普賢菩薩ふげんぼさつのお白象はくぞう

 チャッチャッチキチ、チャッチキチ、
 ヒイヤラヒイヤラ、テテドンドン……
「夏祭だ」
「夏祭だ」
「天下祭でい」
「御用祭だ」
「練って来た、練って来た。あれが名代の諫鼓鶏かんこどり……」
「お次は南伝馬町みなみでんまちょうの猿の山車だし
日吉鷲平ひよしわしへいの猿の面。あの山鉾やまぼこひとつで四千五百両とは豪勢なものでござります」
 ……三番は、平河町ひらかわちょう騎射きしゃ人形、……四番は、山王町の剣に水車みずぐるま、……八番は、駿河町するがちょう春日龍神かすがりゅうじん、……十七番は、小網町こあみちょうの漁船の山車、……四十番が霊岸島れいがんじま八乙女やおとめ人形‥…
「熊坂」がくる、「大鋸おおのこぎり」がくる、「静御前しずかごぜん」がくる。
 牛にひかせた見上げるような金ピカの屋台車の下を贅沢な縮緬ちりめんの幕で囲って、町内の師匠やお囃子はやし連が夢中になってチャッチャッチキチと馬鹿ばやし。
 声自慢のとびが山車に引きそい、顔のうえに扇子せんすをかざして木遣節きやりぶし
 ※(歌記号、1-3-28)やあー、小金花咲く盃で、さいつおさえつお目出たや、大盃の台のみぎわに松植えて、千代さい鶴ひなの鶴の……
 芸者の揃いの手古舞てこまい姿。佃島つくだじま漁夫りょうし雲龍うんりゅう半纏はんてん黒股引くろももひき、古式のいなせな姿で金棒かなぼうき佃節を唄いながら練ってくる。挟箱はさみばこかついだ鬢発奴びんはつやっこ梵天帯ぼんてんおび花笠はながさ麻上下あさがみしも、馬に乗った法師武者ほうしむしゃ踊屋台おどりやたいがくる、地走り踊がくる、獅子頭ししがしら大神楽だいかぐら、底抜け屋台、独楽こま廻し、鼻高面はなたかめんのお天狗さま。
 京都の祇園ぎおん祭、大阪の天満祭、江戸の山王祭、これを日本の三大祭という。
 六月十四、十五日は永田馬場ながたのばば、日吉山王権現の御祭礼。
 山王権現は徳川家の産土神うぶすながみ。半蔵門内で将軍家の上覧じょうらんに入れる例なので、御用祭とも、天下祭ともいう。
 南は芝、西は麹町こうじまち、東は霊岸島、北は神田。百六十余町から出す山車、山鉾が四十六。ほかに、附祭つけまつりといって、踊屋台、練物ねりもの曳物ひきもの数さえつばらに知れぬほど。華美を競い、贅を尽して、その美しさは眼を驚かすにいたる。
 辰年たつどし六月に日本橋とおり一丁目、二丁目が年番に当った時、この二ヶ町で八千八百両の費用がかかった。
 揃いの縮緬の浴衣ゆかた赤無垢綸子あかむくりんずふんどしなどはお安いご用。山車人形の衣裳に二千両、三千両。女房も娘も叩き売って山車の費用を出し合うのが江戸ッ子に生れた身の冥加みょうがくやむどころか、これが自慢でしようがないので。
 お祭が近づくと、産子町うぶこまち百六十余町は仕事に手がつかない。ようよう花見がすんだばかりというのに、毎夜さ寄合って馬鹿囃しの稽古やら練物の手段。踊屋台の一件、警固木挺けいごきちょうの番争いから、揃い衣裳の取極め、ああでもないこうでもないと、いい齢をした旦那衆までが血眼ちまなこになって騒ぎたてる。
 なかんずく、屋台へはいる師匠をきめる段になると、さすがに女のことだけあってこれがたやすくはおさまらない。狼連がそれぞれ双方に附いて、ぜひとも、うちの師匠をと、神輿ではないが、揉んで揉みぬく。この件ばかりで、いざこざが起ります。
 贔屓ひいきすぎての喧嘩沙汰。頭を割られたの、片目になったのという物騒なもめごとが、毎年、一とつや二つはかならずおっぱじまるが、この年の騒ぎは大きかった。何ともいえぬ凄味のある事件で、これには、江戸中がすくみあがった。が、それは、後の話。
 行列の道筋にあたる武家ぶけ町家ちょうかでは、もう十三日から家の前に桟敷さじきをかまえ、白幕しらまくやら紫幕。毛氈もうせんを敷いて金屏風を引きまわし、のきには祭礼の提灯を掛けつらね、客を大勢招んで酒宴をしながら、夜もすがらさざめいて明けるのを待っている。
 何しろ江戸一の大祭なので、当日は往来を止めてみだりに通行を許さず、傍小路わきこうじには矢来やらいを結い、辻々には、大小名だいしょうみょう長柄ながえや槍を出して厳重に警固する。
 十四日は渡初わたりぞめといって、山車、練物はみな山王のやしろに集まってここで夜を明かし、翌十五日の暁方からそろそろと練り出す。
 御幣、太鼓、さかきを先に立て、元和げんな以来の古式に則って大伝馬町の諫鼓鶏の山車が第一番にゆく。行列長さだけで二十丁。山下門から日比谷の壕端ほりばたに沿い、桜田門の前から右へ永田町のなし木坂きざかをくだり、半蔵門から内廓くるわへはいって将軍家の上覧を経、竹橋門たけばしもんを出て大手前おおてまえへ。それから、日本橋を通って霊岸島まで練ってゆく。
 今年は麹町の年番で、一丁目から十三丁目までの町家が御役おやくになってこれが大変なはずみよう。毎年の猿の山車のほかに、年番附祭ねんばんつけまつりの例にならい、朝鮮人来朝の練物と、小山のような大きな白象の曳物を出すというので、これが江戸中の大評判。
 毎年は出さず、年番に当った年だけ曳出す。
 高さは四間、頭から尻尾までの長さが六間半。鼻の長さだけでも九尺余りある。
 平河町の大経師だいきょうじ張抜拵物はりぬきこしらえものの名人、美濃清みのせいが二年がかりでこしらえたもの。
 木枠籠胴きわくかごどうに上質の日本紙を幾枚も水で貼り、その上へにかわへちまをつけて形を整え、それを胡粉ごふん仕上げにしたもの。
 享保きょうほう十三年に渡来した象を細かいところまで見て置いたと見え、芭蕉の葉のような大きな耳から眼尻の皺、鼻の曲り、尾の垂れぐあいまで、さながら生きた象を見るよう。
 普賢菩薩の霊象にならって額に大きな宝珠ほうじゅがついている。鈴と朱房しゅぶさのさがった胸掛むなかけ尻掛しりかけ。金銀五色の色糸で雲龍を織出した金襴きんらん大段通おおだんつうを背中に掛け、四本の脚の中へ人間が一人ずつ入って肩担かたにないに担ってゆく。
 象の前には、道袍トウパウに三角の毛帽をかぶった朝鮮人の行列が二列になって二十四人。
糀街こうじまち」と唐文字からもじ刺繍ぬいとりした唐幡とうばん青龍幡せいりゅうばんを先にたて、胡弓こきゅう蛇皮線じゃびせん杖鼓じょうこけい、チャルメラ、鉄鼓てっこと、無闇むやみに吹きたて叩きたて、耳もつんざけるような異様な音でけたたましく囃してゆく。
 さて、事件は、こんなふうに始まった。
 一番から四十六番までの山車、最後の四十六番は、常盤町ときわちょうの僧正坊牛若うしわか人形。
 すぐ後が、御神輿。
 各町から一人ずつ五十人の舁人かきと。白の浜縮緬に大きく源氏車を染め出した揃いの浴衣。玉襷たまだすき白足袋しろたび、向う鉢巻。
「御神輿だ、御神輿だ」
「山王様でい」
 威勢よく、ワッショイワッショイと揉んでくる。
 その後へ小旗、大旗、長柄槍ながえのやり飾鉾かざりぼこが三本。神馬しんばが三匹。それから、いよいよ象の曳物。いま言ったように朝鮮人渡来の行列を先に立て、ヒラリヤドンチャン/\と賑かに近づいてくる。
「そら、象が来た」
「象だ、象だ」
 町並は、ワーッという大騒ぎ。
 桜田御門の前から黒田さまの屋敷を南へ、祭礼の番付板のある前をのぼって、山王神社の前を右へ。そこから永田町の梨の木坂。
 ここまでは、何のこともなかった。ちょうど、梨の木坂を降りきって、これから濠端ほりばたへかかろうとするとき、糸瓜仕立胡粉塗へちまじたてごふんぬりの象が、胸からホトホトと血を流しはじめた。
 片側は水に伏す芝塘しとうの松。片側は、松平さまの海鼠なまこ壁。
 一間幅に敷いた白砂の上へ、雪の日に南天の実でもこぼれるように、紅絵具べにえのぐのような美しい血が点々と滴り落ちる。
 真先にこれを見附けたのが、すぐ近くの麹町一丁目に住む近江屋おうみやという木綿問屋の忰で、今年、九つになる松太郎。
 子供の眼はさとく、遠慮がないから、精一杯の声で、
「やア、象の腹から血が流れてらア」
 その声で、まわりの桟敷に鮨詰すしづめになっているのが一斉にそのほうを見る。
 どうしたというのだろう、作物つくりものの象の胸先が大輪の牡丹ぼたんの花ほどに濡れ、そこから血が赤く糸をひく。
「血だ、血だ」
「象が血を流している」
 ワッ、と総立ちになる。これで、騒ぎが大きくなった。


          龕燈がんどうの光で見た景

 木挺役きちょうやくが飛んでくる。曳物の先達せんだつが飛んでくる。鳶がくる。麻上下あさがみしもがくる。
 何しろ、お曲輪くるわも近い。年一度の天下祭が不浄の血でけがれたとあっては、まことに以て恐れ多い。なかんずく、年番御役一統の恐悚きょうしょうぶりときたらなんと譬えようもない。
 象は、あわてて麹町一丁目の詰番所わき空地あきちへ引込んで葭簀よしずで囲ってしまい、ご通路の白砂を敷きかえるやら、禊祓みそぎはらいをするやら、てんやわんや。
 さいわい片側だけの見物で、象の血を見た人数にんずもあまりたんとではない。さまざまに世話役が骨を折り、舁役かきやくが怪我をしたのだと誤魔化ごまかしてようやくおさまりをつけてホッと胸を撫でおろす。あれやこれやで小半刻こはんとき。行列がようやくまた動き出す。
 渡御とぎょ、おねりのほうは、これでどうやら事なくすんだが、これから先がたいへん。
 呉服橋北町奉行所ごふくばしきたまちぶぎょうしょ曲淵甲斐守まがりぶちかいのかみのお手先、土州屋伝兵衛としゅうやでんべえ。神田鍋町なべちょうの氏子総代で麻上下に花笠。旦那のように胸を張って二十七番の山車に引き添っていた。
 屋台車といっしょにお曲輪内へはいったが、そのうちに、麹町の象の曳物の胸から血が出たという噂が、誰の口からともなく風のように伝わってきた。
 供奉ぐぶのほうは放ったらかし、象を曳込んだという麹町一丁目の詰番所まで横ッ飛びに駆けてきて、ズイと葭簀の中へはいると、一足先に、そこへ来ていたのが、南町奉行所のお手付同心の戸田重右衛門とだじゅうえもん。これが、出尻伝兵衛でっちりでんべえ敵役かたきやく
 もとは、麹町平河町の御用聞で、先年同心の株を買い、以来、むかしのことを忘れたように権柄けんぺいに肩で風を切る役人面。いよう、と言えば、さがるはずの首が、おう、と逆に空へ向くやつ。お前らとは身分がちがうという風にろくな挨拶さえ返さない。これでは伝兵衛でなくともしゃくに触る。
 真中の窪んだしゃくった面で、鉢のひらいた福助頭ふくすけあたま。出ッ張ったおでこの下に、見るからにひとの悪るそうなキョロリとした金壺眼かなつぼまなこ。薄い唇をへの字にひき曲げ、青黒い沈んだ顔色で、これが痩せこけた肩をズリ下げるようにして、いつも前屈みになってセカセカ歩く。ちょうど、餓鬼草紙がきぞうしの貧乏神といったてい
 伝兵衛のほうは、綽名あだなの通り出ッ尻で鳩胸。草相撲くさずもうの前頭とでもいった色白のいい恰幅かっぷく。何から何まで反対なので、二人が並ぶと、実以じつもって、対照の妙を極める。
 こんなことも大いに原因している。向うでも嫌な奴だと思っているのだろうが、こちらでも気に喰わねえと、思わず眉がしかむ。そうなくても、敵同志のような南と北。しっくりゆこうはずがないので。
 葭簀よしずを分けるようにして入って行くのを、象の後脚うしろあしのところにしゃがんでいた重右衛門、首だけこちらへ捩向ねじむけて、眼の隅から上眼で睨め上げ、ふふん、と鼻で、笑った。
「おお、出ッ尻か。この節ア、だいぶと、精が出るの」
 近日にわか仕込みの同心言葉。気障きざっぽく尻上りにそう言って、はかまひだを掴みながらのっそりとち上る。
「この月は北番所きたの月番だが、何といっても消口けしくちをとったのは俺のほうが先き。気ぶっせいかも知れねえが、常式通り相調べということにしてもらおうか。知ってもいようが、平河町から麹町十三丁は、むかしの俺の縄張り。お前だって仁義ということを知っているだろう、なア、出ッ尻。……ききゃア、この頃、平賀源内という大山師をかつぎ出して、妙に、しゃくったような真似ばかりするが、あんまり方図ほうずもなくのさばると、いずれ、いい眼は見ねえぜ。なア、出ッ尻、気をつけるほうがいいや、出ッ尻」
 出ッ尻を売りに来やしめえし、出ッ尻、出ッ尻と気障な野郎だと思ったが、どうせ成上りの俄か同心、こんな馬鹿と正面切って渡合うほどのこともあるまいと、そこは、さすがに蜀山人太田南畝しょくさんじんおおたなんぽ先生の弟子だけあって、多少気が練れている。あざとくからんでくるのを、軽くいなして、伝兵衛、
「誰かと思ったら、これは戸田先生。先に手がつけば、相調べになることは昔からのきまり。そのご挨拶には及びませんのさ。しかし、どちらがおちを取るかは互いの腕次第」
 重右衛門は、いよいよ以て苦ッ面になり、
「腕たア、撞木しゅもくの腕のことか。その腕じゃ、ゴーンといても碌なは出なかろう、何を吐かしやがる。……まア、そんなことはどうでもいいや。おい、御出役、おめえのくるのを今迄しびれを切らして待っていたんだ。顔の揃ったところで、早速、改めにかかろうじゃねえか」
「おだてちゃいけません。あっしは御出役でも何でもねえ、あなたとちがって、ただの御用聞。下調べは如何いかにもあたしが手掛けますが、何といってもこんな稀有けうな事件。この象を腑分ふわけしたら、どんな化物ばけものが飛び出すか知れたもんじゃねえ、御出役のこないうちに軽率かるはずみに象に手をつけるわけにはゆきません」
 象のそばに寄って、じぶんの身体を柵にして、油断なく立構たちかまえているところへ、ドヤドヤと北番所きたの出役。
 与力小泉忠蔵こいずみちゅうぞう以下、控同心ひかえどうしん神田権太夫かんだごんだゆう、伝兵衛の下ツ引[#「下ツ引」はママ]、目ッぱの吉五郎、一名目ッ吉、御用医者の田沢菘庵たざわじょうあん、ほかに、追廻しが六人。物々しい出役。
 余談だが、神田権太夫というのは、後年、例の谷中延命院やなかえんめいいん蓮花往生れんげおうじょう。尻の下へ鏡を敷いて蓮の花の中へはいり、下から槍で突かせて大見得を切ったあの名同心。目ッぱの吉五郎のほうは、享和きょうわ三年、同じく延命院の伏魔殿を突きとめ、悪僧日潤にちじゅんって押えたお手先。これで、北番所きた名題なだいどころが全部顔が揃ったわけ。
 神田権太夫は、葭簀よしずのそばに腕組みをして突っ立っている重右衛門じゅうえもんをジロリと尻目にかけ、ツカツカと象の胸先のほうに寄って行って、血のにじみ出しているあたりをツクヅクと眺めていたが、そばに引添っていた菘庵のほうへ振りかえり、
「先生、嗅いただけでははっきりしたことは言えませんが、これは、人間の血じゃないでしょうか。犬猫の血なら、もうすこし毛臭けくせえはず」
 菘庵は、指先で血を取って、指頭しとうで捻って小首をかしげていたが、急にひきしまった顔つきになって、
「この粘り加減では、どうやら人血」
「うむ」
「仮に、体内で死んでいるのが犬猫なら、こうまでおびただしい血の香はいたさぬはず。この葭簀へ入った途端、プンと血の香がいたしましたことから推しますと、象の腹中には相当多量の血が溜っているのだと思われます」
「ご尤も」
 小泉忠蔵は、引きとって、
「菘庵先生のお推察みこみ通り、もしこの象の中に人間が死んでおるのだとすれば、これは何とも奇ッ怪。何のためにかようなところへ死体などを塗込んだものであろう。……押問答をしている場合ではない。何はともあれ、早速、象の腹をあけて見ることにいたそう。……伝兵衛、なるったけ象を損じないようにして腹をあけて見ろ」
「ようございます」
 すぐそばが、外麹町そとこうじまち、や組の番屋。追廻しが三、四人飛び出して行って、竹梯子たけはしご鳶口とびぐち逆目鋸さかめのこ龕燈提灯がんどうぢょうちんなどを借りて戻ってくる。
 木枠といっても、桐にほうの木をあしらったごく軽いもの。伝兵衛、梯子でのぼって行って象の左の脇腹からすこし上った辺を逆目鋸できはじめたが、骨組さえ挽切れば、後は胡粉とにかわで固めた日本紙。挽くほどもなく肩まで入るほどの穴がパックリと黒い口をあける。
「おい、龕燈」
 穴から龕燈を差入れ、象の胎内を照しつける。
 見るより、伝兵衛、アッと叫び声をあげた。
「象の腹の中に若い女が死んでいます」
 麻の葉の派手な浴衣ゆかたに、独鈷繋とっこつなぎの博多帯、鬘下地かつらしたじに結った、二十五、六の、ゾッとするような美しい女が、浴衣の衿元から乳の上のあたりまで露出むきだしにしたひどく艶めいた姿で、象の下ッ腹の窪みにキッチリ嵌込はめこむようになって死んでいる。左の乳の下がドップリと血に濡れて。
 薄くあけたきれの長い一重目ひとかわめの瞼の間から烏目くろめがのぞき出し、ちょっと見ると、笑っているよう。
 匕首あいくちかなんかで一突きにえぐられ、あッと叫ぶ間もなくこときれたのにちがいない。このおだやかな死顔を見ると、その辺の消息が察しられるのである。
 それッ、というので、象の胸先を縦に挽き切り、下ッ引が四人がかりでソロソロと死体を引出す。
 地べたへこもを敷き、象の腹の中にいた通りのかたちによこたえる。
 朝の光で見ると、一段と美しい。透き通るような白い手を胸の傷口のあたりへそっとのせ、空へ眼を向けてホンノリと眼眸まなざしを霞ませている。着付でひと眼で知れる。堅気ではない。師匠か、お囲いもの。
 菰へ膝をついて、熱心に検証している菘庵へ、伝兵衛、
「先生、御検案は。……殺されてから、大体どのくらい時刻ときが経っておりましょう」
「何しろこの暑気しょき。それに、風の通さぬ張物の中。はっきりしたことは申しかねるが、まず、ざっと今から二刻ふたときから二刻半ふたときはんぐらいまでの間……」
「すると、大凡おおよそ、白むか白まぬかのころ」
「まずその見当。……が、いまも申した通り、こういう情況では、死体の腐敗が意外に早いかも知れぬから、きっぱりした断定は下されぬ」
 人垣のうしろから伸びあがって死体を覗き込んでいた、重右衛門、
「おッ、これは、清元里春きよもとさとはる……」
 と呟き、何か思い当ることがあったらしく、
「……なアるほど、そういうわけか。これで当りがついた」
 あとは聞えよがしの高声、
「飛んだお邪魔。なにとぞ、ごせっかく。ずいぶん精を出して、犬骨を折って鷹に取られねえよう、ご用心」
 憎まれ口をきいて、いつものように前屈みになってセカセカと出て行った。
 目ッぱの吉五郎は、忌々いまいましそうに重右衛門の後姿を見送りながら、伝兵衛に、
「いま重右衛が呟いていたのを聴くと、これは清元里春という女だそうですが、いずれ、何か祭に絡んだ遺恨でもあったものと思われますが……」
 と言いながら、小柄な身体を二つに折るようにして伝兵衛のそばへうずくまり、
「どんなことがあったって、死骸を脚から腹へ送り込むというわけにはいかないから、たぶん、どこかへ穴をあけてそこから死骸を放りこみ、穴をもとの通りに塞いだのにちがいねえと思いますが、あなたのお推察みこみはいかがです」
 伝兵衛は、頷いて、
「俺もさっきからそのことを考えていたんだ。象の周囲まわりをグルグル廻って見たが、胴も腹も古い細工で、塗直したようなところも見当らねえ。……もしそんなところがあるとすれば、あの段通だんつうの下。……おい、目ッ吉、象の肩にかかっているあの段通を引ンめくって見ようじゃないか」
「ええ、やって見ましょう」
 段通に双手もろてをかけて力任せに引き剥ぐと、ちょうど象の背中のみねからすこし下ったあたりに、ひとが一人はいるくらいの大きさに胡粉の色が変ったところがある。
 伝兵衛は、目ッ吉と眼を見合せてから梯子をのぼって色の変ったあたりへてのひらをあて、眼を近づけてためつすがめつしていると、真上から照りつけるの光で胡粉の中に何かキラリと一筋光るものがある。指で摘んで見ると、それは頭髪かみのけ
「おい、目ッ吉、ここに頭髪が一本きこまれているが、これア古い時代のもんじゃねえ、昨日今日のもの」
 目ッ吉は、含み笑いをして、
「ねえ、親方、それアたぶん美濃清みのせいの頭髪でしょう」
「どうしてそんなことが知れる」
「だって、こんな手際な仕事は素人には出来ません。……この通り、糸瓜へちまで形をつけ、胡粉で畝皺うねじわまでつくってある。……そればかりじゃない。下手な人間などはどんなことがあったって象の背中へなんぞへのぼらせない。ところで、美濃清なら、手直しとかなんとか言やア、大勢の見てる前で大っぴらにどんな芸当だって出来るんです」
 伝兵衛は、首を振って、
「いやいや、ここを塗直したのは美濃清かも知れねえが、それだけのことで美濃清が里春をったと決めてかかるのはどうだろう。……この象は昨日の日暮れ方永田の馬場へ持って行って葭簀囲いにし、朝鮮人になる町内の若い者が二十人ばかり、象のまわりでチャルメラを吹くやら、鉄鼓てっこを叩くやら、夜の明けるまで騒いでいた。いかな美濃清でも、あれだけの人数がいる中で人を殺し、その死体を象の中へ塗込めるなんてえ芸当は出来そうもない」
「それじゃ、いったい、どういうんです。菘庵先生の話じゃ、殺されてから二刻か二刻半という御検案ですが、そうだとなりゃアこれはまるっきり雲を掴むような話」
「さっき重右衛門が、いやに北叟笑ほくそえんで駈け出して行ったが、たぶん、お前の推察みこみとおなじに美濃清をしょッぴくつもりなんだろうが、俺の推察みこみはすこしちがう」
「すると……」
「美濃清一人じゃ、この芸当は出来まいというのだ。……かならず、二人三人と同類がある」
「へえ」
「つもっても見ねえ、あの象は十四日の夕方まで伝馬町の火避地ひよけちに飾ってあったんだが、渡初わたりぞめがはじまって、四人でそれを永田馬場まで担いで行った、……その時には、象の中に死体なぞは入っていなかった。……死体が入ったのは、今朝のあけ六ツ。担ぎ出す少し以前。……なア目ッ吉、痩せていても女の身体は十二、三貫。これだけの重さが増えているのに、四人がそれに気がつかねえというはずはなかろう。……象の脚に入っていた四人が、みな、この事件の同類だという証拠だ」
 と、言って、小泉と神田に向い、
「いま言ったような次第で、あっしらは四人をしょっぴいてこれから番所で下温習したざらえをいたしますから、旦那方は、どうかお役所でご休憩願います」
 伝兵衛は、六人の追廻しにどんな人間がきても象のそばへ近寄らしちゃいけねえと、しっかりと念を押して、目ッ吉と二人で葭簀から出る。


          生きていた里春

 仙台平せんだいひらの袴に麻上下あさがみしも黒繻子前帯くろじゅすまえおび御寮人ごりょうじんの振袖に錦の帯。織るような人波を押しわけながら、伝兵衛は声をひそめ、
「町会所では言わなかったが、里春は、象の腹の中にいたときには、まだ生きていたんだぜ」
「えッ」
「だってそうだろうじゃないか。どう張抜いたって日本紙にっぽんし糸瓜へちま。二刻前に殺されたものだとしたら、梨の木坂を降りるまで血が沁み出さねえことはねえはず。これから推すと、里春はお練りがはじまってしばらく経ってから象の中で殺されたんだ」
 目ッ吉は、ひッ、と息をひいて、
「もちゃげるわけじゃありません、こりゃア、どうも凄いお推察みこみ、恐れ入りました。……仰言おっしゃる通り、如何にもそうでなくっちゃ筋が通らねえ。……が、それにしても、渡御とぎょの道筋の両側に隙間なく桟敷を結って、何千という人目がある。しかも、真ッ昼間。あれだけの人目の中で外側そとから槍で突くにしろ刀で刺すにしろそんな芸当は出来そうもねえ。……だいいち、象の脇腹には突傷はおろか、下手へたに窪んだとこさえありゃしねえんです。仰言ることは如何にも納得しましたが、とすると、いったいどんな方法で殺ったものでしょう」
「さア、そこまでは俺にもわからねえ。いずれ、象の胎内に何かからくりがあるのだと思うが……」
 と、言いながら、懐中ふところから三椏紙みつまたがみを横に綴じた捕物帖を取出し、
「……象の右の前脚に入ったのは、美濃清で、左脚が植木屋の植亀うえかめ。……後脚の右が麹町十三丁目の両換屋、佐渡屋のせがれ定太郎さだたろう。……同じく後脚の左が、箪笥町たんすまち担呉服かつぎごふく瀬田屋藤助せたやとうすけこの四人。……なア、目ッ吉、仮に、象を背負しょって歩きながら里春を殺るとしたら、どいつがいちばんがいいと思う」
「……象の脚の下から担いで行く四人の脚が見えているんだから、槍か何かで突くとしても、まず、前脚の二人は覚束おぼつかない。こういう芸当が出来るとすれば、後脚の右へはいった佐渡屋の定太郎と、左へはいった瀬田屋藤助」
「尻馬に乗るわけじゃないが、俺の見込みも、大体、その辺だ」
 番所までは、そこからほんのひとまたぎ。
 入口の土間の床几に、町内の世話役らしい年配が二人。麻上下の膝へ花笠をひきつけて気遣きづかわしそうな顔つきで控えている。
 伝兵衛が入って来たのを見ると、もろともに起ちあがって、
「土州屋さん、年に一度の祭に、こんなくだらねえ騒ぎを仕出かして、面目次第もありません」
「何といったって、ひと一人死んだことだから、穏便というわけにも行きますまいが、そこを、ひとつ、何とか手心を……」
 伝兵衛は、頷いて、
「あっしにしたって、何も出ない埃まで叩き出そうというんじゃない。こういうときには針ほどのことにも尾鰭おひれがつくもんだから、出来るだけ内輪にやる気じゃアいるんですが……」
「あなたがそう仰言ってくださると麹町十三丁がホッと息をつきます。どうか、なにぶん……」
「……それで、あなた方が町会所へお寄りになったということを聞きましたから、まア、何といいますか、四人の身性みじょうについて、引ッ手繰たぐられるお手数だけでも省けるようにと思いまして、さいわい、四人のことなら、たいがいわれわれ二人が一伍一什いちぶしじゅう存じておりますから、知っておりますだけのことは逐一申上げるつもりで薬鑵やかんを二つ並べてここでお待ちしていたようなわけで……」
 伝兵衛は、ちょっと手を下げて、
「それは、どうも有難うございました。こちからお願い申さなければならないところを」
 磨きひのきの板壁に朱房しゅぶさの十手がズラリと掛かっている。その下へ座蒲団を敷いて、さて、
「早速ですが、美濃屋清吉というのは、どういう素性の男なんで」
 甚兵衛という年嵩としかさの方が、頷いて、
「はい、あなたもご存じでいらっしゃいましょう、先代の美濃清はそれこそ、たとえ話になるような頑固な名人気質。曲ったことの嫌いな竹を割ったような気性の男でしたが、これが三年前に死にまして、今は忰の清吉の代になって居ります。……依怙贔屓えこひいきになりますから、ありようをざっくばらんに申上げますが、どちらかといえば、鷹にとんび。仕事は嫌いではなさそうですが、ちょっとばかり声が立つもんだから清元きよもとなんかにうつつを抜かして朝から晩まで里春のところに入りびたり。半分は評判でしょうが、毎朝小ッ早く出かけて行って、里春の寝てるうちに火を起すやら水を汲むやら、大変な孝行ぶりだということです」
「この、担呉服の瀬田屋藤助というのは」
「ずっと京橋の金助町きんすけちょうにおりまして、麹町にまいりましたのはついこの春。酒も飲まず、実体じっていな男というきり、くわしいことは存じませんです」
「植亀の方は、どういうんです」
「これは里春の弟子というよりも、むしろ師匠格。吉原の男芸者おとこげいしゃ荻江里八おぎえさとはちの弟子で、気が向くと茶を飲みに行くくらいのもの。ほかの狼連とはすこしちがうんです。庭師のほうもいい腕で、黒田さまの白鶴園はっかくえんを一人で取仕切ってやったくらいの男なんです」
「じゃア、最後の佐渡屋の忰のほうをひとつ」
「定太郎は佐渡屋の相続人あととりなんですが、親父はすこし思惑をやり過ぎるんで、この節、だいぶ火の車で、こりゃまア、世間の評判だけでしょうが、あわや店仕舞いもしかねないほどの正念場ということです。……今度結城ゆうきの織元で、鶴屋仁右衛門つるやにえもんといって下総しもうさ一の金持なんですが、その姉娘と縁組ができ、結納がなんでも三千両とかいう話。この娘が見合かたがたお祭見物に江戸へ出てきて二、三日前から佐渡屋に泊っているんだそうです」
「なるほど。……それで、定太郎と里春はいったいどんな経緯いきさつになっているんです。何か入組んだことでもあるのじゃありませんか」
 折目高おりめだかに袴を穿いた、尤もらしい顔つきをした方が、甚兵衛に代って、
「この方は相模屋さんが、よくご存じないようだから、わたくしが代って申しましょう。……あんなのを悪縁とでも言うのでしょうか、里春はもと櫓下やぐらしたの羽織で、春之助はるのすけといったら土州屋さんもご存じかも知れない。評判の高かったあの松葉屋まつばやの春之助のことです。……七つも齢下の定太郎にじぶんの方から首ったけになって二進にっち三進さっちもゆかぬようになり、商法の見習で定太郎が大阪へ行けば大阪へ、名古屋へ行けば名古屋といったぐあいに、あっちこっちしてる間じゅうこの五年越し影のようについて廻り、定太郎の年季が終って江戸へ帰って来ると、十三丁目と背中合せの箪笥町で清元の師匠をはじめたんです。……気の毒だといったらいいのか馬鹿だといったらいいのか、わたくしには何とも言えません。……佐渡屋は、四谷、麹町でも名の通った旧弊きゅうへいな家風。じぶんの相続人に五年も他人の飯を食わせて商法の修業をさせるほどの親父なんだから、山ッ気のほうは兎も角として、芸者の、師匠のとそういった類をどう間違ったって、家へなぞ入れようはずがない。そりゃア、里春のほうでも百も承知なんだが、矢ッ張り諦めきれないと見える。……あまりいじらしくて、この話ばかりはまだ誰にもしたことはなかったんですが、ちょうど二十日ほど前、町内に寄合があってその帰り途、佐渡屋の前を通りかかって、何気なくひょいと門口を見ますと、戸前に大きな犬のようなものが寝ている。……何だろうと思って、そっと近寄って見ると、鳴海絞なるみしぼりの黒っぽい浴衣を着た里春が、片袖を顔へひき当てるようにして檐下のきしたに寝ているんです。……酔ってるのかと思って、肩へ手をかけて揺って見ると、酔っているんじゃない、泣いているんです。……こんな地面へ寝転がっていると夜露よつゆにあたるぜ、と言いますと、ああ、加賀屋の旦那ですか、手放しでお聞きにくいでしょうけど、あちきは毎晩ここで寝ているんです。……一尺でも定太郎に近いところで寝たいと思いましてねえ、どうぞ笑ってくださいまし……」
「そりゃ、気の毒なもんだ。……それで、定太郎のほうは、どうなんです」
 加賀屋は、苦っぽろく笑って、
「土州屋さん、これはあたしが言うんじゃありません。いくら何でも、頭を禿げらかしたあたしがこんなことを言うわけがない。これは、世間の評判です、どうか、そのつもりでお聴きください。……世間じゃ、定太郎を馬鹿野郎だと言っています。馬鹿も馬鹿も大たわけ。……なるほど、相手はしがない清元の師匠。織元のお嬢さんとは比べものにはなりますまいが、人間の真情は金じゃ買われない。この世で、何が馬鹿だといって、人情を汲み取れねえ奴ぐらい馬鹿はありません……」
 気が差したように、禿上った額をツルリと撫でて、
「こりゃアどうもくだらねえ無駄ッ話を……。尤も、定太郎のせいばかりじゃない。子供のときから親父のいいなり次第。張りのねえ男で、しみったれが盆栽をいじるようにすっかり枝をめられてしまったせいなんでしょうが……」
「それほど嫌っていながら……」
「ええ、それというのは、里春が怖いからなんです。心の中じゃ身顫みぶるいの出るほど嫌ってるんだが、あまり素気そっけなくすると許嫁いいなずけのところへ暴れ込まれ、せっかく纏りかけた縁談をぶちこわされないものでもないと思って、誘われれば嫌々ながら出かけて行くといったわけあいらしいんです」


          火明りに映った顔

 源内先生は、ぶつくさ。
 内心は、それほど嫌でもなさそうなんだが、何かひと言いわないとおさまらないのだと見える。
 年に一度のお祭だというのに、今まで家で何をしていたのか、頭から木屑きくずだらけになり、強い薬品で焼焦げになった古帷子ふるかたびらを前下りに着て、妙なふうに両手をブランブランさせながら、
「ねえ、伝兵衛さん、実に、わしは迷惑なんだ。何かあるたびに、ちょいと先生、ちょいと先生……。わしはお前さんのお雇いでもなければ追い廻しでもない。ひとがせっかく究理の実験をしているところを騙討だましうちみたいに連れ出して、象の腹の中へ入って見てくれとは何事です。嫌だよ、断わるよ。こんなボテ張りの化物みたいなものの胎内潜りなんか、真ッ平ごめん蒙るよ」
 伝兵衛の方は、すっかり心得たもので、決して先生にさからわない。
「ああ、そうですか。嫌なら嫌でようござんす。お忙しいところをこんなところへ引き出して申訳ありませんでした。……お詫びはいずれゆっくりいたしますが、あっしは気がいておりますから、じゃ、これで……」
 源内先生、狼狽うろたえて、
「まア、そう素気すげないことを言うな。お前はひと交際づきあいがわるくて困る。いったい、この象がどうしたんだと」
「いいえ、別にどうもこうもありゃしません」
「そう突っ放すもんじゃない。だいぶ面白そうな話だったじゃないか。……それで、四人はたしかに里春の声を聞いたというんだな」
 伝兵衛は、心のうち北叟笑ほくそえみながら、さあらぬ体で、
「ええ、そうなんです。……練出すときはさほどでもなかったが、追々おいおい陽がのぼるにつれて、象の胎内はせっかえるような暑さになった。ひっくり返えられては困ると思って、師匠大丈夫か、と交るがわる声をかけると、里春は、その都度つど、あいよ、大丈夫。山王さまの氏子が、このくらいの暑さになえたとあっちゃ、江戸ッ子の顔にかかわる、なんて元気な返事をしたそうです」
 源内先生は、怪訝そうな顔で、
「なに、誰が返事をしたんだって」
「誰がって、里春がでさア」
「こりゃちと面妖めんようだな。わしの推察みこみじゃ、里春は、練出さない前に殺されていたはずなんだが、死人が口をきくというのはどういうものだろう」
「源内先生、あなたはひどく見透したようなことを仰言おっしゃいますが、今も言ったように、四人がちゃんと里春の声を……」
「それはわかったが、聞いたということに証拠があるか。あったら出して見せろ」
「そんな無理を仰言ったってしようがない」
「ほら、見ろ、こう突込まれただけでよろけるようなチョロッカなことじゃ何の足しにもなりはしない。それくらいのことなら四人の口合いでも出来ることだし、ひょっとすると、そのうちの誰かが里春の声色こわいろを使ったのかも知れない。足へ入ってる四人は、お互いに姿が見えないのだから、小智慧の廻る奴なら、そのくらいのことはやってのけるだろう」
「まア、そう言えばそうですが、ここに一つ、どうしても定太郎にのがれられない弱い尻ッ尾があるんです」
「尻ッ尾とは、どんな尻ッ尾だ」
「この象の拵物こしらえものは、佐渡屋の親父が洋銀ようぎんの思惑であてた年、ちょうど麹町の年番に当ったのでポンと千両投げ出して先代の美濃清に作らせたものなんですが、その時、佐渡屋が美濃清に、何か人にわからないような細工をそっと一ヶ所だけ拵えておいてくれと頼んだ」
「なるほど」
「美濃清は何をしたかと思うと、後の右脚の附根を丸刳まるぐりにして合口仕立あいぐちじたてにし、そこから胎内へはいって行けるように拵えておいたんです」
「いったい、何のためにそんな子供染みた真似をしたのだ」
「象の胎内潜りをしてひとを驚かせようなんてえのじゃない。そんな茶気ちゃきのある親爺じゃないんです。元文げんぶん以来の御改鋳ごかいちゅうでいずれ金の品位が高くなると見越したもんだから、田舎を廻って天正一分判金てんしょういちぶはんきんや足利時代の蛭藻金ひるもきん、甲州山下一分判金などを買い集め、月並みの金調べの眼が届かないように、そいつをそっと象の胎内にしまい込んでおいたんです。つまり、これで何年後かに大思惑をする肚……」
「ありそうなことだな」
「土蔵一つ造ると思えば、千両は安いもの。祭礼の象の曳物ひきものの腹の中に万という小判が隠してあるとは誰も気がつかない。左前になりかかって家の中は火の車なんてえのは真赤な嘘。……定太郎と織元の娘を縁組みさせ、結納の三千両で息を吹きかえしたと見せ、たくし込んでおいた古金こきんでそろそろ思惑をはじめようというのが実情なんです。……ところが、象の右の後脚のからくりを知っているのは四人の中では定太郎だけ。これは申上げるまでもない。……そもそも、里春を象の腹の中へ入れご上覧じょうらんの節、象の腹の中で小唄をうたわせて、アッといわせてやろうなんてえ発議したのは定太郎なんだから、こりゃアどうも抜き差しがなりません」
「くどい男もあればあるもの。何のためにそんな手の籠んだ真似をしたのだ」
「言うまでもないこってしょう。もう間もなく縁組みをしようというのに、里春のまといつきが欝陶しくてたまらない。どんなことがあっても、じぶんに疑いがかからないような方法で……、まかり間違ったら、美濃清に全部ひっかかるように充分練りに練って仕組んだことなんです」
「わかったようなわからないような変なぐあいだな。そんなことで、じぶんに疑いをかけられずにすませられるだろうか」
「だって、そうだろうじゃありませんか。あの沢山の人眼ひとめの中を練りながら、その腹の中の人間を殺せようとは誰も考えつかない。行燈下の手暗がり。そこを狙ってやったことなんです。昨日の白々しらじら明け、背中へ穴をあけて象の中へ里春を下し込むとき、定太郎は、じぶんだけわざとその場にいなかった」
「いよいよ以てわからなくなった。……里春を象の中へ入れるとき、その場に定太郎がいなかったとすれば、里春を殺したのは、定太郎ではないわけだ」
「こりゃア驚いた、先生もずいぶんわからない。今も言ったように、四人の中で、定太郎だけが脚から象の胎内へはいって行けるんですぜ」
「入って行けないとは言わないが、象を担ぎながらひとは殺せない。それに、菘庵が里春が二刻前に死んでると言った事実だけは、どうしたって動かすことが出来ないのだ。俺は、かならずしも定太郎が殺したのではないと言わないが、里春が殺されたのは、何といったって練出す前だったことだけはまぎれもない」
「すると、血の方はいったいどうなります。……どうしたって永田馬場を曳出す前にみ出していなければならないはずでしょう」
「何でもないようだが、そこに、この事件のアヤがある。……はてな」
 源内先生は、腕組をして、ひどくムキな顔をして考え込んでいたが、間もなく、ポンと横手をって、
「伝兵衛、わかった! 里春を殺したのは、定太郎でもなければ、担呉服でもない。いわんや、植亀などではない。こりゃアやっぱり美濃清の仕業だ」
「そ、そりゃ、いったい、どういうわけです」
「おい伝兵衛、そもそもどういう理由によって象が胸から血をらした。……里春は象の腹の窪みの中で死んでいたというから、血が滲み出すなら胸からなどではなく腹からしたたるはずだ。このわけが、お前にわかるか」
 伝兵衛は、面喰って、
「どうも、だしぬけで、あっしには、何のことやら……」
「なぜ腹から血が滴れないかと言えば、外へ血が滲み出さないように、あらかじめちゃんと支度がしてあったからだ。わしの考えでは、ちょうど血の溜りそうな象の腹の内側を桐油張とうゆばりかなにかにして置いたのだと思われる。……ところが、美濃清は、象が梨の木坂を降りることをうっかり計算に入れなかった。……天網恢々てんもうかいかい、象が梨の木坂を降りた拍子に腹に溜っていた血がみな胸のほうへ寄ってゆき、計らざりき、思いもかけない手薄なところから滲み出してしまったというわけだ。上手じょうずの手から洩れるというのはこの辺のことを言うのだろう。これから推すと、美濃清は、やはり象の後の脚のからくりを知っていたんだな。……言うまでもない、こりゃア、恋の怨みで定太郎を突き落すための仕業なのさ」
「すると、美濃清は、いつ里春を殺ったのでしょう」
「たぶん、朝鮮人が寄ってけたたましく前囃子まえばやしをはじめたころででもあったろうよ。……論より証拠、のっぴきならないところを見せてやる」
 と言いながら、象の腹のほうへ寄って行き、檳榔子塗びんろうぬりの腰刀を抜いて無造作にガリガリと胡粉を掻き落していたが、そのうちに手を休めて得意満面に伝兵衛のほうへ振りかえり、
「どうだ、伝兵衛。ここへ来て見ろ。象の下ッ腹に、この通り桐油とうゆを五枚梳張すきばりにして、その上を念入にしぶでとめてある。象の腹で金魚を飼いやしまいし、こんな手の込んだことをする馬鹿はない。それに、ひと眼見てわかる通り、これは去年一昨年おととしのものじゃない。つい最近にやった仕事。……なア、伝兵衛、こんな仕事が出来るのは、四人のうちで美濃清だけ」
「恐れ入りました」
 源内先生、ニヤリと笑って、
「お前が恐れ入ることはないさ。……しかし、これだけじゃ、美濃清の首根ッ子を押えるわけにはゆかない。親父のやったことで私は知りませんと言われたらそれっきり。……敵をはかるはまず怖れしむるにある。……棒を持った象の番人などはみんな引っ込めてしまって、象が胸から血を滴らしたのは何故だろう何故だろうと、何気ないふうに触れて歩け。かならず美濃清が象を焼きに来る」

 夕方からとのぐもって星のない夜。
 まわりは空地なので、祭礼まつりの提燈の灯もここまではとどかない。
 蓬々ぼうぼうの草原に、降るような虫の声。
 濃い暗闇やみのなかに墨絵で描いた松が一本。
 その幹へさしかけにした葭簀囲いの間から、闇夜にもしるく象の巨体が物ののようにぼんやりと浮きあがっている。
 祭礼まつりのさざめきもおさまって、もう、かれこれ丑満うしみつ
 蛍火ほたるびか。……象の脚元で火口ほぐちの火のような光がチラと見えたと思うと、どうしたのか、象が脚元からドッとばかりに燃え上った。
 乾き切っていたところと見え、前脚にメラ/\とたちあがった火が、めずるように胴のほうへ這って行き、またたく間に大きな象の身体からだ紅蓮ぐれんの焔でおし包んでしまった。
 象の脚元にうずくまっている一人の男。
 井桁格子いげたごうしの浴衣に鬱金木綿うこんもめんの手拭で頬冠ほおかむり。片袖で顔を蔽って象のそばから走り出そうとすると、人気ひとけのないはずの松の根方ねかたから矢庭やにわに駈け出した一人。
「野郎ッ!」
 間をおかずに、今度は葭簀の裏からまた一人。
「美濃清、御用だ」
 くだんの男は、げッ、と息をひいて、つんのめるように闇雲やみくもに駈け出した。と見るうちに、もやい合った夏草に足を取られて俯伏せにどッと倒れた。
 同体になって一人は肩、一人は足。グイッと押えつけておいて、
「じたばたするねえ、ももんがあ
足掻あがきやがるな、経師屋きょうじや
 男は、歯軋はぎしりをして、
「畜生ッ、桝落ますおとしにかけやがったか」
 ちえッ、と舌を鳴らすのを引起して顔を見ると、美濃屋清吉。……
 肩を押えたのは、北番所きたの土州屋伝兵衛。足を掴んだのは、南番所みなみ戸田重右衛門とだじゅうえもんだった。
 薪割りから水汲みと、越後から来た飯炊男めしたきおとこのように実を運んでも、笹の雪、しなうと見せて肝腎なところへくるとポンとねかえす。美濃清も愚痴な男ではないのだが、もう抜きも差しもならない恋地獄。祭礼の酒に勢いを借りて最後の手詰めの談判をして見たがどうにもいけない。定太郎のことでいっぱいで、あなたのことなんぞは思って見る暇もないという愛想尽かしだった。
 定太郎がいるばっかりにと思いつめたら、もう何を考える余地もない。どんなことがあったって里春を生きたままでは定太郎に渡さねえ。
 親父が死ぬときに、そっと囁いた象の後脚のからくり。ちょうどそこへ定太郎が入ることから思いついて巧く仕組んだ象の中の人殺し。
 定太郎の縁組が近づくのに、里春に纏いつかれて困っていることは町内で知らないものはない。せっぱ詰って定太郎が里春を殺したと見せかけるつもり。それには象が練っている途中に殺したと見せるのでなければまずい。象の腹の内側に桐油を張って漆で留め、二刻ぐらいは血が外へ洩れないようにして置いた。
 里春を殺したのは、象の背中から中へ入れたときだった。座蒲団を持ってじぶんも一緒に入ってゆき、隙を見すまして左手で口を蔽い、右で乳の下をグッとひと刺し、象のまわりではチャルメラや鉄鼓をかしましく囃し立てていたので、里春の知死期ちしごの叫び声は象の脚元にいた植亀や藤助の耳にも聞えなかった。
 象の中が蒸れてきて、みなが気遣って里春に声をかけると、そのたびに美濃清が里春の声色を使って返事をしていた。

底本:「日本探偵小説全集8 久生十蘭集」創元推理文庫、東京創元社
   1986(昭和61)年10月31日第1刷発行
   1989(平成元)年3月31日4版
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志、小林繁雄
2007年12月12日作成
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