さて、谷中やなか(茶屋町)時代になってにわかに弟子がえました。
 これは私がもはや浪人しておらんからで、東京美術学校へ奉職して、どうやら米櫃こめびつには心配がなくなったからであります。そこで私はこの際奮発して出来得る限り弟子の養成に取り掛かろうと思いました。それに私の名が、ずっと社会的に現われて参って時々新聞などに私の作品の評判なども紹介される処から、地方にも名がうたわれるようになって来ていました。
 谷中に来て第一に弟子にしてくれといって訪ねて来た人は米原雲海氏でありました。
 この人は出雲いずもの国、安来やすきの人、この頃流行はやっている安来節の本場の生まれの人であります。米原氏は私の処へ参った多くの弟子の中で最も変ったところのある人であった。東京へ出るまでには、故郷で大工をしていた。おもに絵図引きの方で行く行くは好い棟梁とうりょうになるつもりであったが、京都、奈良を遍歴してしきりと古彫刻を見て歩いている中に、どうも彫刻がやりたくなって来た。しきりにその希望がはげしくなったけれども、好い師匠がないので困っている中、京都で彫金家の海野美盛うんのびせい氏を知り、かねての希望を話して相談すると、君にそういう固い決心があるのなら、東京の高村先生に僕がお世話をしようというので雲海氏は大いによろこび、故郷に帰り、非常な決心で、その頃既に氏は妻子のあった身ですから、妻子にも自分の覚悟を話し、東京へ出て彫刻を三年間修業して来るから、その間留守をよろしくたのむ、子供のことをたのむと打ち明けました。妻女も夫の堅い決心を知っては強いて引き止めることも出来ず、では行っておでなさいまし、貴郎あなたのお留守中は確かにお引き受けしました、どうか、にしきを着て故郷へお帰りなさるよう、私は三年を楽しみにして待っておりますとの事に、雲海氏も大いに安心して東京へ出て来たのでありました(雲海氏に妻子のあったことは私は知らずにおった。故郷へ帰られる時初めて打ち明けました)。或る日、私の谷中の宅の玄関に案内をう人があるので、私が出て見ると、相当年輩の若い衆、丁寧に挨拶をして、何かいっているのであるが、どうも何をいっているかさらに分らぬ。しかし、自分を私の弟子にしてくれといっているようである。どうも私にはこの人のいってるお国言葉がちっとも分らない。その中ふところから添え書きようの物を出したから、見ると、それは海野美盛氏からの添え状で、この人は自分の友人で、彫刻熱心の人であって、至って物堅く、懸念のない人であるが、万事は自分において引き受けるから、弟子にしてやってくれとしたためてある。それでこの人の来意は分りましたが、さて、こうして遠国からわざわざ上京して彫刻をやろうという覚悟はさることながら、実地に当ってはなかなか容易なことでありませんから、私はその旨を一応話し、まず少しの間通ってやって見るがよろしかろうと答えますと、米原氏はよろこび、それから何処であったか谷中からは大分離れた処に下宿をして毎日弁当持ちで通って来ました。
 この時代は、私は先方の都合はどうであっても委細かまわず弟子にしました。自分持ちで通える人は通ってもらい、また食べることが出来ず、る所のない人は、家へ置いて食べさせるようにしまして、なるべく自分の方を切りつめ切りつめして、一人でも多く弟子を作ることに心掛けましたので、次第にその数が多くなったことであるが、その中でこの米原氏はなかなか感心なところのあった人で、また大分他とはちがった処がありました。今日でも世評はいろいろあるかも知れませんが、初めて私の玄関へ来てから以来、その熱心さというものは到底普通では真似まねの出来ない処がありました。もっとも故郷くにを出る時の意気が違うから、自然その態度がはげしいのでありましょうが、たとえば、毎日通って来るようになってからも、上京早々のこと故、上野、浅草と少しは見物もして歩きたいのは誰しも人情であろうが、私が仕事場へ出て見て、今日は休日であるから、他の弟子たちはいずれも遊びに出払っているような場合でも、米原氏だけは、チャンと仕事場におって、道具をみがいているとか、木ごしらえをしているとか、何かしら、彫刻の事をやっているのである。私とても一々弟子たちのことを監視しているわけでもないが、時に触れ、こういうことをしばしば見受ける。どうも米原氏は権幕けんまくが違う。仕事に取っ附き方がひとと異っている。何んということなしに一生懸命、真剣勝負という態度が見えますので、私も教えかたを考えて、彫刻製作の順序を踏んで最初から一々規則的に仔細に教え込んで行きました。この教え方は、道も長いし、迂遠うえんなようであるが、落ちつく処へ落ち附くとかえって歩みはすみやかで、どんどんと捗取はかどるのであります。だからおそわる方になってもこの習わり方がかえって近道なので、急がば廻れで、遠国から出て来て、三年の修業というようにあらかた日限を切って自分の仕事を物にしよう、目的を果そうという真剣態度の人には、これがかえって苦しいようだが楽な法で、また廻り遠いようだが近い道であるのでありました。
 米原氏はすっかり、その製作順序を順序的にのみ込み、今いうように見物をするでもなく、仕事場を自分の居所いどころにして、彫り物と首っぴきで、一向専念に勉強されたのであった。
 その時分のことで、米原氏は元大工さんであったから、大工の方のことも無論出来るが、或る時、下駄をこしらえた。日和ひより下駄でもなく、足駄あしだでもない中位の下駄、……晴雨兼帯というので実に奇妙なものだが、これはなかなか経済的、一つあれば随分長い間天気にかかわらず役に立つ……ただ、この新案の下駄の歯で時々雨上がりの庭をほじくられたのには弱ったが……、それは昔の一笑話で、今日では氏もこうずになって、なかなか庭を下駄歯でほじくられるようなことはない――笑い話はさて置いて、出来る人は世話の焼けないもので、米原氏へ或る一つの手本を与えると、それを手本に模刻が出来る。薄肉とか半肉とかで、此所ここはこうと一ヶ所まり処を教えると、一を聞いて十を知るという方で、その次に同様の趣の処はちゃんと前例によって旨くやってある。それで一、二年の間にはめきめき腕が上がって私の手伝いも立派にするようになりました。これはひとえに勉強の功でありますが、またその人の素質によることでありました。
 さて、歳月流るる如く、米原氏が出雲言葉丸出しで私の玄関へ参ってから、はや三年になりました。三年という約束だから、或る日、私は米原氏に向い、
「君は、もうなかなか出来る。三年の間まことによく修業をされた。君の三年は他の人たちの六、七年にも相当しよう。もはや国へ帰っても、さして彫刻家として恥ずかしからぬと思われる。それにつけて帰国する前に何か目星めぼしい作をしては如何……」
 こういうような話をしました。米原氏もかねがねそう思っていたであろう。やがて一つの大作を初めました。それは衣川ころもがわの役を主題としたもので、源義家と安倍貞任あべのさだとうとが戦中に立て引きをする処、……例の、衣のたてはほころびにけりという歌の所であります。薄肉で横二尺以上、縦四尺以上でなかなかよく出来ました。これは彫工会であったか、美術協会であったか、ちょっと忘れましたが、いずれかへ出して好評で、銀賞を取りました。そして安田善次郎氏が百何十円かで買い取りました。当時の百円以上の製作は珍しい方であった。
 米原氏はこの手柄を土産にして国へ帰りました。私は思うに、この事あるも決して偶然ではない。……というのは、米原氏の出生地は出雲であって、松平不昧まつだいらふまい侯や小林如泥こばやしじょでい、荒川鬼斎などの感化が土地の人の頭に残っているので、美術的に自然心が養われている。おそらく米原氏もそういう感化を受けて来た一人であろうと思ったことでありました。そうでなければ、なかなか一介の大工さんが志を立て、京都、奈良の古美術を見て歩き他日の成業を期する基を作るなどいう心掛けはなかなか起るものでないと思うことであります。米原氏が相当功を収めて帰国しましたことは、また島根県下の美術を愛好する青年たちにも影響したと見えて、その後続々島根県人が上京して彫刻の方へ身を入れたのを見たことであります。

 もう一つついでながら、米原氏のことにていって置きたいことがあります。私が先日話した猿を彫っていた時分、ちょうどそれは総領娘を亡くしまして、いろいろ物入りをして、大分内証が窮していたのでありますが、自然そういうことが弟子たちにも感じられていたことか。しかし、私は精々せいぜい弟子の張り合いのために、腕の相当出来るものには、一年も経つと、手伝いをさせた手間として幾分を分ち、また出品物が売約されたり、御用品になったりした時には、その半額を本人にやったりして、私自身の素志にかなうよう心掛けたことで、弟子の中にても一際ひときわ目立って腕の出来ていた米原氏に対しては、仕事の上から、一層心を配っていたのでありますが、氏は心のたまかな人で、そういう時に得たものを無駄に使わず何かの役に立てるつもりで貯えてあったものと見えます。或る日、氏は人なき処で私に向い、
「先生、近頃お見かけしていますに、先生も御不幸があったりしてなかなかお骨が折れるように思われます。差し出るようですが、私は少し位は持っています。どうか御融通なすって下さい」
との事。私は米原氏の日頃からの気性は知っているが、この際こういわれてうれしく思いました。
「どうも君の心づかい、うれしく思います。お察しの通り、私は今困っている。弟子の君から、そういう心づかいをされてはさかさま事だが折角のお志ゆえ、では辞退せず暫時しばし拝借することにしよう」
といって百円を融通してもらいました。この時は本当に心掛けの好い人だと思ったことでありました。この融通してもらったものは、農商務省から、猿を納めた時に下った金で返済しましたが、弟子から恩を着たこと故、特に申し添えて置く訳である。
 氏は大正十四年四月十七日年五十六で歿しました、実に惜しみても余りありです。

 それから小石川水道端の木平何某のせがれの木平愛二という人が弟子になった。弁当持ちで毎日通っていた。器用過ぎの気の多い人で、何んということなくやっていました。
 こんな移り気な弟子があるかと思うと、大阪天王寺町の由緒ゆいしょある仏師の弟で田中栄次郎という人が内弟子になっていました。なかなかな変り者で、またごくずいの勉強家で、その丹念なことにいたっては驚くばかりでした。後に大阪に帰り、京阪地方で彫刻家の牛耳ぎゅうじを取るようになりました。宅にいる間四、五年修業を積み、年が明けて後、この人は、手間の掛かる限りを尽くして十二神将じんしょうの中の波夷羅はいら神将を二尺以上にこしらえ、美術協会へ出品しました。この作は三年間も掛かったのでその気の長いことは無類で、一つの木に取りつくと、気の済むまでは何時いつまでも取っ附いていじっているので、何処までも、突きつめて行く精力はえらいものでありました。私はこれには感心しましたので、波夷羅神将の出来上がった時、百五十円の売価うりねを附けることが不当とは少しも思いませんでした。当時一個の木彫りで百五十円という価格は飛び切りで、かつて山田鬼斎氏が百円という売価を附けたので驚いた位の時代でありますから、まだ、知名の人でもない田中氏が百五十円というのは不当のようでしたが、私の目から見て、歳月の掛かっていることと、努力のこもっていることに対して、まだまだ安いとも思われました。その頃は木彫りの置き物一個三十円から、七十円というのがせきやまであったのに、これは異例でしたが、やはり一心のこもったものは恐ろしいもので、見処みどころがあったと見え宮内省の御用品となりました。後に或る奈良の宮家へ下されたそうですが、それをまた奈良の新薬師寺の尼さんが御ねだりして拝領して、今は同寺の宝物になっているそうであります。田中栄次郎氏、号を祥雲といいました。奇行くが如き人で、あごはずしの名人でありました。……あごはずしというのは、言葉通り大笑いと、大あくびで、ひょっとすると、頤がはずれるので、両手でおさえたり、縦に八巻はちまきをしたりして、用達ようたしをして人を驚かせたり笑わせたりしました。人柄は無類で、腕も今申す通りで、惜しい人でしたが一昨年故人となりました。生前、私のことを恩にしていたと見え、或る年、家内が大阪見物に参った折など別して親切にしてくれたそうで、私も昔の心持を忘れぬ同氏の好意をうれしく思ったことであります。祥雲氏は精密なものが特に得意であったが、或る大阪の商人から頼まれ、興福寺の宝物の華原磬かげんけい(鋳物で四ひきの竜がからんだもの)というものを黄楊つげで縮写したのを見ましたが、精巧驚くべきものでした。これも三年掛かったと本人が私に話していました。風采は禅坊主見たいな人で、庵室あんしつにでも瓢然ひょうぜんとして坐っていそうな風の人であった。

 ちょうど、祥雲氏と同時代に私の宅にいた人で越前三国みくにの出身滝川という人を弟子にしました。これは毎度話しに出た彼の塩田真氏の世話で参った人であります。三年ばかり宅にいました。この人もまた実に不思議な人で、器用というのは全くこういう人の代名詞かと私はいつも思ったことであります。まず、たとえば、料理が出来る。経師屋きょうじやが出来る。指物さしものが出来る。ちょっと下駄の鼻緒をすげても、まるで本職……すべてこんな調子ですることが素人ばなれがしているのです。しかも仕事が非常に早く屈托もなく、すらすらとやって退ける。それから編み物がうまい。チクチク針を運ぶ手などは見ても面白いようでした。また月琴げっきんが旨い(その頃はまだ月琴などいうものがすたっていませんでした)。すべてこういった調子に相当折り紙つきの黒人くろうとでした。また何をさせても一通りに出来ました。
 しかし、こういう人の癖として、ずば抜けてはいないのでした。万能ばんのう的なのは一心がかたまらぬせいか、心がこもらないせいか、傑出するには足りなかった。それを見ると、不器用の一心がかえって芸道のことには上達の見込みがあるか。とにかく、米原雲海氏などとは違った畑の人であって、貫徹つらぬいては出来ない側の類です。滝川氏はまた特に写真が上手であったが、私の宅にいる間、私や他の弟子たちが写真機などをいじっていても、写真の写の字もいいませんでした。私宅を出る際、初めて自分は写真をもって本職として世に立つ考えで、写真は多年苦心をしたものであると打ち明けました。この話を聞いた時に私はそのたしなみのえらいのに感心しました。後日この人が写真師となって私の写真を取ったのが今も残っております。

 こういう風の性格の人であったから無理ならぬことですが、とかく商売気がさかんであって、じっと落ち附いて一向専念に彫り物をするなどいうことは性には合わなかったと見えます。写真をもって世に立つ考え故、今日でいえば浅沼あさぬまの向うでも張る気で大仕掛けに台紙などを売り出したりして大儲おおもうけをしたり、また損もしたりしました。それになかなかの雄弁家で、手も八ちょう口も八丁とはこの人のことでありましょう。私の手元の門人控え帳の連名を見ますと、おおよそ六十幾人の名が並んでいるが、この滝川氏の如く多芸な人はありません。

 それから、やはり谷中時代の人で、今日は銅像製作で知名の人となっている、本山白雲氏があります。氏は土佐の人、同郷出身の顕官岩村通俊いわむらみちとし氏の書生をしていて、親を大切にして青年には珍しい人で美術学校入学の目的で私の宅へ参って弟子になりたいということで、内弟子となっていました。後に学校に這入りました。今日でも氏は能く昔のことを忘れず、熱さ寒さ盆暮には必ず挨拶にきてくれます。今では銅像専門の立派な技術を持った人です。
 それから、今日では鋳造の先生で原安民氏が、彫刻の手ほどきは私の宅にてされました。氏は大磯の人、その頃は川崎伊三郎といいました。

 もう一人、俵光石という房州北条ほうじょうの石屋さんがあります。この人が宅へ参ったのはちょっと話がある。
 谷中茶屋町の私の宅はお隣りが石屋でした。私の宅にて中二階の仕事場を建てましたので、二階から仕事場が手に取るように見え、また石屋の方からこちらの仕事をしているのも見えました。一方は木、一方は石の相違はあっても同じく物の形を彫って仕事をしているのには違いはありません。もっとも石屋の方ではおもに石塔のようなものを彫っているが、時には獅子しし、狐、どうかすると観音などを彫っていることもある。こっちでは動物流行の折からで、象、虎、猿、などいうものを彫っている。石も材料、木も材料、材料は違うけれども双方ともに彫刻師である……にもかかわらず、石屋さんの仕事場の方ではこっちの仕事をしているのを振り向きもせず、さらに知らない顔をしている。てんで無感覚であります。これを見て私は思ったことですが、いかに何んでも、お互いに物の形を彫ることを職業としている身でありながら、自分たちからはちがった材料でやっている仕事の工合は一体どんなものだろう。木彫もくちょうをやってる彼の人たちの、腕を一つ見てみよう位の気は起りそうなもの、こっちでは随分毎日仕事の合間あいまに石屋のこつこつたたいている処を見て、もうあの獅子の頭が見えて来た、狐の尻尾しっぽがあらわれたと、形の如何いかんはとにかく、段々と物の形の現われて来るのを楽しみにする位にして見てもいるのに、石屋の職人たちの気のなさ加減にもほどがあると、余計なことですが、私はそう思いました。そう思うにつけて、何かこちらでも石を彫って見たい気持になる。石というものも彫れば我々にも彫れるものか――彫って見れば彫れぬこともあるまい。彫れば、まさかにあんな形を平気でやりもしない。どうせ、物を彫るものなら、もう少し、石であっても物の形を研究すれば好いのに、あれでは石の材料が可哀かわいそう……一つ石を彫って、もっと物らしい物をこしらえて見たい……というような物数寄ものずきな気が起るのでありました。
 それで、或る時、毎度話に出ました例の馬の後藤貞行さんに逢った時、私がこの話をして見ると、後藤さんも至極同感で、いろいろ話の末に、同氏のいうには、「私の知人の軍人の知り人に北条の石屋で俵という人がありますが、この人は石屋に似合わず感心な人で、ざらの石屋職人と違い、石でも一つ本当に彫刻らしいものを彫って見たいといろいろ苦心しているそうですが、田舎のことで師匠もなく、困っているという話を、その軍人上がりの友達が私に何んとかならないものかと話していましたが、高村さん、あなたが、そんな気がおありなら、一つそういう人を仕込んで見たらいかがです。必ず、相当、石で物を作ることが出来るようになるかも知れませんよ」
 こういう話を後藤さんがしましたので、「それはおもしろい。その人は根が石屋だから石を扱うことは出来よう。物を彫る心を教え込めば物になりましょう。やらせて見たい」というような話になりました。この話が基になり、後藤さんを介して軍人上がりの人からその話を俵氏に通じますと、俵氏は日頃から望んでいることですから、早速、北条から東京へ出て来て、私を尋ねて参りました。無論、相当石屋の主人のことで、生計くらしの立っている人ですから、万事好都合でした。
 それから、石ということを頭に置いて色々なことを試みさせて見ましたが、彫ることには心がないのではありませんから、なかなか満更まんざらではありません。或る時は私の作のちんを手本にして、伊豆から出る沢田石で模刻させて見ると、どうやらこなして行きます。石にして見るとまた格別なもので、石の味が出て来ておもしろい所があって、前に雲海氏の衣川の役の作が安田家に買われた縁故などもあって、この石の狆は、安田家に買われ、新宅のバルコニイの四所の柱の所へ置き物にするというので四つこしらえて納めたりしました。
 こんなことから、美術学校にも石の部を設けたらどうかという話などが出て、岡倉校長も賛成して、俵氏に標本を作らせて、石を生徒にやらせたりしました。
 光石氏の石の作としては、平尾賛平氏の谷中の菩提所ぼだいしょの石碑の製作があります。これは墓石のことで少し仕事が別にはなりますが、仕事は花崗石みかげで手磨きにして、墓石は別に奇を好まず、形は角でじめな形ですが、台石の周囲などに光石君の石彫としての腕が現われております。私の弟子の中に石彫家のあるのはこの人だけです。今は北条に帰って活動しております。

底本:「幕末維新懐古談」岩波文庫、岩波書店
   1995(平成7)年1月17日第1刷発行
底本の親本:「光雲懐古談」万里閣書房
   1929(昭和4)年1月刊
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:noriko saito
2007年4月30日作成
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