日本で数学の発達したのは徳川時代及びそれ以前〔後〕のことであって、上古以来戦国時代の終わりまでは数学に関して幾らも知られたことがなく、また明治大正時代の数学は西洋の学問を宗として起こったもので、未だあまり特色も見えないし、未だこれを歴史的に観察して充分な意見を発表し得るまでに研究が進んでおらぬから、しばらく徳川時代の数学、いわゆる和算なるものを主として論ずることとする。もし数学者の立場で和算を見るならば、如何なる問題、如何なる方法、得た結果等が如何なる時代に如何に変遷したかの由来を明らかにし、これを現今の数学と比較して優劣を定め、もしくは西洋の数学史上の事実に対比する等のことをするだけで満足されるのか知れないけれども、我等は決してこれだけで満足し得るものでない。こんな見地の下における研究ももとより大切であることはいうまでもなく、我等もその研究の完成に向かって過去においてもまた現在においても努力もしているが、我等にとってはこれは目的ではなく、手段なのである。どうしても文化史的立場の上から広い眼界の下に見て行って、社会状態、国民性、ないしは文化一般の発達上に如何なる関係を有するかを見定めなければならぬ。この意味における観察を加うるには、数学者の立場から見た和算の研究が充分に進んで和算の性質を明らかにした上でないと、あるいは観察を誤る恐れがあるが、和算の研究はまだその緒につきかけたばかりであって、今の時に文化史的の研究に手を下すのは未だ早計であるかも知れない。けれどもこの観察を行うことによって数学者としての和算の研究に対して有力なる指導となり、これに方針を与え、かつその研究のはなはだ重要なることを知らしめるものであって、もとより両々相俟って進むことを必要とする。私が多年来和算史の研究に従事しつつこれが準備に幾多の歳月を費やしたのはこれがためである。数学者の眼中から見れば和算は現今の数学に比してすこぶる見劣りのしたものであるから、その研究はさまで重大でないように見えるのも無理からぬことではあるが、文化史的に解するときは決してそんなものではない。和算に対して文化史的の解釈を下すことはそれ自身に、はなはだ趣味ある問題でもあるし、またかくすることによりて将来の発展を期する上に大いなる参考となり得べき当然の性質を有するものであると信ずる。こうして教育上の参考に役立ち得るものともなるのである。数学者の立場からの研究よりは、文化史的の研究の方がはるかに重要な意義を有するのであって、前者は後者の完成を期するための方便に供せられ、これに従属させてしかるべきものである。
 本篇においては江戸時代の和算の観察を主眼とするけれども、それ以前及び以後の時代についても、できるならばこれを参照したいのであって、多少これに論及するつもりである。
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 日本の神話には八百万やおよろずの神とか、千五百秋ちいほあきだのというような、数を形容詞に使ったものが多く、またそれが古今を通じて人口に膾炙している。『万葉集』には八十一と書いて「くゝ」と訓んだ例もあり、古来数を歌に詠み込んだものも多く、子供の命名に太郎、次郎と順番を付するようなことも行われた。この事実は数の観念に切であったことを示すのである。
 奈良、平安の都に街路の命名法として一方を一条二条と名づけ、これに交叉する道路には別の名称を付し、この縦横路線の交叉とその交叉点からの上下もしくは東西によりて地点を決定する方法を用いたのは、元来都城そのものの構成が支那のものを模したのであるから、あるいは支那で行われた命名法を採用したのか知らぬけれども、ともかく、こんな命名法が行われたというのもまた注意しておく必要がある。
 徳川以前には数学に関する事蹟は極めて少なく、多く伝えられているものはないのであるが、わずかに伝えられたる事実の中に継子立ままこだてという一種のものがある。継子立とは実子と継子とを並列させある方法にて一人ずつ抜いて最後に残ったものを相続人にするというその並べ方に関係の遊戯であるが、もとより数学に関係のものである。この事項は保元頃、日向守通憲が伝えたといわれ、また種々の古書に見えている。これと類似の問題はジョセフスの問題といって西洋にもあるから、外国伝来のものかどうかは分からぬけれども、これがよほど注意をひいていたというのは、この種の事項に趣味があったからにほかならぬ。
 これらのことは日本人が古来、数または数学関係の事項に深い興味のあったことを示すものであって、この興味はやがて機会さえあらば数学の発達し得べきことを暗示するものであったかと思われる。徳川時代に至りて数学が鬱然として勃興し得たのは偶然でない。別して数学関係の事項が遊戯に使用され、一種芸術的に解せられていたというのは意味あることであって、後に発達した和算に芸術的の気分が濃厚に現われたのも、またよって来るところがあったのである。


 前章説くところのごとく、日本人は古来数または関係事項に趣味を持っていたと考えられるが、しかも実際において数学はさらに発達しない。むかし大学の設けられたとき算博士、算生をおいて数学を教授し、支那の算書が使用されていたが、その後多く振るわず、日本で新たに算書の著述のあったことはさらに聞かないのである。暦法においては初めは支那のものを採用し支障なくこれを運用していたが、後には支那ではしばしば改暦があっても、日本では同一のものに固執して支那の新暦法を採用することもせず、朔望に大きな誤差を生ずるに至ってもどうすることもできないのであったが、これは単に暦術の進歩しなかったばかりの罪ではなく、数学が振るわないで暦法の進歩に刺激を与え得なかったこともあずかって力がある。ともかく、この暦法の不振はすなわち数学の萎微していたことを示すのである。故に中世より戦国の頃にかけては数学は見る影もなく衰えて、割算を解するものもないほどになったとさえいわれている。これほどまでになったかどうかは分からぬが、数字上にさらに見るべきもののなかったことは事実である。日本では徳川時代の初めまでは数学は起こらなかったといってもよろしい。
 数学に趣味があり素質がありながら、何故にかくも長い間、数学が起きなかったものであろうか。これはけだし重大な問題であって、今容易に解決し得ないけれども、社会の状態がしからしめたものと解して大過なかろうと思う。日本は元来農業国であって、商工業は極めて幼稚であり、都会は発達せず、交通の便も少なく、浪人が諸方に移動したごとき形跡はあるが、浪人といっても元来が農民からでてまた農民になるものに過ぎないから別にいうべきほどのことはなく、農業といっても地域は狭く、灌漑は便利であり、気候温順にして天変地異少なく、ただ種子を播いて培って刈り取りさえすればよいという有り様であるから、何等数学の発達を促すべき要素もなかったといってもよい。
 武家時代になっても、武家は地方の地主であって、質素簡潔を喜び、弓馬の術に慣れればそれでよいのであるから、武士の社会から数学の起こるべき道理もなかった。
 数学には限らず一般に学問の発達には外国との関係が重要な要素になるのが普通であって、ギリシア数学はエジプト、バビロニア等の文明に接触してから起こり、西欧の諸国ではアラビアから伝えられたのが大いなる刺激となり、近世の日本では初めは支那、後には西洋の学問を受け入れて始めて数学及び諸般学術の勃興をきたしたのである。けれども発達すべき素質のないところには如何なるものを受け入れても発達を見ることはできない。ギリシアの学問を受け入れながら何等見るべきもののできなかったローマはその適例である。
 日本でも、古くから三韓にことがあって、三韓から文字を伝え、儒を伝え、仏を伝え、美術を伝え、医薬を伝え、また暦法算学をも伝えて、ここに算博士も置かれ算生も任ぜられて数学の教授もできることになったのである。しかし当時は法典でも国史でも、漢文で書いたほどに、模倣をのみこととしたのであって数学のごときも隋唐の制に倣って始めたというに過ぎない。社会の内部に必要があって起こったのではない。それに外国との関係は打ち切られ、外国からの刺激もなくなる、従っていくばくならずしてまた廃れるのも故なきにあらずである。
 もちろん暦法の運用、都城の新設、宮殿諸寺の建築、開墾、道路、橋梁等の事業において多少数学が必要でないのではない。しかし日本人は何事によらず理論を作らずして実際の運用を主とする。これらの諸事業においても、ただその設計測量等の実行さえできれば、それで満足したであろう。まだこれだけで数学を発達させることにはならなかったのである。
 暦法には数学が要る。しかし当時の暦術では加減乗除さえ達者にできれば足りたのである。いわんや、やや後れて時々改正を要する暦法において、幾年経てもさらに改正しないのだから、正確に計算を施しても正確なことはできないようになっているから、算法の正確を期することも次第に廃れたのであろう。暦法上にも数学はあまり要らなくなる。日本では暦法が数学を発達せしむべき動力にはなっていない。


 上述のごとく社会の状態が未だ数学の発達を必要とするに至らなかったために、数学は長く勃興することとならなかったのであるが、事情は次第に変わって来る。物々交換の状態から貨幣経済に次第に進み、貸借の関係は複雑になって、頼母子たのもしのごときものも発達する。商工業がまた次第に発達し、交通も頻繁となる。
 かくして戦国時代の頃にもなると、国家としての秩序は乱れるけれども、社会としては何等衰退した形跡だになく、当時の事情を見るに、群雄割拠して互いに統一を企て、戦術は一変して従来の一騎打ちから隊伍の動作となる。その上に戦乱長く続きて、従来農村に散在した武士は城下に集まることとなり、城下町が形造られるようになる。武士はすでに農村を離れた以上、もはや生産者ではない。彼等を相手としても商業の必要が生ずる。山上不便の地にあった城砦は平地に移され、大河を利用したりなどして経済の中心となる。戦争には自然に大部隊が動かされ、物資の供給も大規模となって、ここに軍事上に経済の基礎ができてくる。経済の発達は実に著しいもので、交通の発達もまたこれに伴い、堺のごとき自由都市ともいうべきようなものも現われる。
 経済が発達するとともに商工業も発達する。市邑の発達、交通の発達は知識の練磨となる。城郭も著しく発達するが、築城には必ず測量等の必要があったろう。
 あるいは検地の事業が始まる。鉱山を開発する。貨幣の鋳造が行われる。水利等も起こさなければならぬ。財政のことも等閑にはならぬ。
 かくして社会の状態は数学の発達を促さないでは止まなくなっている。それに個人の自覚の高まったことがその発達を助ける上に決して無力でない。群雄の割拠して相争うたとき、その競争は極めて激烈であって、また極めて真剣なものであるから、知力のあらん限りを尽くさなければならない。従来のごとく家格や門地ばかりでは如何ともできない。勢い個人の能力が発達する。それに社会の秩序は乱れる。何人でも才能あるものは活動の舞台に立つことができた。個人主義の色彩が著しくなって、個人の自覚も著しく高まったのである。
 経済・軍事・財政等の社会状態が数学の勃興を必要としたところへ、個人の自覚が高まって才能の認められる時代となるから、どうしてもその発達は現われないでは止まぬ。数学の発達が切に感ぜられたことを証すべき事実も幾らか伝えられている。小田原の北条氏において大導寺駿河守が世子の教育に算法から始めんことを建議して許されたこと、清水宗治むねはるが高松落城の際の遺言状に算用の重んずべきことを記したこと、秀吉が算家毛利重能しげよしを明に留学させたというのは事実かどうか知らぬけれども、ともかく重能を登用したこと、これらはすべて数学の必要を感じてのことにほかならぬ。長束なつか正家が算術に通じていたとかいうが、当時の財政家たる彼にしては当然のことであろうし、また秀吉は一文銭を障子の目に二倍しておくだけ、どうしたとかいう伝説もあり、曾呂利新左衛門が紙袋に米を一杯といって倉庫を蔽うほどの袋を作ったとかいう伝説などあるのも、すでに数学的気分の豊富になったことを示すもののようである。
 かかる機運に向かったところへ文禄の役が始まって、朝鮮及び支那に接触する。朝鮮から持ち帰って来た書物中には算書もあったかと思われる。毛利重能がはたして支那へ派遣されたかは疑問であるが、一説には朝鮮へ留学したのだともいう。ともかく、『算学啓蒙』、『算法統宗』等の書物が伝わり、これを基礎として日本の数学は起こることとなった。実は経済上の状態などからいえば、も少し早く発達してもよかったものかも知れないが、支那の学問が伝わって刺激を与えるまではまだ勃興するに至らず、この刺激に基づいて、熟しつつあった機運に花が咲いた形である。これは当然の成り行きでもあろうが、数学においても自発的に新しいものを創造せずして外国のものを採り入れてこれを運用するという日本の文化一般の発達と同じ径路を取ったことの有力な一証である。


 日本の数学勃興の時に当たりて支那算書の伝えられたものは幾らもあったであろうが、主として影響を与えたのは『算学啓蒙』と『算法統宗』の二書にほかならぬ。毛利重能も『算法統宗』を得てこれを学んだといわれている。『統宗』は万暦二十年程大位作の書にして算盤そろばんの算法をも説き、毛利は算盤を伝授した。門弟数百人もあったというからよほど行われたと見える。前田利家が名護屋の陣中に携えたという懐中用の算盤は現に前田家に保存されている。その後大津で算盤を製作販売することとなり、算盤の算法を説いた書物もできて、算盤は大いに普及した。算盤は何時代の頃に何人が伝えたかは明瞭でないが、ともかく支那から伝わったのは確かであって、毛利等の伝授から広まったものであろう。
 吉田光由の『塵劫記じんこうき』は『統宗』に基づいて著作したといわれている。『塵劫記』といえばほとんど算術書の異名のようになって、非常に行われたのであるが、この書物が『統宗』に負うところ少なからずとせば、支那の算法が日本で広く学修されたことともなるのである。『統宗』の書物も後に日本で翻刻された。
 けれども、なお一層重大な関係のあったのは『算学啓蒙』である。この書は元の朱世傑の作であるが、支那では伝を失うているけれども、朝鮮に伝わって、朝鮮では洪武頃と順治十七年とに翻刻したこともあるから、おそらくは朝鮮から日本へ伝えたものであろう。日本では訓点を付したり、あるいは注を付けて三回も翻刻されたのは、それのはなはだ貴ばれたことを示す。『啓蒙』に説くところは天元術であって、天元術とは算木を使用して行うところの一種の器械的代数学であるが、この器械的代数学が実に日本数学の基礎になった。天元術の代数学は日本では算盤の算法よりもやや後れて発達することとなった。
 支那の数学が日本に伝えられたものは、算盤の算法、及び天元術の外にも、方陣及び円攅、方程すなわち算木にて一次連立方程式を解く方法、剰一術、招差法等幾らもあげることができる。剰一術と招差法は上記二書から伝わったのではない。
 『統宗』、『啓蒙』の二書に見える問題または類似のものもまた日本で広く行われたものがある。
 かくして支那の数学が日本で大なる影響を与えたことは著しいもので、支那の数学を抜きにしては日本の数学は実際発達したような形のものに発達することは到底できないのであった。


 戦国から豊臣氏の頃にかけて数学発達の機運の熟したところへ支那の数学が伝わって、それから数学が起きて来たことは前に説くところで明らかであるが、徳川時代になってから如何なる原因があって発達したかというに、前に述べた経済上等の理由は今も続いている。経済は益々発展する。諸侯が全国に配置されて城下には市邑が発達し、藩士は城下に住して閑散な生涯を送り、経済上のことは一切商家の手に落ちた。交通は益々発達して海運も進み、参覲交替は人智発達の上に少なからざる関係がある。この時代には兵学なども発達するが、兵学者には築城等のことから測量のことなども大切であった。有名な兵学者北条氏長〔の季子北条氏如〕の門人でやはり兵学者として知られた松宮観山が測量の書物『分度余術』を著述したがごときはその一例であろう。兵学者中に数学上の著述のあった者には山県大弐の『牙籌譜』などもある。佐久間象山も数学に関係があったようである。
 徳川幕府になってからは浪人がたくさんにある。統一事業のでき上がる前に滅びた大名の家も幾らもあるが、一統後にも徳川氏は大きい大名をなるべく絶滅さす方針を取っていたから、浪人が増加する。天草の乱に小西、大野等の浪人の関係があり、由井正雪の事件によって、幕府がはなはだ浪人の処分に窮し、大名の相続問題についての政策を一変したほどであって、浪人の勢力は侮り難いものであった。かかる浪人のおったことが、数学の発達に関係がある。数学だけにはかぎらぬが、数学にも関係があった。数学以外でいえば、山鹿素行の兵学におけるごときがそれである。数学においても荒木村英、久留島義太よしひろ等のごときがそれで、久留島は備中松山の水谷家の浪人であるが、浪人しなければ算術家にはなれなかったかも知れない。
 浪人は種々の学問などした。従って浪人であって諸藩に抱えられたものも多いが、数学のために抱えられた人達も少なくない。星野実宣は福岡藩に仕え、磯村吉徳は二本松藩に仕え、平賀保秀は水戸藩に仕え、島田貞継及び安藤有益は会津藩に仕え、村松茂清は赤穂藩に仕え、金沢刑部左衛門は津軽藩に仕えたなどがそれである。これらの人々はすべて浪人であったとはいえないが浪人出身の人が多い。
 諸藩で浪人などを数学の故に抱えたのは何故かといえば、水利や財政経済のことなどに従事せしむるためであった。星野実宣が筑前で企てた事業や、安藤有益が会津で経済上に功績のあったことや、磯村吉徳が二本松城下に流るる水道を引いたことなどはその実例である。数学のためこの種の地位を得られる希望があるので数学を修めたような動機もあるいはあったであろう。少なくも数学の奨励になったであろう。
 かくのごとき事情のあったのは、もちろん水利だの財政経済等の必要から数学に影響したのである。後の時代になっても実用的の数学に重きをおいた人は幾らもあり、実用の方面を全く度外視した人は少ないようである。実用上の関係が発達上の原因になったことは否まれぬ。
 また幕府及び諸藩に勘定方のあったことが大いに関係がある。勘定方の人達は職務上ある程度の数学が必要であるから学修を始める。それが動機となって数学者になった人が幾らもあったようである。関孝和も勘定方の家に人となり、自らも勘定方として身を立てた。後には幕府の勘定奉行であった川井久徳ひさよし及び古川氏清のごときも数学者になったのである。
 これらは数学者の経歴を取り調べて推定し得られる事柄であるが、また算書中の問題を研究しても実用の問題が発達上に大いなる関係を有したことが知られる。貸借問題、利足問題、年賦問題、反別問題、銀と灰吹問題、築堤の問題、材積の問題、物価関係の問題、暦術の問題、この種のものが幾らも見えているのは有力にこれを語るのである。
 数学者の教授上に初歩の人へは実用向きのものから教えたかの観あることもまたこの関係からであり、測量なども大概の和算家がやったもので、また教授もしているが、これもその関係からである。
 幕府及び諸藩に追々と天文方を置いたり、また算学師範を任命して数学を教授させたりしたことも数学の発達を助けることとなった。山路主住が幕府の天文方に入り、戸板保佑が仙台藩の保護の下に山路に師事したごときはその例であって、ずっと後には諸藩の数学者に師範役の人も少なくなかった。
 民間から幾多の人物の出たこともまた著しいのであって、地方の庄屋など勤めている人達が勘定方の人が数学に入ったのと同様に数学を始めたものもあるが、また商家の出身もあれば、諸侯中にもその人が出て全く実用上に関係のない人物中にも少なからず広まったのである。これにはもとより原因がなければならぬ。これはもとより趣味の問題であった。


 和算のまだ発達せざる遠き以前に継子立のごとき趣味の問題が行われて、数学に対する趣味は日本人元来の素質中に含まれていようとは、それからだけでも推察し得られるのであるが、支那の数学を受け入れて数学の学修が起こってから、この趣味ははたして多大に現われてきた。『塵劫記』は支那の『算法統宗』を土台としてできたといわれるけれども、この書物からして例の継子立の問題を説いている。鼠算といって鼠はどれだけ繁殖するかの問題もあるが、ことさらに鼠算の形になっているところに趣味を味わう精神が見える。継子立の問題は後に諸算家が色々に説いている。
 和算の問題中において実用を離れたり、実用に遠いものはたくさんにあって、一々枚挙するのは容易でないが、今その主なるものをあげることとする。
 一、方陣。数を方形に並べて縦横並びに対角線上の和がすべて等しくなるようにしたもので、支那から伝わったのであるが、支那よりも著しく発達したものになった。
 二、円攅。同じく数を円形に配列したもの。
 三、角術。正多角形に関する算法で、あまり実用があるらしくもないが、非常に注意して研究されたものである。
 四、円周率五十位まで計算したなども実用はない。
 五、何千次という方程式になるような問題をも好んでやった時代があるが、こんな複雑なものが実用になろうはずはない。
 六、面積と辺の長さとその平方根との数を加えて、どうしたとかいうような問題もあるが、これらも同様である。
 七、四角や三角や円の中へ、円や正方形を容れたような問題が極めて多いが、これらは一向に実用はない。
 八、一つの問題を幾つもの方法で解いて見る。反対に一つの式で解き得べき幾つもの図形を作ったりなどして喜んだこともある。
 これらの例はまだ幾らでも書き加えられる。これらはすべて実用から離れたもので、これらが和算の主要部分を成しているのは、すなわち実用を去りて実用以上に進んだことを示すのである。
 和算家は問題を解いただけでは満足しない。得た結果を必ず術文の形に起草する。これは支那算書から伝わった風ではあるが、これを極端にやっている。これも実用のないことで、かえって数学研究上には有害なくらいなものであった。
 数学が実用を離れて進むのはいずれの国も同じことで、こうならなければ進歩はできないのであるが、いったいに何でも理論的にやって行かない日本人が、数学だけは実地適用の範囲を棄てて実用もないところまでやって行くのであるから、そこにある意味を認めなければならぬ。これは全く趣味としてやったものといい得られよう。
 数学の上でこの趣味性の大いに現われているものの実例をあぐるときは、和算書には図入りのものが極めて多く、『塵劫記』にも大きな絵が入れてあり、それ以後のものにも、絵入りの算書ははなはだ多い。はなはだしいのになると、一冊の書物が絵ばかりで、その上に歌のようなものを加えて問題を説明しているだけのもある。
 算額といって額面に算法の問題や解を書いて神社仏閣の絵馬にあげる風は盛んに行われたもので、現今でも諸方の神社の拝殿や絵馬堂などに幾らも見られる。福岡の箱崎及び住吉、厳島の絵馬堂、備中の一宮、道後の八幡、播州の尾上及び龍野、大阪の住吉、伏見の御香の宮、京都の祇園及び安井神社、大津の三井寺、信州諏訪及び別所、碓氷峠の熊野神社、上州妙義山、前橋の八幡社、上総の鹿野山、常陸の土浦、磐城の三春、それから塩釜神社等にはいずれも現存し、東京付近でも千住在の梅田不動、府中の六所明神、大宮の氷川神社等がある。
 近年はこの種の額を見に行くものもなければ、無用のものとなりて破棄され、はなはだ少なくなったのであるが、それでも上記のもの及びその他にまだ幾らもある。算額写しの残ったものもはなはだ多く、刊行になったものでも二、三種のみではない。和算の盛時にはよほど算額の奉納のあったものと考えられる。算額は寛文の頃から行われて、現存中最も古いものは元禄中、京都の祇園に奉納されたものである。従って和算の起こって間のない頃からのことで、その最後まで続いたのである。現存のものを見ても、また写しや原稿の残れるものを見ても、図形に彩色を施したものもある。この算額奉納のことは絵馬の流行に倣ったもので、俳句などの額と同様の意味のものであろうが、要するに芸術視してのことにほかならぬ。
 吉田光由がかつて『塵劫記』の寛永十八年版において十二の問題を出して解答を求めてから、他の学者が後の著述においてこれを解いてまた別の問題を提出し、さらにこの問題を解いて第三回目の問題を掲げた書物が出版されるという風で、百余年間も継続したことがある。かくして出した問題を遺題というが、遺題あるがために学者の研究心をそそり、その趣味を迎えたことは少なくなかったであろう。遺題を解いて公にするのは得意とするところであり、一種の競技ともなったように見える。ある意味では数学が競技に使われたともいい得られる。
 算額もまたそれ自身芸術〔品〕になったばかりでなく、やはり競技の役に立った。甲の算額に対して乙が改術を試みて他の額を上げるというようなことも行われ、これについて激しい論争の行われたこともある。
 和算の先生が門人に教授している間に、日を定めて競技の会を催し、問題を出し合って互いに解くというようなこともあって、その競技の問題集の残ったものもある。
 学友間においても面白い問題など得た場合には、こんな問題があるが君はできるか、などいって対者の能力を試して見るようなことは始終行われておった。
 和算家の中には武者修業のように諸方を遊歴して地方地方で算家として知られた人々を訪れては、問題を出したり出されたりしてそれを解くことをやったが、もしできないならば大いなる恥辱としたもので、数字上の道場破りがあったのである。中根元圭が久留島義太の塾を訪うてその道場を破ったことがあるが、それなどは著しいものの一つであろう。
 かく競技の行われたことは数学に趣味を感じてのことで、これらのことがその進歩に貢献しているのはいうまでもない。
 和算書には歌によって算法を説いたものなども往々にあるが、これもまた趣味の問題からきている。もちろん支那書にもその例はあるけれども、趣味の問題であるから行われたのである。


 和算には実用を離れた問題が多く、算額として神前にあげたり、また競技などに用いたことのあるのは前に説く通りであるが、和算家の人物から見ても趣味でやったものであることが知られる。
 和算はもと実用の必要から起きたことは前に論じた。ずっと後の時代になっても必要の分子は常に離れ去ることがなかった。しかし実用のない方面に進歩した。もはや実用上の必要のみによりてその進歩を説明することはできない。ここにおいて趣味の問題として学修されたことが大いなる原因になったことが知られるのであるが、和算家が如何なる地位を保ち、如何なる人物が和算に従事したかを考えるときは益々趣味に生きたものなることが明瞭になろう。
 和算家には種々の階級の人があるけれども、士族が最も多い。これは士族は遊食の民で余裕の多かったことも一原因に相違ない。けれども士族階級のものは算盤を手にすることさえ卑しんだものである。勘定を卑しむ風のできたのは何時頃からかは知らぬけれども、士族は扶持に生きて他の仕事に手を出すべき性質のものでないから、経済のことなどには迂闊になったのと、また一方にはこんな階級の連中が勘定高くなっては統御に困るところから益々経済に迂闊になるように奨励したのではないかとも思うが、ともかくも算盤を卑しんだのは事実である。算盤を卑しむから数学も卑しまれる。従って士族であって数学を修めたものは親には叱られる。友達には馬鹿にされる。全く人に隠れて内証で習ったのである。幕末の頃になってもその事情に変わりはない。現に近年物故した川北朝鄰ともちか翁のごときもそんなことをいっていられた。ある藩では武芸を尊んで数学など修めることは極端に抑えた所もある。若州小浜藩には算家というものは出ていないが、全くその一例である。地方の農家の人達が数学を修めたものでも土地によっては卑しむことをしなかったところもあるらしく、越中の石黒信由のごときは卑しめられた形跡がないけれども、数学のために尊ばれたというようなことは、まあ、ないといってもよかろう。こんな事情であるにもかかわらず、和算家がどうして和算を修めたかは問題である。勘定方などの人は初歩を修める必要から自然に趣味を感じてきたと思われるが、その他の人達はどうであったろう。和算家の中には関孝和の門人中に建部賢弘たけべかたひろの兄弟三人があるが、旗本の有力家の子であった。有馬※(「彳+童」、第4水準2-12-25)よりゆきは久留米侯で数学に達し、著述中には見るべきものもある。一関の家老梶山次俊も数学に達した。紀州侯の子で桑名藩主になった人も和算を修めた。磐城平侯内藤政樹も数学に長じた人である。こういう身分の人にも数学に達した人のあったのは、他に何等の目的があったとも考えられない。全く趣味のためであったというほかには理由がない。
 地方の農家で数学を学んだ人は概して富裕の人が多いようであるが、中には数学に没頭して家事を意とせざるがために家を失うたものもある。上州の斎藤宜義のごときがそれで、家を失わぬまでも生活に窮するようになったものは少なくないらしい。数学者として名を知られ、弟子でもたくさんに集まるようになると、謝礼といって幾らも受けるではなし、家に寄宿させて飯料もろくに貰わぬといったような工合で教授が商売になったものではなかった。
 都会では数学の教授によりて生業としたものもある。会田安明、坂部広胖こうはん、長谷川父子などがその例であり、山路主住は天文方に出ているが教授を内職として多少の収入もあったようである。藤田貞資、白石長忠、内田五観いつみなども同様であったろう。しかしそれはこれらの名望家であって始めてできるのであって、その他の人物に至りては、みじめなものであった。和田ねいは幕末における最大の大家であるけれども、数学の教授では生計が立てられないで、かたわら易占をしたり、習字の師匠をして収入を補い、また発明術を売って酒に代えたというが、その死後未亡人から人に送った書簡を見れば、和田の没したときは極端に窮しておって、ただ一人世話してくれるものもなくよほど貧乏なものであったことが知られる。御粥安本ごかゆやすもとの書状にも生計に窮している様子が見える。日下くさか誠は名望家で門下に多数の大家を輩出さしたので名高いが、しかし三畳か四畳の一室の所におったとかいうことが伝えられ、内田五観は著書の出版費がなくて叔母が小金を持っていたのをだまして取り上げたという話もある。こんな事実は幾らもあるが、和算が職業として成り立たなかったことはいうまでもない。書物を作っても『精要算法』、『点竄指南録』、『算法新書』、『求積通考』等は部数も多く売れたようであるが、普通のものは幾らも売れはしない。全く著者が版木を負担しなければならない有り様であった。
 かくのごとき事情であるから、和算家は世間から卑しまれながら、何の収入も名誉も地位も得られないことを覚悟をして、農家や商家の人になれば、家財を傾けてまでも和算の学修をあえてしたのであった。故に和算の老大家の存生せる人について聞いたところによれば、他に何の望みもなくただに碁や将棋を闘わすのも同じ意味で修めたということであった。全然道楽にしたのである。和算家の中には幾人かは和算のために諸藩に抱えられたり、または教授によって生計を立てたり、少なくも謝礼で小遣ぐらいにはなった人があるとはいえ、それは現今でも囲碁を弄ぶ人が中には上達して師匠となり、それで相当に暮らしているのと全く同一である。上州の萩原禎助翁のごときは自分等は道楽に数学を修めたので、少しも収入や応用などのことを思ったのではないから、今の人が職業を得るために修学するのとは違うと口癖のようにいっていられた。和算は趣味の問題であったと前にいったが、これを和算家の生活問題と併せ考うるときは、いよいよその見解を確かめられるのである。


 和算家は趣味の問題として和算を開拓したもので、実用を離れて芸術的に解したものが多いように前に述べたのであるが、日本では和歌が一般に普及していることと対比して、はなはだ面白いことであると考える。和歌はもと貴族の間に行われているが、武家が勢力を得るに及んでは武家の間にも広まり、徳川時代は平民が勢力を得る時代であって、商人階級が勃興し、侠客も現われ、平民が士族の株を買うて士族にもなれば、平民文学も起こり平民芸術もまた起こったほどで、全く四民平等を理想とした明治大正時代の準備をした時期であるだけあって、和歌のごときも人民の間にも広まってくる。数学のごときもやはり同じ時代の産物であるから士農工商各種の階級の人の間にしきりに学修者を輩出せしめた。和歌が平民的嗜好の産物といい得るなら、和算もまた国民嗜好の産物であったといい得られよう。
 和歌もしくは俳句ははなはだ短篇であって、神意即妙、感ずるままに口に従って出で、筆に拠りて成る。そして何人でもこれを作ることができる。いわば国民ことごとく詩人たり得るのである。いずれの国でも長篇名作はあろう。国民のあまねくこれを謡い、これを楽しむことはできる。けれども何人でも詩人たり得るものではない。漢詩は短いには短いけれども、何人でも作り得ざるにおいては他国の詩歌と同じく重厚である。ひとり和歌、俳句に至りては軽快であって情味に秀でている。その間に何等理智的なものを挟まぬ。そこに日本の特色が現われている。
 和算は趣味の問題たるにおいて和歌と同じい。日本人は元来趣味に生くるものである。故に碁でも、将棋でも、剣術柔道にしても、茶の湯や琴、三味線にしても、文学美術にしても、従って国民的の嗜好としてあまねく行き渡っている。この趣味の国において初めて和歌があんなに発達し得た。そうしてそこに和算が発達した。和算は全く和歌も同様な精神でできている。歌を詠むからといって、人にあまり尊ばれるわけでもないが、和算も同様にこれに通ずればとて、さまで尊ばれたのでない。和算家が老年になると大概は和歌や俳句を喜び、幾多の詠吟を残している。少し古い人については草稿も残っていなければ、子孫について尋ねることもできないけれども、さまで年代の経過せぬ人達はその子孫の家に俳句を記したものなどが無数に残存し、その事情をうかがうことができるのである。これらの人達について考うるに年少の頃に数学を修め、壮年時代に数学に苦心したのと全く同じ心持ちで俳句を作ったらしい。萩原禎助翁から現に聞いたことであるが、数学も俳句も別に変わったことはない、面白いことは同じだといわれたことがある。
 数学者ことごとく詩人たりとは面白い現象である。現在、物理学者〔寺田博士及び〕石原いしわら博士等が和歌の名手であるのも、和算家時代のことを思えば不思議はないのである。
 和算が如何に幼稚であり、数学として整うていないものであるといっても、和歌や俳句のように簡単ではない。従って歌人の多いほどに和算家は多くなかった。しかし和算家のすべての人がむずかしい術理を考えることを何の苦ともせずに、これを楽しんだのは歌人が歌を詠んで楽しんだのと同様であった。
 和算は数学である。数学は論理的に固めたものである。しかしながら和算においては必ずしも論理に拘泥せず、従って誤ったものもずいぶんあるが、和歌のように簡潔にできているような気味があるかと思われる。途中の処理方法などは略してしまって、最後の結果にのみ重きをおいた。その見込みを付けるところが歌の想を得るのと同じようにゆくのである。そこを楽しんだのである。


 和算は支那の数学を伝えてその上に進んだものである。しかしながら支那から伝えたそのままで模倣のみしていたのではない。極めてよくこれを応用運転し、もしくは改造同化した跡が見える。
 例えば招差法は元の授時暦に使用されたものが伝わったと思われるが、直接もしくは間接にこれを応用して諸種の問題を解いている。剰一術は秦九韶著『数書九章』中に見るところの大衍求一術と全く同一でただ配列の仕方が違うだけで、やはり支那から伝わったものと思われるが、これを使用して処理した問題は支那の算書中にはあまり見当たらぬにもかかわらず、日本では諸種の問題に応用して、立派な成績を得たものであった。
 勾股玄の関係でも支那の算書中にあったのだけれど、これを適用して図形関係の問題は何でもやったものである。後には他の進んだ関係をも作ってそれを手段に問題の処理をするようにもなったが、初めは勾股玄応用の一天張りでありながら、種々様々に活用したものである。
 この種の例ははなはだ多く、支那数学をよく応用した頃から、応用の才能は明らかに認められ、後には和算家自らの創意したる事項をも巧みに応用している。これ全く日本の文明一般に見るところであって、日清日露の両役において、西洋の戦術を使用しながら、これが活用を巧妙にしたのも一般であろう。昔の律令制定でも、明治の法典編纂でも全く外国のものに依拠して、それがうまく運用されているのもまた同じである。
 和算家は支那数学を巧みに応用し得るばかりでなく、またはなはだよくこれを改造した跡も見える。


 算盤そろばんは支那にもあって支那から伝わったものであることは明らかである。初めこれを支那から伝えて、そうして幾年かの後にはあまねく用いらるるに至った。これも日本人が外国のものをよく採用することの一例であるが、しかし支那から伝わったそのままの形で何時までも存続したのではない。支那の算盤は『数学通軌』及び『算法統宗』に初めてその図が見えているが、現今各地で使用されるものもこの図に見るところと大同小異で、三百数十年後の今日に至るまで、さまで変化していないように思われる。その形状は梁上が二珠であって、梁下の軸は極めて長く、はなはだしいのになるとあいたところが五珠の占めた長さほどあるものもあり、珠形は横断面がまず楕円形ともいうべく、はなはだ鈍いものである。こんな形のものであるから、われわれ日本人から見ると敏活を欠いたように見える。もっとも支那人は爪を長くしているとか、風俗が同一でないとかのために、支那人にとってはあんな形である方が使用しやすいのであるかも知れないけれども、日本人の目からは妙に見える。
 しかるに日本で現今行われている算盤は梁上二珠のものもないではないが、まず一珠のものが多く、珠形は稜張って、梁下の軸にあいた場所が極めて短い。支那の算盤のようにゆったりしたところがなく、はなはだ繊細で、軽便で、よほどきびきびしているように見える。実際の使用上においても逓信省貯金局あたりでやっているように極めて敏捷なものである。支那と日本の算盤の形状はただちに両国民の気風を表現するものといいたい。
 日本の現今の算盤のような形になったのは、次第に変遷したのであるが、現存の最も古い算盤は前田利家の遺物で、梁上の二珠であることは支那のむのに同じく、珠形に厚みのあることなども支那のものに近いけれど、この算盤ですらも、もはや支那のものそのままではない。『塵劫記』が算盤の図を載せた日本最古の書物であるが、その図には珠形が支那のものに似ている。それが少し後の時代になれば現今のもののような形に変わってくる。
 かく算盤の形が次第に変わったのは、国民の性格に適するように改造同化したものである。
 算盤の形状ばかりではない。使用の方法においても、『算法統宗』に書いてあるような仕方ばかりしてはいなかった。次第に軽便になって、開平開立には半九々などいうものも現われ、計算を簡単にすることになった。算盤は日本人の性格に極めて適当したと見えて、その算法の改良進歩は、鋭意これを企てたのである。
 算盤では開平開立もできるけれども、算盤の長所は加減乗除の捷軽なところにある。支那では古来算木が用いられ、算木は日本へも早くから伝わっていたようで、天元術の代数学は実に算木で行うたものであるが、算木で高次方程式を解くのは理論としては、はなはだ進歩したものであるけれども、実際の運用は決して容易なものではなかった。現に算木を並べてやってみても、ずいぶん厄介なもので、手数を要することもはなはだしく、またはなはだ間違いやすい。しかるに軽便な算盤がある。できるならば算木を使用せずに算盤に依頼したい。しかし算盤では高次方程式を解くことはできない。何とかして工夫してみたいというのが和算家の間に広く行き渡った考えであった。かくしてむずかしい問題をも加減乗除の演算だけ繰り返し繰り返し使用して解き得るような方法が考え出された。あるいは級数の使用となったり、または逐次近似法とでもいうべき種々のものの成り立ったのは、その結果である。和算には方程式解法について幾らも見るべきものがあるが、算木を避けて算盤でやりたいという理想の実現したものにほかならぬ。
 日本では支那から伝わった算盤を改良し、敏捷にし、そうしてこれが適用によって数学上の大いなる進歩ともなったが、支那では算盤は商業用等に使用されたばかりで、算盤について日本で見たような理想も起こらず、またあんな結果もあげられたことはないようである。この点においても日本人が運用の上に常に敏活を期し、よく成功するものなることを示している。


 算盤の改良及びその影響によりて日本の数学が幾多の進歩を成したことは今説いた通りであるが、算木もまた支那から伝わり、日本の数学構成上に著しい関係を持ったものである。図形関係のもの等を除き、日本数学の根幹は大体において算木関係の算法から換骨脱体したものといっても大過あるまい。
 算木はもと※(「竹かんむり/卞」、第4水準2-83-31)、籌、※(「竹かんむり/弄」、第3水準1-89-64)、策等の名をもって呼ばれ、その形状大小もしくは使用法等にっきて多少の相違はあったろうけれども、要するに後の算木の前身であって、支那では古い時代から行われたものである。支那で早くから開平開立の算法が立派に整い、その方法を推し広めて二次三次の方程式の解法も成立し、また一次連立方程式の解法もできるし、後には古来の開平開立の方法を拡張して高次方程式の近似解法が成り、天元術、四元術の進歩した代数学が発達したなど、皆算木を使用してできたのであった。支那の算木使用に基づける器械的代数学の成立は極めて著しいことである。数学史上、いずれの国についてもかくのごとき類例はかつて知られておらぬ。
 かくして成り立った支那の代数学が日本へ伝わった。これを伝えた書物は『算学啓蒙』である。『啓蒙』には天元術は使用されているが、容易に理解され得るような説明はされておらぬ。支那では宋元時代に発達した天元術が明時代にその伝を失い、清初には天元術を記した書物はあっても理解することができなくなって、西洋の代数学が伝わったのでこれと比較して、ようやく理解されることになったような事実があるが、日本では難解の『啓蒙』に基づいて独力で天元術を理解し得たのは、清初の支那数学者よりもやや優れていたようである。和算家が天元術を理解し得た筋道は未だ充分に明らかにされないが、よほど苦心した跡は種々の史料に基づいて察せられる。天元術及び天元術によりて得たる方程式の近似解法は和算家の間に広く行われ、これに使用せる算木も現に存するものが必ずしも珍しくない。
 支那の天元術においては方程式の一根のみ採り、二根以上に注意することはなかったのであるが、日本では天元術が理解されて間もなく、二根以上あることを注意するに至った。しかも初めは問題に無理があるとして放棄したこともある。天元術で試みるような代数演算を二重三重に試みて行う算法もできた。和算家のいわゆる演段術はこれである。平たくいえば補助未知数を使って二つの方程式を作り、その補助未知数を消去するものである。支那の四元術は二つもしくは四つの方程式を作って消去を行うことはやっているが、日本の演段術は、四元術とは仕方が同じでなく、また四元術を記した『四元玉鑑』が日本に伝わっていたらしい形跡が見えない。
 関孝和の『伏題』に初見のいわゆる維乗法は西洋数学の行列式に当たり、西洋より先だって日本で発達したものであるが、これは演段術の一種であると同時にまた一次連立方程式の解法にも関係したものであった。従ってやはり算木の代数学を基礎として、その上から成り立ったものであった。
 演段術から点竄術が出で、それから天元術の解法から二項展開法を生じ、これを応用して円理の算法が成立し、円理が発達して日本の数学は極致に達するのである。
 かくのごとき事情であるから方程及び天元術の器械的代数学があって、それから一歩を進めて日本の代数学はできあがったといい得られる。従って算木の算法から系統を引いたものである。けれども方程及び天元術が元来算木を使用して演算すべきものであったに似ず、日本の演段術、維乗法、点竄術、円理等はいずれも筆算式の数学であった。故に算木の系統をば引いているけれども、算木の影響は間接であって、直接のものではない。よって支那の代数学は算木の直接の影響から生まれ、日本の代数学は間接の影響によって成立したといってよいのである。かく和算家は支那の器械的代数学を改造して日本の筆算式代数学を造りあげたのである。全く支那数学の改造にほかならぬ。


 日本の代数学は器械的代数学から系統を引いているとはいえ、筆算式に発達したのが特色であって、筆算式の代数学はその当時西洋で行われていたところである。西洋との交通は戦国の頃から行われ、鉄砲も伝わり、医薬も伝わり、家康は英人三浦按針を用いて造船のことをつかさどらしめ、ポルトガルの帰化人沢野忠庵は西洋の天文学を伝え、林吉左衛門及び小林義信等が西洋の天文学を学んだこともあり、いわゆる町見術すなわち測量法はオランダ人カスパルが伝えたといわれ、寛永中から鎖国になったとはいうものの、それ以後に外国から医術を学んで帰った鳩野宗巴がいるし、同じ時代にオランダのライデン大学で医学を学び、そうして数学をヴァン・ショーテンに学んだという日本人 Petrus Hartsingius のおったこともあり、日本の数学はあるいは西洋の影響を受けたではないであろうか。
 それは何人にも自然に起こる疑問である。少しく論じなければならぬ。
 日本で代数学の発達する〔の〕は寛文頃から以後のことである。西洋の影響を受けたとすればこの時代のことでなければならぬが、この頃にはすでに鎖国になって、わずかにオランダとの交通はあるけれども、その交通も長崎の一港に限られ、蘭書を読むこともほとんどなかったのであるから、直接に影響を及ぼし得ることに大いなる可能性はない。西洋の天文学を伝えた人はあっても極めて幼稚なもので、代数学にまで関係したほどのものではなかったようである。オランダで数学を学んだ日本人はあっても、日本へ帰った形跡がない。もし帰ったとすれば、幾何学に造詣のあった人らしいから幾何学を伝えそうなものであるが、幾何学然たるものは発達しなかったのが事実である。南蛮から帰ったという医者も数学に関係のあった人ではないようである。これらの方面からはどうもオランダの数学が伝わったろうという証迹があがりかねる。
 関孝和が方程式論関係の事項について種々の記述を残しているし、中心周の問題のごときは西洋では関より少し前にスイスのグルダンが同様のことを得ているような事実もあるから、もし西洋の影響を受けているならば、これらの事項であったろう。関孝和は日本の数学を樹立する上に最も大なる功績のあった人であるが、関はある時奈良のある寺に何であるか分からぬ書物があると聞いてこれを調査し、それから数学が上進したという話もあり、また関の著書を検するに、年代を記したものは刊行の一冊を除きて、およそ五年の間に限られている、という不思議な事実がある。この二つの事実を併せ考うるときは、関の業績については大いに疑うべきものがあるかと思われる。はたしてしからば上述のごとき事項はオランダもしくは西洋から伝わったものではないか、と推定し得られようか。この推定を得るためには少し理由が薄弱なようである。
 関孝和は如何にも方程式論めいたものを説いているが、それ以前にも方程式に二根あることが知れ、しかし問題が悪いためにこんなことになるのだから、二根が出ないように問題の諸数を改めなければならぬ、というような考えを出した人がある。その問題というのは例の遺題として出たものであった。天元術を正当に理解するために努力して成功した和算家が、天元術の応用において一歩を進めて、ここまで来たのは、外国伝来の知識によらずともでき得べきことであったろう。関孝和がその後を受けて、方程式の吟味を行うたり、根数のことなどを考え及んだのは自然の進路を進んだもののように思われる。特に関が演段術を立てたのは偶然に提出された問題を解くために使用したのであって、その問題は従来の天元術だけでは容易に解き得べきものでなかった。この演段術は方程式論様のものの記述よりも数年前にできている。かつ演段術の一部として成り立った維乗法すなわち行列式の処理は西洋の数学上未だないものであって、関の発明か否かは不明であるが、ともかく、和算上に初めて現われたものである。すでに演段術及び維乗法が成り立ち得るほどならば、方程式論様のものの論究され得ることも、またもとより当然である。必ずしも西洋からその知識を伝来することをまたない。もしはたして疑うべしとせば、支那及びインドの関係如何ということの万が一層重要らしいのであるが、現在の歴史知識の程度においては、それも未だ問題とするに足らぬようである。これについては後に少しく説くこととする。
 ただ少しく疑うべきは中心周の問題である。関はこれを公理的に使用しているが、前の時代にこれが準備になり得たろうと思われるような事項が見いだされていない。しかしこの一事だけで論定することはできない。
 今説いたのは和算上の知識についてのことであるが、筆算式の代数学の発達したという点はどうであろう。これは問題の主要点であるが、上述のごとき論断を下し得るものならば、この点においても、また必ずしも西洋の影響はなかったといい得ようと思われる。
 筆算式の代数学はまず演段術において初めて現われたといってよろしい。演段術は大体において天元術で行うような仕方で方程式を作る。その天元術と違うところは、補助未知数を使うから、今いったような方程式の係数が代数式になっていることである。従って算木で並べることはできない。筆算式で書いて行うものとなった。しかるにかくして現われた代数記法を見るに、『算学啓蒙』等において方程等の算法を記述する上に使用した書き方をそのままに採用し、場合によってはこれを推し広めたものにほかならぬ。特に記号としては勾とか股とかいうごとき漢字をそのままに記して用うることができるのであるから、字母で文句を綴る西洋で代数記号がその代表する数量の名称そのままのものを使用することができないので記号の使用を考案することが至難であったのと同日の談ではない。漢字の流行が和算家の代数記号使用上に大いなる便宜を与えたことは認めないわけにはゆかない。
 点竄術といえば和算上では極めて重要なものであるが、その起原についてもその真義についても実ははなはだ不明である。しかし大体において記号を使用し筆算式に代数学をやってゆく仕方であると見て差し支えなかろう。かく解き〔し〕得るものならば、点竄術の代数紀法は演段術に使用されたものから起こったのである。かく日本の代数記号は支那数学の系統を引いたもので、単に文字だけを使用せず、必ず縦に一線を引いてその右方に文字を記す風があったのは、算木の算法を標準に取ったからであって、方程式の書き方なども始終支那で行われた通りの形式を改めなかった。日本では西洋のように筆算式の算術も起こらず、数字はすべてアラビア数字に拠ることをしなかった。
 しかし支那では算木使用の代数学は立派な発達を遂げ、かつその演算を記載する仕方もできたにかかわらず、一歩進んで筆算式に改めて盛んに運用することは支那ではついに発達しなかったのに、日本でばかりその改造及び流行を見たのであった。


 前章説くところのごとく、日本数学の根幹は西洋の影響でできたものでないと思われるけれども、西洋数学の知識が全く入り来らぬわけにはゆかなかった。
 支那では明末から西洋の伝道師等が盛んに幾何学、天文暦術等の西洋の学術を輸入し、これを修むるものも断続している。伝道師等の手に成った訳書も多少日本に伝わったかも知れないが、いわゆる禁書の中に入れられたので未だ影響を与えることにならなかった。しかるに清の梅文鼎は『暦算全書』を作り、官撰の『数理精蘊』のごとき書物もできて、西洋の数学をも記述したものが日本に伝わった。特に『暦算全書』のごときは訓点さえ付され、西洋の三角法はこの書によりて日本に伝わった。『数理精蘊』には対数表も採用され、日本でも後には対数を使用することになった。球面三角並びに対数に関する問題は和算家の注意をひき、諸書に多く見えている。
 楕円に関する問題は早くからあるけれども、寛政暦作製のときに支那の『暦象考成後篇』によりて楕円軌道の説を採用した前後の頃から、楕円に関する研究は著しく盛んになったかとも思われる。
 重心の問題もまた西洋から伝わって和算家の注意をひいたらしく、擺線の問題も洋書を見て思いついたものであろう。少なくとも西洋天文学における星辰運行の軌道を見てからその研究は起こったものらしい。
 かくのごとく、和算上には西洋の影響によって成り立った部分も少ないとはいわれぬ。寛政以後、特に文化文政以来は西洋の暦算書が幾らも伝わった事実があり、天文暦術においてはラランドの天文書すら読破されているが、しかし数学の方面ではそこまでに行かなかった。高橋至時よしときの『暦書管見』を見るに、天文書のことであるから、積分の記号などにも出会ったことが知られるが、日本の極数術の結果と同一であるから西洋の算法も正確なことが知られるなどと記している。文化頃に出た川井久徳の草稿にもローマ字を記したところがあったり、また、ローマ字で印を作ったものなどがあり、白石長忠なども同様で、それ以後にはこの種のことはよく行われ、内田五観は蘭書を所有していた事実もあるし、その塾をマテマテカ塾と呼んだり五観の門派において詳証学と称してマテシスと仮名を付したこともあるし、また他に度学と称して西洋まがいの数学の書物を作ったものもあった。これらの事実から推すときは、和算は意外に西洋の影響が多いのではないかと思われるかも知れないが、実際においてはさまで影響はなかったと思われる。
 天文方の暦術家には蘭語などのできた人もあった。しかし天文方の人々は数学のことにはあまり関係しない。数学者には蘭学に通じた人はないようであった。内田五観は詳証学ということをいったり、マテマテカ塾という名称は使用しても、実際蘭学の知識がどのくらいあったかは疑問である。この人でさえも蘭書を読んだのではなくして図など見て考えただけだろうという話もある。詳証学と称した書物がはたして作られたかも知れておらぬ。度学という書物は残っているものがあるが、もとより初歩のものである。
 洋算の算術書の刊行されたのは柳河春三しゅんさん及び福田理軒などの書物が初めであって、幕末のことであった。洋算の代数書は維新前には一冊だも刊行されたものがなく、写本で伝わったものも見ないのである。いわんや、それ以上の高等のものに至りては何等成書の書かれたものがない。
 一方において和算家が西洋の数学を如何に見ていたかも考えて見なければならぬが、天文暦術においては支那・西洋は日本よりも優れているが、数学の一科に至りては神国は世界に冠たりというようなことを記したものが、多く諸書に見えている。これはあながち誇言ではあるまいと思う。日本の数学はもともと支那から伝わったものであるけれども、今や支那より進んでいるのは事実であった。特に、支那の新しい算書が多く日本へ伝わっていたようでもないから、支那数学の一部分と比較すれば、益々日本の方が優っている。西洋の数学は日本の数学に比して、すこぶる優秀であったに相違ないが、高尚なものは語学の実力なき和算家の読破し得べき道理もなく、初歩のものはまたいうに足らぬ。こんなわけで和算家は西洋数学の優秀なところに接触し得ず、従って何等の理解も持たなかったのである。しからば和算家の眼中に西洋数学が日本より劣ったものに見えたのも無理からぬことであった。内田五観のごとくマテマテカ塾という塾名を用うるほどの人でさえも、日本が最も優れているといった。和算家の間に広くこんな思想が行き渡っていたというのは、実際西洋の数学から影響されたことの、はなはだ少なかったことを示す一つの証拠であろう。
 支那で西洋の微積分書『代微積拾級』の訳されてから、この書は日本へ伝えられ、訓点を付した翻刻もできた。後その原書たるルーミスの書物が伝えられ、これを読もうとしても、さらに理解ができないので支那訳書を土台として大なる努力を費やし、それからわずかに了解し得るようになったということも伝えられている。


 前節において和算上に西洋の影響はもとよりあるけれども、実際は意外に少ないことであろうと述べたが、和算家の研究した問題が如何なる性質のもので如何に変遷したかを調査することは、それ自身にも極めて重要であるとともに、また外国の影響如何を決定する上にも有力な論拠となり得るのである。
 和算の栄えた二百余年間に取り扱われた問題は極めて多い。けれどもその来歴を明らかにし変遷を尋ねるときは、少数のものから転化発展したことが知られる。今微細の点までことごとく列挙することはできないが、主要のもの数種をあげてみよう。
 一、楔形の問題はもと支那算書から伝わったもので、和算書にも早くから見えているが、諸算書に多く出ているからよほど注意されていたのである。初めは長方形のものに限っているけれど、後には円形の底を有するものが現われ、さらに楕円底のものも取り扱われ、初めは体積の問題が主であったが、後には円楔等の表面積も問題になり、截口の曲線も問題になる。この曲線は和算上には大切なものである。
 二、円の弧を回転して得た立体に関する問題は関孝和の著書に初めて現われたが、これも諸算書に種々に論ぜられ、和算上の重要なるものである。初めは体積及び表面積の問題であったものが、後にはその立体内に球を幾つも容れたものを問題にすることも起こり、またその立体面の截口の曲線も論ぜられるようになった。環楕円と称する曲線は、かくして見いだされたのである。
 三、正多角形の内接円の半径と辺の長さの関係はずっと古くから問題になっているが、後の時代まで常に論究せられ、処理方法が段々に進んだ。これに関する文献は少なくない。
 四、円周率及び円の弧に関する問題もまた最も早く現われたもので、その後種々論究せられ、ついに円理の一科を成すに至った。円の処理が進みて楕円も同様に扱われるようになった。
 五、球、角錐、円錐、円柱等の問題も早くからあるが、円の処理の進むにつれて円柱を角柱にて突き貫いた体積の問題が出る。これに引き続いて円柱を円柱にて穿去したものの問題が処理され、それに成功すると二つの円柱を一つの円柱で穿去したもの、球を円柱で穿去したもの、角柱で穿去したもの、円錐を円柱で穿去したものなどが現われ、初めは穿去体の体積の問題であったものが、穿去した交叉線の周、内面積などの問題も考えられるようになる。
 六、初め円の中に二小円と他の一円とを容れた問題がある。それからその二小円が等しくないものの問題となる。かく円内に三円を容れたものから数円を環容したものになる。この種の問題から種々異様に変わったものが生じ、また種々の面白い結果も得られた。
 七、勾股の長さを整数にて得たいとの問題がある。それが斜三角形にも広められ、他の種々の図形の場合にもなって来た。
 こうしてまだ幾らもあげることはできるが、途中から突然と発現した問題というものは幾らもない。この種の研究を試みて新奇に現われた問題を検出し、外来のものか否かを考察することが大切であるが、和算の諸問題は大部分由来するところがあって、少なくも問題だけでも日本国有のものが多いように思われる。この問題は研究着手中であるけれども、和算の問題に外来のものの少ないことだけは、あらかじめいい得られるであろう。もとより初めに支那から伝わったものは論外である。


 和算家の使用した諸方法が如何なるものであって、また如何に変遷したかは最も大切な事項であって、数学史に指を染めるほどの人ならば、これを度外におくものはないのである。従ってこの方面は最も明らかになっているが、その研究もまだまだ完成の域に達せぬ。かつそれらの方法がはたして日本独創のものであるか、外来のものであるかを決定することは決して容易の業ではない。日本で他の国に先だってできたものがあれば、それは独創のものといえるが、この種のものは多くない。しかし外国にあるからといって、それが必ずしも外来のものであるとは決していわれぬ。どうして成り立ったかを考え、外来の形跡があるかないかを察し、外来の影響なくとも成り立ち得たのであるか否かの準備及び機運などを決定して、それから論じなければならぬ。
 第一に維乗法すなわち西洋の行列式関係のものが西洋に先だって発達した。整数論に関する文献は非常に多いのであるが、その中で西洋よりも先鞭を付けたものが幾らもあって、ヂクソン氏の整数論史を見てもその事情が知られる。氏はわれわれが外国語で発表した僅少の資料に基づいて調査されたのでも幾らか独創のものが見いだされたのであるから、整数論関係のものだけでも精査したら、外国よりも先だってできたものがかなりあるであろう。一つの円に接する四円の六接線の関係も西洋でケージーが得たよりも三十年も以前に日本で知られ、かつ盛んに応用されておった。他にもなお外国になかったもので日本で得られたものは幾らもあるであろう。これら外国に先だってできた事項が幾らもある以上は、日本の数学は全部ことごとく外国から借りきたったものでないことはもちろんである。日本の数学に独創的の部分のあることはもとより事実である。
 角術すなわち正多角形の算法に関するものもまたよほど発達したものであった。その調査は一通りできているが、まだ発表しておらぬ。この事項が外国で如何に発達しているかはまだこれを明らかにせぬが、その発達の事情から考えて日本固有に成り立ったものであるように思われる。支那及びインド等にはこんな発達はなかったようである。
 廉術または逐索術と称し、もし充分に発達すれば数学的帰納法のごとき証明法にもなり得たろうと思われるような研究方法があるが、前述の角術のごときもこの方法に訴えたもの多く、維乗法もこれにより、円理の算法中にもまたこれを採用したところがあり、別して円内に多数の円を環容したものの問題のごときは全くこの方法によってできたのであるが、この方法の行われたことも固有の発達であろうと思われる。そうしてその結果、幾らも面白い関係を得ている。まことに面白い仕方であるが、証明が充分にできているとはいわれぬ。そうして不完全帰納法は和算家の好んで用うるところであったが、それと関係のあるところなども、日本固有の発達に属することを示すように思われる。廉術が証明法にならないで、一種の研究方法になったのは、論理思想に短にして運用に長じた日本人の特色の現われであるとも見られよう。逐索術の研究も着手中であるが、まだ完成しておらぬ。
 和算には幾何学らしいものはない。図形に関する問題ははなはだ多いが、概して代数的の処理によって解くのである。その処理に当たりては初めは勾股玄の関係ばかり利用したものであるが、後には次第に他の関係も使用されるようになり、ついには安島直円あじまなおのぶが二円と接線との関係について立てた関係式ができて幾何学的の処理上に有用なるものとなり、次いでこれに代わりて別の関係式が成り立って種々のこみいった問題が取り扱われ、例のケージーに先だってケージーの定理を立し得たのもこれに基づいてのことであり、ケージーの関係を得てからは、これがまた他の問題を解くために役立つに至った。かようにして一種の幾何学が成立しかけていた、といってもよい。極形術と称するものは理論としては不完全で、往々誤ることもあるが、また役立つことも多かった。これによって、そうして一歩を進めたものは西洋の反形法に類するごときものになったのであるが、この時すでに幕末にして和算は放棄さるることとなり、なお一段の進歩を見ずに終わった。しかもこれらはすべて日本固有に発達したものと見て差し支えないようである。日本の代数的幾何学には他に見ざる一種の特色があった。
 円理は西洋の微積分学に対比されるもので、あるいは西洋の影響がその発達上に関係してはおらぬか、と最も多くの疑いを寄せられるものである。しかし日本で発達した径路をつまびらかにするときは、さまで疑わないでもよさそうである。もちろん断然いささかの影響もなかったとはいい得られぬが、次第に発達した各段階の前に相当に準備のあったこと、大体において支那の天元術を基礎として成り立った方法を土台とし、日本固有らしい特色のそなわっていることなどから推して、外国の影響はなくとも、日本で固有にあれだけのものは成り立ち得たのであろうと考える。これについては研究がまだ不充分であるが、詳論は別に企て、準備中である。
 この種の研究は、これを和算の各部分全体について試みてみるのに、どうしても和算の発達は外国の影響が多少あったのはいうまでもないが、大体においては独特の発達をしたものと見られるのである。かくして方法を調査しての結果は問題の考察からきた推論と一致する。


 以上の論究において和算は大体において固有の発達をしたといい得られようと思うが、ここに少し疑問としたいのはインドなどの関係である。この関係は従来ほとんど問題にされたことはない。しかし問題となり得るのである。
 関孝和の事蹟について少し疑わしいもののあることは前に述べておいた。関が奈良で見たという未知の算書ははたして何ものであろう。伝うるところによれば、何時の頃に伝わったものであるかは知らぬものであったという。無論支那から伝わったもので、漢文で記されたものに相違ない。漢文であるから関孝和が読み得たのであろう。しからば支那のものか、もしくはインドのものの支那訳ではなかったろうか。疑いは支那、インド、それからやや下ってアラビアにかかわる。
 支那では古来数学がしばしば起こりまたしばしば衰えた。そうして古来多くあった算書が大部分は滅して伝を失うた。関の事蹟に対して、しばしば引き合いに出される劉宋の祖沖之の著書も伝わらなかった一つである。最後に発展したのは宋元時代であって、それ以後は見るかげもなく衰退し、宋元時代のものも理解されなくなるし、またこの時代の算書中には一時伝を失い、支那では後に朝鮮版を発見して回復したものもあるし、日本に保存されて支那にはなくなっていたものもあった。この時代のものがあるいは関の手に入らぬともせぬ。元の『四元玉鑑』は日本へ伝わったらしくないけれども、四つ以下の方程式を立てて消去を行うというのは関孝和の演段法とやや趣意が一致する。『四元玉鑑』を作るほどの才能をもってしては、まだそれ以外に種々の創発術があり得なかったであろうか。かつ授時暦の作者郭守敬のごときもよほど才能のあった偉人であるが、その著書が多く伝わっておらぬことは記録に徴して察せられる。
 授時暦に使用した原則のごときは、支那の前代からの暦術上の準備を考えるときは、外来の影響なきも成就し得られようと思われるけれども、しかしあの時代にはアラビアの関係がある。元では支那の天文台とともに回々の天文台をも置いてあった。西域から※(「石+駮」、第3水準1-89-16)ほう手も聘せられる。当時の数学の発達は根本においては断じて支那固有のものであるが、多少の影響を受けたことはもちろんあろう。少なくもアラビアに接したことが好個の刺激にはなったろう。アラビアの実験を尚ぶ実風〔学風〕は多少伝わったらしい。郭守敬の作暦に際して観測の事を厳にしたのはその影響ではなかったであろうか。しからば郭守敬またはその他の人の手でアラビアの数学が伝えられているかも知れないし、また郭氏自身等が立派な著述があったかも知れない。しかし後の時代がはなはだしき衰退の時期であるし、元は久しからずして滅びるから、算書のごときも伝わり難い事情があったろう。しからばその当時のものが奈良を経て関の手に入ったことがないともしないのである。
 奈良の疑問の書物が宋元時代のもの、または当時のアラビア訳書でないとすれば、いずれの時代かのインドの訳書ではなかったろうか。インドの数学はよほど発達したものであった。そして隋書等にインド算書の支那訳書のあったことも明記されている。その後唐になっては瞿曇姓の人が天文方の長官ともなり、暦書の漢訳などしたこともある。故に未知の印度算書が漢訳されて関孝和に伝わらなかったとはいわれぬ。
 かくして演段法あるいは維乗法は支那でできたものではなかったろうか。関孝和の説いている方程式論のようなものはインドまたはアラビアから伝わったのではなかろうか。これは極めて不確実であるけれども、全くあり得ないことではなかった。
 しかしまた一方においては、関孝和は従来考えられたように当時において他の学者より段が違って傑出していたとは考えられない。歴史の研究が次第に進むに従って、当時の人の中にも関の業績中の一部分と同等、またはそれ以上のものを残したもののあることが追々と知られてきた。維乗法のごときは、関と同時代に大阪におって説いた人もあり、特にその人は公刊している。この時代の写本類は残存のもの極めて少なく、関孝和の著述類は関流が栄えたために幸い幾らも保存されたのであるが、他の人達の流派はほとんど後世に存続しないので、刊本以外の著述は一、二の例外は別としてほとんど伝わっていない。もしそれが伝わっていたとすれば、立派なものもずいぶんとあったであろうし、関との業績上の懸隔はさまで著しくないことが知られたであろう。維乗法のごときはあるいは関以外の人が創意したものかも知れぬ。かく考うるときは、奈良の一件は当時の人の業績が集められておって、関はそれを手に入れたものかも知れぬ。こう考えれば外国の関係ではなくなる。要するに維乗法は支那にあったか否かは、まだ分からぬのであって、日本でできたものと見るのが穏やかである。
 この二様の見方はできるが、そうしてこの二様の見方によって関孝和に関する疑問は解決し得られるのであるが、この二つのいずれが成り立つにしても、これだけで日本の数学の歴史的価値は多少動くとするも、全然没却されてしまうものではない。
 この関係においてもう一つ考えて見たいのは、日本の数学がインドに似たところがあるらしいことである。これは充分に比較してからではないと論定はできないが、とにかく、整数論、連分数、統術などの方法または結果に類似したものが幾つか存在することを注意しておきたい。しかし類似は如何にあっても、インドと全く同一でないこともまたもちろんである。従って、たとい陰密の間にインドの影響を受けたことがあると仮に考えたにしたところで、整数論等において日本固有の発達のあったことを否定し得られない。前に推論した結果は今の議論のためにあまり動かぬのである。


 和算家の使用した推理の仕方には帰納的のものがはなはだ多い。前にも述べた廉術または逐索術と称せらるるもののごときはそれである。角術においては五角形、六角形、七角形と次第に各場合の方程式を作り、その諸方程式を表に現わして、それから次々の方程式の成立する法則を推すことになっている。行列式でいえば、三行の場合から四行の場合、五行の場合と次第に進む。円内に多数の円を環容した問題にしても円数が四つのとき、五つの時などについてこれを解き、その次々の関係を定め、それから次へ次へと推して一般の通術を求めるという風であった。
 建部賢弘の『不休綴術』は種々の算法について数が三である場合には云々、四である場合には云々、五である場合には云々、従ってそれから推して一般に云々の仕方を取るべきものであるというように考えて、帰納的に算法の説明を試みたもので、いわば建部が理想とせる数学的推理の方法を教えた教科書であり、方法論の著述であるとも見られる。この書をもって有限もしくは無限級数によりて説いたものだと説く人もあるが、論理上そうも見られぬことはないが、そう見ただけでこの著作の真意を解し得たものとはいわれない。帰納的に推論したいという精神を寓した、意義深いものと見るのが至当である。和算の方法に帰納的のものが如何に多きかを考え、また最も重要な部分を占めていることを考うるときは、『不休綴術』があれだけでまとまった一冊のものになっているというのは、この精神を高潮するためのものであったことはいうまでもあるまいと思われるのである。
 零約術というのはまず連分数であるが、これを説く仕方を見ても、やはり同様な精神が見える。初めに数字上の値を出しておいて、その値を処理して公式を作って行く。初めに幼稚であったときの遣り方もそうであるし、連分数の考えが整うた頃にもやはりそうであり、ずっと後にこれと関連して面白い公式が案出される頃になってもやはりそうであった。
 円理は和算上最も大切なものであると見なされたものであるが、初めに円理で公式を作ることになったのも、また同様の手数によったのである。その例は『括要算法』に見える。次に級数の形になるのも、やはり同様であって、その仕方は『大成算経』等にでている。宅間流の円理なども、皆同じ趣意が認められる。初めに数字上の値を算出して、それから推論するという仕方を止めて、二項展開法を用いて初めから解析的の方法を適用することになってからも、やはり帰納的の推論を避け得なかった。弧を二分した場合、四分した場合、八分した場合と次第に展開法を進めるが、その次々の展開の結果を対比して諸級数の係数を比較し、それから帰納して一般の場合を確かめ、さらに無限に推し及ぼすという仕方である。帰納といっても、もとより不完全の帰納である。もし論理の厳密を期するときは、これだけでははなはだ物足りない。従って西洋人の目からは、この解析方法が極めて不完全に見え、西洋数学の結果を知って試みたもののように、解せらるることもありがちである。しかしながら和算家の好んで使用した論理的過程が、如何なるものであったかを考え、なお前後の事情等を参酌するときは、ここに極めて日本的のものがあることを認められるのである。
 円理の推論上にしばしば使用される※(「土へん+朶」、第3水準1-15-42)積、すなわち諸種の有限級数の総和法においても、また帰納的の推理によって公式を得たものであった。そうしてこれを使用して円理の諸公式が表に作られるようになるが、その作製のごときも、やはり帰納的の分子を含んだものであった。
 方程式の解法において和算家は諸種の方法を考案したものであるが、初めに推定の概値を立てて算法を施し、その結果を用いてその算法を繰り返し、かくして次第に精密な結果に近づくというような方法も好んで用いられた。統術、開方盈※(「月+肉」、第4水準2-14-25)術、※(「走にょう+旱」、第4水準2-89-23)趁術、重乗算顆術、還累術等と名づくるものはいずれもこの部類に属する。この種の例はまだ幾らもある。
 かくのごとく数字上の値からその成立の法則を推したり、特殊の場合若干を考えてそれから一般の場合を得たり、概値から出発して次第に精密になるようにして見たり、こんな手段を賞用したのは実に著しいことであって、ここに和算の一つの特色が現われているのである。


 刊行の和算書には方法を説明したものもあるにはあるが、しかし和算書の大部分は問題と答術とのみ記したものである。その答術を得るための過程まで記述しては大部の書物となりて出版費が嵩むのでやむを得なかったという事情もあろうが、一つには方法よりも結果に重きをおいたことも関係があろう。
 和算家は一つの問題を分析してその解答を得るための手段過程を演段と称した。演段という術語は支那でも宋の頃から多少行われたようであるが、和算家もその術語を襲用した。しかし後にはこの演段のことを解義と称するに至った。和算には演段術と称する一種特別の算法があるから、混同を恐れてのためでもあったろう。
 この演段もしくは解義については和算家は、はなはだつとめたものであった。刊本にもこれを記したものがあり、写本類の多くは問題の解義を記したものである。『精要算法』は教科書として最も広く行われたのであるが、単に問題と答術のみあげ、解義はしていない。和算家は門人たちにその問題の解義をさして、それで教えたのである。『点竄指南録』もまた行われたものであるが、この書物には解義も出ているが、一冊に問題と答術とを記し、別の所に解義がしてある。教科用の書物でなくとも、問題と答術のみ記したものについては、和算家は競うて解義を試みる。そうして誤りを発見したり、迂遠な所などがあれば、どしどし訂正して別の書物を公刊する。他の人はまたこの書物の問題について解義を施し、さらに訂正を加える。これは数学上の競技の一手段ともなったが、また和算家が問題の解義に趣味の深かったことをも示すのである。和算は大半、解義だけで成り立ったといっても過言でない。
 和算の解義はある意味において証明である。勾股玄の問題等の解義といえば、もとより証明にほかならぬ。勾股玄については幾多の証明が成り立っておった。他の問題に関しても立派な証明のできているものがあるし、また幾通りの証明のあるものもある。和算家は円柱の斜截面を側円と称したが、円錐の斜截面が側円なりや否やについては疑いもあったようで、これを証明したものもある。和算家が全く証明の精神を有せず、証明を度外においたとはいい得られぬ。しかしギリシア以来の西洋数学に見るごとき厳密なる意味における証明という精神は、和算家の間にこれを求めることができない。解義は必ずしも証明になっていないのである。
 関孝和の『伏題』は行列式の問題が初めて現われたもので、大切なものであるが、その解析方法には二つの誤りがあった。その誤りの一方は関自身またはその没後幾ばくもなく訂正して著述をしたものも残っているが、一方の誤りは次の時代になってもそのままに押し通して、およそ百年間も行われた。これはある問題に解義を施してある結果を得た場合に、これだけで満足し、その結果が正しいか正しくないかを検証してみなかったからの過であった。換言すれば、解義はするが、証明は試みなかったということに帰着する。
 極形術はずっと後に成り立ったものであるが、一種の解析方法を試みて結果を得るもので、ある場合には至って便利でないでもない。しかし誤った結果に陥ることも珍しくなかった。これは方法そのものに欠陥があるからにもよるけれども、その解義だけに満足して、得たる結果についてその正否を検証することをしないからの罪であった。
 これらは、一、二の例であるが、要するに和算家はある方法によって解義を施し、それである結果に到達するときは、ただちにこれを正当のものとして採用するの風があったのである。その結果を検証することは普通の例でなかった。
 こんな事情であるから、和算の問題には答術の誤ったものが、けだし少なくない。内田五観が二等辺梯形内に容れたる楕円の四隅に四つの円を描いて、その直径が互いに比例することを示したが、正しいものでなかったというごときは、その一例である。和算家の中にも実地に四つの直径の長さを算定して、その値を適用することによって、その結果の正しいものでないことを示したものはあるが、それ以上に正しくないという立派な証明をした人はなかった。萩原禎助のごとき有力家でさえも、この問題の解義を施してうまく結果が得られないで、自分の工夫が足らぬのか、もしくは問題に誤りがあるのか決定しかねるといっていたほどである。
 今いったごとく四直径の数字上の長さを測って、それで検証するようなやり方が、和算家の間では証明によく用いられたのであった。こんな例は幾らもある。またある曲線が楕円であることを証するためにその面積を算定し、楕円の面積と同一であるから、その曲線は楕円であるといったようなものもある。
 和算家は諸算書の問題について解義を施し術文を訂正することが非常に流行したのであるが、その訂正されたものを見るに実際誤ったのを訂正したのもあるが、数学上の意義からいえば異同もないのに叙述の文句のみ変更して字数の多少などやかましくいったこともある。二通りの解き方があるような場合には数学上の意味からその優劣をいわないで、これを叙述するに要する字数の多少でその多い方は迂であるといったこともある。この術であれば何字で書き表わされるが、かの術には何字を要するというようなこともしきりに論ぜられている。術文をなるべく簡潔に叙述すること、もしくはなるべく簡潔に術文の叙述され得るような術を得ることに非常の努力を捧げたのであった。和算最後の大家萩原禎助と会談したときにもしばしばこの種の事項に談話の及んだことがあった。
 和算家は種々の問題を取り扱って、実際は定理と称すべきものも幾らも得ているが、それが如何なる場合にも必ず問題の形に記され、決して叙述的命題の形に記されておらぬことも著しいのである。


 和算家は問題の解義には力めたが、証明ということは全く企てないではな〔い〕けれど、証明という精神があまり鋭敏なものでなく、証明の厳密を期することをしておらぬは、前節に論じた通りである。従って過誤を犯したことも珍しくなかった。
 かくのごときは決して数学の上にのみ現われたことではなかった。全く日本人の性格からきたことである。国民の性格の最もよく現われるのは文芸や音楽の上にあるかと思われるが、田辺尚雄氏の音楽史に関する研究から見ても日本人は感情的の民族であって、感情的の音楽ばかり発達したことが知られる。日本の文芸もまたその通りであって、ベーコンやエマーソンのような理智に勝った大文芸家の出たためしがなく、社会一般に理智的というよりは感情的である。宗教にしても理性的のものは発達しない。哲学倫理も論理的に組織されず、論理学の成立しなかったのは最も著しい。因明いんみょうの論理学が伝わって多少その伝統を見たのはともかく、徳川時代のごとく諸般の学術が並び起こった時代においてすら、論理学らしい論理学はさらに発達しなかったのである。三浦梅園の著書中に多少見るべきものはあるにしても、もとより例外たるに過ぎない。論理学が自発的に発達し得るためには日本人はあまりに感情的であったのである。故に一切のものが芸術として発達し、最も理智的で没感情的であるべきはずの数学までが芸術化されて現われ、数学者が相率いて詩人となるというような有り様にもなったのである。西洋でもクローネッカーやシルベスターが数学を詩歌と見なし、ヂリクレーがこれを音楽と感じたような例もあり、また数学者にして詩を作った人も稀にはあるが、和算家のごとく、その大部分が傍ら詩人であったようなことは、おそらくは絶無である。
 徳川時代の日本に論理学が発達しなかったばかりでなく、日本人は元来論理思想に長じたものでないのは、今福忍氏が雑誌『東亜之光』に論ぜられた通りで、第一日本語の組織からして論理的に発達したものでない。その言葉使いが如何に非論理的であり、また何事も道理によらずして感情で判断されるかは、少しく注意を払うときは容易に認められる。
 日本人の論理思想をもってして、日本の数学が証明の精神に欠如するところがあり、過誤の少なくなかったというのはもとより当然のことであって、それにもかかわらずあれだけの結果を得たのは、芸術的気分に支配されたことがあずかって力なきものでなかったであろう。


 数学と星学の発達は大概相俟って進むもののように思われるが、徳川時代にも大体においてその傾向が認められる。バビロニア、インド、支那、アラビア等では時代によって多少の相違はあるけれども、概して暦術家天文家が数学の進歩に貢献したことが多かった。けれども和算の発達は、星学上の必要が割合にあずかっておらぬ。数学が進歩を始めてから後に星学が起こってくる。それも西洋の影響が多少加わって支那の暦法が研究され始める、数学者が暦術のことなどに注意するようになる、現行暦法の不完全なことが知られて、革新の機運が開ける。こんな風にして貞享の改革はできたのである。その改暦の功労者渋川春海はるみは数学者でなくして星学者であるが、実際その新暦法を作ったものは数学者の手に成り、渋川はこれを伝えられて改暦の運動をしたのだということである。かくして星学発達のために数学が起こったというよりは、数学の発達に促されて暦術が影響を受けたといい得られる。
 その後に至っても数学と星学は大体において別々の径路を取ったようである。数学者であって暦術のことに通じた人はもとより多い。暦術に関係のない数学者はあるいは少なかったであろう。建部賢弘、中根元圭、山路主住等の数学大家は星学上にも関係があり、山路のごときは宝暦の改暦にあずかった人である。星学上の問題から数字上の方法の成り立ったものも、建部が暦術上の必要から円周率の研究をしたこと、中根彦循の『開方盈※(「月+肉」、第4水準2-14-25)術』のごときものがあるにはある。しかしそのような例は少ないのであって、数学者が星学を取り扱うたのは主として暦術の問題を数学的にやってみたのみに過ぎないようである。いわば数学者の試練場となったに過ぎないのである。久留島義太のごときは、数学者は数学の問題をやっておればよいのであるが、問題がないので暦術の問題などをいじくることになったのはなげかわしい、というようなこともいっている。建部、山路等が星学にたずさわったのはこんな意味ではなかったが、ともかく、久留島の言葉によりて数学者が如何なる考えでいたかが察せられよう。こんな有り様であるから数学は星学暦術のために至大の影響を受けたというよりは、かえって数学の発達が暦術の発達を誘起さすこととなったのである。数学が主にして、天文暦術はむしろ客であったともいい得られよう。
 宝暦及び寛政の改暦の頃からは、星学の方面は西洋の知識によってよほど面目も変わり、星学の問題によりて数学上に好影響のあったこともあるが、この頃からは天文方の星学者は数学にはあまり干与せず、数学者はわずかに暦法などのことを、ひそかにいじくったくらいのもので、星学上に貢献することなどもなく、別々の歩調を取ったようである。数学と星学との相互の関係は、まだ精査することを要するが大体こんなものであった。
 和算上においては星学上の影響を受けることが案外に少ないようなのは、日本では実験の学問が起こらず、従って星学も実験観測によって進歩することが少なく、数学者を動かすほどに大なる勢力とならなかったのが一因であろう。
 日本では実験観測の科学の起こらなかったことは実に著しい。刀剣鍛錬の術は極めてよく発達したにもかかわらず、その鍛錬法を具体的に記述組織したものすらほとんどないということであるが、この一事によってもその間の消息がうかがい得られる。日本では工業の発達が著しくないのと、物を理論化せずに運用に長ずるというので、実験科学の発達は必要でなかったので、星学もまた実験的に進むことができず、かえって芸術的の意義において発達した数学の進歩のために反対に影響されるようなことになったものと見てしかるべきであろう。この事項はもとより管見に過ぎない、深く主張するわけではない。


 和算は主として武士という遊食階級が一種の娯楽として開拓したのであるが、しかし商家農家の人達にも諸大家が輩出して、数学者の大多数は江戸にいたというものの、また広く全国各地にも広まって、その分布は決して局部的のものではなかった。けれどもその分布は決して一様でない。ある地方には幾多の大家が出たが、またある地方にはほとんど数学を修めた人もなかったというような有り様である。これはもとより事情がなければならない。人情風俗から経済上の事情、交通の便否、人物の輩出、奨励の有無等幾多の要素が加わっている。故に広く人物の分布をかんがえ、その分布の事情をつまびらかにするときは、社会研究上に極めて有益な結果が得られ、教育上等に好個の参考資料となり得るのである。しかも事はなはだ複雑にして一朝一夕に成し得べきでもなく、また数学だけでなく諸般の事項にわたりて同時に調査する万が一層有益であるが、私はもとより数学者のみについてでも試みてみるつもりで着手している。
 今著しい事情のみをあげるならば、上州は和算の諸大家の出た土地であるが、維新後には数学者または科学的方面に多く人物が出でず、かえって文科関係の方面に人物が多いようである。上州の諸中学校に教鞭を執れる人に聞いてみても、上州学生の数学はあまりよくないように思われる。上州は元来小藩の分立した場所であり、政治上にかなり圧迫も受けているし、また長脇差の本場であったことなども参酌して考えなければならない。こんな上州に芸術的の気分の勝った数学が起こったのはいわれなきことでない。こんな事情のある所へ感化力ある人物が出たのが原因であったろう。
 仙台藩では宝暦の頃に戸板保佑に資を給して江戸に上らせ、山路主住について数学を修めさせたほどで、奨励のあったためか仙台領にはいたるところに数学が普及して和算家の多かったことは他にほとんど比類がない。しかし数学者の多かった割にずばぬけた人物は輩出しておらぬようである。
 薩州はあの雄藩で、天文理化の学を奨励したほどのところであるけれども、和算はさっぱり駄目であった。全くなかったといっても差し支えあるまい。土佐にも数学はなかった。長州及び佐賀にも一、二の人はあるが、いうに足らぬ。幕末に雄飛した薩長土肥四藩に娯楽を主とした和算の発達していなかったのは、けだし注意に値する。和算は実利的精神の勝った土地には栄えずして、理想的精神の流れているところにのみ起こったらしい。
 久留米侯有馬頼※(「彳+童」、第4水準2-12-25)は自身も立派な数学者であり、また藤田貞資のごとき大家を抱えなどしたが、その後久留米藩ではあまり数学が引き続いて重んぜられた様子もないし、日向延岡の内藤侯も数学に通じ、久留島、松永の両大家を抱えてもいるし、久留島は延岡に下って教授をしていたこともあるが、次の代には何等数学に関する事項は知られなくなり、後には数学の振るわざること他藩と毫もえらぶところがなかった。九州はいったいに実利的の精神が盛んであって、たといこの二藩におけるごとく一時は奨励があっても和算のごとき非実用的のものは永続発展し得なかったと見える。


 和算は毛利重能から始まるのであって、毛利は京都で教授した。吉田、高原、今村等は毛利の門下から出る。その当時はもとより京都が中心地である。その後にも京都に幾らも人物があり、大和郡山にも『改算記』の著者が出る。次いで大阪に島田尚政がおり、大阪で宅間流が発達する。京都には中根元圭の一派がある。
 しかし京都または京阪地方が和算研究の中心地であったというのは長い間のことではない。中心はたちまち江戸に移る。別して関孝和が江戸におって日本の数学は著しく発達することになったのである。これからは江戸が和算の発達の中心になって、江戸が一番多くの大家を輩出させたところである。諸地方に幾多の人物が出ても、地方におっては大なる勢力を他に及ぼすことはできないばかりでなく、江戸にいた人達に比して人数においても業績においてもはるかに劣り、和算上の業績中目星しいものは大概は江戸でできたらしい。
 大阪あたりには宅間流があり、京都には中根の一派がおり、金沢には大阪の関係から起こった三池流があり、紀州には小川流があり、後には大阪で武田、福田等が覇を称えているし、京阪地方から出た和算家の総数はかなりに多人数であるようだけれど、これら諸家はもちろん幾多の研究もあり幾多の業績もあげているには相違ないが、江戸の和算に比べては決して同日の談でないのである。江戸は一旦中心になってから和算の終末に至るまで終始その中心勢力たる地歩を失わなかった。
 江戸が和算研究の中心になるのは、和算は主として武士階級の間に起こったもので、江戸には諸国の武士が多く集まり、江戸の武士は閑散であり、また江戸では修学上の便宜が多いから、自然に江戸が中心地として続くことができたのである。京阪地方は政治の中心でなくなるとともに武士が多くいなくなる。それが京阪の数学の江戸に対抗し得べからざるに至った一大原因であろう。和算は閑散なる遊食階級たる武士を中心として発達したものなので、あんな芸術的気分のものに発達するというのも無理からぬことであった。
 江戸におって数学にたずさわった人達には諸藩の武士も少なくなかったけれど、多くは江戸詰の人々であるから、これらの人達の数学上における仕事は江戸のものと見るのがもとより至当である。
 諸藩の人達は江戸詰でなくとも参覲交替などで江戸に集まるものが多く、江戸で数学を学んで、これを地方に伝えたものも少なくない。金沢には大阪の系統を引いた三池流があっても、富山及び大聖寺では江戸の数学を伝えておった。和算は江戸で最も多く学修されたばかりでなく、全国各地の数学は大概江戸の数学を受けて起こったもので、いずれも皆しからざるはなかった。仙台藩で戸板保佑を江戸に遣わして学ばせたり、またその他にも藩命で江戸の和算家から学んだものもあり、一私人として江戸で学んだものなどもその例は幾らもある。久留米侯有馬頼※(「彳+童」、第4水準2-12-25)は和算家として一廉ひとかどの人物であるが、もとより江戸で天文方の山路主住から学んだもので、当時随一の大家であった藤田貞資を抱えたといっても、藤田は江戸にいたのであった。


 日本では実験の学科はまず何も発達しなかった。暦術でも観測を厳にして実験検証するということはあまりしないで、既知の事項へ数学を適用して算定するくらいのものであった。このような間に立って発達した数学は実用的のものではなく、芸術的に発達したのである。特に遊食の人の娯楽として発達するから益々その傾向が現われる。
 しかるにこれに対して一つ注意すべき事実が認められる。徳川時代にも実験的の学科は幾らずつか現われてくるし、また多少発達もするのであるが、その発達の跡を見るに、芸術的の数学が江戸を中心として発達して、大阪辺ではよほど劣っていたに反して、実験的の学科は京阪といってよいか、むしろ西の方から起こったのではないかと思われるのである。これは精査を要することであるが、一、二の例をあげていうときは、貝原益軒は福岡から出で、将軍吉宗の天文観測の顧問になりかつ日本の楽律を作った中根元圭は近江の人で半ば京都におり、『解体新書』翻訳以前に実地に解剖を試みて得るところのあった山脇東洋は京都におり、日本の医学史上最も尊重すべき吉益東洞は安芸の人で大阪〔京都〕におり、天文の観測に最も意を注いだ麻田剛立は豊後の人でまた同じく大阪におり、その門下から高橋至時及び間重富のごとき大家が出で、この三人の手で伊能忠敬の事業は準備が成るのであるが、その仕事が大阪で始められて江戸で完成したのである。砲術上弾道の研究は阿波の小出長十郎、肥後の池部啓太、丹後の人で大阪におった田徳荘〔田結荘たゆいのしょう〕斉治等のごとき人物の著書中に伝わっている。電気のことを初めて伝えた平賀源内は讃岐の人であり、飛行機を作ったという伝説の伝えられたのも備前の人であり、地下を掘って水道を通じサイフォンの理を実現したのは金沢城であり、薩藩では理化学を奨励する。帆足万里、三浦梅園は豊後の人である。大阪の緒方塾は実験科学を伝うる上において、けだし大なる功績があった。
 これらの事実は極めて多い。諸方の人材の広く集まれる江戸においても実験科学の勃興に対して全く何等の事蹟もないというではないけれども、上述のごとき西方諸国の著しいものに比すれば、決して同日の談ではない。数学において江戸が研究の中心であり数字上の最も著しい事業はほとんど全部江戸で成り立ったものとはすこぶる趣きが違う。丸山派、四条派の写生画の画風が京都で発達し、江戸で発達したものでないこともまたもとより関係があろう。
 この著しい事実はどうして成り立ったであろうか。江戸もしくは江戸を中心とした東方と、京阪を中心とした西方とにおいて、社会上の事情がすこぶる同一でないことが、その原因でなければならぬ。長崎が唯一の貿易港で、長崎から外国の知識が伝えられるから、西の方の諸国は自然外国の学問に接触しやすいとはいえ、単にそれだけの理由から来たものではないようである。現今においても美術界の状態を見るに、東京の日本画は主として古典的なるに反し、京都では写実的の傾向がうかがわれるようであるが、これは丸山四条の流を汲んだというのみではなかろうと思われる。
 かく考えて見ると、日本の西方は経済的に発達し、そして人心が著しく功利的で、またこせこせしているが、東方は経済の発達は後れ、遊楽的でのんびりしている。現在日本の各地を旅行して見ても分かるが、東北地方では苗代の跡へは稲を作らないで一夏全く遊ばせてあるのが幾らも目につくが、西の方ではこんな実例は見られない。この一事のみでも大体の情勢は察せられる。西方の人は未知の人に対しても社交的であるが、しかし実は軽薄である。東北の方へ行くと容易に人を信じない代わりに後には極めて親密になる。これは交通の発達したのとせぬとの結果であろう。西方はよく開けているが、東北は冬期積雪の間に閉ざされて瞑想に耽るような風のあることもまた一つの事情である。かくして日本は東西によって気候・風土・経済から人情風俗まで際だって区画される。この東西の対立は一朝一夕のことではない。蝦夷征伐、武士道の発達、鎌倉と京都の対抗、これ等を通じての歴史からが違っている。徳川時代になっては江戸が政治の中心となり、武士の本場となるが、経済の中心は依然として大阪及び西方から東方に移らぬ。現今に至りても、その傾向が未だ充分に消え去らぬのである。故に戊辰の役には西方と東方との対抗と見られるような現象も見られた。
 日本は東西によってこんな相違があるのであって、経済の進まぬ東北地方を控えて遊食の武士を中心としての和算が江戸に栄えたに反して、文化の早く進み経済が発達し功利的の精神に富んだ西方で実験科学の起こって来たのは決して怪しむべきでない。ひとり外国の知識に対する門戸ともいうべき長崎が西方にあるからというだけではなかったのである。
 和算そのものにおいては、九州などは早く起こって早く衰え、京阪地方には芸術的色彩が江戸に比してやや薄く、東北諸国は発達は後れたが、その代わりにずっと後までも続いて、今日に至るまで奥羽の各地に和算を教授し、もしくは学修するものが往々にあるが、西方においては全く見られぬのである。


 和算は芸術的の気分を主として、江戸が中心になって発達し、実験学科はこれとは反対に江戸を中心とせずして西の方から起こって来るが、しかし実験科学は元来日本には発達しなかったのであって、天文暦術でも実験観測はあまり栄えずにかえって数学的に処理されたような形跡がある。
 日本において実験的の学問の起こらなかったことは実に著しく、ほとんど全く見るべきものはなかった。物理や化学、それから力学等のごときものも外国の知識を伝えて徐々に起こるのであって、それも極めて幼稚のものに過ぎなかった。高橋至時は傑出した人物であってラランデの天文書を読破して『管見』を作ったのは日本の科学史上において注意すべきことであったが、それでも物理関係の事項については多くの理解がなかったらしい。その後『気海観瀾』等の物理学書はできるけれどもこれはいうて知れたものである。
 日本で実験科学がこんな有り様にあったことは、数学の上にもとより関係が絶無ではない。和算家が重心問題を取り扱ったり、擺線の問題に興味を持つなどは無論星学や物理の考えが入って来たのであるけれども、これ以上にはさまでの影響がなかったようである。和算上に物理関係の問題はあまり多くない。
 古くは象を船に乗せて水中に沈んだ深さによってその重量を考えたような問題などあり、後には楕円体形の容器のものに水を盛ってひっくり返ることの問題や、比重関係のものや、ある形の立体を水中に浮かばせて直立したものについての問題などが往々諸算書に出ているから、全く物理関係の事項が和算中に現われていないとはいえないけれども、これら物理関係の問題は正しいものもあるにはあるが、実は間違ったものも少なくない。『円理三台』中の比重問題、『尖円豁通』の問題などがその例である。物理学の発達が著しくなく、和算家が物理問題を正当に理解していなかったことが知られる。
 暦術において楕円軌道の説は伝わっている。諸天体運行のことはもとより論究される。これについて力学的事項も多少取り扱われないではなかった。『暦象新書』、高橋至時の『管見』、及び日本で著述された諸暦書を見てもその事情が分かる。しかし運動というものを連続したものと見なし、これに変数、函数の観念を立てて厳密に論じてゆくというまでの思想が現われて来るまでにはなっていない。運動そのものを論ぜずして、運動した距離とかなんかいうようなものをでき上がったものとして取り扱うのが普通であるから、どうしても哲学的に透徹したような考えは出てこない。これには哲学上の状態もまたもとより関係しているが、物理学または力学の考えが進んで来なかったということは争われないのである。こんな事情であったことは日本の数学上に大いなる関係がある。
 和算の発達上円理は最も重要視されるもので、西洋の微積分学にも比較されるのであるが、この円理の様式が今いった事情によって著しく限定されている。西洋の微積分学は運動のことを論じたり、曲線へ接線を引くことなどの問題から誘発されて、極微部分の性質を考うることが大いにあずかっているけれども、日本では弧の長さまたは面積という場合に限られて、定積分の格段の場合というようなものしかできてこない。従って西洋で微分学も発達し、また不定積分も考えられたのと同様にはならなかった。これは単に結果を得るだけが眼目であって、定積分を使用して試みたのと同じような結果はずいぶん巧みに得ているけれども、積分学といったような立派な学科になることもできなかったのである。
 こんな結果になるのは物理学の考えが足らないで、誘発された問題の違っていることが一大原因であろうが、また一つには哲学思想の貧弱であったことが原因になったということができよう。哲学思想の貧弱なことには物理学的の観念が起こってこないことも、もとより関係している。


 江戸時代には支那の諸種哲学は、もとより伝わっておった。朱子学派は当時の哲学であって、最も広まっているけれども、古学派もあれば陽明学派もあり、儒学の流行は広く全国各地に行き渡って、決して和算の広まったくらいのものではなかった。従って儒学者として傑出した人物も少なくない。そうして各々特色もそなわっておった。けれども大体において支那の学問を尊重し、これを遵奉したのであって、日本独特の哲学体系を組織するほどのものではなかった。日本の国情、民俗に適するように同化改造することはあり、日本の社会を基礎として適当の意見をも出し、実際に役立つような形のものにはなっているけれども、ここに実際社会上の適用に長じていることはうかがわれるが、純哲学上の学説の樹立に至りては支那の諸先哲に一籌を輸したものであった。これが江戸時代の全体を通じてのわが国哲学界の実情である。当時の哲学者は実地運用の上には優れた技能があったけれども、哲学的思索には深刻なものがなかったのである。明治大正の時代になっても、この事情はあまり変わっていないかと思われる。
 哲学すでにしかりである。他のすべての学科においても、おそらくは同様であろう。新井白石が歴史研究上または経済上の原則において非凡の見識を持っておったような例はありもするが、大体において一切のものがすべて実地の運用に巧妙なのであって、理論の樹立に長じているものではないのである。これはひとり江戸時代だけにかぎっていない。仏教でも外国のものをそのままに受け入れてこれを同化改造したのであって、日本ではたしてどれだけの教理ができたであろうか。日清日露の戦役を見ても、ほとんど外国の戦術を踏襲して、あまり新機軸を出したことも認められないが、しかも実際において立派な戦捷を収めて、よく運用の妙を尽くしたのであった。日本人は如何なるものでも他から受け入れてよくこれを運用する。その実例は幾らでもある。事々物々ほとんどしからざるものはない。しからば江戸時代の哲学があんなものであったのは当然のことであった。どこまでも理智的でなくして技能的である。
 哲学そのものがすでにこんな状態にあるのだから、和算家の間にも多少数理哲学然たるものの考えがないでもないが、和算の全時代を通じて見るべきものはさらになかった。そうして和算家の中に儒者として有力の人物もないし、儒者が和算に貢献したことも少ない。西洋の数学者が多くは哲学に通じ、哲学大家で兼ねて数学の大家であった人の多いのとは同日の談でない。支那でも数学と儒学を兼ねた人物が幾らもあるが、日本ではよほど違っておった。そうして和算は学としてよりも術として発達したのであった。
 和算の当時、数学という言葉もあれば、算学、算術、算法などいう言葉もあった。いずれも支那から伝わった術語である。しかし最も広く行われたのは算法というので、和算書はほとんど全部「算法何々」といわなければ「何々算法」という表題を持っている。『算学小筌』などいうのもあるが、こんな例は極めて少ない。そうして和算の方法術理について考えても、招差法、適尽法など法字のついたのや、廉術、逐索術、零約術、傍斜術などのごとく術字のついたのが多く、円理といって理の字を用いたごときは稀有のことである。それもまたただちに円理弧背術といったり、または算法円理云々とくる。和算には法または術の字が付きものである。今の数学では定理になるべきものでも、和算ではすべてその関係中のあるものを知って他のものを問う形の問題になっておって、得るところの結果をば何々術といっているし、問題の解をいい表わす事項は必ず「術日云々」と記されるのである。和算は術として終始している。
 和算のこの態度は、すべてが技能的である日本のものとしては極めて自然のことであった。和算は理論としては支那のものを土台として、これを改造同化したのであるが、しかも支那で見ざる方面に発達し、応用の才を現わしている。これは支那の美術を学んで、しかも特色あるものを作ったことや、支那の医学を学んでやはり特色のあったのにも比すべきである。
 こんな風で、すでに深刻独創的の哲学がないところに、数学そのものも学理的というよりは、法であり、術であり、技能的であったからには、数学上の観念も深刻透徹のものが発現しようはずもなく、円理のごとき術理は成立しながらも、いたずらにこれが運用に長ずるばかりで、西洋の微積分学のような組織あるものにならなかったのは、やむを得ざる勢いであった。


 日本は論理の進まなかった国であり、哲学は独創の体系を作らずして実地に活用することを尊び、すべてのものが理論的にならないで運用することに長じたものであって、数学もまたその数に漏れず、理論的に発達したというよりも、芸術化されて問題の処理などが進んだのであるが、武士は算盤を手にすることを恥じたほどで、数学は卑しまれつつ発達したのであった。数学が尊ばれ、数学者が重んぜられた、というようなことはほとんどないのである。数学のために多少地位を得た人や、多少待遇を進められた人などが、絶無ではないが、概して数学者は貧苦に甘んじて、世の軽蔑をも意とせず、一心にこれが開拓を楽しんだのであった。
 この事情はけだし和算においてだけのことではない。日本ではいったいに知識や学問を楽しむという美風はあるが、これを尊ぶの精神はすこぶる欠如しているのではないかと思われる。明治大正時代になってもその風は決して改まらぬ。これについては特に一篇の文を起草している。
 これについて、和算家の間に行われた一種の風習が面白い関係を持っている。和算書中の刊本は大概「甲某閲、乙某編、丙某訂」というような署名になっているが、実際においては乙某の著述ではなくして甲某の手に成り、丙某に至りては単に姓名を記されているだけに過ぎないのが多いようである。『算法新書』は、千葉胤秀編となっているが、実際は閲者として署名されている長谷川ひろしの著述であるとはあまねく伝えられているのである。こんな例はいずれも皆しかりで、白石長忠閲、岩井重遠編の『算法雑俎』が実際白石の著述であることは、白石の書状によって極めて明白である。算書中に付録などを付けて、著者の門人多数者の名で算題を列挙したものなども、大概は署名者の業績ではなく、師匠の作ったものだと信ぜられている。算額流行のことは前に説いたが、算額には某門人某々という名前で、諸問題の答術をしたものが多い。神前に捧げるのであるから正直にやってありそうなものであるが、実際は著書の付録などに出ているのと同趣意で著名者の手に成ったものでない。算額をあげたときの事情はまだ諸所で伝わっているが、大概どこでも同様に聞くのである。
 和算家の間にかく実際の作者と名義の作者と一致せざるものの多かったのは、明治大正時代に無名の書生の著訳が老大家の名義で出版される風のあったことと同じである。いずれも主として経済上の事情から来ているが、要するに虚偽を意とせざるの風あることをまぬがれぬ。最も論理的でまた最も正直であるべきはずの数学者ですらそうなのだから、他は推して知るべきである。和算家自身すでにあんな虚偽に慣れているほどで、知識の重んずべきことを知らないのであって、和算の重んぜられなかったのもまことにやむを得ないのである。日本人のこの性格は淵源するところ深く、近くは文相二枚舌事件の起こったのも偶然ではなく、虚偽を意とせざるがために社会全般にわたって多くの弊害がかもされている。和算家の間にあんな風の行われたのはただその一つの発現であったと見るべきである。


 和算は芸術的の意味が多く、理論としては短であるけれども、しかし見るべきものが必ずしも少なかった、とはいわれぬ。術として考えられ、学としての意味は少なかったようでもあるが、しかし次第に純化され、簡単化されて理論的になってゆくような傾向はあった。
 和算の初期には立積と面積と長さとその平方根とを加減してどうするなどいうような妙な問題もあって、無闇に複雑にするのが高尚でもあるかのように考え、千何百次というような方程式を得るものもあったが、次第に複雑を避けて簡単にしたいという傾向が進んでくる。関孝和のごときもこの精神が見られる。そうして久留島義太などになるとその精神は益々進み、安島直円に至りてはよほど和算を単純化するの功を奏した。初めにはよほどの高次の式を得たものが、次第に低次の式で解き得られることになって、安島等の時にはずっと簡単なものになったような実例もある。安島と同時代の会田安明などになると簡単を尊ぶのあまり、術文の字数が一字でも少ないのを喜ぶようなことにまでなった。これはもとより行き過ぎたのであるが、確かにその精神の現われである。こういう風になって通術ということが尊ばれるようになる。通術とは種々の場合に通じて適用し得らるべき術のことである。すなわち一般に通ずる術ということである。益々一般のものを得んとする理想は和算家もこれを抱き、そうして実現につとめたのである。この努力はすなわち科学的精神にほかならぬ。故に和算は概して個々別々の性質を有して組織が欠けているらしく見えるけれども、全然乱雑なものでは決してなかった。
 和算発達の順序から見ても、関孝和が初期以来の発達をまとめて後の時代を控えているような形であって、一つの焦点を形造っていると見れば、関孝和以来の発達を受けて第二の焦点となったのが安島直円で、安島がかなりにまとまった方法を立てたのが、その後の時代の発足点になっている。そうして安島に至って単純化の実現が著しくあげられたのであった。
 一つの例として幾何学的事項の取り扱い方のことをあげてみよう。初めは勾股玄のみ使ったので、図形に関する問題も代数的に取り扱ったのであって、あまり取りまとまったものはなかった。しかるに追々に式の簡単を喜ぶようになって、正多角形の事項などは通術ができるようになる。廉術等から幾何学的の関係も発見される。安島直円の手で傍斜術というものが成り、幾多の問題に適用し得ることになるが、後には別の傍斜術ができて種々のこみいった問題を解き、四円六接線すなわちケージーの定理をも得た。その関係を使ってまた別の問題が解ける。それから極形術もできる。『観新考算変』に見るごとき方法も現われた。こうして幾何学的図形の取り扱いは西洋の幾何学とは違った過程を成して進んだのである。西洋の幾何学のようにまとまってはいないし、また一歩一歩に証明を厳にして組織的に演繹体系を構成したものにはならぬけれども、ある原則の下に統一されて、ある程度までは科学的に意義ある発達を成しつつあったといい得られぬことはないのである。


 和算は支那の数学を土台としたもので、支那の数学は代数の発達が特色であるから、和算もまた支那数学の後を受けて、代数学及びその系統を引いた円理が発達したのである。幾何学的の事項でも概して代数的に取り扱っている。こんな観察点から考えると、和算はどこまでも、代数的の色彩が勝っているように見える。これはもとより一面観である。
 しかしまた他の方から見ると、和算家の取り扱った問題には幾何学的の図形に関係したものがすこぶる多い。ほとんど大部分がそうであった。これは、図形のことに趣味があったからにほかならぬ。その幾何学的図形に関する問題または解義において、何等の説明をも用いないでただちに「如図云々」と説いているものが多い。これは視覚型の性格の現われたものであろう。絵入りの算書の多いというのも同じ傾向が大いに関係している。こんな事情であるからこそ、幾何学らしいものはないにもかかわらず、また証明という考えは幼稚であるにもかかわらず、一種固有の幾何学的組織に進まんとする傾向も現われたのである。また容題と称して円や方形の中に他の図形を容れたものの問題が大いに流行することともなったのである。従って、幾何学に対する能力が全く欠如していたわけではない。故に西洋の数学が伝わってからは幾何学的方面も著しく取り入れられ、菊池博士のごとき幾何学者も出れば、沢山勇三郎氏のごとき幾何学問題にのみ没頭する人の発現をも見られるわけである。
 元来数学者には代数型と幾何型との区別がある。これはポアンカレーもいっている。個々の人にこの区別があるばかりでなく、ギリシアは幾何型、インドは代数型であったような著しい実例もある。しかるに和算の発達上には上述のごとき事情があって、はっきりそのいずれが著しいかを決定するには困難であるが、要するに、あまりいずれへも偏していないのではないかとも思われる。
 故に西洋の数学が伝わってからもある人は幾何学者となり、ある人は代数的の方面に長じているようなことはあるが、ともかく、一方にのみ偏しないで数学諸般の方面を適宜に取り入れ得ている。この結果になることは和算時代においてその徴候が現われていたといっても差し支えなかろうと思われる。


 和算は江戸時代に栄えたもので、維新後には和算は廃れ、西洋数学がこれに代わるに至った。西洋の数学は維新前から少しずつ伝わっていたけれども、和算の終末に至るまではあまり大なる勢力を持っていなかった。しかるに維新の頃になって和算を棄てて西洋数学を採用することになる。諸学校の教科においてそうなったのである。初めに幕府で設けた海軍の講習所などでそうやったので、諸学校の置かれるようになっても、和算をば全く棄ててしまった。というのは、海軍でも、また諸学校でも、主として外国の技能を学ばなければならぬので、自然に西洋数学を知る必要が起こったのでやむを得なかったのである。もちろん当時の知識としては和算が洋算より劣っていたとはいわれぬ。しかもこの実際上の必要があるために大英断をもって洋算が採用された。数学だけの状態から見ては、この変革の理由はあまり理解されないが、他の実験科学等のことから考えて見ればもちろん当然であった。
 大化の新政及び維新の改革をさえ、大なる変乱を惹起することなしに、断行し得た日本民族であるから、この政治上社会上の改革に伴いて、数学上の改革の断行され得たのは怪しむに足らない。
 かくして諸学校で洋算が採用されるようになると和算家は次第に影を潜めた。洋算も多くは和算出身の人によりて学ばれたのである。しかし維新後に士族の特権が廃止されてから、士族の反抗がないでもなかったが西南役で全く挫けてしまったように、和算家の中には洋算に対して反抗の気焔をあげんとするものもあったけれど、大勢は如何ともすることができないで、これから新たに和算家になるものもなく、和算の老大家は次第に死滅して、和算はここに終わりを告げたのであった。
 和算が捨てられて洋算の時代になると、数学の研究は一時は多少衰えたかと思われるけれど、幾ばくもなくして、新しい研究が現われることとなって、わが国の数学は面目を改めることになった。


 江戸には和算が発達した。元来支那の数学を基礎として進んだものであるけれども、日本固有の特色も現われ、はなはだ見るべきものであった。もとよりこれを西洋の数学に比すれば、はなはだしく見劣りもするが、しかし西洋では発達の期間も日本よりははるかに久しく、かつ英・仏・独・伊等の国々がそれぞれ変わった社会状態と国民の性格とをもって、互いに相補いつつ進んだのであるから、よほど有利な条件の下にあったということも認められなければならぬ。しからば和算が孤立した国土の中で、経済の状態も諸外国に比して有望でなかった間に、あれだけの発達を遂げたのは極めて推称に値する。和算がこれだけの発達をする間に実験関係の諸学科は多く見るべきものがなかった。
 しかるに江戸時代が終わってからは、西洋の学問が滔々として入り来り、和算は廃れて西洋数学がこれに代わる。実験学科も著しく這入って来る。西洋風の数学と実験学科と相並んで進むこととなった。
 かくして明治・大正時代の数学はもちろん和算当時の比ではない。すこぶる面目を改めた。しかしながら数学の状態よりも物理学等の実験諸学科の方が一歩をぬきんでたのではないかとの感がある。どうしてこんなに主客転倒の有り様になったのであろうか。これには社会状態の変化がここに大なる関係を有する。
 和算時代には商人階級が台頭して経済生活は著しく違って来たには相違ないが、まだ工芸が大いに起こるということにならない。従って機械だの製造だのいうものの必要が少なかった。実験学科によりて社会を運転し、もしくは支持するというところにはなっていなかったのである。しかるに西洋の勢力に接触する。これと対抗するためには科学的の知識が足らない。開国の必要はこれから生ずる。かくして維新の改革を来し、明治の時代になるのであるが、明治時代は西洋との対抗が最大の急務であり、よく国力を維持して発展し得るためにはすべて科学的知識によらなければならない。故に西洋の学問が奨励される。実験の学科特に応用の諸学科は最も重きをなさざるを得ぬ。この社会の必要に応じて物理化学等の実験諸学科は長足の進歩を遂げたのである。
 しかるに数学はどうであるか。もとより社会の進運に必要であるから相当に奨励もされ、また進歩を見ないでもなかったのであるが、しかしその社会上の必要はむしろ間接であって実験諸学科のごとく直接の必要を感ずることが少ない。この事情はすなわち数学をして他の諸学科よりも一歩を後れたかの観あらしむるに至ったゆえんの一因である。
 けれどもこれについてなお考察を要することがある。和算家は主として武士のものずきに従事したものであるが、しかし他の諸階級からも多くの人物が輩出して、いわば国民的努力の結晶であった。和算が奨励を待たずして発達したのはこれがためである。和算には幾多の流派があった。秘伝ということもあった。これは封建制度と家族主義の下に発達したことの反映であって如何にもやむを得ないのであるが、しかし必ずしも流派の伝統ばかりに支配されたわけでない。久留島義太が流派外に卓立したことや、会田安明が流派に反抗して自ら大流派を立てたごときは著しいことであった。それに一流派に属しながら、また他流派を学ぶこともできた。会田安明が寛政の三奇人等と前後して台頭したのは意味あることである。会田の前には有馬頼※(「彳+童」、第4水準2-12-25)が関流の秘伝を破って『拾※(「王+饑のつくり」、第3水準1-88-28)算法』を公刊したこともあり、会田は関流の学閥に敵意をはさんでこれと争いつつ衆望を一身に集めることができて、その新流派ははなはだ栄えたばかりでなく、これから数学は著しく民間に普及するに至った。これ勤王論の起こったのも同じく国民自覚の高まったために起こった事件であって、閥族に対する反抗の気運に乗じたので、関流に対する抗争には力強い根底があり、そうして大なる力となり得たのである。
 会田の争いが動機となってか、はた社会状態の変わったためであるかはともかくとして、寛政より文化文政となるに従い和算は著しく世に広まり、社会の各階級から、また全国の各地から和算家が輩出したのは事実である。
 故に和算は一方には遊食階級たる武士を中心として、この階級の産物たる色彩も濃厚ではあるが、また一方には武士であっても何であっても、武士としての仕事ではなく、等しく一私人としての仕事であったこともまた否定すべきでない。
 しかるに維新後には事情が一変した。武士支配の封建制度は破れて四民平等の世界になる。故に諸方から多くの人材が輩出して数学でもまたその他諸般の学科でも学修することになるから、一方においては平民時代の現出であるが、しかし諸般の制度が制定されて学問の研究は専門学者の専門職業というような形になってくる。生存の競争は次第に激しくなり、もはや遊食階級の閑事業たることを許さぬ。従って官立大学が自然に中心になるようになった。数学においても実際その通りになっている。故に平民の仕事ではなくして知識的貴族ともいうべきものの出現となった。ここにおいてか強固なる基礎の上における制度と設備が大なる影響を与えることとなり、そうして主宰者の人物が著しく働くこととなる。数学が他の実験学科に一籌を輸するごとき観があるのは、この設備において及ばざるところのあったのも一原因であるが、人物の如何もまたはなはだ影響している。大学紀要並びに数物会記事に数学の論文が至って少ないのは著しい。東北大学の開設以来同大学を中心として数学の研究は再び活気を恢復しつつあるように見える。


 和算時代には数学のみ栄えて実験学科は微々として振るわなかったのに、今では数学よりもかえって実験学科の方が振興してきた。これは社会上の事情からきたことではあるが、維新の前後によって日本人の能力が変わったというのではもとよりないから、和算時代にはその素質のあったことはもちろんであろう。この素質は和算の上にも現われている。
 和算には帰納的の処理の多いことは前に述べておいた。この帰納的の処理方法はすなわち実験学科の学修に当たってただちに当てはまるのである。そうして和算家は種々の問題を取り扱うに色々な仕方をやってみて、できるまで試みるという風があった。故に和算の教授には問題を出して自分でそれをやらすのであって、手を取って教えるようなことはしておらぬ。種々にやってみてできるまで努力する。まあ何かなしに数学の問題の上に実験を施したのであった。この色々にやってみて結果を改めて行くのは日本では一切のことに適用される仕方である。それにある場合には和算家は物の形について研究するのに、餅を高い所から落として、へちゃげた形を観察し実験を試みたこともあったということである。
 暦術は、初めに実験的のことをあまりやらなかった。しかし麻田剛立のごときは観測を重んじているし、西の方から実験的学問の気風が次第に進んだことも前に述べたが、高橋至時、伊能忠敬等のごときは暦術及び測量のことについて単に伝習的もしくは外来の知識を襲用し、よくこれを運用したというばかりでなく、実験的に色々のことをやって沿海測量の大業も成り立ったのである。伊能の事業はその結果が立派なものであったというだけではなく、日本人は実験学科の研究においても堪能なるものであることを示すところの生きた実例であったのである。
 和算家の使用した手段の精神といい、伊能の実現といい、当時において維新後の実験科学のまさに隆盛を見るべきことは当然予期せられ得たのである。ただ江戸時代には実験科学の勃興すべき社会上の要素が未だそなわらないので、発達の速度を速めなかったのみである。
 故に外国の刺激があり、外国の知識も伝わり、そしてこれを必要とする原因が具備した維新後になっては、江戸時代に当時の社会状態の反映であった遊楽的気分の数学よりも、かえって実験学科の方面において見るべき発達を将来することとなるのも決して怪しむべきものではないのである。


 以上、幾多の項目に分かって説いてきた事柄をつづめていえば、次のような結論に達する。
 和算は徳川時代の産物であるけれども、それ以前においても日本人はすでに数、または数学的事項に趣味がないものではなく、刺激さえあれば数学の発達し得べき素質を持っていたのである。けれども日本は農業国であって、商工業の発達が著しくないから、数学の必要に迫られなかったものであろう。鎌倉時代の頃から頼母子などのことが現われ、利息計算のことからでも数学が発達してよさそうなものであるが、まだそれだけで発達するようにはならなかったらしい。あるいは多少の数学はあったであろうが、伝わっておらぬ。
 しかるに戦国時代の頃から経済は発達する。商工業も開ける。検地水利などの必要も起こる。築城その他軍事上の関係もある。数学は大いにその必要を感ぜられざるを得ない。そうして社会の状態は一変し、個人の自覚が大いに高まって、諸般の学術も発達を始める。この時に当たって文禄の役が起こり、支那・朝鮮の文化に接触する。支那の算書も伝わり、算盤も伝えられるという風で、ここに数学の学習が始まる。こうして江戸時代の和算は起こったのである。
 和算はもと社会の必要上から実用の目的をもって始まったもので、和算の問題には実用上のものが極めて多いのであるが、しかし実用的でない趣味の問題も初めから現われて、実用上のものよりも非実用的のものが一層の発達をしたのであった。これは和算の起こらない遠い昔からの傾向が発現したので、いわば国民的趣味から来ているが、また江戸時代には勘定方の人達が初めは職務上から多少学修を始めたのが動機になって必要以上のところまで深入りするに至ったなどが中心になり、武士という遊食階級を中心にしているから、自然に道楽としての気分が多大に現われたのであった。従って和算には芸術的の意味が深い。
 日本は元来論理学の発達しなかった国で、言語も思想も至って論理的でない。従って数学においても証明という考えは発達せず、推理上取り扱い上の欠陥も少なくないが、一つの問題に出会うときは、またこれに類似したものを考え、一つの方法でできなければ、他の方法に訴えるという風で、問題を解くことに、はなはだ苦心したことでもあり、帰納的の取り扱いをしたことが極めて多いのであって、これが和算上に一面の特色を与えているが、また後になって実験学科の伝わるに及んで、よくこれを理解し開拓すべき能力はこの態度の上にすでに現われていたかとも思われる。和算家がこんな態度を取ったことは、よく支那から伝わった数学を改造し、そうして徐々に改良を加えつつ、次第に理論化するに至った。日本には独特の哲学がなく、外来の哲学によりてこれを改造同化し、よく実地に運用したものであるが、こんなことでは深刻な思想はできない。従って哲学の上にも意義深い観念が発達して急激な進歩を成したようなことはないが、しかし数学においても若干の原則や方法を巧みに運用し、そうしてその原則や方法にも少しずつ改造を施すこともできて、次第に単純となり一般となるの傾向が現われたのであった。和算の繁栄は近々二百余年に過ぎないので、しかも外国の関係から離れ、孤立して進んだので、極めて不利の地位にいたにもかかわらず、その割合には結果の見るべきものがあった。もし今少し長い期間にわたりて発達を継続し得たならば、おそらくはさらに優越なるものができたに相違ないのである。この発達の継続は維新後における西洋数学の学習と同化との上に現われたのである。維新後の数学は、もとより和算と同日の談ではないが、しかし前に発達しなかった実験科学よりも、今ではかえって遜色があるかのうらみがないでもない。これは社会状態の変化に伴いて実験学科が差し迫って要求され、従って奨励が行き届いて便宜が多いのに反して、数学はさまで要求されないし、奨励の行き届かなかったことが原因している。

底本:「文化史上より見たる日本の数学」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年4月16日第1刷発行
底本の親本:「文化史上より見たる日本の数学」創元社
   1947(昭和22年)
初出:「哲学雑誌 第三十七巻第四二一―四二六号」
   1922(大正11)年3月〜8月
※底本の凡例によれば、「〔〕」内は、著者が親本に書き加えた修訂です。
入力:tatsuki
校正:山本弘子
2010年10月24日作成
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