私は明治四十三年四月の『藝文』に、「西安府の大秦景教流行中國碑』といふ論文を發表した。そののち大正十二年の六月に、景教碑の模型の京都帝國大學到着を記念すべく開かれた史學研究會で、「大秦景教流行中國碑に就きて」と題する講演をした。茲に掲ぐる論文は、さきの論文と講演とを一纏めにして、新に作つたものである。

 茲に紹介する景教碑、詳しくいへば大秦景教流行中國碑は、唐時代に建設されたもので、その當時支那に流行した、キリスト教の一派のネストル(Nestor)教に關する古碑で、今日猶ほ支那の陝西省の西安府(民國の關中道長安縣)に現存して居る。ネストル教は、支那で普通に景教と稱せられたが、又ミシア(Missiah 救世主の意味)教とも稱せられた。支那の記録にはミシアといふ言葉に、彌尸訶(『貞元新定釋教目録』)、彌施訶(大秦景教流行中國碑)または彌失訶(『佛祖歴代通載』)などの漢字を充てて居る。支那にはこの景教碑の外に、マホメット教に關する古碑もある。ユダヤ教に關する古碑もある。されどこの景教碑は、年代の古い點から觀ても、内容の豐富なる點から觀ても、文章や文字の優秀な點から觀ても、すべての點に於て、マホメット教關係の古碑や、ユダヤ教關係の古碑に卓越して居る。
 兔に角古代のキリスト教關係の古碑といふので、早くから世界の注意を惹き、あらゆる支那の古碑中でも、一番世界的に有名となつて居る。明末に發掘されて以來、今日までこの古碑の歴史や解釋に關する著書や論文は、殆ど汗牛充棟といふ有樣で、歐米方面の文獻は、大略ヘレル(Heller)の『西安府のネストル教碑』に紹介されて居り(1)、コルヂエ(Cordier)の『支那書史』には、一層網羅されて居る(2)。支那方面の文獻は、清の楊榮※[#「金+志」、387-1]の『景教碑文紀事攷正』と、ワイリ(Wylie)の「西安府のネストル教碑」といふ論文中に備つて居る(3)。かく關係の著書や論文の多いのは、畢竟この景教碑が世間から重要視されて居る一の證據と思ふ。
 抑※(二の字点、1-2-22)景教即ちネストル教とは、西暦五世紀の初半に出たネストリウス(Nestorius)の唱へ出した、キリスト教の一派である。ネストリウスは三位一體に關して、新しい見解を主張した。彼の主張に據ると、キリストは神性を具へた一個の人間に過ぎぬ。從つてキリストの母のマリアを、從來の如く Theotokos(神の母)と稱するのを排して、Christotokos(キリストの母)と稱すべしと主張する(4)。西暦四百三十一年に開かれた、エフェスス(Ephesus)の宗教會議で、このネストリウスの見解は異端として禁止された。されどこの新説は、西アジア地方に流行し、ついで中央アジアにも傳播した(5)。唐が支那を統一して後ち、塞外經略に手を着け、その國威が西域に振ふと、その太宗の貞觀九年(西暦六三五)に、阿羅本といふ者が始めて景教を支那に傳へた。爾來景教の法運は次第に隆興したが、太宗の六世の孫に當る徳宗の建中二年(西暦七八一)に、當時の國都長安に在つた、大秦寺と稱するネストル教の寺院の僧の景淨、洋名をアダム(Adam)といふものが、同じくネストル教の信者か、若くば僧侶で、西暦八世紀の後半に、中央アジアの王舍城、即ちバルク(Balkh)から來て、唐に登庸されて、光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監に出世した、伊斯(洋名イザドブジド Izadbuzid ?)といふ人の出資によつて、この記念碑を建て(6)、ネストル教の教義や、その支那傳來の歴史を書き誌したものである。
 碑は黒色の石灰石より成り、その高さは臺の龜趺を除いて、約九フイト、幅は平均三フイト四インチ、厚さ約十一インチといふ。碑面には三十二行、毎行六十二字、すべて約千九百字の漢字が刻されてある。漢字の外にエストランゲロ(Estrangelo)と呼ばれる、當時主として傳道の場合に使用された、古體のシリア文字が若干刻されてある。このシリア文字は、大體に於て景教に關係ある僧侶約七十人の名を記したもので、その大部分には之に相當する漢名を添へてある。
 碑に刻された漢文の解釋は、可なり六ヶ敷い。今から二十餘年前に、上海在住のジェスイット派の宣教師のアヴレ(Havret)が公にした碑文の解釋は、尤も傑出して居るが(7)、それは未完成でもあり、又不十分の點がないでもない。併し大體から見渡して、この碑文の内容は、次の如き四段の順序になつて居る。
(第一) 天地創成のこと、原人が罪の人となる次第、及びキリストの降誕を述べたもの。
(第二) 唐の太宗の時、阿羅本が景教の經像を齎らして長安に來朝したこと、太宗は之を容れ、長安の義寧坊に大秦寺を建てて、僧二十一人を度せしこと、次の高宗は天下の諸地方に景教の寺院を増置したこと、則天武后時代から睿宗時代にかけて、景教の法運やや不振に陷つたこと、玄宗時代に景教は再び唐室の保護を受けて、法運振興したこと、次の肅宗・代宗・徳宗三代を通じて、法運の益※(二の字点、1-2-22)隆昌したことを記したもの。
(第三) この記念碑建設の費用を喜捨した、伊斯の徳行を敍したもの。
(第四) 韻文で上來三段の記事と、略同樣のことを頌したもの。
されど碑文の解釋は、今日の講演の目的でない。今日の講演の目的は、景教碑の來歴を紹介するに在る。
 さてこの景教碑の建設の後ち六十年許りで、徳宗の玄孫に當る武宗の時代となる。武宗は所謂三武の一人で、道教を崇信する餘り、佛教を始め諸外教に對して激烈な壓制を加へ、その會昌五年(西暦八四五)には、ネストル教及びゾロアスター(Zarathustra)教(※(「示+天」、第3水準1-89-22)教)の僧侶を併せて、二千餘人或は三千餘人を還俗せしめ、外國出身の僧侶は、多くその本國へ送還させた。多分この時に、義寧坊に在つた大秦寺も廢毀せられ、その境内に建立された筈の景教碑も打ち倒されたものかと想ふ。勿論當時の記録に、景教碑の打ち倒された事實や年代が明記されてはないが、しかく想像するより外に、適當な解釋を下すことが出來ぬのである。支那では通例古碑の刻字は、天然や人爲の種々の事由によつて、磨滅毀損を受ける筈であるが、この景教碑のみは、不思議に碑面の字畫に格別の損滅がない。こはこの碑の建立後、久しからずして地下に埋沒して、天然や人爲の損滅から保護された結果と認められ、上述の想像の蓋然性を裏書する樣である。兔に角宋・元時代の記録を通じて、この景教碑のことが一切見當らぬ。
 所が明末になつて、西暦十七世紀の初半に、偶然の出來事で、この景教碑が土中から發掘されて、世間に現はれて來た。この古碑出土の状況を、尤も早く尤も詳しく世間に通告した、セメド(Semedo)といふ宣教師の作つた『支那通史』には、大要左の如く記載してある(8)。
千六百二十五年(明の天啓五年)に、陝西省の首府の西安府の附近で、支那職工達が建物を新築する爲に、礎石を置く目的で、地面を掘り下げた。所が彼等は{偶然}一石碑を掘り當てた。{碑の}長さは九empan(手尺)以上、寛さは四 empan 以上、厚さは一 empan 以上に及ぶ。碑の頭部に當るべき一端は、ピラミッド形をなして居る。ピラミッドの寛さは、底部で一empan 以上、高さは二 empan 以上あつて、その表面に見事なる十字架が刻まれて、その形は{印度の}メリアプォル(Meliapor)町に在る、聖トーマス(St. Thomas)の墓の彫刻のそれによく類似して居る。十字架は雲形{の彫刻}に圍まれ、その下層には三行に、各行三個の大漢字が刻まれてある。この漢字は支那に一般に通用のもので、極めて明瞭に刻まれてある。碑の全面にも同種類の文字が刻まれ、則面にも文字は刻まれてあるが、それは種類の異つた外國字で、誰人も讀むことが出來ぬ。
この注意すべき古碑が出土すると、職工達は直にその由を官衙に上申した。知府が現場に出馬して、古碑を檢閲した後ち、之を見事な土臺の上に安置し、風雨の迫害を保護し、同時に諸人の觀覽を自由にすべく、碑の上に碑亭を構へた。珍奇な古碑の出土の評判が四方に擴まると、その古碑を見物すべく、澤山の人々が雲集した。丁度この頃は、キリスト教が可なり支那人の間に知られて居つたから、{キリスト教に關する若干の知識を有する}さる紳士は、この古碑を見て、キリスト教に關係あるものと推測して、{浙江省の}杭州府に在住する彼の友人で、教名を Leo{n}といふ、キリスト教信者の官吏の手許へ、その碑拓一枚を送り屆けた。この碑拓は、當時杭州府在住の宣教師達に、想像以上の大なる歡喜を齎らした。
 このセメドは漢名を魯徳照といふ。彼は西暦千六百二十八年に西安に出掛け、實地に就いて熱心に景教碑を研究した人である。當時支那在留の宣教師の中で、トリゴオルト(Nicholas Trigault 金尼閣)を除けば、尤も早く景教碑の實物を親覩した人であるから信用も厚く、從つて歐米の學界では、景教碑出土の状況に關しては、セメドの記事が權威と認められて、これに異議を挾む者が尠い。されどセメドの記事以外に、この古碑の出土の場所や事情や年代に就いて、異説がないでもない。出土の事情の異同は些事で、格別考慮するに足らぬが、場所や年代の異同は、一應の査覈を要する。先づ出土年代に關しては、セメドの所傳以外に、少くとも左の三異説がある。
(第一) 清初の錢謙益の景教考(『牧齋有學集』卷四十四所收)――多くの學者はワイリやアヴレさへも、この錢謙益を錢大※(「日+斤」、第3水準1-85-14)と間違へて居る――には、明の萬暦年間(西暦一五七三年乃至一六二〇年)に、長安の住民が地を鋤く間に、偶然この碑を發掘したと記してある(9)。
(第二) 清初の林※(「にんべん+同」、第3水準1-14-23)の『來齋金石考略』卷下には、明の崇禎年間(西暦一六二八年乃至一六四四年)に、長安在住の官吏が、その幼童の死骸を埋葬すべく、長安の崇仁寺(金勝寺)附近の地を掘り下げて、この古碑を發見したと傳へて居る。
(第三) 明末の陽瑪諾の『唐景教碑頌正詮』の序には、この碑の發掘の次第を述べて、
  大明天啓三年(西暦一六二三)關中官命啓土。于敗墻下之。
と記してある。
 以上三説の中、第一第二の所傳は、年代も漠然で、採るに足らぬが、獨り第三の陽瑪諾の所傳のみは、幾分の注意を價する。陽瑪諾は洋名をディアズ(Emmanuel Diaz)といひ、景教碑出土の當時、浙江省杭州府に居つて、宣教師の中では、尤も早くこの碑の拓本を見得た一人である。彼は明の崇禎十七年(西暦一六四四)に、漢文で景教碑を解釋して、『唐景教碑頌正詮』と名づけ、杭州府の天主堂で出版したが、その序文に上述の如く、景教碑出土の年代を天啓三年と明記してある。この三年は或は五年の訛かとも疑はれるが、併し當時耶蘇會の出版は鄭重を極め、必三次看詳、允梓とあつて、實際この『唐景教碑頌正詮』――私の手許にあるのは、光緒四年の重鐫ではあるが――も、陽瑪諾の同會のフェルレーラ(Gaspar Ferreira 費奇規)、アレニ(Julius Aleni 艾儒略)、モンテーロ(Johannes Monteiro 孟儒望)の訂閲を經て出版したもので、容易に差誤あるべしとは思はれぬ。
 尚ほ又明の李之藻の「讀景教碑書後」といふ一篇がある。こは『唐景教碑頌正詮』の中にも、『方外焚書』などの中にも載せられて居る。この李之藻は、かの有名なる徐光啓と相並んで、當時の耶蘇信徒中の大立者であつた。彼の教名を Leon といひ、當時の洋人の記録には、Leon Li として知られて居る。上に紹介したセメドの記事に、杭州府在住の官吏で教名 Leo{n}とあるのは、即ちこの李之藻である。彼の讀景教碑書後に、
居靈竺間(杭州府の靈隱寺と天竺寺をいふ)。岐陽同志張※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)虞惠寄唐碑一幅。曰邇者チカゴロ長安中掘地所得。名曰景教流行中國碑頌。此教未之前聞。其即利氏西泰(利馬竇)所傳聖教乎。余讀之良然。
と書いてある。
 この張※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)虞は教名を Paul といひ、洋人の記録には普通に Paul Tshang として知られて居る。岐陽の産といへば、陝西省鳳翔府管下の人と見える。彼はその以前に、北京で利馬竇にも面會して、キリスト教に就いての智識をもつて居つた。景教碑出土の噂が四方に傳ると、彼は親しく西安に出掛けて、この古碑を檢閲した。當時陝西には一人の宣教師も滯在せなかつた故、彼はキリスト教に關係ある人々の中で、尤も早く景教碑の實物を親覩した人である。セメドの『支那通史』の記事中に見える、キリスト教に關する智識を有する或る紳士とは、畢竟この張※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)虞を指すのである。張※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)虞は已に紹介せる如く、景教碑の拓本をとつて、杭州府の李之藻の手許に寄送した。李之藻の讀景教碑書後の終末に、
天啓五年歳在[#「旗−其+冉」、392-10]蒙赤奮若。日纏參初度。涼菴居士李我存。盥手謹識。
とあるから、この文は天啓五年(西暦一六二五)乙丑の歳の陰暦四月十六日(陽暦の五月二十一日)に書かれたこと疑を容れぬ(10)。
 さて鳳翔府と杭州府とは、相距ること約三千五百支那里である。支那の如き交通や報道の機關の不十分な状態の下に、張※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)虞が態※(二の字点、1-2-22)西安に出掛けて、景教碑の拓本を手にしたのは、勿論その碑の出土後、相當の時日を經過したこと申す迄もない。その拓本を水陸三千幾百里を隔つる杭州府まで送寄するには、必ず多大の時日を要する。現にセメドは、西安杭州間を一ヶ月半の行程と記して居る。然もその拓本の杭州に到着したのは、天啓五年の四月であつた。此等の事情を綜合して考一考すると、景教碑の出土は、後くも天啓五年の早春か、若くばその一二年以前かも知れぬ。從つて陽瑪諾の天啓三年説も、一概に否定し難い樣に思ふ。併しこは重大なる問題で、輕々には論斷を下し難い。私は單に一つの疑問といふに止める。序ながら私がこの疑問を『藝文』に發表した數年の後ち、さきに紹介した宣教師のアヴレの『西安府のキリスト教碑』を閲讀した所が、アヴレも亦この點に就いては、私と略所見を同くせることを發見して(11)、頗る我が意を強くし得たことを、茲に附記して置く。
 次に景教碑出土の場所に就いては、西安の外に※。近時では景教碑の研究者として、尤も著聞して居る例のアヴレが、この説の熱心なる支持者で、そのアヴレの影響を受けた、英國の宣教師のモウル(Moule)や(13)、我が佐伯好郎氏なども(14)、同樣にこの説を主張して居るが、到底成立し難いと思ふ。左に簡單にその理由を述べる。
(第一) この景教碑文を作つた大秦寺の僧景淨は、長安の大秦寺の僧と認めねばならぬ。殊にこの碑の施主又は建設者である、バルク(王舍城)産のイザドブジド(伊斯?)は、長安の大秦寺の司祭及び司教代理たることは、碑のシリア文に明記してある(15)。景淨やイザドブジドの關係から推して、この碑はもと長安城内の義寧坊に在つた大秦寺の境内に建設されたもので、※[#「(幸+攵)/皿」、393-15][#「厂+至」、393-15]地方に建設されたものでないことがわかる。
(第二) 唐時代に※[#「(幸+攵)/皿」、393-16][#「厂+至」、393-16]地方に、大秦寺の存在したといふ何等の證據がない。その※[#「(幸+攵)/皿」、393-16][#「厂+至」、393-16]地方に、景教碑の建設される筈がないではないか。
(第三) もと長安に建設された景教碑が、ある時代に※[#「(幸+攵)/皿」、394-1][#「厂+至」、394-1]に移轉されたとは、到底考へられない。又かかる移轉説を可能ならしむる、何等の證據も理由もない。
(第四) 景教碑を尤も早く親覩した張※(「庚/貝」、第3水準1-92-25)虞もセメドも、皆景教碑は長安若くば長安附近から出土したものと明記して、※[#「(幸+攵)/皿」、394-4][#「厂+至」、394-4]の出土を傳へて居らぬ。
(第五) 景教碑の發掘された、又同時に安置された西安の西郊の金勝寺は、學者の研究によると、正しく唐代に大秦寺のあつた、長安の義寧坊の舊址に當る(16)。
(第六) 景教碑が※[#「(幸+攵)/皿」、394-7][#「厂+至」、394-7]地方から出土する譯は、萬々有り得べからざることであるが、假に一部の人達の信ずる如く※[#「(幸+攵)/皿」、394-7][#「厂+至」、394-7]で發掘されて、西安に移轉されたものとせば、何が故にこの碑を、何等縁故のなかるべき金勝寺の後庭へ安置したであらうか。今日の金勝寺は、大體に於て唐代の大秦寺の所在地に該當するが、そは學者の研究を待つて始めて知られたことで、明末一般の人々が、かかる智識を有する筈がない。漫然移轉された景教碑が、唐代の大秦寺の舊址に安置される結果となつたとは、餘りに不思議ではあるまいか。
 要するに此等の事情は、景教碑の※[#「(幸+攵)/皿」、394-12][#「厂+至」、394-12]出土説を不可能ならしめ、その反對に、長安出土説の確實を保證するものと申さねばならぬ。即ち景教碑はその當初建立された、長安の義寧坊の大秦寺の境内に埋沒し、その大秦寺の舊址に當る、西安の西郊の金勝寺の境内から發掘され、大體に於て終始その位置を移動せざりしものと斷定する外ない(17)。
 さて明の天啓五年の初期頃に、西安の郊外で、景教碑が出土すると、間もなく碑文の洋譯が出來た。最初に出來たのは、西暦千六百二十五年に支那在住の耶蘇會士の手に成つたラテン譯である。こは多分トリゴオルトの譯であらうといふ(18)。その後引續いて幾多の譯文が世に公にされた。イタリーのバルトリに據ると、西暦千六百六十二年頃までに、少くとも三ヶ國の言葉で書かれた八種の飜譯が公にされたといふ(19)。中に就いて尤も廣く世間に影響したのは、セメドの飜譯と、ボイム(Michel Boym 卜彌格)の飜譯とであらう。
 セメドは西暦千六百二十八年に、西安で景教碑を親覩した後ち、千六百三十七年に、澳門マカオから一旦歐洲に歸り、千六百四十年にポルトガルに到着した。彼の有名な『支那通史』は、千六百四十一年にマドリッドでポルトガル語で出版された。その中に彼は景教碑の實際に就いて、より正確な報道を傳へ、併せてこの碑の譯文を附載してある。この書は間もなくスペイン語・イタリー語・フランス語・英語に譯出されて、廣く世界に讀まれた(20)。その後ち約十年を經て、ボイムは明の使命を帶び、千六百五十一年の初に澳門を出發し、その翌五十二年の末にイタリーに着した。この時彼がローマ教皇に奉呈した明の國書は、今日猶ほ教皇廰に保存されて居る(21)。ボイムはそのローマ滯在中に、千六百五十三年に、その齎らし往いた景教碑の拓本について、當時ローマに在住して居つた、教名をアンドレアス(Andreas)、マテウス(Matthaeus)といふ二人の支那人の助力を得て、碑の漢文をラテン語に譯出した(22)。かのキルヘルス(Kircherus)の『支那畫報』に收載されてある、景教碑の譯文は即ちこれである。
 景教碑が歐洲に紹介されると、早くその當時から碑の眞僞に就いて、疑惑を挾む者があつた(23)。碑文の廣く知らるるに從ひ、之に對する一部の學者の疑惑は益※(二の字点、1-2-22)深く、中にもフランスのヴォルテール(Voltaire)の如きは、全くジェスイット派の宣教師達の僞作であるとて、手嚴しい非難を加へて居る。十九世紀に入ると、ドイツのノイマン(Neumann, 1850)や、フランスのルナン(Renan, 1855)、ジュリアン(Stanislas Julien, 1855)の如き(24)、有力な東洋學者が、景教碑に關する疑惑を發表した。ルナンやジュリアンは、特に景教碑のみに關する論文はなく、彼等の意見は別の題目の著書の中に附記されて居るのみであるが、ノイマンは「西安の僞造碑」と題する論文を、『ドイツ東洋協會時報』に掲載して居る(25)。
 之に對して景教碑の辯護論者も多いが、その中で尤も有力と認められるのは、フランスのポオチエ(Pauthier, 1857)と(26)、英國のワイリ(Wylie, 1854)とである(27)。ポーチエの論文は、ノイマン、ルナン、ジュリアン諸氏の疑惑に對して、有力な辯駁を加へて居る。ワイリの論文は、ポーチエ程論爭的でないが、新に彼の試みた尤も傑出した景教碑文の飜譯に添へて、彼の豐富なる支那學の智識を傾倒して、支那の金石學者の所説を利用して、この碑の僞造であり得ざることを保證して居る。ワイリは支那の有名な金石學者、例へば顧炎武とか、錢大※(「日+斤」、第3水準1-85-14)とか、王昶とかいふ人達の、この碑に關する考證を紹介し、支那の學者は一人も、この碑の眞物たることを疑ふ者がないといふ事實を指摘して居る。ワイリより三十年餘り後に、オクスフォード(Oxford)大學のレッグ(Legge)も、その『西安府のネストル教碑』といふ著書中に、過去に於て、支那の一人の學者も、この碑の僞物たることを明言したる者がないというて居る(28)。
 されど比較的近代の支那の學者の中には、景教碑の僞作を主張した者もないでない。陶保廉の『辛卯侍行記』に載せられた、錢潤道の如きも、その一人で、
  此碑宋人金石書未著録。……似明人僞撰、託爲明時出一レ土。
というて居る。また『皇朝經世文編初續』中に收めてある、闕名氏の「天主邪教入中國攷」にも、
  且僞造大秦景教流行碑。……埋西安府城外、佯掘之。以證其教由來之久
と記してある。勿論此の如きは稀有の例外で、支那學者の多數は、この碑の當時の眞物たることを疑はぬ。ワイリ、レッグ二人の言ふ所も、先づ正當と認めてよい。
 しかし今日では、景教碑の眞僞などは最早問題でない。この碑の眞物たることは、何等の疑惑を容れぬ。
(一)[#「(一)」は縦中横]この碑文の書體は、明かに唐時代のもので、明時代に僞作されたものでない。
(二)[#「(二)」は縦中横]この碑中に引用されてある、唐の太宗の貞觀十二年(西暦六三八)の阿羅本優遇の詔は、殆ど一字も違へずに、その儘『唐會要』卷四十九に載せられて居る。明末のキリスト教關係の人々が、『唐會要』の記事によつて、この碑を僞造したなどは、種々の事情から推して、到底想像することが出來ぬ。
(三)[#「(三)」は縦中横]景教碑に長安の義寧坊に大秦寺を建てたとあるが、この大秦寺は唐の玄宗の開元中(西暦七一三年乃至七四一年)に、韋述の作つた『兩京新記』に、長安の義寧坊の波斯胡寺と記載されてある。ネストル教の寺院は、もと波斯寺と稱せられたのを、玄宗の天寶四載(西暦七四五)の詔で、爾後、大秦寺と改稱したのであるから、建中二年(西暦七八一)建立の景教碑にいふ義寧坊の大秦寺とは、即ち『兩京新記』の義寧坊の波斯胡寺なること申す迄もない。この事實は、景教碑の當時の眞物たることを支持すべき一つの證據と思ふ。
(四)[#「(四)」は縦中横]景教碑に玄宗即位の初年(西暦七一三)のネストル教の僧の及烈(Gabriel ?)の記事があるが、この及烈のことは、『册府元龜』卷五百四十六にも記載されて居る。兩者の記事の一致は、又この碑が後世の僞造にあらざる、一證據に資することが出來る(29)。
(五)[#「(五)」は縦中横]景教碑文を作つた大秦寺の僧の景淨のことは、徳宗時代に撰述された『貞元新定釋教目録』卷十七に、彌尸訶教を唱へた景淨として記載されて居る。この事實も亦、景教碑が唐時代の眞物であるべき一の證據と認めねばならぬ(30)。
(六)[#「(六)」は縦中横]この碑に刻されてあるシリア文字は、エストランゲロ(Estrangelo)といふ、當時のネストル教徒の慣用した古體の文字で、明末支那に布教して居つたジェスイット派の宣教師達の大多數は、全くこの文字に關する智識をもたなかつた。現にセメドの如きも、ディアズの如きも、之を讀むことは勿論、そのシリア文字たることすら知り得なかつた。セメドがその後ち歐洲への歸途に、印度に立ち寄り、その地に滯在して居つた博識の同志に質して、始めてシリア文字たることを知つた程である。始めてこの碑のシリア文を譯出した人は、上述のローマのキルヘルスであるが、今日から見ると、その譯文には間違が尠くない。現代のシリア語專門の大家の説によると、キルヘルスを始め、十七世紀頃の歐洲の學者に、エストランゲロ體のシリア文を完全に譯し得た人は、殆どなかつたであらうといふ(31)。されば當時支那に布教したジェスイット派の人々が、此の如き解し難いシリア文を勒せる、景教碑を僞造し得る筈がない。
(七)[#「(七)」は縦中横]この碑のシリア文に、唐の國都の長安のことを、クムドン(Kumd{a}n)又はクムダン(Kumdan)と記してある。クムダンとは、唐時代を通じて、東ローマ人やマホメット教徒が、長安を呼んだ名稱であるが、何が故に長安をしかく稱したかの十分なる解釋は、未だ學界に發表されて居らぬ。私はクムダンとは、長安の通稱たる京城の音譯の轉訛したものと確信して居る(32)。そは兔に角、明末支那に布教して居つた人々は申すに及ばず、西暦十七世紀初半の歐洲の學者でも、クムダンの長安たることを知り得なかつた筈である。それに拘らず、この碑に長安に對してクムダンの名稱を使用して居る事實は、この碑を明末の偽作とする疑惑を、一掃せしむべきものと思ふ。
(八)[#「(八)」は縦中横]敦煌地方から發掘された遺書の中から、『景教三威蒙度讚』や『一神論』の如き、唐時代に漢譯された景教の經典が世間に現はれて來た(33)。此等の遺書は、景教が唐時代に流行した事實を裏書し、併せて景教碑の眞物たることを確保する。
(九)[#「(九)」は縦中横]殊にその漢譯の景教の經典中に、景教碑に見える阿羅本や景淨のことを記載してあつて(34)、經典と碑文とよく一致することは、この碑の眞物たることを、保證すべき鐵案と申さねばならぬ。
 かくて西暦十七世紀の半頃から十八世紀を經て、十九世紀の半過ぎまで、約二百餘年の間に亙つた、景教碑に關する疑惑の暗雲が次第に晴れて、最近五六十年來、かかる懷疑的學者が殆ど跡を絶つた。これと共に、景教碑の保護保存といふ問題が、次第に擡頭して來た。已に西暦千八百五十二年に、米國のサリスブリ(Salisbury)教授は、「西安のネストル教碑の眞僞について」と題する一論文を公にして、その中に、景教碑が明末清初の際に、キリスト教の宣教師によつて歐洲に紹介されて以來、今日まで二百年の間、一人も親しくこの碑を覩た人がない。從つてこの碑は目下如何なる状態にあるかは勿論不明で、碑が果して今日に現存するや否やすら不確である。今日の急務は、中立公平の人を派して、親しく西安に往きて、この碑の存否と眞贋とを檢査せしむるに在る。このことの實行される迄は、景教碑の眞贋に關する絶對的斷案は下し難いと述べて居る(35)。
 サリスブリ教授の主張は、アメリカ東洋協會の容るる所となつた。千八百五十二年十月に、同協會は次の如き決議をした(36)。
所謂西安府の景教碑は、頗る有益のものであるが、同時にその眞僞に就きては議論一定せざる故、且つ又十七世紀の後半以來、一個の歐人もこの碑を親覩せざる故、我が協會は、目下支那在留中のアメリカ宣教師諸君が、適當と信ずる方法によつて、この古碑を調べ、その現状を詳にし、新にその拓本をとり、之を學界に寄與せんことを熱望する。
この決議書は在支那の米國各宣教師の手許に發送されたが、その實行は可なり困難であつた。康煕帝の末期から、雍正帝の初年にかけて、天主教を禁制して以來、宣教師は支那内地に踏み入ることが出來なかつたからである。然るに千八百六十年の北京條約によつて、天主教も耶蘇教も、布教を許可せられ、歐米人の内地旅行が、やや自由になつてから、千八百六十六年に、英國のウイリアムソン(Williamson)とリース(Lees)の二人が西安に出掛けて、始めて金勝寺内の景教碑を探望した。當時の實況は彼等の『北支那旅行』中に載せてある。兔も角も十數年前のアメリカ東洋協會の決議の主意は、この二英國人によつて、始めて實行された譯である。
 明末に景教碑が發掘されると、金勝寺の一隅に移され、碑亭の中に安置されたが、碑亭は何時となく廢※(「土+己」、第3水準1-15-36)した。咸豐九年(西暦一八五九)に韓泰崋カンタイクワといふ者が、訪碑の機會に、重ねて碑亭を建ててこの碑を保護した。その七年後に、ウイリアムソン等の來觀した時には、その碑亭が依然儼存して居つたといふ(37)。所がこの時代から、陝西・甘肅にかけて、十年に亙るマホメット教徒の大騷亂が起つて、西安の金勝寺もこの時燒き拂はれたから、碑亭も恐らく同樣の運命に罹つたものと想はれる。兔に角千八百七十二年に、有名なドイツの地理學者リヒトホーフェン(Richthofen)が、金勝寺の景教碑を來觀した時には、已に碑亭の跡形もなくなつて居つた(38)。要するに千八百七十年前後から、景教碑は瓦礫縱横の間に、風雨の剥蝕に放任するといふ有樣で、尠からず心ある歐米人を憂慮せしめた。殊に英國では、この問題が尤も憂慮せられて、バルフォア(Balfour)やラクーペリ(Lacouperie)の如き學者は、前後してロンドンの『タイムス』紙上に、英國の外務省が支那政府に交渉して、この碑を英國博物館に引き取るべしといふ希望を披瀝した(39)。中にもスティヴンソン(Stevenson)といふ支那在住の宣教師は、實地に就きて景教碑を探訪した後ち、千八百八十六年九月の『タイムス』紙上に、大略左の如き手嚴しい書を寄せて居る(40)。
世界に遍ねく其名を知れた景教碑を、今日の儘に、自然の破壞と人爲の毀損とに對して、何等保護する所なく、荒蕪の間に暴露せしめて置くことは、實に十九世紀の大恥辱といはねばならぬ。吾人はわが當局者が、然るべき手腕家を派遣して、北京の支那官憲に説き、この貴重なる古碑を英國博物館に轉交して、安全なる保護を講ずることに同意せしむる樣盡力せんことを、衷心より希望する。若しこの計畫が實行し難いならば、在北京の外交團諸君の盡力により、支那官憲に勸めて、責ては一の碑亭を建てて、この碑の保護を圖る樣にさせたい。今日に當りて何等か適當な方法を講ぜなければ、この貴重なる景教碑も、早晩廢※(「土+己」、第3水準1-15-36)するに至るであらう。
 多分この氣運に刺戟されて、支那在住の英國人を中心として上海に組織された、皇立アジア協會支部(China Branch of Royal Asiatic Society)でも景教碑保護を決議し、且つその具體的運動に着手し、千八百九十年の二月に、その支部長のヒュース(Hughes)から、北京の外國公使團の主席のドイツ公使ブランド(Brandt)宛に、外交團の盡力によつて、景教碑の保護を支那政府に勸告せんことを申出でた。この申出では快諾され、ブランドは總理衙門にも、また慶親王以下の軍機處の王大臣にも、アジア協會支部の希望を傳達した(41)。その結果中央官憲から西安の地方官憲に命令して、完全な碑亭一宇を建設せしむることになつた。碑亭の建設費として銀百兩支出されたといふが、例の支那官場特有の中飽の爲、千八百九十一年に出來上つた碑亭は、至極粗末な建物で、一年程の間に風に吹き倒されて、景教碑はもとの雨曝の状態となつた。ベルリンのフォルケ(Forke)教授が、その翌年の五、六月の交に、西安に出掛けた時には、碑亭は已に跡形もなかつたというて居る(42)。かくて景教碑はその後十五、六年にして、私が景教碑を往觀した頃まで、依然同一の状態に在つた。
 私は明治四十年の秋に、宇野文學士――今の東京帝國大學教授文學博士宇野哲人君――と同伴で、洛關の遊歴を試みることになり、歳の九月三日に北京を出發し、長驛短亭の間に半個月を過ごし、月の十九日に西安に入り、越えて七日、九月の二十六日に、金勝寺に出掛けて景教碑を實檢した。
 金勝寺は西安の西郭外約三支那里の處にある。寺は同治年間のマホメット教徒の亂に、兵燹に罹つて、今は實に荒廢を極めて居る。併し境内は流石に廣く、南北二町半、東西一町半の間、頽墻斷續といふ有樣で、幾分往昔の面影を偲ばしめる。今の佛殿は兵燹後の再建で、見る影もないが、その後庭には、もと本殿の在つた所と見え、廢磚殘甓累々たる間に、明の萬暦十二年(西暦一五八四)に建てた、精巧な一架の石坊が遺つて、祇園眞境と題してある。その前面に明の成化・嘉靖頃の碑石三四方、何れも寺の由來を誌したものがある。石坊の後すなはち北方約半町ばかりに、隴畝の間に五方の石碑が並立して居るが、東より第二番目がいはゆる景教碑である。その他は大抵乾隆以後の建立で、やはり寺の由來を誌したものが多い。景教碑には碑亭がない。自然人爲の迫害に對して、全然無坊禦である。この碑を世界無二の至寶と尊重しゐる歐米人が、かかる現状を見れば、碑の將來に就いて心を傷め、果ては之をその本國に移して保護を加へたいと騷ぐのも、強ち無理でないと思はれた。
 私は景教碑探望の翌々日に、咸陽・乾州・醴泉方面に、約一週間程旅行して、十月四日の午後、西安に歸着する時、西郭で十數の苦力が、一大龜趺を城内に運び行くのに出遇つた。歸途を急いだ故、別に問ひ質しもせず、その儘寓居に歸着した。所がその當夜西安在住の日本教習の話に、近頃一洋人が、金勝寺内の景教碑を三千兩に買收して、之をロンドンの博物館に賣り込む計畫に着手したのを、巡撫が聞き知つて大いに驚き、俄に景教碑を碑林に移し、その拓本をとるすら、官憲の許可を要するなど、警戒頗る嚴重を加へたと聞いて、途中で目撃した龜趺は、その古さといひ、その大きさといひ、必ず金勝寺の景教碑のそれならんと思ひ當るまま、越えて十月六日の朝、碑林に出掛けて調査すると、果して事實で、景教碑は碑林中に据ゑ付け最中であつた。私は兔に角千年來の所在地であつた、西安と景教碑との因縁のまだ銷盡せないのと、また景教碑が碑林に移されて、支那官憲の保護を受くることになつた結着に滿足して歸寓した。
 私は十月九日に西安を出發して歸途に就いたが、十月十二日の午後、敷水鎭附近で、道の彼方に特別製の大車を目撃した。※(「走+旱」、第4水準2-89-23)車的ばしやのぎよしやに問ひ質すと、何でも洋人の僞造した石碑を、西安から鄭州まで運搬する所で、その運搬を引き受けたのが、彼の朋友であるといふ。私の腦裏に直に、西安の景教碑と關係ある樣な疑惑が浮び上つた。果して然りとせば、此の如き石碑をいつの間に模造したか、又その模造の石碑は、如何なる程度まで原碑に似寄つて居るかと、種々好奇心が起つたけれども、生憎連日の降雨で、淤泥膝をも沒し、その上運搬の石碑は蓆包堅固で、實物を驗べることは到底困難の樣に見受けたから、遺憾ながら割愛して前程を急ぎ、鄭州で宇野君と南北に袂をわかち、私は十月の二十八日に北京に歸着した。
 その翌明治四十一年の一月に、在上海の宇野君から書状が來て、その中に『漢口日報』(Hankou Daily News)に據ると、西安の景教碑買收に盡力した洋人といふは、Danish Journalist と稱するホルム(Fritz von Holm)其人であると書き添へてあつた。私達が西安旅行の途次、九月十四日に、※郷ブンキヤウ[#「門<旻」、404-3]縣の公館の大王廟に投宿した所が、廟主の曹永森といふ道士が、二片の名刺を見せた。一は日本陸軍歩兵少佐日野強とあつた。即ち『伊犁イリ紀行』の著者である。一つは大丹國文士何樂模とあつた。この何樂模が、疑もなくホルム氏である。大丹國文士とは、Danish Journalist の譯、何樂模は即ち Holm の譯である。
 さるにしても私の西安旅行は、景教碑の買收若しくば模造の爲、西安に出掛けたホルム氏と終始したので、往路では偶然その人の名片に接し、西安滯在中はその人との因縁深い景教碑の碑林移轉といふ、この碑にとつては明末出土以來の大事件の實際を目撃し、歸途ではその人の模造碑の運搬されつつあるのに邂逅し、今日は又そのホルム氏から寄贈された景教碑の模型の披露に、紹介の講演をいたすとは、實に不思議の因縁と申さねばならぬ。
 さてホルム氏の景教碑の買收及び模造に關する記事は、その後ち『上海タイムス』(Shanghai Times)その他にも掲載されて、廣く内外の注意を惹くに至つたが、これと同時に、在留外人の間に、碑林に移轉された、景教碑の眞僞に就いて、疑惑を挾む者が出來た。ホルム氏が態※(二の字点、1-2-22)歐洲三界から出掛けて、幾多の金錢と勞力とを費しながら、單なる模造碑(Replica)のみに滿足して歸る筈がない。黄白に目のない支那官吏を買收するのは容易の業である。碑林に移されたのが Replica で、ホルム氏の持ち出したのが原碑に相違ないと主張する者が尠くない。
 かかる風説の高まるに從ひ、支那官憲も大分心配し出した。漢口の税關にその差押へを命じたとか、調査の爲に官吏を派遣したとか、蜚語紛々といふ有樣を呈した。支那の學者達も不安を感じたと見え、學部の陳毅君などは、態※(二の字点、1-2-22)私の寓居に駕を枉げて、私の意見を徴された。幾多の在留日本人からも、同樣の質問を受けた。されど私は之に對して、何等の決答を與へ難い。實をいふと、西安旅行の當時、私は後日かかる重大な問題が發生すべしとは豫期せなかつた。碑林に移轉された景教碑は實見したけれど、かかる疑問に答へ得る程注意して檢査せなかつた。ホルム氏の持ち出した石碑には出遇つたけれど、その實物は親覩せなかつた。口では碑林の原物たるべきを唱へつつ、心ではその反對説を排するだけの、積極的確信を缺いて居つた。
 私は明治四十二年の春に歸朝して、京都帝國大學に奉職することとなり、同年の秋に同僚の上田教授と同伴で、丸善の支店に出掛けた所が、新着のホルム氏の『ネストル教碑』といふ一小册があつた(43)。片々たる小著ではあるが、ホルム氏自身の關係した景教碑事件の顛末を書いてあるから、私にとつて中々棄て難い。殊にこの書によつて、ホルム氏の持ち出したのは模造碑である事實を確め得て、二年來の景教碑に關する疑團も始めて氷解した。
 このホルム氏はデンマーク人で、千八百八十一年にコペンハーゲン(Copenhagen)で生れた。父は外交官であつた關係もあらうが、彼は早く海外生活を營み、義和團の亂の直後に、支那や日本で新聞記者となつた。日本では横濱の Japan Daily Advertiser に勤務して居つたといふ。千九百五年に歐洲に歸つて、暫くロンドンで記者生活を續けたが、千九百七年(明治四〇)の一月に、支那に出掛けて景教碑を買收するか、若くばその原碑を模造する計畫を建てた。かくて彼は米國を經て支那に渡り、その年の五月二日に天津を發し、同月三十日に西安に到着した。六月の十日に彼は始めて金勝寺を訪ひ、景教碑を親閲し、原碑の買收に盡力したが、到底成功覺束なしと見て、更にその模造に取り掛つた。彼は石匠を招いて、原碑と同大同質同量の模造碑の製作を請負はせた。石匠は西安の北九十支那里の富平縣から、同質の石材を切り出して西安に運び、金勝寺の境内で、七月から九月にかけて、模造碑の製作に從事した。仕上つた模造碑と原碑とは、一見しては區別つかぬ程の出來榮えであると、ホルム氏は自慢して居る。
 ホルム氏は十月三日にこの模造碑を西安から搬出する豫定で、その前日の十月二日に、準備の爲め金勝寺に出掛けると、境内が何時になく騷々しい。何事かと聞き質すと、この日意外にも、景教碑は官命で碑林に移轉されることになり、碑石はすでに持ち出されて居つたといふ。景教碑の移轉は、十月の二日から四日まで、前後三日間に跨つたと見える。私が渭北踏査の歸途に、龜趺の運搬されるのを目撃したのは、この最終日の出來事である。兔に角私とホルム氏とは、外國人にして、金勝寺に安置された景教碑の實見者として、最後のものであり、又碑林に移轉された景教碑の實見者として、最初の人であらねばならぬ。同年の夏、私より一二月前に、フランスのシャヴァンヌ(Chavannes)教授や、ロシアのアレキシェーフ(Alexieff)教授が、西安を探訪した筈だが、不幸にして景教碑の移轉といふ大事件に遭遇し得なかつた譯である(44)。
 ホルム氏は十月三日に、重量二トンの模造碑を特別製の馬車に載せて、金勝寺から鄭州へ送り出した。ホルム氏自身は三日後くれて、十月六日に西安を出發し、模造碑を追うて鄭州に向つた。私はホルム氏より更に三日後くれて、十月九日に西安を出發して、同氏の後を鄭州に向つた次第である。模造碑は鄭州から京漢鐵道で漢口まで運び去られたが、漢口の税關で差押へられた。ホルム氏自身北京に出掛け、總税務司のハート(Robert Hart 赫徳)氏に談判して、差押へを解除して貰ひ、漢口から上海へ、上海から米國に送り、千九百八年(明治四十一)六月から、この模造碑はニューヨークの藝術博物館(Metropolitan Museum of Art)に附託品として陳列された。ニューヨークに陳列されること滿八年にして、千九百十六年(大正五)に、然るべき買手が出來、この模造碑をローマ教皇ベネディクト十五世(Benedict XV)の手許に獻送することになつた(45)。ホルム氏自身この碑を護送してローマに往き、獻上の手續を果した。かくて千九百十七年(大正六)以後、この模造碑はローマ教皇廰所屬の博物館 Lateran Palace に安置されて居る。約三十年前から唱へ出された、景教碑を英國博物館に移すべしといふ議論は、遂にその模造碑をローマの博物館に藏するといふ結果を生んだ。
 この模造碑がニューヨークの博物館に附託されて居る時から、ホルム氏は、その同大の石膏模型を、各國の大學や博物館へ、希望に應じて{實費で?}配附したが、今日までにその配附を受けた國は十三國に及ぶといふ。歐洲では英國、フランス、ドイツ、イタリー、スペイン、デンマーク、ギリシア、トルコ等があり、アジアでは我が京都帝國大學と印度のカルカッタ(Calcutta)に在る博物館(Indian Museum)とである。この模型は臺石に當る龜趺を缺くが、その他はすべて原碑を髣髴せしむるに足ると思ふ。
 序に申添へるが、我が帝國大學所藏のこの模型の外に、高野山の奧院にも景教碑の模造碑がある。こは千九百十一年(明治四十四)九月二十一日に、アイルランド出身で佛教研究者である、ゴルドン(Gordon)夫人の出資によつて建設されたといふ(46)。多分景教碑文の撰者たる景淨は、曾て弘法大師の師匠の般若三藏を助けて、密教の飜經に從事したといふ縁故から、この模造碑を我が國の密教の靈場たる高野山に建設したものと想ふ。但この模造碑は、原碑と餘り似寄つて居らぬのが遺憾である。

(1) Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 438-441 (Graf Sz※(アキュートアクセント付きE小文字)chenyis Ostasiatische Reise. Bd. II).
(2) Cordier; Bibliotheca Sinica. Volume II, Col. 772-781. Ibid. Suppl※(アキュートアクセント付きE小文字)ment, Col. 3562-3564.
(3) Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. pp. 289-300 (Journal of the American Oriental Society. V).
(4) Mosheim; Ecclesiastical History. Vol. I, p.366.
(5) Barthold; Zur Geschichte des Christentums in Mittle Asien. s. 22 flg.
(6) Pelliot; Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tiens d'Asie Centrale et d'Extr※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me Orient. p. 625 (T'oung Pao. 1914).
(7) Havret; La St※(グレーブアクセント付きE小文字)le Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tienne de Sin-gan fou. III partie.
(8) Semedo; The History of China. p. 157.
(9) 神田(喜一郎)學士「或る支那學者の景教考に就て」(大正十三年八月號『歴史と地理』所收)
(10) Havret; La St※(グレーブアクセント付きE小文字)le[#「La St※(グレーブアクセント付きE小文字)le」は底本では「La St※(アキュートアクセント付きE小文字)le」] Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tienne II partie, pp. 37. 39.
(11) Havret; Ibid. II, p.59.
(12) Havret; Ibid. II, pp. 34-37, 70-71.
(13) Moule; The Christian Monument at Hsi-an fu. p. 77 (Journal of N.C.B.R.A.S, 1910).
(14) Saeki; The Nestorian Monument in China. pp. 17-19.
(15) Lamy et Gueluy; Le Monument Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tien de Sin-gan-fou. p. 100 (M※(アキュートアクセント付きE小文字)moire de l'Acad※(アキュートアクセント付きE小文字)mie Royale des Science etc. de Belgique. Tome Liii).
(16) 清の陶保廉の『辛卯侍行記』卷三の四枚十枚、『咸寧縣志』卷三の四十五枚。
(17) Pelliot; Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tiens d'Asie Central et d'Extr※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)me Orient. p. 625.
(18) Havret; La St※(グレーブアクセント付きE小文字)le chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tienne. II, p. 326. III, p. 67.
(19) Havret; La St※(グレーブアクセント付きE小文字)le Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tienne. II, pp. 32, 325.
(20) Havret; Ibid. II, p. 31.
(21) 箕作・田中二氏「明の王太后より羅馬法皇に贈りし諭文」(明治二十五年十二月號『史學雜誌』所收)、拙稿「明の※(「广+龍」、第3水準1-94-86)天壽より羅馬法皇に送呈せし文書」(明治三十年三月號五月號『史學雜誌』、本全集第二卷所收)
(22) Heller; Das Nestorianische Denkmal in Singan fu. s. 15. Lamy et Gueluy; Le Monument Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tien. p. 9.
(23) Kirchere; La Chine Illustr※(アキュートアクセント付きE小文字)e. p. 1.
(24) Pauthier; De l'Authenticit※(アキュートアクセント付きE小文字) de l'Inscription Nestorienne de Sin-gan-fou. pp. 7, 14-21.
(25) Neumann; Die erdichtete Inschrift von Singnan[#「Singnan」は底本では「Signan」] Fu. (Zeitschrift d. D. M. Gesellschaft. IV).
(26) Pauthier; De l'Authenticit※(アキュートアクセント付きE小文字) de l'Inscription Nestorienne.
(27) Wylie; The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. (Journal of the American Oriental Society. V).
(28) Legge; The Nestorian Monument of Hsi-an Fu. p. 37.
(29) 拙稿「ネストル教の僧及烈に關する逸事」(大正四年十一月『藝文』所收)
(30) 高楠博士 The Nestorian Missionary Adam, Presbyter, Papas of China, Translating a Buddhist S※(サーカムフレックスアクセント付きU小文字)tra. p. 590 (T'oung Pao. 1896).
(31) Lamy et Gueluy; Le Monument Chr※(アキュートアクセント付きE小文字)tien de Sin-gan-fou. p. 83.
(32) Hirth; Nachworte zur Inschrift des Tonjukuk. s, 35-36 (Radloff; Die Altt※(ダイエレシス付きU小文字)rkischen Inschriften. II).
(33) 拙稿「隋唐時代に支那に來往した西域人に就いて」頁一四(『内藤博士還暦祝賀支那學論叢』所收)
(34) 羽田博士「景教經典序聽迷詩所經に就いて」頁三(『内藤博士還暦祝賀支那學論叢』所收)
(35) Salisbury; On the Genuineness of the so-called Nestorian Monument of Singan Fu. p. 410 (Journal of the American Oriental Society. III).
(36) Journal of the A. O. S. III{1853}, p. 419.
(37) Williamson; Journey to the North China. Vol. I, p. 381.
(38) Richthofen; China.Bd. I, s. 553.
(39) Lacouperie; Beginnings of Writing in Central and Eastern Asia. pp. 84-85.
(40) Lacouperie; Ibid. p. 85.
(41) Journal of China B. of R. A. S. XXIV{1889-90} pp. 136-139
(42) Forke; Von Peking nach Chang-an und Lo-yang. s. 70 (Mittheilungen des Seminar f※(ダイエレシス付きU小文字)r Orient. Sprachen. I).
(43) Holm; The Nestorian Monument.
(44) Holm; My Nestorian Adventure. p. 251.
(45) Holm; Ibid. pp. 319-320.
(46) 水原堯榮『高野山金石圖説』卷中、頁一七三以下。

底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1938(昭和43)年2月13日初版発行
※底本が用いている「〔」と「〕」は、「アクセント分解された欧文をかこむ」記号と重なるため、和文中では「{」と「}」に、欧文中では「{」「}」に置き換えた。
※底本では、注釈番号は、本文の右脇にルビのように組まれている。
入力:はまなかひとし
校正:米田進
2003年4月1日作成
2004年2月21日修正
青空文庫作成ファイル:
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