一月一日の時事新報に瘠我慢の説を公にするや、同十三日の国民新聞にこれに対する評論を掲げたり。先生その大意を人より聞き余に謂て曰く、兼てより幕末外交の顛末を記載せんとして志を果さず、今評論の誤謬を正す為めその一端を語る可しとて、当時の事情を説くこと頗る詳なり。余すなわちその事実に拠り一文を草し、碩果生の名を以てこれを同二十五日の時事新報に掲載せり。実に先生発病の当日なり。本文と関係あるを以て茲に附記す。
石河幹明記
瘠我慢の説に対する評論について碩果生
去る十三日の国民新聞に「瘠我慢の説を読む」と題する一篇の評論を掲げたり。これを一読するに惜むべし論者は幕末外交の真相を詳にせざるがために、折角の評論も全く事実に適せずして徒に一篇の空文字を成したるに過ぎず。「勝伯が徳川方の大将となり官軍を迎え戦いたりとせよ、その結果はいかなるべきぞ。人を殺し財を散ずるがごときは眼前の禍に過ぎず。もしそれ真の禍は外国の干渉にあり。これ勝伯の当時においてもっとも憂慮したる点にして、吾人はこれを当時の記録に徴して実にその憂慮の然るべき道理を見るなり云々。当時幕府の進歩派小栗上野介の輩のごときは仏蘭西に結びその力を仮りて以て幕府統一の政をなさんと欲し、薩長は英国に倚りてこれに抗し互に掎角の勢をなせり。而して露国またその虚に乗ぜんとす。その危機実に一髪と謂わざるべからず。若し幕府にして戦端を開かば、その底止するところ何の辺に在るべき。これ勝伯が一身を以て万死の途に馳駆し、その危局を拾収し、維新の大業を完成せしむるに余力を剰さざりし所以にあらずや云々」とは評論全篇の骨子にして、論者がかかる推定より当時もっとも恐るべきの禍は外国の干渉に在りとなし、東西開戦せば日本国の存亡も図るべからざるごとくに認め、以て勝氏の行為を弁護したるは、畢竟するに全く事実を知らざるに坐するものなり。
今当時における外交の事情を述べんとするに当り、先ず小栗上野介の人と為りより説かんに、小栗は家康公以来有名なる家柄に生れ旗下中の鏘々たる武士にして幕末の事、すでに為すべからざるを知るといえども、我が事うるところの存せん限りは一日も政府の任を尽くさざるべからずとて極力計画したるところ少なからず、そのもっとも力を致したるは勘定奉行在職中にして一身を以て各方面に当り、彼の横須賀造船所の設立のごとき、この人の発意に出でたるものなり。
小栗はかくのごとく自から内外の局に当りて時の幕吏中にては割合に外国の事情にも通じたる人なれども、平生の言に西洋の技術はすべて日本に優るといえども医術だけは漢方に及ばず、ただ洋法に取るべきものは熱病の治療法のみなりとて、彼の浅田宗伯を信ずること深かりしという。すなわちその思想は純然たる古流にして、三河武士一片の精神、ただ徳川累世の恩義に報ゆるの外他志あることなし。
小栗の人物は右のごとしとして、さて当時の外国人は日本国をいかに見たるやというに、そもそも彼の米国の使節ペルリが渡来して開国を促したる最初の目的は、単に薪水食料を求むるの便宜を得んとするに過ぎざりしは、その要求の個条を見るも明白にして、その後タオンセント・ハリスが全権を帯びて来るに及び、始めて通商条約を結び、次で英露仏等の諸国も来りて新条約の仲間入したれども、その目的は他に非ず、日本との交際は恰も当時の流行にして、ただその流行に連れて条約を結びたるのみ。
通商貿易の利益など最初より期するところに非ざりしに、おいおい日本の様子を見れば案外開けたる国にして生糸その他の物産に乏しからず、随て案外にも外国品を需用するの力あるにぞ、外国人も貿易の一点に注意することと為りたれども、彼等の見るところはただこれ一個の貿易国として単にその利益を利せんとしたるに過ぎず。素より今日のごとき国交際の関係あるに非ざれば、大抵のことは出先きの公使に一任し、本国政府においてはただ報告を聞くに止まりたるその趣は、彼の国々が従来未開国に対するの筆法に徴して想像するに足るべし。
されば各国公使等の挙動を窺えば、国際の礼儀法式のごとき固より眼中に置かず、動もすれば脅嚇手段を用い些細のことにも声を大にして兵力を訴えて目的を達すべしと公言するなど、その乱暴狼籍驚くべきものあり。外国の事情に通ぜざる日本人はこれを見て、本国政府の意向も云々ならんと漫に推測して恐怖を懐きたるものありしかども、その挙動は公使一個の考にして政府の意志を代表したるものと見るべからず。すなわち彼等の目的は時機に投じて恩威並び施し、飽くまでも自国の利益を張らんとしたるその中には、公使始めこれに附随する一類の輩にも種々の人物ありて、この機会に乗じて自から利し自家の懐を肥やさんと謀りたるものも少なからず。
その事実を記さんに、外国公使中にて最初日本人に親しかりしは米公使タオンセント・ハリスにして、ハリスは真実好意を以て我国に対したりしも、後任のブライン氏は前任者に引換え甚だ不親切の人なりとて評判宜しからず。小栗上野介が全盛の当時、常に政府に近づきたるは仏国公使レオン・ロセツにして、小栗及び栗本鋤雲等とも親しく交際し政府のために種々の策を建てたる中にも、ロセツが彼の横須賀造船所設立の計画に関係したるがごとき、その謀計頗る奇なる者あり。
当時外国公使はいずれも横浜に駐剳せしに、ロセツは各国人環視の中にては事を謀るに不便なるを認めたることならん、病と称し飄然熱海に去りて容易に帰らず、使を以て小栗に申出ずるよう江戸に浅田宗伯という名医ありと聞く、ぜひその診察を乞いたしとの請求に、此方にては仏公使が浅田の診察を乞うは日本の名誉なりとの考にて、早速これを許し宗伯を熱海に遣わすこととなり、爾来浅田はしばしば熱海に往復して公使を診察せり。浅田が大医の名を博して大に流行したるはこの評判高かりしが為なりという。
さてロセツが何故に浅田を指名して診察を求めたるやというに、診察とは口実のみ、公使はかねて浅田が小栗に信用あるを探知し、治療に託してこれに親しみ、浅田を介して小栗との間に、交通を開き事を謀りたる者にて、流石は外交家の手腕を見るべし。かくて事の漸く進むや外国奉行等は近海巡視など称し幕府の小軍艦に乗じて頻々公使の許に往復し、他の外国人の知ぬ間に約束成立して発表したるは、すなわち横須賀造船所の設立にして、日本政府は二百四十万弗を支出し、四年間継続の工事としてこれを経営し、技師職工は仏人を雇い、随て器械材料の買入までも仏人に任せたり。
小栗等の目的は一意軍備の基を固うするがために幕末財政窮迫の最中にもかかわらず奮てこの計画を企てたるに外ならずといえども、日本人がかかる事には全く不案内なる時に際し、これを引受けたる仏人の利益は想い見るべし。ロセツはこれがために非常に利したりという。
かくて一方には造船所の計画成ると同時に、一方において更にロセツより申出でたるその言に曰く、日本国中には将軍殿下の御領地も少からざることならん、その土地の内に産する生糸は一切他に出さずして政府の手より仏国人に売渡さるるよう致し度し、御承知にてもあらんが仏国は世界第一の織物国にして生糸の需用甚だ盛なれば、他国の相場より幾割の高価にて引受け申すべしとの事なり。一見他に意味なきがごとくなれども、ロセツの真意は政府が造船所の経営を企てしその費用の出処に苦しみつつある内情を洞見し、かくして日本政府に一種の財源を与うるときは、生糸専売の利益を占むるの目的を達し得べしと考えたることならん。
すなわち実際には造船所の計画と聯関したるものなれども、これを別問題としてさり気なく申出したるは、たといこの事が行われざるも造船所計画の進行に故障を及ぼさしむべからずとの用意に外ならず。掛引の妙を得たるものなれども、政府にてはかかる企みと知るや知らずや、財政窮迫の折柄、この申出に逢うて恰も渡りに舟の思をなし、直にこれを承諾したるに、かかる事柄は固より行わるべきに非ず。その事の知れ渡るや各国公使は異口同音に異議を申込みたるその中にも、和蘭公使のごときもっとも強硬にして、現に瓜哇には蘭王の料地ありて物産を出せども、これを政府の手にて売捌くことなし、外国と通商条約を取結びながら、或る産物を或る一国に専売するがごとき万国公法に違反したる挙動ならずやとの口調を以て厳しく談じ込まれたるが故に、政府においては一言もなく、ロセツの申出はついに行われざりしかども、彼が日本人に信ぜられたるその信用を利用して利を謀るに抜目なかりしは凡そこの類なり。
単に公使のみならず仏国の訳官にメルメデ・カションという者あり。本来宣教師にして久しく函館に在り、ほぼ日本語にも通じたるを以て仏公使館の訳官となりたるが、これまた政府に近づきて利したること尠なからず。その一例を申せば、幕府にて下ノ関償金の一部分を払うに際し、かねて貯うるところの文銭(一文銅銭)二十何万円を売り金に換えんとするに、文銭は銅質善良なるを以てその実価の高きにかかわらず、政府より売出すにはやはり法定の価格に由るの外なくしてみすみす大損を招かざるを得ざるより、その処置につき勘考中、カションこれを聞き込み、その銭を一手に引受け海外の市場に輸出し大に儲けんとして香港に送りしに、陸揚の際に銭を積みたる端船覆没してかえって大に損したることあり。その後カションはいかなる病気に罹りけん、盲目となりたりしを見てこれ等の内情を知れる人々は、因果覿面、好き気味なりと竊に語り合いしという。
またその反対の例を記せば、彼の生麦事件につき英人の挙動は如何というに、損害要求のためとて軍艦を品川に乗入れ、時間を限りて幕府に決答を促したるその時の意気込みは非常のものにして、彼等の言を聞けば、政府にて決答を躊躇するときは軍艦より先ず高輪の薩州邸を砲撃し、更らに浜御殿を占領して此処より大城に向て砲火を開き、江戸市街を焼打にすべし云々とて、その戦略さえ公言して憚からざるは、以て虚喝に外ならざるを知るべし。
されば米国人などは、一個人の殺害せられたるために三十五万弗の金額を要求するごとき不法の沙汰は未だかつて聞かざるところなり、砲撃云々は全く虚喝に過ぎざれば断じてその要求を拒絶すべし、たといこれを拒絶するも真実国と国との開戦に至らざるは請合いなりとて頻りに拒絶論を唱えたれども、幕府の当局者は彼の権幕に恐怖して直に償金を払い渡したり。
この時、更らに奇怪なりしは仏国公使の挙動にして本来その事件には全く関係なきにかかわらず、公然書面を政府に差出し、政府もし英国の要求を聞入れざるにおいては仏国は英と同盟して直に開戦に及ぶべしと迫りたるがごとき、孰も公使一個の考にして決して本国政府の命令に出でたるものと見るべからず。
彼の下ノ関砲撃事件のごときも、各公使が臨機の計いにして、深き考ありしに非ず。現に後日、彼の砲撃に与りたる或る米国士官の実話に、彼の時は他国の軍艦が行かんとするゆえ強いて同行したるまでにて、恰も銃猟にても誘われたる積りなりしと語りたることあり。以てその事情を知るべし。
右のごとき始末にして、外国政府が日本の内乱に乗じ兵力を用いて大に干渉を試みんとするの意志を懐きたるなど到底思いも寄らざるところなれども、当時外国人にも自から種々の説を唱えたるものなきにあらずというその次第は、たとえば幕府にて始めに使節を米国に遣わしたるとき、彼の軍艦咸臨丸に便乗したるが、米国のカピテン・ブルックは帰国の後、たまたま南北戦争の起るに遇うて南軍に属し、一種の弾丸を発明しこれを使用してしばしば戦功を現わせしが、戦後その身の閑なるがために所謂脾肉の嘆に堪えず、折柄渡来したる日本人に対し、もしも日本政府にて余を雇入れ彼の若年寄の屋敷のごとき邸宅に居るを得せしめなば別に金は望まず、日本に行て政府のために尽力したしと真面目に語りたることあり。
また維新の際にも或る米人のごとき、もしも政府において五十万弗を支出せんには三隻の船を造りこれに水雷を装置して敵に当るべし、西国大名のごときこれを粉韲[#ルビの「ふんさい」は底本では「ふんせい」]する容易のみとて頻りに勧説したるものあり。蓋し当時南北戦争漸く止み、その戦争に従事したる壮年血気の輩は無聊に苦しみたる折柄なれば、米人には自からこの種の輩多かりしといえども、或はその他の外国人にも同様の者ありしならん。この輩のごときは、かかる多事紛雑の際に何か一と仕事して恰も一杯の酒を贏ち得れば自からこれを愉快とするものにして、ただ当人銘々の好事心より出でたるに過ぎず。五十万円を以て三隻の水雷船を造り、以て敵を鏖にすべしなど真に一場の戯言に似たれども、何れの時代にもかくのごとき奇談は珍らしからず。
現に日清戦争の時にも、種々の計を献じて支那政府の採用を求めたる外国人ありしは、その頃の新聞紙に見えて世人の記憶するところならん。当時或る洋学者の家などにはこの種の外国人が頻りに来訪して、前記のごとき計画を説き政府に取次を求めたるもの一にして足らざりしかども、ただこれを聞流して取合わざりしという。もしもかかる事実を以て外国人に云々の企ありなど認むるものもあらんには大なる間違にして、干渉の危険のごとき、いやしくも時の事情を知るものの何人も認めざりしところなり。
されば王政維新の後、新政府にては各国公使を大阪に召集し政府革命の事を告げて各国の承認を求めたるに、素より異議あるべきにあらず、いずれも同意を表したる中に、仏国公使の答は徳川政府に対しては陸軍の編制その他の事に関し少なからざる債権あり、新政府にてこれを引受けらるることなれば、毛頭差支なしとてその挨拶甚だ淡泊なりしという。仏国が殊に幕府を庇護するの意なかりし一証として見るべし。
ついでながら仏公使の云々したる陸軍の事を記さんに、徳川の海軍は蘭人より伝習したれども、陸軍は仏人に依頼し一切仏式を用いていわゆる三兵なるものを組織したり。これも小栗上野介等の尽力に出でたるものにて、例の財政困難の場合とて費用の支出については当局者の苦心尋常ならざりしにもかかわらず、陸軍の隊長等は仏国教師の言を聞き、これも必要なり彼れも入用なりとて兵器は勿論、被服帽子の類に至るまで仏国品を取寄するの約束を結びながら、その都度小栗には謀らずして直に老中の調印を求めたるに、老中等は事の要不要を問わず、乞わるるまま一々調印したるにぞ、小栗もほとんど当惑せりという。仏公使が幕府に対するの債権とはこれ等の代価を指したる者なり。
かかる次第にして小栗等が仏人を延いて種々計画したるは事実なれども、その計画は造船所の設立、陸軍編制等の事にして、専ら軍備を整うるの目的に外ならず。すなわち明治政府において外国の金を借り、またその人を雇うて鉄道海軍の事を計画したると毫も異なるところなし。小栗は幕末に生れたりといえども、その精神気魄純然たる当年の三河武士なり。徳川の存する限りは一日にてもその事うるところに忠ならんことを勉め、鞠躬尽瘁、終に身を以てこれに殉じたるものなり。外国の力を仮りて政府を保存せんと謀りたりとの評の如きは、決して甘受せざるところならん。
今仮りに一歩を譲り、幕末に際して外国干渉の憂ありしとせんか、その機会は官軍東下、徳川顛覆の場合にあらずして、むしろ長州征伐の時にありしならん。長州征伐は幕府創立以来の大騒動にして、前後数年の久しきにわたり目的を達するを得ず、徳川三百年の積威はこれがために失墜し、大名中にもこれより幕命を聞かざるものあるに至りし始末なれば、果して外国人に干渉の意あらんにはこの機会こそ逸すべからざるはずなるに、然るに当時外人の挙動を見れば、別に異なりたる様子もなく、長州騒動の沙汰のごとき、一般にこれを馬耳東風に付し去るの有様なりき。
すなわち彼等は長州が勝つも徳川が負くるも毫も心に関せず、心に関するところはただ利益の一点にして、或は商人のごときは兵乱のために兵器を売付くるの道を得てひそかに喜びたるものありしならんといえども、その隙に乗じて政治的干渉を試みるなど企てたるものはあるべからず。右のごとく長州の騒動に対して痛痒相関せざりしに反し、官軍の東下に引続き奥羽の戦争に付き横浜外人中に一方ならぬ恐惶を起したるその次第は、中国辺にいかなる騒乱あるも、ただ農作を妨ぐるのみにして、米の収穫如何は貿易上に関係なしといえども、東北地方は我国の養蚕地にして、もしもその地方が戦争のために荒らされて生糸の輸出断絶する時は、横浜の貿易に非常の影響を蒙らざるを得ず、すなわち外人の恐惶を催したる所以にして、彼等の利害上、内乱に干渉してますますその騒動を大ならしむるがごとき思いも寄らず、ただ一日も平和回復の早からんことを望みたるならんのみ。
また更らに一歩を進めて考うれば、日本の内乱に際し外国干渉の憂ありとせんには、王政維新の後に至りてもまた機会なきにあらず。その機会はすなわち明治十年の西南戦争なり。当時薩兵の勢、猛烈なりしは幕末における長州の比にあらず。政府はほとんど全国の兵を挙げ、加うるに文明精巧の兵器を以てして尚お容易にこれを鎮圧するを得ず、攻城野戦凡そ八箇月、わずかに平定の功を奏したれども、戦争中国内の有様を察すれば所在の不平士族は日夜、剣を撫して官軍の勢、利ならずと見るときは蹶起直に政府に抗せんとし、すでにその用意に着手したるものもあり。
また百姓の輩は地租改正のために竹槍席旗の暴動を醸したるその余炎未だ収まらず、況んや現に政府の顕官中にも竊に不平士族と気脈を通じて、蕭牆の辺に乱を企てたる者さえなきに非ず。形勢の急なるは、幕末の時に比して更らに急なるその内乱危急の場合に際し、外国人の挙動は如何というに、甚だ平気にして干渉などの様子なきのみならず、日本人においても敵味方共に実際干渉を掛念したるものはあるべからず。
或は西南の騒動は、一個の臣民たる西郷が正統の政府に対して叛乱を企てたるものに過ぎざれども、戊辰の変は京都の政府と江戸の政府と対立して恰も両政府の争なれば、外国人はおのおのその認むるところの政府に左袒して干渉の端を開くの恐れありしといわんか。外人の眼を以て見るときは、戊辰における薩長人の挙動と十年における西郷の挙動と何の選むところあらんや。等しく時の政府に反抗したるものにして、若しも西郷が志を得て実際に新政府を組織したらんには、これを認むることなお維新政府を認めたると同様なりしならんのみ。内乱の性質如何は以て干渉の有無を判断するの標準とするに足らざるなり。
そもそも幕末の時に当りて上方の辺に出没したるいわゆる勤王有志家の挙動を見れば、家を焼くものあり人を殺すものあり、或は足利三代の木像の首を斬りこれを梟するなど、乱暴狼籍名状すべからず。その中には多少時勢に通じたるものもあらんなれども、多数に無勢、一般の挙動はかくのごとくにして、局外より眺むるときは、ただこれ攘夷一偏の壮士輩と認めざるを得ず。然らば幕府の内情は如何というに攘夷論の盛なるは当時の諸藩に譲らず、否な徳川を一藩として見れば諸藩中のもっとも強硬なる攘夷藩というも可なる程なれども、ただ責任の局に在るが故に、止むを得ず外国人に接して表面に和親を表したるのみ。内実は飽くまでも鎖攘主義にして、ひたすら外人を遠ざけんとしたるその一例をいえば、品川に無益の砲台など築きたるその上に、更らに兵庫の和田岬に新砲台の建築を命じたるその命を受けて築造に従事せしはすなわち勝氏にして、その目的は固より攘夷に外ならず。勝氏は真実の攘夷論者に非ざるべしといえども、当時の勢、止むを得ずして攘夷論を装いたるものならん。その事情以て知るべし。
されば鳥羽伏見の戦争、次で官軍の東下のごとき、あたかも攘夷藩と攘夷藩との衝突にして、たとい徳川が倒れて薩長がこれに代わるも、更らに第二の徳川政府を見るに過ぎざるべしと一般に予想したるも無理なき次第にして、維新後の変化は或は当局者においては自から意外に思うところならんに、然るに勝氏は一身の働を以て強いて幕府を解散し、薩長の徒に天下を引渡したるはいかなる考より出でたるか、今日に至りこれを弁護するものは、勝氏は当時外国干渉すなわち国家の危機に際して、対世界の見地より経綸を定めたりなど云々するも、果して当人の心事を穿ち得たるや否や。
もしも勝氏が当時において、真実外国干渉の患あるを恐れてかかる処置に及びたりとすれば、独り自から架空の想像を逞うしてこれがために無益の挙動を演じたるものというの外なけれども、勝氏は決してかかる迂濶の人物にあらず。思うに当時人心激昂の際、敵軍を城下に引受けながら一戦にも及ばず、徳川三百年の政府を穏に解散せんとするは武士道の変則古今の珍事にして、これを断行するには非常の勇気を要すると共に、人心を籠絡してその激昂を鎮撫するに足るの口実なかるべからず。これすなわち勝氏が特に外交の危機云々を絶叫して、その声を大にし以て人の視聴を聳動せんと勉めたる所以に非ざるか、竊に測量するところなれども、人々の所見は自から異にして漫に他より断定するを得ず。
当人の心事如何は知るに由なしとするも、左るにても惜しむべきは勝氏の晩節なり。江戸の開城その事甚だ奇にして当局者の心事は解すべからずといえども、兎に角その出来上りたる結果を見れば大成功と認めざるを得ず。およそ古今の革命には必ず非常の惨毒を流すの常にして、豊臣氏の末路のごとき人をして酸鼻に堪えざらしむるものあり。然るに幕府の始末はこれに反し、穏に政府を解散して流血の禍を避け、無辜の人を殺さず、無用の財を散ぜず、一方には徳川家の祀を存し、一方には維新政府の成立を容易ならしめたるは、時勢の然らしむるところとは申しながら、そもそも勝氏が一身を以て東西の間に奔走周旋し、内外の困難に当り円滑に事を纒めたるがためにして、その苦心の尋常ならざると、その功徳の大なるとは、これを争う者あるべからず、明に認むるところなれども、日本の武士道を以てすれば如何にしても忍ぶべからざるの場合を忍んで、あえてその奇功を収めたる以上は、我事すでに了れりとし主家の結末と共に進退を決し、たとい身に墨染の衣を纒わざるも心は全く浮世の栄辱を外にして片山里に引籠り静に余生を送るの決断に出でたらば、世間においても真実、天下の為めに一身を犠牲にしたるその苦衷苦節を諒して、一点の非難を挟むものなかるべし。
すなわち徳川家が七十万石の新封を得て纔にその祀を存したるの日は勝氏が断然処決すべきの時機なりしに、然るにその決断ここに出でず、あたかも主家を解散したるその功を持参金にして、新政府に嫁し、維新功臣の末班に列して爵位の高きに居り、俸禄の豊なるに安んじ、得々として貴顕栄華の新地位を占めたるは、独り三河武士の末流として徳川累世の恩義に対し相済まざるのみならず、苟も一個の士人たる徳義操行において天下後世に申訳あるべからず。瘠我慢一篇の精神も専らここに疑を存しあえてこれを後世の輿論に質さんとしたるものにして、この一点については論者輩がいかに千言万語を重ぬるも到底弁護の効はなかるべし。返す返すも勝氏のために惜しまざるを得ざるなり。
蓋し論者のごとき当時の事情を詳かにせず、軽々他人の言に依て事を論断したるが故にその論の全く事実に反するも無理ならず。あえて咎むるに足らずといえども、これを文字に記して新聞紙上に公にするに至りては、伝えまた伝えて或は世人を誤るの掛念なきにあらず。いささか筆を労して当時の事実を明にするの止むべからざる所以なり。