立国りっこくわたくしなり、おおやけあらざるなり。地球面の人類、その数億のみならず、山海さんかい天然てんねん境界きょうかいへだてられて、各処かくしょに群を成し各処に相分あいわかるるは止むを得ずといえども、各処におのおの衣食の富源ふげんあれば、これによりて生活をぐべし。また或は各地の固有に有余ゆうよ不足ふそくあらんには互にこれを交易こうえきするもなり。すなわち天与てんよ恩恵おんけいにして、たがやして食い、製造して用い、交易こうえきして便利を達す。人生の所望しょもうこの外にあるべからず。なんぞ必ずしも区々たる人為じんいの国をわかちて人為の境界を定むることをもちいんや。いわんやその国をわかちて隣国と境界を争うにおいてをや。いわんやとなりの不幸をかえりみずしてみずから利せんとするにおいてをや。いわんやその国に一個の首領しゅりょうを立て、これを君としてあおぎこれを主としてつかえ、その君主のために衆人しゅうじんの生命財産をむなしうするがごときにおいてをや。いわんや一国中になお幾多の小区域を分ち、毎区の人民おのおの一個の長者をいただきてこれに服従するのみか、つねに隣区と競争して利害をことにするにおいてをや。
 すべてこれ人間の私情に生じたることにして天然の公道にあらずといえども、開闢かいびゃく以来今日に至るまで世界中の事相じそうるに、各種の人民相分あいわかれて一群を成し、その一群中に言語文字を共にし、歴史口碑こうひを共にし、婚姻こんいん相通じ、交際相親しみ、飲食衣服の物、すべてそのおもむきおなじうして、自から苦楽くらくを共にするときは、離散りさんすること能わず。すなわち国を立てまた政府をもうく所以ゆえんにして、すでに一国の名を成すときは人民はますますこれに固着こちゃくして自他のぶんあきらかにし、他国他政府に対してはあたか痛痒つうようあいかんぜざるがごとくなるのみならず、陰陽いんよう表裏ひょうり共に自家の利益りえき栄誉えいよを主張してほとんど至らざるところなく、そのこれを主張することいよいよ盛なる者に附するに忠君ちゅうくん愛国あいこく等の名を以てして、国民最上の美徳と称するこそ不思議なれ。故に忠君愛国の文字は哲学流に解すれば純乎じゅんこたる人類の私情しじょうなれども、今日までの世界の事情においてはこれを称して美徳といわざるを得ず。すなわち哲学の私情は立国の公道こうどうにして、この公道公徳の公認せらるるはただに一国においてしかるのみならず、その国中に幾多の小区域あるときは、毎区必ず特色の利害に制せられ、外に対するのわたくしを以て内のためにするの公道と認めざるはなし。たとえば西洋各国相対あいたいし、日本と支那朝鮮ちょうせんと相接して、互に利害を異にするは勿論もちろん、日本国中において封建の時代に幕府を中央にいただいて三百藩を分つときは、各藩相互に自家の利害りがい栄辱えいじょくを重んじ一毫いちごうも他にゆずらずして、その競争のきょくは他を損じても自から利せんとしたるがごとき事実を見てもこれを証すべし。
 さて、この立国立政府の公道を行わんとするに当り、平時にありてはしたる艱難かんなんもなしといえども、時勢じせい変遷へんせんしたがって国の盛衰せいすいなきを得ず。その衰勢すいせいに及んではとても自家の地歩を維持するに足らず、廃滅はいめつの数すでにあきらかなりといえども、なお万一の僥倖ぎょうこうを期して屈することをさず、実際に力きてしかる後にたおるるはこれまた人情のしからしむるところにして、その趣をたとえていえば、父母の大病に回復の望なしとは知りながらも、実際の臨終に至るまで医薬の手当をおこたらざるがごとし。これも哲学流にていえば、等しく死する病人なれば、望なき回復をはかるがためいたずらに病苦びょうくを長くするよりも、モルヒネなど与えて臨終りんじゅう安楽あんらくにするこそ智なるがごとくなれども、子とりて考うれば、億万中の一を僥倖ぎょうこうしても、ことさらに父母の死をうながすがごときは、情においてしのびざるところなり。
 れば自国の衰頽すいたいに際し、敵に対してもとより勝算しょうさんなき場合にても、千辛万苦せんしんばんく、力のあらん限りをつくし、いよいよ勝敗のきょくに至りて始めて和を講ずるか、もしくは死を決するは立国の公道にして、国民が国に報ずるの義務と称すべきものなり。すなわち俗にいう瘠我慢やせがまんなれども、強弱相対あいたいしていやしくも弱者の地位を保つものは、ひとえにこの瘠我慢にらざるはなし。ただに戦争の勝敗のみに限らず、平生の国交際においても瘠我慢の一義は決してこれを忘るべからず。欧州にて和蘭オランダ白耳義ベルギーのごとき小国が、仏独の間に介在かいざいして小政府を維持するよりも、大国に合併がっぺいするこそ安楽あんらくなるべけれども、なおその独立をはりて動かざるは小国の瘠我慢にして、我慢がまんく国の栄誉えいよを保つものというべし。
 わが封建ほうけんの時代、百万石の大藩にとなりして一万石の大名あるも、大名はすなわち大名にしてごうゆずるところなかりしも、畢竟ひっきょう瘠我慢のしからしむるところにして、また事柄ことがらは異なれども、天下の政権武門にし、帝室ていしつれどもきがごとくなりしこと何百年、この時に当りて臨時りんじ処分しょぶんはかりたらば、公武合体こうぶがったい等種々の便利法もありしならんといえども、帝室にしてくその地位を守り幾艱難いくかんなんのその間にも至尊しそんおかすべからざるの一義をつらぬき、たとえばの有名なる中山大納言なかやまだいなごん東下とうかしたるとき、将軍家をもくして吾妻あずまの代官と放言したりというがごとき、当時の時勢より見れば瘠我慢に相違そういなしといえども、その瘠我慢やせがまんこそ帝室ていしつの重きを成したる由縁ゆえんなれ。
 また古来士風の美をいえば三河武士みかわぶしの右に出る者はあるべからず、その人々について品評すれば、文に武に智に勇におのおの長ずるところをことにすれども、戦国割拠せんごくかっきょの時に当りて徳川の旗下きかに属し、自他じたぶんあきらかにして二念にねんあることなく、理にも非にもただ徳川家の主公あるをしりて他を見ず、いかなる非運に際して辛苦しんくなむるもかつて落胆らくたんすることなく、家のため主公のためとあれば必敗必死ひっぱいひっし眼前がんぜんに見てなお勇進ゆうしんするの一事は、三河武士全体の特色、徳川家の家風なるがごとし。これすなわち宗祖そうそ家康公いえやすこう小身しょうしんよりおこりて四方を経営けいえいしついに天下の大権を掌握しょうあくしたる所以ゆえんにして、その家の開運かいうんは瘠我慢のたまものなりというべし。
 れば瘠我慢の一主義はもとより人の私情にいずることにして、冷淡れいたんなる数理より論ずるときはほとんど児戯じぎに等しといわるるも弁解べんかいなきがごとくなれども、世界古今の実際において、所謂いわゆる国家なるものを目的に定めてこれを維持いじ保存ほぞんせんとする者は、この主義にらざるはなし。我封建の時代に諸藩の相互に競争して士気しきやしなうたるもこの主義に由り、封建すでにはいして一統の大日本帝国とり、さらに眼界を広くして文明世界に独立の体面を張らんとするもこの主義にらざるべからず。
 故に人間社会の事物今日の風にてあらん限りは、外面の体裁ていさいに文野の変遷へんせんこそあるべけれ、百千年の後に至るまでも一片いっぺんの瘠我慢は立国の大本たいほんとしてこれを重んじ、いよいよますますこれを培養ばいようしてその原素の発達を助くること緊要きんようなるべし。すなわち国家風教ふうきょうたっと所以ゆえんにして、たとえば南宋の時に廟議びょうぎ主戦しゅせん講和こうわと二派に分れ、主戦論者は大抵たいていみなしりぞけられてあるいは身を殺したる者もありしに、天下後世の評論は講和者の不義をにくんで主戦者の孤忠こちゅうあわれまざる者なし。事の実際をいえば弱宋じゃくそうの大事すでに去り、百戦必敗ひっぱいもとより疑うべきにあらず、むしろはじしのんで一日もちょう氏のまつりそんしたるこそ利益なるに似たれども、後世の国をおさむる者が経綸けいりんを重んじて士気しきを養わんとするには、講和論者の姑息こそくはいして主戦論者の瘠我慢を取らざるべからず。これすなわち両者が今に至るまで臭芳しゅうほうの名をことにする所以ゆえんなるべし。
 しかるにここ遺憾いかんなるは、我日本国において今を去ること二十余年、王政維新おうせいいしんこと起りて、その際不幸にもこの大切なる瘠我慢やせがまんの一大義を害したることあり。すなわち徳川家の末路に、家臣の一部分が早く大事の去るをさとり、敵にむかってかつて抵抗を試みず、ひたすら和を講じてみずから家をきたるは、日本の経済において一時の利益を成したりといえども、数百千年養い得たる我日本武士の気風きふうそこなうたるの不利は決して少々ならず。得を以て損をつぐなうに足らざるものというべし。
 そもそも維新の事は帝室ていしつの名義ありといえども、その実は二、三の強藩が徳川に敵したるものよりほかならず。この時に当りて徳川家の一類に三河みかわ武士の旧風きゅうふうあらんには、伏見ふしみ敗余はいよ江戸に帰るもさらに佐幕さばくの諸藩に令して再挙さいきょはかり、再挙三拳ついにらざれば退しりぞいて江戸城を守り、たとい一日にても家の運命を長くしてなお万一を僥倖ぎょうこうし、いよいよ策つくるに至りて城を枕に討死うちじにするのみ。すなわち前にいえるごとく、父母の大病に一日の長命を祈るものにことならず。かくありてこそ瘠我慢の主義も全きものというべけれ。
 しかるに講和論者こうわろんじゃたる勝安房かつあわ氏のはいは、幕府の武士用うべからずといい、薩長兵さっちょうへいほこさき敵すべからずといい、社会の安寧あんねい害すべからずといい、主公の身の上あやうしといい、或は言を大にしてかきせめぐの禍は外交の策にあらずなど、百方周旋しゅうせんするのみならず、時としては身をあやううすることあるもこれをはばからずして和議わぎき、ついに江戸解城とり、徳川七十万石の新封しんぽうと為りて無事ぷじに局を結びたり。実に不可思議千万ふかしぎせんばんなる事相じそうにして、当時或る外人の評に、およそ生あるものはその死になんなんとして抵抗を試みざるはなし、蠢爾しゅんじたる昆虫こんちゅうが百貫目の鉄槌てっついたるるときにても、なおその足をはって抵抗の状をなすの常なるに、二百七十年の大政府が二、三強藩の兵力に対してごう敵対てきたいの意なく、ただ一向いっこうこうあいうてまずとは、古今世界中に未だその例を見ずとて、ひそか冷笑れいしょうしたるもいわれなきにあらず。
 けだ勝氏かつしはい所見しょけんは内乱の戦争を以て無上の災害さいがい無益むえき労費ろうひと認め、味方に勝算しょうさんなき限りはすみやかして速にことおさむるにかずとの数理を信じたるものより外ならず。その口に説くところを聞けば主公の安危あんきまたは外交の利害などいうといえども、その心術のそこたたいてこれをきわむるときはの哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢やせがまんは無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊あいまいもこかん瞞着まんちゃくしたる者なりと評して、これに答うることばはなかるべし。一時の豪気ごうきは以て懦夫だふたんおどろかすに足り、一場の詭言きげんは以て少年輩の心を籠絡ろうらくするに足るといえども、具眼卓識ぐがんたくしき君子くんしついあざむくべからずうべからざるなり。
 れば当時積弱せきじゃくの幕府に勝算しょうさんなきは我輩わがはいも勝氏とともにこれを知るといえども、士風維持の一方より論ずるときは、国家存亡そんぼう危急ききゅうせまりて勝算の有無うむは言うべき限りにあらず。いわんや必勝ひっしょうさんしてはいし、必敗ひっぱいを期してつの事例も少なからざるにおいてをや。しかるを勝氏はあらかじめ必敗を期し、その未だ実際に敗れざるに先んじてみずから自家の大権たいけん投棄とうきし、ひたすら平和を買わんとてつとめたる者なれば、兵乱のために人を殺し財を散ずるのわざわいをば軽くしたりといえども、立国の要素たる瘠我慢やせがまんの士風をそこなうたるのせめまぬかるべからず。殺人さつじん散財さんざいは一時の禍にして、士風の維持は万世ばんせいの要なり。これをてんしてかれを買う、その功罪相償あいつぐなうやいなや、容易に断定すべき問題にあらざるなり。
 或はいう、王政維新おうせいいしん成敗せいはいは内国の事にして、いわば兄弟朋友ほうゆう間の争いのみ、当時東西相敵あいてきしたりといえどもその実は敵にして敵にあらず、かくに幕府が最後の死力を張らずしてその政府をきたるは時勢に応じて手際てぎわなりとて、みょうに説をすものあれども、一場いちじょう遁辞とんじ口実こうじつたるに過ぎず。内国の事にても朋友間ほうゆうかんの事にても、すで事端じたんを発するときは敵はすなわち敵なり。しかるに今その敵に敵するは、無益むえきなり、無謀むぼうなり、国家の損亡そんもうなりとて、もっぱら平和無事に誘導ゆうどうしたるその士人しじんひきいて、一朝いっちょう敵国外患がいかんの至るに当り、くその士気をふるうて極端きょくたん苦辛くしんえしむるの術あるべきや。内に瘠我慢やせがまんなきものは外に対してもまたしからざるを得ず。これを筆にするも不祥ふしょうながら、億万おくまん一にもわが日本国民が外敵にうて、時勢を見計みはからい手際好てぎわよみずから解散するがごときあらば、これを何とか言わん。しかしこうして幕府解散の始末しまつは内国の事に相違なしといえども、おのずから一例を作りたるものというべし。
 しかりといえども勝氏もまた人傑じんけつなり、当時幕府内部の物論ぶつろんはいして旗下きかの士の激昂げきこうしずめ、一身を犠牲ぎせいにして政府をき、以て王政維新おうせいいしんの成功をやすくして、これがめに人の生命を救い財産を安全ならしめたるその功徳こうとくは少なからずというべし。この点については我輩わがはいも氏の事業を軽々けいけい看過かんかするものにあらざれども、ひとあやしむべきは、氏が維新のちょうきの敵国の士人と並立ならびたっ得々とくとく名利みょうりの地位にるの一事なり(世に所謂いわゆる大義名分たいぎめいぶんより論ずるときは、日本国人はすべて帝室ていしつの臣民にして、その同胞どうほう臣民の間に敵も味方もあるべからずといえども、事の実際は決してしからず。幕府の末年に強藩の士人等が事をげて中央政府に敵し、そのこれに敵するの際に帝室ていしつ名義めいぎを奉じ、幕政の組織を改めて王政のいにしえふくしたるそのきょなづけて王政維新おうせいいしんと称することなれば、帝室ていしつをば政治社外の高処こうしょあおたてまつりて一様いちようにその恩徳おんとくよくしながら、下界げかいおっあいあらそう者あるときは敵味方の区別なきを得ず。事実におおうべからざるところのものなればなり。ゆえ本文ほんもん敵国の語、あるい不穏ふおんなりとて説をすものもあらんなれども、当時の実際より立論すれば敵の字を用いざるべからず)。
 東洋和漢の旧筆法に従えば、氏のごときは到底とうていおわりまっとうすべき人にあらず。かん高祖こうそ丁公ていこうりくし、しん康煕こうき帝がみん末の遺臣いしん擯斥ひんせきし、日本にては織田信長おだのぶなが武田勝頼たけだかつより奸臣かんしん、すなわちその主人を織田に売らんとしたる小山田義国おやまだよしくにはいちゅうし、豊臣秀吉とよとみひでよしが織田信孝のぶたかの賊臣桑田彦右衛門くわたひこえもん挙動きょどうよろこばず、不忠不義者、世の見懲みごらしにせよとて、これを信考の墓前ぼぜんはりつけにしたるがごとき、是等これらの事例は実に枚挙まいきょいとまあらず。
 騒擾そうじょうの際に敵味方相対あいたいし、その敵の中に謀臣ぼうしんありて平和の説をとなえ、たとい弐心ふたごころいだかざるも味方に利するところあれば、その時にはこれを奇貨きかとしてひそかにその人を厚遇こうぐうすれども、干戈かんかすでにおさまりて戦勝の主領が社会の秩序ちつじょを重んじ、新政府の基礎きそを固くして百年の計をなすに当りては、一国の公道のために私情を去り、きに奇貨きかとし重んじたるの敵国の[#「敵国の」は底本では「敬国の」]人物をもくして不臣不忠ふしんふちゅうとなえ、これを擯斥ひんせきして近づけざるのみか、時としては殺戮さつりくすることさえすくなからず。誠に無慙むざんなる次第しだいなれども、おのずから経世けいせい一法いっぽうとしてしのんでこれを断行だんこうすることなるべし。
 すなわち東洋諸国専制流せんせいりゅう慣手段かんしゅだんにして、勝氏のごときもかかる専制治風の時代にらば、或は同様の奇禍きかかかりて新政府の諸臣をいましむるのに供せられたることもあらんなれども、さいわいにして明治政府には専制の君主なく、政権は維新功臣いしんこうしんの手にりて、その主義とするところ、すべて文明国のひんならい、一切万事寛大かんだいを主として、この敵方の人物を擯斥ひんせきせざるのみか、一時の奇貨きかも永日の正貨せいかに変化し、旧幕府の旧風をだっして新政府の新貴顕きけんり、愉快ゆかいに世を渡りて、かつてあやしむ者なきこそ古来未曾有みぞう奇相きそうなれ。
 我輩わがはいはこの一段に至りて、勝氏のわたくしめにははなはだ気の毒なる次第しだいなれども、いささ所望しょもうすじなきを得ず。その次第しだいは前にいえるごとく、氏の尽力じんりょくを以ておだやかに旧政府をき、よっもって殺人散財さんざいわざわいまぬかれたるその功はにして大なりといえども、一方より観察をくだすときは、敵味方相対あいたいしていまだ兵をまじえず、早くみずから勝算しょうさんなきをさとりて謹慎きんしんするがごとき、表面には官軍に向て云々うんぬんの口実ありといえども、その内実は徳川政府がその幕下ばっかたる二、三の強藩に敵するの勇気なく、勝敗をもこころみずして降参こうさんしたるものなれば、三河武士みかわぶしの精神にそむくのみならず、我日本国民に固有こゆうする瘠我慢やせがまんの大主義をやぶり、以て立国りっこくの根本たる士気しきゆるめたるの罪はのがるべからず。一時の兵禍へいかまぬかれしめたると、万世ばんせいの士気をきずつけたると、その功罪相償あいつぐなうべきや。
 天下後世に定論もあるべきなれば、氏のめにはかれば、たとい今日の文明流に従って維新後いしんごさいわいに身をまっとうすることを得たるも、みずからかえりみてわが立国りっこくめに至大至重しだいしちょうなる上流士人の気風きふうがいしたるの罪を引き、維新前後の吾身わがみ挙動きょどうは一時の権道けんどうなり、りに和議わぎを講じて円滑えんかつに事をまとめたるは、ただその時の兵禍へいかを恐れて人民を塗炭とたんに救わんがめのみなれども、本来立国りっこくの要は瘠我慢やせがまんの一義にり、いわんや今後敵国外患がいかんへんなきをすべからざるにおいてをや。かかる大切たいせつの場合にのぞんでは兵禍へいかは恐るるにらず、天下後世国を立てて外に交わらんとする者は、※(二の字点、1-2-22)ゆめゆめわが維新いしん挙動きょどうを学んで権道けんどうくべからず、俗にいう武士の風上かざかみにも置かれぬとはすなわちわが一身いっしんの事なり、後世子孫これを再演するなかれとの意を示して、断然だんぜん政府の寵遇ちょうぐうを辞し、官爵かんしゃく利禄りろくなげうち、単身たんしんさってその跡をかくすこともあらんには、世間の人も始めてその誠のるところを知りてその清操せいそうふくし、旧政府放解ほうかい始末しまつも真に氏の功名にすると同時に、一方には世教せいきょう万分の一を維持いじするに足るべし。
 すなわち我輩わがはい所望しょもうなれども、今そのしからずしてあたかも国家の功臣をもっ傲然ごうぜんみずからるがごとき、必ずしも窮屈きゅうくつなる三河武士みかわぶしの筆法を以て弾劾だんがいするをたず、世界立国りっこく常情じょうじょううったえてはずるなきを得ず。ただに氏のわたくしめにしむのみならず、士人社会風教ふうきょうめに深く悲しむべきところのものなり。
 また勝氏と同時に榎本武揚えのもとたけあきなる人あり。これまたついでながら一言せざるを得ず。この人は幕府の末年に勝氏と意見をことにし、くまでも徳川の政府を維持いじせんとして力をつくし、政府の軍艦数艘すうそうひきいて箱館はこだて脱走だっそうし、西軍にこうして奮戦ふんせんしたれども、ついにきゅうして降参こうさんしたる者なり。この時にあたり徳川政府は伏見ふしみの一敗た戦うの意なく、ひたすらあいうのみにして人心すで瓦解がかいし、その勝算なきはもとより明白なるところなれども、榎本氏のきょ所謂いわゆる武士の意気地いきじすなわち瘠我慢やせがまんにして、その方寸ほうすんの中にはひそかに必敗を期しながらも、武士道のめにあえて一戦をこころみたることなれば、幕臣また諸藩士中の佐幕党さばくとうは氏を総督そうとくとしてこれに随従ずいじゅうし、すべてその命令に従て進退しんたいを共にし、北海の水戦、箱館の籠城ろうじょう、その決死苦戦の忠勇ちゅうゆう天晴あっぱれ振舞ふるまいにして、日本魂やまとだましいの風教上より論じて、これを勝氏の始末しまつに比すれば年をおなじうして語るべからず。
 しかるに脱走だっそうの兵、常に利あらずしていきおいようやせまり、また如何いかんともすべからざるに至りて、総督そうとくを始め一部分の人々は最早もはやこれまでなりと覚悟かくごを改めて敵の軍門にくだり、とらわれて東京に護送ごそうせられたるこそ運のつたなきものなれども、成敗せいはい兵家へいかの常にしてもとよりとがむべきにあらず、新政府においてもその罪をにくんでその人を悪まず、一等いっとうげんじてこれを放免ほうめんしたるは文明の寛典かんてんというべし。氏の挙動きょどうも政府の処分しょぶんも共に天下の一美談びだんにして間然かんぜんすべからずといえども、氏が放免ほうめんのちに更に青雲せいうんの志を起し、新政府のちょうに立つの一段に至りては、我輩わがはい感服かんぷくすることあたわざるところのものなり。
 敵にくだりてその敵につかうるの事例じれいは古来稀有けうにあらず。ことに政府の新陳しんちん変更へんこうするに当りて、前政府の士人等が自立のを失い、糊口ここうめに新政府に職をほうずるがごときは、世界古今ここん普通のだんにしてごうあやしむに足らず、またその人を非難すべきにあらずといえども、榎本氏の一身はこれ普通の例を以ておおうべからざるの事故じこあるがごとし。すなわちその事故とは日本武士の人情これなり。氏は新政府に出身してただに口をのりするのみならず、累遷るいせん立身りっしんして特派公使に任ぜられ、またついに大臣にまで昇進し、青雲せいうんこころざしたっし得て目出度めでたしといえども、かえりみて往事おうじ回想かいそうするときは情にえざるものなきを得ず。
 当時決死けっしの士を糾合きゅうごうして北海の一隅いちぐうに苦戦を戦い、北風きそわずしてついに降参こうさんしたるは是非ぜひなき次第しだいなれども、脱走だっそうの諸士は最初より氏を首領しゅりょうとしてこれをたのみ、氏のめに苦戦し氏のめに戦死したるに、首領にして降参こうさんとあれば、たとい同意の者あるも、不同意の者はあたかも見捨てられたる姿にして、その落胆らくたん失望しつぼうはいうまでもなく、ましてすでに戦死したる者においてをや。死者し霊あらば必ず地下に大不平を鳴らすことならん。伝え聞く、箱館はこだて五稜郭ごりょうかく開城かいじょうのとき、総督そうとく榎本氏より部下に内意を伝えて共に降参せんことを勧告かんこくせしに、一部分の人はこれをきいおおいに怒り、元来今回のきょは戦勝を期したるにあらず、ただ武門のならいとして一死もって二百五十年の恩にむくいるのみ、総督もし生を欲せば出でて降参せよ、我等われらは我等の武士道にたおれんのみとて憤戦ふんせんとどまらず、その中には父子諸共もろとも切死きりじにしたる人もありしという。
 烏江うこう水浅みずあさくして騅能逝すいよくゆくも一片いっぺんの義心ぎしん不可東ひんがしすべからずとは、往古おうこ漢楚かんその戦に、楚軍そぐんふるわず項羽こううが走りて烏江うこうほとりに至りしとき、或人はなお江を渡りて、再挙さいきょの望なきにあらずとてその死をとどめたりしかども、はこれをかず、初め江東の子弟八千をひきいて西し、幾回いくかいの苦戦に戦没せんぼつして今は一人の残る者なし、かかる失敗の後に至り、何の面目かた江東にかえりて死者の父兄を見んとて、自尽じじんしたるその時の心情を詩句にうつしたるものなり。
 漢楚かんそ軍談のむかしと明治の今日こんにちとは世態せいたいもとより同じからず。三千年前の項羽こううもって今日の榎本氏をせむるはほとんど無稽むけいなるにたれども、万古不変ばんこふへんは人生の心情にして、氏が維新いしんちょうに青雲の志をげて富貴ふうき得々とくとくたりといえども、時にかえりみて箱館はこだての旧を思い、当時随行ずいこう部下の諸士が戦没せんぼつし負傷したる惨状さんじょうより、爾来じらい家に残りし父母兄弟が死者の死を悲しむと共に、自身の方向に迷うて路傍ろぼう彷徨ほうこうするの事実を想像し聞見もんけんするときは、男子の鉄腸てっちょうもこれがめに寸断すんだんせざるを得ず。夜雨やうあきさむうしてねむりらず残燈ざんとう明滅めいめつひとり思うの時には、或は死霊しりょう生霊いきりょう無数の暗鬼あんきを出現して眼中に分明なることもあるべし。
 けだし氏の本心は、今日に至るまでもこの種の脱走士人だっそうしじんを見捨てたるに非ず、その挙を美としてその死をあわれまざるに非ず。今一証を示さんに、駿州すんしゅう清見寺内せいけんじない石碑せきひあり、この碑は、前年幕府の軍艦咸臨丸かんりんまるが、清水港しみずみなとたれたるときに戦没せんぼつしたる春山弁造はるやまべんぞう以下脱走士のめに建てたるものにして、碑の背面に食人之ひとのしょくを食者はむものは死人之事ひとのことにしすの九字を大書して榎本武揚えのもとたけあきと記し、公衆の観に任してはばかるところなきを見れば、その心事の大概たいがいうかがいるにるべし。すなわち氏はかつて徳川家のしょくむ者にして、不幸にして自分は徳川の事に死するの機会を失うたれども、他人のこれに死するものあるを見れば慷慨惆悵こうがいちゅうちょうおのずから禁ずるあたわず、欽慕きんぼあまついに右の文字をもいしこくしたることならん。
 すでに他人の忠勇ちゅうゆうみするときは、同時にみずからかえりみていささ不愉快ふゆかいを感ずるもまた人生の至情しじょうまぬかるべからざるところなれば、その心事を推察すいさつするに、時としては目下の富貴ふうきに安んじて安楽あんらく豪奢ごうしゃ余念よねんなき折柄おりから、また時としては旧時の惨状さんじょうおもうて慙愧ざんきの念をもよおし、一喜一憂一哀一楽、来往らいおうつねならずして身を終るまで円満えんまん安心あんしん快楽かいらくはあるべからざることならん。されば我輩わがはいもって氏のめにはかるに、人のしょくむのゆえもって必ずしもその人の事に死すべしと勧告かんこくするにはあらざれども、人情の一点より他に対して常に遠慮えんりょするところなきを得ず。
 古来の習慣に従えば、およそこの種の人は遁世とんせい出家しゅっけして死者の菩提ぼだいとむらうの例もあれども、今の世間の風潮にて出家しゅっけ落飾らくしょく不似合ふにあいとならば、ただその身を社会の暗処あんしょかくしてその生活を質素しっそにし、一切いっさい万事ばんじ控目ひかえめにして世間の耳目じもくれざるの覚悟かくごこそ本意なれ。
 これを要するに維新いしんの際、脱走だっそう一挙いっきょ失敗しっぱいしたるは、氏が政治上の死にして、たといその肉体の身は死せざるも最早もはや政治上に再生さいせいすべからざるものと観念してただ一身をつつしみ、一はもって同行戦死者の霊をちょうしてまたその遺族いぞくの人々の不幸不平をなぐさめ、また一にはおよそ何事に限らず大挙たいきょしてその首領の地位に在る者は、成敗せいはい共にせめに任じて決してこれをのがるべからず、ればその栄誉えいよもっぱらにし敗すればその苦難くなんに当るとの主義をあきらかにするは、士流社会の風教上ふうきょうじょう大切たいせつなることなるべし。すなわちこれ我輩わがはいが榎本氏の出処しゅっしょ所望しょもうの一点にして、ひとり氏の一身のめのみにあらず、国家百年のはかりごとにおいて士風消長しょうちょうめに軽々けいけい看過かんかすべからざるところのものなり。
 以上の立言りつげん我輩わがはいが勝、榎本の二氏にむかって攻撃をこころみたるにあらず。つつしんで筆鋒ひっぽうかんにして苛酷かこくの文字を用いず、もってその人の名誉を保護するのみか、実際においてもその智謀ちぼう忠勇ちゅうゆう功名こうみょうをばくまでもみとむる者なれども、およそ人生の行路こうろ富貴ふうきを取れば功名を失い、功名をまっとうせんとするときは富貴をてざるべからざるの場合あり。二氏のごときはまさしくこの局に当る者にして、勝氏が和議わぎを主張して幕府をきたるは誠に手際てぎわよき智謀ちぼうの功名なれども、これを解きて主家の廃滅はいめつしたるその廃滅の因縁いんねんが、たまたもって一旧臣のめに富貴を得せしむるの方便ほうべんとなりたる姿すがたにては、たといその富貴ふうきみずから求めずして天外よりさずけられたるにもせよ、三河武士みかわぶしの末流たる徳川一類の身として考うれば、折角せっかくの功名手柄てがらも世間の見るところにて光を失わざるを得ず。
 榎本氏が主戦論をとりて脱走だっそうし、ついに力きてくだりたるまでは、幕臣ばくしん本分ほんぶんそむかず、忠勇の功名なりといえども、降参こうさん放免ほうめんのちに更に青雲の志を発して新政府のちょう富貴ふうきを求め得たるは、さきにその忠勇を共にしたる戦死者負傷者ふしょうしゃより爾来じらい流浪者るろうしゃ貧窮者ひんきゅうしゃに至るまで、すべて同挙どうきょ同行どうこうの人々に対していささ慙愧ざんきの情なきを得ず。これまたその功名のあたいを損ずるところのものにして、要するに二氏の富貴こそその身の功名をむなしうするの媒介ばいかいなれば、今なおおそからず、二氏共に断然だんぜん世をのがれて維新いしん以来の非をあらため、もっ既得きとくの功名をまっとうせんことを祈るのみ。天下後世にその名をほうにするもしゅうにするも、心事の決断如何いかんり、つとめざるべからざるなり。
 しかりといえども人心の微弱びじゃく、或は我輩わがはいげんに従うことあたわざるの事情もあるべし。これまたむを得ざる次第しだいなれども、かくに明治年間にこの文字を記して二氏を論評したる者ありといえば、またもって後世士人の風を維持いじすることもあらんか、拙筆せっぴつまた徒労とろうにあらざるなり。

底本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」講談社学術文庫、講談社
   1985(昭和60)年3月10日第1刷発行
   1998(平成10)年2月20日第10刷発行
底本の親本:「明治十年丁丑公論・瘠我慢の説」時事新報社
   1901(明治34)年5月2日発行
初出:「時事新報」
   1901(明治34)年1月1日発行
※誤り箇所は底本の親本にて確認しました。
※旧字の「竊・燈」は、底本のママとしました。
入力:kazuishi
校正:田中哲郎
2006年11月7日作成
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