私は、ふた昔それ以上も久しい前、水戸に浪人していたことがあった。毎日、なすこともないのであるから、釣りにばかり耽っていた。千波沼の、おいかわ釣り。那珂川上流の、鮎の友釣り。那珂川下流の、鮭の子にすずき釣り。備前堀の鯉釣りなど、季節季節の釣りに追われるような思いを持ってきた。
 しかし、おいかわや鮭の子など小物釣りにはいささか飽いてきたようである。なるほど、おいかわや鮭の子釣りには、小味の趣があって人に知れない楽しみを、柔らかい竿先に感ずるのであるけれど、そればかりやっていたのでは世間が狭い。なにか、趣の変わった大物釣りでもやってみたいと考えていたところ、ある人の紹介で茨城県庁の役人と、知り合いになった。
 その役人は、役人といっても、ほんとうの小役人であった。だが、釣りは達人であった。人の知らない釣りを知っていた。役所にいては、同僚から軽んぜられているが、一度水に向かうと別人のように、立派な俤を備える初老の人物である。
 ある年の真夏、私はその役人のあとへついて那珂川の河原へ行ったとき、決して誰にも語ってはいけないという条件を前おきにして、素晴らしい釣りを教えて貰ったことがある。それは、鱸釣りだ。
 私も、鱸釣りに経験がないわけではない。殊に、川鱸には東京にいたころ[#「いたころ」は底本では「いたこと」]、取手の大利根川まで遠征したことがある。ところが、この役人の説くところの鱸釣りは、方法から餌に至るまで、私の初耳なのだ。河原の石に腰を下ろして、役人が細かく教示するのを、私は感心しながらきいた。
 役人の釣り方は、こうなのである。いままで、東京方面から遠征してくる釣り人は、イトメやゴカイ、袋イソメなどを持参しているが、僕のやり方は、そんな高価な餌はいらない。蝦でよいのだ。しかも、その蝦はこの那珂川に棲んでいる川蝦である。川蝦は、長さ一寸前後、藻蝦よりも少し大きい。川岸の捨石や石垣、沈床の間などを這い回っているから、短い棒の先へ、鳥の羽根を結びつけて石の間から追い出し、手網のなかへ追い込むのだ。こうすると、二、三時間に五十尾くらい捕るのは苦労はいらぬ。
 一回の釣遊に、五十尾の餌があれば充分だ。しかも、餌代不要だ。
 竿は七、八尺。延べ竹で、穂先を鮎のゴロ引き竿の穂先ほど太くし、竿尻は鋭くしておく。それは、水の底の小石の間へ刺したてるためだ。道糸は、人造テグスの一分半くらいの太さのもの一たば、二十間を全部用いる。鉤素はりすはテグスの一分二厘乃至一分半が適当である。鈎はフッコの一寸。おもりは一匁から五匁くらいまで用意し、これを時刻と流速を考えて、適当につけるのである。
 鈎へ蝦をさすのに、秘密がある。これは、誰にも教えてはいけませんよ。まず、蝦を右の手の二本指でつかまえて、尻の方から腹の三節目へ、鈎先をさす。その場合、腹の中央に頭から尻へ一直線に朱色の線が張っているが、それは神経であるから、必ず鈎先を神経に触れてはいけない。そして、鈎先を背中へ抜く。
 こんなふうに、鈎先をさすと、蝦は二、三十分くらいの長い間、活きているまま水中に泳いでいるから、活き餌を好む鱸の眼につきやすい。二、三十分して、魚の当たりのないときは、餌を調べてつけ替える。
 さて、狙い場所だ。川へ遡り込んできた鱸は、海にいるときと同じように甚だ貪食だ。真冬の間は、深い淵や瀞にひそんでいるけれど、それでも餌を追うことを忘れない。だが、午後四時頃からが彼等の活動の時間である。真夏の陽が、西の地平線へ一丈ばかりのところへ近づいてくると、鱸はそろそろ浅場へ泳ぎだしてきて、餌である蝦や小魚を追いまわすのである。もし、浅場の水面を蝦や小魚が跳ね上がって、小刻みに逃げる動作を見たならば、その辺には必ず鱸が餌をあさっているものと考えてよろしい。
 しかし、鱸が最も好んで泳ぎまわる場所は、瀬の落ち込みから下流だ。つまり、そこには小魚や蝦が集まっているからだ。落ち込みから下の流速が速く、しかもまだ陽が高かったならば三匁くらいの錘を餌から四ひろくらいの上方の道糸につけて置くのだ。そして、竿を落ち込みの上手の瀬の真ん中へさし込むのである。竿は、瀬の中へ真っ直ぐに立った。それから長さ二十間の道糸をそろそろと流してやる。餌が落ち込みの下手にまで達するような位置に竿をさすのがよろしいのである。
 その付近に鱸が泳いでいれば直ぐ食いつく。待ったなしに食い込んでいるのだ。日暮れ前は餌が水面下三尺ほどの位置に、日没前後には水面下一尺ほどのところにあるように、錘を加減するのを忘れてはいけない。
 鱸が鈎を食い込むと、竿先を水中へ引き倒すのではあるまいかと思うほど、強引に引っ張る。そのときは、もう向こう合わせで掛かっているのだ。これを見たら、いきなり水中へ飛び込んで、竿を引き抜き、そのまま河原へ駆け上がってから、道糸を手繰たぐり寄せ、手網は使わないで、遮二無二河原へ鱸を引っ張り上げるのである。まあ、夕方一刻にこの釣り方で大鱸の五本や六本を釣り上げるのは、大した骨の折れることではない。季節は、夏の土用に入ってからがいいのだが、土用にはまだ一ヵ月も間のあることだから、そのとき改めて案内しよう。と、いうのである。
 その後、その役人に会ったときは、もう夏の土用に入っていた。ちょうど季節がよかろうから、一度、手を取って釣り方を教えて貰いたいと申し込んだところ、いや案内したいのは山々であるが僕はいま腹の具合を悪くしていて、残念ながら川へ出られない。けれど先日説明した通りにやれば、釣りに心得ある人ならば釣れるから、やってご覧なさい。と、いう情けない言葉だ。
 やむを得ない。然らば、一人で行って試してみようと決心した。その頃、ちょうど故郷から老父が訪ねてきていた。そこで、このことを相談すると、それだけ説明をきいていれば、自分の思案でやれぬことはない。そこが釣り師の勘というものだ。わしも、いっしょに行ってやるから、きょうこれから直ぐ那珂川へ行き、大いに大鱸を釣ってやろうじゃないかという次第になった。
 釣り場は、水戸市から一里ばかり上流の国田渡船場の上手の落ち込みである。現在の水戸上水道の水揚げ場から、七、八町上流だ。竿二本と仕掛けを作り上げ、ひる少しまわったころ釣り場へ着いた。教えられた通り渡船場の付近の捨石や沈床の間を覗いてみると、川蝦が静かに泳いでいる。鳥の羽根で手網へ追い込んだところ、三時間ばかりの間に五、六十尾の蝦が捕れた。
 まず、一服である。父子二人で河原の砂の上へ腰を下ろして釣りの楽しさを話していると間もなく夕方の四時近くなった。ところで、なに心なく眼の前の浅い水面をながめると、役人が言った通り蝦や小魚が、水面から跳ね上がって逃げまわっている。いよいよ、鱸の活動がはじまったなと思った。万事、教えられた通りに竿を瀬の真ん中にさし込み、長い道糸を瀬の落ち込みへ流してやると、道糸が張った途端に、もう凄い引き込みだ。
 竿先が、折れるのではあるまいかと思うくらいの強引だ。私は竿を引き抜くと、それを後ろ向きに肩にかついで、河原へ向かって駆け上がった。そして、河原の小石の上を二十間ばかり走ったところが、鱸は頭を横に振り鰓洗いをやる暇もなく、そのまま河原へ引き摺り上げられてしまった。父は、直ぐ鱸のそばへ走って行って、上から茣蓙ござをかけて押さえつけた。
 それは、一貫三百五十匁の大鱸であった。それから入れ食いの連続だ。夕方、手もとが見えなくなるまで五、六百匁から一貫目前後の鱸を十五、六本釣ったのである。付近の農家から、太い竹の棒を一本貰ってきて、それに吊るし、二人で水戸までかついで帰ったのである。
 こんな鱸の大漁は、はじめてだ。その後、東京湾口の落ち鱸釣りに、それ以上の数を釣ったことはあるが、落ち鱸は食味が劣っているから、盛期の川鱸釣りの興趣に比べれば、まるで問題にならない。私の父は、若いときから鮎釣りにたんのうで、随分大漁したことがあったそうだ。しかし、大ものをこんなに釣ったのは、生まれてはじめてだと言って、相好を崩して喜んだ。親の、喜んだ顔を想いだすのは、まことに楽しいものである。
 最近きいた話であるが、かつて幸田露伴翁も那珂川で鱸の大釣りをやったことがあるそうだ。場所は、水戸市下市の汽船発着場の下手らしいが、小舟の胴の間一杯釣ったらしい。それは、もう二、三十年前の話であろう。そのころは、ずいぶん那珂川に鱸がいたものと見える。露伴翁は、餌に袋イソメとイトメを用いたと言う。
 那珂川では、いまでも国田渡船場の上下から、上流の阿波山村地元まで、川蝦の餌で盛んに釣れているのである。

底本:「垢石釣り随筆」つり人ノベルズ、つり人社
   1992(平成4)年9月10日第1刷発行
底本の親本:「釣随筆」市民文庫、河出書房
   1951(昭和26)年8月発行
初出:「釣趣戯書」三省堂
   1942(昭和17)年発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月5日作成
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