名古屋へ行つた年の夏だから、女学校一年の夏である。
 東京へいらしつたお帰りに、すみ子叔母様が名古屋へお立寄りになつた。
 そしてお帰りに「千代ちやん一しよに行かない?」とおつしやつた。
「帰りは芳子と一しよに帰ればいゝから……」と云つて下さつたし、神戸のお家でいつかピアノを弾かして頂いたことを思ひ出し、何の気なしに「行く」と云つてしまつた。
 ほんの一時の出来心ではあつたが、ピアノがひける嬉しさに私は喜んで汽車に乗つた。名古屋から神戸までである。直に着いてしまつた。
 しかし途中は、その少し前にあつた風水害で土がうづ高くつまれてをり、また水びたしの所などもあつて、少し私に里心をおこさせた。お迎への伯父様や、芳子ちやん、信ちやん、康ちやんと神戸のお家についたのは、もう夕方に近かつた。
 着いて荷物もおちつけて、坐つてみると又なんとさみしいのであらう。
 叔母様と芳子ちやんはお台所、叔父様は新聞をよんでいらつしやる。信ちやん康ちやんもそれ/″\何かしていらした。私は一人ポツンと坐つて何かおちつかない気持でゐた。夕方の臭ひがして来る。私は家の皆のことを思ひ出してゐた。
「今頃みんな何してゐるだらう……夕食の用意してるのかなあ、お父様はお帰りになつただらうか」
 それからそれへと考へ始めると、私はもうたまらなくなつた。無性に帰りたくなつた。
 私はほんとにたまらなく淋しく、不覚にも涙さへ出てくるのだつた。とび出しても帰りたかつた。
 その中にお夕飯が始まつた。御馳走もちつとも美味しいとは思はなかつた。皆さんはほんたうに朗らかで、いろ/\と私のことも気をつかつて下さり、客としてこんな居心地のいゝおもてなしは中々ないほどの厚遇をうけながら、やつぱり私はほんたうに皆さんと一つになり切らなかつた。叔父様叔母様の朗らかな、やさしいお態度、芳子ちやんや信ちやん方のしたしい、仲のよい御様子をみるにつけても、なにかこの場にそぐはない、自分だけ違ふ者の様な気がしてならなかつた。
 しかし、それも始めのうちだけで、段々皆さんの親切なおもてなしのうちに、知らずにつりこまれて笑ひもし、遊びもした。その中に阪神地方は二度目の風水害におそはれ、毎日毎日いやな雨がびしよ/\とふりつゞき、不気味な風が吹きあれた。お家はすごい高台だから水の心配はなし、昼間は遊びにとりまぎれて、さほど淋しいとも思はなかつたが、夜になると必ずあばれ出す雷には閉口した。
 雨戸がないからガラス戸をとほしてピカツ、ピカツ/\ツと青白い電光がお部屋中を気味悪くてらす。(光ツた!…)と思ふや否や、パリ/\/\ツといふ様なものすごい音がして、ズーンと地ひゞきがする。只でさへ大きらひな雷だが、山の雷だから、そのものすごいことお話にならぬ。コワいのと、さびしいのとで、私はねむるどころのサワギではない。毎晩、毎晩フトンを頭からかぶつては、桑原々々で夜あかしをする。平気でねられる芳子ちやんが羨しくてならなかつた。
 淋しさの方はもつと猛烈であつた。
 それでなくとも甘えツ子の内辨慶の私へ、大あらしに山の雷と来ちやあ、いかにこゝがすみよくても、落着いてゐられないのもむりではなからう。
 私がジリ/\してゐるのに嵐は中々立ち去らず、私は悶々とした日々を送つてゐた。
 叔母様も雨の合間々々をみては方々案内して下さつたが、或る日、私は思ひがけぬ所へつれて行つて頂いてしまつた。
「出かけますよ」とおつしやるので、私もどこへ行くのかわからぬまゝに、叔母様と芳子ちやんとについて行つた。
「どこへ行くの?」私が芳子ちやんに伺ふと「エ? 今日? 宝塚よ」芳子ちやんは事もなげにさうおつしやつた。私は思はずドキツとした。だまつてびつくりした眼をあげた。
 タカラヅカ……。さあ大変なことになつちやつた。叔母様はタカラヅカへつれて行くとおつしやる。私はほんとに困つた。どうしようかと思つた。折角おつしやつて下さるのにイヤとも云へない。私の足は重くなりがちだつた。家ではお父様もお母様もさういふものをお好みにならない。だから宝塚だとか、お芝居だとかは、生れてまだ一度もつれて行つて頂いたことがない。映画でさへ年に何度と数へるほどしかないのだもの。
 だから私たちも又行きたいなどゝ一寸も思はなかつた。お母様方が止むを得ずお出かけの時でも「大きくなつたらつれてつて上げますからね」と云はれて、それを一寸とも不思議と思はなかつた。
 さういふものは大人のみるもの、子供がみてはならないもの、そんな風に信じてゐた。だから今、お父様お母様のお許しも得ずに、さういふものをみるのは、何かとても悪い事をする様で心配で/\ならなかつた。(いゝだらうか。お許しもないのに。……いつそわけをお話して止めさせて頂かうか……)私は道々さう考へて憂ウツでたまらなかつた。
 宝塚といふ駅で降りる。実に大変な人の波だ。これがみんな……と思ふと何だか情なくなり、又自分もその一人なんだと思ふと腹立だしくなつて勢ひ無愛想になつた。
「ホラ、あそこに行く人ね、頭を男みたいに刈つた人。あゝいふのが歌劇をするのよ」などと親切に教へて下さる叔母様や芳子ちやんのお言葉にも、
「ヤーねー。どうして男のまねなんかするんでせう」などと、わざと反抗的なことを云つてしまつたりする。
 広い劇場へ這入つて、(ヨシ、私は目をつぶつてみまい。さうすればお父様やお母様のお云ひつけに反かないだらう)と思つた。
 そして、始めの中は叔母様や芳子ちやんにわからない様に、そつと眼をつぶつてゐた。しかし眼をつぶつてゐるにはあまりに長すぎて、たうとう私は心ならずも歌劇をみてしまつた。何だかきれいではあつたが、さつぱりわからなかつた。始めの中こそ、お許しを得てゐないことが気がゝりで、眼は舞台をみながら心は悶々としてたのしめなかつたけれど、やつぱり美の幻惑にまどはされて、終には本当に観てしまふのだつた。
 しかし、終つてみるとあんなことを云ひながら、美に魅了されてしまふ自分が妙に腹立たしくなつて、又々叔母様や芳子ちやんに反抗的な無愛想な態度をしめしてしまふのだつた。

 やつとのことで汽車も通る様になり、私はとび立つ思ひで名古屋へ帰つて来た。
 迎へに来て下さつたお母様が自動車へ乗る時に、「ドウ? 始めて歌劇といふものをみせて頂いて面白かつたでせう?」とおつしやつた。
 私は不思議な気持で暫くマジ/\とお母様の顔を見上げてから、(ナーンダ、お母様は許して下さつてたのカー)と心の中でやつと安心した。
 そしてみていゝんだつたら、もつと楽しんで叔父様や叔母様の御好意に充分お報いするのだつたと思つた。
 今も叔母様におあひすると、せつかくの御好意をふみにじつて、あんな生意気な反抗的な態度さへして、どんなにお気持悪くなさつたらうと頭の上らぬ思ひがする。
 あの場合、許して頂けないものであつたとしても、御好意は御好意として受けて充分感謝の気持を表はすべきであつたのに、浅はかな生意気心から、反つて御厚志をふみにじつてしまつたことを考へると申し訳なくてたまらない。
 この思ひ出は、どう考へても恐縮の至り、赤面の極みである。

底本:「みの 美しいものになら」四季社
   1954(昭和29)年3月30日初版発行
   1954(昭和29)年4月15日再版発行
入力:鈴木厚司
校正:林 幸雄
2008年2月27日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。