初島紀行

 正月六日朝早く千人風呂にはひつて、その硝子窓から伊豆の沖の美くしい日の出を見ました。今日の快晴は疑ふべくも無い。海は襦子の感觸を以て銀の色を擴げ、中にところどころ天鵞絨の柔かみを以て紺青の圓い大きなまだらを見せて居ました。何と云ふ好いなぎでせう。
 湯から上がると六時でした。宿の若い衆が、昨夜から頼んで置いた熱海の船が出來たと云ふ電話を取次いで來ました。それを更に他の三方の部屋へ知らせました。正月の初めに偶然この伊豆温泉の相模屋へ泊り合せた五人――臺灣總督府の石井光次郎さん、日本評論社の茅原茂さん、野口米次郎の令兄である高木藤太郎さん、それに私達夫婦が――昨夜からの突然な思ひ立出で、三里先きの海上にある初島を觀に行かうと決めたのです。忙しい中から僅かの暇を無理やりに作つて東京を離れたのさへ氣紛れであるのに、行く人の稀な島へ特に船を雇つて出掛けると云ふのは、我れながら醉興なことだと思ひました。私達の境遇では到底人並に呑氣な生活は出來ないのですから、ときどき突發的にかう云ふ醉興をして百忙の中の一間をぬすみ、呑氣らしさをねることに由つて、纔に境遇の壓迫からほんの束の間だけ生命の解放を計るのです。
 午前八時五十分の電車で熱海へ向ひました。初島へ行くには土産を持つて行く慣例であると宿の番頭から聞いて居たので、熱海の鹽瀬の店で、五人が出し合つて、十圓の駄菓子を大きな五つの袋に詰めて貰ひました。
 十時に船が出ました。船宿から座蒲團を持つて來なかつたので、帆を二つに折つて敷いた上へ坐りました。船頭は若い逞しい人達ばかりが六人選ばれて居ます。四梃櫓を掛けて、二人が疲れた者と交代するのです。海の上はそよとの風も無く、日光を船一杯に受けて温かでした。「えい、おい、えい、おい」と云ふ勇ましい船頭達の掛聲、「ぐい、ぐい」と云ふ櫓の音。船は半跳るやうに、半滑るやうにして快く進みました。海は一面に深い紺碧を湛へて靜まり、私達の船の航跡だけが長く二條のすずを流して居ました。熱海の街が少しく煙り、網代の街の屋根瓦が光らなくなつた頃、船は航程の半分を越えたのだと船頭が云ひました。其頃から舳先へさきに當る初島は藍鼠色より萌葱もえぎ色に近くなりました。私達の心は廣重の圖中にある旅客の氣分と、お伽噺や探險談の中にある傳説的な氣分とがからんで浮世ばなれのした一種の快感を覺えるのでした。
 船は二時間足らずで初島の北岸に著きました。沙濱で無くて灰褐色の大きな石がごろごろしてゐるのを見ると、蓬髮敗衣の俊寛が串插くしざしの小魚を片手に提げて現れ相でした。少しばかりの傾斜地に網が干されてゐる。其上の崖に三四人の島の少女が立つて私達を見下ろして居ました。六年前に此處へ來たと云ふ相模屋の番頭の話では、船が著くと島の子供が爭つて土産物を貰ひに來たと云ふ事でしたが、そんな氣振の見えなかつたのは、六年の間に島の風俗も變つたのでせう。
 島の住家は飮料水の關係から、比較的氣候の寒い此の北岸の窪地にあるのです。私達は船頭の案内で「大屋」と云ふ通稱を持つた新藤氏の家へ行きました。昔の名主の家です。大黒柱の彼方にある圍爐裏を繞つて坐り、煤びた自在に吊した鑵子の湯で主婦から澁茶を注いで貰つた時、私達は旅人と云ふよりも家族的と云ふべき親しさを此家に感じるのでした。爐の榾火ほだびの周圍には蠑螺が幾つも灰の中に立てられて、ふたを取つた所へ味噌を載せたままぐつぐつと煮えてゐる香りが、妙に一行の男達の食欲をそそりました。
 區長さんと云つて敬稱されてゐる田中氏が逢ひに來られたので、土産物の分配をその田中氏に頼みました。それから區長さんの案内で初島神社に參り、神社から一段上の地にある小學校を觀ました。小學の一方の崖下に山の井があつて清水が湧いて居ました。この水を汲みに來ることが島の女達の朝晩の一つの爲事です。ゐどの上には椿の木立が一杯に花を著けて居て、水に浮いてゐる落椿もありました。この光景を見て、詩的な、いろいろの想像が私達の心に上りました。
 その井の背後の路を登つて山上の平野に出ました。麥生と野菜畑と、さうして其れを圍むあぜの木立は大抵椿です。椿の下には島の名物である背の高い水仙の花が叢を成して咲いて居ます。北岸と違つて山上は日當りが好いので、どの椿も眞盛りです。美くしく落椿が路を埋めてゐるのを見ると、それを踏むに忍びない氣がします。漸く南岸へ出ると、其處は危い斷崖になつて緑玉色の水が底まで透いて見えます。少し離れて帆前船が一艘帆を張つたまま風を待つて居ました。
 氣侯はさながら東京の四月です。まだ舊臘から一度も霜が降らないと云ふ事です。霜は一月の末から二月へかけて五六度降るだけだと云ひます。
 東岸へ廻つて、それから再び北岸の村へ降り、一軒しかないと云ふ禪宗のお寺を覗き、また一番古い建物だと云ふ或家の手斧普請を觀せて貰つて大屋へ歸りました。
 伊豆山から用意して來た辨當で晝食を濟ませたのは午後一時半でした。
 大屋を辭して再び小學校へ立寄ると、校長が前の家から來て、區長さんと一所に島の話をいろいろとして下さいました。明治以來中等教育を受けた島の人は校長一人であると校長自身の話でした。
 島の戸數は現在四十一戸です。以前は四十三戸であつた相です。それ以上殖やすことの出來ない不文律が昔から行はれて居て、二男以下の子女はすべて他國へ行つて職業を求めます。島の土地が其等の人口を養ひ得ないからです。土地は昔から四十餘戸へ殆ど平分されて居て、その耕作は共同的であり、相互扶助の理想が自然の必要から實現されて居ます。食料と薪炭とは米を除いて自給自足の状態を繼續して居ます。米は夏期の雨が乏しいために陸稻さへも出來ません。夏は乾燥して露さへも全く降らないと云ひます。その割に夏の氣候は非常に涼しい相です。島に醫師は一人もありませんが、死亡者は統計に由ると(之は區長さんの言葉です、)五六年に四五人しか無いと云ふことです。現在の人口は二百四十三名だと聞きました。生活は半農半漁です。女子は自家用の縞木綿を織つて居ます。私の感心した事は、村の道路から庭内の隅隅までが歐洲の田舍のやうに丸石を敷き詰めてある事と、島中の植物の手入が行屆いて、何處の土地も掃いたやうに清潔な事です。併し此島では一草一木も日常生活の功利的必要から愛護されるのである事と思ふと、狹い土地の植物が家畜と同じ待遇を受けてゐる事を氣の毒に感じます。區長さんは大きな椿を見る度に指點して「之は何斗の實を結びます」と云つて、その大切な木である事を教へてくれました。區長さんは少年の日から島中の椿の實の收穫量を樹毎に就いて暗記してゐるのです。
 大屋の主婦は話の中で「水仙ばかり根絶やしが出來んで困ります」と云ひました。美くしい一重椿も島人からは花に因つて愛護されるので無く、香りの特に烈しい、背の高い水仙も、それが貨幣に換へられないと云ふ理由と、畑地の妨げになると云ふ理由とで、成ることなら根絶するやうにと望まれてゐるのです。
 私達は島に來て、傳説的な想像は少しく幻滅しましたが、併し温暖な氣候と日光との中に、滿山の椿と水仙とを目にした實感は猶武陵桃源の趣がありました。午後二時半に島を辭しようとすると、區長さんが島人を代表して澤山の蠑螺を返禮に贈つて下さいました。歸りの船は午後五時前に伊豆山の相模屋の裏手の磯へ着きました。
 歸つてから、良人は初島の歌を澤山に作りました。

底本:「現代日本紀行文学全集 東日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※巻末に1921(大正10)年10月記の記載あり。
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2004年5月1日作成
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