百喩経

     前言

 この作は旧作である。仏教は文芸に遠い全々道徳的一遍のものであるかという人に答えるつもりで書いたものである。だが繰り返して云う、この作はやや旧作に属するものである。で、文章の表現が、いくらか前時代のものであると感ぜらるるならば了恕りょうじょして頂きい。ただ、仏教なる真理を時代に応じてクリエーションして行く者は芸術家と同じ直覚力を持たねばならぬということを、否たとえこの私の作は拙悪であるとしても仏教と文芸はむしろ一如相即のものであるという事を会得えとくして頂くならば私の至幸とするところである。
 なお百喩経ひゃくゆきょうは、仏典の比喩経のなかの愚人(仏教語のいわゆる決定性けつじょうしょう)のたとえばかりを集めた条項からその中の幾千を摘出したものである。但し経本には本篇の小標題とその下の僅々二三行の解説のみより点載しては無い。本文は全部其処そこからヒントを得た作者の創作である。

     愚人食塩喩

塩で味をつけたうまい料理をよそで御馳走になった愚人がうちへ帰って塩ばかりなめて見たらまずかった。
 なんにも味の無い男だった。逢うとすぐ帽子をってお辞儀をするような男だった。おまけにおとなしく鼻もかむ。
「すこし塩をつけて喰べてみたらどう」
 石膏せっこう屋のおかみさんが歯朶子しだこに教えて呉れた。おかみさんは歯朶子に払う助手料を差引く代りに石膏置場の小屋を少し綺麗に掃除して呉れた。
「そうねえ。すこし塩をつけて喰べてみましょう」
 歯朶子が返事した。
 小屋の真中の勇ましい希臘ギリシヤの彫刻に手鞄を預けて歯朶子と男のき――いきなり歯朶子は男の頬をびしゃりと叩いた。そして黙ってすまして居た。
「ひどい。なんの理由もなしに………」
 性急にどもりながら男の声は醗酵した。
「あんたがあんまりおとなしいものだからよ。口説くどいたのよ。ここのうちの青熊が」
「青熊というのはここのうちの主人ですね。よろしい」
 男の略図のような単純な五臓六腑が生れてはじめて食物を送る為以外に蠕動ぜんどうするのが歯朶子に見えた。男はふるえる唇を前歯の裏でおさえていった。
「僕はここにある石膏をみんな壊してやる。それからあなたの職業を外の家にきっと探して来る」
 その次におかみさんに逢ったとき歯朶子はいった。
「ありがとう。塩はほんとうに利いてよ。あの人に情が出てよ」
 おかみさんは前に自分の云ったことを忘れて居た。そして歯朶子からはなしの全部を聞いて驚いて仕舞った。
「あたしゃ、でたらめに塩をつけたらと云ったのに、あんたはほんとうに塩をつけて喰べたのね。なるほど男に塩をつけるってそうするものなのね」
 その晩おかみさんは亭主に云った。
「へんなことがあるんだよ。おまえさん。歯朶子の情人があたしのようなものを口説くんだよ。本気でだよ」
 安ウイスキーをめて居た亭主は全身に興味のうろこを逆立てた。
「そいつあ、面白えな。色魔だな。うまくおだてて石膏の一つも売りつけてやれ。売りつけねえと承知しねえぞ」
 その翌朝いやいや亭主に連れられて売付ける石膏をめに物置へ行ったかみさんは、勇ましい希臘の武将の石膏像の一つが壊されて居るのを発見した――ごく臆病に肩の先だけちょっと。

     愚人集牛乳

愚人は客が来るまで日々の牛乳をしぼらないで女牛の体内にためて置くつもりだった。いよいよ客が来た時愚人は女牛の乳をしぼったがやはり一日分しか出なかった。
 夫の愛は日に日に新鮮だった。血の気を増す苜蓿うまごやしの匂いがした。肌目きめのつんだネルのつやをして居た。甘さは物足りないところで控えた。
 それで保志子は夫の愛を牛乳に感じてかった。
 新婚後十月目。
 めずらしく三つ押し並んだ休日があった。東京の実家の妹達が泊りがけで遊びに来ると知らせてよこした。そのしらせ通りの日になるまでにはあと六つ黄ろい秋の日が間に並んで挟まって居た。
 夫の自分への愛を保志子は妹達にも見知らせて置き度かった。飲んで内壁から吸収する幸福を気付かせて置くことは嫁入前の妹達に結婚衛生学の助講にもなる。
 だが若い妹達に、まだ男の愛を肌地きじのよしあしで品さだめしない娘たちに、はたしてじぶんの夫の愛情のようなものが判るかしらん。牛乳の味が判るかしらん。いまだに彼女等がハリウッドへスターのサインを貰う為めに手紙をペンでなぞりなぞり書いてるような娘たちであったらこりゃむずかしい。こりゃ、肌地より分量で示すよりほかあるまい。
 保志子は夫に頼んだ。
「これから向う五日間よ。なるたけ愛を節約してね。けれど妹たちが来たらその溜めといた分を思う存分あたしの上に使ってね。使って見せてね」
 髪の薄い夫はよしよしといった。
 樟脳しょうのうとナフタリンの匂いのするスカートと花模様のたもとがごちゃごちゃに玄関で賑わって六日目の朝、妹たちが到着した。
「あたしが一番よ」
「あたしが一番よ」
 二番目の妹と三番目の妹とは息をはあはあ云わせ乍らこんなことを争って居る。停車場から馳けっこをして来たのだ。
 相変らずこんな娘達だ。その用意しといて宜かった、と保志子は思った。
「早くお上んなさいな。ざっとお湯を使って直ぐ御飯よ」
 その間にも保志子は夫が五日溜めた愛情の今こそ肩に胸に一度に降り注がれるのを待って身構えた。
「この柿、たいへん、おいしい。半分やろうか」
 夫の愛の分量は、やっぱり一日分だけのものしか出なかった。保志子が望むほど濃くも多くもなって居なかった。それよりも妹たちは、初めて来た姉の家の茶の間や庭先を見廻すのに気をとられて居た。それに飽きると今度は姉の夫をすぐバット細工の友達にして仕舞った。
「牛乳は牝牛の腹には――と保志子は考えた――溜めて置かれないものね」

     三重楼喩

愚な富豪が木匠を呼んで三重楼を建て度いが、自分は三重楼の下の二層は要らない、上一層だけが欲しいと云った。
「あの土台も作らず、あの胴も作らず、あのほっそりした塔の頂上だけをあの高さにおいて作りたいものだと考えて見なさい」
 セーヌ河の中の島でむく犬のリックとラックに向うから遊で飽かれて仕舞った老人で食扶持くいぶちの年金は独逸ドイツの償金で支払われて居るのがエッフェル塔を指してこういった。
「そうすると、その不可能を可能にしようとする苦しみの間から人間の情緒が汗のように出るね。勇気、失望、狡猾こうかつ、落胆、負け惜しみ、慰め――その間には叩かれた女の掌のやきもち筋も見えるよ。どこかへ生み落したはずと思う子供の片えくぼも出るよ。うっかり余分にやって黙って取られて仕舞った稿銭のたかも思い出すよ。だが、結局、そんなものも焼きつくしてしまってときどき花火のようなものが光るね。鏡を陽に当てて焦点を眼玉のなかへ射込ませる。あんなやわなものじゃないよ。まぶしいのが口のなかまで押込んで来て息が出来なくなるんだよ。おまえさんその時、きっとあっというね。おまえさん思わず頭を手でうしろから押えなさるかも知れんよ。頭のなかで働かしすぎた智恵の調革ベルトが引切れたとでも思いなさってよ。だが、そんなものじゃ無いよ、それは。こっちでも向うでもないんだよ。ちょっと耳をそばへ持って来なさい。小さい声ではなすよ。あれはね猶太ユダヤ人のアインスタインが飯の種にしているあの「空間」というものだね、その証拠にはあの火花に頭を持って行かれるときエッフェル塔の頂上だけ土台も胴なかもなくてふんわりあの高さに浮ばせる無理が不思議でなく顕現するんだよ。は は は は は は。おれが思うのには聖オウガスチンという男はあわてものさ。あの火花を見ただけで神様の体まで見てしまったものと早合点したのさ。あれは神様じゃ無いよ。あれは神様の後光だけなんだよ。神様の体なんていものは伊太利イタリー生章魚いきだこのようにその居場所によってその居場所と同じようになっちまうんだから到底見えやしないよ。
 そうかい、おまえさん、橋を渡って河岸かしを歩いて帰りなさるかい。今日は天気が宜いから曳舟ひきぶねから岸壁の環へ洗濯ひもを一ぱい張ってあるから歩きにくいよ。は は は。あすこの釣好きの馬鹿を見なさい。釣った魚を、ポケットへ蔵い込んで大事にボタンを締めたよ」

     乗船失盂喩

ある愚男が海に盂を落した。男は直ちに落した箇所の水流の具合など描き取って置いた。二ヶ月して他国で前に描いて置いた水の具合いに似た海に来た。男は盂を得ようとして其処そこを探して得なかった。
 浪華なにわの堀を出て淡路の洲本すもとの沖を越すころは海はいで居た。帆は胸を落ち込ました。乗込客は酒筒など取り出した。女に口三味線を弾かせて膝の丸みを撫で乍らうとうとする年寄りもあった。
 陸は近かった。松並木は一重青く浮き出して居た。その幹の間から並んで動いて行く小さい苫屋とまやが見えた。あたたかな砂浜には人が多ぜいいかなごる網を曳いて居た。犬が吠え廻った。
 船舷ふなべりに頬杖を突いて一眠りした蒔蔵はしびれたような疲れもすっかりなおった。やる瀬ない気持ちだけが残った。
「そうだかんざしがあったのだ、おもかげをしのぼう」
 よじれて来る浪頭なみがしらを一すくい掌にすくい取って口にふくみ顔を撫でて新らしい三尺手拭でふいた彼は、眼の前の春の海原のなかに木屋町の白けたきぬぎぬを思い出した。あけ方の廊下は冷たかった。鉛の板のような草履ぞうりだった。女は湯も取っては呉れなかった。ただ傍に立っていて欠伸あくびをした。女の横顔をせめて別れにしみじみ見て置こうとしたら向うを向いて仕舞った。
「薄情者が横顔さえも惜んだのか。向うむくはずみにわたしのそでの上へ落ちたのがこの簪なのだが、女は気がつかなかった。わたしはそのまま袖のなかへすべり込ませた。安っぽい銀簪。なんだ菊がってある。小癪こしゃくにもまがきが彫ってある。汚い油垢が溜って居る。それで居て、これを見ると恋しいのはどういうわけだ。ままよ嗅いでみてやれ」
 ひねくる拍子に簪を海へ落してしまった。蒔蔵はその時たいして惜しいとも思わなかった。まわりの景色だけに何故かよく気がついた。
「こういうところで女の簪を落したのだな。よし、よく覚えといてやれ」
 船は港の泊りを重ねて尾州蒲郡がまごおりいかりを下した。蒔蔵の故郷豊橋へはもう近い。
 しかし、彼が木屋町の女に対する恋情は募るばかりだった。それより淡路の海へ落した銀の簪が惜しくてならなくなった。彼が着て居る着物とかえりの旅費ばかりになり、そのほかのあらゆるものを賭けての上方かみがた行きの代償は、たったあの銀の簪一本になったのだ。彼をそうさした女のたった一つの形見だったのだ。持って居て一生恨みつらみを云わねばならぬ。彼の胸は煮えつくして却ってぽかんとして仕舞った。
 浜に網曳く声が聞えた。犬の声も交って居る。青松白砂。蒔蔵は
「ここは淡路じゃ無いぞ。蒲郡だぞ」
 と何遍自分に云って聞かせてもどうしてもここが淡路に見えた。記憶のなかの洲本が消えて仕舞って眼の前に洲本の海がぎらぎらする光と生々しさをもって彼の感覚に迫った。
「簪を返して貰おう」
 畳の目のような小皺こじわを寄らせてねとりねとり透明な肌に媚びを見せて居る海の水を見詰めながら蒔蔵は帯を締め直した。それからずぶと海のなかへ這入はいった。簪を得る代りに蒔蔵は海へ命を落した。

     五人買婢共使喩

五人の男が公平に金を出し合って一婢を雇った。一人の男が怒って婢に十鞭を与えると他の四人も権利を主張して婢に十鞭ずつを与えた。
 五人で一人の女を雇った。山査子さんざしの咲く古い借家に。
 五人は生活費を分担して居た。従って女の給金も頭分けにして払った。それと関係なしに山査子の花は梅の形に咲く。
 平凡な雇女は呼びようもなくて雇主の五人を一々旦那様と呼んだ。でもその呼びかたに多少の特性キャラクテールを認めないこともない。
 一人には、あの旦那様。
 一人には、ちょっと旦那様。
 一人には、恐れ入りますが旦那様。
 一人には、いらっしゃいますか旦那様。
 一人には、ただ旦那様。
と呼んだ。
 主人の一人は洗濯物を女に出す。すると他の四人の主人も洗濯物を出す。機会均等。利権等分。彼等には独身もののサラリーマンらしい可憐な経済観念があった。
 洗濯ものは五つ一様にきれいには洗えなかった。かけて干したシャツの袖に山査子の赤黄ろい実の色がこすりついたまま畳まれるようなこともあった。これを見つけた持主の主人は口を尖らして女を叱った。
 すると他の四人も損をしまいと口を尖らして女を叱った。
 叱られた女は、ここに於て主人を恨むべく――
「だが五人を恨むことは――」
 と女は思った。
「わたしらのような女には五人も一度に人を恨むことは出来ない。そういうように心が出来て居ない。やっぱりかたきを一人にして恨みを突き詰めて行かなければ……で、恨むのは、どの旦那様にしよう」
 思い迷った女は八つ口から赤い手を出したまま裏口に立った。
 そこに指で押しながら考えをまとめるに都合よくさいわい山査子には小さいとげがあった。

     田夫思王女

田夫が貴姫を恋するこころを人に打ち明けた。人は「王女になんじの思いを通じたが汝を王女は嫌いと云った」と告げたにも拘らず田夫はいても王女に自分を認めさせようとした。
「世に美しいものとはこの姫のことか」
 陀堀多は畑の中から輿こしの姫を眺めた。彼は今、黒黍くろきびを刈っていた。
 金銀の瓔珞ようらく、七宝の胸かい、けしの花のような軽い輿。輿を乗せた小さい白象は虹でかがられた毛毬けまりのように輝いて居た。輿は象の歩るくびにうつらうつらと揺れた。
 陀堀多は知らず知らず黍の蔭に身を隠しながら姫の姿を追った。
 本あぜ道は榕樹ガジュマルの林へ向っていた。そこまではまだ二三町あった。さいわい黍畑は続いて居た。はるかに瑠璃るり色の空を刻み取って雪山の雪が王城の二つやぐらを門歯にして夕栄えにきらめいて居た。夢のような行列はこれ等の遠景を遊び相手にたゆたいつつ行く。
「あの姫にこのおれを認めさせずに行かせるのは残念だ。姫は二度とこういう田舎いなかへは来ないだろう。野の土くれの存在をああいう虹にうつしとめて置くということは――何だか分らないが、一生の生甲斐いきがいになるように思える」
 黒黍の蔭をってついて行った陀堀多は、そこで身を伸び上り声を叫ぼうとした。しかし腰は臆して伸びなかった。もう行列の先手は二人ずつ並んで榕樹の林の紫の影に染まって行く。
 肥溜こえだめ桶があった。いたちの死骸がりんの色にただれて泡をかぶっていた。桶杓ひしゃくんだ襤褸ぼろの浮島に刺さって居た。陀堀多はその柄を取上げた。あたり四方へ力一ぱい撒いた。
 風がその匂いを送って危うく榕樹の林へ入りかけようとする姫の嗅覚に届いた、姫は袖で顔を覆った。
 姫に一つの強い感銘を与えたということで陀堀多はほっと満足した。しかし、あの美しいものを不快がらしたと思うといじらしくてならなくなった。
 陀堀多は黍の中で泣いた。

     殺商主天喩

一隊商が曠野こうや颶風ぐふうに遇った時、野神にそなうる人身御供ひとみごくうとして案内人を殺した。案内人を失った隊商等の運命は如何。
 ×××で雇い入れた案内者は不思議な男だった。
「ほんとうの案内者は殺されてから案内する」
 こんなことをいった。みんなは大して気にも留めなかった。一つはこの案内者の見かけが平凡でそこらにざらにある雑種のアラビア人とちっとも違わないし、その上相当にずるくもあったのでただ出鱈目でたらめをいう言葉のなかに聞き流した。
 自分の言葉に取り合われぬとき案内者はその平凡な顔の上にかすかな怒りを見せた。
 隊商は出発した。沙漠は無限だった。駱駝らくだの脚の下にむなしく砂が踏まれていると思うような日が幾日も続いた。太陽だけが日に一つずつ空に燃えてかすになった。
 この広漠たる沙漠のなかを案内者は杖を振り先頭に立って道を進めた。自信のある足取で行路を指揮する権威ある態度の彼は立派な案内者だった。
 砂丘の蔭に石でふたのしてある隠し水の在所も迷うことなく探してた。太陽が中天に一休みして暑さと砂ほこりにみんながみ疲れる頃を見はからい彼は唄をうたった。
いつか一度は
さかなになって
水のお城に水の酒
あの子と二人で水の蚊帳かや
ささやれ
涼しい
涼しい
 するとみんなも声を揃えて、涼しい、涼しいと合せるのだった。そして唄う面白さを引出して呉れた彼に感謝の拍手をみんなが送る。と、彼は一応うれしそうな顔はするがその後でぽかんとひとり言のようにまたいうのだった。
「ほんとうの案内者は殺されてから案内する」
 みんなは追々おいおい彼のこの言葉に何か神秘めくもののあるのに気を付け出した。
 ×××を出発してから十何日目かの午後だった。行手の蒼空あおぞらの裾が一点つねられて手垢てあかあとがついたかと思う間もなくたちまちそれが拡がって、何百里の幅は黄黒い闇になってその中に数え切れぬほどの竜巻きが銀色の髭を振り廻した。頬に痛い熱砂。駱駝は意気地なくかがんで仕舞った。
 さあ、誰か一人殺さねばならない。隊商の中のみんなが一度にそう思った。そして無気味な顔を見合せた。沙漠のなかで大風に遇うのは天神の怒に触れたものとして隊商のうちの一人を犠牲にして災難を免れるよういのらねばならない。このことは誰も知って居た。
 隊商はみな同族だった。お互いがお互いの妻や子を見知って居るような間柄だった。人情として誰一人にも手を加えられなかった。犠牲にするのは異邦人の案内者より他になかった。みんなは案内者を殺した。
 大風は去った。案内者の死骸は鼻の穴も口も砂で一ぱい詰って朽木のように半分地に埋って居た。
 いのちを助かって隊商のみんなは今更砂漠の中で案内者を殺して仕舞った失敗に気がついた。
「どうしよう」
 みんなが口に出して言った。
 当惑。迷いに迷ってみんながかわき死にに死ぬのは眼に見えるようだった。
 困るという感情が強く胸から身体の八方を冷酷に焼け爛らして行くとそのあとへ絶望という空虚が時間も空間も浸み込めない緻密の限りの質を持ち込んでそこを埋める。だが人々は、そのあまりに超人的な冷度に長く堪えては居られない。
 思わずそこから弾ね起きる。みんなは云った。
「これからは、われわれみんなが案内者だ。行けるところまで行こう」
 途端にみんなの胸に浮んだ言葉はあの案内者の口から出たものだった。
 ――ほんとうの案内者は殺されてから案内する――
 しかし、本当に死んでそのあかしを見せたこの言葉は殊にこの案内者だけの言葉であったのか、それとも昔から一般案内者の間に伝わって居た一般案内者のうちの或者が或場合に遭遇する運命を予約したものかみんなには判らなかった。彼等はそこから出かけようとして一斉に砂だらけな案内者の平凡な顔を見返した。

     ※(「口+奄」、第3水準1-15-6)米決口喩

妻の家の米を盗んで口へ入れた男の話。
 こういう気持ちを人にいって判るだろうかどうだろうか。またはこういう気持ちは自分だけ変質的に持っていて到底、他人には理解されずに終る果敢はかないものの一つなのか。作太郎は医者の前で涙をぽろぽろこぼした。医者は作太郎の膨れた頬に丁寧に麻痺剤を注射した。手術を取捲いた花嫁を前に家族一同が心配そうな顔を並べた。
 結婚後七日目に作太郎は新妻を連れて妻の実家を訪問したのだった。媒酌結婚ではあったが彼はその妻もその実家をも愛して居た。
 程よい富、程よい名望、三棟の土蔵へ通う屋根廊下には旧家らしい薄闇が漂っていた。桟窓からさし込む陽に飴色あめいろの油虫が二三びき光った。
「気味がお悪くは無くて。あたし陰気でこの家好きになれませんでしたわ」
 花嫁の巻子は取做とりなし顔にこういった。
 自分が貰った新鮮で健康でカルシュームの匂いのする乙女おとめ、それを生むために何代かの人が倹約、常識、忍耐、そういうような胎盤を用意したのだ。そう思うと作太郎はこの実家の一々のものに感謝のこころが湧いた。
「いい家だよ。がっちりしたおっかさんのような家だよ」
 立止まるとふきを混ぜた味噌汁の匂いと家畜の寝藁ねわらの匂いとしずかに嗅ぎ分けられた。作太郎は廊下や柱や壁をしみじみとした愛感で撫で乍ら歩いた。
 廊下が尽きて土蔵の戸前へ移るところは菜がこぼれて石畳が露出して居た。そこから裏庭へ出て逞しい駝鳥のような鶏を作太郎に見せようという巻子の趣向なのだが下駄が一つしか置いて無かった。巻子はそれを穿くと、もう一つを取りに出た。
 正午前の田舎の日光は廊下の左右の戸口からさし込んでまぶしかった。柱にもたせて洗った米がに一ぱい水を切る為に置いてあった。粒米はもう陽に膨れてかすかな虹の湯気を立てて居た。
 動物が穀物に対する本能。それで作太郎は思わず手を出したのだが意識的には一つ巻子の実家のものを無断で貰ってやれ、こういう気持ちに動かされて五本の指先をザクリと米に突込んでその一握りを口に頬張ったのだ。この無断は、咄嗟とっさな振舞いがいかに作太郎をして巻子の実家に対する親愛の念を満足せしめたか、彼は頬のふくれ返った微笑の顔を母家の方へ向けた。途端に巻子が帰って来た。げた庭下駄を下に並べる間もなく作太郎の顔を見て彼女は驚いていった。
「あなた。どうかなすったの、頬が――」
 彼女はいままで云いそびれて居たあなたという言葉を思わず使った。
 作太郎はあかくなってそれから土気色になった。口に一ぱい詰めた生米は程よく乾いていたので少々の唾液ではみ下せなかった。まして新妻の前で吐き出すことはどうしても出来なかった。さもしい真似と思われそうなので。
 夫の異常を見て巻子が叫声を立てたので一家中の騒ぎとなり作太郎はいよいよバツを悪くし作太郎に苦悶の表情が現われるほど一家の心配を増しとうとう外科医まで招んで来て仕舞った。
 作太郎の頬は麻痺剤の利目が現れてだんだん無感覚になって来た。もうじきそこに刀が突立てられるだろう。そしてその皮膚の切口から喜劇的な粒米がぼろぼろ現れたら世界一恥かしいことだ。
「そのときおれはどうしたら宜いんだろう」
 作太郎は眼を瞑って人はどうしてこういうとき死なないのだろうと悔いながら何のたすけも見出されない今の自分を世の中のたった一人の孤独と感じた。

     食半餅

或人が食に飢え七枚の煎餅せんべいを喰べた。だが七枚目を半分喰べた時満腹したので彼は言った、「今の半分の為に私の腹はくちくなったのだ、だから先の六枚は喰べなくてもよかったのに」
 明るい早春のサンルームで愛の忍堪力の試験。
 イエツ教授の娘のマーガレットはこういう実験のプランを可愛ゆいとき色の小脳のひだからみ出して支度したくにかかった。――招待状、英国風の朝飯、その朝すこしの風も欲しい。
 恋人の三木本は約束の時間にやって来た。オースチンリードで出来合いをすこし直さしたモーニングの突立った肩が黄いろい金鎖草の花房にじた挨拶をしながら庭の門を入る。東洋風の鞣革なめしがわの皮膚、鞣革の手の皮膚。その手がそこで急いで本ものの鞣皮の外套を脱ぐ。
 苦学の泥の跳ねあとを棘の舌ですっかり嘗めてしまった猫のような青年紳士は蜘蛛くもの糸の研究者で内地レントゲン器械製造会社との密約者。
 眩しいような白と萌黄もえぎの午前服で男を圧迫しながらマーガレットは爪磨きをして二日目の彫刻的な指先で甘える。
「そのトーストを一枚、いちごのジャムを塗ってね」
 男の忠実に働く手とカフスが六つばかりの銀器に映る。
 庭の桜と梨の花が息を詰めて覗く。蒼空を下から持上げようと薔薇色の雲が地平から頭を押し出して見たが重くて駄目。
「こんどは、マルマレードを塗って一枚ね」
 承知した男の忠実さとエリザベス朝式の銀器に手とカフスを映すことは前とちっとも変らない。どこかでフォルクダンスのレコードがこどもの靴先に挑みかける間拍子の弾み切ったのが聞える。男は両鬢りょうびんの肉と耳を少し動かして聞く。
 もう一枚、同じくマルマレードをつけて、もう一枚、もう一枚、もう一枚――マーガレットは男に取って貰って六枚まで喰べた。だが七枚目は
「半分」
 と云った。
 このとき思わず令嬢の顔を見た三木本の眉の根に面倒と怒りとで挟み上げられた肉の隆起を認めた。だがそれは極めてかすかなものですぐ消えた。
 三木本の帰ったあと遅く出た風の送る水仙草の匂いを嗅ぎながら広いサンルームでマーガレットは安楽椅子にくたりとした。彼女は満腹したのが何となくおかしくなり、独りでくくと笑った。それから考えた。
「三木本がよろこんで自分に世話をやく程度はトーストパンにすると六枚までである。七枚目には彼は面倒を感ずる。興味ある心理実験。その試験材料をわたしはおなかに喰べた」
 彼女はまたおかしくなった。
「それにしても満腹して少しおなかが切ない。あのパンの前の六枚を喰べずに一番あとの七枚目の半分だけで三木本の愛の分量の実験の効果を挙げる方法はなかったものか」
 蒼空に乱れ始めた白雲を眺めながら彼女の頭脳の若さはこんな無理をしきりに考えた。

     小児得大亀

 この辺で亀は珍らしかった。こどもはそれを捉えた。用心して棒切で押えて縄で縛った。
 こどもははじめて見るこの爬虫類を憎んだ、石の箱のなかに首も手足もしまって思い通りにならない。ひっくり返せばそのままひっくり返って居る。こどものリズムとテムポが合わないもどかしい退屈な動物だ。
 それにこどもはこの動物を危険な動物とも見た。なにしろ手足に爪が生えている。口には歯もある。危害を隠しているこの醜いものを殺して英雄になり度い気持ちがこどもに強く湧いた。こどもは勇気をふるって石を二つ三つ亀の上へ投げて見た。亀は死ななかった。
 通りがかりの人があった。
「それは、水のなかへ入れるが宜い。一番早く死ぬ」
 こどもにこう教えた。
(おとなというものは真赤な嘘をこどもに信じさせるときにいくらか自分もその気になるものだ。とうとう本当にその気になって仕舞うこともある。)
 こどもは亀を池の中へ入れた。背中に模様のある石は一たん水の中に沈んでそれから浮いて水草の間に手足を働かした。
「やあ、苦しんでやがる」
 惨虐な少年の性慾は異様な満足を感じた。
 おとなの嘘から少年の中にほころびた性慾の赤い蕾は、やがてお町、鏡子、おふゆ、というような女に苦労をさす種となった。

底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「鶴は病みき」信正社
   1936(昭和11)年10月20日発行
初出:「三田文学」
   1934(昭和9)年11月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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