、フト思ひ浮かべたりするのであつた。弟にはさぞ羨しいことだらうと、思つてみては遣瀬やるせないのであつたが、こんな場合にも、猶生活の変化は嬉しいのである。
 だがまた、東京にゐて何時売れるともない原稿を書き、淋くなつては無理酒を飲む、しがない不規則な日々を考へると、ガツカリするのであつた。
 羨しがることはないよ。俺の此の八年間の東京暮しは、かう/\かういふものだと、云つてやらうかとも思つたが、また云ふ気にもなれず、母が聞いては心配するばかりだと、黙つてしまつた。
 そのうちに、なんとも弟の顔が見たくなつたので、蚊帳の中に這入つて行き、『では行つてくるからな』とかなんとか、云つた。
 やがて母が俥が来たと知らせた声に、弟は目をパチリと開けた。『あんまり酒を飲まないやうにしてくれ。』といふなり弟は目をつむり、もう先刻さつきから眠つてゐるもののやうになつた。『ぢや大事に。』けれども弟はそのまゝであつた。目を開けさして、私はもう一度言葉を掛けようと思つた、『泰三、――泰三。』『およしおよし』と蚊帳のそばまで来てゐた母が云つた。私は諦めて蚊帳を出ると、飲み残しの酒を急いで飲んだ。
 駅までの田圃路を俥に揺られながら、私も母の云ふやうに、もう二三日でもゐてやればよかつたと思つた。然し、敢て出て来たといふのは、――つまり何時までさうして弟の傍に、東京に生活(?)のある私がゐるといふことは、もう此の数日来では、弟の死を待つてゐることのやうであつた。死を待つわけもないのだが、私にしても今はもう弟の死を近いことに思つてゐたので、滞在を一日々々と伸ばすことは、今日死ぬか今日死ぬかといふことのやうな気がするのでもあつた。
『此の節は東京はどちらにおいでで』といふ、車夫の、暗がりの水溜りをけ/\云ふ声に、フト私は我に帰つた。『目黒の方だ』と、随分力を入れて答へたのではあつたが、その声はかすれてゐた。俥が揺れるたんびには、今にも涙が落ちさうであつた。

 それから二週間も経つた或る日、下宿の二階で爪を切つてゐると、弟からの手紙が届いた。
『僕は元気だ。昨日と今日は、床のそばに机を出して貰つて、レンブラントの素描を模写した。友達の住所録も、整理した。此の分では直きに、庭くらゐは歩けるやうになるだらう。
 兄さん、僕は元気だ。兄さんもどうぞ元気でゐてくれ。』それから一寸置いて、ちがつた字体で、『やつぱり迷はず和漢の療法を守つてゐればいいのだね。西洋医学なぞクソでもくらへだ』とあつた。
 私は喜んだ。しかしほんとだらうか。だがやつぱり不治なぞといふことはないだらうと、私は猶一縷いちるの望みは消さないで持つてゐたことに、誇りをさへ感じた。秋の日を受けた、弟の部屋の縁側は明るく、痩せ細つた足に足袋を穿いて、机に向つてゐる弟の姿が、庭の松の木や青空なぞと一緒に見えた。
『あれが中日和といふものだつたのでせう』と母は、埋葬を終へた日の宵、私達四人の兄弟がゐる所で云つた。
『中日和つて何』と、せきこんで末の弟は訊いた。
『死ぬ前に、たいがいその一寸前には、気持のいい日があるものなんです。それを中日和。』

 友達を訪ねて、誘ひ出し、豪徳寺の或るカフエーに行つて、ビールを飲んだ。その晩は急に大雨となり、風もひどく、飲んでる最中二度ばかりも停電した。客の少ない晩で、二階にゐるのは、私と友達と二人きりであつた。女給達は、ひまなもので、四五人も私達のそばに来てゐた。そして、てんでに流行歌を、外は風や雨なので、大きい声で唄つてゐた。急に気温が低くなり、私は少々寒くなつたので、やがて私も唄ひ出した。やがてコックが上つて来て、我々の部屋の五つばかりの電灯を、三つも消してゆくと、我等の唄声は、益々大きく乱暴になつてゆくのであつた。
 テーブルも椅子も、バカツ高く、湿つた床は板張りで、四間に五間のその部屋は、うまやのやうな感じがした。
 そこを出て、大降りの中を歩いて、私と友達とは豪徳寺の駅で別れた。ガタガタ慄へながら下宿に帰つて、大急ぎで服を脱いで、十五分もボンやりと部屋の真ン中で煙草を吹かしてゐると、電報が来た。『高村さん電報です』と、下宿のお主婦かみは、何時もながらの植民地帰りの寡婦らしい硬い声で、それでも弟の死だらうと、大概は見当が付いてゐたものとみえ、流石さすがに眼を伏せて、梯子段の中途から、ソツと電報を投込んだ。
『タイザウシス』
 私はその電報を持つて、部屋の真ン中に立つたまゝ、地鳴りでも聞いてゐるやうな恰好で、事実なのだ、これは事実なのだと、声もなく呟いてゐるのであつた。
 時計をみた。十一時二十分であつた。もう汽車はない。明日一番で立たう。
 だがなあ……と悲しい心の隅にはまた、へんに閑のある心があつて、こんなことをも思つてみるのであつた。死んでから急いだつてなんにならう……だがこんなことを考へるのも可笑おかしい、うん、可笑しい。それにしても、――私はまたあらためて思ふのであつた、弟は既に旅立つてゐる。弟はもう此の世のものではないのである!――私は眼を遠くに向けた。硝子障子の向ふには雨戸があつた。もう閉めてゐたのであつた。柱も壁も、何時もどほりであつた、そしてそれはさうであるに違ひなかつた。
 私は同宿人のゐないことが、つまり六畳と三畳二間きりのその二階が私一人のものであることが、どんなに嬉しかつたか知れはしない。存分に悲しむために、私は寝台にもぐつて、頭から毛布をヒツかぶつた。息がつまりさうであつた。が、それがなんであらう、私がビールを飲んでゐる時、弟は最期の苦しみを戦つてゐた!

 火葬やき場からの帰途、それは薄曇りの日であつたが、白つぽい道の上を歩きながら、死んだ弟の次の弟が、訊かれたでもないのに、フト語り始めるのであつた。『泰ちやんは、大きな声で色んなことを云ひ出したよ。医者の奴は、脳にまゐりましたと云つたよ。それから、直ぐに麻痺させる注射をした。……だがあの時は、大きい声で云つたことは、泰ちやんの気象を全く現はしてゐたよ。』『あれあ実際……脳に来たのでもなんでもなかつたんだよ。』とその一つ下の弟は続けて、そつぽを向くのであつた。
『大きい声で何を云つたんだい。』
『それあ』と云つて上の弟は、一寸どれから云はうかとしたのであつた。云へるものか、併し……何か云はう。
『梶川(医者の姓)、おまへは俺を殺す! ……『実際、大きい声だつたよ』と云つて弟は涙をゴマ化すのであつた。
 道は少しのデコボコだつたが、私は前々夜来睡眠をとつてゐなかつたので、僅かのデコボコにも足許がフラフラし、頭もフラフラした。冷たい軽い風のある日で、ワイシャツの袖口あたりに、ウブ毛の風に靡くのが感じられるやうなふうであつたことを記憶してゐる。道に沿つたお寺の、白い塀壁の表面のウス黒い埃りや、そこに書いてあつた〈へのへのもへじ〉なぞも、目に留つてゐて離れない。その塀に沿つた、紙やアブクのヒヨロヒヨロとふるへてゐるドブは、それを見ながら歩くことが嫌ではなかつた。
 焼香の返礼を、私が如何に大真面目に勤めたかは、今考へると滑稽でもある。
 母は、医者の所へは、一番最後にゆつくりと出掛けて行つて、その時はお礼の品も持つて行くのだと吩付いひつけた。『ええ』、とは云つたものの医者の顔をジツクリと思ひ浮べてみるのであつた。

 その日が来た。行つたのは午後の四時頃であつた。その日もやつぱり曇つてゐて、十月末の日はもう、医者の玄関に這入ると仄暗かつた。
 挨拶をすますと、まあ一寸上らないかと云ふ。『ゆつくり弟さんの話でもしませう。』
 偶に帰つて来てゐる、自分の友人(父は生前その医者の友達であつた)の長男は、どんな男だらうかといふ、私に対するイヤな好奇心もあつたのだが、若い患者に、あなたの病気は癒らないのだといふことを何か悟つたことでもあるやうに思つたりする此の田舎医者は、恰度ちやうどその時患者もゐなく、夕飯前の時刻を、ボンヤリしてゐたのであつてみれば、上つて話せといふその言葉も、可なり自然なものであつた。私にしてからが数日来の色々のお勤めが、やつと茲で終りを告げるのであつてみれば、此の町に、今は自分の友人とてもない身の、フラフラツと、久しぶりにゆつくり話さうといふ気にもなつたし又、先に此の医者が死んだ弟にあなたは死ぬんだなぞといつた時、ビツクリさせられた印象が、何か此の田舎医者の中に追求してみたいといふ気持を、漠然と抱かせてゐたので、瞬時躊躇はしたものの、よし、では上つてやらうといふ気を起したのであつた。
『では』と云つて、私が背ろの硝子戸を締めると、医者の奥さんは、ニッコリとした。『獲物がかゝつた……』云つてみればさうなのである。

 更めてまた哀悼の辞を述べた後、此の医者は、私の東京に於ける生活の模様を、何かと訊くのであつた。やがてそれも絶えると、僕は年齢の二十余りも違ふ大人の前にまかり出た青年の、あの後悔を感ずるのであつた。代議士の妾宅であつたその家は、却々なかなか立派であつたので、私は『結構なお住ひです』なぞと、柄にもないことを云つて、又あらたな後悔をするのであつた。
 やがて酒はどうだといふ。私はまだ死んだ弟の仇打をしなければならないと、云つてみればそのやうな気持を、此の医者と対座して以来益々抱いてゐたので、さりとてその緒口も見付からない時であつたので、ええ、戴きますとさう云つた。その云ひ方がやけにまた力を籠めてゐたので、奥さんは医者を見て妙な顔付をした。『うん、持つて来い。』奥さんは酒の仕度に行つた。
 読者よ、何卒なにとぞ茲に見られる私の執拗を咎めないで下さい。お咎めになるまでもなく、私自身かういふ点では十分に罰せられてゐる。しかしそれにしても、もし今後私が少々人物を書き分けることができるとすれば、それは此の執拗を以て、辛いながらも人に接し、小胆なくせに無遠慮でもあるからなのです。
 酔ひが廻るに従つて、私はまた例の如く喋舌りまくしたママ。その私はげにも大馬鹿三太郎であつた。後ではまた慚愧ざんきするのだとも思はないでもないのだが、これが私の人に親炙しんしやしたい気持の満たし方であり又、かくすることによつて私は人になつき、人を多少とも解するのである。その大馬鹿三太郎を抑制することは今、この医者の友人の長男を可笑しきものとしないためには役立つのであるが、自己表現欲、或ひは又智的好奇心のためには、ただただ害があるのである。されば、ままよ。損をすることには馴れてゐる。尠くともお酒が這入つてゐれば、淡白といふか愚かといふか、人が体面をおもんばかつて遠慮するていのことくらゐは、ても眼中にないのである。
 私はそこで、『貴方が弟を到底助からないと信じていらつしやることを知つた後では、看護婦でもいい、卑しい女でもいい、ええ、つまり卑しい女の方がいい、ともかく何等かの点で弟が好きになる女と、忽ち結婚させたかつた』とも云ひ、『どうせ死ぬと、仮令たとへ分つてゐても、患者に云ひ聴かせることはお願ひですからやめて下さい。』とも云つた。
 すると医者はまた、例の悟りを参照しようとするから、『いいえ、それは間違つてゐます。諦めが大事であるとはいへ、諦めがつかないことが直ちに愚かであるとは申せません。此の世に乞食はゐるものだといふことが真でも、では若干は乞食もゐるやうにすべき理由はないのと同じことでございます』と、死んだ弟を思へば、弟が身を以て感ぜしめられた事を種に、私はまたなんたる狂態だらうと、かにかくに自責の情が湧くのでもあつたが、独りゐては、あれやこれやと迷ひ夢みる私であれど、人に対しては男性的といふか論理的といふか、思ひ切りよく理性的であるのであつた。
 奥さんは、もう出ては来ず、奥の方で琵琶を掻きならし、その子供のない太つちよの、快活無比の奥さんが鳴らす琵琶の音は少々ぞんざいで、嘲弄されてゐるやうな気持もされるのであつた。が、こんな気持を咬殺かみころすことにも、私は今云つたやうに可なり男性的である。
 而も猶、一寸立つて便所に行かうとすると、途中で曲つてゐる梯子段を踏みあやまつて、私は四五段も辷り落ち、ひぢをしたたかり剥いたのだが、驚いてとんで来た医者に、抱き取られながらも、いい気味だいい気味だ、死んだ弟を忘れてゐたから罰が当つたのだと、急にまた千万無量な思ひをするのであつた。心臟よ、ドキドキと鳴れ、肘よ痛め。これが死んだ弟への懺悔の一端ともなれば、ああなんと、嬉しいことであらう!……
 酒は顔全面にのぼつて来て、頭のしんはヅキヅキした。

 それからなほ三十分も飲んだ後、辞して立たうとすると、先刻は腰も打つたとみえ、腰が痛くてよろけさうになり、医者に助けられて自動車に入れられた時は、なんともはづかしく、玄関に立つて可笑しさをこらへてゐた奥さんの顔は、自動車が田圃の中の道路を走つてゐる間中、眼に浮かぶのであつた。

 家に著くや無理に、気持を引き立てて、腰の痛みをみせまいやうに一心に姿勢を作つて、『ただ今』といと冷然と云つた。
『まあまあ、沢山に飲んで。また今迄何のお話をしていたのでせう。』と母はその貧血の顔をのぞけて私を感じ取るのであつた。
『いいえただ、泰三の思ひ出話ばかりしてゐました。先生は僕の東京の話なぞ訊くものですから、分りよく納得のゆくやうに話しました。』
 母は悲しげに私から眼を離すのであつた。
『もうみんな休みましたね』云ひながら私は私の寝床のある離れの方に歩いた。
 その部屋には、祖母と私の床があつたのであるが、私が部屋に這入ると、祖母は目を覚まし、『おお/\御苦労だつた』と云つた。
 悔恨は胸に迫つて、あふむきに寝ても、横になつても寝付かれなかつた。一町ばかり先にある、今自分の乗つた自動車の通つて来た道を、オートバイが遠雷のやうに近づき、やがて消えていつた。
(一九三三・一〇・一八)

底本:「日本の名随筆 別巻42 家族」作品社
   1994(平成6)年8月25日第1刷発行
底本の親本:「中原中也全集 第三巻」角川書店
   1967(昭和42)年12月
※底本の「始め二重山括弧」と「終わり二重山括弧」は、ルビ記号と重複するため、それぞれ「〈」と「〉」に置き換えました。
入力:土屋隆
校正:noriko saito
2006年12月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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