あらすじ
ある日、かつて塩谷家の家来であった伊右衛門は、かつての同僚である直助と再会する。直助は、伊右衛門が殺した四谷左門の娘お岩の幽霊が、伊右衛門を恨み、隠亡堀で姿を現すという噂を語り、伊右衛門はそれを笑い飛ばす。しかし、伊右衛門が隠亡堀で釣りをしていると、お岩の死体が現れ、伊右衛門は恐怖に襲われる。そして、お岩の死体に続いて、かつて伊右衛門に殺された小平の死体も現れる。伊右衛門は二人の幽霊の要求を拒否し、死体を白骨化させる。だが、二つの死骸は、再び現れ、今度は伊右衛門を恨むのではなく、互いに愛し合う言葉を交わす。そして、二つの死骸は、板戸に乗って流れ去っていく。
       一

「伊右衛門(いえもん)さん、久しぶりで」
 こう云ったのは直助(なおすけ)であった。
 今の商売は鰻掻(うなぎかき)であった。
 昔の商売は薬売であった。
 一名直助権兵衛(ごんべえ)とも呼ばれた。
「うん、暫く逢わなかったな」
 こう云ったのは伊右衛門であった。
 昔は塩谷家(えんやけ)の家来であった。
 今は無禄の浪人であった。
「考えて見りゃあお前(めえ)さんは、私に執(と)っちゃあ敵(かたき)だね」
 一向敵でも無さそうに、にやにや笑い乍(なが)ら直助は言った。
「洒落(しゃれ)かい、それとも無駄なのか」伊右衛門には興味も無さそうであった。「洒落にしちゃあ恐ろしい不味(まず)い。無駄にしちゃあ……いかにも無駄だ」
「でもね伊右衛門さん、そうじゃあ無いか。私の女房の姉というのは、四谷左門(よつやさもん)の娘お岩(いわ)、その左門とお岩とを、お前さんは文字通り殺したんだからね」
「そうとも文字通り殺したよ。お岩を呉(く)れろと云った所、左門奴(め)頑固に断わったからな。それで簡単に叩(たた)っ切ったのさ」
「でも何(ど)うしてお岩さん迄?」
「うん、増花(ますはな)が出来たからよ」
「伊藤喜兵衛(いとうきへえ)のお嬢さんが、惚れていたとは聞いていたが」
「お梅(うめ)と云って別嬪(べっぴん)だった」
「お岩さんより可(よ)かったんだね?」
「第一若くて初心(うぶ)だったよ。子を産みそうな女ではなかった。玩具(おもちゃ)のような女だったよ」
「へへえ、そこへ打ち込んだんだね!」
「何しろお岩は古女房、そこへ持って来て子を産みやあがった。どうもね、女は子を産んじゃあ不可(いけ)ねえ。ひどく窶(やつ)れてみっともなくなる。肋骨(あばらぼね)などがギロギロする。尤(もっと)も金持の家庭なら、一人ぐらいは可(い)いだろう。産後の肥立が成功すると、体の膏(あぶら)がすっかり脱けて、却って別嬪になるそうだからな。ところが不幸にもあの時分、俺等(おいら)はヤケに貧乏だったものさ」
「でも、殺さずとも可(よ)かったろうに」
「ナーニ、手にかけて殺したんじゃあねえ。変な具合で自殺したんだ。尤も自分で死ななかったら、屹度(きっと)俺は殺したろうよ」
「恨死(うらみじに)に死んだんだね」
「お説の通りだ、恨死に死んだ」
「で、只今はお梅さんと、仲宜(よ)くおくらしでござんすかえ?」
 直助は古風に冷(ひや)かすように訊いた。
「何さ、お梅も喜兵衛奴(め)も、婚礼の晩に叩っ切って了(しま)った」
 伊右衛門は斯(こ)う云うと苦笑した。
「お梅は何(ど)うでも可(よ)かったが、持参金だけは欲しかった。伊藤の家庭と来たひにゃあ、時々蔵から小判を出して、錆(さび)を落とさなけりゃあならねえ程、うんとこさ金があったんだからなあ」
「だが何(ど)うして殺したんで?」
「時の機勢(はずみ)という奴さ」伊右衛門はひどく冷淡に「お梅の顔がお岩に見え、喜兵衛の顔が小仏小平(こぼとけこへい)、其奴(そいつ)の顔に見えたのでな、ヒョイと刀を引っこ抜くと、コロコロと首が落ちたってものさ」
「ははあ、其奴ぁお岩さんの怨(うらみ)だ」
「世間でもそんなことを云っていたよ」
「でお前さんは何(ど)う思うので?」
「何(ど)う思うとは何を何(ど)う?」
「幽霊が恐くはありませんかね?」
「それより俺は斯(こ)う云い度(た)いのさ。人間の良心というものは、麻痺させようと思えば麻痺出来るとな」
 鳥渡(ちょっと)直助には解らなかった。
 二人は暫く黙っていた。
 此処(ここ)は砂村(すなむら)隠亡堀であった。
 一所(ひとつところ)に土橋がかかっていた。その下に枯蘆(かれあし)が茂っていた。また一所に樋(ひ)の口があった。枯れた苔(こけ)が食(く)っ付(つ)いていた。
 前方(まえ)はドロンとした堀であった。さあ、確に鰻は居そうだ。
 土手の背後(うしろ)に石地蔵があった。鼻が半分欠けていた。慈悲円満にも見えなかった。
 土手の向うは田圃であった。
 稲村が飛び飛びに立っていた。
 それは曇天の夕暮であった。
 茶がかった渋い風景であった。
 芭蕉(ばしょう)好み、そんな景色だ。
 伊右衛門の前には釣棹(つりざお)が、三本が所下ろされてあった。
 その一本がピクピクと揺れた。
「ああ出来た」
 と直助が云った。
 で、伊右衛門は上げてみた。
 一尾の鯰(なまず)が掛かっていた。
 ポンと畚(びく)へ投げ込んだ。
「ところで何(ど)うだい、お前の方は? お袖(そで)と仲宜く暮らしているのか?」
 伊右衛門は斯う云って覗き込んだ。
「それがね、洵(まこと)に変梃(へんてこ)なんで」
 直助は此処で薄笑いをした。

       二

「変梃だって? 何(ど)う変なんだ?」
 伊右衛門は興味を持ったらしい。
「それ、お前(めえ)さんもご存知の通り、お袖(そで)の許婚(いいなずけ)は佐藤与茂七(さとうよもしち)、其奴(そいつ)を私が叩っ切り、敵(かたき)の目付かる其うち中、俺等(おいら)の所へ来るがいいと、斯う云ってお袖を連れて来たんでしょう。ところがお袖奴(め)真(ま)に受けて、許婚の敵の知れる迄は、私に肌身を許さないそうで」
「やれやれ其奴(そいつ)はお気の毒だ。お前にしては気が長いな」
「短くしてえんだが成りそうもねえ」
「構うものか、腕力でやるさ」
「其奴(そいつ)だけは何(ど)うも出来そうもねえ」
「そりゃあ然(そ)うだろう、惚れてるからな」嘲笑(あざわら)うように鼻を鳴らした。「女を占めようと思ったら、決して此方(こっち)で惚れちゃあ不可(いけ)ねえ」
「お談義かね、面白くもねえ」直助はフイと横を向いた。「惚れねえ前なら其お談義、役に立つかもしれねえが、今の私にゃあ役立たねえね」
「じゃあ最(も)う一つ手段がある」
「へえ、もう一つ、聞かして下せえ」
「好む所に応ずるのよ」
「あっさりしていて解らねえ」
「いいか、お袖へ斯う云うのさ。敵を目付けた其上に、助太刀ぐらいはしてやるから、俺の云うことを聞くがいいとな」
「成程、大きに可(い)いかも知れねえ」
「逆応用という奴(やつ)さ」
「今夜あたり遣(や)っ付(つ)けるか」
「ところで何(ど)うだ、稼業の方は?」
「今年は何うやら鰻奴(め)が、上方の方へでも引っ越したらしい。何処(どこ)を漁(あさ)っても獲物がねえ」
「じゃあ随分貧的だろう?」
「顔色を見てくれ、艶(つや)があるかね」
「お袖は何うだ? 顔の艶は?」
「それがさ、俺よりもう一つ悪い」
「つまり栄養不良だな」
「商売物だけは食わせられねえ」
「今夜だけ其奴(そいつ)を食わせてやれ」
「え、鰻をかい? 今夜だけね?」
「そうさ、精力が無かったら、色気の方だって起こるめえ」
「うん、こいつぁ金言だ」
「それ、金言という奴は、行う所に値打がある」
「よしよし今夜だけ食わせてやろう」
「そうだ、其処だよ、今夜だけだ。明日になったら麦飯をやんな」
「麦飯なら毎日食っている」
「おお然(そ)うか、そいつぁ不可(いけ)ねえ。豆腐のからでも食わせるがいい」伊右衛門は此処でニヤリとした。「一旦手中に入れたからは、女は虐(いじ)めて虐め抜くに限る。そうすると屹度(きっと)従(つ)いて来る。手が弛(ゆる)むと逃げ出すぞ」
「悪にかけちゃあお前(めえ)が上だ」
「天井抜けの不義非道」
「首が飛んでも動いて見せるか」
「なにさ、良心を麻痺させる、だけよ」
 また釣棹が動き出した。
 グイと伊右衛門は引き上げた。
「や、南無三、餌(え)を取られた。……それは然(そ)うとオイ直助、今日は鰻は取れたのか?」
「うんにゃ」
 と直助は首を振った。「店で買って食わせる気だ」
「そんなに金があるのかえ?」
「金はねえが料(しろ)がある」懐中(ふところ)から櫛(くし)を取り出した。「先刻(さっき)下ろした鰻掻、歯先に掛かった黒髪から、こんな鼈甲(べっこう)が現われたってやつさ」
「おや」
 と伊右衛門は眼を見張った。「たしか其奴(そいつ)はお岩の櫛!」
「いけねえいけねえ」と懐中(ふところ)へ隠した。「ふてえ分けはご免だよ」
 のいと直助は立ち上った。
「それじゃあ旦那、また逢おう」
 愉快な空想に耽り乍(なが)ら、直助は飛ぶように帰って行った。
 夕暮れがヒタヒタと迫って来た。
 遠景が仄(ほのか)に暈(ぼか)された。
 夜と昼との一線が来た。
「どれ棹を上げようかい」
 何か樋の口から流れ出た。
 菰(こも)を冠(かぶ)った板戸であった。
「覚えの杉戸」
 と伊右衛門は云った。
 手を板戸の角(すみ)へかけた。グーッと足下へ引き上げた。
 バラリと菰を刎(は)ね退(の)けた。
 お岩の死骸が其処にあった。
 肉が大方落ちていた。眉間が割れて血が出ていた。片眼が瘤(こぶ)のように膨れ上がっていた。
 と、死骸が物を言った。
「民谷(たみや)の血筋……伊藤喜兵衛が……根葉を枯らして……この身の恨み……」
 伊右衛門は高尚(ノーブル)に反問した。
「ははあ、白(せりふ)は夫(そ)れだけで?」
 お岩の片眼が大きくなった。

       三

「もう是(これ)で三回目だ」
 伊右衛門は却って気の毒そうに言った。「実際幽霊というような物も、一回目あたりは恐ろしいよ。二回目となると稀薄になる。三回も出られると笑い度(た)くなる。お岩さん不量見は止(や)めたがいい。四回も出ると張り仆(たお)すぜ。五回出ようものなら見世物にする。……」
 クルリと板戸を翻えした。
 一杯に水藻を冠っていた。
「俺には大概見当が付く、水藻を取ると其下に、小平の死骸があるだろう。生前間男の濡衣(ぬれぎぬ)を着せ、――世間へ見せしめ、二人の死骸、戸板へ打ち付け、水葬礼――ふん、そいつにしたんだからなあ。だって小平が宜(よ)くねえからよ。主人の病気を癒(なお)すは可(い)いが、俺の印籠を盗むは悪い」
 ダラダラと水藻を払い落とした。
 果たして小平の死骸があった。
 死骸はカッと眼を剥(む)いた。
「お主(しゅ)の難病……薬下せえ」
「うんにゃ」
 と伊右衛門はかぶりを振った。
「俺は要求を拒否するよ。俺にだって薬は必要だからな」
 足を上げて板戸を蹴った。
 死骸がバラバラと白骨になった。
「手品としては不味(まず)くない。だがね。恐怖を呼ぼうとするには、もう一段の工夫が入(い)る」
 突然鬼火が燃え上った。
 伊右衛門は刀へ手を掛けた。いやいや抜きはしなかった。
 剛悪振りを見せようとして、グイと落差にした迄であった。
「ふんだんに燃やせよ、焼酎火をな」
 非常にゆっくりした足取りで、伊右衛門は町の方へ帰って行った。
 後はシーンと静(しずか)であった。
 と、堀から人声がした。
「伊右衛門は度胸が据わったねえ」
 それは女の声であった。
「困ったものでございます」
 それは男の声であった。
 板戸の上下で話しているらしい。
 お岩と小平の声らしい。
「さあ、是から何(ど)うしよう」
「ああも悪党が徹底しては、どうすることも出来ません」小平の声は寂しそうであった。
「恐がらないとは不思議だねえ」お岩の声も寂しそうであった。
 水面に板戸が浮かんでいた。
 闇が其上を領していた。
 死骸の声は沈黙した。
 手近で鷭(ばん)の羽音がした。
「こうなっちゃあ仕方が無いよ。迚(とて)も無理には嚇(おど)せないからね」お岩の声は憂鬱(ゆううつ)であった。
「あべこべに私達が嚇されます」小平の声も憂鬱であった。
「ねえ小平さん」
 とお岩の声が云った。「もう祟(たた)るのは止めようよ」
「止むを得ませんね、止めましょう」
 お岩の声が恥しそうに云った。
「妾(わたし)、そこでご相談があるの。……濡衣を真実(ほんと)にしましょうよ」
「え」と云った小平の声には、寧(むし)ろ喜びが溢れていた。「あの、それでは、私達二人が」
「そうよ、夫婦になりましょうよ」
「大変結構でございまする」
「これには伊右衛門も驚くだろうね」
「こんな事でもしなかったら、彼奴(あいつ)は吃驚(びっく)りしますまい。……だが最(も)う私達は伊右衛門のことなど、これからは勘定に入れますまい」
 此処で声が一時止んだ。
 骨の軋(きし)む音がした。
 板戸を隔てた二つの死骸がどうやらキッスをしたらしい。
 ユラユラと板戸は動き出した。
「嬉しいのよ、小平さん」
「ああ私も、お岩さん」
 ユラユラと板戸は流れ出した。
 南無幽霊頓生菩提(なむゆうれいとんしょうぼだい)!
 お岩さんとそうして小平さん、
 彼等は正(まさ)しく成仏した。
 下流の方へ流れて行った。
 鬼火だけが燃えていた。
 真暗の夜を青い顔をして、上下左右に躍っていた。
 何を一人で働くのだ。
 消えろ消えろ! とぼけた鬼火だ!
 幕の閉じたのを知らないのか。
了

底本:「怪奇・伝奇時代小説選集2」春陽文庫、春陽堂書店
   1999(平成11)年11月20日第1刷発行
初出:「大衆文藝」
   1926(大正15)年6月
入力:阿和泉拓
校正:noriko saito
2007年11月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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