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ドモ又の死
(これはマーク・トウェインの小話から暗示を得て書いたものだ)
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 人物

花田          ┐
沢本 (諢名あだな生蕃せいばん)  │
戸部 (諢名、ドモまた) ├若き画家
瀬古 (諢名、若様)  │
青島          ┘
とも子   モデルの娘

 処

画室

 時

現代 気候のよい時節
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沢本と瀬古とがとも子をモデルにして画架に向かっている。戸部は物憂そうに床の上にころんでいる。
沢本  (瀬古に)おい瀬古、ドモ又がうなっているぞ、死ぬんじゃあるまいな。
瀬古  僕も全くうなりたくなるねえ、死にたくなるねえ。……ともちゃん、おまえもおなかがすいたろう。
とも子 もう物をいってもいいの、若様。
瀬古  いいよ。おなかがすいたろう。
とも子 そんなでもないことよ。
戸部うなる。
どうしたの、戸部さん、あなた死ぬとこなの。まだ早いわ。
瀬古  ともちゃんはここに来る前に何か食べて来たね。
とも子 ええ食べてよ、おはぎを。
沢本  黙れ黙れ。ああおれはもうだめだ。(腹をかかえる)つばも出なくなっちまいやがった。
瀬古  ふうん、おはぎを……強勢ごうせいだなあ、いくつ食べたい。
とも子 まあいやな瀬古さん。
瀬古  そうしておはぎはあんこのかい、きなこのかい、それとも胡麻ごま……白状おし、どれをいくつ……
沢本  瀬古やめないか、俺はほんとうに怒るぞ。ひもじい時にそんな話をするやつが……ああ俺はもうだめだ。三日食わないんだ、三日。
瀬古  沢本は生蕃だけに芸術家として想像力に乏しいよ。僕が今ここにおはぎを出すから見てろ――じゃない聞いてろ。ともちゃんが家を出ようとすると、お母さんが「ともや、ここにこんなものが取ってあるから食べておいでな」といって、ねずみ入らずの中から、ラーヴェンダー色のあんこと、ネープルス・エローのきなこと、あのヴェラスケスが用いたというプァーリッシ・グレーの胡麻……
戸部うなり声を立てる。
沢本  だから貴様は若様だなんて軽蔑けいべつされるんだ。そんなだらしのない空想が俺たちの芸術に取ってなんの足しになると思ってるんだ。俺たちは真実の世界に立脚して、根強い作品をつくり出さなければならないんだ。だから……俺は残念ながら腹がからっぽで、頭まで少し変になったようだ。
とも子 生蕃さんはふだんあんまり大食いをするから、こんな時に困るんだわ。……それにしてもどうしてここにいる人たちのはこんなに売れないんでしょうねえ。
沢本  わかり切っているじゃないか。俺たちがりっぱなものを描くからだ……世の中の奴には俺たちの仕事がわからないんだ……ああ俺はもうだめだ。
瀬古  ともちゃん、そのおはぎの舌ざわりはいったいどんなだったい……僕には今日はおはぎがシスティン・マドンナの胸のように想像されるよ。ともちゃん、おまえのその帯の間に、マドンナの胸の肉を少しばかり買う金がありゃしないか。
とも子 なかったわ。私ずいぶん長い間なんにももらわないんですもの。
瀬古  許しておくれ、ともちゃん、僕たちはおまえんちの貧乏もよく知ってるんだが……
沢本  悪い悪い。そんなに長くなんにも君にやらなかったかい。俺たちは全く悪いや。待てよ、と。ない。ないはずだ。今ごろやる物があるくらいならとおの昔にやっているんだ。
戸部  お母さん怒らないか。
とも子 たまにいやな顔はしてよ。
戸部  じゃ君は、もうここには寄りつかなくなるね。(うなる)
とも子 そんなこと……よけいなお世話よ。私のしたいようにするんだから。
沢本  瀬古の若様がひかえている間は大丈夫だが……
とも子 人聞きの悪い……よしてください。
戸部うなる。
瀬古  ともちゃん、頼むから毎日来ておくれ。頼むよ。僕たちは一人残らずおまえを崇拝しているんだ。おまえが帰ると、この画室の中は荒野同様だ。僕たちは寄ってたかっておまえを讃美さんびして夜をかすんだよ。もっともこのごろは、あまり夜更かしをすると、なおのこと腹がすくんで、少し控え気味にはしているがね。
とも子 なんて讃美するの。ともの奴はおかめっつらのあばずれだって。
瀬古  だが収入がなくっちゃおまえんちも暮らせないね。
とも子 知れたこってすわ、馬鹿ばか馬鹿しい。
沢本  じゃやはりドモ又がいったように、君はどこかに岸をかえるんだな。
とも子 さあねえ。そうするよりしかたがないわね。私はいったい画伯とか先生とかのくっ付いた画かきが大きらいなんだけれども、……いやよ、ほんとうにあいつらは……なんていうと、お高くとまる癖にひとのからだにさわってみたがったりして……けれどもお金にはなるわね。あなたがたみたいに食べるものもなくなっちゃ私は半日だってやり切れないわ。大の男が五人も寄ってる癖に全くあなたがたは甲斐性かいしょうなしだわ。
戸部  畜生……出て行け、今出て行け。
とも子 だからよけいなお世話だってさっきも言ったじゃないの。いやな戸部さん。
くやしそうに涙をためる)
戸部うなる。
言われなくたって、出たけりゃ勝手に出ますわ、あなたのお内儀かみさんじゃあるまいし。
戸部  俺たちの仕事が認められないからって、裏切りをするような奴は……出て行け。
瀬古  腹がすくと人は怒りっぽくなる。戸部の気むずかしやの腹がすいたんだから、いわばペガサスに悪魔が飛び乗ったようなもんだよ。おまえ、気を悪くしちゃいけないよ。
とも子 だって戸部さんみたいなわからず屋ってないんだもの。画なんてちっとも売れない画かきばかりの、こんなきたない小屋に、私もう半年の余も通っていてよ。よほどありがたく思っていいわけだわ。それを人の気も知らないで……
戸部  貴様は(瀬古を指さして)こいつの顔が見たいばかりで……
とも子 焼餅やきもちやき。
戸部  馬鹿。(うなる)
沢本  ああ俺はもうだめだ。死ぬくらいなら俺は画をかきながら死ぬ。画筆を握ったままぶっ倒れるんだ。おい、ともちゃん、悪態をついてるひまにモデル台に乗ってくれ。……それにしても花田や青島の奴、どうしたんだ。
瀬古  全くおそいね。計略を敵に見すかされてむざむざと討ち死にしたかな。いったい計略計略って花田の奴はなにをする気なんだろう。
沢本  おい、ともちゃん……乗るんだ。君は俺たちのモデルじゃないか。若様もけよ。
瀬古  うん描こう。いったい計画計画って……おい生蕃、ガランスをくれ。
沢本  その色こそは余がなんじに求めんとしつつあったものなのだ。貴様のところにもないんか。
とも子 ドモ又さんもお描きなさいな。人ってものはうなってばかりいたってお金にはならないわ、自動車じゃあるまいし。
沢本  ドモ又ガランスを出せ。
戸部  (自分の画箱のほうに這いずって行って中を捜しながら)ない。
瀬古  ペガサスの腰ぬけはないぜ。おまえも起き上がって描けよ。花田の画箱はどうだ。(隣の部屋へやから画箱を持ち出して捜しながら歌う)
「一本ガランスをつくせよ
空もガランスに塗れ
木もガランスに描け
草もガランスに描け
天皇もガランスにて描き奉れ
神をもガランスにて描き奉れ
ためらうな、恥じるな
まっすぐにゆけ
汝の貧乏を
一本のガランスにて塗りかくせ」

村山槐多かいたも貧乏して死んだんだ。あああ、あいつの画箱にもガランスはなかったろうな。描き奉ってしまったんだから。
「天にまします我らの神よ」途中はぬかします。「我らに日用のかてを今日も」じゃない「今日こそは与えたまえ」。ついでに我らにガランスを与えたまえ。あとは腹がへっているからぬかします。「アーメン」。ええと我らにガランスを与えたまえ。ガランスを与えたまえ。我らに日用の糧を与えたまえ。(銀紙に包んだものを探り出す)我らに(銀紙を開きながら喜色を帯ぶ)日用……糧を……我らに日用の糧を……(急におどり上がって手に持った紙包みをふりまわす)……ブラボーブラボーブラビッシモ……おお太陽は昇った。
一同思わず瀬古の周囲に走りよる。
沢本  食えそうなものが出てきたんか。
戸部  ガランスか。
瀬古  沢本、おまえはさもしい男だなあ、なんぼ生蕃と諢名あだなされているからって、美術家ともあろうものが「食えそうなもの」とはなんだね。
沢本  食えそうなものが出てきたんかといっただけで、なんでさもしい。ああ俺はもうだめだ。食えそうなものなんて言ったらだめになった……畜生、俺は画を描く。ガランスがなけりゃ血で描くんだ。
画架のほうに行きかける。
瀬古  いい覚悟だ。そこでともちゃん、これをなんだと思う。これはもったいなくもチョコレットの食い残りなんだ。
沢本と戸部と勢い込んで瀬古にせまる。
戸部  俺によこせ。
瀬古  これはガランスじゃないよ。
戸部  ガランスかって聞いたのは、ガランスだと困ると思ってそう聞いたんだ。俺はガランスくらいほしくはない。それは俺のだ。俺によこせ。
沢本  ガランスがなけりゃ、俺だって食えそうなものを辞退するわけじゃないぞ。ドモ又いいかげんをいうな。これは俺んだ。
瀬古  そうがつがつするなよ。待て待て。今僕が公平な分配をしてやるから。(パレットナイフでチョコレットに筋をつける)これで公平だろう。
沢本  四つに分けてどうするんだ。
瀬古  (沢本と戸部にチョコレットを食いかかせながら)最後の一片はもちろん僕たちの守護女神ともちゃんにささげるのさ。僕はなんという幻滅の悲哀を味わわねばならないんだ。このチョコレットの代わりにガランスが出てきてみろ、君たちはこれほど眼の色を変えて熱狂しはしなかろう。ミューズの女神も一片のチョコレットの前には、醜い老いぼればばあにすぎないんだ。(こんどは自分が食いかく)ミューズを老いぼれ婆にしくさったチョコレットめ、芸術家が今復讐ふくしゅうするから覚悟しろ。(ぼりぼりとうまそうに食う。とも子のほうに向け最後の一片をさし出しながら)ともちゃん、さあ。
とも子 まあいやだ、だれがひとの食べかいたものなんか食べるもんですか。
瀬古  (驚いたようすをしながら)え、食べない。これを。食べないとはおまえ偉いねえ。おまえの趣味がそれほどノーブルに洗練されているとは思わなかった。全くおまえは見上げたもんだねえ。おまえは全くいい意味で貴族的だねえ。レデイのようだね。それじゃ僕が……
沢本と戸部とが襲いかかる前に瀬古いち早くそれを口に入れる。
瀬古  来た来た花田たちが来たようだ。早く口をぬぐえ。
花田と青島登場。
花田  (指をぽきんぽきん鳴らす癖がある)おまえたちは始終俺のことを俗物だ俗物だといっていやがったな。若様どうだ。
瀬古  僕は汚されたミューズの女神のために今命がけの復讐をしているところだ。待ってくれ。(口をもがもがさせながら物を言う)
花田  貴様、俺のチョコレットを食ってるな。この画室にはそのほかに食うものはないはずだ。俺はそれを昨日画箱の中にちゃんとしまっておいたんだ。
沢本  隠し食いをしておきながら……貴様はチョコレットで画がけるとでも思ってるんか。神聖なる画箱にチョコレットを……だから貴様は俗物だよ。
花田  なんとでもいえ。しかし俺がいなかったら、おまえたちは飢え死にをするよりしかたないところだったんだ。
沢本  まあいいから、貴様の計画というものの報告を早くしろ。
花田  そうだ。ぐずぐずしちゃいられない。おい青島、堂脇どうわき九頭竜くずりゅうの奴といっしょに来るといってたか。
青島  そんなことをいってたようだ。なにしろ堂脇のお嬢さんていうのには、俺は全く憧憬どうけいしてしまった。その姿にみとれていたもんで、おやじの言葉なんか、半分がた聞き漏らしちゃった。
沢本  馬鹿。
青島  あの娘なら芸術がほんとうにわかるに違いない。芸術家の妻になるために生まれてきたような処女だ。あの大俗物の堂脇があんな天女を生むんだから皮肉だよ。そうしてかの女は、芸術に対する心からの憧憬を踏みにじられて、ついには大金持ちの馬鹿息子のところにでも片づけられてしまうんだ……あんな人をモデルにつかって一度でも画が描いて見たいなあ。
瀬古  そんなか。
青島  そんなだとも。
とも子 今日はもう私、用がないようだから帰りますわ。
戸部  俺に用があるよ。くだらないことばかりいってやがる。俺が描くから……
とも子 またうなりを立てて、床の上にへたばるんじゃなくって。
戸部  いいから……こいつら、うっちゃっておけ。
戸部ひとりだけ、とも子をモデルにして描きはじめる。その間に次の会話が行なわれる。
花田  全くともちゃんに帰られちゃ困るよ。青島、貴様よけいなことをいうからいかんよ。……とにかくみんな気を落ちつけて俺の報告を聞け。ドモ又もともちゃんも、そこで聞いてるんだぜ……待てよ。(時計を出して見ようとして、なくなっているのを発見)時計もセブンか。セブンどころじゃないイレブンくらいだろう。もういそがないと間に合わない。今朝俺は青島と手分けをして、青島は堂脇んちの庭に行き、俺は九頭竜の店に行った。とてもたまらない奴だ。はじめの間は、なかなか取りつく島もなかったが、とうとう利をもっておびき出してやった。名は今ちょっといえないが私どもの仲間に一人、ずぬけてえらい天才がいる。油でもコンテでも全然抜群で美校の校長も、黒馬会の白島先生も藤田先生も、およそ先生と名のつく先生は、彼の作品を見たものは一人残らず、ただ驚嘆するばかりで、ぜひ展覧会に出品したらというんだが、奴、つむじ曲がりで、うんといわないばかりか、てんで今の大家なんか眼中になく、貧乏しながらも、黙ってこつこつと画ばかり描いていた。だから世間では、俺たちの仲間のほかに、奴のことを知ってるものは一人だっていやあしない。
沢本  うん全くそれはそのとおりだ。
花田  ところがその男が貧にせまり、飢えに疲れてとうとう昨日死んでしまった。
沢本  馬鹿をいうない。俺はとにかくまだ生きてるぞ。
花田  誰が死んだのはおまえだってそういったい……ところで俺たちは実に悲嘆に暮れてしまった。いったい俺たちが、五人そろって貧乏のどんづまりに引きさがりながらも、鼻歌まじりで勇んで暮らしているのは、誰にもあずけておけない仕事があるからだ。その仕事をし遂げるまでは、たとい死に神が手をついて迎えに来ても、死に神のほうをたたき殺すくらいな勢いでやっているんだ。その中でもがんばり方といい、力量といい一段も二段も立ちまさっていたのは奴だった。東京のすみっこから世界の美術をひっくり返すような仕事が出るのを俺たちは彼において期待していた。だのに、あまりにすぐれたものは神もねたむのだろう。奴は倒れてしまった。奴は火だった。ほのおだった。奴の燃えることは奴の滅びることだったんだ。
戸部  貴様そういったか。
花田  うむ。
戸部  よくいった。
花田  俺はまだこうもいった。奴には一人の弟があって、その弟の細君というのが、心と姿との美しい女だった。そうしてその女が毎日俺たちの画室に来てモデルになってくれた。俺たちのような、物質的には無能力に近いグループのために尽くしてくれるその女の志は美しいものだった。奴はひそかにその弟の細君に恋をしていた。けれども定められた運命だからどうすることもできない。奴は苦しんだ。そしてその苦しみと無限のさびしみとを、幾枚もの画に描き上げた。風景や静物にもすばらしいのはあるが、その女の肖像画にいたっては神品だというよりほかに言葉がない。
瀬古  おいおいそれはだれの事だい。ともちゃん、おまえ覚えがある。
花田  まあ、あとでわかるから黙って聞け。……ところで、奴が死んでみると、俺たち彼の仲間は、奴の作品を最も正しい方法で後世にのこす義務を感ずるのだ。ところで、俺は九頭竜にいった。いやしくもおまえさんが押しも押されもしない書画屋さんである以上、書画屋という商売にふさわしい見識を見せるのが、おまえさんのほまれにもなるし沽券こけんにもなる。ひとつおまえさんあれを一手に引き受けて遺作展覧会をやる気はありませんか。そうしたら、九頭竜の野郎、それは耳よりなお話ですから、私もひとつ損得を捨てて乗らないものでもありませんが、それほど先生がたがおほめになるもんなら、展覧会の案内書に先生がたから一言ずつでもお言葉を頂戴ちょうだいすることにしたらどんなものでしょうといやがった。
瀬古  僕はいやだよ、そんなのは。僕らの芸術に先生がたの裏書きをしてもらうくらいなら、僕は野末でのたれ死にをしてみせる。
とも子 えらいわ若様。
瀬古  ひやかすなよ。
花田  全くだ。第一僕たちのような頸骨けいこつの固い謀叛むほん人に対して、大家先生たちが裏書きどころか、俺たちと先生がたとなんのかかわりあらんやだ。……ところで俺はいった。そんなら、こちらでお断わりするほかはない。奴の画はそんなけちな画ではない。大手をふって一人で通ってゆく画だ。そういうものを発見するのが書画屋の見識というものではないか。そういう見識からもうけが生まれてこなければ、大きな儲けは生まれはしない。
沢本  俗物の本音を出したな。
花田  俺がそんなことでもして大きな儲けをしたら俗物とでもなんとでもいうがいい。融通のきかないのをいいことにして仙人せんにんぶってるおまえたちとは少し違うんだから。……ところで九頭竜が大部頭を縦にかしげ始めた。まあ来てごらんなさいといったら、それではすぐ上がりますといった。……ところで、これからがほんとうの計略になるんだが、……おいみんな厳粛な気持ちで俺のいうことを聞け。おまえたちのうち誰でも、この場に死んだとして、今まで描いたものを後世にのこして恥じないだけの自信があるか、どうだ。生蕃せいばんどうだ。
沢本  なくってどうする。
花田  よし。瀬古はどうだ。
瀬古  僕は恥じる恥じないで画を描いてるんじゃないよ。僕は描きたいから描くんだ。
花田  わかった。じゃその気持ちは純粋だな。
瀬古  いまさらそんなことを……水くさい男だなあ。
花田  ドモ又はどうだ。
戸部  できたものはみんないやだ。けれども人のに比べれば、俺のほうがいいと俺は思っている。俺はそれを知っている。
花田  青島の心持ちはもう聞いた。青島も俺も、自分の仕事を後世に残して恥ずかしいとは思わない。俺たちはみんないわば子供だ。けれども子供がいつでも大人おとなの家来じゃないからな。
一同  そうだとも。
花田  じゃいいか。俺たち五人のうち一人はこの場合死ななけりゃならないんだ。あとの四人が画を描きつづけて行く費用を造り出すための犠牲となって俺たちのグループから消え去らなければならないんだ。
瀬古  おいおい花田、おまえ気でも違ったのか。僕たちは芸術家だよ。殉教者じゃないよ。
花田  芸術のために殉死するのさ。そのくらいの意気があってもいいだろう。その代わり死んだ奴の画は九頭竜の手で後世まで残るんだ。
沢本  なんという智慧ちえのない計略を貴様は考え出したもんだ。そんなことを考え出した奴は、自分が先に死ぬがいいんだ。
花田  俺が死んでいいかい。……そうだもう一ついうことを忘れていたが、死ぬ番にあたった奴は、その褒美ほうびとしてともちゃんを奥さんにすることができるんだ。このだいじな条件をいうのを忘れていた。おいともちゃん……ドモ又、もう描くのをやめろよ……ともちゃん、おまえ頼むから俺たち五人の中の誰でもいい、おまえの気に入った人とほんとうに結婚してくれないか。
とも子 なんですねえ途轍とてつもない。
花田  俺たち五人の中に一人、おまえの旦那だんなにしてもいいと思うのがいるっておまえいつかのろけていたじゃないか。
とも子  そりゃ……そりゃいないこともないことよ。
花田  待てよ。「いないこともないことよ」というのは結局、いるということだね。
とも子 知らないわ。
花田  女が「知らないわ」といったら、もうしめたもんだ。おまえが一人選んだら、俺たちあとに残された四人は、きれいに未練を捨てて、二人がいっしょになれるように、極力奔走する。成功させるためにきっと尽力する。だからおまえ、本気になってこの五人の中から選ぶんだ。そこに行くと俺たちボヘミヤンは自由なものだ。ともちゃんだって、俺たちの仲間になってくれてる以上はボヘミヤンだ。ねえ。そうだろう。かまわないから選びたまえ。俺たちはたとい選にもれても、ストイックのように忍ぶから……心配せずに。俺たちのほうにはともちゃんを細君に持つのに反対する奴は一人もいまい。どうだみんないいか。よければ「よし」といえ。
一同  よし。
とも子 選んだらどうするの。
花田  そいつが残る四人のために死ななければならないんだ。
とも子 冗談もいいかげんにするものよ、人を馬鹿にして。(涙ぐむ)
花田  なあに、冗談じゃない。わけはない、ころっと死にさえすればいいんだよ。
戸部  花田、貴様は残酷な奴だ。……ともちゃんをすぐ寡婦にする……そんな……貴様。
花田  (初めて思いついたようにたまらないほど笑う)なんだ貴様たちはともちゃんのハズがほんとうに……
瀬古  死ななけりゃならないんだろう。
花田  死ぬことになるんださ。
瀬古  同じじゃないか。
花田  同じじゃないさ。
青島  花田のいい方が悪いんだよ。死ぬことになるんじゃない、つまり死んだことにするんだよ。わかったろう。つまり死ぬんじゃない、死んでしまうこと……でもないかな。
花田  つまり、こうだ、いいか。頭を冷静にしてよく聞け。いいか。ともちゃんに選ばれた奴は実はその選ばれた奴の弟なんだ。いいか。そしてともちゃんとその弟とは前から夫婦なんだ。ともちゃんは、俺たちに理解と同情とを持っていて、モデルもやとえないほど貧乏な俺たちのためにモデルになってくれたのだ。いいか。ところでともちゃんのハズの兄貴にあたるのが、ほんとうは俺たち五人の仲間の一人で、それがともちゃんに恋をして、貧乏と恋とのために業半ばにして死ぬことになるんだ。こんどはわかったろう。……まだわからないのか……済度さいどしがたい奴だなあ。じゃ青島、実物でやって見せるよりしかたがない、あれを持ち込もう。
花田と青島、黒布におおわれたる寝棺をかつぎこむ。
とも子 いや……縁起の悪い……
沢本  全く貴様はどうかしやしないか。
花田  さあ、ともちゃん、俺たちの中から一人選んでくれ。俺が引き受けた、おまえの旦那は決して死なしはしないから。
とも子 だってそんな寝棺を持ち込む以上は……
花田  死骸しがいになってここにはいる奴はこれだ。(といいながら、壁にかけられた石膏せっこう面を指さす)こいつに絵の具を塗っておまえの選んだ男の代わりに入れればいいんだよ。たとえば俺がおまえに選ばれたとするね。ほんとうにそうありたいことだが。すると俺は俺の弟となっておまえと夫婦になるんだ。そうしてこいつ(石膏面)が俺の身代わりになってこの棺の中にはいるんだ。
とも子 ははあ……少しわかってきてよ。
花田  わかったかい。天才画家の花田は死んでしまうんだ。ほんとうにもうこの世の中にはいなくなってしまうんだ。その代わり花田の弟というのがひょっこりできあがるんだ。それが俺さ。そうしておまえのハズさ。
とも子 ははあ……だいぶわかってきてよ。
花田  な。そこに大俗物の九頭竜と、頭の悪い美術好きの成金堂脇左門とが、娘でも連れてはいってくる。花田の弟になり切った俺がおまえといっしょにここにいて愁歎場を見せるという仕組みなんだ。どうだ仙人どももわかったか。花田の弟になる俺は生きて行くが、花田の兄貴なるほんとうの花田は死んだことにするんだ。じゃない死ぬことになるんだ。現在死なねばならないんだ。それだから俺は始めから死ぬんだ死ぬんだといって聞かせているのに、貴様たちはまるで木偶でくの坊見たいだからなあ。……ところで俺の弟は、兄貴の志をついで天才画家になるとしても、とにかく俺が死なねばならぬというのは悲壮な事実だよ。死にさえすれば、ことに若死にさえすればたいていの奴は天才になるに決まっているんだ。(石膏面をながめながら)死はいかなる場合においても、おごそかな悲しいもんだ。だからかかる犠牲を払うからには、俺がともちゃんのハズとして選ばれるくらいのことが必要になるんだ。
とも子 なにもあなたなんかまだ選びはしないことよ。
花田  そうつけつけやり込めるもんじゃないよ、女ってものは。
沢本  俺はもうだめだ。俺はある女を恋していた。そうして飢えがせまってきた。ああ俺は死んだほうがいい。俺は天才画家として画筆を握ったまま死にたいよ。
とも子 花田さん、私、死ぬ人を旦那さんにするんじゃないのね。私の旦那さんが死ぬことになるんでしょう。
沢本  そうつけつけやり込めるものじゃないよ、女ってものは。
花田  みんな俺の計略がわかったな。俺たちは今俺たちの共同の敵なるフィリスティンと戦わねばならぬ時が来た。青島、おまえと堂脇との遭遇そうぐう戦についても簡単に報告しろよ。
青島  僕はかまわず堂脇の家の広い庭にはいりこんでを描いていてやった。そうしたら堂脇がお嬢さんを連れて散歩にやってきた。堂脇はこんなふうに歩いて、お嬢さんはこんなふうに歩いてそうして俺のわきに突っ立って画を描くのをじっと見ていたっけが、庭にはいりこんだのを怒ると思いのほか、ふんと感心したような鼻息を漏らした。お嬢さんまでが「まあきれいだこと」と御意遊ばした。僕はしめたと思って、物をいい出すつぎ穂に苦心したが、あんな海千山千の動物には俺の言葉はとてもわからないと思って黙っていた。全くあんな怪物の前に行くと薄気味の悪いもんだね。そうしたら堂脇が案外やさしい声で、「失礼ながらどちらでご勉強です、たいそうおみごとだが」と切り出した。僕は花田に教えられたとおり、自分の画なんかなんでもないが、昨日死んだ仲間の画は実に大したものだ、もしそれが世間に出たら、一世を驚かすだろうと、一生懸命になって吹聴ふいちょうしたんだ。いかもの食いの名人だけあって堂脇の奴すぐ乗り気になった。僕は九頭竜の主人が来て見ることになっているから、なんなら連れ立っておいでなさいといって飛び出してきた。なにしろお嬢さんがちかちか動物電気を送るんで、僕はとても長くいたたまれなかった。どうして最も美を憧憬どうけいする僕たちの世界には、ナチュール・モルトのほかに美がとりつかないんだろうかなあ。
瀬古  どうかしてそのお嬢さんを描こうじゃないか。
青島  あの人がモデルになってくれれば僕はモナリザ以上のものを描いてみせるよ、きっと。
瀬古  僕はワットーの精神でそのデカダンの美を見きわめてやる。
青島  見もしないでなにをいうんだい。
瀬古  君は芸術家の想像力を……
花田  報告終わり。事務第一。さ、みんな覚悟はいいか。ともちゃん、さあ選んでくれ。
とも子 私……恥ずかしいわ。
瀬古  おまえの無邪気さでやっちまいたまえ。なに、ひと言、誰っていってしまえば、それだけのことだよ。
とも子 じゃ一生懸命で勇気を出して……けど、私がこれっていった人は、いやだなんていわないでちょうだいね。でないと、私ほんとうに自殺してよ。
花田  誓いを立てたんだからみんな大丈夫だ。
瀬古は自信をもって歩きまわる。花田は重いものをたびたび落として自分のほうに注意を促す。沢本は苦痛の表情を強めて同情をひく。青島はとも子の前にすわってじっとその顔を見ようとする。戸部は画箱の掃除をはじめる。
とも子 (人々から顔をそむけ)では始めてよ。……花田さん、あなたは才覚があって画がお上手じょうずだから、いまにりっぱな画の会を作って、その会長さんにでもおなりなさるわ。お嫁にしてもらいたいって、学問のできる美しい方が掃いて捨てるほど集まってきてよきっと。沢本さんは男らしい、正直な生蕃さんね。あなたとはずいぶん口喧嘩げんかをしましたが、奥さんができたらずいぶんかわいがるでしょうね、そうしてお子さんもたくさんできるわ。そうして物干し竿ざおにおしめがにぎやかに並びますわ。青島さんは花田さんといっしょに会をやって、きっと偉くなるわ。いまにみんながあなたの画を認めて大騒ぎする時が来てよ。そうして堂脇さんとやらが、美しいお嬢さんをもらってくださいって、先方から頭をさげてくるかもしれないわ。けれどもあんまり浮気をしちゃいけなくってよ。瀬古さん……あなた若様ね。きさくで親切で、顔つきだっていちばん上品できれいだし、お友達にはうってつけな方ね。でもあなた、きっと日本なんかいやだって外国にでも行っちまうんでしょう。おだいじにお暮らしなさい。戸部さんはどもりで、癇癪かんしゃく持ちで、気むずかしやね。いつまでたってもあなたの画は売れそうもないことね。けれどもあなたは強がりなくせに変に淋しい方ね。……
戸部  畜生……
とも子 悪口になったら、許してちょうだい。でも私は心から皆さんにお礼しますわ。私みたいながらがらした物のわからない人間を、皆さんでかわいがってくださったんですもの。お金にはちっともならなかったけれども、私、どこに行くよりも、ここに来るのがいちばんうれしかったの。ともどもに苦労しながら銘々がいちばん偉いつもりで、仲よく勉強しているのを見ていると、なんだか知らないが、私時々涙がこぼれっちまいましたわ。……でも私、自分の旦那さんを決めなければならないんだわ。いやになるねえ。私がいい人を選んでも、どうか怒らないでちょうだいよ。私、これでも身のほどをわきまえて選ぶつもりですから……(急に戸部の前にかけ寄り、ぴったりそこにすわり頭を下げる)戸部さん、私あなたのお内儀かみさんになります。怒らないでちょうだいよ。私あなたのことを思うと、変に悲しくなって、泣いちまうんですもの……
戸部  君……冗談をいうない、冗談を……
花田  ともちゃん、でかしたぞ。全くおまえに似合わしい選び方だ。だがドモまたにおはちが廻ろうとは俺も実は今の今まで思わなかったよ。ともちゃんが戸部一人のものになって、明日から来なくなると思うと、急に俺たちの上には秋が来たようだなあ……しかしもう何もいうな。勇ましく運命に黙従するほかはない。そうして戸部とともちゃんとの未来を祝福しようじゃないか。
戸部  俺はともちゃんをなぐったことがある。
とも子 ええ、たしか二度なぐられてよ。
戸部  それでも、俺のところに来る気か。
とも子 行きます。その代わり、こんどこそはなぐられてばかりいないわ。
瀬古  夫婦喧嘩げんかの仲裁なら僕がしてやるよ。
戸部  よけいな世話だ。
とも子 (同時)よけいなお世話よ。
青島  気が強くなったなあ。
花田  それどころじゃない。もうおっつけ九頭竜らがやってくる。おい若夫婦、おまえたちは今日は花形だから忙しいぞ。ともちゃん……じゃない、奥さんは庭にお出でなすって、お兄さんの棺を飾る花をお集めくださいませんか。ドモ又、おまえが描いたという画はなんでもかんでも持ち出してサインをしろ。そうして青島、おまえひとつこの石膏面に絵の具を塗ってドモ又の死に顔らしくしてくれ。それから沢本と瀬古とは部屋を片づけて……ただし画室らしく片づけろよ。芸術家の尊厳を失うほどきちんと片づけちゃだめだよ。美的にそこいらを散らかすのを忘れちゃいかんぜ。そこで俺はと……俺はドモ又をドモ又の弟に仕立て上げる役目にまわるから……おまえの画はたいてい隣の部屋にあるんだろう。これはおまえんだ。これもこれもみんな持って行こう。
とも子は庭に、戸部と花田別室にはいり去る。
青島  こんなアポロの面にいくら絵の具をなすりつけたって、ドモ又の顔にはなりゃしないや。も少し獅子鼻ししばなででこぼこのある……まあこれだな、ベトーヴェンで間に合わせるんだな。
青島、塗りはじめる。
沢本  ああ俺はもうだめだ。興奮が過ぎ去ったら急にまた腹がへってきた。いったい花田の奴よけいなことをしやがる奴だ。あの可憐かれんな自然児ともちゃんも、人妻なんていう人間じみたものに……ああ、俺はもうだめだ。若様、貴様勝手に掃除しろ。
瀬古  僕もすっかり悲観したよ。もとはっていえば青島が悪いんだ。堂脇のお嬢さんのモデル事件さえなければ、運命はもっと正しい道筋を歩いていたんだ。
青島  僕が悪いんじゃない、堂脇のお嬢さんが存在していたのが悪いんだ。お嬢さんの存在が悪いんじゃない、その存在を可能ならしめた堂脇のじじいの存在していたのが悪いんだ。つまり堂脇のじじいが僕たちの運命をすっかり狂わしてしまったんだよ……どうだ少しドモ又に似てきたか……他人の運命を狂わした罪科に対して、堂脇は存分に罰せらるべきだよ。
沢本  そうだとも。なにしろあいつの金力が美の標準をめちゃくちゃにするために使われていたんだ。そのために俺たちは三度のものも食えないほどに飢えてしまうんだ。ドモ又が死んで色づけのベトーヴェンになる結果に陥ったんだ。ドモ又の命が買いもどせるくらいの罰金を出させなけりゃ、俺たちの腹の虫は納まらないや。
瀬古  そうしてそれが結局堂脇や九頭竜を教育することになるんだからなあ。いくら高く買わせたってドモ又の画は高くはないよ。こんどあいつらは生まれてはじめて画というものを拝むんだ。うんと高く売りつけてやるんだなあ。
沢本  そうすると、俺たちはうんと飯を食って底力を養うことができるぞ。
青島  そうだ。
沢本  ああ早く我らの共同の敵なるフィリスティンどもが来るといいなあ。おい若様、少し働こう。
二人であらかた画室を片づける。花田と戸部とがはいってくる。戸部は頭を虎斑とらふに刈りこまれてひげをそり落とされている。
花田  諸君、ドモ又の戸部が死んだについて、その令弟が急を聞いて尋ねてこられたんだ。諸君に紹介します。
一同笑いながら頭を下げる。
戸部  俺……じゃない、俺の兄貴の死に顔をちょっと見せてくれ。
青島  どうだこれで。(石膏面を見せる)
戸部  俺の兄貴は醜男ぶおとこだったなあ。
花田  醜男はいいが髭が生えていないじゃないか。近所の人がくやみに来るとまずいから、そり落して髭を植えてやろう。それから体のほうも造らなきゃ……この棺を隣に持っていって……おいドモ又の弟、おまえそこで残ったのにサインをしろ。
戸部を残し一同退場。戸部しきりとサインをしている。とも子花を持ちて入場。
とも子 (戸部とは気がつかず次の部屋に行こうとする)あの、ごめんくださいまし……
戸部  ともちゃん……俺だ……俺だ……
とも子 あら……あなた戸部さんじゃなくって。
戸部  俺は君のハズで……戸部の弟だよ。
とも子 あらそうだわ。まあそれに違いないわ。戸部さんの弟って、戸部さんよりは若い方ねえ。
戸部 ともちゃん……俺は君にった時から……君が好きだった。けれども俺は、女なんかに縁はないと思って……あきらめていたんだが……
とも子 ごめんなさいよ。私、はじめてここに来た時、あなたなんて、黙りこくって醜男ぶおとこな人、いるんだかいないんだかわからなかったんですけど、だんだん、だんだあん好きになってきてしまいましたわ。花田さんが私の旦那さんに誰でも選んでいいっていった時は、ほんとうはずいぶんうれしかったけれど、あなたはきっと私がきらいなんだと思ってずいぶん心配したわ。
戸部  なにしろ俺は幸福だ……俺は自分の芸術のほかには、もうなんにも望みはないよ。……俺はもう君をなぐらないよ。
とも子 (うれしさに涙ぐみつつ)なぐってもいいことよ。いいから私をかわいがってくださいね。私も一生懸命であなたをかわいがりますわ。あなたは宝のたまのように、かわいがればかわいがるほど光が出てくる人だってことを、私ちゃんと知っててよ。あなたはどろだらけな宝の珠だわ。
戸部  俺は口がきけないから……思ったことがいえない……
とも子の手を取って引き寄せようとする。沢本、突然戸をあけて登場。
沢本  おうい、ドモ又……と、あの、貴様のその上衣をよこせ、貴様の兄貴に着せるんだから。その代わりこれを着ろ……ともちゃん花が取れたかい。それか。それをおくれ、棺を飾るんだから……
沢本退場。……戸部ととも子寄り添わんとす。別室にて哄笑こうしょうの声二人くやしそうに離れたところにすわる。
とも子 今夜帰ったら、私すぐお母さんにそういって、いやでも応でも承知させますわ。で、こんどのあなたの名まえは……
戸部  俺はなんという名まえにするかな……
とも子 いいわ、私の名を上げるから、戸部友又じゃいけない……それじゃおかしいわね。あのね……あなたまた画かきになるんでしょう……
とも子近づこうとする。瀬古登場。
瀬古  ちょっとちょっと。ここにおまえの画がまだ残っていたから……
戸部  うるさい奴だなあ……
瀬古退場。別室にて哄笑の声、やがて一同飾りを終わって棺をかついで登場。
花田  早く早く……もうやってくるぞ。棺のこっちにこの椅子いすをおいて……これをここに、おい青島……それをそっちにやってくれ……おいみんな手伝えな……一時間の後には俺たちはしこたまご馳走ちそうが食える身分になるんだ。生蕃、そんな及び腰をするなよ。みっともない。……これでだいたいいい……さあみんな舞台よきところにすわれ。若夫婦はその椅子だ。なにしろ俺たちは、一人のだいじな友人を犠牲に供して飯を食わねばならぬ悲境にあるんだ。ドモ又は俺たち五人の仲間から消えてなくなるのだ。ドモ又の弟はその細君のともちゃんと旅の空に出かけることになるだろう。俺たちのように良心をもって真剣に働く人間がこんな大きな損失を忍ばねばならぬというのは世にも悲惨なことだ。しかし俺たちは自分の愛護する芸術のために最後まで戦わねばならない。俺たちの主張を成就するためには手段を選んではいられなくなったんだ。俺たちはこの棺の中に死んで横たわるドモ又の霊にかけて誓いを立てよう。俺たちはこの友人の死に値いするだけのりっぱな芸術を生み出すことを誓う。
一同  誓う。
花田  俺たちは力をあわせて、九頭竜という悪ブローカーおよび堂脇という似而非えせ美術保護者の金嚢かなぶくろからあたうかぎりの罰金を支払わせることを誓う。
一同  誓う。
花田  そのためには日ごろの馬鹿正直をなげうって、巧みに権謀術数を用うることを誓う。
一同  誓う。
花田  ただし尻尾しっぽを出しそうな奴は黙って引っ込んでいるほうがいいぜ。それでは俺たち四人は戸部とともちゃんとに最後の告別をしようじゃないか。……戸部、おまえのこれまでの芸術は、若くして死んだ天才戸部の芸術として世に残るだろう。しかしそこでおまえの生活が中断するのを俺たちはすまなく思う。しかしそのつぐないにともちゃんを得た以上、不平をいわないでくれ。な、そうしておまえは新たに戸部の弟として新生面を開いてくれ。俺たちはそれを待っているから。じゃさよなら。
一同かわるがわる握手する。
花田  ともちゃん、おまえは俺たちの力だった、慰めだった、お母さんだった、かわいい娘だった。おまえと別れるのは俺たち全くつらいや。だからおまえのひたいに一度だけみんなで接吻せっぷんするのを許しておくれ。なあ戸部いいだろう。
戸部  よし、一度限り許してやる。
花田  ともちゃんさよなら。(額に接吻する)
とも子 さよなら花田さん。
沢本  俺はまあやめとく。握手だけしとく。
とも子 さよなら生蕃さん。
青島  さよなら。(額に接吻する)
とも子 おだいじに浮気屋さん。
瀬古  くちびるをよくお見せ。あああ。(額に接吻する)
とも子 さよならかわいい若様。
とも子さすがに感情せまって泣き出す。
花田  よし。それからドモ又の弟にいうが、不精ぶしょうをしていると、頭の毛とひげとが延びてきて、ドモ又にあともどりする恐れがあるから、今後決して不精髭を生やさないことにしてくれ。
とも子 そんなこと、私がさせときませんわ。
戸外にて戸をたたく音聞こゆ。
人の声 ええ、ごめんくださいまし、九頭竜でございますが、花田さんはおいででございましょうか。
他の人の声 私は堂脇ですが……
花田  そら来やがった。……みんないいか大丈夫か……俺たちは非常な不幸にったんだぞ。悲しみのどん底にいるんだぞ。この際笑いでもした奴は敵に内通した謀叛むほん人としてみんなで制裁するからそう思え。九頭竜も堂脇も……今あけます、ちょっと待ってください……九頭竜も堂脇もたまらない俗物だが、政略上向かっ腹を立てて事をし損じないようにみんな誓え。
一同  誓う。
花田  泣ける奴は時々涙をこぼすようにしろ、いいか……じゃあけるぞ。
沢本  花田、ちょっと待て……(茶碗ちゃわんに二杯水を入れて戸部の所に持って行く)おいドモ又、貴様の涙をこの中に入れとくぞ。これはともちゃんのだ。しりの後ろにやっとけ。あわててこぼすな。
花田  しいっ。(観客のほうに向いて笑うのを制する)じゃあけるぞ。みんなしかめっつらをしてろ。
とも子はさっきからほんとうに泣いている。戸部、茶碗から水をすくって眼のふちに塗る。花田、戸をあけに行く。
――幕――

底本:「ドモ又の死」角川書店
   1954(昭和29)年1月30日初版発行
   1968(昭和43)年12月30日16版発行
   1969(昭和44)年8月30日改版初版発行
入力:青空文庫
校正:富田倫生
2012年6月16日作成
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