一、雨の深山で採集

 私は自分の学問に対してあまり苦労したことはなかった。今日まで何十年にわたる長い年月の間実に愉快に学問を続けてきて、ついに今日に及んだのであるが、平素その学問を特に勉強したようにも感じていないのは不思議である。
 これは結局生まれつき植物が好きであったため、その学問があえて私に苦痛を与えなかったのであろう。
 私は少年時代からたえず山野に出て植物を採集した。それが今日もなおやはり続いてその採集がとてもたのしい。
 今から七十余年前、明治十三年の夏、私が十九歳の時、友人と二人で土予とよの国境近くにそびえる四国第一の高山、石槌山いしづちやまに採集に出かけた。まだその時分は洋服などなく日本着物であった。まず郷里佐川町の宅を出て数里先の黒森を越え、池川村で国境近くの山奥椿山つばやまの農家でとまった。それから国境の深山みやまを通じる山道にさしかかるのだが、あいにく雨天であったため傘なしのずぶぬれで、遂に雨の石槌山にたどりつき、その絶頂に登った。さてそれからその山腹下の山村、黒川村でとまり、はじめてジャガイモを味わった。これは古くから同地でつくられてあったものでカウバウイモといっており形の小さいいもであった。翌日また雨をついて帰途についたが、山中で日が暮れ、人里遠き深林の中で野宿をしたが、夜半に雷が鳴ったり、雷光が光ったりとてもすごかった。夜明けにやっと前の椿山に帰りつき、遂に郷里に帰ってきたが、行きから帰りまで雨天で着物はぬれ大いに困った。それでもそのおかげでいろいろの植物を見たが、上の黒森では初めてオホナンバンギセルを採って、これを写生してきた。何といっても案内人もつれず、二人ではじめて国境の深山へ分け入ったが、よく道に迷わずにすんだ。

    二、各地での採集

 あくる年の明治十四年、私の二十歳の時、人足を一人つれて土佐幡多郡を広くまわって、植物の採集をした。その間、ほとんど一カ月を費した。土佐の西南端のかしわ島、沖の島へも行き、また土佐の西の岬と称する足摺岬(※(「足へん+它」、第3水準1-92-33)さだの岬)へも行った。途中行く行く植物を採集したからその種類も多かったが、これが非常に私の植物知識をふやすに役立った。何といっても植物は採集するほど、いろいろな種類を覚えるので植物の分類をやる人々は、ぜひとも各地を歩きまわらねばウソである。家にたてこもっている人ではとてもこの学問はできっこない。日に照らされ、風に吹かれ、雨に濡れそんな苦業を積んで初めていろいろの植物を覚えるのである。
 私が植物採集に出かける時、その採集品を始末するために、道具をたずさえて行った。吸水紙は無論のこと、押板、圧搾あっさく用の鉄の螺旋器また無論大形の採集胴乱根掘り器などいろいろな必要器を持って行った。
 三河の国、高師ガ原を採集した時などは昼間は野天で一日採集して、胴乱一杯につめ、その晩、豊橋の宿屋でその採集品を始末するのについに夜が明けてしまった。夜中何度も宿の女中が床を取りに来た。けれどいつも起きて仕事をしているので女中はむなしく帰ったことがあった。
 今からだいぶ前のことであるが肥前の五島列島中の最西端にある福江島ふくえじまへ単身で行ったことがある。それはその島の西端荒川村の玉ノ浦にヘゴがあるというのでそれを見、そして採集するために行って十分に検分し、採集してきた。その時の石のヘゴの幹が今私の宅にある。そこに日本の一番西端に位置する巨大な灯台がある。これがバルチック艦隊をまっ先に見つけたので記念となっている。この灯台に対して大きな岩が海中にある。私はその一端に腰掛け、足をブランブランさせていたが、もう灯台を見あきたので、そこを去りヒョイとその一方から今腰かけたところを望んだら私の腰かけた所が薄い岩のふちだったのでゾッとした。よく体の重みでその岩が割れて下に落ちなかったものだと。もし岩がかけたら私は数丈下の海中へおちるのであった。まず仕合せであった。――帰途にイツク山という在所を通ったところ、そこの宮林の巨大なタズノキを木こりが切り倒していた。見上げると、その高い枝の股に巨大なオホタニワタイが数株あった。さあそれが採りたくてたまらず、ソマに頼んでその中の最も巨大な一株を地に落してもらった。その葉をひろげたら直径が約五尺ほどもあった。これを遂に船着き場所の富江とみえまで運び、汽船と汽車とで東京へ持ってきて、上野公園内の博物館にうえたが、その後遂に枯死してしまった。こういうことをしたのも一心に採集へ馬力をかけたわけだ。
 右のことはほんの一部の植物採集談であるが、これはただの遊びごとにしたことでなく、たとえ楽しかったとはいえ、全く汗水流しての積極的採集で自分の学問のために努力したのである。それがため、私は植物の地理分布、種類などを自分から学ぶことができたのである。
 私は一日もその学問から離れたことはなく次から次へと楽しく勉強を積んだわけだ。私ほど一生苦しまずに愉快に研究を続けて来た人間は世間にかなり少ないようだ。それゆえ私は少年の時と今日老年になった時と、その学問のぐあいは少しも違っていなく、ただ一直線に学問の道を脇目もふらず通ってきたのである。
 こんな数十年にわたる努力が遂に私の植物知識の集積になったわけだ。今年九十三年に達した私はこれから先、体のきく間、手足の丈夫な間、また頭のボケヌ間は、いままで通り勉強を続けて、この学問に貢献したいと不断に決心している。
 もうこの年になったとて決して学問を放棄してはいない。

底本:「日本の名随筆 別巻34 蒐集」作品社
   1993(平成5)年12月25日第1刷発行
   1998(平成10)年5月30日第2刷発行
底本の親本:「若き日の思い出」旺文社
   1955(昭和30)年1月発行
入力:門田裕志
校正:川山隆、小林繁雄、Juki
2008年1月4日作成
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