一

 奥山の仙水せんすいに、山女魚やまめを釣るほんとうの季節がきた。
 早春、崖の南側のだまりに、ふきとうが立つ頃になると、渓間の佳饌かせん山女魚は、にわかに食趣をそそるのである。その濃淡な味感を想うとき、嗜欲しよくの情そぞろに起こって、我が肉虜おのずから肥ゆるを覚えるのである。けれど、この清冷肌に徹する流水に泳ぐ山女魚の鮮脂を賞喫する道楽は、深渓を探る釣り人にばかり恵まれたおごりであろう。水際の猫楊ねこやなぎの花が鵞毛のように水上を飛ぶ風景と、端麗神姫に似た山女魚の姿を眼に描けば、耽味の奢り舌に蘇りきたるを禁じ得ないのである。
 青銀色の、鱗の底から光る薄墨ぼかしの紫は、瓔珞ようらくの面に浮く艶やかに受ける印象と同じだ。魚体の両側に正しく並んだ十三個ずつの小判型した濃紺の斑点は、渓流の美姫への贈物として、水の精から頂戴した心尽くしの麗装に違いない。しかも藍色の背肌に、朱玉をちりばめしにも似て点在する小さく丸い紅のまだらは、ひとしお山女魚の姿容を飾っている。黒く大きい、くるくるとした眼、滑らかに丸い頭、あらゆる淡水魚のうち、山女魚ほどの身だしなみは、他に類を求め得られまいと思う。
 渓のなぎさに、葦の芽がすくすくと伸びた早春の頃は、数多く山女魚が釣れる。山の釣り人はこれを雪代ゆきしろ山女魚といっている。また、肉充ち脂乗って、味覚に溶け込む風趣を持ってくるのは、初夏から、渓水の涼風肌を慰める土用頃である。これを至味の変と言う。
 近年、都会人に渓流魚釣りの技が普及して、三月の声を聞くともう、魚籠びくを腰にして東京に近い渓谷へ我れも我れもと分け入り、重たいほど釣り溜めて帰ってくる。そして、渓流魚釣りは世間で言うほどむずかしいものではない、と語るが渓流魚釣りの真髄を味わい得るのは、山女魚の活動が敏捷になった初夏の候、谷の流れが澄明ちょうめい、底石の姿がはっきりとなる、朝と夕べのまずめであろう。
 くさむらから香りの高い山百合が覗く崖の下に立って、羽虫に似た毛鈎けばりを繰り、上下の対岸から手前の方下流へ、チョンチョンチョン、水面を叩きながら引き寄せるうち、ガバと水をわって躍り出す山女魚の姿を見るのは、晩春の夕が山頂の西の雲を緋に染めた一刻である。ひらひらと水鳥の白羽を道糸の目印につけて、鈎を流水の中層に流す餌にも山女魚の餌につく振舞に、何とも言えぬ興趣を感ずる。毛鈎の叩き釣りの豪快には比すべくもない。
 引く、引く。鈎をくわえて水の中層を下流に向かって逸走の動作に帰れば、竿の穂先は折れんばかりにたわむ。抜きあげて、掌に握った時の山女魚の肌の感触。これは釣りする人でなければ語り得まい。渓流魚釣りの魅力に陶酔する所以ゆえんである。

       二

 岩の割れ目から、月の雫のように清水の玉が滴り落ちる渓流の源には、山椒魚さんしょううおが棲んでいる。これは、源流の水温が最も低いからである。源流がくだって、せせらぎとなり滝に移るところには岩魚いわなが棲む。岩魚も冷たい水を好むからだ。それから下流には、山女魚が泳いでいる。岩魚も、山女魚も摂氏せっし十八度より高い水温を嫌う。であるから、この二つの魚は冷寂な渓流を好んで、里に近い流れには、あまりに姿を見せないのである。時に山女魚は、鮎やはやの棲む中流へも姿を現わすことがあるが、それは甚だまれだ。
 山女魚と岩魚は共に鮭科に属し、近い親戚ではあるが姿や習性が幾分違う。
 地方によって呼び名も違う。東京では正しくヤマメと言っているけれど、栃木県と群馬県の桐生地方ではヤモと呼び、福島県、宮城県、北海道などではヤマベと称している。また、ヤモメと言っているところもある。岐阜県から、滋賀県、京都府へかけてはアメノウオ、またはアマゴなどと呼び、中国地方ではヒラメ、九州ではエノハと名づけている。台湾の大甲渓に棲んでいるサマラオコスも、山女魚であると言う。
 山女魚は、ますの子によく似ている。姿全体と言い、紫色に光る鱗と言い、十三個の斑点の並びまで、山女魚と鱒の子は殆ど見分けがつかない。初心の釣り人は鱒の子を釣って山女魚であるということがあるが、仔細に見るとどこか異なっている。鱒の子は山女魚に比べると鰓蓋が少し長い。そこで、所によって鱒の子を『頬長ほほなが』とも呼んでいる。そして鱒の子は、山女魚よりも肌に白銀色の光りが強く、腹の方は真っ白であると言っていいのである。また山女魚の鱗は、肌にしっかりとついているが鱒の子の鱗は剥げやすい。それは、塩鮭と塩鱒を見分ける時、鱗の剥げやすい方を鱒であるとするのと同じである。
 ここで指す鱒というのは、昔から日本の川へ海から遡ってきた在来種であって、外国種の鱒ではない。山女魚、鱒の子ではほんとうによく似ているが、親鱒とは直ちに区別がつく。親鱒は形が大きく山女魚は小さいというばかりでなく、肌の色が全く異なっている。親鱒は背が青銀色で腹の方へ白く、紫の艶というものがない。明らかに区別のつくのは楕円形の十三個の斑点が消えてしまっていることで、それだけ親鱒は山女魚に比べて、美しさが劣っていると言ってよかろう。
 箱根山を境として、東の国の山女魚と西の国の山女魚とは、肌を飾る斑点に異なったところのあるのは興味あることである。いずれも魚体の両側に十三個の小判型の斑点があるのに違いはないが、箱根から西の山女魚には小判型の間に朱色の小さな斑点が不規則に散在しているのに対して、関東のものにはそれがない。これを関西系の山女魚、関東系の山女魚と称している。
 笹子の連山を分水嶺として、西側甲府方面へ向かって流れ出し笛吹川へ注ぐ渓流は日川、東側へ流れ出で、桂川へ合するのを笹子川と言っているが、日川にいる山女魚は関西系であって、笹子川にいるのは関東系である。僅かに一つの分水嶺を境にして、種の分布が違うのは、まことに面白い現象であると思う。また、箱根の二子山に源を持ち湯本に落ちて早川に合し、相模湾へ注ぐ須雲川の山女魚は関東系であるのに対し、丹那トンネルを越えて第一の駅、函南村を流れ出して駿河湾へ注ぐ柿沢川の山女魚は関西系である。同じ信州でも浅間火山を取りまく諸渓流には関東系の山女魚が棲み、犀川の上流日本アルプスから流れ出す奈良井川や高瀬川に産する山女魚は関西系に属し、江州琵琶湖に棲む※(「魚+完」、第4水準2-93-48)(アメノウオ)と同じであるのは面白い。
 諸国を釣りして歩き、こんなところにまで心をとめれば、釣技にもまた特別な興趣が伴うものである。
 敏捷であって人におびえる習性を持っている。餌に向かって猛然と突進してくるが、その餌を口にして鈎のような詭計きけいな仕かけがあるのを知れば、直ちに口から吐き出して逃げる早さは疾風に似て眼にも止まらない。そこをだまして釣り上げるところに、山女魚釣り独特の快味があるのである。
 晩秋至って水冷えれば奥山から下って中流に赴く。これを木の葉山女魚と言い、春きたれば深渓に冷水を求めて帰る。これを雪代山女魚と言う。

       三

 岩魚の姿態は、山女魚によく似ているが、山女魚に比べるとつら構えが獰猛どうもうである。そして気性がはげしい。なぎさに水を求めにくる蛇をも襲わんとし、熊蜂、蜥蜴とかげをも、ひと呑みにする。
 口は大きく、歯は鋭い、肌の色は山女魚の淡墨の地に紫を刷いたような艶があるのに対して、岩魚は暗黄褐色である。ところにより暗黄褐色の上へ、藍青色を刷いたような彩を持つ岩魚もある。そして、鱗を白い小さい玉と、紅の小さい玉とが不規則に飾って、まことに美装の持ち主である。大きなものは一貫目以上に育つ。かつて、奥上能瀬沼でとれたものは二尺以上もあった。
 北陸から東北、関東地方から東海道にかけてはイワナと読んでいるが、和歌山県と奈良県ではキリクチと言い、中国地方ではゴギまたはコギと名づけ、滋賀県ではイモナ、イモウオと称しているそうである。
 学者の説によると、日本内地にいる岩魚と、北海道に棲んでいるのとは違うらしい。内地のもののように赤い斑点がない。これをアメマスと称している。このアメマスはエゾイワナと言うのが本名で、北海道では陸封された川や湖沼に生活しているが、樺太へ行くと川にも棲み、海へ遊びに行く。
 また、別にカラフトイワナと言うのもある。これはオショロコマと言うのが学名だそうである。樺太、カムチャツカ、アラスカ方面の海に棲むもので、形は大きく、明らかに肌に赤い斑点がある。なお、この外に北海道の一地方に、陸封された特殊の変種が発見されているともいう。
 元来、岩魚にしてもエゾイワナにしたところが、オショロコマの陸封されたものであるから、広義にはイワナ類はすべてオショロコマの地方的変異種と見なしてよろしい、と解釈されるのだ。しかし、そんなことはどうでもいい。我れにはただ、釣って勇ましく、食べておいしければよろしいのだ。

       四

 人により、鮎の高い香気と清涼な風趣を絶賛し、一方には山女魚の濃脂のうしと、焼き上げた肉の軽泊けいはくとに心酔している人があるが、それは人々の好みによることであるから、いずれの味品がよいか俄に断じきれない。
 友釣りで釣ったばかりの鮎を、河原で石焼きにした風味と、山女魚や岩魚を山径の傍らでにわか作りの熊笹の串に刺し、塩をまぶしてあぶった淡味とは、ともに異なった環境を心に配して、それぞれ独特の食趣を舌に覚えるのである。
 だが、山は無言である。谷は幽寂である、山女魚ひとりが、淋冷りんれいを破って、水面に跳躍する。なんと、人の釣意ちょういをそそるではないか。
 背負い袋に、米と塩を詰めて山へ行こう。深い峡谷を訪ねよう。
 渓流魚の一番沢山棲んでいるのは、何といっても日光を中心として東は鬼怒川へ、西は利根川へ流れ出る諸渓流である。そのうちでも、鬼怒川へ集まるいくつもの谷川には、殊に山女魚や岩魚が多い。
 鬼怒川温泉の上流新藤原で電車を降り、川治温泉で鬼怒川と分かれる男鹿おじか川をたどり、会津境の中三依に至れば、山女魚が相混じって鈎に掛かる。さらに不動滝を越えた上三依は岩魚の本場である。会津の枯木山の方から流れ出て、男鹿へ注ぐ湯西川は、相貌そうぼう甚だ複雑である。激湍げきたん岩をんで、白泡宙空ちゅうくうに散るさま、ほんとうに夏なお寒い。一つ石の集落と、湯西川温泉を過ぎ、高手の村をはずれれば川は峡の底を流れて、鬼気人に迫るの感がある。山女魚と岩魚が無数だ。熊も出る。
 湯西川の源流から藤ヶ崎峠を越えて右すれば馬坂沢、左すれば土呂部渓谷である。共に鬼怒の奔流へ注ぐ。まだ都会の釣り人が足を印したことのないといわれる釣り場だ。裏日光、八千尺の太郎山の峭壁しょうへきにらんで釣る姿、寂しさそのものであると思う。
 川治温泉から鬼怒川本流を遡り、青柳平と黒部を過ぎ、川俣温泉へ辿たどりつけば岩魚の仙境だ。さらに日光沢温泉、八丁湯のあるところは谷が深い。
 奥日光、湯川と湯の湖のます釣りも渓流魚釣りの項に加えてよかろう。湯元の温泉に一夜をくつろぎ、翌黎明れいめい爽昧そうまいの湯の湖を右に見て、戦場ヶ原の坂の上に出て、中禅寺湖の方を展望すれば、景観は壮大である。
 茫漠ぼうばくとして広い青茅あおちの原に突っ立ったつがの老木から老木へ、白い霧が移り渡って、前白根の方へ消えいく。やがて昇る朝陽あさひに、朱に染めた頭を集めて男体と女体が、この浩遠こうえんな眺めを覗きながら、自然の悠久を無言に語り合っている。草薙山の方に近い密林の中に、早春の雄鹿が嬉々ききと鳴く。
 湯滝の滝壺は、まだ夜が明けきれない。絶壁と緑樹が朝陽をさえぎって残りのやみが、地面を淡墨に漂う。だが、滝の岩頭には朝がきた。ばくは真っ白な飛沫をこまやかにちらして、大空を落下してくる。澄白と薄明の対照だ。
 滝壺の瀬尻のせせらぎに、ガバと波紋を描いたものがある。それは、虹鱒にじますであろう。かげろうの羽虫を餌として、はりを瀬脇に投げ込めば、瞬間にグッとくる。しかと餌を食い込んだのだ。竿も折れよとばかりの強引である。ようやくにして水面へ抜きあげ、手網にとって見た虹鱒、銀青色の横腹に紅殻べにがらを刷いたようないろどり、山の魚は美しい。
 湯の湖へは姫鱒ひめます、湯川へは川鱒かわます虹鱒にじますを、帝室林野局で年々数多く放流している。冷徹れいてつな峡間は、湯滝の下に苔生こけむした天然林を抜け出して、戦場ヶ原をいく曲がり、龍頭りゅうずの滝を落ちて中禅寺湖へ注いでいるが、ここは渓流魚釣りの練習場として、まことに好適の流れである。

       五

 上越国境は、渓流魚の巣であるかも知れない。清水トンネルの下を流れる湯桧曾ゆびそ川、谷川岳から出る谷川、万太郎川から越後へ走る魚野川。いずれも岩魚の姿が濃い。
 尾瀬ヶ原へは、春の訪れが遅い。尾瀬沼と尾瀬ヶ原を結ぶ沼尻川、ひうち岳の西を流れる只見川の岩魚は、この頃ようやく冬の眠りから覚めたくらいであろう。片品川の本流と、根羽川には山女魚と岩魚混じりで大ものがいる。鳩待峠の方から、冷たい水を集めてくる笠科川の岩魚は、すごいほど勇敢に餌に向かってくるのである。
 菅沼と丸沼の水を集めて、金精峠から西に向かい片品川へ落ちこむ大尻川には、今年山女魚と岩魚が多かった。片品川と、大尻川の合する鎌田の村から下流は二尺に近い巨大な鱒が棲んでいて、時どき竿を引き折って釣り人をあっと驚かす。
 この付近、南の空に大赤城の聳立しょうりつするあり、東には奥白根、西には武尊ほたか、北にひうち岳を控えて雲の行きかいに、うたた山旅の情をくものがある。利根川、白砂沢、また、花咲峠から渓水を運んでくる塗川にも渓流魚は豊富である。仏法僧で名高い迦葉かしょう山に源を持つ発知川と池田川は、幽邃ゆうすいそのものだ。
 関東平野の北端、秀峰榛名の麓から西南の遠い空を望むと、甲州の八ヶ岳が雲表に突き出ている。里の村々では、まだ夏が去ったばかりであるという頃に、八ヶ岳のいただきには白い雪が降る。その初雪が解けて流れてくるのであろうか、裏秩父の神流かんな川には、水晶のように清い水が淙々そうそうと音を立てている。
 信越線新町駅に下車して藤岡、鬼石と過ぎ、冬桜で世に聞こえた三波川の合流点まで行けば、秩父古生層が赤裸の肌を現わして、渓流に点在する奇岩に、釣り人は眼をみはるであろう。岩と岩の間は瀬となり渓と変わり、流相の変化応接にいとまがないが、深淵に大きな山女魚が悠々と泳ぐさまは見のがすまい。
 万場の町から上流は、都会人が釣り旅に入るは甚だまれである。中野村、上野村と行けば渓流魚の桃源郷だ。流れの落ち込みに、自然のままに山女魚や岩魚がたわむれている。人ずれしない魚は、誰の鈎にもたやすく掛かる。
 奥秩父の三峰川と、中津川にも近年まで渓流魚は数多かったが、近頃は職業漁師と都会人のためにり尽くされてしまった。
 浅間火山の北麓、六里ヶ原を流れる幾筋もの渓流にも、山女魚と鱒の姿の大きなものが棲んでいる。地蔵川、熊川、応桑用水、濁り川、赤川などの山女魚は、山にまだ早春の寒い気がとどまっている四月ともなれば、盛んに水面に活躍して鈎に飛びつく。殊に応桑田の一匡邑いっきょうゆうの近くには魚が濃く、同じ釣り場に幾回毛鈎を打っても跳ね上がってくる。法政大学村の中央を流れる熊川の山女魚は大きい。俗に銀山女魚といわれる魚で、鱗が白銀色に光って美しいのであり、濁り川は、鬼の押し出し所に湧きでるが、密林が深く夏場は分け入るのに困難だ。しかし、一度分け入ればことごとく処女地である。二間の竿に、二尺の道糸をつけ、落ち込みに餌を下げると、文句なしにグイと引き込む。次の釣り場も、次の釣り場も同じである。
 ただ注意せねばならぬのは大きな熊が鬼の押し出しから遊びに出てくることだ。熊は山独活やまうどの根を大そう好物としている。初夏の頃には、川べりの湿地に出て、山独活を掘りながら戯れているから、大声で歌でもうたって行けば先方で逃げよう。
 筆者も昨年、この川の緑に生い茂るすすき原の中で大熊に出会い、命からがら一匡邑近くまで飛び帰ったことがあった。
 高山には、いつまでも冬が残っている。六里ヶ原の原頭に立って、越後の方の遠い深い山から吹いてくる北の風に棚引いて、浅間の噴煙が武蔵国の方へ流れ行く雄大な展望に接し得るのは、山の釣り人が持つ特権だ。

       六

 東京に近い川で山女魚の棲んでいるのは、奥多摩の本流とその支流日原川と、秋川とである。だが、東京に近いだけに交通の便がよく、約二、三年漁期に入ると一竿を肩にした人々が、我れも我れもと押しかけるので、既に早春のうちにり尽くしてしまう。とりわけ、今春は渓流魚釣りの熱が都会に普及してきたので、日原川の山女魚は種も尽きよう、という有様となった。
 秋川も、一両年後に釣り尽くされるであろう。禁漁中の二月から、釣り人が入り込んで、まだ産卵後の、体力の回復しない黒くびた肌の山女魚を五十、百と毎日釣ってきた人もある。何とかこのさい取り締まりを厳重にしないと、多摩川筋の山女魚は絶滅してしまうかも知れない。近年は大量的に虹鱒と川鱒の放流を行なっている。だが、日本独特の山女魚が多摩川から姿を消していこうとするのは、まことに悲しむべき事実である。
 甲州へ入ると、山女魚と岩魚が多い。甲武信ヶ岳こぶしがたけの密林から出てくる笛吹川、甲斐駒の肩に源を持つ釜無川、金峰山の本谷川、御岳昇仙峡の荒川など、何れも釣り人憧憬の渓である。ところが甲州と信州の人々は、渓に毒を流して魚をとる悪い癖を持っている。先年富士見に別荘を持っている小川平吉氏が、釜無川に毒を投げ込み山女魚と岩魚を四斗樽に二、三杯もとったという噂があったが、もしほんとうであったら、もってのほかだ。
 笛吹川と釜無川はかじか沢で合して富士川となり、俄然がぜん大河の相を備えて岩に砕け、滔々とうとうの響きを天に鳴らして東海道岩淵まで奔下し太平洋へ注いでいるが、その途中の山から出てくる幾筋もの支流では、関西系の美しい山女魚がいくらでも釣れる。
 早川、常葉川、波木井川、福士川、佐野川、稲子川、芝川など、何れの川も釣り場として好適である。殊に白根三山の雄、北岳の墨樺から流れ出る野呂川、つまり早川の上流は西山温泉や奈良田付近に素晴らしく渓流魚が棲み、そして形が大きい。また、芝川上流にある静岡県の養鱒場は、釣り人の一度は視察しておくべきところであろう。
 信州のあずさ川は、岩魚の釣り場としてあまりにも有名である。それだけに四、五年前に比べると、魚の数は減った。奥飛騨の高原川の上流は笠ヶ岳近くで蒲田川となる。この雪をはらんだ渓谷には、まだ人の姿を見たことのない岩魚がいる。黒部川も岩魚の産地だ。しかし、近年は五色原の方まで分け入らなければ、一日に一貫目とは釣れないようになった。
 神通川の上流は、裏飛騨へ入って宮川という。高山から飛越国境の蟹寺までの間、二十里ばかり、宮川は奔馬ほんばのように急勾配の渓底を駆けくだっている。恐ろしいほど荒い川である。この川の、巣の内と打保の間の激湍げきたんで釣れる尺鮎は全国的に有名だが、この川に注ぐ多くの渓流に岩魚釣りの処女地が無数にあるのは、あまり知られていない。
 いったい裏飛騨の漁師は、岩魚を釣っても売り場がないからかてに代えるわけにいかぬ。そこで岩魚や山女魚はかえりみないのである。一両年前から飛越線が通じて旅行者が訪れるようになったが、八月から九月へかけては鮎の友釣りにばかり専念して、渓水に岩魚を追う人は極めてまれだ。登山の季節にここまで遠征することを、都会の釣り人にすすめたいと思う。
 伊豆から東海道へかけても、釣り場は沢山ある。伊豆温泉の松川は、伊豆の町から一里も遡ればもう釣り場である。狩野川の上流、湯ヶ島温泉付近も魚は濃い。支流の大見川は、修善寺橋かみ手の合流点から十五、六町離れれば、大きな山女魚が深い淵に泳いでいるのを見る。丹野の方から流れ出て大見へ入る小さい渓流の年川も、立派な山女魚が棲んでいるのでほんとうに見のがせない釣り場である。
 興津川は鮎ばかりの流れではない。中流小島村付近から上流には清い流れの底を佳麗な山女魚が楚々そそとして泳いでいる。
 京都付近の諸渓流にも、また九州にも釣り場は沢山ある。神国日向ひゅうがの美々津川の上流へは、まだ山女魚を志して分け入った釣り人は全くあるまい。
 台湾大甲渓の山女魚は、先年大島正満博士が原住民と共にもりやなあさり、鮭科の魚の分布に関して学問上の報告を出したので有名である。

       七

 渓流魚の釣趣を味わうのは、大したむずかしい道具立てはいらぬ。餌釣りには二間か二間半のやわらかくて、そして軽い竿。道糸は秋田の渋糸の十五りか二十撚りを竿の長さだけつけるのである。鈎素はりすは磨きテグスの一厘か一厘半で、鈎は袖型の七、八分がよかろう。おもりは調節を自由にするため、板鉛を使う。そして、魚の餌にからまる振舞を、速やかにきくのに都合がいいように、道糸の途中に水鳥の白羽を目印としてつけるのである。
 餌は川虫、山葡萄の蔓虫、鰍の卵、虎杖いたどりの虫、柳の虫、蚯蚓みみず、栗の虫、蜻蛉とんぼあぶ、蝶、蜘蛛くも、芋虫、白樺の虫、鱒の卵、鮭の卵、川百足むかで、黄金虫、蟹などで、何でも食う。
 道糸を流れの落ち込みや、瀬脇へ振り込んで下流へ流してくる途中、山女魚が餌をくわえれば、水鳥の白羽の目印が微かに揺曳ようえいする。そこで、すかさず鈎合わせをすれば魚の口にガッチリと掛かる。引く、引く、山女魚は渾身の力を尾鰭にこめて逸走の動作に帰るのだ。
 毛鈎の竿は、短いものが都合がいい。九尺くらいか長くて一丈一尺もあれば充分である。道糸は馬尾ばす糸を幾本にも撚ったもの、竿三、四尺短くつける。鈎素はりすは上等テグスの三、四厘を二尺くらい。鈎は、鶏の襟毛、孔雀くじゃくの羽毛、山鳥の羽などで昆虫の羽虫に似せて巻くのである。筋さえ覚えれば、素人しろうとでもたやすく巻けるのである。
 チョンと瀬の水面へ毛鈎を振り落とすと、鈎が水につくかつかぬというのに山女魚は、猛然と岩かげから躍り出て飛びつく。合わせる。毛鈎釣りは、鈎合わせに早過ぎるということがない。
 釣った山女魚を白焼きにして、まだ温かいうち醤油で食べれば、舌先に溶ける。さらに田楽でんがく焼きの魅惑的な味は、晩酌の膳に山の酒でも思わず一献を過ごす。

       八

 史記に、支那文化黎明時代、人に穀食を教え、医薬を発見した神農は、舌をもって草をめ、その味によって種別した、とあり、齊の桓公の料理人易牙は、形の美をわずして味の漿しょうたしなんだ、という。
 そこで、さき頃筆者が、山女魚と亜米利加あめりか系鱒を携え日本料理人組合会の最高幹部という仁に示し、その判別を試みたところ、ついに鑑識かんしきを得なかった。また、豚の肝臓をもって飼養した味品まことに卑なる川鱒と生蝦の餌で育った淡味口に凉を呼ぶという川鱒とを並べ焙烙ほうろくの勝を求めたに対し、その仁は、豚の肝臓を餌にした方を指した。
 味は舌の芸術である、というから食品により人々好悪の主観を別にするのは当然であるが、既に定評ある養殖鱒の味覚に正しき判断を得られなかったのは残念である。庖刀をっては東京第一流の料理人と称されるものが、この通りであるとすれば、市井しせいに鍋を傾ける底の料理人の舌の教養も、概ねどれほどであるかが知れよう。
 板前は、食品に容の美を整えるを知って、至味の膳を悟らぬ。悲しむべきことと思う。

底本:「釣りにつられて」福武文庫、福武書店
   1994(平成6)年10月5日第1刷発行
底本の親本:「垢石釣り随筆」つり人社
   1992(平成4)年9月10日第1刷
入力:鈴木厚司
校正:川山隆
2007年8月13日作成
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