一

「……アレは、つまり、言ってみれば、コウいうわけあいがあるンで……」
 戦地から来た忰の手紙に、思いきって、いままで忰へ話さずにいたことを余儀なく書き送ろうと、こたつ櫓の上に板片を載せ、忰が使い残して行った便箋に鉛筆ではじめたが、儀作は最初の意気込みにも拘らず、いよいよ本筋へかかろうとするところで、はたと行詰ってしまった。……あれをどんな風に説明したら、うまく、納得がゆくものであろうか。
 人手がなくて困るとか、肥料が不足でどうとか、かれこれ言われながらも、事変がはじまっていつか足かけ三年、二度目の収穫が片づく頃になると、心配していたほど、それほど米がとれなくもなかったし、人手不足もどうやら馴れっこになってしまった。事実、野良仕事など、やりよう一つでどうにでもなったし、肥料などに至っては、幾キロ施したから、それで幾キロの米の収穫があると決まっているものではなく、いくら過不足なく施したにせよ、その年の天候いかんによってはなんらの甲斐もないことさえあったのだ。
 それはなるほど思う存分に施して、これで安心というまでに手を尽して秋をまつにしくはない。しかしながらそれでも結局は例の運符天符……そこに落ちつくのが百姓の常道で、まず曲りなりにでも月日が過ごせれば、それで文句は言えなかった。
 家のことを心配して、時々小為替券の入った封書などをよこすのは、かえって百姓に経験の浅い忰の正吾の方だった。……あの借は払ったかとか、どれくらい米がとれたかとか、たといどんなに手ッ張ったにせよ、俺のかえるまで、作り田は決して減らすなとか、あの畑へは何と何を播けとか、そんなことまで細かに、よく忘れないでいたと思われるほどあれこれと書いてくるのだ。黙っていると何回でも、返事をきくまでは繰返して書いてくるので、儀作の方で参ってしまい、前後の考えもなく、洗いざらい、そのやりくり算段を報告した。
 ところでそこに問題が孕んでいたのだった。それと言うのは、事変二年目の決算についてだが、忰の思うとおりにはどうしても行きかねたのである。しかもそのことを正直に書いてしまったものだから、早速、忰から「なんでソノ古谷さんの方だけ出来なかったのか、やろうと思えばやれたのではなかったか。それに俺としては、そんな大口のやつがあるとは実は知らなかった……」となじられる結果に陥ってしまった。儀作は、それを弁解かたがたふかい理由を書き送ろうと、鉛筆の芯をなめていたのである。実際、それは彼にとって深い、いや、それ以上に、解りにくい問題だった。
「アノ金は、ナルホドお前には、これまで、きかせずに置いたが……アレは、その、関東大震災のときだったから、コトシで……」
 ようやくのことでそんな風にはじめたものの、再び彼は、鉛筆のさきを半白のいが粟頭へ突き差すように持って行ってごしごしやり出した。どうもやはり駄目だ。
 それというのが、村のもの誰一人の例外もなく、それまで、田のあぜであり、畑のふちであると考えて、それ以上のことはてんで詮索しようとしなかった山腹や川沿いの荒地(それなしには傾斜地のことで田の用水は保たず、畑地にあっては、耕土の流亡を免れない場所)それが実は官有地であって、『荒蕪地』という名目のもとに大蔵省の所管に属していたとかで、そしてそれだけなら何も問題はなかったのであるが、そこが改めて民間に払下げられることになったという、……もう十七八年も前の話に遡らなければならぬいきさつなのだ。
 当時、それと聞いて、誰一人、頭を横ざまに振らぬものはなかったが、儀作にとっても同様、どんなに拳骨で自分の素天辺をなぐってみても、そういう理窟は、いっかな、さらりとはいかなかった。例えば、五十度の傾斜のある地面に水田を拓くとして、もしそれを半畝歩ずつに区切らなければならぬ場合、どうしたって一枚々々の境界に相当の斜面を残さない限り、その半畝歩の平面は拓けないではないか。だからその斜面……拓き残しの部分は、どんなことがあろうと水田や畑の耕作に対して欠くべからざる条件というものであろう。だのに、そいつがいまさら改めて民間に払下げられる?
「もっとも、あすこは田や畑の畝歩へは入っていめえから」とやがて雀の小便のごとく考えをひねり出すものが出てきた。「もともと、官有、いや、昔、殿様か何かの所有だったところを、ぼつぼつ開墾して、その開墾面積だけ登記しておいたもンだろうから……」
 そう聞けばどうやら理窟だけは解った。が、いぜんとして分らないのは、やはりそれらの残存面積を除いて田畑そのものが成立せず、ちょっとした雨降りにさえ耕土が押し流されてしまうだろうということ……その一事だった。それともう一つ、なんでそれが今頃、田畑が民間の私有になって六七十年も過ぎた今日、改めて民間に払下げられることになったのかということだった。
 人の話では、このほど例の大震災で焼野原と化してしまった東京市を復興するについて、早速、臨時議会が召集され、そして六億近い巨大なる復興予算が議員たちによって可決されたばかりか、さらに大蔵省は市民に対して莫大な低利資金を貸出す準備を早急にしなければならぬことになって、そのため、この地方のような山間農村にいまなお多く散在して、不税のまま放置されている『荒蕪地』なるものを民間に払下げる案をたて、帝都復興院総裁後藤新平はそれによってお得意の大風呂敷を拡げ、「大東京計画」なるものをでっち上げて、向う七ヵ年間に諸君の東京を世界的な文化都市にして見せると豪語して、やんやの喝采を博したとのこと。
 それはとにかく、税務署でさっそく議会の決議に応じたものと見え、この村の不毛地に対し、畦地は熟田の時価の半額見当に、畑ざかいの荒地は隣接の畑地の約半額と言ったふうに『査定』し、急遽払下げの通告を村役場へよこしたものである。
 その頃、儀作はいまでもはっきり覚えているが、村ではちょうど秋の収納が大方終って、儀作自身のような小作階級のものは、例によって地主へ年貢米や利子払いを殆んど済ましていたし、その他、肥料屋の払いや、村の商い店――油屋からの半期間の細々した帳面買いも、とにかくどうにか片をつけて、旧正月も貧しいながら待っているというような時期で、村には余分の金など、地主たちを除いては一文もなかったのである。ところで儀作自身は三反歩の自作地を山の傾斜面に持っていたし、それに隣ってほぼ同じほどの面積の小作田も持っていた。そしてその一隅の耕地は役場からの通知によると三畝歩ほどの『荒蕪地』を含み、さらに彼は川沿いの畑地を二三ヵ所に飛び飛びに耕作していたが、そこには五畝歩ほどの不毛地――恐らく年々の洪水のために蚕食されて川床になっている部分でも勘定に入れない限り、誰が見てもそんなにあるとは思えなかったほどのものが存在していたのである。実測してもらわなくては……と抗議してみたが、いまはそんな暇はない。あとで繩を入れて見て、それだけなければ『買い上げ』てやると突っぱねられ、結局、田と畑の持つそれらの不毛地を、彼は五十円ほどに査定せられなければならなかった。
 村人の中には百円以上の査定を突きつけられて不平をこぼすものもあった……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………。……だが、よくよく考えてみると、それは他人ごとではなかった。もし他村の金持、いや自分の村の金持にしても同様だが、そういう訳の分らぬ連中に落札されてしまって、その畦や畑境へ無茶な植林でもされた日には……何となれば連中とて今度は租税が出るのだから、ただ放置するはずがない。しかしそれこそ取りかえしのつかぬことだった。それでなくてさえ日光に恵まれないこの地方である。半歳を雪の下に埋もれて過ごす耕地のことで、ただ一本のひょろひょろ松のかげでも、直ちにその秋の収穫に影響した。いきおい、借金しても落札しなければならぬ運命におかれていたのだ。小作地でさえそれは免れられぬ。もし地主に一任しておくなら、つまりは小作料の騰貴でなければならず、でなければ、それこそ杉や桑や、その他ここに適当と思われる樹木の恐れが……。
 要するに永久に不毛地に対して小作料を支払うか、あるいは日光を遮られなければならぬか、それとも一時借金してもそこを自分のものにして収穫高を確保するか、この三つに一つである。借金なら何時か返しも出来るであろう。少くとも四五年前のような……あれほど農産物の値上りは望めないまでも、多少なりとも景気が回復すれば、年賦にしてもらって十ヵ年もすれば皆済しうるであろう。
 儀作をはじめ、これが一般村民の、結局の到達点だった。…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………年一割から一割五分の利のつくやつをどうにか工面して、それらの全く思いがけない荒蕪地を払下げて貰わざるを得なかった。それにしても一面、儀作はまだその頃年も若く、ありあまるエネルギーが体内にこもっていた。で、まだ山仕事の出来るくらいだった亡父と話し合った。
「東京の方では、この寒さにまだ寝るところも出来なくて、バラックとかちうものへ入っているんだそうだからよ、それを思うと五十円やそこら寄付でもしたつもりになるさ。なアに、たった五十円だい、四五年みっちり働けば、それできれいに抜けっちまア……」
 だが、抜けるどころか、一年ならずして親父には死なれ、待望の米価は、ことに浜口緊縮内閣の出現によって一俵七円に下り、繭のごときは一貫二円という大下落で、この地方の重要産物である木炭のごときも四貫俵三十銭、二十五銭になってしまい、かつて儀作の副業……農閑期の馬車挽など、賃銀は下るばかりでなく、どんなに探し廻っても仕事の得られない日さえあるようになった。
 その上彼一家には不幸が連続した。前述のように、親父の中風、死に続いて、おふくろが気がおかしくなって前の谷川の淵に落ちて半死のまま引き上げられたり、次には女房が四番目の子を産んで以来、まるで青瓢箪のようにふくれてしまい、ずっとぶらぶらのしつづけである。それらの出来事のために唯一の自作地であった三反の水田も抵当に入ってしまい、たとえその後、米穀法の施行などによって十二三円がらみにまで米価が上ったとはいえ、諸物価……都市工業の製産品はそれにつれてあくまでも騰貴するので追いつく沙汰ではなかったのだ。
 このようにして儀作は、ようやく一人前になった忰の岩夫を相手に、この数年間なんとかして世帯をきり廻してはきたものの、さて、かの『荒蕪地』……田んぼの畦や畑境いの不毛地、税金だけはかかってくるが、一文の利用価値もないように思えるその草ッ原を見れば見るほど、考えれば考えるほど、ことに家計の方の苦しみが増大するにつれて、こんどは借金そのものが馬鹿くさいものに思われてならず、つい利を入れようと思っても入れずにしまい、まして忰にそのことを話してきかせるのなど阿呆の限りと、そのまますっぽかしてしまう年が多かった。お蔭でいまでは随分の元利合計になっているであろう。が、いい具合に(?)当の古谷さんでは大してきつく催促しなかった。儀作はその昔からの酒造家……この地方きっての財産家である古谷傅兵衛へは[#「傅兵衛へは」はママ]は若い頃から馬車の挽子ひきことして出入りしていた関係もあって、言わば特別扱いを受けてきたのでもある。
 さて、儀作には、いくら鉛筆の芯で半白の頭を掻いてみても突いて見ても、結局、以上のようなことは書けないと分った。で、彼は書きかけの部分を少し消して、あのホウは心配するな、こんど財政をやることになった古谷の若旦那どのは『東京もン』で大学教育を受けた人物であるから、物分りがいいに決まっている。というようなことを書いてそれで打ちきることにした。

     二

 時局の波は、この東北の山間の村々にも、ひたひたと押しよせつつあった。
 幾つかの谷川がK川と名がついて、山あいの細長い耕地を流れ、それがさらにS川に合流しようという地点……M盆地の最も肥沃と称せられる一角に位置する約百二十戸ばかりの部落の、いわばこの地方の物資の小集散地であった中郷にもその波頭は用捨なくやって来て、ことにこの部落の、それこそ旧幕時代から経済の中心をなしていた古谷傅兵衛など[#「傅兵衛など」はママ]、その大きな波濤を全身で浴びて立っている一つだった。
 傅兵衛の[#「傅兵衛の」はママ]店舗は、周囲五里余の山腹の村々から、海原にうかぶ一つの白い小さい島のように、不規則に散在する田んぼの中の村々の木立を越えて美しく眺められた。棟を並べた酒倉、白亜塗りの土蔵、石造のがっしりした穀倉、物置、その他雑多な建物の一方に、往還に向って構えられた大きな母家……槻や欅や、裏山に繁る杉の古木に囲まれて、このM盆地の開拓者の誇りを、それは今もって十分に示しているもののようであった。
 当主傅介は[#「傅介は」はママ]東京方面で、親父とは少しく違った方面の建築材料商をはじめたとかで、これまであまり村へは姿を見せなかったのであるが、父傅兵衛の[#「傅兵衛の」はママ]他界……と言ってもこの半年以前だが、それ以来、しばしば将来を約束された少壮実業家らしいかっぷくで、狭い往還に自家用自動車をとばすのが見られるようになった。人の噂によると、東京での商売があまりうまくいかず、先祖代々の家業の方も、先代の放漫政策のたたりやら、この事変のための生産制限やらで、洗ってみれば殆んど何も残らず、今のうちの建て直しという意図からか、何かの軍需工業を興すについて、まずその資金の調達、すなわち貸金の取立てに着手したとのことだった。
 噂はやがて事実となって現れはじめた。祖父、曾祖父以来というような古い証文までどこからか探し出され、しかも一銭一厘の細かい計算の下に、一々しかつめらしい『××法律事務所、弁護士、法学博士、元東京地方裁判所判事、代理人、何某』と印刷された文書に、大きな、眼玉の飛び出しそうな朱印をきちんと捺した督促状が、付近の債務者のもとへ届けられるようになったのである。
 もっともこれらは何千という大口らしく、百や十の単位の小口に対してではなかったのであるが、やがてそれが次第に百や十の、全く忘れられているような小口に対してさえ、同様に物々しい文書が届けられはじめた。それはまるで予期しない恐慌を雪ふかい村々に捲き起した。それに人々はかつてこのような借金の取立て法に遇ったことがなかったので何層倍もびっくりする反面、ただちに反発して『若造』のやり方を詈りはじめもした。古来の抜きがたい習慣を無視してその法律一点張りの、呪われたる督促……それが正月早々からなので、ことに彼らをいきり立たせたのでもあった。
 いかにこの新式の方法に対抗したものであるか。無論、その対抗方法はにわかに解決がつかなかった。ある者は昔式に直接出かけて行って若旦那様に面会を申込んだ。が、肝心のその若旦那様は何時も『不在』。たとい広い邸宅の奥の方に姿が見えたにしても、決して店先へなど現れず、依然として『不在』なのである。先代時分には何憚るところなく、奥の方へまでのし込めたような人たちでさえ、事、借金に関する限り、「それは弁護士に一任してあるのだから、俺は知らない」の一言をきくに尽きていた。
 ところで、栗林儀作も、とうとうその始末にいけない朱印の文書を受取らされた一人であった。彼は北支で鉄道の警備に任じている忰へ古谷からの借金についてのあの手紙を出して間もなく、その配達に接したのであった。先代同様に、いや、先代よりはとにかく東京という文化都市――…………………………………………………………………………後藤新平の言ったとおり、世界で何番目かの大都にこの十年間に見ンごと盛り上ったそこで、長い間教育され、そこの華やかな空気を吸って来ているだけ、当主傅介氏は[#「傅介氏は」はママ]、忰にも書いてやったように物分りがいいであろうと考えていた事実は、今になってあべこべのように思えてきた。だが、彼は人の多くとは違い、もと、挽子として出入りしていて、若旦那のことも子供の時分から知っていた。若旦那の方でも俺のことは知らぬはずがないと彼は考え直した。そこで、他の村人が何回足を運んでも弁護士云々の一語によって手もなく追っ払われるときいても、彼は自分だけはそんなことはないに決まっているという自信のもとに、わざと若旦那の暇そうな正午頃を見計らって出かけたのであったが、やはり見知り越しの手代が出て来て、「あ、そこのことなら……」との挨拶。しかし儀作は、あくまでも若旦那の好意を信じて疑わなかった。三度目に手代に突っぱねられた時、彼は邸宅の門前の雪堆の傍らに待ちかまえていて、若旦那が自動車に乗り出したところを「今日は――」と言ってつかまえた。
「わし、栗林ですが……」というと、
「あ、君か……」
 若旦那は思ったとおり親切であった。すでに車の中にゆったりと座りこんで、匂いのいい煙草をふかしながら、先を急ぐ用事を控えているらしいにも拘らず、儀作の用件を、ふんふん……と一々うなずきながら聞いてくれたのである。「うむ、なるほど事情はよく分った。君もこの際、そんなことをされるのは困るだろうから、弁護士の方へ僕から話をするがな、しかしいっさい、僕はその方には手を出さんことにしてあるんだ。――僕はな、これから新規の事業をはじめるんで忙しいんだよ。君、どうかね、聞けば君も困っているようだが、僕の工場の方へ来て働かんかね、なアに、東京の方ではないよ。この近くへ、もう一つはじめるんだ。ほら、県ざかいのあの鹿取山さ、君らもあの辺はよく知ってるだろう。最近、あの山の向うに、君、調査して見るとアンチモンが何千万トンというほど埋蔵されているんだ。アンチモンと言ったって、君らにはナンチモンか分るまいが、とにかくこれから非常に国家的に有用な鉱物資源なんだ。そいつを大々的にやるんで、どしどし工場や住宅を建築するんだが、あんな君の部落のような山の中腹のつまらない所で一生涯ぴいぴいして土いじりをしているより、どうだい、俺の事業へやって来ねえか。――そして、うんと金をもうけてさ。な、そうしたまえ。なに、親、女房、子供? そりゃ君、それらなりに仕事があるよ。ぜひやって来たまえ。馬車を持っているんなら一日五円にはなるぜ。」
 そして、儀作にはかまわず、運転手を促して、すうっと雪景色の中へ行ってしまった。
 儀作は歯ざれのいいその弁舌――その快調にすっかり酔わされたように、しばし茫然として自動車を見送っていたが、やがて独語した。――あの分ならなんとかなる。

     三

 儀作は数日おいて再び古谷邸を訪ねた。若旦那と弁護士との間になんらかの話し合いがついている頃と考えたからである。それに毎週金曜日に東京から出張してくるはずだときいた当の弁護士、博士、何某なる人物とも、ぜひ一度は遇って、あの差し紙を撤回してもらわなければ物騒で、一日として安心してはいられないからでもあった。
 ところで、几帳面に、雪空にも拘らず出張して来た弁護士が、二人の事務員を使って、せっせと書きものをしている一室へ通された。やがて此方こちらへ向き直った博士に、ぼつぼつ事情を訴えたが、博士のいわく、若旦那からは何もきいていない。たとい聞いていたにせよ、この方のことはいっさい自分が責任を負っているので、若旦那には口を出す権利はない……。流暢りゅうちょうな東京弁で一気にまくし立てられるばかりか、その隼のような、じっと見据えられる眼に出遇っては、儀作はもはや一言も口がきけなかった。そこには、何か眼に見えぬ、冷厳な重圧が渦をまいていて、人を慄然たらしめるもの以外、何物も存在しなかった。
 燃えさかるストーブの火と博士の弁舌にすっかり汗をかいてしまった儀作は、阿呆のような恰好で古谷邸を辞去した。さて、あの博士に対抗して口のきけるのは、例の『荒蕪地』の払下げについての村人のすべての借金の奔走をした前村長ばかりではあるまいか。二三日して彼はふとそんなことを考えついた。で、いまは自分の部落の区長をしているその老人のところへ、のそりと出掛けて行ったのである。すると前村長は、
「うむ、それは何とか俺が談判してやりもしよう。博士だって、弁護士だって何が怖いことあるもんか。だが、まア、聞け。あれだぜ、若旦那のいう工場かせぎも満更でねえ案だで。これからの世の中は、何といってもその工業というやつさ。百姓ではいくら骨を折っても追いつく沙汰ではねえからな。俺もこれ、三期ぶっとおしに村長をしてみて、つくづくそう思ったよ。」
 大きな松の根ぼっくのぷすぷす燃えている炉の正面にどっかと胡座をかいて、六十歳にしてなお若い妾を囲っておくという評判の前村長は、つるつるに剃った頬のあたりをしきりに撫で廻した。
 続いて前村長は、農業衰退の必然性と、重工業、軍需工業隆昌についての世界的な見透しに関して高邁な意見を一くさり述べてから、少しく声を低めて、
「古谷は君、掛け合っても無駄だぜ。実は、よ、あれは君、若造が馬鹿造だから、破産したんだぜ……」
 呵々大笑して、「お蔭で、この山間の村々でも、約三百軒の貧農、中農が、まき添えを喰って倒産する。だが、それも時代の勢いというもので、何とも仕方がない。まずまず身代はたかれて百姓が出来なくなったら、工場だ、工場だ……」
 だが、儀作の耳へはそれは入らなかった。いや、入るには痛いほど入っても、忰がかえるまで、どんなことがあろうと商売がえするつもりはないと告白した。と、前村長はしばらく考えていたが、ずばりと、
「古谷からの借金はいくらあるんだか。」
 儀作はちょっと応答に窮した。肩をもじもじさせてから何か言おうとしたが、下を向いてしまった。
「元金は?」と前村長は無遠慮にたたみかけた。
「その、元金というのは、あれ、なんですよ、あの『荒蕪地』――村長さんが払下げてよこした……」
「ああ、あれか……あの時は君らも随分ぶうぶう言って、俺を悪党扱いにしたっけが、今では見ろ、あのために後藤新平閣下の計画どおりに、実に立派な大東京になったから。いまでは世界第三位の大都市さ。さすがに閣下は先見の明があったよ。実にえらかった。総理大臣にはならなかったが、総理以上の総理の貫録はあった人物だ。あの人の大計画を成就させたについて、俺どももこれ、ちょっぴり功労があったかと思うと、東京サ行って、まるで西洋みてえな丸の内なんちうところドレエブしてみろ、いい気持なもんだぜ。」
 そこで儀作は永年胸のうちにくすぶっていたものを吐き出した。
「でも、あれですね、村長さん。俺ら、川の水ながれるところまで高い金を出して買わされて、その金で東京おっ立ててみても、これ……。それに、あれです、いくらあの川ンとこを測量してみて『買い上げ』てくれと請願しても、村長さんはちっとも、てんではア取りあげてくんなかったし……」
「冗談いってら、あれは君、ちゃアんと俺は村長の職務引き渡しすっとき、後任へ話しておいたぜ。あれをまだ実行せんのかい、しからん奴じゃ。事務怠慢にもほどがある。」
「俺はもう請願するたびに面白くねえ思いするばかりだから、あっさり諦めてますがね。」
「うむ、まアそれもそうだな。人間、なんでも諦めが肝心だって、古人も教えているからな。」
「でも、村長さん、あの時の五十円が、いつか二百円になってますぜ。」
「放っておけば当然……だが君、そう言っちゃなんだが、あの頃出来た君の娘も、いつか十七八になってやしねえのか。」
 儀作ははっと胸をつかれた。そういう前村長が何を意味するか、あまりに判然と、電撃のごとく閃いてきたからである。――村から東京方面へ娘を出かせぎに――泥水商売の女に出している家に限って租税の滞納がない。ことに三人の娘を出している家など、村の事業に相当の寄付さえ惜しまなかったというので、その家を表彰しようじゃないかと言う案を村会へ持ち出したのが、すなわちこの前村長だったのだ。

     四

 季節はあまりに早く推移するように思えてならなかった。いつか、村の前面を迂曲する谷川の氷が割れて冬中だまりとおしたせせらぎが、日一日とつぶやきを高め、ついにそれは遙かに人家の方へまで淙々のひびきを伝えて来るまでになってしまった。山々の雪が解け出したのだ。春四月にもなれば毎年きまって繰返される自然の現象ながら、村人には、その大地の底から湧き起るような遠いとどろきと雪解の黒い山肌とは、何かしらじっとしておれないどよめきを感じさせずにいなかった。
 人々は炉辺から起ち上る。そして真っ先に冬季中、山で焼かれた炭を運び出すべき時節であった。ところが今年は、その炭運びのための肝心の馬の使えない家が――当の馬奴うまめうまやの中で早く戸外へ出たくて眼色をかえ、張りきって土間を足騒いているにも拘らず、――そこにもここにも出現していた。
 栗林儀作のところも無論その中の一軒だった。儀作は雪解の泡立つ流水を落している川瀬の音に頭脳をもみくちゃにされ、青々と色づいた山々や、柔かい大空、中腹の段々畑の土がひょこり、ひょこりと真っ黒に、一日ごとに現れ出るのなどを眺めやるたびごとに眼がくらくらしてきて、ついに、口に出して言ってしまう。
「畜生、二百円が馬と転んだか――」
 覚悟はしていたものの、督促の期限がきれて執達吏から牝馬の差押さしおさえを食わされたとき、彼はその結果に、いまさらびっくりせずにいられなかった。五十円の借金が十六七年もすればそれ位になるのは、前村長の言い草ではないが、まア当然……それはあえて怪しまないが、村の巡査と共にやって来た役人が、家財道具など物色したが、結局、二百円なにがしに相当するものは、厩にもそもそと藁を食っている一匹の動物しかないことを確かめて、口先で何か断りを言いながら、それに封印して去ったあと、彼は、はじめて胸が破れるほど打っていたのを知ったのであった。
 第一、炭運びが出来やしない、書き入れ時だというのに。そればかりでなく、戦時下の増産計画で、共同馬耕をつい先日協議したが、それも……村では、牡馬はよほどのよぼよぼでない限り、とうに徴発されてしまって殆んど残っていなかったのだ。
 結局、どうしてここを切りぬけたらいいのか。
「……やはり、娘に助けて貰うことにしたって――」その日一日、ぽかんとして家の周りをぶらついていた翌朝、彼の耳へ、今もってぶらぶらしている女房からそんなことが伝えられた。洋服を着た周旋屋がきょろきょろと隣村の停車場から下車して、この部落へも姿を現すのを彼とて知らぬわけはなかった。軍需景気で、東京方面ではそういうものがいくらでも必要だということも。
 しかし、儀作は女房の一言にかっとなって、
「ばかッ」とどなった。
「ばかッ、そういうまねは、流れ者か、碌でなしのすることで、れっきとした先祖代々からの百姓のすることだねえど。この青瓢箪。」
「でもそんなことを言ったって、馬にゃ換えられめえ。」
「ばかッ……」
「俺、お美津にきいて見ッから。」
 お美津はそのとき、封印された馬に新しい切藁を与えていた。飼葉桶を内側へ入れようとすると、馬はいつものように鼻で言葉をいうように首を押しつけてくる。「こら、そんなことして……これ、汚れるからやだよ。――そんなことしねえたって、やるからそれ……あら、こんなによだれだらだら、俺げくっつけて……」
 それからお美津は、厩の前を掃除して、その掃き屑を塵取りに入れ、屋敷のすみの柿の木の下へ掘った穴へ棄てにゆく。鶏の群が何か餌でもくれるのかと思って、ぞろぞろとそのあとを追う。ねんねこ絆纏をまだ脱ぎもせず、長い、雪に埋もれた冬の間、火もない土間で、夜まで繩をなったために、手は霜焼けに蔽われ、髪の毛はかさかさにほおけ立って見える。十七とはいえ、まだ女にならぬであろう小さい臀部が――
「ばかッ、聞いてみなくたっていい。」
「清作さんら家の、おみさも行くというし、あれも、たしか、うちのお美津と……」
「いいから、そんなこと、つべこべ……」
 儀作は女房めがけて一撃を加えたい衝動にかられてきたので、急いで厩の前の、お美津がいまのいま掃除した地面の上へ大きな足あとをつけて馬の方へ歩みよった。仔馬のうちから自分の子供のようにして育て上げた鹿毛の奴が、ふうっと鼻息を一つ彼へ吹っかけ、例によってお愛想に低く啼いて、眼をうるませるのを見ると、儀作のむかむかしていた胸は少しく鎮静した。
 厩の前には、すでに油をくれて、挽き出すばかりに用意された、荷馬車が置いてあった。儀作は何ということなしに、その重い車体を少し持ち上げて、それから一方の車輪に手をかけ、くるくるとそれを廻してみた。すると鹿毛は、いよいよ山へ行けるのかと言うように、飼葉桶を首ではね退け、片肢でかっかっと地面を蹴り出した。
「間抜けめ、そんなことをしたって、こン畜生……、その判コの捺さった紙、見えねえのか。」
 儀作はなおも車輪を廻していたが、やがてぷいと門口から出て行った。

底本:「犬田卯短編集二」筑波書林
   1982(昭和57)年2月15日第1刷発行
入力:林 幸雄
校正:松永正敏
2007年12月8日作成
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