創業記事端書

世の中をわたりくらべて今ぞ知る
     阿波の鳴門は浪風ぞ無き

予は第二の故郷こきょうとして徳島に住する事殆んど四十年、為に数十回鳴門を渡りたるも、暴風激浪の為めに苦しめらるる事を記憶せざるなり。然るに今や八十一歳にして既往を回顧する時は、数十回の天災人害は、思いいだすに於ても粟起ぞっきするを覚うる事あり。然れども今日こんにち迄無事に生活しるは、実に冥々裡めいめいりに或る保護にるを感謝するのみ。
明治三十四年には、我等夫婦に結婚後五十年たるを以て、児輩じはいの勧めにより金婚式の祝を心ばかりを挙げたり。然るにかかる幸福を得たるのみならず、身体健康、且つ僅少なる養老費の貯えあり。此れを保有して空しく楽隠居たる生活し、以て安逸を得て死を待つは、此れ人たるの本分たらざるを悟る事あり。亦かつて予想したる事あり。れ我国たるや、現今戦勝後の隆盛を誇るも、然れども生産力の乏しきと国庫のくうなるとは、世評の最も唱うる処たり。よって我等老夫婦は、北海道に於ける最も僻遠へきえんなる未開地に向うて我等の老躯と、僅少なる養老費とを以て、我国の生産力を増加するの事に当らば、国恩の万々分のいつをも報じ、且亡父母の素願そがんあるを貫き、霊位をするの慈善的なる学事の基礎を創立せん事をあらかじめ希望する事あるを以て、明治三十五年徳島を退く事とせり。然るに我等夫婦は此迄これまで医業を取るのみにて、農牧業に経験無きを以て、児輩及び知己親族より其不可能を以て思いむべきを懇切に諭されたるも、然れども我等夫婦は確乎かっこと决心する所あり、老躯と僅少なる資金と本より全成効をべからざるも、責めては資金を希望地に費消し、一身たるや骨肉を以て草木を養い、牛馬をこやすを方針とするのみ。成ると成らざるとは、只天命に在ると信ずるのみ。故に徳島を発する時は、其困苦と労働と粗喰そしょくと不自由と不潔とを以て、最下等の生活に当るの手初めとして、永く住み慣れたる旧宅を退き、隣地に在る穀物倉にむしろを敷きたるままにて、鍋一つにて、飯も汁も炊き、碗二つにて最も不便極まる生活し一週間を経て、粗末なるを最も快しとして、旅行中にも此れを主張して、粗喰不潔の習慣を養成せり。故に北海道に着して、仮りに札幌区外の山鼻やまばなはたの内に一戸を築き、最も粗暴なる生活を取り、且つ此迄これまで慣れざるの鎌と鍬とを取り、菜大根豆芋とう手作てさくして喰料しょくりょうを補い、一銭にても牧塲費に貯えん事を日夜勤むるのみ。然るにかつて成効して所有するの樽川村たるがわむらの地には、其年には風損ふうそん霜害そうがいとにて半数の収益を※[#「冫+咸」、173-11]じたり。為に悲境を見る事あり、おおいに失望して、更に粗喰と不自由とを以て勤めて其損害の幾分つぐのわんことを勤めたり。三十六年には主務なる又一またいちは一年志願兵となり、其不在中大雪に馬匹ばひつの半数をたおしたり。三十七年には相与あいともに困苦に当るの老妻は死去せり。続いて又一は出征し、同秋に至り病馬多く、有数の馬匹を斃したり。為に予は一時病む事あるも、さいわい復常ふくじょうせり。又一は三十九年五月帰塲きじょうせり。予は三十七年迄は夏時かじのみ牧塲に在るのみ。故に其概略を知るのみ。片山八重藏かたやまやえぞう夫婦の最初より今日迄の詳細を知るには及ばざるなり。よって予が見聞する処の概略を記して、後年に至り幾分か創業の実况を知るが為ならんか。もとより此れを世人に知らしむるにはあらざるなり。我子孫たる者に其創業の困難なるの一端を知らしめんと欲する婆心ばしんたるのみ。
明治四十三年八月※別りくんべつ[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、174-10]停車塲すていしょん開通の近き日
八十一老 白里はくり 関寛せきかんしる
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十勝国とかちのくに中川郡なかがわぐん本別村ぽんべつむらあざ斗満とまむ
関牧塲創業記事
八十一老 白里 関寛誌す
      (一)

明治三十三年八月、又一は札幌農学校在学中シホホロ迄きたり、同地にて実地を検して且つ出願せんとす。
三十四年一月、又一は釧路を経て※別りくんべつ[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、175-7]きたる。
同年五月、斗満原野三百万坪余の貸付許可を得たり。
同年七月、又一農学校卒業す。ただちに※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、175-9]別に来る。
同年十月、藤森彌吾吉ふじもりやごきちの牛馬を追わせて愛冠アイカップに至らしむ。
牛八頭 馬廿一頭。
明治三十五年三月十七日、片山八重藏夫婦樽川たるがわを発し、北宝号ほくほうごう耕煙号こうえんごう※(「日+章」、第3水準1-85-37)ずいしょうごう、札幌号の四頭しとうを追うて、落合迄※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車にて着。(中略)。廿五日藤森彌吾吉夫婦が牛馬を飼育するの愛冠の小屋に着し、同居して雪の溶けるを待つ。五月二十四日早朝発にて斗満に向う。愛冠には我小屋のみにて、れより斗満迄十二里間は更に人家無く、………其困難たるや言語筆紙の及ぶべからざるなり。………片山夫婦、藤森彌吾吉夫婦、西村仁三郎にしむらにさぶろう谷利三郎たにりさぶろう、土人一名合せて七名、同夜九時※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、176-9]別第五十四号にある測量出張員の仮りに用いたるの小屋ありて此れに着す。………四五日にして小屋の木材を切り取り、樹皮を剥ぎて屋根とし、且つ四囲をかこい、あるいは敷きて座敷とせり。………夫れより開墾して六月十八日迄に一反半を開き、燕麦からすむぎ牧草を蒔付まきつけたり。
廿七日、仮馬舎かりうまやに着手して、七月一じつ出来あがりたり。
七月一日、又一着塲ちゃくじょうせり。
八月十日、かん餘作よさくを同伴して初めて来塲す。寛は餘作が暑中休業にて五郎同行来札らいさつするを以て、五郎を母のもとに残し、同五日発にて牧塲に向う。落合迄※(「さんずい+氣」、第4水準2-79-6)車、夫れより国境のけんは歩行し、清水にて一泊。夫れより帯広に出で、来合わせたる又一に面話し、一泊。高島農塲に一泊。利別としべつ一泊。足寄あしょろにて渋田しぶたに一泊し、西村が傷をしんす。翌日土人一名を案内としてやとい、乗馬にて早発し、細川氏にて休み、三時牧塲に着す。其実况はに。
細川氏にて茶を饗せられて径路を通行し、「トメルベシベイ」にて十伏川とつふせかわを渡る。河畔かはんに鉄道測量の天幕あり。一名の炊夫すいふありて、我牧塲を能く知る。
最も懇篤こんとくに取扱いくれたるはうれし。ここにて弁当をしょくす。茶を饗せられたり。此迄これまでは人家無く、附近にも更に人家無しと。河畔に土人小屋あり。此れまするなりと。此れより山間の屈曲せる処を通る。径路あるも、然れども予が目には知る事あたわざるなり。数回すかい川を渡り、峻坂しゅんはんを登り、オヨチに至る。此処ここは最も密樹の繁茂せるの間をくぐるには、くらにかじりつきても尚危く、あるいは帽を脱せんとする事あり、或は袖を枝にからまれて既に一身は落ちんとする事数回すうかいなり。且つ大樹の為に昼尚暗く、漸く案内者の跡を慕うのみ。すこぶる困苦するも、先ず無事に亦河を渡り、平坦の原野に出でたるも、また密林あり。(現今クンベツ)且つく処として倒れたる大樹ありて、其上を飛越え、或は曲り或は迂回するとうは、とても言語を以て語り筆紙を以て尽すべからざるあり。亦いつの驚きたるあり、オヨチにてはまむし多くして、倒れ木の上に丸くなりて一処いっしょに六七個あるあり。諸方にて多く見たり。其度毎そのたびごとにゾッとして全身粟起ぞっきするを覚えたり。
平坦地を通り過ぐるの処に密林あり、湿地あり、小川あり。其かたわらにふきの多く生えたるあり。蕗葉ふきのはは直径六七尺、高さ或は丈余なるあり。馬上にて其蕗の葉に手の届かざるあり。こころみたずさうる処の蝙蝠傘を以て比するに、其おおいさは倍なり。此れより川をわたりて原野に出でたり。(今の伏古丹ふしこたん)。く事十丁ばかりにして湿地あり、馬脚を没し馬腹ばふくに至る。近傍の地にはあしを生じ、其高さは予が馬上にあるのかしらうあり。此れを過ぎ、東には川を隔てて密樹あるの山あるを見る。亦平坦の地に至る。西には樹木の生ずる山あり。北には樹木無く、平坦なるの高き地に緑草の繁茂するを見たり。更に能く凝視するに馬匹ばひつをつなぐ「ワク」あるを覚えたり。故に偶然に此れ我牧塲なるかと思いつつ、更に北に向うて進むに、いつの広き湿地あり。馬脚は膝を没するも馬腹に至らず。此れを過ぎて次第に登り、平坦地に至る。少しの高低あるのみなる広く大なる原野あり。内に道路あり、幅六七尺にして十字形を為して東西に分れ、南北に分れたるを見たり。余り不思議なるを以て、かかる無人境むにんきょうにて此道路は何たるやを土人に問う。土人答て曰く、此れは関牧塲にして、馬の往来するが為にかくはなりたりと。ここに至りては予は実にうれしくして、一種言うべからざるの感にうたれて、知らず識らず震慄しんりつして且つ一身は萎靡なえるが如きを覚えたり。此時たるや、精神上に言うべからざるの感を為すは、これ終身忘るる事能わざるべきなり。故に今日こんにちに於ても時々思い出す事あり。ああ此現状に遇するに於ては大満足たるや如何なる憂苦困難を重ねたるも、此れにて万難を打消すべきを感じたり。ああ世人は斯くの如きの実境を得る事を知らず、只空しく一身一家を固守するの人にては、予が此現状を得る事無き人に対して自ら誇るのみならず其人をあわれに思うなり。尚牛馬の多く群れたるを遥に見つつ河をわたる。(斗満川)。川畔かわばたに牛馬の脚痕あしあとの多きを見る。あらたに柵を以て囲めるを見たり。ここに至りて尚うれし。進んで少し登りてくに、樹間に小屋を見る。喜んで進んで着するに、片山夫婦谷利太郎は大に喜んで迎えらるるは実にうれし。然るに奇遇にも土人は鱒弐尾にびを捕りたるを以て、調理して晩飯をしょくしてねむりにつけり。此夜はあだかも慈母の懐に抱かれたる心地して、大安堵せり。
小屋は四間しけんに六間にして、堀立柱ほりたてばしらに樹皮を屋根とし、草を以て四囲を構え、草を敷きて座敷とし、ほかに便所一つあるのみなり。片山夫婦、彌吾吉、利太郎の四名なり。家具着類は不自由ながらも僅に用を便ずるのみ。臥して青草せいそうを握り、且つ星を眺むるなり。
此際は殊に小虫多く、眼口鼻に入る為めに、畑にいずるにはいずれも覆面して時々逃げて小屋内にて休息す。便処べんじょにても時々「タイマツ」の様なるものを携うる事とせり。此れは小虫は火を嫌うを以て、小虫を避くるの為めなり。
十二日、七時より放牧塲(ノフノヤウシ)即ち昨日見る処に至りて馬匹を観んと欲し、彌吾吉王藏同行せり。現塲げんじょうに至り、彌吾吉は馬匹の群を一見して馬匹中に異動あり、或は不足なりとて、尚調査するに、仔馬一頭は熊害ゆうがいにて臀部に裂傷あるを見たり。尚※(「日+章」、第3水準1-85-37)ずいしょう北宝ほくほうも見えざるを以て、或は昨夜熊害のたの馬匹にも及ぼす事あるかとて、王藏に命じて尚馬匹を集めて調査するに、瑞※(「日+章」、第3水準1-85-37)北宝両種馬しゅばの見えざるをもって深く案じたるも、両種馬は遥に群馬中に見えたり。且つ数十頭の遠くより揃うて急馳きゅうちするの勢い盛なるを見、且つ其迅速なるを見ては、実に言うべからざるの大快楽を覚えたり。且つ予は幼時小金原こがねがはらにて野馬捕のうまとりとて野に放ちたる馬を集めて捕るを見たる事を想起せり。然れども彼時かのときは只眼にて観るのたのしみなるのみなりしも、現今我牧塲としてかかる広漠の地にて、且つ多数の我所有たる馬匹の揃うて進みて予に向うて馬匹等は観せたしとの意あるが如きを感じて、更に一種言うべからざるの感あり。其内に追々進みて近きに来り、瑞※(「日+章」、第3水準1-85-37)北宝は無事に群中にありて大に安堵せり。然るにの両種馬は、予が傍らに来りて心あるが如く最もしたしく接したり。他馬匹も同く、予は群馬のうちに囲まれて、いずれも予に接せん事を欲するが如く最も親しく慣るるは、此れ一種言うべからざるの感あり。
昨夜熊害は仔馬一頭をいためたるのみなり。きず裂創れっそうにして、熊の爪にかけられたるも逃げ出して無事なりと。
熊は時々馬匹に害を与うるを以て、かつてアイヌ一名を傭置やといおき、一頭を捕れば金五円ずつを臨時賞として与うることとせり。
十七日、又一帰塲せり。よって又一を先導として、餘作同道にてウエンベツざんに登る。川を渉り、或は沿岸を往き、或は樹間或は湿地を通行するに、熊の脚痕あしあと臥跡ふしあとあり。漸く進んで半腹はんぷくに至るに、大樹の多きに驚けり。中には我等の三囲みかかえ四囲よかかえとうの老樹多きに驚けり。山頂に登り、近くは斗満※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、184-1]別、遠くは阿寒山を眺め、近き渓々たにたには緑葉樹の蓊鬱おううつたるを望み、西に斗満の蓊鬱たるを望み、近き西には斗満川を眺めたり。帰路※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、184-3]別に出でたるに、土人小屋あり、一人いちにんの住する無きも、傍らに熊送りの為め熊頭ゆうとうを木に刺して久しく晒したるを以て白色はくしょくとなれる数個を見たり。珍らしく覚えて一個を携え帰れり。昨夜仔馬一頭たおれたり。此れ熊害にかかりたるものなり。
十八日、餘作と共に寛は発足す。又一、八重藏は、放牧塲迄見送りくれたり。放牧の牛馬は、予を慕うが如きを覚えたり。
十一月七日、又一札幌に向うて発す。此れ三十六年志願兵として一ヶ年間騎兵に服役する為めなり。
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本年は樽川の畑は風損霜害にて収穫おおいに※[#「冫+咸」、184-13]じたり。依て我等夫婦殊に老妻は大に此れを憂いて、此損害の為めに収穫※[#「冫+咸」、185-1]ずるを以て、牧塲に大に関係するを以て、此れをつぐのわんが為めに、我等夫婦はいまだ慣れざる畑仕事を為し、屋敷内にて菜大根及び午蒡ごぼう人参等を植付けて喰料しょくりょうを助けて、一日いちじつに責めては我等夫婦の喰料たる白米を五勺ずつにても※[#「冫+咸」、185-4]ずる時には、一ヶ月には何程か費用を※[#「冫+咸」、185-5]じて、其金員を貯えて又一が手許にて牧塲の資本たらしめん事を日夜怠らず。更に初めて寒地に来りて彼此に慣れざるが為めに、知らざるうちに空費あるをも省略せんと欲して、或は夕食には干菜ひばとして雑炊とし、或は製粉処にて粗末にて安価なるものを求めて団子としてしょくする等は、実に恥ずべきの生活を為したるも、却って健康なるを以て、日中は夫婦共に畑に出で鍬鎌を握る為めに、手掌てのひらは腫れ、腰は痛むも、耐忍して怠らず。然れども本年は最初たるを以て、樽川の収入にて若干そこばくの予定を※[#「冫+咸」、185-11]ずるを補わんが為めにて、决して焦眉の急を防ぐの為めにはあらざるなり。我等の子孫たる者は、此れを忘るる時は、必ずや家を亡すに至るべきなり。
馬匹五十二頭
牛七頭
蒔付まきつけ一町余
ソバ、馬鈴薯じゃがいも、大根、黍は霜害にて無し。

      (二)

明治三十六年
五月廿六日、寛は王藏に送られて牧塲に着す。
おなじく三十日には、寛は蕨を採りて喰料を補わんとして、草鞋はきにて藁叺わらかますを脊負い、手には小なる籠を持ち、籠にみつる時は藁叺に入るる事とせり。然るに片山夫婦は予に告げて曰く、通例の和服にては、小虫を防ぐには足らず、とても耐忍すべからずと。斯く示されたりしも、しいて和服にて股引をはきて出掛けたり。然るに初めての事なるを以て、最も近き山にり、蕨を採りたりしに、四囲より小虫の集る事は、あだかけぶりの内に在るが如くにして、面部くび手足等に附着してぬかを撒布したるが如くにして、皮膚を見ざるに至れり。然れどもかつて决する事ありて、如何なる塲合にも耐忍すべきとするを以て、強て一時間ばかりにして眼胞まぶたは腫れて、且つ諸所に出血する事あり。此痛みと出血するとは耐忍するも、如何いかんせん払えども及ぶべからず。加之しかも眼胞は腫れて視る事を妨げ、口鼻より小虫はるありて、為めに呼吸は困難となり、耳内にも入りて耳鳴するのみならず、脳に感じて頭痛あるを忍ぶも、眩暈めまいを起して卒倒せんとするを以て、無余儀よぎなく小屋に向うて急ぎ逃げ去らんとするも、目くらみて急に走る事能わず。為めに小虫は身辺を囲みて離るる事無し。
漸く小屋に帰り、火辺にて煙の為に小虫の害を脱するを得たり。実に尚一時間も強て耐忍する時は、呼吸困難と、視る事能わざるに至らん乎。甞て聞く処あり、小虫の群集に害せられて危険に陥る事ありと。予は其実際にあたって最も感ぜり。其以前に片山夫婦は予に示して曰く、面部は僅に眼を残して木綿にて包み、頸囲くびのまわりも密に巻き、手足に至る迄少しも隙無き様に働き着用の服類を用意して此れを用ゆる事と。丁寧に教えくれたるも、予は如何にも我慢をして小虫を忍ぶべしと強情を主張したるも、然れども実際に当ては迚もたゆる事能わざるを以て、片山夫婦にわびして服従せり。依て片山夫婦に大に笑われたり。れよりは彼を着用する事とせり。其使用は面部は只眼をいだすのみ、厚き木綿にて巻き二重ふたえとし、頸部も同じ薄藍色木綿の筒袖にて少しも隙無き様にして、且つ体と密着せしむ。腕にて筒袖口をくくり、隙無き様にして、脚には紋平もんぺいとて義経袴の如くにて上は袴の如く下は股引の如きものを穿き、足袋をはき、足袋との隙をくくるに厚き木綿を用ゆるなり。肌と着類の間に少しにても隙ある時は、小虫は此れより刺すを以て、隙の無きに注意するなり。かくの如く着用するのかおを自らは其全体を見る事能わざるも、傍人の有様を見て、其昔宇治橋上に立ちてたたかいたる一來法師いちらいほうしもかくあらんかと思われたり。
かかる着用にて、炎熱の日に畑に出でたるには、炎熱と厚着の為めに全身は暑さを増すのみならず、汗出でて厚く着重ねたる木綿ぎものは汗にて流るるが如きに至るを以て、おのずから臭気を発して、一種の不快を覚ゆると其くるしさとにて、一日いちじつには僅に三四時間の労働に当るのみ。実に北海道の夏は、日中は最も炎熱甚しく、依て此厚着にて労働するが為めには実につかるる事多し。且つ畑のかたわらにて朽木くちきを集めて焼て小虫を散ずるとせり。故に少しの休息間にも、火辺にありて尚炎熱に苦むなり。
予は初めは和服にて蕨採りに出でし際に、小虫を耐忍する事一時ひとときばかりなるも、面部は一体に腫れ、殊に眼胞まぶたは腫れて、両眼を開く事能わず、手足も共に皮膚は腫脹しゅちょう結痂けっかとにてあだか頑癬かさの如し。為めに四五日は休息せり。且つ頭痛と眩暈めまいとにて平臥へいがせり。
小虫を防ぐの着類は揃いて、皮膚及び眼胞の腫れも※[#「冫+咸」、190-5]じたり。依て蕨採りとして出掛て、藁叺わらかますを脊負い、手には樹皮にて作りたる小籠を持ち、草鞋はきたり。然るに小虫は四囲より集り、只眼のみあきたるにより、為に眼囲めのまわりに向て集るを以て、絶えず手にて払わざる時は尚多く集りて耐ゆべからず。依て手にて絶えず払いたり。然れども右手めてに籠を持ち、左手ゆんでにて蕨を採るゆえに、小虫を払う時は蕨を採る事能わず。故に時々は籠を手より離して、地上に置く事あり。為めに蕨を採る事少きを以て、翌日より籠に紐をつけて頸にかけて出懸たり。依て都合よく片手に蕨を採り、片手にて絶えず小虫を払いたり。此れにて蕨は多く採りて、籠にみつれば叺にうつして脊負たり。然れどもうしろには叺を脊負い、前には籠をさげて、体には厚き木綿着類を重ねたるゆえに、総身の重きと且つ前後にぶらさげたるゆえに、慣れざる老体には実に苦き事多きも、日々勤めて四五町を隔てたる処にて採りたりしも、追々耐忍力も出来且つ慣れたるを以て多く採る事となれり。依て尚多く採らんとの希望を起し、八九町も隔りたる所に多くあるを知り、且つ片山ウタ谷利太郎は其近き畑にて仕事をするを以て、其処そこに出懸けたり。然るに蕨は多く採りて叺に入れたるに、僅に六七貫目たるも、予が老体には重きに耐えざるを以て、地上に叺を置き専ら蕨を採りたり。然るに蕨の多く採れるを喜びつつ、小虫を払うを怠れり。故に小虫は多く集りて恰も煙の内にあるが如くにて、予が一身の四囲を最も濃密に集りて、且つ眼も小虫の為めにふさがり、十分に見る事能わざるを以て、小虫の此群集の内を脱せんとして、疾行して諸方に歩を転ずるも、其小虫の群集の内を脱する事能わず。尚眼は塞りて視る事不分明となり、置きたる叺を見出す事能わずして苦めり。尚如何にしても叺を見出す事能わざるを以て、無拠よんどころなく大声を発して遠き畑に在るの利太郎を呼びて、漸く蕨を入れたる叺を見出したる事あり。
此際は蕨のみならず、よもぎも多く採りたり。其時すぐに用うる時は、きびと共に蓬を以て草餅としてしょくする時は、めずらしあじわいあるをいずれも喜んで喰するによりて、大に経済上に於て益あり。予はわけて草餅を好むを以て日々の喰料とせり。亦久しく貯えて長く用ゆるには、煮て干し上げて貯うる時は、何日いつも草餅を喰せんと欲する時に臨んで草餅と為す事を得るなり。亦蓬の少き地方に贈物として大に親睦を取るの事となるあり。当地の蓬は殊におおきく且つ多く、採り易きを以て予は現今の喰料のみならず、貯うる事とも為し、或は諸方へ贈りものとして誇れり。此れ苦中の一楽なり。………当地にては、白米は都会の地に比すれば倍額たるを以て、未開地の新住居たる者は、殊に白米を喰するを減ずるを最も心懸こころがくるは最要方法たり。依ては年中絶えず第一には馬鈴薯じゃがいもを多く常喰する事にて、第二は諸種の豆類をも多く喰するを以て、馬鈴薯と豆類には足りて忌むべきを覚ゆるあり。其際に時々草餅を以て祝いの時や或は祭りの日など用ゆる時は、いずれも大に喜んで喰するを以て、只都会の草餅の如く色と香とを以てするのみにては名のみなるも、喰料の助けとして多く蓬を用ゆる時は、味と共に喰料を助くる事最も多きなり。尚雪中に青物の乏しき時に此れを一同に喰せしむる時は、何れも大満足する者なり。実に僻地に於て隣家も遠くして平生他の人を見る事なく、亦語る事少く、他に心を慰むるもの無きにより、殊に傭人等やといにんらは日々馬鈴薯と豆類のみを多く喰するをたのしみとするのみなるを以て、折には異る喰物しょくもつを大に楽とするのみなり。実に未開地に於ける農家の喰料は、都会人士の知らざる処にして、其粗末なるも自然に慣れ、且つ労働多きにりて消化機能も盛なるを以て、かかる喰料にてもかえって都下の人より健康を増加するのみならず、生出せいしゅつする処の児輩こらは却て健康と怜悧れいりたるが如し。昔時せきじに於ける山中鹿之介坂田公時も山家育ちなり。現世に於ては、高木兼寛たかぎけんかん三浦謹之助みうらきんのすけ両氏の如き、最も深山の内にて粗食にて生長せるも、医門の大家たり。ああ自然たるや平均を怠らざるを感ぜり。
当地の蕨は太さ拇指ぼしの如く、長さ二尺以上たる物なれば、殊にあじわいあり。故に珍とすべし。実に採りてただちに木灰と熱湯とを以てアク出して喰するにも、或は其儘酢味噌或は醤油酢にて喰し、或は煮て喰する時は、最も味多し。亦此れを煮て干しあげて貯うる時は、何時にても湯でて水に一二日浸す時は、原形の如く太くなりて、味あり。此れも雪中には珍しく喰すべし。且つ大に喰料の助けとなるあり。或は貯え置き遠方に送りて大に珍重せらるる事あり。且当地にては、蕨と蓬とは多くして且つ太くて味あるを以て、日々採るも尽きざるなり。実に天の賜たるを覚えたり。昔時支那にて伯夷はくい叔齊しゅくせいの高潔を真似るにあらずして、創業費の乏きを補わんが為めにして、実に都下及び便利の地に住して衣喰いしょくするの人として决して知るべからざる事にして、かかる卑吝ひりんするは或は耻ずるが如きも、然れども未開地に於て成効を方針とするに於ては、尚此れよりも衣喰に於ける幾多の困難に当るを以て、甘じて実行せざるべからず。予が此実際よりは更に困苦と粗喰とを取るは、未開地を開墾するの農家の本分たり。ああ創業のかたいかな。
蕨蓬を採るの時は、樹皮の籠を用いたるも、然れども籠は歩行するにぶらぶらとして邪魔となり、或は小虫を払うにも不便なるを以て、更に木綿袋に換えたり。此れにて小虫を払うも手軽くなりて、大に便利となりて、蕨蓬を採るの量多きを喜びつつ、日々出でて採る事とせり。又小虫を払う事にも慣れて、成丈なるたけ小虫の集らぬ様に避け、或は払うて、左手ゆんでに蕨を握り、且つ小虫を払い、右手めてにて採る。左手に握り余る時は、袋に入れ、又袋に余りある時は叺に入れて、其重さ六七貫目以上に至る時は、其重さに耐うる事能わざるを以て帰るとするも、然れども小屋を離るる僅に六七丁なるも、然れども予が肩に負う事は旅行の際には二貫目ばかりの重きを以てするのみ。依て六七貫目以上の重量にいたっては、強て耐忍する時は両肩は其重さによりされて、其いたみにたゆる事能わざるを以て、其重さに困る事を知るも、蕨を採るの際には少しにても多く採らんと欲するに傾きて、知らず識らず多きに至れり。依て帰路は僅に六七丁なるも、然れども既に帰路に臨む時は、漸く十間以上を歩行する時は、重荷の為めに両肩疼み、強て忍ぶも呼吸は促迫そくはくし、尚忍ぶ時は涙と鼻汁とは多く流れ出で、両肩の疼み次第に増すを以て、両手をうしろにまわし叺の底を持ちあげて肩の重きをかろくするなり。然るに肩は軽くなるも両手にひさしたうる事能わず。依て亦両手の労を休まんとして両手を前にする時は、ただちに叺を両方より結びたる藁縄に喉頭のどくびおししめて呼吸たえなんとして痛みあり。依て亦両手にて藁縄を下方に引く時は、喉頭こうとうを押すは※[#「冫+咸」、197-3]ずるも尚肩の疼みは増加するのみならず、両肩は前後より圧迫せられたるを以て殆んど痲痺するが如きに至れり。全身も弱りて倒れんと欲し、耐忍する事能わずして草上に座して休息するに至れり。然るに休息するによりて全身は俄に安静なるに至れるが故に、小虫は此れにて四囲より群集して亦呼吸を妨げ、或は眼胞に向うて来りて払えども更に散るも亦来り尚群集を増加するによりて、此れにも耐忍する事能わずして、依て叺を脊負せおいて袋を前にかけて歩行するも前の如く困苦にて、僅に三十間或は四十間ばかりにて休息するが故に、六七町なるの帰路は一時間余をるに至れり。漸くにして小屋に帰りて直に横臥して言語する事も出来ざるに至れり。少時間は発熱するが如きを覚えて、精神も或は失するが如くにして休息す。すこしく眠るが如くにして、漸く本心に復したるを待って、或は湯を呑み薯を食するに其あじわいの言うべからざるの美を覚えて、且つ元気つきて、れより採りたる蕨蓬を選びわけて煮るには半日はんじつを費す。故に午前には出でて採り、午後には煮て干しあげる事に当れり。依て日々に終日労するには予が老体には最も労苦たり。午後には火をたき湯をわかすには、炎熱中には随分大なる困苦たり。故に日中には労に当り自らも大なる困苦を覚ゆるも、少しも屈せずして実行するには、あだかも地獄の苦みもかくやあらんと思うのみ。然れどもあらかじめ决する事たるを以て、生活する間は耐忍するとせり。然るに臥床がしょうに就く時は、熟眠して快き夢ありて、此れぞ極楽界たるを覚えたり。故に予は地獄と極楽とを一昼夜の間に於ける実地に於けるを感ぜり。依て自ら心に誇る処あり。ああ予はかつて徳島に在るの時に於て、七十歳を以て古稀と自ら唱えて、僅少なる養老費あるを以て安堵して孫輩まごらの顔を眺めて楽みとし、衣食住の足れるを満足とする事に至るのみにとどまりて、此牧塲を創起して意外の金員を消費しつつ、かかる困苦に当る事無くんば、かかる毎夜の極楽園裡の熟眠にて快楽ある夢をみる事もあらざるべき乎と熟考する時は、ああ予は大幸福と云うべき乎、或は大不幸と云うべきかと、自ら一種言うべからざるの感あり。然れども人たる者は生活間は苦んで国に対し亦世に対するが為めに労苦を実行するは此れ人たるの本分なりとする時は、或は不幸にはあらずして却て大幸福なりとすべく、予は大満足として、生活間に於て地獄と極楽との真味を最も能く知れるを以て大に誇る処也。
六月二十七日、土人イカイラン熊の子二頭を馬のせなに載せて持来もちきたれり。此際は蓬と蕨とを採るにいそがしく、日々干し面白く、働くには頗る困難なるも、創世記を読みて古今同く労苦と厄難と人害とは此れ創業の取るべきを感悟して最も満足せり。
此際には豆類甘藍きゃべーじ等に兎と鼠と日中にても群を為して来り食するや実に驚くのみ。依て百方其害を防ぐに忙きも、其効を見る事能わざるなり。
七月三日、一奇遇あり。一官吏来り泊す。ばん氏と告ぐ。然るに予は先年伴鐵太郎ばんてつたろうなる者を知れり。故に伴鐵太郎なる者を知るやと問うたり。然るに伴鐵太郎の二男なりと。予はかつて長崎に在りし時、幕府の軍艦にて咸臨丸かんりんまるは長崎滞泊中は該艦に乗組の医官無くして、予は臨時傭として病者及び衛生上に関する事を取りたる事あり。其際伴氏は上等士官として艦長の代理たり。其際には最もしたしく且つ予と年齢もおなじきを以て最も親くせり。爾後政府も代り、数十年すじゅうねんを経て互に其音信を為せる事ありしも、然るに偶然に同氏と面会するに、かかる山間なる僻地に既往を伴氏の実子と語る事あるの奇遇を感じたり。
七日、三角測量吏吉村氏は※[#「陸」の「こざとへん」に代えて「冫」、201-1]別山に三角台をたつるが為めに来泊す。
此際道路新設にて、請負人堀内組病者多しとて、藤森彌吾ふじもりやご氏を以て頼み来れり。此れ我牧塲に向うて道路新設たるを以て、喜んで諾す。
此際土方人夫は逃げて北見に走る者多く続いて来り、予が一名にて留守するに当りても来り強て喰物を乞わるる事あり。或は川をわたり、或は裏口より突然にきたるあり。或は跡より追い来るの人あり。其混雑なるは実に一種の世界たるを覚えたり。
八月廿七日、初雪あり。
九月十六日、堀内組病者診察として愛冠あいかっぷに行くに、道を曲げて「ニオトマム」に馬匹を見んが為めに、「ヤエンオツク」を同行せり。王藏が番小屋に泊す。傍らに土人の小屋を立ててヤマベを捕るあり。其の小供は裸体にて山中をかけ走るを見る。ヤマベを釣り、味噌汁に五升芋とヤマベを入れて煮たる汁を喰す。最も妙味あり。且つ予は倒れたる枯木こぼくの丸太橋を彼方かなた此方こなたと小川をわたりながら馬匹の遊ぶを見るは実に言うべからざるの感ありて、恰も太古にはかくやらんと思われたり。殊に此地は水清く、南に平原ありて沙地すなちなり。北には緑葉りょくようの密に針葉樹多く、其奥に高山ありて、為めに小虫はすくなし。
十七日、雨ふるも強て発して愛冠に向う。四里間に家無きも、山間或は原野にして、シオポロ川の源に出で、川畔にうてくだる。終日暴雨なり。三時愛冠に着す。全身は肌迄湿うるおうたり。夜中やちゅう熟眠す。夜半独り覚めて「ニオトマム」の成効して所有権を得るの後を思うて、尚全身若がえりたるを覚えたり。ああ昨日きのう馬上にて全身の冷水に湿うるを忍びて、却て大に健康を増加するを覚えたり。
廿九日、寛は札幌に向うて発す。
牛十頭
馬九十五頭
畑地開墾四町
牧草地二十町

      (三)

三十七年一月一日。
寛は札幌にありて牧塲を遥に祝す。
二月七日、又一帰塲す。
三月一日、瑞※(「日+章」、第3水準1-85-37)北宝を舎飼こやかいとし、他の馬匹を昨暮さくくれよりさる人に預けたり。然るに本年の大雪にて多くの馬匹をいため、四十頭をたおしたり。或は衰弱して流産するあり。此れ我家わがいえの不注意と、預り人の怠りとに由るなり。
五月廿八日、寛は着塲せり。
六月十日、又一は札幌に向うて発す。………倉次くらつぐ氏より、アイ衰弱の報あり。
十二日、朝アイ死去せり。
老妻は渡道後は大に健康なりとて自ら畑に出で鍬を取り、蔬菜豆類を作り喰用の助けとして、一日いちじつに一銭たりとも多く貯えて又一が手許に送り、牧塲の資本を増加せん事をとて熱心に働き、自らも大快楽なりとて喜び居れり。然るに昨年より心臓病に罹り、貧血となり、次第に一身に疲労を起し、且つ痩せて時々心動亢盛の発作あるも、然れども性として仕事好きにて、少しも休息せず。自らも牧塲の為めには一身を尽すは本より望む処なりとて、労苦を取りて休まず。移住後は滋養の為めとて在東京周助さいより蒲焼及び鯛サワラ等の味噌漬其他舶来品の滋養物を絶えず送られて好みつつ喰するも、次第に衰弱せり。或は温泉を好むを以て、近所なる山鼻の温泉にも予は同行する事もあり。或は快く、或は発作し、自分にても此度こんどとても全治すべからざるを悟りて、予に懇切に乞うて曰く、此度このたびは决する事あり、依て又一に面会して能く我等夫婦が牧塲に関する素願そがんたるの詳細を告げ示し置きたし、依て牧塲に行き又一と交代して又一をして早く帰宅せしめられたしと。乞う事切なり。且つ此れはわらわが大に望む処なりと、数回すかい促されたり。予は今世このよの別れとは知り、忍びざるも、然れども露国に対するの戦端開け、又一が召集せらるるも近きにあらんか、依てすみやかに又一を札幌に出でしめ、責めては存命中に又一に面会せしめて、十分に話を致させるとして出発するも、心は残りて言うべからざるに迫まれり。尚死後の希望を予に向うて乞う事切なり。に。
一、葬式は决して此地にて執行すべからず。牧塲に於て、けいが死するの時に、一同に牧塲に於てめるの際に、同時に執行すべし。
一、死体は焼きて能く骨を拾い、牧塲に送り貯えて、卿が死するの時に同穴にうずめ、草木そうもくを養い、牛馬の腹を肥せ。
一、諸家しょけより香料を送らるるあらば、海陸両軍費に寄附すべし。
五郎は常に看護を怠らず、最も喰料しょくりょうには厚く注意して滋養品を取り、且つ何の不自由無し、故に予が傍らに在らざるも少しも差支無きとて、出発を促せり。予が発途後は何等の異状も無し。倉次氏は時々来診せられたり。然るに十二日の朝は、例により臥床がしょうを放れて便所にきて、帰りて座に就くや、暫時にして俄かに面貌変じたり。夫れより只眠るが如くにして絶息せり。急ぎて倉次氏を迎うるも、最早致すべき無し。
然るに近隣及び知人は集りて五郎を助け、東京へも電信を発し、マスキはキク、ヒデを同行にて来り、厚く葬儀を営み、且つ遺言により骨は最も能く拾いて集め箱に入れ置きたるを、予は其後そののちに自ら負うて牧塲に帰りて保存せり。アア三十五年に徳島を発する時は、老体ながらも相共に手を携うるも、今や牧塲には白骨を存するのみ。肉体無きも、無形の霊たるや予が傍らに添うて苦楽を共に為すを覚えたり。早晩予も形体は無きに至るも、一双の霊魂は永く斗満の地上にあって、其さかんなるを見てたのしまん事を祈る。
亡きたまよ、ここに来りて、諸共に、幾千代かけて駒を守らん。
秋の夜の、おもかげうつる夢さめて、ねやにただきく川風の音。
廿九日、餘作来塲して予を慰む。
寛は亡妻の病めるや既に不治にして必死たるべきを决定するを以て、死去後には憂いとは思わざるのみならず、亦忘れんと欲するも、如何いかんせん精神上に於ける言うべからざるの欝を以てし、且つ全身は次第に衰弱して喰料を※[#「冫+咸」、207-12]じ、動作困難にして、耳鳴眩暈めまいして読書するにも更に何の感も無く、亦喰物しょくもつに味無く、只恍惚たるのみ。餘作にも語り合い、此儘にてむなしく沈欝に陥る時は、或は如何に転変するに至らん乎と、自らも此れを案じ、餘作も共に慰めくれて、此際には精神上一大変化を実行して、此難関を一掃すべきの大奮励を要すべきを悟り、此れが為めには先ず例年暑中には海水浴を実行するを以て、此れに習い今回は温別おんべつにて行い、且つかつて高岡氏より釧路支庁長に向うて予が為めに厚意を報ずるの一通あり、未だ釧路に出でざるを以て、此一通を釧路支庁長に呈し、且つ予が現状と牧塲の現状とを語るべし、更に甞て予が厚く信ずる処の二宮尊徳翁の霊位を藻岩村もいわむら二宮尊親そんしん氏の家に至りてしたしく拝せん、且つ其遺訓をも拝聴し、及び遺書をも親く拝読せん事を切望し、尊親氏にも約する処あるを以て、此れを実行せば或は精神上に於けると転地療法とを二つながら全うせん事に决し、七月五日餘作同行にて発途。足寄橋にて別れて餘作が後貌うしろすがたはるかに眺めて一層の脱力を覚えたるも、しいて歩行し、漸く西村氏に泊す。此際に近藤味之助こんどうあじのすけ氏は学校に在勤して慰めくれたり。
然るに其後両日間は非常なる暴雨にて、休息し、晴れを待って発するに、センビリ川は増水して、漸く増人ましびとを以て渡る。其日上徳うえとく氏に泊し、夫れより釧路に出でたるも、支庁長不在なるを以て書状を置き、帰路白糠しらぬか軍馬補充部を一見して菅谷すげや氏に一泊し、温別にて海水に浴す。此際は汽車は浦幌うらほろ迄通ずるのみ。浦幌に泊し、豊頃とよころに至る。ぜん九時なり。此れより十勝川を渡り藻岩もいわ村に向わんとす。然るに昨日迄は満水にて渡船無きも、今日こんにちに至り漸く丸木舟にて渡すとて川向に着す。川には流材多く危険にして、泥水と腐草とは舟を妨げる事ありしなり。然るに藻岩村に行くの道路に向うて僅に四五十間行くに、昨日迄の洪水は去れども、瀦水ちょすいは膝を浸す。尚行くに従うて深きが如し。依て渡人わたしびとなる土人に其詳細を聴くに、道路は深くして腰を浸すべし、しいて藻岩に行くには堤防を行き、夫より畑の中を通り、遥に見ゆる処の小屋に至り、夫れより間道を通らば藻岩に至ると。依て土人をやとうて、助けられて行くとせり。然るに泥水とゴミと流れ、木材多く、歩行困難にして或は倒れんとする事あり。依て土人に手をひかれて歩するに、深さ膝を過ぎ、泥水中に朽木くちきを踏みて既に危く倒れんと欲するあり。或はおおいなる流材ありて、此れをまたがりて越えるあり。或は畑の溝にて深き所ありて股を浸すあり。故に一歩毎に危く、片手は土人にひかれ、片手には倒れ木を握り、或は蝙蝠傘を杖として歩行するが為めに、胸迄泥水に浸されて、僅に脊負う所の風呂敷を浸さざるのみ。為めに或は立ながら休み、或は泥水中に倒れ木によりて休みて、数回倒れんとしたるを遁るるのみ。為めに呼吸促迫し、更に今朝こんちょう浦幌にて僅に粥二椀を喰したるままにて、豊頃にては昼飯ひるはんを喰せざるを以て、追々空腹を覚え、殊に歩行は遅くして、三時頃に至り彼の小屋に着したり。然るに泥水の中に三時間余在るを以て、寒くして震慄を覚えたり。依て農家に頼み、火にて暖まり、湯を飲みたるも空腹なるを以て食事を乞うも、黍飯なり、且つ硬くして喰する時は胃痛下痢を発する事を恐れて、忍んで藻岩村に向う。此間廿町ばかりなるも、泥水の溜まるあり、或は道路のいたむ処ありて歩行甚だ究するも、漸く二宮家に着するを得たり。然るに尊親氏は不在なり。妻君に面会を乞うに、未だ一面識無きのみならず、大に怪むが如し。此れは予が半体以上は泥水にけがれ、面色かおいろも或は異様なりしなるべし。然れども強て尊親氏の面会を乞う。近隣にありて、帰宅す。予が現状を見て大に驚けり。依て其詳細を述ぶるに、俄に風呂をわかし、着類を洗いくれ、負う所の着類を換えて、初めて精神に復したり。尚乞うて粥を喰す。空腹のみならず疲労あるとて鶏卵を加えて饗せられたり。然るに過般来かはんらいしょくあじ無く、且つ喰後は胃部には不快を覚えたるも、今や進んで喰するを好むも、然れども注意して少量にして尚空腹を覚ゆるを耐忍せり。且つ尊親夫婦は最も喰味しょくみの調理に意を用いて、漸次ぜんじに喰量を増し、粥をも少しずつを濃くせり。実に初めは極薄きを用い、追々其喰料を増加して漸次に復常ふくじょうし、書を読み、或は近傍を歩行するに至れり。然るに尊親夫婦は厚意を以て日々滋養品を交々こもごもに饗せらるるにより、漸次体力復したり。従うて精神上に於ても大に安堵ありて、日々尊徳翁の霊位を拝し、且つ遺訓と其遺れる二宮家庭を視、或は遺書を拝写して、一週間を経て体力復し、精神上の快活を得たり。為に欝を忘れ、喰気しょくけは追々増加して、一層の快を覚えたるを以て、彼家かのいえを去るに至れり。爾後は漸次に喰量を増し、食後の胃痛も無くして、心身復常せり。ああ此時に在りて誤りてむなしく床上に在て只平臥する事あらば、或は心身共に衰弱するに至るべきなり。此れ泥水の内に在て空腹にて困苦するのみならず、過度の運動するが為めに喰機を振起し、為めに心身一大変動を起すに至り、尚尊徳翁の霊前に侍したるの感動により精神上の活溌の地に進み、更に尊親夫婦の厚意の切なる喰料を饗せられたるとを感じて、夫れより二宮家と数層の親睦を厚うせり。
おなじく廿五日、寛は帰塲せり。
八月、土人イコサックル我牧塲内の熊害を防ぐ為めに居ると定めて、橋畔に小屋をかける。
三日、馬、熊害にかかる。
十五日、又一動員令下るの報あり。
二十日、寛は又一を見送るが為めに札幌に向う。
二十九日、寛は又一に面語す。
かつて将来の事を語らんと欲したるも、然れども夫れは実に大なる予が迷いたるの事たるを悟れり。戦地にいずるは、此れ死地に勇進するなり。殊に世界第一等たる強兵たるの露国に向うて為す事あるは、此れ日本男子の名誉たり。殊に我家に於ては、未だ戦地に出でたる男子無し。依て此迄は我等夫婦は世上に向うて大に恥ずる処にして、既に清国と兵を交うるの際に当ては、実に我等夫婦は大に恥ずる事あり、為めに我等夫婦は一身を苦めて出兵者及び負傷者の為めに尽すのみならず、家計の及ぶ限りを以て実行せり。然るに其後北海道に来りて牧塲にのみ傾きたるも、然れども我国に於ける露国と兵を交うる事あらば、出でて其実行に当らんとの念を以て、為めに十分に寒気に耐うるの習慣を取りて止まず。然るに奇遇にも永山将軍に親くせり。同将軍は露国に向わん事を平生語れり。且つ予に同行をすすむる事ありしも今春病死せり。依て予は独行する事は難きのみならざるをひそかに思うのみなり。然るに又一が出征せば、予は残りて牧塲を保護すべきなり。依て又一が出征は実に我家の名誉なり、予が大満足なり。故に又一には牧塲の事は一切精神上に置かずして勇んで戦地に出ずべき事死を决すべきを示すのみにて、他は决するの必要無し、依て又一が名誉の戦死あらば、第二の又一を以て素願を貫くべきとして、更に将来を議せざるなりと决して、勇みて別れたり。
十月二日、寛は帰塲す。
寛が帰塲するや、片山氏は左の現状を告げて曰く、九月廿日頃より斃馬病馬多く、既に此迄に於て殊に有数なるの馬匹を二十余頭は斃れ、尚追々病馬あり、此上は如何なるべき乎、關川獣医の説によれば、病症不明にして治療に於けるも拠るべき処なしと、依て今後は如何なる事実に陥るか。とて片山夫婦は勿論高橋富藏も共に大に苦慮して、何れも落胆の極に至り、或は各自决する事ありて一身を退かんと欲するが如く、且つ精神沈欝して共に惨憺たり。其景况たるや言語に絶したり。然るに予は帰着後未だ草鞋ばきの儘なるも、其実况を見るに実に如何とも致すべからざる事たりしにて、予も同く大落胆するのみ、且つ言うべからざるの感に打れたり。然るに予は大に决する処あり、予が共に沈衰するに至らば如何なる塲合に陥らんか、依て今後に於ける如何なる事あるも、現状を回復するには大奮起せざるに於ては、我が牧塲は忽ち瓦解に帰せんや必せりと悟りて、一同に向い大声を以て第一に片山を呼び、其他を集めて叱※(「口+它」、第3水準1-14-88)して曰く、我牧塲の現状を恐るる者あらば、ただちに我牧塲を立退けよ、とて大に怒鳴りて衆に告げたり。且つ曰く、予は生活する間は决して此牧塲を退かざるなり、予は生活する間はココを退かずして、仮令たとえ一人にても止まりて牛馬の全斃を待つ。尚語を継ぎ曰く、全斃の後に至り斃馬の霊を弔わんと欲するなり、し幸にして一頭にても残るあらば後栄の方法を設くべし、我等夫婦が素願を貫くの道なりと信じて動かざるなり、幸にして種牡馬たねうま二頭は無事なり、依て此上に病馬あらば、十分に加療を施して死に至らしむるこそ、馬匹に対するの大義務たるべきなり、予は老体をわすれて尚活溌に至らんと欲するなり、かつて札幌に於ては又一が出兵するを以て、其不在中は全く独立自営を主とし、官馬を返納して一家計を細く立て、其及ぶ限を取らんと决したるも、ココにいたっては官馬は斃るるも、我牧塲と共に予も死する迄として実行すべきを决したるを告げて、大に一同を責めたり。然るに片山初め一同は、予と同情を以て大奮励するとして、いずれも予が説に伏して、初めて復常するに至れり。ああ此時に於て予も共にうれいに沈みて活気を失う事あらば、或は瓦解に至る事あらん乎。此れを熟考する時は、予が如き愚なるも平生潔白正直を取るの応報として、冥々裡めいめいりに於て予を恵みたるかを覚えたり。実に予が愚なるもかかる断乎だんこたる説をたてたるを感謝す。かかる数回すかいの厄難を重ねたるは、此れ天恵の厚き試験たるを感悟して、老朽に尚勇あらん事を怠らざるなり。
四日、斃馬一頭あり。
五日、今日こんにちに至り病馬全く無きに至れり。内祝として餅をつく。
今日に至り病馬無く、且つ一般の順序を得るを喜びて、
西風吹送野望清せいふうふきおくるやぼうきよし 万樹紅黄色更明ばんじゅのこうこういろさらにあきらかなり
扶杖草鞋移歩処ふじょうそうあほをうつすのところ 只聞山鳥与渓声ただきくさんちょうとけいせいと
此れより層一層の勤倹を守り、一身を苦境に置くに勇進せり。
十九日、瑞※(「日+章」、第3水準1-85-37)種牡馬たねおうまの検査合格、十勝国一等の評あり。
十二月二十日、寛は七福の夢あり。

牛十四頭
馬六十七頭 今年斃馬五十六頭なり

      (四)

明治三十八年
一月一日
昨三十七年は我家わがいえの大厄難たるも、幸にして漸く維持を得たるを以て、尚本年は最も正直と勤倹とを実行し且つ傭人やといにん等に成丈なるたけ便宜を与えん事を怠らず、更に土人及び近傍の農家にも幸福なる順序を得せしめん事に勤め。特に寛は七十六歳にして、昨年数回の病に罹るも、今日に至てはすこやかにして、且つ本年は初めて牧塲の越年たるを以て、如何なる事あらんかと一同配慮するも、寒さにも耐えて、氷結の初めより暁夕毎ぎょうせきごと堅氷けんぴょうを砕き、或は雪を踏んで一日いちじつ二回は習慣たる冷水灌漑を実行し止まざるはうれし。又一は入営兵の留主中るすちゅうたるも、先ず牧塲の無事に維持あるを謝すると、尚本年は無事に経過あらん事を祈ると共に、最も衣喰を初め仮令たとい僅少にても節約を守り、物品金員を貯えて牧塲費に当てて、又一が無事に帰るの後には、更に幾分かの助けたらん事を日夜怠らざるなり。
寛は昨秋さくあきより不消化の為めに悩む事あり。其後は喰慾は復するも、然れども大に喰量を※[#「冫+咸」、220-5]ずるのみならず、昨年迄は硬き喰料黍飯等を食するに好んで用いたりしに、其後はすこしく硬きもの黍飯等を用うる時は、必ず胃痛下痢等を発する事となりたり。然るに一月三ヶ日間は、祝として黍餅を雑煮として喰したりしに、三日の夜大に胃痛にてくるしめり。依て四日間は粥汁おもゆのみを喰して復常するを得たり。然れども昨年よりは、一身は大に平均を失うて起居動作には頗る困難を覚ゆるのみならず、記憶力及び考慮の上に於ても、大に※[#「冫+咸」、220-11]乏を覚うるの外に、消化器の機能も衰えて、少く硬き品を喰する時は、忽ち胃痛を発し嘔吐下痢する事ありて、総体に於ける衰弱するを覚えたり。乍去さりながらしいて注意して運動を怠らず、更に喰料にも成丈やわらかきものを選み、且つ量に於ても三分一を※[#「冫+咸」、221-2]ずるとして、夕飯は必ず後四時として粥を用い、菜は淡泊なるものを用うるとせり。此れにて次第に平均を得るも、尚注意して漸次に復常を得たり。然るに他処にいずる時は、余儀無く喰するの時をあやまり、或は硬き飯及び不消化物を食する時は、胃痛下痢を発するには殆んど困却せり。依て一日いちじつの旅行には弁当を携え、一泊する時は前以て粥と時間を早くするとを頼むとして、注意を怠らざるのみ。依て次第に心身共に復常するを得たり。アア老境は実にアワレなり。依て世上の壮年者に忠告す。人たる者は必ずや盛衰の範囲を脱する事能わず。夫れ発育期を経て成熟期に至れば、続いて老衰期のきたるを能く銘記せよ。老人たるや肉喰と絹服けんふくとにあらずんば養うに足らずとは、古きよりおしえたり。実に然り。喰物は歯にて噛む事能わず。着類も重きに耐えざるなり。故に壮年者は老人に対するの責任たるを忘るべからざるなり。尚此れより最も注意すべきは精神上に於ける無形の感動なり。そもそも人たる者は、肉体よりも無形たる精神上の或感動は忽ちにして凋衰ちょうすいきたす事多きのみならず、或は死に至る事あり。故に老人に対しては安慰と快楽とを与うるは壮年者の大責任たり。依て安慰、滋養品、運動とのみつは、実に相待あいまってこそ長寿すべきを能く銘記あらんことを祈る。寛は幸にして此みっつを以てするに怠らず。幸にして精神上の安慰と滋養品とは、能く家族の注意ありて、絶えず実行を持長じちょうせり。依て此際は自ら運動の為めに、或は紙張物、或は雪中歩行等にて運動を怠らず。且つ病者のきたるを喜んで診療するを勤め、尚好む処のうたいと鼓とを以てたのしみとせり。二月、亡妻の白骨を納むるの装飾ある外囲の箱を片山氏は作る。出来上るを以て、餅をつき霊前に供し、一同に饗したり。
十日、雪深くして歩行して河に至る事能わざるを以て、冷水灌漑に換うるに雪中に転ぶ。
三月、寛は種痘の為めに諸方に行く。
六月、寛は伏古ふしこの地を検し、帰路落馬せり。然るに幸にして負傷する事無きも、然れども老体の負傷あらば或は大に恐れあるを感じたるを以て、今後は乗馬を止むるとせり。
此際は寛はよもぎわらびを採るに野にいずるも、亦他の人も蒔付に出るも、小虫は一昨年に比すればなかばを※[#「冫+咸」、223-7]じたり。昨年は大厄難たるを以て、小虫の事は深く心に置かざるも、本年は無事たるを以て、又々小虫の事を彼此と唱うるに至れり。
七月、寛は海水浴として釧路に向う。九日に帰塲す。
廿八日、又一出征の報あり。
此際にの希望を企てたり。
  積善社せきぜんしゃ趣意書
維昔むかし天孫豊葦原を鎮め給いしより、文化東漸とうぜんし、今や北海辺隅へんぐうに至る迄億兆ひとしく至仁じじん皇沢こうたくに浴せざるものなし。我が一家亦世々其恵を受け、祖先の勤功と父母の労苦とに由り今日あるを致せり。あにさいわいならずや。されば我等かみは国恩を感謝し、祖先の神霊を慰し、父母に孝養を厚うし、しもは子孫の教育を厳にし、永遠なる幸福の基礎を定め、勤倹平和なる家庭と社会とを立てん事を謀らざるべからず。
然るに人生の複雑なる、安危交錯して、吾人の家庭と社会とにしばしば不測の惨禍を起して其調和を失うことを免れず。思うに人生の惨禍は、の厄難屡来りて遂に貧に陥り、るに家無く、着るに衣無く、くらうに食無く、加うるに宿痾しゅくあに侵され、或は軽蔑せられ、人生に望を失うものよりはなはだしきはなからん。しかして其由来する所をたずぬれば、多くは自ら招くものなれど、事ここに至りては自ら其非をさとるといえども、其非を改むる力なく、或は自暴自棄となりてますます悪事を為すあり、或はむなしく悲歎して世を恨み人を怨むものあり。其惨状実に憐憫に堪えざるものあり。是れを救済し、其生活を安全ならしむるは、誠に人生の一大善根にして、もとより容易の業にあらずと雖ども、吾人は其小を積み止まず遂に其大を致さむ事をつとめざるからず。かくの如くにして初めて吾人の目的にちかづくことをべきなり。
我家わがいえは北海道十勝国とかちのくに中川ごおり本別村ぽんべつむらあざ斗満の僻地に牧塲を設置し、塲内に農家を移し、力行りょっこう自ら持し、仁愛人を助くることを特色とし、永遠の基礎を確定したる農牧村落を興し、以て此れに勤倹平和なる家庭と社会とを造らん事を期せり。コレ実に迂老うろう至願しがんなりとす。迂老は幼にして貧、長じて医を学び、紀伊国きいのくに濱口梧陵翁はまぐちごりょうおうの愛護を受け、幸に一家を興すことを得たりといえども、僅に一家を維持し得たるのみにして、世の救済については一毫いちごうも貢献する所なし。今に至り初めて大に悟る所あり。自らかえりみるときは不徳※才ひさい[#「菲/一」、226-2]ことこころざしたがうこと多しと雖、しかも寸善を積みて止まざるときは、いずれの日必成ひっせいの期あるべきを信ずる事深し。すなわち先ずコレを我牧農の小村落に実施し、いて他に及ぼさんことを期し、コレを積善社と名づく。およそ我社中の人には、労苦を甘んじ、費用を節し、日々若干金を貯えて、コレを共同の救済集金とし、以て社中に安心を与え、かみは国恩を感謝し、祖先の神霊を慰し、父母の孝養を厚うし、しもは子孫の教育を厳にし、永遠なる幸福の基礎を定め、勤倹平和なる家庭と社会とを立て得るに至らん事を祈るなり。
明治三十八年 積善社発起 七十六老 白里はくり 關寛
此際亦胃痛あり。
八日、又一出征の報あり。依て餅をつきて祝う。
創世記を読み、創業を銘記せり。
十月一日いちじつ、清水沢にて紅葉を観る。帰路迷う。一同に心配をかける。
十五日、寛は足寄帯広方面に出で、二宮農塲に滞留。
十一月、寛は六日帰塲す。
此際約百記ヨブきを読み、牧塲維持の困難を悟る。

      (五)

明治三十九年一月一日
例により斗満川の氷を破り、氷水ひょうすいに入り、灌漑して爽快を覚えて、老子経を読み、の語の妙味を感ぜり。
不失其所者久そのところをうしなわざるものはひさしく、 死而不亡者寿ししてほろびざるものはいのちながし
十九日、雪深くして川に行く事難し。依て雪中に転んで灌漑に代う。
二十日、瑞※(「日+章」、第3水準1-85-37)と北宝とが前脚ぜんきゃくを挙げてあだかも相撲の如くして遊ぶを見てたのしめり。
三月十日、栃内とちうち氏より電報あり、又一室蘭迄帰ると。
赤飯を製して一同に祝せり。
三十日、川氷解け初めたり。
四月四日より日々南方を眺め、或はニタトロマップ迄行きて、又一が帰るを待つ。
十三日、後二時、又一無事帰塲す。

底本:「命の洗濯」警醒社書店
   1912(明治45)年3月12日初版発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「減」と「※[#「冫+咸」]、「恥」と「耻」の混在は、底本通りです。
入力:小林繁雄
校正:土屋隆
2005年3月16日作成
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