一

 倶利伽羅くりから峠には、新道と故道とある。いわゆる一騎落から礪波山となみやまへ続く古戦場は、その故道で。これは大分以前から特別好物ものずきな旅客か、山伏、行者のたぐいのほか、余り通らなかった。――ところで、今度境三造のよぎったのは、新道……天田越あまだごえと言う。絶頂だけ徒歩すれば、くるまで越された、それも一昔。汽車が通じてからざっと十年になるから、この天田越が、今は既に随分、好事ものずき
 さて目的は別になかった。
 暑中休暇に、どこかそのあたり歩行あるいて見よう。以前幾たびか上下したが、そののちは多年ふもとも見舞わぬ、倶利伽羅峠を、というに過ぎぬ。
 けれども徒労でないのは、境の家は、今こそ東京にあるが、もと富山県に、父が、なにがしの職を奉じた頃、金沢の高等学校に寄宿していた。従って暑さ寒さのよりよりごとに、度々倶利伽羅を越えたので、この時志したのは、わば第二の故郷に帰省する意味にもなる。
 汽車は津幡つばたで下りた。市との間に、もう一つ、森下もりもとと云う町があって、そこへも停車場ステエションが出来るそうな、が、まだその運びに到らぬから、津幡は金沢から富山の方へ最初の駅。
 間四里、聞えた加賀の松並木の、西東あっちこち、津幡まではほとんど家続きで、蓮根れんこんが名産の、蓮田はすだが稲田より風薫る。で、さまで旅らしい趣はないが、この駅を越すと竹の橋――源平盛衰記に==源氏の一手ひとて樋口兼光ひぐちかねみつ大将にて、笠野富田を打廻り、竹の橋の搦手からめてにこそ向いけれ==とある、ちょうど峠の真下の里で。倶利伽羅を仰ぐと早や、名だたる古戦場の面影が眉に迫って、驚破すわ、松風も鯨波ときの声、山の緑も草摺くさずりを揺り揃えたる数万すまん軍兵ぐんぴょう伏屋ふせやかどの花も、幽霊のよろいらしく、背戸の井戸の山吹も、美女たおやめの名の可懐なつかしい。
 これはもととてもかわりはなかった。しかしその頃は、走らす車、運ぶ草鞋わらじ、いざ峠にかかる一息つくため、ここに麓路ふもとじさしはさんで、竹の橋の出外ではずれに、四五軒の茶店があって、どこも異らぬ茶染ちゃぞめ藍染あいぞめ講中手拭こうじゅうてぬぐいの軒にひらひらとある蔭から、東海道の宿々のように、きちんと呼吸いきは合わぬながら、田舎は田舎だけに声繕こわづくろいして、
「お掛けやす。」
「お休みやーす。」
 それ、馬のすずに調子を合わせる。中には若いなまめかしい声が交って、化粧したおんなも居た。
 境も、かえり奥の見晴しに通って、縁から峠に手をかざす、馴染なじみの茶店があったのであるが、この度見ると、可なり広いその家構やがまえの跡は、草茫々ぼうぼう、山を見通しの、ずッと裏の小高い丘には、松が一本、野を守る姿に立って、小さな墓のかさなったのが望まれる。
 由緒ある塚か、知らず、そこを旅人の目から包んでいた一叢ひとむら樹立こだちも、大方切払われたのであろう、どこか、あからさまに里が浅くなって、われ一人、草ばかり茂った上に、影の濃いのも物寂しい。
 それに、藁屋わらやや垣根の多くが取払われたせいか、峠のすそが、ずらりと引いて、風にひだ打つ道の高低たかひく畝々うねうねと畝った処が、心覚えより早や目前めさきに近い。
 が、そこまでは並木の下を、例に因って、なわての松が高く、蔭が出来てすずしいから、洋傘こうもりを畳んでいて、立場たてばの方を振返ると、農家は、さすがに有りのままで、遠い青田に、俯向うつむいた菅笠すげがさもちらほらあるが、藁葺わらぶきの色とともに、笠も日向ひなたからびている。
 境は急に心細いようになった。さきにも後にも、往来ゆききの人はなかったのである。
 と思出したことがあって、三造は並木のこずえ――松の裏を高く仰いで見た。かささぎの尾の、しだり尾のなびきはせずや。……

       二

 往年いんぬるとし、雨上りの朝、ちょうどこのあたり通掛とおりかかった時、松のしずくに濡色見せた、紺青こんじょうの尾をゆたかに、の間の蒼空あおぞらくぐり潜り、かささぎが急ぎもせず、翼で真白まっしろな雲を泳いで、すいとし、すいと伸して、並木のこずえを道づれになった。可懐なつかしいその姿を見るのも、またこの旅の一興にかぞえたのであったから――それを思出してうかがったが……今日は見えぬ。
 なお前途ゆくての空をながめ視め、かかる日の高い松の上に、蝉の声のかまびすしい中にも、ねぐらしてその鵲が居はせぬかと、仰いで幹をたたきなどして、右瞻左瞻とみこうみながら、うかうかと並木を辿たどる――おおき蜻蛉とんぼの、あとをつけてくのも知らずに。
 やがて樹立がまばらになって、右左両方へ梢がひらくと、山の根が迫って来た。倶利伽羅のその風情は、偉大なる雲の峯が裾を拡げたようである。
 処へ、横雲のただよさまで、一叢ひとむらの森の、低く目前めさきあらわれたのは、三四軒の埴生はにゅうの小屋で。路傍みちばたに沿うて、枝の間にふくろうの巣のごとく並んだが、どこにいしずえを据えたとしもなく、元村からあふれて出たか、崖からちて来たか、未来も、過去も、世はただ仮の宿と断念あきらめたらしい百姓家――その昔、大名の行列は拝んだかわりに、汽車の煙には吃驚びっくりしそうな人々が住んでいよう。
 朝夕の糧を兼ねた生垣の、人丈に近い茗荷みょうがの葉に、野茨のばらが白くちらちら交って、犬が前脚で届きそうな屋根の下には、羽目へ掛けて小枝も払わぬ青葉枯葉、松まきをひしと積んだは、今から冬の用意をした、雪の山家とうなずかれて、見るからにわびしい戸の、その蜘蛛くもの巣は、山姥やまうばの髪のみだれなり。
 一軒二軒……三軒目の、同じような茗荷の垣の前を通ると、小家こや引込ひっこんで、前が背戸の、早や爪尖つまさきあがりになる山路やまみちとの劃目しきりめに、桃の樹が一株あり、葉蔭に真黒まっくろなものが、牛の背中。
 この畜生、仔細しさいは無いが、思いがけない、物珍らしさ。そのずんどぎりな、たらたらと濡れた鼻頭はなづらに、まざまざと目を留めると、あの、前世を語りそうな、意味ありげな目で、じっと見据えて、むぐむぐと口を動かしざまに、ぺろりと横なめをした舌が円い。
 その舌のさきって、野茨のばらの花がこぼれたように、真白まっしろな蝶が飜然ひらりと飛んだ。が、角にも留まらず、直ぐに消えると、ぱっとの底へくぐったさまに、大牛がフイとせた。……
 失せた……と思う暇もなしに、忽然こつぜんとして消えたのである。
「や!」
 声を出して、三造はきょとんとして、何かに取掴とッつかまったらしく、堅くなってそこらを捻向ねじむく……と、峠とも山とも知れず、ただ樹の上に樹がかさなり、中空をおおうて四方から押被おっかぶさってそびえ立つ――その向ってくべき、きざきざの緑の端に、のこのこと天窓あたまを出した雲の峯の尖端とっぱしが、あたかも空へ飛んで、幻にぽちぽち残った。牛頭にたとは愚か。
 三造は悚然ぞっとした。
 が、げ戻るでもなし、進むでもなく、無意識に一足出ると、何、何、何の事もない、牛は依然としてのっそりと居る。
 一体、樹の間からいて出たような例の姿を、通りがかりに一見し、みまもり瞻り、つい一足歩行あるいた、……その機会はずみに、くだんの桃の木に隠れたので、今でも真正面まっしょうめんへちょっと戻れば、立処たちどころにまた消えせよう。
 蝶も牛の背を越したかな……左の胴腹に、ひらひらひら。
「はは、はは。」
 独りで笑出した。
「まず昼間でかった。夜中にこれを見せられると、申分なく目をまわす。」

       三

 これよりさき、境はふと、もののかしらを葉ごしに見た時、形から、名から、牛の首……と胸に浮ぶと、この栗殻くりからとは方角の反対な、加賀と越前えちぜん国境くにざかいに、同じ名の牛首がある――その山も二三度越えたが、土地に古代のおもかげあり。ふもとの里に、錣頭巾しころずきを取ってかずき、薙刀なぎなた小脇に掻込かいこんだ、つらにはを塗り、まなこ黄金こがねひげ白銀しろがねの、六尺有余の大彫像、熊坂長範くまさかちょうはんを安置して、観音扉かんのんびらきを八文字に、格子もめぬほこらがある。ためにあざなを熊坂とて、俗に長範の産地ととなえる、巨盗の出処は面白い。祠は立場たてばに遠いから、路端みちばたの清水の奥に、あおく蔭り、朱に輝く、けるがごとき大盗賊の風采ふうさいを、車の上からがたがたと、横にながめて通った事こそ。われ御曹子おんぞうしならねども、この夏休みには牛首を徒歩かちあるきして、菅笠すげがさを敷いて対面しょう、とも考えたが、ああ、しばらく、この栗殻の峠には、われぬ可懐なつかし思出おもいでがあったので、越中境えっちゅうざかいへ足を向けた。――
 処を、牛の首に出会ったために、むしろその方が興味があったかも知れないと、そぞろに心の迷ったはなを、隠身寂滅おんしんじゃくめつ、地獄が消えた牛妖ぎゅうように、少なからず驚かされた。
 正体が知れてからも、出遊の地に二心ふたごころを持って、山霊をないがしろにした罪を、慇懃いんぎんにこの神聖なる古戦場にむかって、人知れず慚謝ざんしゃしたのであるる。
 立向う山のしげりから、額を出して、ト差覗さしのぞさまなる雲の峰の、いかにそのすその広く且つ大なるべきかを想うにつけて、全体を鵜呑うのみにしている谷の深さ、山の高さが推量おしはかられる。
 辿たどるほどに、洋傘こうもりさしたありのよう――蝉の声が四辺あたりに途絶えて、何の鳥かカラカラとくのを聞くと、ちょっとそのくちばしにも、人間は胴中どうなか横啣よこぐわえにされそうであった。
 谷が分れて、森が涼しい。
 右手めての谷の片隅に、さきに見た牛の小家が、小さくなって、樹立こだちありとも言わず、真白まっしろに日が当る。
 やがて、二が処のぼった。
 坂路に……草刈か、鎌は持たず。自然薯穿じねんじょほりか、くわも提げず。地柄じがら縞柄しまがらは分らぬが、いずれも手織らしい単放ひとえすそみじかに、草履穿ばきで、日に背いたのはゆるやかに腰に手を組み、日に向ったのは額に手笠で、対向さしむかって二人――年紀としも同じ程な六十左右むそじそこら婆々ばばが、暢気のんきらしく、我が背戸に出たような顔色かおつきして立っていた。
 山逕さんけい※(「石+角」、第3水準1-89-6)ぎょうかく、以前こそあれ、人通りのない坂は寸裂ずたずた、裂目に草生い、割目にすすきの丈伸びたれば、へびきぬけて足許あしもとは狭まって、その二人のわきを通る……肩は、一人と擦れ擦れになったのである。
 ト境の方に立ったのが、心持身体からだを開いて、ほおしわ引伸ひんのばすような声を出した。
「この人はや。」
「おいの。」
 と皺枯れた返事を一人が、その耳のあたり白髪しらがが動く。
「どこの人ずら。」
「さればいの。」
 と聞いた時、境は早や二三間、前途むこうへ出ていた。
 で、別に振り返ろうともしなかった――気に留めるまでもない、居まわりには見掛けない旅の姿を怪しんで、とがめるともなく、声高に饒舌しゃべったろう、――それにつけても、余り往来ゆききのないのは知れた。
 けれども、それからというものは、遠い樹立の蔭に、朦朧もうろうと立ったり、間近な崖へ影がしたり、背後うしろからざわざわとすすき掻分かきわける音がしたり、どうやら、くだんの二人のおうなが、附絡つきまとっているようなおもいがした。ざっと半日の余、ほかに人らしいものの形を見なかったために、何事もない一対の白髪首が、深く目に映って消えなかった、とまず見える。

       四

 ひぐらしが谷になって、境は杉のこずえを踏む。と峠は近い。立向う雲の峰はすっくと胴をあらわして、灰色におおいなる薄墨うすずみまだらを交え、動かぬ稲妻をうねらしたさますさまじい。が、山々の緑が迫って、むくむくとある輪廓りんかくは、おおぞらとのくぎりあおく、どこともなく嵐気らんきが迫って、かすかな谷川のながれの響きに、火の雲の炎の脈も、淡く紫に彩られる。
 また振返って見れば、山の裾と中空との間に挟まって、宙に描かれた遠里とおざとはてなる海の上に、落ちく日のくれないのかがみに映って、そこにわだかまった雲の峰は、海月くらげが白く浮べる風情。蟻をならべた並木の筋に……蛙のごとき青田あおたの上に……かなたこなた同じ雲の峰四つ五つ、近いのは城のやぐら、遠きは狼煙のろし余波なごりに似て、ここにある身は紙鳶たこに乗って、雲のかけはし渡る心地す。
 これからさきは、坂が急にけわしくなる。……以前車の通った時も、からでないと曳上ひきあげられなかった……雨降りには滝になろう、縦に薬研形やげんがた崩込くずれこんで、人足の絶えた草は、横ざまに生え繁って、真直まっすぐつえついた洋傘こうもりと、路の勾配との間に、ほとんど余地のないばかり、蔦蔓つたかずらも葉の裏を見上げるように這懸はいかかる。
 それはい。
 かほどの処を攀上よじのぼるのに、あえて躊躇ちゅうちょするのではなかったが、ふとここまで来て、出足を堰止せきとめられた仔細しさいがある。
 山の中の、かかる処に、流灌頂ながれかんちょうではよもあるまい。路の左右と真中まんなかへ、草の中に、三本の竹、荒縄を結渡ゆいわたしたのが、目の前を遮った、――ふもとのものの、何かの禁厭まじないかとも思ったが、紅紙べにがみをさしたはしも無ければ、強飯こわめしを備えた盆も見えぬ。
可訝おかしいな。」
 考えるまでもない、手取てっとり早く有体ありていに見れば、正にこれ、往来どめ
 して見ると、先刻さっき、路をふさいでたたずんだ、ばば素振そぶりも、通りがかりに小耳に挟んだことばの端にも、深い様子があるのかも知れぬ。……土地の神が立たせておく、門番かとも疑われる。
 が、往来止だで済ましてはいられぬ。もしその意味に従えば、……一寸先へも出られぬのである。
 もっとも時ったか、竹も古びて、縄も中弛なかだるみがして、草に引摺ひきずる。またいで越すに、足を挙ぐるまでもなかったけれども、路に着けた封印は、そう無雑作には破れなかった。
 前後あとさき※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしながら、そっとその縄を取ってくと、等閑なおざりに土の割目に刺したらしい、竹の根はぐらぐらとして、縄がずるずると手繰たぐられた。慌てて放して、後へ退さがった。――一対のばばが、背後うしろで見張るようにも思われたし、縄張の動く拍子に、矢がパッと飛んで出そうにも感じたのである。
 いや、名にし負う倶利伽羅で、天にも地にもただ一人、三造がこの挙動ふるまいは、われわれ人間としては尋常事ただごとではない。手に汗を握る一大事であったが、山に取っては、いなごが飛ぶほどでもなかろう。
 境は、今の騒ぎで、取落した洋傘こうもりの、寂しく打倒ぶったおれた形さえ、まだしも娑婆しゃば朋達ともだちのような頼母たのもしさに、附着くッついて腰を掛けた。
 峰から落し、谷からして、夕暮が次第に迫った。雲の峰は、一刷ひとはけ刷いて、薄黒く、坊主のように、ぬっと立つ。
 日が蔭って、草の青さの増すにつけ、汗ばんだ単衣ひとえしまの、くっきりと鮮明あざやかになるのも心細い――山路に人の小ささよ。
 蜻蛉とんぼでも来て留まれば、城の逆茂木さかもぎの威厳をいで、抜いて取ってもつべきが、寂寞じゃくまくとして、三本竹、風も無ければ動きもせず。
 ひぐらしの声がする…………

       五

 カラカラとこだまして、谷の樹立こだちを貫ぬき貫ぬき、空へ伝わって、ちょっと途絶えて、やがて峰のかたでカラカラとまた声が響く。
 と、蜩の声ばかりでなく、あらたすずが起ったのである。
 ちりりんりんと――しかり、鐸を鳴らす、と聞いただけで、夏の山には、行者の姿が想像されて、境は少からず頼母たのもしかった。峠には人が居る。
 その実、山霊がかなでるので、次第々々に雲の底へ、高く消えてたぐいの、深秘な音楽ではあるまいか、と覚束おぼつかなさに耳を澄ますと、たしかに、しかも、段々に峰から此方こなたに近くなる。
 蜩がそれに競わんとするごとく、またしきりに鳴き出す――足許あしもとの深い谷から、そのしろがねの鈴を揺上ゆりあげると、峠から黄金こがねの鐸を振下ろして、どこで結ばるともなく、ちりりりと行交ゆきかうあたりは、目に見えぬの葉が舞い、霧が降る。
 涼しさが身に染みて、鐸か、声か、音か、ひぐらしの、と聞きまがうまで恍惚うっとりとなった。目前めのさきに、はたと落ちた雲のちぎれ、鼠色の五尺の霧、ひらひらと立って、袖擦れにはっと飛ぶ。
「わっ。」
 と云って、境は驚駭おどろきの声を揚げた。
 遮る樹立のたてもあらず、霜夜にてたもののごとく、山路へぬっくと立留まった、その一団の霧の中に、カラカラと鐸が鳴ったが、
「ほう――」
 とふくろのような声を発した。つら赭黒あかぐろく、きば白く、両の頬に胡桃くるみり、まなこ大蛇おろちの穴のごとく、額の幅約一尺にして、眉は栄螺さざえを並べたよう。耳まで裂けた大口をいて、上から境をめ着けたが、
「これは、」
 と云う時、かっしと片腕、ひじを曲げて、そのかに甲羅こうら面形めんがたいで取った。
 四十余りの総髪そうがみで、筋骨たくましい一漢子いっかんし、――またカラカラと鳴った――鐸の柄を片手に持換えながら、
「思いがけない処にござった。とんと心着きませんで、不調法。」
 と一揖いちゆうして、
「面です……はははは面でござる。」
 と緒を手首に、可恐おそろしい顔は俯向うつむけに、ぶらりと膝に飜ったが、鉄で鋳たらしいそのおごそかさ。逞ましいおのこの手にもずしりとする。
「お驚きでございましたろうで、恐縮でござります。」
「はあ、」
 と云うと、一刎ひとはね刎ねたままで、弾機ぜんまいが切れたようにそこに突立つったっていた身構みがまえが崩れて、境は草の上へ投膝なげひざで腰を落して、雲が日和下駄ひよりげた穿いた大山伏を、足の爪尖つまさきから見上げて黙る。
「別に、お怪我けがは?」
 手を出して寄って来たが、腰でも抱こう様子に見えた。
「怪我なんぞ。」
 境は我ながら可笑おかしくなって、
生命いのちにも別条はありません。」
重畳ちょうじょうでござる。」
 と云う、落着いて聞くと、声のややかすれた人物。
「しかし大丈夫、立派な処を御目に懸けました。何ですか、貴下あなたは、これから、」
「さよう、竹の橋をさして下山いたすでございます、貴辺あなたはな。」
 境は振向いて峠を仰いだ。目を突くばかりの坂のむぐらに、竹はすっくと立っている。

       六

「ええ、日脚は十分、これから峠をお越しになっても、夏の日は暮れますまい――が、その事でござる、……さよう、その儀に就いて、」
 境の前にしゃがんだ時、山伏は行衣ぎょうえの胸にうずたかい、鬼の面が、襟許えりもとから片目でにらむのを推入おしいれなどして、
「実は、貴辺あなたよりもてまえがお恥かしい。臆病おくびょうから致いてかようなものを持出しましたで。
 それと申すが、やはりこの往来止の縄張でございまするがな。ここばかりではのうて、峠を越しました向うの坂、石動いするぎから取附とッつきのぼり口にも、ぴたりと封じ目の墨があるでござります。
 仔細しさいあって、てまえは、この坂を貴辺あなた真暗三宝まっくらさんぼう駆下りましたで、こちらのこの縄張は、今承りますまで目にも入らず、貴辺がおいでなさる姿さえ心着かなんだでござります。
 が、あちらのは、風説うわさにも聞きますれば、てまえも見ました、と申しますのが、そこからさまで隔てませぬ、石動の町をこの峠の方へ、人里離れました処に、山籠やまごもりを致しております。」
 不動堂の先達だと云う。それでそのすずも、雲のような行衣もめた。
「御免下され、」
 とここで、鐸をさかさまに腰にさして、たもとから、ぐったりした、油臭い、かます煙草入たばこいれを出して、真鍮しんちゅう煙管きせるを、ト隔てなく口ごと持って来て、蛇の幻のあらわれた、境の吸う巻莨まきたばこで、吸附けながら、
かっと気ばかりのぼって、ざっと一日、すきな煙草もようみません。世に推事おしごとというは出来ぬもので、これがな、腹に底があってした事じゃと、うむとこらえるでござりましょうが、好事ものずき半分の生兵法なまびょうほうえらく汗をきました。」
「峠に何事があったんですか。」
「されば。」
 すぱすぱと二三服、さもうまそうに立続けに行者は、矢継早に乙矢おとやつがえて、
「――ございました。」
「どんな事ですか。」
 少し急込せきこんで聞きながら、境はたてに取った上坂のぼりざかを見返った。峠をおおう雲の峰は落日の余光なごりに赤し。
 行者の頬も夕焼けて、
「順に申さんと余り唐突でございますで――一体かようでございます。
 峠で力餅ちからもちを売りました、三四軒茶屋旅籠はたごのございました、あの広場ひろッぱな、……俗に猿ヶ馬場ばんば――以前上下のぼりくだりの旅人でさかりました時分には、何が故に、猿ヶ馬場だか、とんと人力車の置場のようでござりましたに、御存じの汽車が、このすそを通るようになりましてからは、富山の薬売、城端じょうはなのせり呉服も、ろくに越さなくなりまして、年一年、その寂れ方というものは、……それこそまた、えてどもが寄合場よりあいばになったでございます。
 ところで、峠の茶屋連中、山家やまがものでも商人あきんどは利にさとい――名物の力餅を乾餅かきもちにして貯えても、活計くらしの立たぬ事にはやく心着いて、どれも竹の橋の停車場前へ引越しまして、袖無しのちゃんちゃんこを、ゆきの長い半纏はんてんに着換えたでござります。さて雪国の山家とて、けたうつばり厳丈がんじょうな本陣まがい、百年って石にはなっても、滅多に朽ちるうれいはない。それだけにまた、盗賊の棲家すみかにでもなりはせぬか、と申します内に、一夏、一日あるひ晩方から、や、もう可恐おそろし羽蟻はありが飛んで、ふもと一円、目もきませぬ。これはならぬ、と言う、口へ入る、鼻へ飛込む。蚊帳を釣っても寝床の上をうようよと這廻はいまわる――さ、その夜あけ方に、あれあれ峠を見され、羽蟻が黒雲のように真直まっすぐに、と押魂消おったまげる内、焼けました。
 残ったのがたった一軒。
 いずれ、※(「てへん+峠のつくり」、第3水準1-84-76)やまかせぎのものか、乞食どもの※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそうであろう。焼残った一軒も、そのままにしておいては物騒じゃに因って、上段の床の間へ御仏像でも据えたなら、かまえおおきい。そのまま題にして、倶利伽羅山焼残寺くりからざんしょうざんじが一院、北国名代ほっこくなだいの巡拝所――
 と申す説もござりました。」

       七

「ところが、買手が附いたのでござりましてな。随分広い、山ぐるみ地所附だと申す事で。」
 行者がちょいと句切ったので、
「別荘にでもなりましたか。」
 煙管きせるって、遮るごとく、
「いや、その儀なら仔細しさいはござらん、またどこの好事ものずきじゃと申して、そんな峠へ別荘でもござりますまい。……まず理窟はいて、誰だか買主が分らぬでございます。第一その話がござってから、二人や、三人、ぽつぽつ峠を越したものもございますが、一向に人の住んでいる様子は見えぬという事で。ただ稀代なのは、いつの間にやら雨で洗ったように、焼跡やけあとらしい灰もなし、もえさしの材木一本よこたわっておらぬばかりか、大風で飛ばしたか、土礎石どだいいし一つ無い。すらりと飯櫃形いびつなりの猿ヶ馬場ばんばに、吹溜ふきたまった落葉を敷いて、閑々と静まりかえった、うもれ井戸には桔梗ききょうが咲き、すすき女郎花おみなえしが交ったは、薄彩色うすさいしきしとねのようで、上座かみくらに猿丸太夫、眷属けんぞくずらりと居流れ、連歌でもしそうな模様じゃ。……(焼撃やきうちをしたのも九十九折つづらおりの猿が所為しわざよ、道理こそ、柿の樹と栗の樹は焼かずに背戸へ残したわ。)……などと申す。
 山家徒やまがであいでござるに因って、何か一軒家を買取ったも、古猿の化けたやつむかしこの猿ヶ馬場には、渾名あだな熊坂くまさかと言った大猿があって、通行の旅人を追剥おいはがし、石動いするぎの里へ出て、刀のつば小豆餅あずきもちを買ったとある、と雪の炉端ろばたで話がつもる。
 トそこら白いものばっかりで、雪上※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)ゆきじょうろう白無垢しろむくじゃ……なんぞと言う処から、袖裾そですそが出来たものと見えまして、近頃峠の古屋には、世にも美しいおんなすまう。
 人が通ると、猿ヶ馬場に、むらむらと立つ、もや、霞、霧の中に、御殿女中の装いしたおんなの姿がすっと立つ――
 見たものは命がない。
 さあ、その風説うわさが立ちますと、それからこっち両三年、悪いと言うのを強いて越して、ふもとへ下りて煩うのもあれば、中には全く死んだもござる。……」
「まったく?」
 とハタと巻莨まきたばこを棄てて、境は路傍みちばたへ高く居直る。
 行者は、てのひらで、すずふたして、腰を張って、
「さればその儀で。――
 隣村も山道半里、谷戸やと一里、いつの幾日いつかに誰が死んで、その葬式とむらいに参ったというでもござらぬ、が杜鵑ほととぎすの一声で、あの山、その谷、それそれに聞えまする。
 地体、一軒家を買取った者というのも、猿じゃ、狐じゃ、と申すひまに、停車場前の、今、餅屋で聞くか、その筋へ出て尋ねれば、皆目知れぬ事はござるまい。が、人間そこまではせぬもので、火元は分らず、火の粉ばかり、わッぱと申す。
 さらぬだに往来の途絶えた峠、あやしい風説があるために、近来ほとんど人跡が絶果てました。
 ところがな、ついこの頃、石動在の若者、村相撲の関を取る力自慢の強がりが、田植が済んだ祝酒の上機嫌、雨霽あまあがりで元気はよし、女小児こどもの手前もあって、これ見よがしに腕をさすって――おらが一番見届ける、得物なんぞ、何、手掴てづかみだ、と大手を振って出懸けたのが、山路へかかって、八ツさがりに、わしども御堂みどうへ寄ったでござります。
 そこで、御神酒おみきを進ぜました。あびらうんけんそわかと唱えて、押頂いて飲んだですて……
(お気をつけられい。)
 と申して石段を送って出ますと、坂へ立身上たつみあがりに片足を踏伸ばいて、
(先達、訳あねえ。)
 と向顱巻むこうはちまきしたであります――はてさて、この気構えでは、どうやら覚束おぼつかないと存じながら、つれにはぐれた小相撲という風に、源氏車の首抜くびぬき浴衣の諸肌脱もろはだぬぎ、素足に草鞋穿わらじばき、じんじん端折ばしょりで、てすけとくてく峠へ押上おしのぼ後姿うしろつきを、日脚なりに遠く蔭るまで見送りましたが、何が、貴辺あなた、」
「え、その男は?」

       八

 先達は渋面して、
「まず生命いのちに別条のないばかり、――日が暮れましたで、てまえ御本堂へだけ燈明をけました。で、縁の端で……されば四日頃の月をこう、」
 手廂てびさしして、
「森のあいからながめていますと、けたたましい音を立てて、ぐるぐる舞いじゃ、二三度立樹たちき打着ぶつかりながら、くだんのその昼間の妖物ばけもの退治が、駆込んで参りました。
(お先達、水を一口、)
 と云うと、のめずって、低い縁へ、片肱かたひじかけたなり尻餅をいたが、……月明りで見るせいではござらん、顔の色、真蒼まっさおでな。
 すぐに岩清水を月影に透かして、大茶碗にんで進ぜた。
(明王のお水でござる……しっかりなされ。)
 と申したが、こっちで口へあてがってやらずには、震えて飲めなんだでござります。
 やっと人心地になった処で、本堂わきの休息所へ連込みました。
 処で様子を尋ねると、(そ、その森の中、垣根越、女の姿がちらちらする、わあ、追懸おっかけて来た、入って来る……閉めてほしい。)と云うで、ばたばた小窓などふさぎ、かっあかるくとも参らんが、すすけたなりに洋燈ランプけたて。
 少々落着いての話では――いきおいに任せて、峠をさして押上った、途中別に仔細しさいはござらん。元来もともと、そこから引返そうというではなく、猿ヶ馬場を、向うへ……
 というのが、……こちらで、」
 と煙管のさきで草をおさえ、
「峠越し竹の橋へ下りて、汽車で帰ろう了簡りょうけん。ただただ、山一つ越せばいわ、ですすき焼石やけいしふみだいに、……薄暮合うすくれあい――猿ヶ馬場はがらんとして、中に、すッくりと一軒家が、何か大牛がわだかまったような形。人が開けたとは受取れぬ、雨戸が横に一枚と、入口の大戸の半分ばかり開いた様子が、口をぱくりと……それ、った塩梅あんばい。根太ごと、がたがたと動出しもし兼ねんですて。
 そいつをにらみつけて、右の向顱巻むこうはちまき、大肌脱で通りかかると、キチキチ、キチキチと草が鳴る……いや、何か鳴くですじゃ、……
 蟋蟀きりぎりすにしては声がおおきいぞ――道理かな、いたち、かの鼬な。
 鼬でござるが、仰向あおむけに腹を出して、尻尾をぶるぶると遣って、同一おなじ処をごろごろ廻る。
 つい、路傍みちばた足許あしもと故に、
しつ! 叱!)
 と追ってみたが、同一おなじ処をちょっとも動かず、四足をびりびりと伸べつ、縮めつ、白いつらを、目も口も分らぬ真仰向まあおむけに、草にすりつけ擦つけて転げる工合ぐあいが、どうもいぬころのじゃれると違って、焦茶こげちゃ色の毛の火になるばかり、もだくるしむに相違ござらん。
 大蛇うわばみでも居てねらうか、と若い者ちと恐気おじけがついたげな、四辺あたりまがいそうな松の樹もなし、天窓あたまの上から、四斗樽しとだるほどな大蛇だいじゃの頭がのぞくというでもござるまい。
 なおじっみまもると、何やら陽炎かげろうのようなものが、鼬の体から、すっとつたわり、草のさきをひらひらと……細い波形になびいている。はてな、で、その筋を据眼すえまなこで、続く方へ辿たどってくと……いや、めましたて。
 右の一軒家の軒下に、こう崩れかかった区劃石くぎりのいしの上に、ト天をにらんだ、腹の上へ両方のまなこなかだか、シャ! と構えたのはひきがえるで――手ごろの沢庵圧たくあんおしぐらいあろうという曲者くせもの
 く息あたかもにじのごとしで、かッと鼬に吹掛ける。これとても、蜉蝣ぶゆを吸うような事ではござらん、かたのごとき大物をせしめるで、垂々たらたらと汗を流す。濡色が蒼黄色あおぎいろに夕日に光る。
 怪しさも、すごさもこれほどなら朝茶の子、こいつ見物みものと、裾をまくって、しゃがみ込んで、
(負けるな、ウシ、)
 などと面白半分、鼬殿をあおったが、もう弱ったか、キチキチという声も出ぬ。だんだんに、影が薄くなったと申す事で。」

       九

「その内に、同じくのッつ、そッつ、背中を橋に、草に頸窪ぼんのくぼを擦りつけながら、こう、じりりじりりと手繰たぐられるていに引寄せられて、心持動いたげにございました。
 発奮はずんで、ずるずると来たやつが、若衆わかいしゅの足許で、ころりとかえると、クシャッと異変な声を出した。
 こいつがされては百年目、ひょいと立って退すさったげな、うむと呼吸いきを詰めていて、しばらくして、そっと嗅ぐと、ぷんと――貴辺あなた
 ここが可訝おかしい。
 何とも知れぬかおりが、露出むきだしの胸にひやりとする。や、これがために、若衆は清涼剤きつけを飲んだように気が変って、今まで傍目わきめらずにいましたひきがえるの虹を外して、フト前途むこうを見る、と何と、一軒家のかどを離れた、峠の絶頂、馬場の真中まんなか背後うしろへ海のような蒼空あおぞらを取廻して、天涯に衝立ついたてめいた医王山いおうせんいただき背負しょい、さっ一幅ひとはば、障子を立てた白い夕靄ゆうもやから半身をあらわして、にしきの帯はたしかに見た。……婦人おんなが一人……御殿女中の風をして、」
 ――顔を合わせた。――
「御殿女中の?……」
 と三造は聞返す。
「お聞きなされ、その若衆わかいしゅの話でござって――ト見ると、唇がキラキラと玉虫色、……それが、ぽっちり燃えるようにあかくなったが、莞爾にっこりしたげな。
 若衆は、一支えもせず、腰を抜いたが、手をく間もない、仰向あおのけにひっくりかえる。独りでに手足が動く、ばたばたはじまる。はッあァ、鼬の形と同一おんなじじゃ。と胸を突くほど、足がすくむ、手が縮まる、五体を手毬てまりにかがられる……六万四千の毛穴から血がさっと霧になって、くだんのその紅い唇を染めるらしい。草にうなじを擦着け擦着け、
(お助け下さい、お助け!)……
 とで尺取って、じりじりと後退あとずさり、――どうやらちっと、めつけられた手足の筋のゆるんだ処で、馬場の外れへ俵転がし、むっくりこと天窓あたまへ星をせて、山端やまばな突立つったつ、と目がくらんだか、日が暮れたか、四辺あたりは暗くなって何も見えぬ。
 で、見返りもせず、逆落し、もとの坂をどどどッと駆下りる――いやもう途中、追々ものの色が分るにつけ、山茨やまいばらの白いのも女の顔にあらわれて、呼吸いきけずにげた、――と申す。
 若衆は話のうちも、わなわなと歯の根が合わぬ。
生血いきちを吸われた、お先達、ほう、腕が冷い、氷のようじゃ。)
 と引被ひっかぶせてやりました夜具の襟から手を出して、なさけなさそうに、銀の指環をながめる処が、とんと早や大病人でな。
 お不動様の御像おすがたの前へ、かんかん燈明を点じまして、そのは一晩、てまえが附添ったほどでござります。
 峠越し汽車に乗って帰ると云うたで、その夜は帰らないのを、村の者も、さまで案じずにいましたげな。ひる過ぎてから四五人連立って様子を見に参ったのが、通りがかり、どやどや御堂みどうへ立寄りましたに因って、豪傑はその連中に引渡して、事済んだでございます。
 が、唯今ただいまもお尋ねの肝腎のそのあやしい婦人が、姿容すがたかたち、これがそれ御殿女中と申す一件――振袖ふりそで詰袖つめそでか、すそ模様でも着てござったか、年紀としごろは、顔立は、髪は、島田とやらか、それとも片はずしというようなことかと、くわしく聞いてみたでございますが、当人その辺はまるで見境みさかいがございません。
 何でも御殿女中は御殿女中で、薄らあおいにどこか黄味がかった処のある衣物きもので、美しゅう底光りがしたと申す。これはな、蟇の色が目に映って、それが幻に出たらしい。
 して見ると、風説うわさを聞いて、風説の通り、御殿女中、と心得たので、その実たしかにどんな姿だか分りませぬ。
 さあ、是沙汰これざた大業おおぎょうで、……
(朝う起きて空見れば、
   口紅つけた※(「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1-91-26)じょうろうが、)
 と村の小児こどもは峠をながめる。津幡川つばたがわぐ船頭は、(こうがいさした黒髪が、空から水に映る)と申す、――峠の婦人おんなは、里も村も、ちらちらと遊行ゆぎょうなさるる……」

       十

「その替り村里から、この山へ登るものは、ばったり絶えたでありましてな。」
「それで、」
聞惚ききとれていた三造は、ここではじめて口を入れたが、
貴下あなたが、探険――山開きをなさいましたんですね。」
 先達は額に手を当て、膨れた懐中ふところを伏目にのぞいて、
「御意で、恐縮をいたします……さような行力ぎょうりきがありますかい。はッはッ、もっとも足は達者で、御覧の通り日和下駄ひよりげたじゃ、ここらは先達めきましたな。立山たてやま御嶽おんたけ、修行にならば這摺はいずっても登りますが、秘密の山を人助けに開こうなどとはもっての外の事でござる。
 また早い話が、この峠を越さねばと申して、多勢たぜいのものが難渋をするでもなし、で、聞いたままのお茶話。秋にでもなって、朝ぼらけの山のに、ふと朝顔でも見えましたら、さてこそさてこそ高峰たかねの花と、合点がってんすれば済みます事。
 処を、年効としがいもない、そっと……様子が見たいそぞろ心で、我慢がならず企てました。
 それにいたせ、飛んだ目には逢いとうござらん心得から、用心のために思いつきましたはこの一物、な、御覧の通り、古くから御堂みどうの額面に飾ってござります獅噛面しかみおもて、――待て待て対手あいては何にもせよ、この方鬼の姿で参らば、五枚錣ごまいじころを頂いたも同然、同じ天窓あたまから一口でも、変化へんげの口に幅ったかろうと、緒だけ新しいのを着けたやつを、苛高いらだかがわりに手首にかけて、トまず、金剛杖を突立てて、がたがたと上りました。約束通り、まず何事もなく、峠へかかったでござります。」
「猿ヶ馬場へ、」
「さようで、立場たてばの焼跡へ、」
「はあ成程。」
「縄張のあります処から、ここぞともはやおもてを装い、チャクと黒鬼に構えました。
 仔細しさいなく、鼻の穴からふもとまで見通し、かッにらんだ大のまなこは、ここの、」
 と額にしわを寄せて、
「汗を吹抜きの風通かざとおし……さして難渋にもござらなんだが、それでも素面のようではない。一人前、顔だけ背負しょって歩行あるく工合で、何となく、坂路が捗取はかどりません。
 馬場ばんばかかると、早や日脚がって、一面に蔭った上、草も手入らずに生え揃うと、綺麗きれいに敷くでござりましてな、成程、早咲の桔梗ききょうが、ちらほら。ははあ、そこらがうもれ井戸か……すすきがざわざわと波を打つ。またその風の冷たさが、さっと魂をあらうような爽快さわやいだものではなく、気のせいか、ぞくぞくと身に染みます。
 おのれ、としんをまず丹田たんでんおちつけたのが、気ばかりで、炎天の草いきれ、今鎮まろうとして、這廻はいまわるのが、むらむらと鼠色にうねって染めるので、変に幻の山を踏む――下駄の歯がふわふわと浮上る。
 さあ、こうなると、長し短し、面被めんかぶりでござるに因って、がんあかるいが、つら真暗まっくら、とんと夢の中に節穴をのぞく――まず塩梅あんばい
 それ、つまずくまい、見当を狂わすなと、俯向うつむきざまに、面をぱくぱく、鼻の穴でめる様子が、クン、クンといで、
(やあ人臭いぞ。)
 とほざきそうな。これがさ、峠にただ一人で挙動ふるまいじゃ、我ながらさらわれて魔道を一人旅の異変なてい。」
「まったく……ですね。」
 と三造はうなずいたのである。
「な、貴辺あなた、こりゃかようなざまをするのが、既にものに魅せられたのではあるまいか。はて、宙へ浮いてあがるか、谷へ逆様さかさまではなかろうか、なぞと怯気おじけがつくと、足がすくんで、膝がっくり。
 ヤ、ヤ、このまんまで、いきついては山車だし人形の土用干――たまらんと身悶みもだえして、何のこれ、若衆わかいしゅでさえ、婦人おんなの姿を見るまでは、向顱巻むこうはちまきゆるまなんだに、いやしくも行者の身として、――」

       十一

「ごもっともですね。」
 ちとこれが不意だったか、先達は、はたとつまって、くすぐったい顔色がんしょくで、
痛入いたみいります、いやしくも行者の身として……そのしだらで、」
 境は心着いて、気の毒そうに、
「いいえ、いいえ。」
「何、てまえもその気で仰有おっしゃったとは存じませぬがな、はッはッはッ。
 笑事わらいごとではござらぬ。うむとさて、勇気を起して、そのまま駆下りれば駆下りたでありますが、せっかくの処へ運んだものを、ただ山を越えたでは、炬燵櫓こたつやぐらまたいだ同然、待て待て禁札を打って、先達が登山の印を残そうと存じましたで、携えました金剛を、一番突立つったてておこう了簡りょうけん
 すすきの中へぐいと入れたが、ずぶりと参らぬ。草の根が張って、ぎしぎしいう、こじったがささりません。えいと杖のさきねる内に、何の花か、底光りがしてつやを持った黄色いのが、右の突捲つきまくりで、すすきなりに、ゆらゆら揺れたと思うと、……」
「おお!」
「得も言われぬにおいがしました。はてな、あの一軒家の戸口をのぞくと、ちらりと見えた――や、その艶麗あでやかなことと申すものは。――
 時ならぬ月がひさしからと出たように、ぱっと目に映るというと、手も足も突張りました。
 必ず、どんな姿で、どんな顔立じゃなぞとお尋ね御無用。まだまだ若衆の方が間違いにもいたせ、衣服きものの色合だけも覚えて来たのが目っけものじゃ。いやはや、てまえの方はたださっと白いものが一軒家の戸口に立ったと申すまでで――衣服が花やら、体が雪やら、さような事は真暗三宝まっくらさんぽう、しかも家の内の暗い処へ立たれた工合ぐあいが、牛か、熊にでも乗られたようでな、背が高い。
(鬼じゃ、)
 と、てまえ一つ大声を上げました。
(鬼じゃ、鬼じゃ。)
 と、こうぬっと腕を突張つっぱった。金剛杖こんごうづえを棄置いて、腰のすわらぬ高足を※(「てへん+堂」、第4水準2-13-41)どうと踏んで、躍上おどりあがるようにその前を通った、が、可笑おかしい事には、対方さき女性にょしょうじゃに因って、いつの間にか、自分ともなく、名告なのり慇懃いんぎんになりましてな。……
(鬼でござる。)
 と夢中でわめいて、どうやら無事に、猿ヶ馬場は抜けました。で、後はこの坂一なだれ、転げるように駆下りたでございます。――
 処で、先刻の不調法、」
 と息をき、
「何とも、恥を申さぬと理が聞えませぬ、仔細しさいはこうでござります――が、さて同一おなじ人間……も変なれども、この際……とでも申すかな、その貴辺あなたを前に置いて、今お話をしまする段になるというと、いや、我ながらあんまりな慌て方、此方こなたこそ異形を扮装いでたちをしましたけれども、彼方あなたは何にせよ女体でござる。風説うわさの通り、あの峠茶屋の買主の、どこのか好事ものずきな御令嬢が住居すまいいたさるるでも理は聞える。よしや事あるにもせい、いざと云う時に遁出にげだしましてもさそうなものじゃったに……
 ……と申すがやはり、貴辺あなたにお目にかかりましてからの分別で。ぱっと美しいもので目がくらみました途端には、ただ我を忘れて、
(鬼じゃ。)
 とこぶしを握りました。
 これだけでは、よう御合点はなりますまいで、てまえのその驚き方と申すものは、変った処に艶麗あでやかな女中の姿とだけではござらぬ。日の蔭りました、倶利伽羅峠の猿ヶ馬場で、山気さんきの凝って鼠色のもやのかかりました一軒家、廂合ひあわいから白昼、時ならぬ月が出たのに仰天した、と、まず御推量が願いたい――いくらか、その心持が……お分りになりましょうかな。」

       十二

「分りました。」
 と三造は衣紋えもんを合わせて、
「何ですか、その一軒家というのは、以前の茶屋なんでしょう、左側の……右側のですか。」
「御存じかな。」
「たびたび通って知っています。」
「ならば御承知じゃ。右側の二軒目で、鍵屋かぎやと申したのが焼残っておりますが。」
「鍵屋、――二軒目の。」
 と云って境は俯向うつむいた。峠に残った一軒家が、それであると聞くまでは、あるいは先達とともに、もと来たふもとへ引返そうかとも迷ったのである。
 が、思う処あって、こう聞くと直ぐに心がきまった。
 様子は先達にも見て取られて、
「ええ、鍵屋なら、おあがりになりますかな。」
「別に、鍵屋ならばというのじゃありませんが。これから越します。」
 と云って、別離わかれの会釈につむりを下げたが、そこに根をはやして、傍目わきめらず、黙っている先達に、気を引かれずには済まなかった。
「悪いんですか、参っては。」
 山伏は押眠った目を瞬いて開けた。三造を右瞻左瞻とみこうみて、
「お待ち下さい。血気にはやり、我慢に推上おしのぼろうとなさる御仁なら、お肯入ききいれのないまでも、お留め申すがてまえ年効としがいではありますが、お見受け申した処、悪いと言えば、それでもとはおっしゃりそうもない。その御心得なれば別儀ござるまいで、必ず御無用とは申上げん。
 峠でその婦人を見るものは……云々うんぬんと恐るべき風説はいたすが、現に、てまえとても御覧のごとく別条はないようで、……折角じゃ、いっそのことおいでよろしい。」
「ああ、それはどうも難有ありがたい。」
 と三造は礼を云う。許されたような気がしたのである。
「さ、さ、」
 先達も立構えで、話のうち※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)むしって落した道芝の、帯の端折目はしょりめに散りかかった、三造の裾を二ツ三ツ、あおぐようにはたいてくれた。
「ところで、」
 顔を振って四辺あたりを見た目は、どっちを向いても、峰の緑、処々に雲が白い。
「この日脚じゃ、暮切らぬ内峠は越せます、が坂は暗くなるでござろう。――急ぎの旅ではなかろうで、手前おまもりをいたす、ふもと御堂みどうで御一泊のように願います。無事にお越しの御様子も伺いたい。留守には誰もらず、戸棚には夜具一組、蚊帳もござる。
 てまえは、急いで、竹の橋までくだりますで、汽車でぐるりと一廻り、直ぐに石動から御堂へ戻ると、貴辺あなたはまだ上りがある。事に因ると、先へ帰って茶をわかして相待てます。それが宜しい、そうなさって。ああ、御承知か。重畳々々。
 就きましては、」
 かさかさと胸を開いて、仰向あおむけに手に据えた、鬼の面は、紺青こんじょうの空に映って、山深きこみちかすかなる光を放つ。
「先生方にはただの木の面形めんがたでござれども、現にてまえが試みました。驚破すわとある時、この目を通して何事も御覧が宜しい。さあ、お持ちなさるよう。」
 三造は猶予ためらいつつ、
「しかし、御重宝、」
「いや、御役に立てば本懐であります。」
 すなわち取って、帽子をはずして、襟にかける、と先達の手にすずが鳴った。
「御無事で、」
「さようなら。」
 ひぐらしの声に風さっと、背を押上げらるるがごとく境はこうべを峠に上げた。雲の峰はへり浅葱あさぎに、鼠色の牡丹ぼたんをかさねた、頂白くキラキラと黄金こがねすじの流れたのは、月がそのうちに宿ったろう。高嶺たかねの霞に咲くという、金色こんじきすみれの野を、天上はるかに仰いだ風情。
西山日没東山昏せいざんひはぼっしてとうざんくらし旋風吹馬馬蹈雲せんぷううまをふきうまくもをふむ。――
 低声こごえに唱いかけて、耳を澄ますと、鐸のこずえゆすって、薄暗い谷に沈む。

       十三

女巫澆酒雲満空じょふさけをそそぐくもくうにみつ玉炉炭火香鼕鼕ぎょくろたんかにおいとうとう海神山鬼来座中かいしんさんきざちゅうにきたる紙銭※※(「穴かんむり/卒」、第4水準2-83-16)鳴※風しせんしつそつせんぷうになる[#「穴かんむり/悉」、387-9][#「風にょう+旋のつくり」、387-16]相思木帖金舞鸞そうしぼくちょうきんぶらん
※(「てへん+讚のつくり」、第3水準1-85-6)蛾一※重一弾さんがいっそうまたいったん[#「口+睫のつくり」、387-18]呼星召鬼※(「音+欠」、第3水準1-86-32)杯盤ほしをよびおにをめしはいばんをきんす山魅食時人森寒さんみくらうときひとしんかんす
 境の足は猿ヶ馬場にかかった。今や影一つ、山のに立つのである。
終南日色低平湾しゅうなんのにっしょくわんにひくし神兮長有有無間かみやとこしなえにうむのあいだにあり
 こしの海は、雲の模様に隠れながら、青い糸の縫目を見せて、北国ほっこくの山々は、皆黄昏たそがれの袖を連ねた。
「神兮長に有無の間にあり。」
 胸を見ると、背中まで抜けそうなまなこかっと、鬼の面が馬場をにらんで、ここにも一人神がたたずむ、三造は身自から魔界を辿たどおもいがある。
 峠のこの故道ふるみちは、聞いたよりも草が伸びて、古沼の干た、あししげりかと疑うばかり、黄にも紫にも咲交じった花もない、――それは夕暮のせいもあろう。が第一に心懸けた、目標めじるしの一軒家はもやかからぬのに屋根も分らぬ。
 場所が違ったかとも怪しんだ、けれども、蹈迷ふみまよう路続きではない。でいよいよ進むとしたが、ざわざわ分入らねばならぬ雑草に遮られて、いざ、と言う前、しばらくを猶予ためらうて立つと、風が誘って、時々さらさらさらさらと、そこらの鳴るのが、虫の声の交らぬだけ、余計に響く。……
 ひょっこり肌脱の若衆わかいしゅが、草鞋穿わらじばきで出て来そうでもあるし、続いて、山伏がのさのさとあらわれそうにもある。大方人の無い、こんな場所へ来ると、聞いた話が実際の姿になって、目前めさき幻影まぼろしに出るものかも知れぬ。
 現にそれ、それそれ、若衆が、山伏が、ざわざわと出て、すっと通る――通ると……その形が幻をつかねた雲になって、さっと一つ谷へ飛ぶ。程もあらせず、むっくりといて来て、ふいとくと、いつの間にか、草の上へちぎれちぎれに幾つも出る。中には動かずにじっと留まって、すその消えそうな山伏が、草の上に漂々として吹かれもやらず浮くのさえある。
 またふわりと来て、ぱっと胸に当って、はっとすると、他愛たわいもなく、形なく力もなく、袖を透かして背後うしろへ通る。
 三造は誘われて、ふらふらとなって、ぎょっとしたが、つらつら見ると、むこうに立った雲の峰が、はらはらと解けて山中へ拡がりつつ、すすきの海へ波を乱して、白く飜って、しかも次第に消えるのであった。
「ああ、そうか……」
 山伏は大跨おおまたで、やがてふもとへ着いた時分、と、足許あしもとの杉のこずえにかかった一片ひとひらの雲を透かして、里可懐なつかしく麓を望んだ……時であった。
 今昇った坂一畝ひとうねさがた処、後前あとさき草がくれのこみちの上に、波に乗ったような趣して、二人並んだ姿が見える――ひとしく雲のたたずまいか、あらず、その雲には、淡いがいろどりがあって、髪が黒く、おもかげが白い。帯の色も、その立姿の、肩と裾を横に、胸高に、ほっそりとくぎって濃い。
 道は二町ばかり、間はへだたったが、かざせばやがててのひらへ、その黒髪が薫りそう。直ぐ眉の下に見えたから、何となく顔立ちの面長おもながらしいのも想像された。
 同時に、そのかたわらのもう一人、瞳を返して、三造は眉をひそめた。まさしく先刻のばばらしい。それが、黒い袖のゆき短かに、しわの想わるる手をぶらりと、首桶くびおけか、骨瓶こつがめか、風呂敷包を一包ひとつつみ提げていた。
 境が、上から伸懸のしかかるようにして差覗さしのぞくと、下で枯枝のような手を出した。婆がその手を、上に向けて、横ざまに振って見せた。
 たしか暗号あいずに違いない、しかも自分にするのらしい。
「ええ。」
 胸倉を取って小突かれるように、強く此方こなたこたえるばかりで、見るなか、けか、去れだか、来いだか、その意味がさっぱり分らぬ。その癖、烏が横啣よこぐわえにして飛びそうな、いやな手つきだとしみじみ感じた。

       十四

 その内に……婆の手のかたわらからすすきなびいて、穂のような手が動いた。そっと招いて、胸を開くと、片袖を掻込かいこみながら、かいなをしなやかに、そのすそのあたりを教えた。
 そこへ下りて来よ、と三造に云うのである――
 意味はあきらかに、しかも優しく、うるわしく通じたが、待て、なぜ下へ降りよ、と諭す?
 峠を越すな、進んではならぬ、と言うか。自分われにしか云うものが、婦人おんなの身でどうして来た、……さて降りたらば何とする? ずんずんけば何とする?
 すべてかかる事に手間ひま取って、とこうするのが魔がすのである。――構わずこう。
「何だ。」
 谿間たにまの百合の大輪おおりんがほのめくを、心は残るが見棄てる気構え。くびすを廻らし、猛然と飛入るがごとく、むぐらの中に躍込んだ。ざ、ざ、ざらざらと雲が乱れる。
 山路に草を分ける心持は、水練を得たものが千尋のふちの底を探るにも似ていよう。どっと滝を浴びたように感じながら、ほとんど盲蛇めくらへびでまっしぐらに突いて出ると、さっと開けた一場の広場。前面にぬっくり立った峯の方へなぞえに高い、が、その峰は倶利伽羅の山続きではない。越中の立山が日も月も呑んで真暗まっくらそびえたのである。ちょうど広場とその頂との境に、一条ひとすじ濃いもやかかった、靄の下に、九十九谷つくもだにはさまった里と、村と、神通じんつう射水いみずの二大川だいせんと、富山のまちが包まるる。
 さればこそ思い違えた、――峠の立場たてばはここなので。今し猿ヶ馬場ぞと認めたのは、道を急いだ目の迷い、まだそこまでは進まなかったのであった。
 紫に桔梗ききょうの花を織出した、緑はせんを開いたよう。こんもりとしたはてには、山のせた骨が白い。がばと、またさっくりと、見覚えた岩も見ゆる。一本の柿、三本の栗、老樹おいきの桃もあちこちに、夕暮を涼みながら、我を迎うる風情にたたずむ。
 と見れば鍵屋は、いしずえが動いたか、四辺あたりの地勢が露出むきだしになったためか、向う上りに、ずずんと傾き、大船を取って一そう頂に据えたるごとく、おごそかにかつ寂しく、片廂かたびさしをぐいと、山のから空へ離して、みよしの立った形して、立山の波を漕がんとす。
 境は可懐なつかしげに進み寄った。
「や!」
 その門口かどぐちに、美しい清水が流るる。いや、水のようなつまこぼれて、脇明わきあけの肌ちらちらと、白い撫子なでしこ乱咲みだれざきを、帯で結んだ、浴衣の地のうすお納戸。
 すらりと草に、姿横に、露を敷いて、雪のかいな力なげに、ぐたりと投げた二の腕に、枕すともなくつややかなびんを支えた、前髪を透く、清らかな耳許みみもとの、かすかるる俯向うつむなり、膝を折って打伏した姿を見た。
 冷い風が、と薫って吹いたが、キキと鳴くいたちも聞えず、その婦人おんな蝦蟇がまにもならぬ。
 耳がかっと、目ばかりえる。……冴えながら、草も見えず、家も暗い。が、その癖、くだんの姿ばかりは、がっくり伸ばしたうなじの白さに、毛筋が揃って、おくれ毛のはらはらとそよぐのまで、瞳に映って透通る。
 これを見棄てては駆抜けられない。
「もし……」
 と言いもあえず、後方あと退さがって、
「これだ!」
 とつい出た口許を手で圧える。あとから、込上げて、つッぱじけて、
「……顔を見ると……のっぺらぼう――」
 と思わずまた独言ひとりごと。我が声ながら、変にかすれて、まるで先刻さっきの山伏のおん
「今も今、手をった……ああ、しきりに留めた……」
 と思うと、五体を取って緊附しめつけられる心地がした。

       十五

 けれども、まださいわい俯向うつむけに投出されぬ。
「触らぬ神にたたりなし……」
 非常な場合に、極めて普通なことわざが、記憶から出て諭す。諭されて、直ぐに蹈出ふみだして去ろうとしたが……病難、危難、もしや――とすれば、このまま見棄つべき次第でない。
 境は後髪うしろがみを取って引かれた。
 洋傘こうもりいて、おずおずその胸に掛けた異形の彫刻物をまたながめた。――今しがた、ちぎれ雲の草をかすめて飛んだごとく、山伏にて候ものの、ここをよぎった事はたしかである。
 確で、しかもその顔には、この鬼の面をかぶっていた。――時に、門口へあらわれた婦人おんなの姿を鼻の穴からのぞいたと云うぞ。待てよ、縄張際の坂道では、かくある我も、ためにすくなからず驚かされた。
 おお、それだと、たとい須磨すまに居ても、明石あかしに居ても、姫御前ひめごぜは目をまわそう。
 三造は心着いて、夕露の玉をちりばめた女の寝姿に引返した。
「鬼じゃ。」
 試みに山伏のことばを繰返して、まさしく、おびやかされたに相違ないと思った。
「鬼じゃ。……」
 と一足出てまたつぶやいたが、フト今度は、反対に、人をいましむる山伏の声に聞えた。なかれ、彼は鬼なり、我に与えし予言にあらずや。
 境は再び逡巡した。
 が、じっみつめて立つと、きぬの模様の白い花、撫子のおもかげも、一目の時より際立って、伏隠ふしかくれたはだの色の、小草おぐさからんで乱れた有様。
 手に触ると、よし蛇のきぬともらばれ、熱いと云っても月はいだく。
 三造は重いひさしの下に入って、背に盤石ばんじゃくを負いながら、やっとおんなの肩際にしゃがんだのである。
 耳許はずれにのぞく。俯向うつむけのその顔斜めなれば、鼻かと思うのがすっとある、ト手をかざしもしなかったが、びんの毛が、霞のように、何となく、差寄せた我が眉へ触るのは、かすか呼吸いきがありそうである。
令嬢じょうさん。」
 とちょっと低声こごえに呼んだ――つまはずれ、帯のさま、肩の様子、山家やまがの人でないばかりか、髪のかざりの当世さ、鬢の香さえも新しい。
「嬢さん、嬢さん――」
 とやや心易げに呼活よびいけながら、
「どうなすったんですか。」
 とその肩に手を置いたが、花弁はなびらに触るにひとしい。
 三造は四辺あたりを見て、つッと立って、門口から、真暗まっくらの内へ、
「御免。」
「ほう……」
 と響いたので、はっと思うと、ううと鳴ってこだまと知れた。自分の声が高かった。
「誰も居ないな。」
 美女の姿は、依然として足許によこたわる。無慚むざんや、片頬かたほは土に着き、黒髪が敷居にかかって、上ざまに結目むすびめ高う根がゆるんで、かんざしの何か小さな花が、やがて美しい虫になって飛びそうな。
 しかし、煙にもならぬ人を見るにつけて、――あの坂の途中に、可厭いやな婆と二人居て手をったことを思うと、ほとんど世を隔てた感がある。同時に、渠等かれら怪しきやからが、ここにかかる犠牲いけにえのあるを知らせまいとして、我を拒んだと合点さるるにつけて、とこう言う内に、追って来てさまたげしょう。早く助けずば、と急心せきごころかっとなって、おののく膝をいて、ぐい、と手を懸ける、とぐったりしたかいなが柔かに動いて、脇明わきあけすべった手尖てさきが胸へかかった処を、ずッと膝を入れて横抱きにいだき上げると、仰向あおむけに綿をせた、胸がふっくりと咽喉のどが白い。カチリと音して、くしが鬼の面に触ったので……慌てて、かなぐり取って、見当も附けず、どん、と背後うしろほうった。
「山伏め、何を言う!」

       十六

「いや、もう、先方さき婦人おんなにもいたせ、男子おとこにもいたせ、人間でさえありますれば、手前はしょうのもの鬼でござる。――おおかみ法衣ころもより始末が悪い。世間では人の皮着た畜生と申すが、鬼の面をかぶった山伏は、さて早や申訳がない。」
 御堂みどうの屋根をおおい包んだ、杉の樹立の、ひさしめた影がす、の灰も薄蒼うすあおう、茶を煮る火の色のぱっ[#「火+發」、396-5]と冴えて、ほこりは見えぬが、休息所の古畳。まちなし黒木綿の腰袴こしばかまで、かしこまった膝に、両のかいなの毛だらけなのを、ぬい、と突いた、いやしからざる先達が総髪そうがみの人品は、山一つあなたへ獅噛しかみを被って参りしには、ちと分別が見え過ぎる。
しからぬ山伏め、と貴辺あなたがお思いなされたで好都合。その御婦人が手前の異形に驚いて、恍惚うっとりとなられる。貴辺あなたは貴辺で、手前の野譫言のたわごとを真実と思召し、そりゃこそ鬼よ、触らぬ神にたたりなしの御思案で、またまたお見棄てになったとしまする、御婦人がそれなりで御覧ごろうじろ、手前は立派な人殺ひとごろしでございます。何も、げしにんに立派は要らぬが、承りましただけでも、冷汗になりますで。
 いや、それにつけても、」
 と山伏の肩がそびえ、
「物事と申すは、よく分別をすべきであります。てまえども身柄、鬼神を信ぜぬと云うもいかがですが、軽忽かるはずみ天窓あたまからあやしくして、さる御令嬢を、ひきがえる、土蜘蛛の変化へんげ同然に心得ましたのは、俗にそれ……棕櫚箒しゅろぼうきが鬼、にもまさった狼狽うろたえ方、何とも恥入って退けました。
 ――(山伏め、何をぬかす。)――結構でござるとも。その御婦人をお救けなさって、手前もおかげで助かりました。
 いかにも、不意に貴辺あなたにお出逢い申したに就いて、ていい怪談をいたし、その実、手前、峠において、異変なる扮装いでたちして、昼強盗、追落おいおとしはまだな事、御婦人に対し、あるまじき無法不礼を働いたように思召したも至極の至りで。」
「まあ、お先達、貴下あなた、」
 対向さしむかいの三造は、脚絆きゃはんを解いた痩脛やせずねの、疲切つかれきった風していたのが、この時遮る。……
「いやいや、仰せではありますが、早い話が、これが手前なら、やっぱり貴辺をそう存ずる、……道でござる、理でございます。
 しかし笑って遣わされ。まず山中毒やまあたりとでも申すか、五里霧中とやらに※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまよいました手前、真人間から見ますると狂人の沙汰ですが、思いの外時刻が早く、汽車で時のに立帰りましたのを、何か神通で、雲に乗つてせ戻ったほどの意気組。そのいきおいでな、いらだか、いらって、もみ上げ、押摺おしすり、貴辺が御無事に下山のほどを、先刻この森の中へ、夢のようにお立出たちいでになった御姿を見まするまで、明王の霊前にいのりを上げておりました。
 それもって、貴辺が、必定、お立寄り下さると信じましたからで。
 信じながらも、思い懸けぬ山路やまみちに一人やすんでござった、あの御様子を考えると、どうやら、遠い国で、昔々お目にかかったような、ぼうとした気がしまして、眼前めのまえきました護摩ごまはてが霧になって森へ染み、森へ染み、峠のかたおおい隠すようにもござった。……
 何にせよ、てまえどうかしていたと見えます。兎はちょいちょい、猿も時々は見懸けますが、狐狸は気もつきませぬに、穴の中からでもりましたかな。
 明王もさぞ呆れ返って、苦笑いなされたに相違ござらん。てまえのそのたわけさ加減、――ああ、御無事を祈るに、お年紀としも分らぬ、貴辺の苗字だけでもうかがっておこうものを、――心着かぬことをした。」
 総髪をうしろへ撫でる。
「などと早や……」
 三造は片手をちゃんと炉縁ろぶちいて、
難有ありがとう存じます。御厚意、何とも。」

       十七

 あらためて、
「お先達、そうやって貴下あなたは、御自分お心得違いのようにばかりお言いですが、――その人を抱き起して美しい顔を見た時、貴下に対して心得違いしましたのは、私の方じゃありませんか。
 そして、無事、」
 と言い懸けたが、寂しい顔をした、――実は、余り無事でばかりもなかったのであるから。
「ともかくも……峠を抜けられましたのは、貴下が御祈念の功徳かも知れません――たしかに功徳です。
 そうでないと、今頃どうなっていたか自分で自分が解らんのです。何ともお礼の申上げようはありません。実際。
 その人だって、またそうです――あの可恐おそろしい面のために気絶をした。私がかないとそのまま一命が終ったかも知れない、と言えば、貴下に取って面倒になりますけれども、ただ夢のように思ったと、彼方あちらで言います――それなり茫となって、まあ、すやすやと寐入ねいったも同じ事で。たとい門口に倒れていたって、じくが枯れたというんじゃなし、姿のしぼんだだけなんです……露が降りれば、ひとりでにまた、恍惚うっとりと咲いて覚める、……殊に不思議な花なんですもの。自然の露がその唇に点滴したたらなければ点滴らないで、その襟の崩れから、ほんのり花弁はなびらが白んだような、その人自身の乳房から、冷い甘いのを吸い上げて、人手はらないでも、活返いきかえるに疑いない。
 私は――膝へ、こう抱き起して、その顔を見た咄嗟とっさにも、直ぐにそう考えました。――
 こりゃ余計な事をしたか。自分がこの人を介抱しようとするのは、眠った花を、さあ、咲け、と人間の呼吸いきを吹掛けるも同一おんなじだと。……
 で、懐中ふところの宝丹でも出すか、じたばた水でも探してからなら、まだしもな処を、その帯腰からすそが、私に起こされて、柔かに揺れたと思うと、もう睫毛まつげが震えて来た。糸のように目をいたんですから、しまった! となお思ったんです――まるで、夕顔の封じ目を、不作法に指で解いたように。
 はッとしながら、玉を抱いた逆上のぼせ加減で、おお、山蟻やまありってるぞ、と真白まっしろ咽喉のどの下を手ではたくと、何と、小さな黒子ほくろがあったんでしょう。
 さかさに温かな血の通うのが、指のさきへヒヤリとして、手がぶるぶるとなった、が、引込ひっこめる間もありません。おんながその私の手首を、こう取ると……無意識のようじゃありましたが、下の襟を片手で取って、ぐいと胸さがりに脇へ引いて、掻合かきあわせたので、災難にも、私の手は、馥郁ふくいくとものの薫る、襟裏へ縫留められた。
 さあ、言わないことか、花弁はらびらの中へ迷込んで、あぶめ、もがいても抜出されぬ。
 困窮と云いますものは、……
 黙っちゃいられませんから、
(御免なさいよ。)
 と、のっけから恐入った。――その場の成行きだったんですな。――」
「いかにも、」
 と先達は、膝に両手を重ねながら、目を据えるまで聞入るのである。
「黙っています。が、こう、水の底へ澄切ったという目を開いて、じっと膝を枕に、かいな後毛おくれげを掛けたまま私を見詰める。眉が浮くように少し仰向あおむいた形で、……抜けかかったくしも落さず、動きもしません。
 黙っちゃいられませんから、
(気がついたんですか。失礼を、)
 まだわびをする工合ぐあいの悪さ。でも、やっぱり黙っています。
(気分はどうなんです。ここに倒れていなすったんだが。)
 これで分ったろう、放したまえ、早く擦抜けようと、もじつくのが、おんなせなを突いてゆすぶるようだから、慌ててまたすくまりましたよ。どこを糸で結んで手足になったか、女の身体からだがまるで綿で……」

       十八

「綿で……重いことは膝が折れそう――もっともこの重いのは、あの昔話の、あやしい者がおぶさると途中でひしげるほどに目貫めかたがかかるっていう、そんなのじゃない。そりゃ私にも分っていましたが、……
 ああ、これはなぜ私が介抱したか、その人はどうしていたか、そんな事なんぞ言ってるんではまだるッこい。
(失礼しました、今何です、貴女の胸に蟻が這っていたもんですから、)
 つい払って上げよう、と触ったんだ、とてっきりそれがために、そんな様子で居るんだろう、と気が着いて、言訳をしましたがね。
 黙っています……ちっとも動かないで、私の顔を、そのまま見詰めてるじゃありませんか。」
 と三造は先達の顔をみまもって、
「じゃ、まだ気が遠くなったままで、何も聞えんのかと思えば、……顔よりは、私が何か言うその声の方が、かえってその人の瞳に映るような様子でしょう。梔子くちなしの花でないのは、一目見てもはじめから分ってます。
 弱りました。汗が冷く、慄気ぞっと寒い。息が発奮はずんで、身内が震う処から、取ったのを放してくれない指の先へ、ぱっと火がついたように、ト胸へ来たのは、やあ!こうやって生血を吸い取る……」
「成程、成程、いずれその辺で、大慨気絶ひきつけてしまうのでござろう。」
 と先達は合点がってんする。
転倒てんどうしても気はたしかで、そんなら、振切っても刎上はねあがったかと言えば、またそうもし得ない、ここへ、」
 境は帯をおさえつつ、
「天女の顔の刺繍ほりものして、自分の腰から下はさながら羽衣の裾になってる姿でしょう。退きも引きもならんです。いや、ならんのじゃない、し得なかったんです――お先達、」
 と何かきながら言淀いいよどんで、
「話に聞いた人面瘡じんめんそう――そのかさの顔が窈窕ようちょうとしているので、接吻キッスを……何です、その花の唇を吸おうとした馬鹿ものがあったとお思いなさい。」
 と云うと、先達は落着いた面色おももちで、
「人面瘡、ははあ、」
 さも知己ちかづきのような言いぶりで、
「はあ、人面瘡、成程、そのつらが天人のように美しい。芙蓉ふようまなじり、丹花の唇――でござったかな、……といたして見ると……お待ちなさい、愛着あいじゃくの念が起って、花の唇を……ふん、」
 と仰向あおむいて目をねむったが、半眼になって、傾きざまに膝をと打ち、
津々しんしんとして玉としたたる甘露の液と思うのが、実は膿汁うみしるといたした処で、病人の迷うのを、あなが白痴たわけとは申されん、――むむ、さようなお心持でありましたか。」
 真顔で言われると、恥じたる色して、
「いいえ、心持と言うよりも、美人を膝にいだいたなり、次第々々に化石でもしそうな、身動きのならんその形がそうだったんです。……
 段々孤家ひとつやの軒が暗くなって、鉄板で張ったようなひさしが、上から圧伏おっぷせるかと思われます……そのまま地獄の底へ落ちてくかと、心も消々きえぎえとなりながら、ああ、して見ると、坂下で手をった気高い女性にょしょうは、我らがための仏であった。――
 この難を知って、留められたを、推して上ったはまだしも、ここに魔物の倒れたのを見た時、これをその犠牲いけにえなどと言う不心得。
 と俯向うつむいて、じっと目をねむると……歴々まざまざと、坂下に居たそのおんなの姿、――うすもの衣紋えもんの正しい、水の垂れそうな円髷まるまげに、櫛のてらてらとあるのが目前めのまえへ。――
 驚いた、が、消えません。いつの間にか暮れかかる、海のぎたような緑の草の上へ、なぎさの浪のすらすらとあるもやを、つまさきの白う見ゆるまで、浅く踏んで、どうです、ついそこへ来て、それが私の目の前に立ってるじゃありませんか。私を救うためか。
 と思うと、どうして、これも敵方の女将軍じょしょうぐん。」
「女将軍?ええ、山賊の巣窟そうくつかな。」
 と山伏はきょとんとする。

       十九

「後で聞きますと、それが山へ来る約束の日だったので、私の膝に居る女が、心待こころまち古家ふるいえ門口かどぐちまで出た処へ、貴下あなたが、例の異形で御通行になったのだそうです。
 その円髷まげったあねの方は、竹の橋から上ったのだと言いました。つい一条路ひとすじみちの、あの上りを、時刻も大抵同じくらい、貴下は途中でお逢いになりはしませんでしたか。」
 先達は怪訝けげんな顔して、
「されば、……ところで、その婆さんはどうしましたな、坂下に立ったのを御覧になった時は、そばについていたというお話続きの、」
 とかえってたずねる。
「それは峠までは来ませんでした。風呂敷包みがあったので、途中見懸けたのを、頼んで、そこまで持たして来たのだそうで。……やっぱりその婆さんは、路傍みちばたに二人で立っていた一人らしく思われます。その居た処は、貴下にお目にかかりました、あの縄張をした処、……」
「さよう。」
「あすこよりは、ずっとふもとの方です。」
「すると、そのどちらかは分りませんが、貴辺あなたに分れて下山の途中で、婆さん一人にだけは逢いました。成程――承れば、何か手に包んだものを持っていた様子で――大方その従伴ともをして登った方のでありましょうな。
 それにしては、お話しのその円髷まげった婦人に、一条路ひとすじみち出会わねばならんはず、……何か、崖の裏、立樹の蔭へでも姿を隠しましたかな。いずれそれ人目を忍ぶというすじで、」
「きっとそうでしょう。金沢から汽車で来たんだそうですから。」
 先達は目を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはって、
「金沢から、」
「ですから汽車へいらっしゃる、貴下と逢違う筈はありません。」
「旅をかけて働きますかな。」
「ええ、」
「いや、盗賊どろぼうも便利になった。汽車に乗って横行じゃ。倶利伽羅峠に立籠たてこもって――御時節がらしからん……いずれその風呂敷包みも、たんまりいたした金目のものでございましょうで。」
 黙った三造は、しばらくして、
「お先達。」
「はい、」
 と澄ました風で居る。
「風呂敷の中は、綺麗な蒔絵まきえの重箱でしたよ。」
「どこのか、什物じゅうもつ、」
「いいえ、その婦人ひとの台所の。」
「はてな、」
「中に入ったのはあゆすしでした。」
「鮎の鮨とは、」
荘河しょうがわの名産ですって、」
 先達は唖然あぜんとして、
「どうもならん。こりゃ眉毛につばじゃ。貴辺も一ツ穴のむじなではないか。怪物ばけものかと思えば美人で、人面瘡にんめんそうで天人じゃ、地獄、極楽、円髷まるまげで、山賊か、と思えば重箱。……宝物が鮎の鮨で、荘河の名物となった。……待たっせえ、腰を円くそう坐られた体裁ていたらくも、森の中だけ狸に見える。何と、この囲炉裏いろりの灰に、手形を一つおしなさい、ちょぼりと落雁らくがんの形でござろう。」
「怪しからん、」
 と笑って、気競きおって、
「誰も山賊の棲家すみかだとも、万引の隠場所かくればしょだとも言わないのに、貴下が聞違えたんではありませんか。ええ、お先達?」
「はい、」
 と言って、瞬きして、たちまち呵々からからと笑出した。
「はッはッはッ、慌てました、いや、大狼狽だいろうばい。またしても獅噛しかみったて。すべて、この心得じゃに因って、鬼の面をかぶります。
 時にお茶が沸きました。――したが鮎の鮨とは好もしい、貴下も御賞翫ごしょうがんなされたかな。」

       二十

「承った処では、ふもとからその重詰を土産に持って、右の婦人が登山されたものと見えますな――但しどうやら、貴辺あなたがその鮨をあがると、南蛮なんばん秘法の痺薬しびれぐすりで、たちまち前後不覚、といったような気がしてなりません。早く伺いたい。鮨はいかがで?」
 その時境は煎茶せんちゃに心を静めていた。
御馳走ごちそうは……しかも、ああ、何とか云う、ちょっと屠蘇とその香のする青い色の酒に添えて――その時は、かけひの水にほこりも流して、袖の長い、ふりの開いた、柔かな浴衣に着換えなどして、舌鼓を打ちましたよ。」
「いずれお酌で、いや、承っても、はっと酔う。」
 と日に焼けた額を押撫おしなでながら、山伏は破顔する。
「しかし、その倒れていた婦人ですが、」
「はあ、それがお酌を参ったか。」
「いいえ、世話をしてくれましたのは、年上の方ですよ。その倒れていた女は――ですね。」
「そうそうそう、またこれは面被めんかぶりじゃ。どうもならん、我ながら慌てて不可いかん。成程、それはまだ一言も口を利かずに、貴辺あなたの膝に抱かれていたて。何をこう先走るぞ。が、お話の不思議さ、気が気でないで急立せきたちますよ、貴辺は余り落着いておいでなさる。」
「けれども、私だって、まるで夢を見たようなんですから、霧の中を探るように、こう前後あとさき辿たどり辿りしないと、ぼうとしてつかまえられなくなるんですよ。……お話もお話だが、御相談なんですから、よくお考えなすって下さい。
 ――その円髷まるまげの、盛装した、貴婦人という姿のが、さあ、私たちの前へ立ったでしょう。――
 膝を枕にしたのが、倒れながら、それを見た……と思って下さい。
 手を放すと、そのまま、半分背を起した。――両膝をほっそりと内端うちわかがめながら、忘れたらしく投げてたすそを、すっと掻込かいこんで、草へ横坐りになると、今までの様子とは、がらりと変って、活々いきいきした、すずしい調子で、
ねえさん、この方を留めて下さい、帰しちゃいやよ。)
 と言うがはやいか、すっと、戸口の土間へ、青い影がちらちらして、奥深く消え込んだ。
 私は呆気あっけに取られた。
 すると、姉さんと言われた、その貴婦人が、しまった口許くちもとで、黙って、ただちょいと会釈をする、……これが貴下、その意味は分らぬけれども、峠の方へくな、と言って………手で教えた婦人ひとでしょう。
 何にも言わないだけなお気がさす。
(ええ、実は……)
 と前刻さっきからの様子を饒舌しゃべって、ついでにうたがいを解こうとしたが、不可いけません。
(ああ、)
 それのぞくまでもなく、立ったままで、……今暗がりへ入った、も一人のあとを軒下にこうすかしながら、
(しばらくどうぞ。)
 坂を上って、アノ薄原すすきはらくぐるのに、見得もなく引提ひっさげていた、――重箱の――その紫包を白い手で、うすものの袖へ抱え直して、片手を半開きの扉へかける、と厳重に出来たの、何の。大巌おおいわの一枚戸のような奴がまた恐しくすべりが良くって、発奮はずみかかって、がらん、からから山鳴り震動、カーンとこだまを返すんです。ぎょっとしました。
 その時です。
(どこへもいらしっちゃ不可いけませんよ。)
 と振返りざまに莞爾にっこり、美しいだけにそのすごさと云ったら。高い敷居につまかえさず、裾が浮いて、これもするりと、あとは御存じの、あの奥深い、裏口まで行抜けの、一条ひとすじの長い土間が、門形角形かどなりかくがたに、縦に真暗まっくらな穴で。」
 と言った、このあたり家のかまえは、くだんの長い土間に添うて、一側ひとかわに座敷を並べ、かぎの手に鍵屋の店が一昔以前あった、片側はずらりと板戸で、外は直ちに千仭せんじん倶利伽羅谷くりからだに九十九谷つくもだにの一ツに臨んで、雪の備え厳重に、土の廊下が通うのである。

       二十一

「今の一言に釘を刺されて、私はにげることも出来なくなった、……もっとも駆出すにした処で、差当りそこいら雲を踏む心持、馬場も草もふわふわらしいに、足もぐらぐらとなっていて、他愛がありません。むことを得ず、暮れかかる峰の、莫大な母衣ほろ背負しょって、深い穴の気がする、その土間の奥をのぞいていました。……ひやっこい大戸の端へ手を掛けて、目ばかり出して……
 その時分には、当人大童おおわらわで、帽子も持物も転げ出して草隠れ、で足許が暗くなった。
 はるか突当り――崖を左へけた離れ座敷、確か一宇ひとむね別になって根太ねだの高いのがありました、……そこの障子が、薄い色硝子いろがらすめたように、ぼうとこう鶏卵色たまごいろになった、あかりけたものらしい。
 その障子で、姿を仕切って、高縁たかえんから腰をおろして、すそを踏落した……と思う態度ふりで、手をのばして、私においでおいでをする。それが、白いのだけちらちらする、する度に、
(ええ、ええ。)
 と自分で言うのが、口へ出ないで、胸へばかり込上げる――その胸を一寸ずつ戸擦れに土間へ向けて斜違はすかいに糶出せりだすんですがね、どうして、つかまった手は、段々堅く板戸へ喰入るばかりになって、てこでも足が動きません。
 またちらりと招く。
 招かれても入れないから、そうやって招くのを見るのが、心苦しくなって来たので、顔を引込ひっこまして、かど身体からだを横づけに、腕組をして棒立ち――で、じっと目をねむって俯向うつむいていました。
 このていが、稀代に人間というものは、激しい中にも、のんきな事を思います。同じ何でも、これが、もしふもとだと、頬被ほおかぶりをして、つぶてをトンと合図をする、カタカタと……忍足しのびあしの飛石づたいで………
(いらっしゃいな。)
 と不意に鼻のさきで声がしました。いや、その、ものごし婀娜あだに砕けたのよりか、こっちは腰を抜かないばかり。
(はッあ。)
 と言う。
(さあ、どうぞ。)
 と何にも思わない調子でしたが、板戸をくぎりに、横顔で、こう言う時、ぐっと引入れるようにその瞳が動いたんです。」
「これは、どちらの御婦人で、」
 と先達は、湯をしかけた土瓶を置く。
「それを見分けるほど、その場合落着いてはいられませんでした。
 敷居をまたぐ時、一つつまずいて、とっぱぐったじきわきに、婦人おんなが立ってたので、土間は広くっても袖が擦れて、
(これは。)
 と云うと…………
(お危うございます、お気をつけ下さいまし。)
(どうもついれませんので、)
 と言いましたがね、考えると変な挨拶あいさつ。誰がこんな処を歩行馴あるきなれた奴がありますか。……外から見える縁側の雨戸らしいのは、これなんでしょう、ずッと裏庭へ出抜けるまで、心積こころづもり十八九枚、……さよう二十枚の上もありましたろうか、中ほどが一ヶ所、開いていました。――そこから土間が広くなる、左側が縁で、座敷の方へ折曲おれまがって、続いて、三ツばかり横に小座敷が並んでいます。心覚えが、その折曲おれまがりの処まで、店口から掛けて、以前、上下の草鞋穿わらじばきが休んだ処で、それから先は車を下りた上客が、毛氈もうせんの上へあがった場処です。
 余計なことを言うようですが、あとの都合がありますから、この屋造やづくりの様子を聞いて下さい。
 で座敷々々には、ずらり板縁が続いているのが薄明りで見えました。それは戸外そとからも見える……崖へ向けて、雨戸を開けた処があったからです。
 が、ちょうど土間の広くなった処で、同じ事ならもっと手前を開けておいてくれれば可い……入口はいりくちしばらくの間、おまけに狭い処が、隧道トンネルでしょう。……処へ、おどついてるから、ばたばたとそこらへ当る。――黙って手をいたではありませんか。」

       二十二

対手あいては悠々としたもので、
(蜘蛛の巣がひどいのでございますよ。)
 か何かで、時々歩行あるきながら、扇子……らしい、風を切ってひらりとするのが、怪しい鳥の羽搏はう塩梅あんばい
 これで当りはつきました。手を曳いてるのは貴婦人の方らしい、わざわざ扇子を持参で迎いに出ようとは思われませんから。
 果して、そうでした。雨戸の開けてある、広土間ひろどまの処で、円髷まるまげが古い柱のつやに映った。外は八重葎やえむぐらで、ずッと崖です。崖にはむらむらともやが立って、廂合ひあわいから星が、……いや、目の光り、敷居の上へ頬杖ほおづえいて、ひきがえるのぞいていそうで。婦人おんながまた蒼黄色あおぎいろになりはしないか、とそっと横目で見ましたがね。かさねを透いた空色のの色ばかり、すっきりして、黄昏たそがれうすものはさながら幻。そう云う自分はと云うと、まるで裾から煙のようです。途端に横手の縁を、すっと通った人気勢ひとけはいがある。ああ、白脛しらはぎが、と目に映る、ともう暗い処へ入った。
 向うの、離座敷の障子の桟が、ぼんやりと風のない燈火ともしびに描かれる。――そこへく背戸は、浅茅生あさぢうで、はらはらと足の甲へ露が落ちた。
(さあ、こちらへ。)
 ここで手を離して、沓脱くつぬぎの石に熊笹の生えかぶさったわきへ、自分を開いて教えました。障子は両方へ開けてあった。ここの沓脱を踏みながら、小手招こてまねきをしたのでしょう。
(上りましても差支えはございませんか。)
 とそのに及んで、まだ煮切にえきらない事を私が言うと、
主人あるじがお宿をいたします。お宅同様、どうぞおくつろぎ下さいまし。)
 と先へ廻って、こうのぞき込むようにしてしとねを直した。四畳半で、腰を曲げて乗出すと、縁越に手が届くんですね。
(ともかく御免を、)
 高縁へ腰をにじって、爪尖下つまさきさがりに草鞋わらじの足を、左の膝へもたせ掛けると、目敏めざとく貴婦人が気を着けて、
(ああ、おすすぎ遊ばしましょうね。)
 と二坪ばかりの浅茅生をはすに切って、土間口をこっちから、
(おあやさん――)
 と呼びます。
(ああ、もしもし。)
 私は草鞋を解きながら、
(乾いた道で、この足袋がございます。よくはたけば、何、汚れはしません。お手数てかずは恐れ入ります、どうぞ御無用に……しかしお座敷へ上りますのに、)
 と心着くと、無雑作で、
(いいえ、もう御覧の通り、土間も同一おんなじでございますもの、そんな事なぞ、ちっともおいといには及びませんの。)
 と云いかけて莞爾にっこりして、
(まあ、土間も同一だって、お綾さんが聞いたら何ぼでも怒るでしょう。……人様のお住居すまいを、失礼な。これでもね、大事なお客様に、と云って自分の部屋を明渡したんでございますよ。)
 いかにも、この別亭はなれ住居すまいらしい。どこを見ても空屋同然な中に、ここばかりは障子にも破れが見えず、門口に居た時も、戸を繰り開ける音も響かなかった。
 そこで、ちと低声こごえになって、
貴女あなたは……此家ここの……ではおあんなさいませんのですか。)
(は、私もお客ですよ。――不行届きでございますから、事に因りますと、お合宿あいやどを願うかも知れません、御迷惑でござんしょうね。)
 とちょいとあおいだ、女扇子おんなおうぎ口許くちもとを隠したものです。」
「成程、どうも。」
 山伏はひげだらけな頬を撫でる。
「私は、黙って懐中ふところを探しました。さあ、慌てたのは、手拭てぬぐい蝦蟇口がまぐちみんな無い。さまでとも思わなかったに、余程顛動てんどうしたらしい。かどへ振落して来たでしょう。事ここに及んで、旅費などを論ずる場合か、それは覚悟しましたが、差当り困ったのは、お約束の足をはたく……」

       二十三

「……様子で手拭が無いと見ると、スッと畳んで、扇を胸高な帯に挟んで、たもとを引いたが長襦袢ながじゅばんの端と一所に、涼しい手巾ハンケチを出したんですがね。
 崖へ向いた後姿、すぐに浅茅生あさぢうへ帯腰を細く曲げたと思うと、さらさらと水が聞えた。――おぼろの清水と云うんですか、草がくれで気が着かなかった、……むしろそれより、この貴婦人に神通があって、露を集めた小流こながれらしい。
(これで、貴下あなた、)
 と渡す――かけひがそこにあるのであったら、手数てかずは掛けないでも洗ったものを、と思いながら思ったように口へは出ないで、だんまりで、恐入ったんですが、やわらかく絹がからんで、水色に足の透いた処は、玉を踏んで洗うようで。
(さあ、お寄越しなさいまし。)
 と美しい濡れた手を出す。
(ちょいとそそぎましょう。)
 遮ると、叱るように、
(何ですね、跣足はだしでお出なすっては、また汚れるではありませんか。)
 で恐縮なのは、そのままで手をいて、
(後で洗いますよ。)とまろげて落した。手巾ハンケチは草の中。何の、後で洗うまでには、蛇が来て抱くか、※(「けものへん+噪のつくり」、第4水準2-80-51)やまおとこ接吻キッスをしよう、とそこいらを※(「目+句」、第4水準2-81-91)みまわしましたが、おっかなびっくり。
(姉さん。)
(ああ、)
(ちょいと。……)
 土間口の優しい声が、貴婦人を暗がりへ呼込んだ。が、二ツ三ツ何か言交わすと、両手に白いものをせて出た――浴衣でした。
 余り人間離れがしますから、浅葱あさぎの麻の葉絞りで絹縮きぬちぢみらしい扱帯しごきは、ひらにあやまりましたが、寝衣ねまきに着換えろ、とあるから、思切って素裸すッぱだかになって引掛ひっかけたんです。女もので袖が長い――洗ったばかりだからとは言われたが、どこかヒヤヒヤと頸元えりもとから身に染む白粉おしろいの、時めくにおいで。
 またぼうとなって、居心いごころすわらず、四畳半を燈火ともしび前後まえうしろ、障子に凭懸よりかかると、透間からふっと蛇のにおいが来そうで、驚いてって出る。壁際に附着くッつけば、上から蜘蛛くもがすっと下りそうで、天窓あたますくめて、ぐるりと居直る……真中まんなかに据えた座蒲団ざぶとん友染模様ゆうぜんもようが、桔梗ききょうがあってすすきがすらすら、地が萌黄もえぎの薄い処、戸外おもての猿ヶ馬場そっくりというのを、ずッと避けて、ぐるぐる廻りは、早や我ながら独りでぐでんに酔ったようで、座敷が揺れる、障子が動く、目が廻る。ぐたりと手をく、や、またぐたりと手を支く。
 これじゃならん、と居坐居いずまいを直して、キチンとすると、掻合かきあわせる浴衣を……くぐって触る自分の身体からだが、何となく、するりと女性にょしょうのようで、ぶるッとして、つい、と腕を出して、つくづくとながめる始朱。さ、こうなると、愚にもつかぬ、この長い袖の底には、針のようを褐色かばいろの毛がうじゃうじゃ……で、背中からむずつきはじめる。
 もっとも、今浴衣を持って来て、
(私もちょいと失礼をいたしますよ。)
 で、貴婦人は母屋おもやへ入った――当分離座敷に一人の段取だんどりで。
 その内に、床の間へ目が着きますとね、掛地かけじがない。掛地なしで、柱の掛花活かけはないけに、燈火あかりには黒く見えた、鬼薊おにあざみが投込んである。しからん好みでしょう、……がそれはまだい。わきの袋戸棚と板床の隅に附着くッつけて、桐の中古ちゅうぶるの本箱が三箇みっつ、どれも揃って、彼方むこう向きに、ふたの方をぴたりと壁に押着おッつけたんです。……」
「はあ、」
 とばかりで、山伏は膝の上で手を拡げた。
「昔修行者しゅぎょうじゃが、こんな孤家ひとつやに、行暮ゆきくれて、宿を借ると、承塵なげしにかけた、やり一筋で、主人あるじの由緒が分ろうという処。本箱は、やや意を強うするに足ると思うと、その彼方むこう向けの不開あかずの蓋で、またしても眉をひそめずにはいられませんのに、押並べて小机があった。は可懐なつかしいが、どうです――その机の上に、いつの間に据えたか、私のその、蝦蟇口がまぐちと手拭が、ちゃんと揃えて載せてあるのではありませんか、お先達。」
 と境は居直る。

       二十四

背後うしろは峰で、横は谷です。峰も、どうなかくぼんだ、かしらがざんばらの栗の林でおおかぶさっていようというんで、それこそ猿が宙返りでもしなければ上れそうにもなし、一方口はその長土間でしょう、――今更遁出にげだそうッたってすきがあるんじゃなし、また遁げようと思ったのでもないが、さあ、じっとしていられないから、手近の障子をがたりといきおいよく開けました。……何か命令をされたようで、自分気儘きままには、戸一枚も勝手を遣っては相成らんような気がしていたのでありますけれども……
 すると貴下あなた、何とその横縁に、これもまた吃驚びっくりだ。私のいかがな麦藁帽むぎわらぼうから、洋傘こうもり、小さな手荷物ね。」
「やあやあ、」
「それに、貴下あなた打棄うっちゃっておいでなすったと聞きました、その金剛杖こんごうづえまで、一揃ひとそろい、驚いたものの目には、何か面当つらあてらしく飾りつけたもののように置いてある。……」
 山伏ぐんなりして、
「いやもう、凡慮の及ぶ処でござらん。黙って承りましょう、そこで?」
「処へ、母屋から跫音あしおとが響いて来て、浅茅生あさぢう颯々さっさっ沓脚くつぬぎで、カタリとむと、所在紛らし、谷の上のもやながめて縁に立った、私の直ぐ背後うしろで、衣摺きぬずれが、はらりとする。
 小さなしわぶきして、
(今に月が出ますと、ちっとは眺望ながめになりますよ。)
 と声を掛けます。はて違うぞ、と上からのぞくように振向く。下に居て、そこへ、茶盆を直した処、俯向うつむいた襟足が、すっきりと、髪の濃いのに、青貝摺あおがいずりの櫛がきらめく、びんなでつけたらしいが、まだ、はらはらする、帯はお太鼓にきちんとまった、小取廻こどりまわしの姿のさ。よろけじま明石あかしを透いて、肩からせながふっくりと白かった――若い方の婦人おんななんです。
 お馴染なじみの貴婦人だとばかり、不意をくらって、
(いらっしゃい。)
 と調子を外ずして、馬鹿なことを、と思ったが、仕方なしに笑いました。で、照隠てれかくしにいきおいよく煙草盆たばこぼんの前へ坐る……
(お邪魔に出ましてございます。)
 莞爾にっこりして顔を上げた、そのぱっちりしたのをやや細く、まぶたをほんのりさして、片手ついたなりに顔を上げた美しさには、何にもかも忘れました。
(とんでもない。)
 とつんのめるように巻煙草を火入ひいれに入れたが、トッチていて吸いつきますまい。
(お火が消えましたかしら。)
 とちょっとかざした、火入れは欠けてくすぶったのに、自然木じねんぼく抉抜くりぬきの煙草盆。なかんずく灰吹はいふきの目覚しさは、……およそ六貫目がけたけのこほどあって、へり刻々ささらになった代物、先代の茶店が戸棚の隅に置忘れたものらしい。
 何の、火は赤々とあって、白魚しらおに花が散りそうでした。
 やっとけむのようなけむりを吸ったが、どうやら吐掛けそうで恐縮で、開けた障子の方へ吹出したもんです。その煙がふっと飛んで、裏の峰から一颪ひとおろしさっと吹込む。
 と胸をずらして、あかりを片隅に押しましたが、灯が映るか、目のふちのくれないは薄らがぬ。で、すっと吸うように肩を細めて、
(おお、涼しい。お月様の音ですかね、月の出にはさっといってきっと峰から吹きますよ。あれ、御覧なさいまし。)
 とあかりせなに、縁の端へ仰向あおむいた顔で恍惚うっとりする。
(栗の林へかささぎの橋がかかりました。お月様はあれを渡って出なさいます。いまに峰を離れますとね、谷の雲が晃々きらきらと、銀のような波になって、兎の飛ぶのが見えますよ。)
(ほとんど仙境せんきょう。)
 と私は手をいてって出ました。
(まるで、人間界を離れていますね。)
 ……お先達、私のこう言ったのはどうです。」
 急に問われて、山伏は、
「ははあ、」
 と言う。

       二十五

驚駭おどろきれて、いくらか度胸も出来たと見え、内々ふうする心持もあったんですね。
 直ぐには答えないで、手捌てさばきよく茶をいで、
ひどいんですよ。)
 と言う、自分の湯呑ゆのみで、いかにも客の分といっては茶碗一つ無いらしい。いや、粗いどころか冥加みょうが至極。も一つ唐草からくさすかし模様の、硝子ビイドロの水呑が俯向うつむけに出ていて、
(お暑いんですから、冷水おひやがおよろしいかも知れません。それだと直きそこに綺麗なのがいていますけれども、こんな時節には蛇が来て身体からだひやすと申しますから。……)
 この様子では飲料のみもの吐血とけつをしそうにも思われないから、一息にあおりました。実はげっそりと腹も空いて。
 それを見ながら今の続きを、……
(ほんとに心細いんですわ。もう、おっしゃいます通り、こんな山の中で、幾日いくかも何日もないようですが、確か、あの十三四日の月夜ですのね、里では、お盆でしょう。――そこいらの谷の底の方に、どうやら、それらしい燈籠とうろうの灯が、昨夜ゆうべかすかに見えましたわ……ぽっちりよ。)
 と蓮葉はすはに云ったが、
(蛍くらいに。)
 そのままで、わざとでもなく、こう崖へかけて俯向うつむき加減に、雪の手をかざした時は、言うばかりない品が備わって、気高い程に見えました。
(どんなに、可懐なつかしゅうござんしたでしょう。)
 たちまちしおれて涙ぐむように、口許が引しまった。
 見るとたまらなくなって、
(そのかわり、また、里から眺めて、自然こうやってお縁側でも開いていて、フトこの燈火ともしびが見えましたら、どんなにか神々こうごうしい、天上の御殿のように思われましょう。)
 なぜ山住居やまずまいをせらるる、と聞く間もなしに慰めたんです。
 あどけなくかぶりを振って、
(いいえ、何の、どこか松のこずえに消え残りました、さみしい高燈籠たかとうろうのように見えますよ。里のお墓には、お隣りもお向うもありますけれど、ここには私唯一人ひとりきり。)
 小指を反らして、爪尖つまさきじっと見て、
(ほんとに貴下あなた、心細い。はすうてなに乗ったって一人切ひとりぼっちではさみしいんですのに、おまけにここは地獄ですもの。)
(地獄。)
 と言って聞返しましたがね、分別もなしに、さてはと思った。それ、貴下あなたの一件です。」
「鬼の面、鬼の面。」
 と山伏は頭を掻く。
「ところが違います。私もてっきり……だろうと思って、
貴女あなた唐突だしぬけですが、昼間変なものの姿を見て、それで、いやな、そんないまわしい事をおっしゃるんじゃありませんか、きっとそうでしょう。)
 にめてかかって、
(御心配はありません。あれは、ふもとの山伏が……)
 ッて、ここで貴下の話をしました。
 ついては、ちっと繕って、まあ、穏かに、里で言う峠の風説うわさ――面と向っているんですから、そう明白あからさまにも言えませんでしたが、でも峠を越すものの煩うぐらいの事は言った。で、承った通り、現にこの間も、これこれと、向う顱巻はちまきの豪傑が引転ひっくりかえったなぞは、対手あいての急所だ、と思って、饒舌しゃべったには饒舌りましたが、……自若としている。」
「自若として、」
「それは実に澄ましたものです。ひきがえるが出ていたち生血いきちを吸ったと言っても、微笑ほほえんでばかりいるじゃありませんか。早く安心がしたくもあるし、こっちはあせって、
(なぜまたこんな処にお一人で。)
 と思い切って胸を据えると、莞爾にっこりして、
(だって、山蟻やまあり附着くッついた身体からだですもの。)
 と肩をぶるぶると震わしてしっかりと抱いた、胸に夕顔の花がまたほのめく。……ああ、魂というものは、あんな色か、とおんなに玉の緒を取ってしごかれたように、私がふらふらとした時、
貴下あなた、)
 と顔を上げて、じっとまた見ました。」

       二十六

「色めいたなまめかしさ、弱々と優しく、直ぐに男の腕へ入りそうに、怪しい翼を掻窘かいすくめて誘込むといった形。情に堪えないで、そのまま抱緊だきしめでもしようものなら、立処たちどころにぱッと羽搏はばたきを打つ……たちまち蛇が寸断ずたずたになるんだ。何のそのを食うものか、とぐっと落着いて張合った気で見れば、余りしおらしいのがしゃくに障った。
 が、それは自分勝手に、対手さきが色仕掛けにする……いや、してくれる……と思った、こっちが大の自惚うぬぼれ……
 もっての外です。
 実は、涙をもって、あわれに、最惜いとおしく、その胸を抱いて様子を見るべきはずで。やがてまた、物凄ものすごさ恐しさに、おののき戦き、そのはだを見ねばならんのでした。」――
 と語りかけて、なぜか三造は歎息した。
 山伏は茶盆を突退つきのけて、かま此方こなたへ乗って出て、
「自惚でない。承った、その様子、しからん嬌媚きょうびていじゃ。さようなことをいたいて、わかい方の魂をとろかすわ、ふん、ふふん、」
 としきりにうなずきながら、
「そこでその、白い乳房でもあらわしたでござるか。」
「いいえ。」
「いずれ、鳩尾みずおちうろこが三枚……」
 黙って三造はかぶりる。
「全体蛇体じゃたいでござるかな。」
「いいえ。」
「しからば一面の黒子ほくろかな、何にいたせ、その膚を、その場でもって……」
「見ました、見ましたが、それは寝てからです。」
「寝て……からはなお怪しからん。これは大変。」
 と引掴ひッつかんで膝去いざり出した、煙草入れ押戻しさまに、たじたじとなって、摺下ずりさがって、
「はッはッ、それまで承っては、山伏も恐入る。あのそのうすものを透くと聞きましただけでも美しさが思いられる。寝てから膚を見たは慄然ぞっとする……もう目前めさきへちらつく、ひとりの時ならすずを振って怨敵退散おんてきたいさんと念ずる処じゃ。」
「聞きようが悪い、お先達。私が一ツ部屋にでもふせったように、」
「違いますか。」
「飛んだ事を!」
 と強く言った。
「はてな。」
おんなたちは母屋に寝て、私は浅芽生あさぢうの背戸を離れた、その座敷に泊ったんです。別々にも、何にも、まるで長土間が半町あります。」
「またそれで、どうして貴辺あなたは?」
「そうです……お聞苦しかろうが、のぞいたんです。」
「お覗きなすった?いずれから。」
「長土間を伝って行って、母屋の一室ひとまねやにした、その二人の蚊帳を、……
 というのが――一人で離座敷に寝たには寝たが、どうしてもじっと枕をしている事が出来なくなってしまったんですね。」
「山伏でも寝にくいで、御無理はない、迷いじゃな。」
「迷……迷いは迷いでしょうが、色の、恋のというのじゃありません。これは言訳でも何でもない、色恋ならまだしもですが、まったくは、何とも気味の悪い恐しい事が出来たんです。」
「はあ、蚊帳を抱く大入道、夜中に山霧が這込はいこんでも、目をまわすほどおびやかされる、よくあるやつじゃ。」
「いや、蚊帳は釣らないでふせりました。――母屋の方はそうも行かんが、清水があって、風通しのいせいか、離座敷には蚊は居ません。で、ちと薄ら寒いくらいだから――って……敷くのを二枚と小掻巻こがいまき。どれも藍縞あいじま郡内絹ぐんないぎぬ、もちろんお綾さん、と言いました、わかい人の夜のもの……そのかわり蚊帳は差上げません。――
(ちと美しい唇に、分けてお遣んなさいまし。……殿方の血は、殿方ばかりのものじゃありませんよ。)
 とすごいような串戯じょうだんを、これは貴婦人の方が言って。――辞退したがかないで、床の間のわきの押入から、私の床を出して敷いたあとを、一人が蚊帳を、一人が絹の四布蒲団よのぶとんを、明石と絽縮緬ろちりめんもすそからめて、蹴出褄けだしづま朱鷺色ときいろ、水色、はらはらと白脛しらはぎも透いてかさなって正屋おもやへ隠れた、そのあとの事なんですが。」

       二十七

「二人のおんなが、その姿で、沓脱くつぬぎささを擦るつまはずれ尋常に、前の浅芽生あさぢうに出た空には、銀河あまのがわさっと流れて、草が青う浮出しそうな月でしょう――蚊帳釣草かやつりぐさにも、たでの葉にも、萌黄もえぎあい紅麻こうあさの絹の影がして、しろがね色紙しきし山神さんじんのお花畑を描いたような、そのままそこをねやにしたら、月の光が畳の目、寝姿に白露の刺繍ぬいとりが出来そうで、障子をこっちで閉めてからも、しばらく幻が消えません。
 が、二人はもう暗い母屋へ入ったんです。と、草清水くさしみずの音がさらさらと聞え出す、それが、抱いた蚊帳と、掛蒲団が、狭い土間を雨戸に触って、どこまでも、ずッと遠くへくのが、響くかと思われる。……
 ところで、いつでも用あり次第、往通ゆきかいの出来るようにと、……一体土間のその口にも扉がついている。そこと、それから斜違はすかいに向い合った沓脱の上の雨戸一枚は、閉めないで、障子ばかり。あとは辻堂のような、ぐるりとある廻縁まわりえん、残らず雨戸が繰ってあった。
 さて、寝る段になって、そのすっと軽く敷いた床を見ると、まるで、花で織ったうすもののようでもあるし、にじで染めた蜘蛛の巣のようにも見える――
 ずかと無遠慮には踏込み兼ねて、誰か内端うちわ引被ひっかついで寝た処を揺起ゆりおこすといった体裁……
 枕許に坐って、そっ掻巻かいまきの襟へ手を懸けると、つめたかった。が、底にかすか温味あたたかのある気がしてなりません。
 また気のせいで、どうやら、こう、すやすやと花が夜露を吸う寝息が聞える。可訝おかしく、天鵞絨びろうどの襟もふっくり高い。
 や、開けると、あの顔、――寝乱れた白い胸に、山蟻がぽっちり黒いぞ、と思うと、なぜか、この夜具へ寝るのは、わか主婦あるじ懐中ふところへ入るようで、心咎こころとがめがしてならないので、しばらく考えていましたがね。
 そうでもない、またどんな事で、母屋から出て来ないと限らん。誰か見るとこのていは、ふたを壁にした本箱なり、押入なり、秘密のかぎを盗もう、とするらしく思われよう。心苦しいと思って、思い切って、掻巻の袖を上げると、キラリと光ったものがある。
 うろこか、金の、と総毛立つ――とくしでした。いつ取落したか、青貝摺あおがいずりので、しかも直ぐ襟許えりもとに落ちていました。
 待て、女の櫛は、誰も居ない夜具の中に入っていると、すやすやと寝息をするものか、と考えたくらい、もうそれほどの事には驚かず、当然あたりまえのようだったのも、気がどうかしていたんでしょう。
 しばらく手に取ってながめていましたが、
(ええ、縁切えんきりだ!)
 とちと気勢きおって、ヤケ気味に床の間へ投出すと、カチリという。折れたか、と吃驚びっくりして、拾い直して、そっと机に乗せた時、いささか、蝦蟆口がまぐちの、これで復讎ふくしゅうが出来たらしく、おおいに男性の意気を発して、
(どうするものか!)
 ぐっと潜って、
(何でも来い。)
 で枕を外して、大の字になった、……はいが、踏伸ばした脚を、直ぐに意気地なく、徐々そろそろ縮め掛けたのは……
 ぎゃっ!
 あれは五位鷺ごいさぎでしょうな。」
「ええ。」
「それとも時鳥ほととぎすかも知れませんが、ぎゃっ! ときます……
 可厭いやな声で。はじめ、一声、二声は、横手の崖に満充みちみちたもやの底の方に響きました。虚空へ上って、ぎゃっと啼くかと思うと、直ぐにまたぎゃっと来る。
 ちょうど谷底から、一軒家を、に飛び廻っているようです。幾羽も居るんなら居るで可いが、何だか、その声が、おんなじ一つ鳥のらしいので、変に心地が悪いのです。……およそ三四十たび、声が聞えたでしょうか。
 枕頭まくらもとで、ウーンと呻吟うめくのが響き出した、その声が、何とも言われぬ……」

       二十八

「寝てから多時しばらくつ。これは昼間からの気疲れに、自分のうなされる声が、自然と耳に入るのじゃないか。
 そうも思ったが、しかしやっぱり聞える。聞えるからには、自分でないのはたしかでしょう。
 またどうも呻吟うめくのが、魘されるのとは様子が違って、くるし※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)もがくといった調子だ……さ、その同一おなじ苦み※(「てへん+爭」、第4水準2-13-24)くというにも、種々いろいろありますが、訳は分らず、しかもその苦悩くるしみが容易じゃない。今にも息を引取るか、なぶり殺しに切刻きざまれてでもいそうです。」
「やあやあ、どちらの御婦人で。」
「いや、男の声。不思議にも怪しいにも、婦人おんななら母屋の方に縁はあるが、まさしく男なんですものね。」
「男の声かな、ええ、それは大変。生血を吸われる夥間おなかまらしい、南無三なむさん、そこで?」
「何しろどこだ知らん。薄気味悪さに、かしらもたげて、じっと聞くと……やっぱり、ウーと呻吟うなる、それが枕許のその本箱の中らしい。」
「本箱の?」
「一体、向うへ向けたのが気になったんだが、それにしても本箱の中は可訝おかしい、とよくよく聞き澄しても、間違いでないばかりか、今度は何です、なお困ったのは、その声が一人でない、二人――三人――三個みッつの本箱、どれもこれもうなっている。
 ウーウーウーという続けさまのは、いやな内にもまだしも穏かな方で、時々、ヒイッと悲鳴を上げる、キャッと叫ぶ、ダァーと云う。突刺された、られた、焼かれた、と、秒を切ってくぎりのつくだけ、一々ドキリドキリと胸へ来ます。
 私はむっくり起直った。
 ああ、硫黄いおうにおいもせず、あおい火も吹出さず、大釜おおがまに湯玉の散るのも聞えはしないが、こんな山には、ともすると地獄谷というのがあって、阿鼻叫喚あびきょうかんが風のめぐるごとくに響くと聞く……さては……わかい女が先刻さっき――
(ここは地獄ですもの。)
 と言ったのも、この悪名所を意味するのか。……キャッと叫ぶ、ヒイと泣く、それ、貫かれた、えぐられた……ウ、ウ、ウーンと、引入れられそうに呻吟うめく。
 とてもたまらん。
 気のせいで、浅茅生を、縁近えんぢか湧出わきでる水の月のしずく点滴したたるか、と快く聞えたのが、どくどく脈を切って、そこらへ血が流れていそうになった。
 さあ、もう本箱の中ばかりじゃない、縁の下でも呻吟けば、天井でも呻吟く。縁側でも呻唸うなり出す――数百すひゃくの虫が一斉いっときに離座敷を引包んだようでしょう、……これで、どさりと音でもすると、天井から血みどろの片腕が落ちるか、ひしゃげた胴腹が、畳の合目あわせめから溢出はみだそう。
 幸い前の縁の雨戸一枚、障子ばかりを隔てにして、向うの長土間へ通ずる処――その一方だけは可厭いやな声がまだ憑着とりつきません。おお! 事ある時は、それから母屋へげよ、という、一条ひとすじの活路なのかもはかられん。……
 お先達、」
 と大息ついて、
「……こう私が考えたには、所説いわれがあります。……それは、お話は前後したが、その何の時でした。――先刻さっき、――

(だって、山蟻の附着くッついてる身体からだですもの。)
 で、しっかり魂を抱取られて、私がトボンとした、と……申しましたな。――そこへ、
(お綾さん、これなのかい。)
 と声を掛けて、貴婦人が、と入って来たのでした。……片手に、あの、蒔絵まきえもののつつみを提げて、片手にちいさな盆を一個ひとつ。それに台のスッと細い、浅くてぱッと口の開いた、ひどくハイカラな硝子盃コップを伏せて、真緑まみどりで透通る、美しい液体の入った、共口のびんが添って、――三分ぐらい上が透いていたのでしたっけ。
(ああ、それなの、はばかりさま。)
 とわかいのが言うと、
(手の着かないのは無いようね。)
 と緑の露の映る手で、ずッと私の前へ直しました。酒なんですね。
(手が着いたって、ねえさん、食べかけではないわ、お酒ですもの。)
 綺麗な歯をちらりと見せたもんですね。その時、」

       二十九

「貴婦人も莞爾にっこりして、
(ま、そうね、私はちっとも頂かないものだから。)
(あら人聞きが悪いわ。私ばかりお酒を飲むようで。)
(だってそれに違いないんですもの、ほんとに困った人だこと。)
 ちょいとたしなめるような目をした。二人で仲よく争いながら、硝子盃コップを取って指しました。
(さあ、お一つ召上れな、お綾さんの食べかけではないそうですから……しかしお甘いんで不可いけませんか。)
 と貴婦人が言った時は、もうわかい方がびんを持って待ってるんでしょう。手首へ掛けてあおい酒に、さっと月影がしたんです。
 毒虫を絞った汁にもせよ、人生れて男にして、これは辞すべきでない。
 引掛ひっかけて受けました。
 かおりよいが、ほんのりと五臓六腑ごぞうろっぷ染渡しみわたる。ところで大胆だいたんにそのさかずきを、わかい女に返しますとね、半分ばかり貴婦人にいでもらって、袖を膝にせながら、少し横向きになって、カチリと皓歯しらはの音がした、目をねむって飲んだんです。
(姉さんは。)
(いいえ、沢山、私はいやしいようなけれども、どうも大変におなかが空いたよ。)
 とおさかな兼帯――怪しげなぜんよりは、と云って紫の風呂敷を開いた上へ、蒔絵のふたかしてあった。そのお持たせのあゆすしを、銀の振出しのはしで取ってつまんだでしょう。
(お茶をして来ましょうね。)
 と吸子きゆうすを取って、沓脱くつぬぎを、向うむきに片褄かたづま蹴落けおとしながら、美しい眉を開いて、
(二人で置くは心配ね。)
 と斜めになって袖をむと、びんずらそよぎに連立って、たもとさきがすっと折れる。
 貴婦人が畳に手をき、
(お盃をしたのは貴女あなたでしょう。)
(ですから、なおの事。)
 と言い棄てて袂をくわえたまま蓮葉はすはに出ました。
 私は※(「りっしんべん+(「夢」の「夕」に代えて「目」)」、第4水準2-12-81)もうとなった。
 が、ここだ、と一番ひとつ三盃さんばいよいの元気で、拝借の、その、女の浴衣の、袖を二三度、両方へ引張り引張り、ぐっと膝を突向けて、
夫人おくさん。)と遣った――
生命いのちに別条はありませんでしょうな。)
 卑劣なことを、この場合、あたかも大言壮語するごとくあびせたんです。
 笑うか、つか、呆れるか、と思うと、案外、正面から私をて、
(ええ、その御心配のござんせんように、工夫をしていますんです。)
 と判然きっぱり言う。その威儀が正しくって、月に背けた顔があおく、なぜか目の色が光るようで、うすものしまもきりりと堅く引緊ひきしまって、くっきり黒くなったのに、悚然ぞっとすると、身震みぶるいがして酔がめた。
(ええ!)
 しばらくして、私は両手をかないばかりに、
(申訳がありません。)
 でもって恐入ったは、この人こそ、坂口で手をって、戻れ、と留めてくれたそれでしょう。
(どうぞ、無事に帰宅の出来ますように、御心配を願います、どうぞ。)
 とかたなしにつむりを下げた。
(さあ。)
 と大事に居直って、
(それですから、心配をしますんですよ。今の、あのお盃を固めの御祝儀に遊ばして、もうどこへもいらっしゃらないで、お綾さんと一所に、ここにお住い下さるなら、ちっともお障りはありませんけれど、それは、貴下あなたいやでしょう。)
 私は目ばかり働いた。
(ですが、あの通り美しいのに、貴下におねがいがあると云って、衣物きものも着換えてお給仕に出ました心は、しおらしいではありませんか。私が貴下ならもう、一も二もないけれど……山の中は不可いけませんか、お可厭いやらしいのねえ。)
 と歎息をされたのには、私もとむねきました。……」

       三十

「ちょいと二人ともことばが途絶えた。
(ですがね、貴下あなた、無理にも発程たってお帰り遊ばそうとするのは――それはお考えものなんですよ。……ああ、綾さんが見えました。)
 と居座いずまいを開いて、庭を見ながら、
(よく、お考えなさいまし、私どもも、何とか心配をいたします。)
 話は切れたんです、わかい人が、いそいそ入って来ましたから。……
 ところで、俯向うつむいていた顔を上げて、それとなく二人を見較べると、私にはかたきらしいわかい人の方が、優しく花やかで、口を利かれても、とろりとなる。味方らしい年上の方が、対向さしむかいになると、すごいようで、おのずから五体がしまる、が、ここが、ものの甘さと苦さで、甘い方が毒は順当。
 まあ、それまでですが、私の身に附いて心配をしますと云ったのに、わたくしども二人して、とたしかに言った。
 すると、……二人とも味方なのか、それともかたきなのか、どれが鬼で、いずれが菩薩ぼさつか、ちっとも分りません。
 分らずじまいに、三人ですしを食べた。茶話に山吹も出れば、ともえも出る、倶利伽羅の宮の石段の数から、その境内の五色ごしきこいし、==月かなし==という芭蕉ばしょうの碑などで持切って、二人の身の上に就いては何も言わず、またこっちから聞く場合でもなかったから、それなりにしましたが、ただふと気にとまった事があります。
 わかい女が持出した、金蒔絵きんまきえの大形の見事な食籠じきろう……がたの菓子器ですがね。中には加賀の名物と言う、紅白の墨形すみがた落雁らくがんが入れてありました。ところで、ふたから身をかけて、一面にいた秋草が実に見事で、ぬりも時代も分らない私だけれども、精巧さはそれだけでも見惚みとれるばかりだったのに、もう落雁の数が少なく、三人が一ツずつでからになると、その底に、何にもないうるしの中へ、一ツ、銀で置いた松虫がスーイとひげを立てた、羽のひだも風を誘って、今にもりんりんと鳴出しそうで、余りいから、あっ、とめると、貴婦人が、ついした風で、
(これは、お綾さんのおとっさんが。この重箱の蒔絵もやっぱり、)
 と言いかける、と、目配せをした目がと動いた。わかいのはまたさっまぶたを染めたんです。
 で、悪い、と知ったから、それっきり、私も何にも言いはしなかった。けれどもどうやらお綾さんが人間らしくなって来たので、いささか心をやすんじたはいが――寝るとなると、櫛の寝息に、追続いた今の呻吟うめき。……
 お先達、ここなんです。

 二人で心配をしてやろうと言ったは、今だ。はやくその遁口にげぐちから母屋に抜けよう。が、あるいは三方から引包ひッつつんで、おびき出す一方口の土間は、さながら穽穴おとしあなとも思ったけれども、ままよ、あの二人にならどうともされろ!で、浅茅生へドンと下りた、勿論跣足はだしで。
 峰も谷も、物凄ものすごい真夜中ですから、傍目わきめらないで土間へすべり込む。
 ずッとはるかな、かどへ近い処に、一間、すすけた障子にあかりす。
 ねやは……あすこだ。
 難有ありがたい、としっとり、びしょ濡れに夜露のんだ土間を、ぴたぴたと踏んで、もっとも向うの灯は届かぬ、手探りですよ。
 やがて、その土間の広くなった処へかかると、朧気おぼろげに、縁と障子が、こう、幻のように見えたも道理、外は七月十四日のの月。で、雨戸が外れたままです。
 けれども峰を横倒しに戸口に挿込んだように、もやはびこったのが、かしらを出して、四辺あたりは一面に濛々もうもうとして、霧の海をからすが縫うように、処々、松杉のこずえがぬっとあらわれた。ほかは、幅も底も測知はかりしられぬ、山の中を、時々すっと火の筋がひらめいて通る……角に松明たいまつくくった牛かと思う、稲妻ではない、甲虫かぶとむしが月を浴びて飛ぶのか、土地神とちのかみ蝋燭ろうそくけて歩行あるくらしい。
 見てもすごい、早やそこへ、と思って寝衣ねまきの襟を掻合かきあわせると、その目当のねやで、――確に女の――すすり泣きする声がしました。……ひそひそと泣いているんですね。」

       三十一

「夜半に及んで、婦人の閨へ推参で、同じはばかるにしても、黙って寝ていれば呼べもするし、笑声わらいごえならくみし易いが、泣いてる処じゃ、たとい何でも、迂濶うかつに声も懸けられますまい。
 何しろ、泣悲なきかなしむというは、一通りの事ではない。気にもなるし、案じられもする……また怪しくもあった。ですから、悪いが、そっと寄って、そこで障子の破目やぶれめから――
 その破目が大層で、此方てまえへ閉ってます引手の処なんざ、桟がぶらさがって行抜けの風穴かざあなで。二小間ふたこま青蒼まっさおに蚊帳が漏れて、すそ紅麻こうあさまで下へ透いてて、立つと胸まで出そうだから、のぞくどころじゃありません。
 かがんで通抜けました。そこをけて、わざわざ廻って、逆に小さなやぶれから透かして見ると……
 蚊帳ごしですが、向うの壁に附着くッつけたあかりと、対向さしむかいでよく分る。
 そのを背にして、こちら向きに起返っていたのは、年上の貴婦人で。蚊帳の萌黄もえぎに色が淡く、有るか無いか分らぬ、長襦袢ながじゅばん寝衣ねまきで居た。枕は袖の下に一個ひとつ見えたが、絹の四布蒲団よのぶとん真中まんなかへ敷いた上に、掛けるものの用意はなく、また寝るつもりもなかったらしい――貴婦人の膝に突伏つっぷして、こうぐっとかいなつかまって、しがみついたというていで、それで※々なよなよ[#「女+(「島」の「山」に代えて「衣」)」、442-7]と力なさそうに背筋をくねって、独鈷入とっこいり博多はかた扱帯しごきが、一ツまつわって、ずるりと腰をすべった、わかい女は、帯だけ取ったが、明石あかししまを着たままなんです。
 泣いているのはそれですね。前刻さっきから多時しばらくそうやっていたと見えて、ただしくしく泣く。おくれ毛が揺れるばかり。慰めていそうな貴婦人も、差俯向さしうつむいて、無言の処で、仔細しさいは知れず……花室はなむろが夜風に冷えて、咲凋さきしおれたという風情。
 その内に、肩越に抱くようにして投掛けていた貴婦人の手で脱がしたか、自分の手先で払ったか、わかい女の片肌が、ふっくりと円く抜けると、麻の目がさっと遮ったが、すぐ底澄そこずんだように白くなる……また片一方を脱いだんです。脱ぐとうすものの襟が、肉置ししおきのほどの頸筋えりすじかかって、すっと留まったのを、貴婦人の手が下へ押下げると、見る目にはいじらしゅう、引剥ひっぱぐように思われて、裏を返して、はらりと落ちて、腰帯さがりに飜った。
 と見ると、蒼白くとおった、その背筋をよじって、貴婦人の膝へ伸しあがりざまに、半月形はんげつなりの乳房をなぞえに、脇腹を反らしながら、ぐいと上げた手を、貴婦人のうなじへ巻いて、その肩へ顔を附ける……
 その半裸体の脇の下から、乳房をはすに掛けて、やァ、えぐった、突いた、血が流れる、炎がひらめいて燃えつくかと思う、どっほとばしったような真赤まっかあざがあるんです。」
 山伏は大息ついて聞くのである。
「その痣を、貴婦人が細い指で、柔かにそろそろと撫でましたっけ。それさえ気味が悪いのに、十度とたびばかりさすっておいて、円髷まるまげを何と、わかい女の耳許からくぐらして、あの鼻筋の通った、愛嬌あいきょうのない細面ほそおもてしまった口で、そのあざを、チュッと吸う、」
「うーむ、」
 と山伏は呻吟うなった。
「私は生血を吸うのだと震えあがった。トどうかは知らんが、わかい女のからんだ腕は、ひとりで貴婦人のうなじを解けて、ぐたりと仰向あおむけに寝ましたがね、鳩尾みずおちの下にも一ヶ所、めらめらと炎の痣。
 やがて、むっくりと起上って、身を飜した半身雪の、つまを乱して、手をつくと、袖がさがって、もすそさばいて、四ツいになった、背中にも一ツ、赤斑あかまだらのある……その姿は……何とも言えぬ、女のいぬ。」
「ああ!」
「驚く拍子に、私が物音を立てたらしい。貴婦人が、と立つと、蚊帳越にパッとあかりを……わかい女はったままで掻消かきけすよう――よく一息に、ああ消えたと思う。貴婦人の背の高かったこと、蚊帳の天井から真白な顔が突抜けて出たようで――いまだに気味の悪さが俤立おもかげだってちらちらします。
 あとは、真暗まっくら、蚊帳はうるしのようになった。」

       三十二

「何が何でも、そこに立っちゃいられんから、ったか、ったか、弁別わきまえはない、凸凹でこぼこの土間をよろよろで別亭はなれの方へ引返すと……
 また、まあどうです。
 あの、雨戸がはずれて、月明りがもやながら射込さしこんでいる、折曲った縁側は、横縦にがやがやと人影が映って、さながら、以前、この立場たてば繁昌はんじょうした、午飯頃ひるめしごろ光景ありさまではありませんか。
 入乱れて皆腰を掛けてる。
 私は構わず、その前を切って抜けようとしました。
 大胆だと思いますか――なあに、そうではない。度胸も信仰も有るのではありません、がすべてこういう場合に処する奥の手が私にある。それは、何です、剣術の先生は足がふるえて立縮たちすくんだが、座頭の坊は琵琶びわ背負しょったなり四這よつんばいになって木曾のかけはしをすらすら渡り越したという、それと一般ひとつ
 希代な事には、わざと胸に手を置いて寝て可恐おそろしい夢を平気で見ます。勿論夢と知りつつ慰みに試みるんです。が、夢にもしろ、いかにもたまらなくなると、やと叫んで刎起はねおきる、冷汗はあびるばかり、動悸どうきは波を立てていても、ちっとも身体からだに別条はない。
 これです!
 いざとなれば刎起きよう、夢でなくって、こんな事があるべきはずのもんじゃない、と断念あきらめは附けましたが。
 突懸つっかかり、端に居たやつは、くたびれた麦藁帽むぎわらぼうのけざまにかぶって、頸窪ぼんのくぼり落ちそうに天井をにらんで、握拳にぎりこぶしをぬっと上げた、脚絆きゃはんがけの旅商人たびあきんどらしい風でしたが、大欠伸おおあくびをしているのか、と見ると、違った! 空をつかんで苦しんでるので、咽喉のどから垂々たらたらと血が流れる。
 その隣座となりざに、どたりと真俯向まうつむけになった、百姓てい親仁おやじは、抜衣紋ぬきえもんの背中に、薬研形やげんがたの穴がある。
 で、ウンウン呻吟うめく。
 少し離れて、青い洋服を着た少年の、二十ばかりで、学生風のが、しきりにひものようなものを持って腰の廻りを巻いてるから、帯でもするかと見ると、ら下ったはらわたで、切裂かれへその下へ、押込もうとする、だくだく流れるあけの中で、一掴ひとつかみ、ずるりと詰めたが、ヒイッと悲鳴で仰向あおむけに土間に転がり落ちると、その下になって、ぐしゃりと圧拉ひしゃげたように、膝をの上へ立てて、うごめいた頤髯あごひげのある立派な紳士は、附元つけもとから引断ひききれて片足ない、まるで不具かたわ蟋蟀きりぎりす
 もう、一面に算を乱して、溝泥どぶどろ擲附たたきつけたようなのりの中に、伸びたり、縮んだり、転がったり、何十人だか数が分りません。――
 いつの間にか、障子がけて、広い部屋の中も同断です。中にも目に着いたのは、一面の壁の隅に、朦朧もうろうと灰色の磔柱はりつけばしらあらわれて、アノ胸を突反つきそらして、胴を橋に、両手を開いて釣下つりさがったのは、よくある基督キリストていだ。
 床柱と思う正面には、広い額の真中まんなかへ、五寸釘が突刺さって、手足も顔も真蒼まっさおに黄色いまなこかっ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらく、このおもかげは、話にある幽霊船ゆうれいぶね船長ふなおさにそっくり。
 大俎おおまないたがある、白刃しらはが光る、いかだのようにやりを組んで、まるで地獄の雛壇ひなだんです。
 どれも抱着だきつきもせず、足へもすがらぬ。絶叫して目を覚ます……まだそれにも及ぶまい、と見い見い後退あとじさりになって、ドンと突当ったまま、蹌踉よろけなりに投出されたように浅茅生あさぢうへ出た。
(はああ。)
 と息を引いた、てのひらへ、あぶらのごとく、しかも冷い汗が、総身そうみを絞ってさっと来た。
 例の草清水くさしみずがありましょう。
 日蝕にっしょくの時のような、草のまだらに黒い、もうとした月明りに、そこにしゃがんだ男がある。大形の浴衣の諸膚脱もろはだぬぎで、毛だらけの脇を上げざまに、晩方、貴婦人がそこへほうった、絹の手巾ハンケチ引伸ひんのしながら、ぐいぐいと背中をいている。
 これは人間らしいと、一足寄って、
(君……)
 とかすれた声を掛けると、驚いた風にぬっくりと立ったが、かめのようで、胴中どうなかばかり。
(首はないが交際つきあうけえ。)
 と、野太い声で怒鳴どなられたので、はっと思うと、私も仰向あおむけに倒れたんです。
 やがて、気のついた時は、わかい人の膝枕で、貴婦人が私の胸を撫でていました。」

       三十三

「お先達、そこで二人してかわるがわる話しました。――峠の一軒家を買取ったのは、貴婦人なんです。
 これは当時石川県のある顕官けんかんの令夫人、以前はなにがしと云う一時富山の裁判長だった人の令嬢で、その頃この峠を越えて金沢へ出て、女学校に通っていたのが、お綾と云う、ある蒔絵師まきえしの娘と一つ学校で、姉妹のように仲がかったんだそうです。
 対手さき懺悔ざんげをしたんですが、身分を思うから名は言いますまい。……貴婦人は十八九で、もう六七人情人じょうじんがありました。多情な女で、文ばかり通わしているのや、目顔で知らせ合っただけなのなんぞ――その容色きりょうでしかも妙齢としごろ、自分でも美しいのを信じただけ、一度擦違すれちがったものでも直ぐに我を恋うるとめていたので――胸に描いたのは幾人だか分らなかった。
 罪のむくいか。男どもが、貴婦人の胸の中でつかみ合いをはじめた。野郎が恐らくこのくらい気の利かない話はない。れた女の腹の中で、じたばたでんぐり返しを打って騒ぐ、み合う、掴み合う、引掻ひっかき合う。
 この騒ぎが一団ひとかたまり仏掌藷つくねいものような悪玉あくだまになって、下腹から鳩尾みずおちへ突上げるので、うむと云って歯を喰切くいしばって、のけぞるという奇病にかかった。
 はじめの内は、一日に、一度二度ぐらいずつでとまったのが、次第にこうじて、十回以上、手足をぶるぶると震わして、人事不省で、はげしい痙攣けいれんを起す容体だけれども、どこもちっとも痛むんじゃない。――ただ夢中になって反っちまって、白い胸を開けて見ると、肉へ響いて、かたまりが動いたと言います。
 三度五度は訳も解らず、宿のものが回生剤きつけだ、水だ、で介抱して、それでまた開きも着いたが、日一日数は重なる。段々開きが遅くなって、はげしい時は、半時も夢中で居る。夢中で居ながら、あれ、が来てうらむ、が来て責める、咽喉のどめる、指を折る、足をねじる、苦しい、と七転八倒。
 情人が押懸けるんです。自分で口走るので、さては、とみんなうなずいた。
 浅ましいの何のじゃない。が、女中を二人連れて看病に駆着けて来た母親は、娘が不行為ふしだらとは考えない。男にはだを許さないのを、恋するものが怨むためだ、と思ったそうです。
 とても宿じゃ、手が届かんで、県の病院へ入れる事になると、医者せんせい達は皆こうべひねった。病体少しも分らず、でただまあ応急手当に、例の仰反のけぞった時は、薬をがせて正気づかせる外はないのです。
 ざっと一月半入院したが、病勢は日に日につのる。しかも力が強くなって、伸しかかって胸をおさえる看護婦に助手なんぞ、一所に両方へ投飛ばす、まるで狂人きちがい
 そうかと思うと、食べるものも尋常だし、気さえけば、間違った口一つ利かない。天人のような令嬢なんで、始末に困った。
 すると、もう一人のわかい方です。――お綾はその通りの仲だから、はじめからあねが病気のように心配をして、見舞にもけば看病もしたが、暑中休暇になったので、ほとんど病院で附切り同様。
 妙な事には、この人が手を懸けると、直ぐに胸が柔かになる。開きは着かぬまでも三人四人でおさえ切れぬのが、しずかに納まって、夢中でただ譫事うわごとを云うくらいに過ぎぬ。
 で、母親が、親にも頼んで、夜も詰め切ってもらったそうで。肥満女ふとっちょの女中などは、失礼無躾ぶしつけ構っちゃいられん。膚脱はだぬぎの大汗を掻いて冬瓜とうがんの膝で乗上っても、その胸の悪玉に突離つッぱなされて、素転すてんころりと倒れる。
(お綾様。お綾様。)
 と夜が夜中よなか、看病疲れにすやすやと寝ているのを起すと、訳はない、ちょいと手を載せて、
(おや、また来ているよ。……)
 誰某たれそれだね……という工合ぐあいで、その時々の男の名を覚えて、串戯じょうだんのように言うと、病人が
(ああ、)
 と言って、胸の落着く処を、
うるさい人だよ。お帰り。)
 で、すっと撫で下ろす。」――

       三十四

「すると、取憑とッついた男どもが、眉間尺みけんじゃくのように噛合かみあったまま、出まいとして、の下をくぐって転げる、其奴そいつを追っ懸け追っ懸け、お綾がさすると、腕へすべって、舞戻って、鳩尾みずおちをビクリと下って、膝をかけてうねる頃には、はじめまりほどなのが、段々小さく、豆位になって、足の甲をうごめいて、ふっと拇指おやゆびの爪から抜ける。その時分には、もう芥子粒けしつぶだけもないのです、お綾さんの爪にもたまらず、消滅する。
 トはっと気を返して、恍惚うっとり目をく。夢が覚めたように、起上って、取乱したなりもそのまま、おんな同士、お綾の膝に乗掛のりかかって、くびに手をからみながら、切ない息の下で、
(済まないわね。)
 と言うのが、ほとんど例になっていたそうです。――お綾が、よく病人の気を知った事は、一日あるひも痙攣が起って、人事不省なのを介抱していると、病人が、例に因って、
(来たよ。)
 と呻吟うめく。
(……でしょうね、)
 と親類内の従兄いとことかで、これも関係のあった、――少年の名をお綾が云うと……
(ああ、青い幽霊、)
 と夢中で言った――処へひょっこり廊下から……脱いだ帽子を手に提げて、夏服の青いので生白なましろい顔を出したのは、その少年で。出会頭であいがしらに聞かされたので、真赤まっかになって逃げたと言います。その癖お綾は一度も逢った事はないのだそうで。
 さあへ医師いしゃしても、お綾は病人から手離せますまい。
 いつまで入院をしていても、ちっとも快方いいほうに向わないから、一旦いったん内へ引取って、静かに保養をしようという事になった時、貴婦人の母親は、涙でお綾の親達に頼んだんです。
 頼まれてはいやと言わぬ、職人気質かたぎで引受けたでしょう。
 途中の、不意の用心に、男が二人、母親と、女中と、今の二人の婦人おんなで、五台、人力車をつらねて、倶利伽羅峠を越したのは、――ちょうど十年ぜんになる――
 同じ立場たてばで、車をがらがらと引込んで休んだのは、やっぱり、今残る、あの、一軒家。しかも車から出る、と痙攣ひきつけて、大勢に抱え込まれて、お綾の膝に抱かれた処は。……
(先刻、貴下あなたが、あやしい姿で抱合っている処を蚊帳越に御覧なすった、母屋の、あの座敷です。)
 ッて貴婦人が言いましたっけ。
 お先達。」
 三造は酔えるがごとき対手あいてを呼んで、
「その時、私はあらためて、二人の婦人にこう言いました。
(時が時、折が折なんですから、実は何にも言出しはしませんでしたが、その日、広土間の縁の出張でばりに一人腰を掛けて、力餅ちからもちを食べていた、鳥打帽をかぶって、久留米のかすりを着た学生がありました。お心は着かなかったでしょうが、……それは私です。……
 そして、その時の絵のような美しさが、可懐なつかしさの余り、今度この山越やまごえを思い立って参ったんです。)
 お先達、事実なんです。」
 と三造は言った。
「これを聞いてわかひとが、
(そして貴下が、私を御覧なさいましたのは、その時が初めてですか、)
(いいえ、)
 と私が直ぐに答えた。
(違うかどうか分りませんが、その以前に二度あります。……一度は金沢のやぶの内と言う処――城の大手前とむかい合った、土塀の裏を、かぎ手形てなり。名の通りで、竹藪の中を石垣にいて曲る小路こうじ。家も何にもない処で、狐がどうの、狸がどうの、と沙汰さたをして誰も通らないみち、何に誘われたか一人で歩行あるいた。……その時、曲角まがりかどで顔を見ました。春の真昼間まっぴるま、暖い霞のような白い路が、藪の下を一条ひとすじに貫いた、二三間さきを、一人通った娘があります。衣服きものは分らず、何の織物か知りませんが、帯は緋色ひいろをしていたのを覚えている。そして結目むすびめが腰へ少し長目でした。ふらふらとついて見送ってく内に、また曲角で、それなり分らなくなったんです。)
 ――二人は顔を見合せました。」

       三十五

「私はまた……
(もう一度は、その翌年、やっぱり春の、正午ひる少しさがった頃、公園の見晴しで、花の中から町中まちなかの桜をながめていると、向うが山で、居る処が高台の、両方から、谷のような、一ヶ所空の寂しい士町さむらいまちと思う所の、物干ものほしの上にあがって、霞を眺めるらしい立姿の女が見えた。それがどうも同じ女らしい。ロハ台を立って、柳の下から乗り出して、じっみまもる内に、花吹雪がはらはらとして、それっきり影も見えなくなる、と物干の在所ありかも町の見当も分らなくなってしまった。……が、忘れられん、朧夜おぼろよにはそこぞと思う小路々々を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)さまよ※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)い日を重ねて、青葉に移るのが、酔のさめ際のように心寂しくってならなかった――人は二度とも、美しい通魔とおりまを見たんだ、と言う……私もあるいはそうかと思った。)
 貴婦人が聞澄まして、
(二度目のは引越した処でしょう!)
 とわかい人に言うんです。
(物干で、花見をしたり、やぶの中を歩行あるいたり、やっぱり、みんなこういう身体からだになる前兆でしょう。よく貴下あなた、お胸に留めて下さいました。姉さん、私もう一度緋色の帯がしめたいわ。)
 と、はらはらと落涙して、
(お恥かしいが……)
 ――と続いて話した。――
 で、途中介抱しながら、富山へ行って、その裁判長の家に落着く。医者では不可いかん、加持祈祷かじきとうと、父親の方からを折ってお札、お水、護摩となると、元々そういう容体ですから、少しずつ治まって、痙攣けいれんも一日に二三度、それも大抵時刻がきまって、途中不意に卒倒するような憂慮きづかいなし、二人で散歩などが出来るようになったそうです。
 一日あるひ巴旦杏はたんきょうの実の青々した二階の窓際で、涼しそうに、うとうと、一人が寝ると、一人も眠った。貴婦人は神通川の方を裾で、お綾の方は立山のかたを枕で、互違いに、つい肱枕ひじまくらをしたんですね。
 トントントン跫音あしおとがして、二階の梯子段はしごだんから顔を出した男がある。
 お綾が起返ると、いつも病人が夢中で名を呼ぶ……内証では、その惚話のろけを言う、何とか云う男なんです。
 ずッと来て、裾から貴婦人の足をおさえようとするから、ええ、不躾ぶしつけな、あねなやます、やまいの鬼と、床の間に、重代の黄金こがねづくりの長船おさふねが、邪気を払うといって飾ってあったのを、抜く手も見せず、さっ真額まびたい斬付きりつける。天窓あたまがはっと二つに分れた、西瓜をさっくりったよう。
 処へ、背後うしろの窓下の屋根を踏んで、窓から顔を出した奴がある、一目見るや、膝を返しざまに見当もつけず片手なぐりに斬払って、其奴そいつの片腕をばさりと落した。時に、巴旦杏の樹へ樹上きのぼりをして、足をふんば張って透見すきみをしていたのは、青い洋服の少年です。
 お綾が、つかつかと屋根へ出て、狼狽うろたえてその少年の下りる処を、ぐいと突貫いたが、下腹で、ずるりはらわたが枝にかかって、主は血みどれ、どしんと落ちた。
 この光景ありさまに、驚いたか、湯殿口に立った髯面ひげづらの紳士が、絽羽織ろばおりすそあおって、庭を切ってげるのに心着いて、屋根から飜然ひらり……と飛んだと言います。垣を越える、町を突切つッきる、川を走る、やがて、山の腹へだきついて、のそのそと這上はいあがるのを、追縋おいすがりさまに、尻を下から白刃しらはで縫上げる。
 ト頂に一人立って、こっちへ指さしをして笑ったものがある。エエ、とつるぎを取って飛ばすと、胸元へ刺さって、ばったり、と朽木倒くちきだおれ
 するする攀上よじのぼって、長船のキラリとするのを死骸から抜取ると、垂々たらたら血雫ちしずくを逆手にり、山のに腰を掛けたが、はじめてほっと一息つく。――瞰下みおろふもとの路へたかって、頭ばかり、うようよして八九人、得物を持って押寄せた。
 猶予ためらわず、すらりと立つ、もすそが宙に蹴出けだしからんで、かかとが腰にあがると同時に、ふっと他愛なく軽々と、風を泳いで下りるが早いか、裾がまだ地に着かぬさきに、ひっさげたやいばの下に、一人が帽子から左右へ裂けた。
 一同が、わっとげる。……」

       三十六

「今はもう追うにも及ばず、するするとあと歩行あるきながら、やいばを振って、
(は、)
 と声懸けると、声に応じて、一人ずつ、どたり、ばたりで、算を乱した、……生木の枝の死骸しがいばかり。
 いつの間にか、二階へ戻った。
 時に、大形の浴衣の諸膚脱もろはだぬぎで、投出なげだした、白い手の貴婦人の二の腕へ、しっくりくいついた若いもの、かねて聞いた、――これはその人の下宿へ出入りの八百屋だそうで、やっぱり情人の一人なんです。
(推参。)
 か何かの片手なぐりが、見事に首をころりと落す。こぶしさえに、白刃しらはさきが姉の腕をかすって、カチリと鳴った。
 あっと云うと、二人とも目を覚した。
 お綾の手に、抜いた刀はなかったが、貴婦人は二の腕にはめた守護袋まもりぶくろ黄色きんの金具をおさえていたっていう事です。
 実は、同じ夢を見たんだそうで、もっとも二階から顔を出したのも、窓からのぞいたのも、樹上りをしたのも、みんな同時に貴婦人は知っていた。
 自分の情人を、一人々々妹が斬殺すんで、はらはらするが、手足は動かず、声も出せない。その疲れた身体からだで、最後に八百屋の若いものに悩まされた処――片腕一所に斬られた、と思ったが、守護袋で留まったと言う。
 貴婦人の病気は、それで、快癒かいゆ
 が、入交いれかわって、お綾は今の身になった。
 と言うのは、夢中ながら、男を斬った心持が、骨髄こつずいに徹して忘れられん。……思い出すと、何とも言えず、肉が動く、血汐ちしおく、筋が離れる。
 ほかの事は考えられず、何事も手に着かない、で、三度の食もほしくなくなる。
 ところが、親が蒔絵職まきえしょく小児こどもの時から見習いで絵心があったので、ノオトブックへ鉛筆で、まず、その最初の眉間割みけんわりいたのがはじまりで。
 顔だけでは、飽足あきたらず、線香のような手足を描いて、で、のけぞらした形へ、きずをつける。それも墨だけでは心ゆかず、やがて絵の具をつかい出した。
 けれども、男のはだは知らない処女の、艶書ふみを書くより恥かしくって、人目を避くる苦労にせたが、やまいこうじて、夜も昼もぼんやりして来た。
 貴婦人も、それっきり学校はやめたが、お綾も同断。その代りさびしい途中、立向うても見送っても、その男を目に留めて、これを絵姿にして、斬る、突く、胸を刺す。……血を彩って、日をると、きっとそのものは生命いのちがないというのが知れる……段々嵩じて、行違いなりにも、ハッと気合を入れると、即座に打倒ぶったおれる人さえ出来た。
 が、可恐おそろしいのは、一夜あるよ、夜中に、ある男を呪詛のろっていると、ばたりと落ちて、脇腹から、鳩尾みずおちの下、背中と、浴衣越しに、――それから男に血を彩ろうという――べにの絵の具皿のこぼれかかったのが、我が身の皮を染め、肉を透して、血に交って、洗っても、ぬぐっても、濃くなるばかりで、せさえせぬ。
 お綾は貴婦人の膝にすがって、すべてを打明けて泣いたんです。
 その頃は、もう生れかわったようになって、何某なにがしの令夫人だった貴婦人は、我が身もおんなじに、かなしいたんで、何はいても、その悪い癖をめ直そうと、千辛万苦せんしんばんくしたけれども、お綾は、あやしい情を制し得ない。
 情を知った貴婦人は、それから心着いて試みると、お綾に呪詛のろわれたものは、必ず無事ではないのがたしかで。
 今はこう、とお綾の決心を聞いた上、心一つで計らって、姫捨山を見立てました。
 ところが、この倶利伽羅峠は、夢に山の白刃しらはぬぐって憩った、まさしくその山の姿だと言う。しかしこの峠を越したのが、わかい人には、はじめて国の境を出たので、その思出もあったからでしょう。
 ちょうど、立場たてば荒廃すたれて、一軒家が焼残ったというのも奇蹟だからと、そこで貴婦人が買取って、わかひとの世を避ける隠れ里にしたのだと言います。
 で、一切すべての事は、秘密に貴婦人がとりまかなう。」

       三十七

「月に一度、あるいは二度、貴婦人が忍んで山に上って来る。その時は、ああして抱いて、もとは自分から起った事と、はだくもり接吻キッスをする。
 が、雪なす膚に、燃え立つ鬼百合の花は、吸消されもせず、しぼみもしない。のみならず、会心の男が出来て、これはと思うその胸へ、グザとやいばを描いて刺す時、膚を当てると、鮮紅からくれないの露を絞って、生血いきちしずく滴点したたると言います。
 広間の壁には、竹箆たけべらで土を削って、基督キリストの像が、等身に刻みつけていてあった。本箱の中も、残らず惨憺さんたんたる彩色画さいしきがで、これは目当の男のない時、歴史に血を流した人を描くのでした。」
 と物語る、三造の声は震えた。……
「お先達。
 で、貴婦人は、
(縁のある貴下あなた。……ここに居て、打ちもし、蹴りもし、くくりもして、悪い癖を治して上げて下さい。)
 と言う。
 若い人は、
(おなつかしい方だけに、こんな魔所には留められません、身体からだぶちが消えないでは。)
 と、しっかりたもとすがって泣きます。
 私は、死ぬ決心をするほど迷った。
 果しなく猶予ためらっているのを見て、大方、それまでに話した様子で、後で呪詛のろわれるのを恐れるために、立て得ないんだと思ったらしい。
 沓脱くつぬぎをつかつかと、真白い跣足はだしで背戸へ出ると、母屋の羽目はめを、軒へ掛けて、森のようにからんだ烏瓜からすうりつる手繰たぐって、一束ひとつかねずるずると引きながら、浅茅生あさぢうの露に膝をうずめて、せなから袖をぐるぐると、我手わがてで巻くので、花は雪のように降りかかった。
 あさひが出ました。
 驚く私をきっと見て
ちかいたがえぬ! 貴下がって、ほか犠牲にえの――巣にかかるまで、このままここで動きはしない、)
 心安く下山せよ。
(さあ、)
 と言うと、一目じっと見た目をねむって、黒髪をさげて俯向うつむいたんです。
 顔を背けて、我にもあらず、縁に腰を落した内に、貴婦人が草鞋わらじを結んだ。
 たまらなくなって、飛出して、つるを解こうと手を懸ける。胸を引いてつむりるから、葉を※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)ひきむしって、私は涙を落しました。
(私なんざ構わんから。)
(いいえ、こうしてまで誓を立てぬと、私は貴下を殺すことを、自分でも制し切れない。一夜ひとよ冥土めいどへ留めました。お生きなさいまし、あらたにおながらえ遊ばせ。)
 と、目をうるましたが凜々りりしく云う。
(たとい、しばらくの辛抱でも。男を呪詛のろう気のないのは、お綾さんにも幸福しあわせです。そうしておおきなさいまし。)
 と、貴婦人が、金剛杖も一所に渡した。
 膝さがりに荷を下げて、杖を抱いてしょんぼり立つのを……
(さようなら、御機嫌よう。)
(はっ、)
 と言って土間へ出たが、振返ると、若いひとは泣いていました。露がきらめく葉を分けて、明石に透いた素膚すはだを焼くか、と鬼百合がかっあかい。
 その時、峰はずれに、火の矢のように、さっと太陽の光がした。貴婦人が袖をかざして、若い女をかばいました。……
 あの、鬼の面は、昨夜ゆうべ、貴下をののしるトタンに、おんなを驚かすまいと思って、夢中で投げたが――驚いたんです、猿ヶ馬場を出はずれる峠の下り口。谷へ出た松の枝に、まるで、一軒家の背戸のその二人をにらむよう、かっまなこ※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みひらいて、紫の緒で、真面まむき引掛ひっかかっていたのです。……
 お先達、私はどうしたらいでしょう。」
 と溜息ためいきを一度にく――
「ふう、」
 と一時いっときに返事をして、ややあって、
「鬼神に横道はござらんな。」
 と山伏も目をしばたたいた。
 で、そのまま誓を立てさせては、今時誰も通らぬ山路、半日はよし、一日はよし、三日とたぬに、うえもしよう、渇きもしよう、炎天にさらされよう。が、旅人があって、さいわいに通るとすると、それは直ちに犠牲にえになる。自分はよくても、身代りを人にさせる道でない。
 心を山伏に語ると、先達もこぶしを握って、不束ふつつかながら身命に賭けて諸共もろともにその美女たおやめを説いて、あしき心を飜えさせよう。いざうれ、と清水を浴びる。境も嗽手水うがいちょうずして、明王の前に額着ぬかづいて、やがて、相並んで、日を正射まともに、白い、まばゆい、峠を望んで進んだ。
 雲から吐出されたもののように、坂に突伏つっぷした旅人りょじんが一人。
 ああ、犠牲にえは代った。
 たすけ起こすと、心なき旅人たびびとかな。朝がけに禁制の峠を越したのであった。峰では何事もなかったが、坂で、つまずいて転んだはずみに、あれとわめく。膝からまた真白まっしろ通草あけびのよう、さくり切れたは、俗に鎌鼬かまいたちけたと言う。間々ある事とか。
 先達が担いで引返ひっかえした。
 石動の町の医師をことづかりながら、三造は、見返りがちに、今は蔓草つるくさきずなったろう……その美女たおやめの、山のふもと辿たどったのである。
明治四十一(一九〇八)年十一月

底本:「泉鏡花集成5」ちくま文庫、筑摩書房
   1996(平成8)年2月22日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第十一卷」岩波書店
   1941(昭和16)年8月15日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:高柳典子
2007年7月13日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。