ドーヴィル物語

       一

 日本留学生小田島春作は女友イベットに呼び寄せられ、前夜おそ巴里パリち、未明にドーヴィル、ノルマンジーホテルに着いた。此処ここは巴里から自動車で二時間余で着く賭博中心の世界的遊楽地だ。
 壮麗な石造りの間の処どころへわざ田舎いなか風を取入れたホテルの玄関へ小田島が車を乗り付けた時、傍の道路の闇に小屋程のかたまりが、少しきざして来た暁の光を受け止めて居るのが眼に入った。彼の疲れた体にその塊は、強く生物の気配けはいを感じさせた。よくるとそれは象であった。背中から四肢にかけ、縦横に布や刺繍ししゅうや金属で装ってあるらしい象の体は、丸く縛りすくめられ、その前肢に背をもたせ、ダラリと下った鼻を腕でだいた一人の黒ン坊が眠って居るのもうすうす判る。まだホテルの羽目にも外に三四人の黒ン坊が、凭れて眠って居る様子だ。
 小田島は近頃、巴里で読んだ巴里画報の記事を思い出した。カプユルタンのマハラニがドーヴィル大懸賞の競馬見物に乗って出るため、わざわざ国元印度インドから白象を取寄せたということ。また小さい美しい巴里女優ラ・カバネルが四人の黒ン坊の子供に担がせた近東風の輿こしに乗って出るということ。その伊達競だてくらべに使われた可憐な役者達が、勤めを果して此処ここに眠って居ることが彼に解った。
 暁の空に負けて赤黄いろくしなびかけたシャンデリヤの下で小田島が帳場の男に、イベットがたしかに泊って居るかどうかを尋ね合せて居ると、二三組の男女が玄関から入って来た。男はタキシード、女は大概ガウンを羽織り、伯爵夫妻とでもいうようなゆるやかな足取りで通って行く。次に誰の眼にも莫連女コケットと知れるき出しの胸や腕に宝石の斑張りをした女が通った。いずれドーヴィルストックの名花の一人であろうすごい美人だ。彼女の眼は硝子ガラス張りのようにただ張って居る。瞳を一ミリと動かさずに通りすがりの男の消費価値を値踏みするこの種の女の何れもが持ち合して居る眼だ。
 小さい靴のかかとで馳ける音、それに引ずられて馳ける男の靴の音がして一組の男女がまた玄関から入って来た。小田島は「やあ」と日本語で云って仕舞った――イベットの服装はひだがゴシック風に重たくくびれ、ラップの金銀のはく警蹕けいひつの音をたてて居る。その下から夜会服の銀一色が、を細く曳いて居る。し手にして居る羽扇が無かったら、武装して居る天使の図そっくりだ。彼女の面長で下ぶくれの子供顔は、むしろ服装に負けて居る。つれの男は年老としとった美男だ。薄い皮膚の下に複雑な神経を包んで居るようで、何事も優雅で自分へ有利に料理する老獪ろうかいさを眼の底に覗かして居る。その眼は大きいが柔い疲れが下瞼の飾のような影になって居る。この老美男を組んだ腕でぐんぐん引立てて来たイベットは、咄嗟とっさに小田島を見たが、すぐ、知らん顔をした。そして五六歩あるき階段へ廻る廊下の角の林檎りんごの鉢植の傍まで行くと、老紳士と組んだ腕を解き、右の片手を鉢の縁にかけ、夜会服のすそを膝までめくる。心得のある老紳士はそっと彼女に背を向け中庭の薄明が室内の電燈と中和する水色の窓硝子に疲れた眼を休ませる。客商売である帳場の者はもちろんこういう時の心得は知って居てそっぽを向く。(小田島ばかりはこういう時の礼儀を知らぬ東洋人であると、しらばくれて居られる特権がある。)彼女が捲った膝のくびれが沓下くつしたの端を風鈴草の花のようにり返らせ、あらわになった彼女の象牙色の肉が盛り上る其処そこには可愛らしいジャンダークのたて刺青いれずみしてある。フランス乙女倶楽部クラブの会員章だ。実はこの刺青を小田島に見せるために、彼女は人前で靴下止めを直す振りをしたのだ。小田島とランデヴウを約束しようとして他人と一緒の時には、いつも彼女はこの可愛らしいふてぶてしい仕草で合図をする。
 彼女は小田島が彼女の様子を見届けたのを知ると裳を元通り降して立ち上り、老紳士に云った。
――今日のお昼は小海老こえびを喰べに行きますの、オンフルールの、サン・シメオンへ。
――承知しました、マドモアゼル。
――あら、あたしひとりでですわ。
――妙ですね。浮気?
――いいえ、たった一人でセーヌ河口が見度みたいのですわ。
――ホホウ、ヒステリーの起った風景画家というところですな。では晩まで遠慮しましょう。
――その代り、晩は十時にシロで晩御飯。それから賭博場カジノのバカラへ行きましょう。
 イベットは老紳士との会話で小田島に知らせるランデヴウの場所(サン・シメオン)を聞かせた。小田島は二人が二階へ昇って仕舞ってから帳場係に聞いた。
――あの紳士は誰だい。
――ドーヴィル市長、ムッシュウ・マシップ(仮名)です。
 小田島はいつぞや巴里で彼女がほのめかした通り、イベットは本当にスペイン国事探偵として、このドーヴィルに喰い込んで居るのかと、内心驚いた。

       二

 太陽があざやかに初秋の朝をきらめかし始めた。ドーヴィル市の屋根が並べた赤、緑、灰色のうろこを動かして来た。その中に突立つ破風はふ造りの劇場、寺の尖塔(上べは綺麗ずくめで実は罪悪ばかりの素材で作り上げたこの市に寺のあるのが彼には一寸ちょっとおかしかった。)果樹園に取巻かれて、土の赤肌をポカンと開けて居るポロ競技場もかすかに見える。眼の前の建築群と建築群との狭い間から斜の光線にすくい上げられ花園のスカートを着けた賭博場の白い建物や、大西洋の水面の切端の遠望が、小田島の向うホテル五階の窓框まどわくの高さに止る。プラタナスの並樹で縁取った海岸の散歩道には、もうありほどの大きさに朝の乗馬連が往き来している。その中に人を小馬鹿にした様にカプユルタンの王様が女と一緒に象に乗って居るのが大粒に見える。
 疲れが深いねむりを引き、先刻ひと寝入りで寝足りた小田島は再びベッドに横になっても眠くはなかった。で、巴里から持って来た社交界雑誌ブウルヴァルジエをひろげた。彼は今までこの雑誌を見たこともなかったが巴里の社交界が移動して来た今日のドーヴィルは、この雑誌で研究するに限ると思ったので買って来た。ページを繰ると仏蘭西フランスの自動車王シトロエンが、この地へ大賭博に来て居ること。フランス華族社会切っての伊達者だてものボニ侯爵がアメリカの金持寡婦の依頼で、この土地で欧洲名門救済協会の組織を協議したこと等の記事が眼につく――だしぬけに部屋の扉が開いた。
――御免なさい。あたし、お部屋を間違えたのよ。
 薔薇ばら色に黄の光沢が滑る部屋着の女が入って来た扉口を素早く締め彼に近づきながら早口に云う。
――あたし、東洋の方、大変、好き。このままここに居さしてね。
 小田島は急いでベッドから半身起し、手を振って云った。
――駄目ですよ。僕は真面目な旅行者ですよ。
 女は、案外思い切りよくまた扉口へ戻って、云った。
――あんた、もし相手が欲しかったら、四百九十三号室に居るわたしを呼んでね。あたし本当はあなた方の相手するようなやすい女じゃ無いんだけど、すっかりこれでしょう。
 女は何の飾も無くなった素の手首を見せて
――だからあんたから阿片アヘンでももらって、やけに呑んで見ようと思って。
 小田島は苦笑し乍ら云った。
――生憎あいにくと僕は支那人じゃ無いのです。
 だが、女はまだ疑って居るようだ。
――この土地にはね、死ぬ処を、アッシュや阿片で止めた女が沢山居るのよ。
       三

 太陽、大河口。かもめ――ドーヴィルから適当な距離のオンフルール海岸は、ドーヴィル賭博人の敗北の深傷ふかでや遊楽者達の激しい日夜の享楽から受ける炎症をいやしに行く静涼な土地だ。
 レストラン、サン・シメオンの野天のテーブルで小海老を小田島にがさせ乍ら、イベットは長いまつげを昼の光線に煙らせて、セーヌの河口を眺めて居る。彼女がうしてじっとして居る時は、物を眺めて居るのか、何か考えて居るのか小田島には判らない。だがまた斯うして居る時程この娘は美しく見える。イベットはもともと南欧ラテン民族の抜ける様な白いひたいから頬へかけうっすり素焼の赭土あかつち色を帯びた下ぶくれの瓜実顔うりざねがおを持つ女なのだが彼女が斯うした無心の態度に入る時には、何とも形容し難い「物」になって仕舞い、自然が与えた美しさだけが、外貌に残る。少し眼尻が下り、びて居るのかあざけって居るのかうれえて居るのか判らない大きな眼、丸味を帯びて小さい権威をふるって居る鼻、くびれた余りがほころびかけて居る唇。これらがその形のままで空虚になるのだ。そしてこの娘のこの虚脱には何という人を逃さぬ魅力があることだろう。
――あなた、突然の電報で驚いた?
――別に驚きもし無いがね。だが一たい僕をこんな贅沢ぜいたくな処へ呼んで、どうしようって云うんだい。
 彼女は「物」からただの女になりふふんと小狡こずるく笑った。それから小海老を手握てづかみで喰べて先が独活うどの芽のように円くしなう指先をナプキンで拭いた。
 まともに押しても決して彼女が素直な返事をしないことを小田島は知り切って居た。と云ってカマをかけてくようなえごいことは仕度したく無い女だ。小田島は思い切って聞いた。
――君はこの土地へ、探偵に来たのだろう。
――ふふん、それがたというの。
 イベットは少しぎょっとしたが、子供らしくとぼけ、胸を反らして小田島に逆らう様な恰好かっこうをした――その時、太陽が直射した。そして額や頬に初秋の海風が一しきり流れると彼女は急に崩折れた。
――腕を借してよ、小田島。私にすがらしてよ、こんな商売、私、随分、寂しいのよ。
 イベットは両手で小田島の腕を握り、毛織物を通して感じられる日本人独特の筋肉が円く盛上った上膊に※(「需+頁」、第3水準1-94-6)こめかみあてがった。そして何か強い精気あるものに溶け込み度い思いで一ぱいになって居るように彼女は静に眼を半分閉じるのだった。かもめの落す影が二つ彼女の長い睫を軽くまたたかせる。
 この料理店自慢の鳥に詰物をした料理を給仕男が持って来たが、こういう卓上風景には馴れて居るので音を立てぬようにそっと行って仕舞った。
 子供が乳房を吸って仕舞ったあとのようなぽかんとした顔をして、イベットはやがて男の腕から顔を上げた。
――あなた、カジノの賭博から、フランス政府はいくら取上げるのだと思って?
――知らないね。
 小田島は経済学を専攻して居てもまだ賭博についての研究はしてなかった。
――カジノでやる賭博で、「シュマン・ド・フェル(賭博の一種)」は五パーセント、カジノでテラ銭を取るのよ。その五パーセントの中からフランス政府は三パーセント取るのよ。それから「バカラ」では親元がはねる手数料三千フランずつに就て政府は六十五パーセントずつ取るのよ。一寸考えても御覧なさい。随分大きいでしょう。
――成程なるほどね。大きいや。
 小田島は驚いた。彼もフランスの財政が賭博税で補われて居る位はうすうす聴いて居た。しかし、それ程一々の賭博から多く取上げて行くことは知らなかった。フランス国内に勢力を持って居る多くの風教団体がフランスの不名誉として賭博税を、また人道の不名誉として賭博場の全廃を、あらゆる精力を費して叫んで来たが一向行われ無い。むしろカジノは国内に増すばかりである。「世界大戦後の財政の立直るまで」と云い訳して来た財務当局の口実も意味をなさぬ今日においては、なおその正論を無視してやり続けて居るのも、これ程うまい利益が吸えるからだ。とイベットが少し興奮し乍ら話すのを小田島は熱心に聴いて居た。
――で、一体フランス政府へは一年にのくらい賭博から這入はいるのだろう。
――それが簡単に判る位だったら、わたしこんなに苦労はしなかったのよ。なかなか判らないからまたわたしの商売にもなるのよ。
 小田島は彼女の顔をあらためて見た。彼が三年前彼女と巴里の共和祭の踊場で知り合って以来、彼女は随分職業を変えた。ジャン・パトウのマネキン娘。愛犬倶楽部の書記助手。土耳古トルコの金持のめかけ、アメリカ世界観光船へ乗組の遊び女、これらの職業に携わって居る間に彼女は小田島に度々たびたび遇って、いくらも生活の愚痴や自慢話はするのだったが、職業それ自体に就ては何の感想も述べなかった。何れも運命の当然と諦めて居るらしかった。そしてハンドバッグにはいつもカスタネットを一組入れて居て、自分の職業が悲しくなるとそれを取出し、カラカラ指先で鳴らして気持ちの鬱屈を紛らして居た。今度の職業は、彼女にとって今までよりずっと重荷であるらしかった、で今までとは違いいくらかでも彼にこの職業の内情を割って見せる彼女が彼にはいじらしく見えた。

       四

 人をおだてに乗せることをよくない趣味と心得て居乍ら、しかも職業としては悪びれず、何処どこ迄もそれを最上の商法信条とする。これがフランス遊覧地気質だ。ドーヴィル、ノルマンジーホテルの食堂もその一つだ。ちょっと客を気易くさせる淡い影を壁の隅々に持たせ乍ら取付けた様な威厳、上ずった品位、慧眼けいがんのものが早くそれを見破ろうとする前に縦横からあらゆる角度の屈折光線がその作意をフォーカスする。で、客はただもう貴族趣味の夢遊病者となって、われ知らず飲み、喰い、踊る。客をそうして狂わせて置き乍ら、その狂う形骸に向って心からの親切、愛嬌、敬意を払って居るマネージャー始め食堂関係者等の慇懃いんぎんな態度――彼等のその態度にはまったく皮肉も狡さも無い。極めて従容とした自然な態度だ。如何いかにフランス人が客商売に適して居るかが分る。
 ダンス床を取捲いた二百五十組の食卓の一つへ小田島は仕方なしに四百九十三号室の女と席を取った。女は小田島がオンフルールでイベットに別れ、夕方帰って一休みして居ると、ほとんど部屋へあばれ込んで来た。女は少し酒に酔って居る癖に腹が空いて居ると云って、小田島の部屋を掻き廻し差し当り何か口に入れるものを探した。女はとうとう小田島のかばんふたをはね、中を引繰り返した。そして小田島が巴里を発つ前知人から贈られた缶入りのカキモチを見付けてカリカリみ始めた。
――リイのビスケット……………ふふふ……大変トレー旨いボン
 彼女の行儀わるく踏みはだけた棒の様な両脚に、商売女の素気そっけ無さが露骨に現われて居たが、さすがに無雑作に物を喰べて口紅をよごさない用心が小田島に少し可哀相に思えた。カキモチもい加減喰べると
――フランスの女はね。自殺する間際まで喰べものの事を考えて居るのよ。男には失恋しても喰物には絶対に失恋し度くないのよ。
 女はこんな訳の分らぬことを云ってますますあわれっぽくしおれかかる。
――わたし今夜ご飯喰べられないのよ。あんた晩ご飯おごってよ。あたし払いが出来なくなって、おっ払われたんだから独じゃこのホテルの食堂へは入れないのよ。
 小田島は絶体絶命という気がした。
――じゃ、まあ、僕と一緒に来給え。
 すると女は急にあたりまえだという顔をしてずんずん先に立って食堂へは入って来て仕舞ったのだ。
 女は座席にくと悠々小田島のシガレットケースから煙草たばこき出してふかし始めた。そして胡散臭うさんくさそうに女を見乍らあつらえを聞く給仕男へ横柄に、
――ちょいと。何かぱっと眼の覚めるようなものを持っておで、コニャックでも。それから鵞鳥の脂肪フォア・ド・グラを少し余計持っといで。あたしちっと精力をつけなくっちゃ。
 という調子だ。次々に女は勝手な料理を誂えて喰べながら、機嫌の好いままに、小田島に場内の説明をした。あのアメリカ人は傍のあの紳士を前葡萄牙ポルトガルマヌエル陛下と知らずに、あんなあけすけな態度で女の話をしかけて居る。女を一人ずつ相手に快活に喋舌しゃべって居る二人の男は中央アメリカの高山へ望遠鏡を運んで天文学の生きた証拠をつかんだベンアリ・マッツカフェーと弟のベンアリ・ハギンだ。二人とも有名なドーヴィル愛好者だ。カルタをして居るボニ侯爵は年の割に艶々つやつやして居る。容色の為午前二時より以上夜更よふかしをせぬ真剣な洒落しゃれものだ相だ。前何々夫人が、これも新らしい妻を携えた前夫に自分の携えた新らしい夫を紹介して居る。今、椅子の背に頭をもたせ、肥った独逸ドイツの腸詰王がいびきをかき出した。などと忙しく説明し乍ら女は馴染みのタンゴ楽手のアルゼンチン人や友達の遊び女達の出入する度に挨拶の代りに舌を出したりした。
 ウイスキーをしたたか呑んで、だんだん酔の廻って来る女と一緒に人仲に居るのも気がさすので、小田島は部屋へ引取ろうとして立ち上ると女は急に彼をにらみ上げた。
――へん、イベットならオンフルールくんだりまで行った癖に…………。
 女の言葉には妙に性根があった。
――君は、どうしてそれを知ってるの。
――蛇の道ゃへびさ、ふん。
 女は横を向いてせせら笑ったが、今度は前より一層ひどく小田島を睨み上げた。
――わたしゃ、いつだってあのイベットに男を取られちまうんだよ。
 女の睨みがゆるんで来るとみじめなベソの様な表情が現れて来た。小田島は前からイベットと知り合いだとこの女に云った処で仕方もなしきりが無いので嫌がる女を引きたててホテルの玄関から夕暗のなかに出してった。

       五

 午前一時過ぎのドーヴィル賭博場内だ。
 牛乳色によどんだ室内の空気のなかで、深酷しんこくな血の吸い合いが初まっていた。
 煙草のけむりと、香水の匂いとで疲れて居る光の中に、賭博台が幾つも漂って居る。それにぎっしり人がたかって居る。難破したボートに人がたかって居るように見える。あまりに縁へのしかかり、沈んで仕舞った様にも見える人がある。
 二千フランのテーブルでは大賭博団スタンレー一派が戦を開いて居る。
 細くてキチンと服装を整えた男、背中を丸出しの女、二人とも揃って肥った体に宝石をちりばめて居る夫婦。
――あまり綺羅きらびやかに最上級に洒落て居るのでかえって平凡に見える幾十組かが場の大部分を占めて居るので、慾一方にかかって居るかば色の老婆や、子供顔のうぶな青年が却って目立つ。そしてそれらの人体の間に閃めくカルタ札、カルタ札を掃く木沓サボ、白い手、紙幣、紙幣の代りに使う延べの銀板。――小田島は異様に緊張し、両手を堅く握り合せ、床に足首を立て重い靴の先で場内を見廻って居た。
――そうら。遂々とうとうまた見付けた!
 四百九十三号室の女である。
 小田島は腹立たしくなった。この女は、まるで誰かに頼まれでも仕た様に、この土地へ来てから自分の行く先々に付いて廻る。実に面白くも無いめぐあわせだ。
 だが女は、小田島がそんな腹で居ようが居まいがという調子でぐんぐん男の腕を捲いて仕舞った。仕方がない! 酔って居ないのがまだしもだ、なまじいさからってわめかれるより逆に利用して此処の説明でも聞く方が増しだと彼は腹をめて仕舞った。女はしかし、何か非常にこだわっで居るように興奮して居る。そして捲いた男の手を力強く曳いて暫く場内をあちこち歩いて居たがふと立ち止ると急いで腕を解き邪慳じゃけんに小田島の耳朶みみたぶを引いた。
――イベットが居る。あんた、イベットが見度くって来たんだろう。ちゃんと知ってる。
 五百フランのテーブルにイベットが居た。「親元」に立って居る老紳士の真向いのテーブルに女王のような取り済し方で臨んで居る。彼女は顔に非常に似合う好い色の着物を着て居る。テーブルの組の人達もみんな彼女にその権威を許し彼女の機嫌に調子を合せて居るように見える。中でも彼女の隣の猪首で年盛りの男は卑屈なほど彼女の世話を焼いて居る。
 イベットも小田島の来たのを認めた。するとわざとらしく猪首の男の肩に凭れ、疲れを癒す真似まねをした。男は眼を無くしてイベットの手の指を接吻した。彼女はまたちらと小田島の方に眼を遣ったが連れの女には眼も呉れなかった。小田島は勿論、こんな女が自分の傍に居るのを知ってもイベットが何とも思わないことを知って居た、それよりもイベットの子供らしいとはいえわざと自分にからかって他の男に巫山戯ふざける様子にいくらかの嫉妬を感じた。だがそれよりもなお彼は連れの女の不思議な様子に気をられた。女はイベットから無視されたにも拘らず、イベットが此方こちらを向くとそそくさ目礼し愛想笑いをし、送りキッスまでした。しかも顔は興奮に青ざめ、息使いまでがせわしい。女はイベットが再びテーブルに眼を落し平気で勝負に身を入れ出すと、小田島を※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)むしるようにき立てて其所そこを離れた。
――あたし口惜くやしい。あたし、またあいつに負けちゃった。あの小娘なんて人の頭を抑える電気が強いんだろう。
 女は涙をぽろぽろこぼし乍らやけに小田島を引張って場付きの酒場へ入って行った。また酒か。と小田島はくさくさした。そして自分に何の義務があって夕飯だの酒だのとこの女を世話しなければならないのかと小田島は馬鹿々々しくてならなくなった。が、流石さすがに少し女を憐れむ気持ちがイベットに離れて居る彼の孤独感にみもした。で、仕方無しにまた彼は此処へも女について入った。
 恐ろしく長い酒場の台。客は四五人しか居なかった。丁度ちょうどカクテール調合筒を振り終えた給仕長らしい男。
――東洋人の奥さん、旦那にはもう翡翠ひすいかんざしでもねだったかね。
 彼は、他の客とずっと離れた椅子へ掛けた二人に近寄り女に冗談を云った。
――お黙り、フレデリー、生憎あいにくとこの人は支那人じゃ無いよ。
――ハアハア…………。
 男は曖昧あいまいな笑いを残して向うの客の方へ引返した。それを見送った女は今度は小田島の方を振り返って、涙の乾いたあとの妙に味気無い眼を瞬かせ乍ら
――あんた、あのフレデリーね、フランスカクテール界のキングって云われる腕前なのよ。
 と小田島に教えて置いてまた向うへ
――フレデリー、腕を振って調合したのを持って来て。
 横柄に誂を出した女はそれで落ち付くとまた愚痴に顔を歪め、イベットの事を云い出す。
――あんた、イベットのあの大した服装を見た? ちょいと見は何でも無いようで、あのローズ・ド・ラジェフって色、今までフランスのどんな腕の宜い布地屋でも出せなかった色よ。それをあいつ、何時いつの間にか着ちまってる、何という魔ものだ。
 女は口惜しがる度に小田島を強く小突く。彼は暴戻ぼうれいひじうたれる度に、何故かイベットの睫の煙る眼ざしを想出す。
――あんた、後生だから、あの女にだけは惚れないでよ。他の女ならあたし、手伝っても仲をこしらえて上げるから。
 なお女の言うところに依るとイベットはまだ年の割に子供である。その癖甘い毒を持って居て彼女に係わる男を大抵麻痺状態に陥れる。男達も始は玩具のつもりで段々親身になり、何でも彼女の云いなりになる。彼女の我儘には困り切り乍ら結局それをよろこぶようになる。そういう男達は大方老人でなかに若い男があっても矢張り彼女を娘の様に可愛がり出す。女は知名の実業家、政治家をその男達のなかに数え、流石にしまいの声は落して、此処でもドーヴィル市長を始め賭博場のおもな役員、世界の諸国から賭博に来た金持男達まで殆どイベットに籠絡ろうらくされて居る、と云う。小田島は聞いて居るうちにそれはイベットのあのあでやかな美貌と時には職業上の政略として用いる例の彼女の可愛いいふてぶてしい技巧でち得た男達であろうと思っては見たが、今の彼にとって余り宜い気持ちは仕無かった。
――だから、あんた。あんな女にエトランジェのあんたが引かかっちゃいけ無い。私なら、その場限りの女で……
 女は一言も云い逆らわ無い小田島に喋舌しゃべるだけ喋舌って気も晴れたし段々酔いも廻って来たので、今度は酒場に入って来る誰彼と無しに捕えては話し掛けた。
 人々の話によると賭博台はいよいよ盛になり、スタンレー賭博団は千フランのテーブルに席を移し、「オープン・バンク」を開始した。この賭博法は千フラン以上どれ程巨額な相手にでも親になり賭を引受ける。この親は少なくとも百万フランはテーブルに置き、尚、二百万フランを控えに持って居る必要がある。昨夜から賭け続けて来た自動車王シトロエンがもう千万フラン近く持ち越したという話はコップを持つ人達の手を控えさせ息を引かせた。その時若い夫を連れて入って来たのは、小田島も幾度か巴里の劇場で見たことのあるフランスの名女優セシル・ソレルだ。六十に近い小皺こじわを品格と雄弁で目立たなくし、三十代の夫と不釣合には見え無い。服装は今の身分伯爵夫人に相応ふさわしい第二帝政時代風のローブ・ド・ステールで絵扇を持って居る。彼女はバアの隅の大テーブルに腰掛けようとして思いがけなく女性に辛辣しんらつな諷刺文学者フェルナンド・ヴァンドレムが居たのを見ると調子よく
――あたし達はあなたの材料になる為に席をここへ取ったようなものねほほ……。
 こんな風に場の空気がやわらいで来たにも拘らず酔いにつれて小田島の連れの女は険悪になって行った。女は丁度其処へ来合わせた夜会服の柔和な老人を見ると急に軒昂として眉を釣上げ
――へん、また一人イベットの御親類筋が来たな。
 女はその老人の白髭に握み掛ろうとした。
 革命前のロシヤ皇室の探偵隊首領、現ドーヴィル詐欺賭博取締係長の老人はにこにこし乍らその手を捉え、身体を押えてずるずる女を高い椅子から引き降した。鄭寧ていねいな中に強い歯止めのかかって居る老人の取扱いに女は暴れても仕方が無かった。
 小田島はいよいよ女から逃げ度くなった。隙をねらって急いで酒場の扉口を出ると女はあたふた追って来た。
――あたしは、あんたを東洋迄も追馳けるよ。誰がイベットに渡すもんか。
 賭博場を取巻く角や菱形に区切られた花園は夜露に濡れ、窓から射す燈に照らされ、ゴムを塗った造花の様にきらついて居る。その中を歩き乍らいくら小田島が振り除けても女は離れて行こうとし無い。はては芝生に大の字形に寝て仕舞い、片手を伸ばして彼のズボンの裾をしっかり握って離さない。彼の癇癪かんしゃくは遂々爆発した。彼は女を引起すのに残酷とは知り乍ら、多少心得のある柔道の手を用いた。すると女はけろりとして起き上り、今度は彼の肩へ吊り下った。
――不思議、々々々。もっとやってよ。あたしこんな所痛むの始めて、好い気持ちよ。
 小田島はしんから困った。疲れて頭がぼんやりして来た。女は女で遂々酔いが極度に発し腕は小田島の腕へしっかりしがみ付き乍ら首を小田島の肩に載せ、こんこんと眠りに落ちて行こうとする。イベットにあわよくば会えようと思って出て来たことも忘れ、彼は前後の考えもなくなり、何もかも面倒になって女をノルマンジーホテルの自分の部屋へ連れ込んで寝かして仕舞った。

       六

 女は小田島の寝台へ投げ込まれ、前後不覚に眠込んで仕舞ったが、彼は女の傍で到底眠る気になれない。彼は長椅子を壁際に押して行き、毛布を掛けてその上へ横になると、疲れが直ぐに深い眠に彼を引き入れて行った。
 小田島が長椅子の上から醒めたのは、朝も余程けた頃だった。寝台の女はまだ前後不覚に寝こけて居る。そのすさんだ寝姿を見るにつけ、彼にはイベットの白磁のように冷い魅力が懐かしまれる。もしイベットに、この女のような無茶苦茶があったら自分のイベットに対する気持ちは、もうずっと前から世間普通の恋となって居たであろう。だがイベットが時々虚脱して単なる「物」になる不思議、あれは魅力としても殆ど超人間的なものだ。それとあの子供のように見せつけ度がる技巧癖、あれらは二人を恋にするにはあまりに白けさせる。で、結局彼は彼女に恋以外の何物とも知れぬ魅力できつけられて来たのだけれど……今度、彼女は何か覚悟する処でもあって、自分を此処へ呼び寄せたのではあるまいか、電報で呼ぶ位の突飛な仕業は、彼女として別に珍らしがる程のことでも無いが、思いしか昨日オンフルールで会った彼女は一層いつもよりさびし気に見えた。何か最近、彼女に差し迫った変事でもありはしまいか――そんな予感がかすかに起ると小田島は尚更じっとして居られなかった。
 小田島は廊下へ抜け出し、イベットの泊って居る部屋附のボーイにいくらか金を握らせ、彼女の様子を聞いて見た。ボーイの答えによると彼女は今しがたカジノからホテルへ乗馬服と着替えに帰って来て、むちを持って出て行った。十時には温浴とマッサージとマニキュアを命じてあるから帰って来るに違い無い。との事である。彼はその時間までは待ち遠い。それまでこのホテルの自分の部屋にあんな女の寝姿と一緒に居度くもない。彼はイベットが朝の乗馬に出たものと知って、乗馬道を尋ねて行き、彼女に逢おうという気になった。そのうちあの女も眼を醒まし、自分の居ないのが分ったら何処かへ出て行って仕舞うだろう――小田島はまたそっと部屋へ帰り、急いで平常着と着更えて足早に外へ出た。曇った空は霧のような雨を降らして蒸暑い。ユーゼーン・コルナッシュ通りの群集は並木の緑と一緒に磨硝子すりガラスのような気体のなかに収まってにぎやかな影をぼかして居る。乗馬時間で通るものは馬が多い。彼は一々馬に眼をつけたがイベットは見えない。殆ど前半身を宙に伸び上げ細い前足で空をけって居る欧洲一の名馬、エピナールに乗り、その持主、パウル・ウエルトハイマーが通ると人々は息を止め、霧の中で盛な拍手が起った。
 浜には今年流行の背中の下まで割れた海水着の娘や腰だけおおって全裸の青年達が浪に抱きつきたたかれ倒され、遠くから見る西洋人の肌はき立てのバナナのようにういういしい――小田島は突然顔をあからめた。彼は矢張りイベットの肉体を結局は想い続けて居たのでは無いか――いつも自分の心理を突き詰めて行くのに卑怯で気弱な彼はまたしても首を強く左右へ振った。そして何かに逆らうような気勢でさっさと歩き出した。
 遊覧客相手の贅沢品屋は防火扉をおろしてまだ深々と眠って居た。扉に白いチョークで、西班牙スペイン皇帝の似顔絵がつたなく楽書きされて居る。自国の乱れた政情の間を潜って、時々陛下は茲へ遊びに来られた。陛下の古典風な顔はフランスの何処にでも人気があった。衣裳屋のショーウインドウのマネキン人形はまだ消えない朝の電燈の下で今年の秋の流行はペルシャ野羊やぎであることを使嗾しそうして居る。霧雨はいつの間にか晴れて、道は秋草の寝乱れて居る赫土の坂を上り、ポロ競技場が彼の眼の前に展開された。
 イギリス、対アメリカのポロ最終競技が今日午後にある。アメリカ選手達の予備練習の馬群が浪の泡立つ様にさっと寄ってはさっと引返す間に、緑のしまや薄桃色のユニフォームが、ちらちらする。その馬群が投げられた球を追って道端の柵までどっと押し寄せる気配いを受けて、高くいなないてダクを踏んだ馬が一つ、小田島の行手の道の接骨木にわとこの蔭に居る。彼が注意深く接骨木の根のくさむらを廻って行くと、その馬のくつわを取って一人の男が呆然と停って居る。その男は、前夜小田島がカジノの切符台に納って居るのを見た勘定係の四十男だった。馬は華奢きゃしゃな白馬で、女鞍が置いてあり、鞍にリボンなど着いて居るのを見ると、ひょっとしたらイベットの馬かも知れない。イベットがこの男にこんな役目を勤めさせるほど、何時の間に手馴着てなずけたものかも知れない、と小田島は直覚的に考えた。
――お早う。これはマドモアゼル・イベットの馬じゃ無いですか。マドモアゼル・イベットは今、何処に居られますか。
 男は別に意外な顔もせず答えた。
――ほう、あなたはマドモアゼル・イベットを御存じですか。マドモアゼルは今、其処そこの崖を降りてお寺へ行って居ます。坊さんに知り合いがあるので賽銭の上り高を聞くのだとおっしゃってでした。あの娘さんは実に熱心な社会学者ですな。
 彼も相槌あいづちを打つ。
――そうですな。本当に熱心な社会学者ですな。
 同時にこの物知り顔の男についでに探ぐって置くことがある。小田島は何気無い風をよそおって聞いた。
――市長マシップ氏にも用があるんですが、何処に居られますか。
――市長ですか、市長は今朝五時半まであの娘さんとスコットランドの金持ちミスター・ジョージと三人でルイジで小夜食を喰べ乍ら一緒に居ました。三人は今夜西班牙へ出掛けるつもりです。それで市長は用意の支度に家へ帰りました。
 小田島は彼女に喰い尽された残骸としてのドーヴィルを眼の前に感じた。彼女はもう西班牙へ発つのか。ドーヴィルにはもう用は無いのか――小田島はしばらく呆然自分の靴を眺めて居ると男は今度はけげん相に訊く。
――貴方はマドモアゼルのお友達ですか。
 小田島に突然、イベットを憎む衝動が起きた。イベットは、そんな緊急な事態の矢先きに何故自分をこんな処へ呼び寄せたんだ。彼は腹立ちまぎれに無茶が云い度かった。
――これでも僕は彼女の恋人ですよ。
 すると男は、今までの柔和に似ず鋭い笑いを見せて云った。
――あの娘と知り合いになる程の者はみんな恋人でしょうな。しかし本当の恋人になり得る者は誰でしょうな。私が二十年間、カジノの切符台から女を見た経験から云いますと、あの娘さんはまず見て味う女でしょうな。あまり深入りするとまあ身の破滅というたちの女でしょうな。
 小田島は何のことやら判らないで云った。
――御忠告有難う。かく、イベットに会って来ましょう。
 小田島のイベットに対する怒りはもう消えて居た。彼はしみじみとした気持ちでイベットに逢うため崖に付いた一筋の道を寺の方へ降りて行った。

       七

 寺の役僧に礼を云ってイベットは小さい手帳を乗馬服の内隠しに仕舞った。それから役僧の姿が祭壇の横の扉に隠れたのを見届け小田島に近寄って来た。
――よくお出掛けになってね。私も急にあなたにお目にかかり度い事情が出来たの。けど先刻ホテルに帰って聞いた時お部屋は閉ってあなたはまだ寝てらしった御様子よ。
 薄暗い祭壇の長い蝋燭ろうそく百合ゆりの花の半面や聖母像の胸を照らして居てあとははっきり何も見えない。胴をちぎれる程締めたイベットの細身の乗馬服姿は修繕中の足場で妨げられたステンドグラスから僅な光で見出される。
――君は発つんですってね。
――まあ、何処から聞いて来て?……そうなの、急に、今朝がたそれがきまったような訳なの。
――何うしてそんなに急に極まったの。誰かが極めたの。君自身が?
――みんなが極めたんですわ、市長さん始めこのドーヴィルの人達が。
――今日の夕方発つんだってね。彼処あそこで馬を番してるお喋舌しゃべりの男に聞いたんだ。
――ええ、あの男お喋舌だけど割合いに親切で正直者よ。――で私、急に今朝あなたにお目に掛ろうとしたの。それからモンブラン(白山という馬の名)にも乗り納めのお名残が惜しみ度かったのよ。
 彼女は殆ど小田島に寄り添って来た。
――そして、もう調べはついたの?
――ええ、大たい――
 彼女は廻りを見廻して小さい声になり
――そろそろ歩き乍ら話しましょう…………フランスの大蔵省が秘密にして居る賭博場からの揚り高の大体の見当がついたわ。もっとも数字は百以上ある賭博場カジノの中の主な九つだけに就いて判っただけだけれど、それだけでも判ればあとの予想はつく訳よ。あなたそれは如何どれ位あると思って? 去年のたった九つだけの賭博場からの揚り高でも総額二億六千万フラン以上よ。
 二億六千万フラン! それを日本平価に換算すれば二千万円以上の見当だ。それが九つの賭博場カジノからの揚り高とすれば百以上からの上り高は大したものだ。しかし、彼は今、そんなことに驚いてばかり居る余裕は無い。崖下の人通の無い場所を幸い彼はぐっと強い調子でイベットに迫った。
――マドモアゼル・イベット! 君は折角せっかく探ったそういう秘密を、どうして僕にそう喋舌っちまうんだ。それから僕をこんな訳も判ら無い贅沢地へ連れ出してなぶるような目にばかり逢せて置いて何が面白いんだ。君が僕に要求するのは一体何だ。
 小田島の言葉には来る早々からあんな女にまつわられ通した憤懣ふんまんも彼の無意識の中に交って居る。と、イベットの体が少しふるえて、その慄えの伝わる手が小田島の肩に掛った。
――矢張り、あなたも、そう云う事をいう方だったの。
 彼女はありたけの精力を瞳に集め、小田島の顔に見入り言葉を続けた。
――東洋人も西洋人と同じ様に矢張り謎に堪えられ無いのでしょうか。
 近くでつくづく見るイベットの身体は、乗馬服の毛織地を通してもその胸と腰とのふくらみに何処か「女」になり切れ無い小児性体質が感じられる。それがまた異様な魅力となって小田島の愛感を急き立てる。彼はぐっとイベットの手首と肩を押え、苦しそうな声を出した。
――云って呉れ給え。もっと、はっきり云って呉れ給え。僕には君の云うことが、まだはっきり判らない。
――ムッシュウ・小田島! もう最後だから、何もかも私に云わして。
――最後って、此処で別れたからって何も君と僕とこれから逢えない訳は無いじゃ無いか。
――いいえ、最後よ。私、何ももお話しすれば判りますわ…………さ、其処へ掛けましょう小田島。
 彼女は少し離れた崖際の木の下にあまり雨にも濡れずに置き捨てられた様な一つの古いベンチを見出した。二人は掛けた。四方は森閑として居る。折々遠方でポロ競技場の馬群に浴せる歓声が聞える。
――私の性質に私の今までの仕事がぴったり合って居たと思って、小田島。私、仕事なんかに向く女じゃ無いのよ。今度の仕事なんかも私が腕がある女と見込んだのより却って私の子供っぽい性質が人に好かれたり人を油断させたりするのが、命令した人達の目の着け所だったのよ。
――それは僕にも判る。
――私のこの性質が私を或点まではどの仕事の時にも私を仕合しあわせにしたり私に面白い目を見せて呉れたのよ。でも結局は仕事ですもの。仕事となれば何だってつらいのよ。だから、私の辛い時の愚痴や溜息や、私のたまに気がはずんで得意になってするお喋舌や、それから慰めが欲しくなってするいたずらなんかを、黙って受けいれて呉れる人が欲しかったのよ。でなけれや、私の生きる根が無くなっちまうのよ。
――ふむ。
――でも欧洲人には誰一人そんなことに堪えて呉れる人は無かったのよ。欧洲人というものは理解無しには何事にも肩を入れて呉れない性質の人種よ。私のこんな妙な性質は説明したところでなかなか理解しては呉れ無いのよ。また説明して理解して貰っちまうと今度は私に対して父親や母親のような気構えになって、あんまり単純に甘やかし初めるのよ。贅沢を云う様だけど私の望んで居る「条件」を男としてかなえて呉れる魅力を無くして仕舞うのよ。私沢山の欧洲人に失望してあなたを見付けたのよ。
――うむ。だんだん君の話が判って来たよ、イベット。
――まあ聞いてて…………今まであなたは私のすることに無関心であるらしい程黙って私に何でも勝手をせて呉れたわね。それで居て全然私に興味が無いという素振りでも無かったわね。あなたこそ私の妙な慾望に堪えて呉れるただ一人の男だと、私心の中で感謝して居たの。
――判った。イベット。よく判った。
――まあ聞いてて…………まったくあなたは今まで私の気儘な謎に何の説明も求めずつき合って下さったわね。私ね、それが東洋人のあなたの性質の特徴かと思って居たのよ。
――ちょっと待って、イベット。
 小田島は額の汗を急いで拭くとイベットの肩をしっかり掴んで揺ぶった。
――悪かった。僕は矢張り君に対して今迄の僕で居ようね、イベット。
――ええ、有難う…………でもあなたの真当ほんとうの処が判って見れば…………それにもう何もかも最後のお別れだわ。
――済ま無い、悪かった。
――いいえ、私こそひとをそんな勝手な相手にして置こうなんて虫が好過ぎたのよ。私こそ済まなかったのよ。でも私、幾度も云うようだけど上べはこんな勝気で陽気な女だけど、どうかすると、まるで堅い人間の壁の様になる時があるのよ。そしてその中へ孤独の自分を閉じ込めて息を吐かせない時があるのよ。
――僕もそういう時の君によく出逢った。僕は陽気な君より、そういう時の冷たい君が好きだった。
 小田島は、ごくりと一つ生唾なまつばを呑んだ。
――ねえ、イベット。国事探偵なんて君にはあんまり大役ですよ。君はもうそんな危険から抜け出してもっと気楽な身分になりなさい。君の為に遺産の遺言状まで書いて居るお爺さんさえ有る相じゃないか。早く巴里へ行ってそのお爺さんの養女にでもなって気楽な身分におなんなさい。
 イベットがそっと眼に当てたハンカチが、涙を拭いて居るように小田島には見えた。
――有難う。でも何もかももう晩いのよ。私はもうフランスには居られ無いの。国事女探としてフランスの黒表に載って仕舞ったのよ。私送還されるのよ、西班牙へ。そして国元の西班牙へ返されたところで私に探偵を命令した反プリモ党は何時天下をくつがえされるか判ら無いのよ。どっちみち、塀の前のにれの木の下で私が銃殺の刑に会うことは知れ切ったことなのよ。
――イベット、それは本当か?
――ええ、本当ですとも。
 イベットは一寸あたりを見廻した。人は居なかった。が、イベットは前屈まえかがみになり、小声をぐっと小田島へ寄せた。
――スペインの前の執権、プリモ・ド・リヴェラは、正義振って遊楽地の賭博を禁止したのよ。で、政府に収入がなくなったばかりで無く、遊楽地という遊楽地は火の消えた様にさびれる仕末…………ここから海岸伝いで国境を越えたサン・セバスチアンが宜い例ですよ。何年かあの港は賑な遊び場だったのに、禁止後たちまちスペインのなかでもごく平凡な工業港に変っちまいました。それで今度の政府は大々的に賭博の復興をもくろんだの。私の秘密な任務は、その復興策の参考の為に、フランス遊楽地の繁栄策を探ることだったの。そしてまあ、私のやれる迄はやったのですけど第一番に賭博場カジノの探偵長ボリス・ナーデルの眼についたらしいのよ。
――ふうむ。それで君、何うしても今夜スペインへ送還されるの。
――ええ、どうしてもよ。そして帰った処で今も云った様に政変は明日起るかも知れないスペインなんです。私はあなたにいま一生の最後のさよならを云って置くのが利口だと思うのよ。
 彼女はしげしげ小田島の顔を見乍ら手を差し出した。彼もその手を握り返したが、力は無かった。
――仕方が無いなあ、それが君の運命なら。
 イベットは顔の緊張を解いてベンチから立ち上った。そして乗馬服の胴を撫で、スカートを軽く二つ三つ叩くと俯向き加減に歩き出した。が、ベンチから未だ腰を揚げ得ないで思案に暮れて居る小田島を再び振り返ったイベットは、もういつもの快活なイベットの張のある顔に返って居た。そしてその顔へ少しのこびさえたたえて小田島の側へ戻り肩越しに彼の顔を覗き込んだ。
――ムッシュウ・小田島! あなた私に、何か欲しいものは無い?
 彼はだしぬけに云われて狼狽うろたえた。
――ほ、ほ、ほ、ほ、判らない? ムッシュウ・小田島。
 小田島は手足まで赫くした。
――……………………。
――私、どうしても嫌いな男や、私に何も呉れ無かった男にはいくら最後でも何にも遣る気はしないけど、あなたは可成かなり、私の望みにかなって下さったわね。ムッシュウ・小田島。
 小田島は更に赫くなった。
――私あなたにお礼をするわ。今日十時半から十二時までの間…………私あなたのお部屋へ訪ねて行くわ、ね、よくって? 小田島。
       八

 突然、イベットに永訣しなければならなくなった世にも憐れな落胆者小田島は、また同時に世にもはずかしい果報者となってホテルへ帰った。イベットが訪ねて来る十時半にはもう一時間とは無い。
 小田島がホテルの自分の部屋の扉を開けると、今まで意識から抜け切って居た女がまだ部屋に居た。女は浴室バスから上ったらしい丈夫相な半裸体のまま朝の食事をって居た。車付きの銀テーブルの上にキャビアのかんが粉氷の山に包まれて居る。それから呑みさしの白葡萄ぶどうのグラス――小田島は呆気に取られてその傍へ突立った。
 女は彼を見ると、それでも沓下だけは大急ぎで穿いた。そして彼の体を全く馴染みの男の様に抱えてテーブルの前の椅子に坐らせた。
――あんた帰って来ないもんだから、一人で朝飯始めたのよ。まあ朝の御挨拶をしましょうね。ボン・ジュール・モン・プチ。
 そしてナプキンを彼の胸に挟んだ。
――ところであんた、何を喰べるの。散歩したんでお腹が空いたでしょう。
 彼には今、怒る勇気も抵抗する気力も無いのだ。
――僕はこれが好い。
 小田島はグラスに酒をついで呑んだ。一杯では胸の渇きは納まらない。
 黒パンにチーズを塗り乍ら、じっと彼が酒を※(「口+奄」、第3水準1-15-6)あおるのを眺めて居た女は、此種の女の敏感に伴う微な身慄いを身体中に走らせたが、最後に歪めた眼をだらしなく緩めると力の抜けた様にパンもナイフもテーブルへ抛げ出して云った。
――やっぱりそうだ。この人はイベットに逢って来たんだ。
 小田島はすこしてれた様子で手を止めず、ぐいぐいグラスを呑み干すので、女はいくらか気を呑まれて呆然と見て居た。が、やがて椅子を離れてしょんぼり着物を着初めた。
――まあ宜いだろう。折角喰べかけたご飯だけでも喰べてからにしたら。
 斯う云う小田島に女は何の返事もし無いで、すっかり着物を着てしまい、髪も手早く直した。そして小田島の傍に来て手を差し出した。
――如何どうしたと云うんだい。あんまりおとなしくなり過ぎたじゃ無いか。
――すっかり判ってるのよ。イベットが追付けこの部屋へ来るんでしょ。そしてこの部屋の女王になるんでしょう。その時まであたしがこの部屋に残っていたら、あたしあいつにどんな憎しみを持って居ても、腰元の様に愛想よく使われなけりゃならないから。
 小田島は少し驚いた。イベットがこの部屋へ来ることをこの女がどうして知って居るのだろう。
――あたしを追い出すのは、いつもあの花よ。
 女は鏡の前の花瓶のゼラニュウムの花を指して斯う云った。この花は、いつもこの女に邂り合せの悪い花であった。この花は、いつもイベットが男に最後のものを許す時、その部屋に飾る花である。この女が持とうとするほどの男が、いつもイベットに行って仕舞う。時々この女からイベットの持とうとする男にさきがけをしようとしたが、いつも負けた。イベットが故意に負かそうとするので無くても、イベットの変な魅力がこの女を負かす。この女がゼラニュウムの花に持つ恐怖は本能的なものになった。この女はもとイベットと一緒にジャン・パトウの店の姉妹マネキンであった。一緒に乙女倶楽部の会員でもあった――不思議な女同志の運命のかち合せだ。女は今しがた湯から出て鏡の前にゼラニュウムの花を見た。女はまたかと思ってはっとした。が、或いは偶然でもあるかと思い返した。季節の燃えるようなこの花をホテルの部屋係が使うのは当然でもある。女は成可なるべくそうだと思い度いので持って来たボーイに追求もしなかった。だがいまの小田島の態度が、これが偶然のゼラニュウムの花で無く、イベットがこの部屋へボーイに持たしてよこしたものであることを証明した。あたしは出て行く。でもこれきりであたしはイベットから引込みは仕無い。あたしは死ぬまであいつに張り合う――女の声は低いが喚いたり愚痴に落ちたり止め度も無い。
 小田島は耳ではかなり沁々しみじみ女の言葉を聞き乍ら眼の前に燃えるゼラニュウムの花に今さら胸深く羞恥の情を掻き立てられ、それにイベットとの別離の悲しみも心に強く交り合った。
 時計が十時を打った。すると女は突然あらあらしく扉口の方へ出て行った。小田島は少し狼狽うろたえて不用意に云って仕舞った。
――イベットは今夜ここを発ってスペインへ帰るのだよ。もう永久にフランスへ帰って来ないんだよ。
 振り返った女は顎を突き出し、当の相手が小田島ででもあるかのように云う。
――じゃ、あたしもスペインへ行く。あっちの男をイベットと張り合ってやる!
       九

 初秋の午前の陽が、窓から萌黄もえぎ色に射し込み、鏡の前にゼラニュウムの花が赤い唇を湿らして居る夢のような部屋。
 イベットは男に口をきくのを許さなかった。
――いま二人は「物」よ。ただそれだけ。「物」が最上の価値を出している。ただそれだけ。
 たとえそれだけにしろ、たとえ礼心だけにしろ、イベットが今の小田島に対して、男に対する女になることを努めて居るのが、小田島にはいじらしくて仕様が無かった。
 小田島はしきりに溜息をした。そして一言でも云い掛けると、唄でイベットはまぎらした。
 小田島はいつの間にか、眠って仕舞った。
 一時間半は過ぎた。何かに自分を根こそぎ持って行かれるような気持ちを、夢うつつの間に覚え、はっとして彼が半身を起すと、もうイベットは彼の傍には居無かった。
 イベットが出発する夜の時間に小田島はホテルの玄関に停って居た。
 迎えの自動車が来た。しかし、それには市長も金持ちも乗って居なかった。その代り探偵長ボリス・ナーデルが旅行服で乗って居た。多勢のホテルの使用人達に付き添われて出て来たイベットは落付いた色の軽快な服装の為に寂しい威厳まで加わった。の立ちまさった美貌の前にボリスは三つの花束を差出した。
――マドモアゼル。お気の毒ですが市長マシップ氏も、ミスター・ジョージも西班牙スペインへ御同行出来ません。その代り私が国境までお見送りする。この花は市長マシップ氏と、ミスター・ジョージとの贈物です。お二人とも宜しくと云われました。それからも一つの花束は当ドーヴィル警察署からの贈物です。
――警察?
 流石にイベットは顔色を変えた。しかし、直ぐ態度を取り直した。
――判りました。皆さまの御厚意に厚く御礼申上げます。
 彼女は車にゆったり乗った。探偵長を横に坐らせて彼女は平常よりも権威のある胸の張り方をした。小田島の挨拶にはもう通り一遍の目礼だけしかしなかった。
 車が動き出そうとする時、賭博場の切符台の男があたふた駆けつけて来た。男はボンボン菓子をイベットに差出した。
――御機嫌宜う、マドモアゼル。何卒なにとぞ、途中お体をお大切に。
 これに対してもイベットは形式だけの答礼をした。
 この時また、転ぶ様に馳けつけて来た女、この二日間小田島に纏り続け、彼の前でイベットを目のかたきののしり通して居たあの女だ。女は余程あわてふためいて馳け出したらしく、み苦茶に着物を着て人目も恥じず車の中に上半身をのめり込ませ、イベットに縋り付いた。
――イベット、あんた本当に西班牙に帰されるの。じゃ、あたしも帰る。イベット。あんたが居ないんじゃあたし一人此処に居たってつまんない。私も連れて帰ってお呉れね。イベット。
 するとイベットの代りに探偵長ボリス・ナーデルが少し厳格な調子で云った。
――そうは行かない。イベットの車は特別仕立てなのだ。
 女はいつもの阿婆摺あばずれた様子は少しも見せず、一瞬間しおれて呆然と車内の二人を見較べて居たが、今度は前よりも一層憐っぽくイベットに縋って云った。
――では私、汽車で帰る……だけど私今、お金ちっとも持たないの。イベット、済まないけど今居る安宿の諸払いとマドリッドまでの汽車賃とそれから当座のお小使だけあたしに呉れない。
 イベットは何にも云わない。殆ど女の方を振り向いて見無かったが、女の言葉が終ると黙ってうなずいて手鞄を開け、金貨や紙幣を交ぜて女に渡した。女は指に白手袋の吸い付いて居るイベットの手を押戴おしいただく様に喜んだ。
――有難うよ、イベット。じゃ、あたし仕度出来次第に早く此処を発つ。ね、マドリッドで逢いましょうよ。ね屹度きっと。またあたし、あんたの旧の家へ直ぐ訪ねるわ、ね。
 女は一人で承知してまた馳けるように帰って行った。勿論、あれ程つき纏った小田島が直ぐ眼の前に居ようが女は一瞥いちべつもしなかった。
 車を見送ったホテルの使用人達は皆引込んで行った。が、小田島はまだ大円柱の蔭に停んでイベットが残して行ったわだちの跡を明るい軒燈の光で眺めて居た。と、まだ其処に一人の男が居て小田島の傍へ寄って来た。男は賭博場カジノの切符台の四十男だ。
――可哀相ですね、イベットは。とうとう国事探偵の嫌疑で国境まで追放です。
 小田島は何か相槌を打とうとした声が咽喉へ詰った。
――惜しい娘だがこれ以上、ドーヴィルへあの娘を置くことは出来ません。あの可愛い利口な娘にかかっては、フランスが盗まれてなら無いものまで根こそぎ盗まれて仕舞いますからな。
――あなたはあの娘が、何か盗んだことでも知って居るんですか。
――は、は、は…………あまい恋人だね、あなたはフランス人というものをよく御存じ無いんですね。殊にこのドーヴィルの人間をね。市長始めわたし達はとうからあの娘が探偵だって事はよく知ってましたよ。
――それでよく今日まで、あの娘を此処へ置きましたね。
――しかし、直ぐ追い出しちまうにはあんまり可愛ゆい娘でしたからな。妙に魅力のある娘でしたからな。それであんまり害になら無いところまで此処に置いてやりました。ドーヴィルの花園の装飾にはいろいろ翼の模様の変った胡蝶が必要ですからな。
――あなたは随分長く、あの娘と交際つきあいましたか。
――ええ、あの娘が此処へ来ると間もなくからね。わたし達は知って居てあの娘の技巧にも乗ってやりました。賭博場カジノの秘密も教えてやりました。フランスの致命傷になら無い程度の秘密まではね。あの胡蝶は只の胡蝶と違ってそういう餌を必要としましたから…………お蔭であの娘の居た三ヶ月間、このドーヴィルは浮き浮きとして金も余計に落ちました。だが此処の季節ももう直き閉じますし、それにこの上あの可愛ゆい娘に居られたらわたし達は愛国心にそむくまで娘に国情を探らしてやることになりそうです。そこで衆議一決追放、ということに極りましてね。
 小田島は呆れた後からいかりが胸へ込み上げて来た。
――老獪ろうかいだな。全く老獪だなフランス人は……探偵に来たイベットを、あべこべにドーヴィルで利用したんだな。馬鹿にしてるな、まったく。
――は、は、は、怒っちゃ気が早いよ、あなた。わたし達ドーヴィルの人間は商売気を離れてあの娘を愛して居たってことをよく聞き取って下さいよ。フランス人の打算と純情の間に線を引くのはなかなか難かしい。ね、今日わざわざ探偵長に国境まで娘を送らせたのも国探としてフランス黒表に載って仕舞ったあの娘が途中でつかまったりし無い保護をしたんですよ。それからあの娘が居無くなるので、市長始め、みんなどんなに気を落して寂しがることでしょう。で、今夜市長のやしきであの娘を好いて居た連中が集り、あの娘をしのぶ会をやるんです。ジンの熱いやつでも※(「口+奄」、第3水準1-15-6)あおって、さぞ、男同志が溜息をつき合うことでしょう。

底本:「岡本かの子全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1994(平成6)年2月24日第1刷発行
底本の親本:「鶴は病みき」信正社
   1936(昭和11)年10月20日発行
初出:「経済往来」
   1933(昭和8)年10月号
入力:門田裕志
校正:オサムラヒロ
2008年10月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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