一、天機らすべからず花合戦の駆引き。駘蕩たいとうたる紺碧の波に浮ぶ、ここは「ニース突堤遊楽館カジノ・ド・ラ・ジュテ・ド・ニース」の華麗なる海上大食堂。玻璃ガラス張りの天蓋まるてんじょうを透して降りそそぐ煦々くくたる二月の春光を浴びながら、歓談笑発して午餐に耽る凡百の面々を眺め渡せば、これはさながら魑魅魍魎ちみもうりょうの大懇親会。凝血腸詰ブウダンをほおばる天使長ガブリエル、泰然と大海老オマアせせ馬糞ばふん紙製の小豚、スウプをふき出す青面黒衣の吸血鬼ヴァンピール、共喰いをする西洋独活アスペルジュ、呂律のまわらぬライン葡萄酒の大樽、支那茶を吸い込む象の首、――飲むさ喰うさの伴奏あいのてには、謝肉祭キャルナヴァル山車だしの品定め、仮装行列の趣向の月旦、祭典競馬の優勝馬の予想、オペラ座にて催される大異装舞踏会ヴェグリオーヌ仮装服ドミノの相談、ヴェニス王女の御艶聞、イヴァン・モジュウヒンの御挨拶の前景気、と、いつ果てるともみえない鴉舌綺語げきぜつきご。さるにても、季節中の魅惑たる花合戦、花馬車競技も、もはや旬日の間に迫ったることとて、衆口談柄だんぺいは期せずしてその品隙とりざたに移って行く。
 花馬車品評会とは謝肉祭キャルナヴァル中の大呼物、贅沢中の贅沢、粋と流行の親玉。名花珍草をもって軽軻けいかを飾るに趣向をもってし、新奇を競い、豪奢を誇り、わずか数時間のお馬車の遊行に、数万フランをなげうって恬然てんぜんたるは常住茶飯事まいどのこと。合衆国河岸がしに雲集する紳士淑女と高価なる花束を投げ合い、さて軽歩して競技場スタアドに至れば、数十人の気むずかしき審査員は、花の取合せ、幻想おもいつきの巧拙、搭乗者のりて雀斑そばかすの有無、馬の顔の長さまで詮索あげつらって、いずれも一点非の打つところなきを第一等として、金五千フランと名誉のむちを授与するほか、今年の優勝者は来年の謝肉祭キャルナヴァルに市賓として招待され、花馬車競技の会長たるの名誉をも与えようという華々しき規定さだめゆえ、もとより金銭かねに糸目をつけぬ封侯富豪、我れこそは今年の一等賞を獲得して、金銭に換え難き光栄をいだき取ろうと、額をたたきあごを撫でて珍趣妙案の捻出に焦慮瘠身するも道理ことわり※(歌記号、1-3-28)大人モンセニュウル、今年の御趣向はもはや御決定になりましたか。ひとつ御披露願いたいもので。※(歌記号、1-3-28)ナニ、天機もらすべからずサ。実物を見たまえ実物を見たまえ。※(歌記号、1-3-28)閣下ジェネラル、今年はキャヴァリエールの方面までお手を伸されたそうですが、花畠の買占めはチト横暴ですナ。※(歌記号、1-3-28)先んずれば人を制すサ。貴公もおおいに戦略を用いて対抗するがよかろう。※(歌記号、1-3-28)御内室マダム、今年のお馬車の標題は何と申しますネ。※(歌記号、1-3-28)はい、「天国の夢」と申します。素馨ジャサントの天使にリラの竪琴を飾るつもりでございますヨ。※(歌記号、1-3-28)では、手前は一枚上手うわてをいって、「地獄の番卒」とでもいたしましょうかネ。――喧々囂々がやがやもうもう、耳をろうするばかり。
 すると、ここに、海ぞいの窓ぎわに席を占めた男女二人の若き東洋人、満堂の噪聒そうてん乱語を空吹く風と聞き流し、※(歌記号、1-3-28)ナニ、花馬車の一等賞はこっちのものサ。と、ゆうゆうと冷凍菓子グラスをすすっているのは、どうやら子細しさいありげな有様であった。
 やがて、午後一時四十分、ニースはランピア港の税関河岸がしを離れたコルシカ島行きの遊覧船は、粋士佳人を満載して、かもめまごう白き船体に碧波を映しながら、遊楽館カジノの大玻璃窓はりまどの中に姿を現わし来たる。折しもあれやバロン山で打ち出す三発の号砲は、午後二時より催される謝肉祭仮装大行進発程の合図。満堂の異形の群集は、あからひくあけぼのの光に追われし精霊すだまのごとく、騒然どやどやと先を争って、廻転扉の隙間からかき消すごとく姿は消えて跡白浪あとしらなみ
 二、踊り踊るならマッセナの広場で。一月上旬の顕出節エピファニイから、五月下旬の基督昇天祭アッサンシオンまで、碧瑠璃海岸コオト・ダジュウル一帯に連る名だたる遊覧地、――就中とりわけて、ニース市は約半歳の間、昼夜を分たぬ大遊楽、大饗宴の熱閙ねっとうと化するのが毎年の恒例。空には花火、地には大砲、日がな毎日どんどん・ぱちぱち。ヴェニス提灯、大炬アーク灯。疲れをしらぬ真鍮楽隊。キャフェの卓には三鞭酒の噴泉、旗亭の食料庫には鵞鳥と伊勢海老の大堤防。昼は百余の山車だしの行進、花合戦。夜はオペラの異装舞踏会ヴェグリオーヌ市立遊楽会カジノ・ミュニシバル仮装会ルドウト。それでも足らずにマッセナの大広場を公開して、踊ろうと跳ねようと勝手にまかす。ニース全市は湧き返るような大混雑、大盛況。有銭無銭の大群集は、それぞれ費用と場所をわきまえて、ただもう一さい夢中に法楽する。――虚空こくうに花降り音楽きこえ、霊香れいきょう四方よもくんずる、これぞ現世極楽の一大顕出エピファニイ

 さるにても同行タヌキ嬢の虐待酷使を受け、ついに心神耗弱したるコントラ・バスの研究生きつねのコン吉氏は、その脳神経に栄養を与えるため、常春とこはる碧瑠璃海岸コオト・ダジュウルに向けて巴里パリーを出発したが、その途中において数々の不可解なる事件に遭遇。かてて加えて、芬蘭土フィンランドの大公爵と自称する、マルセイユ市の馬具商、当時、南海サン・マルセルの精神病院メエゾン・ド・サンテ在住のモンド氏なる人物に逅遇かいぐう。神秘的なる生活を余儀なくされ、涙ぐましき因縁いんねんにより一時は中華民国人にまでなりあがり、はなはだ光栄ある日夜を送っていたが、幸いモンド氏も納まるところに納まり、このぶんではどうやら一命は取り止めた、と、ホッと一息。されば今度このたびこの地において花馬車競技があるというにより、日本人と中華民国人の微妙なる差別を広く一般に示すはこの時なり。是が非でも一等賞を獲得し、かたがたもっていささか皇国みくにの光を異境に発揚せずんばあるべからず、とコン吉においてはタヌもろ共、ああでもない、こうでもない、「首」ひねったあげく、やがて妙趣天来。念を入れたうえにも念を入れ、手配り万般、ここに相整いまして、いまやその日を待つばかり。
 三、白地に赤き日の丸の旗翻るニース海岸。合衆国河岸ケエ・デゼ・ダシュニに沿って今日の花合戦のために仮設されたる※(4分の1、1-9-19)キロ三階の大桟敷トリビュウヌ。花馬車はすなわちこの桟敷さじきの前を軽歩して、桟敷の貴縉きけん紳士と花束の投げ合いをしようという仕組み。さるにても花馬車には、欧米に名だたる美形佳人が搭乗するのが古来の法式ゆえ、ふらんす・あるまん・あんぐれい、秀才・豚児の嫌いなく、このに来たり合わしつる身の妙果。世界に著名なだかき美人のお手から、せめて腐れたすみれの花束でも、一つ投げられて終生の護符おまもりにしよう、席料の三百フラン、五百法は嫌うところにあらず、とのぼせあがってぞ控えたり。花束に未練はあっても出費ついえを好まぬ温和なる人々は、アルベエル一世公園を貫く車道の両側にて、一脚五法の貸し椅子に納まり、そのうしろにして、爪立つまだちしてなお及ばざるは音楽堂の屋根、または棕櫚しゅろの幹、噴水盤の頭蓋あたまなどによじ登り、「花と美人の会合ランデブ」を、せめてその眼にて瞥見し、もっぱら後学のたしにしようと、まだ明けやらぬ五時ごろからひしめき集う大衆無慮数万。碧瑠璃海岸コオト・ダジュウルの人口をことごとくここに集めたかと思わるる盛況。
 やがて定刻間近く檸檬シトロン夾竹桃ロオリエ・ロオズにおおわれたるボロン山の堡塁ほうるいより、漆を塗ったるがごとき南方あい中空なかぞらめがけて、加農砲キャノン一発、轟然どうんとぶっ放せば、駿馬しゅんめをつなぎたる花馬車、宝石にもまごう花自動車、アルプス猟騎兵第二十四連隊の軍楽隊ファンファールを先登に、しずしずと競技道路スタアドに乗り込み来る。まっ先に登場したのは、「王室の象エレファント・ロワイヤル」と名づけし、ミラノの自動車王グラチアニ夫妻の花馬車。四頭の白馬にひかせた四輪馬車ファイトンの上には、白色のフランス大薔薇と珍種の蘭をもって作りたる巨象をすえ付け、その背には、薄紗うすしゃ面怕ヤシマックをつけたアフガニスタンのバレエム王女が乗っている。その次に立ち現われたのは、族館「地中海宮パレエ・ド・ラ・メディティラネ」の「大鳥籠ヴォリエール」と名付けし二輪馬車ヴィクトリヤ。空色の香紫欄花ジロツフレ瑠璃草ミオティスで作った鳥籠の中でさえずるのは駒鳥にあらで、水仙黄ナルシス・ジョオヌの散歩服に黒天鵞絨ビロウドの帯をしたる美貌の閨秀けいしゅう詩人オウジエ嬢。続いて亜米利加アメリカの百万長者ビュフォン夫人の「金の胡蝶」、聖林ハリウッドの大女優リカルド・コルテスの「ゴンドラ」、ドイネの名家ド・リュール夫人の「路易ルイ十五世時代の花籠」、……清楚なるもの、濃艶なるもの、紫花紅草、朱唇緑眉、いずれが花かと見まごうまでに、百花繚乱と咲き誇る。期せずして桟敷さじきの上よりは、ミモザの花、巴旦杏アマンドの枝、すみれ・鈴蘭・チュウリップと、手当り任せに投げつければ、車上なるはかねて用意の花束に、熱き接吻を一つ添え目ざす方へと返礼する。桟敷の上では、これをつかもうと乗り出して墜落する奴、帽子を飛ばして禿頭を露出する奴、採取網を振り廻して、他人の頭にこぶをこしらえる奴、てんやわんやの大騒ぎ。
 すると、この大騒動のまっただ中へ、耳をろうするばかりの轟々ごうごうたるエンジンの地響を打たせ、威風堂々と乗り込み来たったのは、豪猪やまあらしの如き鋭いとげうごめかす巨大なる野生仙人掌さぼてんをもって、全身隙間なくよろいたる一台の植物性大戦車タンク。アレアレッと驚き見まもる暇もなく、砲塔をゆるやかに旋回させ、八センチ速射砲の無気味ぶきみなる砲口を桟敷の中央に向けたと思うと、来賓席の二段目を目がけて、たちまち打ち出す薔薇やアネモネの炸裂弾。息もつかせぬ釣瓶打つるべうち。桟敷の上からも棕櫚しゅろの木のてっぺんからも、たちまち起こるブラヴォ、ブラヴァの声。湧き返るような大喝采だいかっさい、大歓呼のうちに、やがて、砲塔の円蓋を排して現われたのは、眉美まみうるわしき一人の東洋的令嬢にほんのおじょうさん撫子染なでしこぞめの長き振袖に、花山車はなだしを織り出したる金繍きんらんの帯を締め、銀扇を高くかざしていたったるは、花束もてこの扇を射よとの心であろう。倨然ぎぜんたる戦車タンクの後尾に樹てられし旗竿には、ああ、南仏の春風に翩翻へんぽんと翻る日章旗。
 四、五人目の祝賀客は波蘭土ポーランド製のアイス・クリーム。紹介もなく突然お邪魔にあがりました失礼は、どうぞ謝肉祭キャルナヴァルに免じておゆるし下さいませ。それと申しますのは、私は突然、今晩遠いところへ旅立ちしなくてはならぬことになったからでございますの。ずっと、ずっと、ずウっと遠いところなんでございます。それはさて、私は一昨日おととい、お両人ふたり様と[#「お両人ふたり様と」は底本では「おふたり人様と」]花馬事の一等賞を争いました「生きた花馬車」でございます。いいえ、つまり、そのマダム・ルウジュなんでございますの。本当に惜しいところで敗北いたしましたが、でも、もちろんでございますわ、審判官ジュリイの眼に狂いはございません。お両人ふたりの「花園を護るものギャルディアン・ド・ジャルダン」に比べましたら、私の花馬車などは、蘭の前の菠薐草ほうれんそうのようなものでございます。でも、ただ一つご記憶を願いたいのは、お両人ふたりの花馬車がございませんでしたら、私の「生きた花馬車」は、きっと一等になっていた、ということでございます。ああ、五千フランの賞金! まるで夢のようでございますわ。わずか一点の差で勝ったものと敗れたもの、……つまり、五千フラン対零フランの二人の競走者リヴァルが、こうして卓を隔てて会話をいたすと申しますのも、何かの因縁いんねんでございましょうから、なにもかも打ち明けてお話しいたしましょう。何を隠しましょう。私は今晩凍死をして自殺する決心なのでございます。私は先刻さきほど、大桶に一杯のアイス・クリームを部屋に取り寄せておきました。それを皆喰べてしまいましたら、そっと料理場へ降りて行って冷蔵庫へ入り外から錠をおろしてしまいます。すると、有難いことには、私は明日あすの朝までには、多分アイス・クリームで作った人魚のようにコチコチに固まっているのに違いありません。そして、ホテルの料理番は私のっぺたを一さじ喰べて見て、「おや、これは上出来だ」などと申すことでございましょう。いいえ、どうかおめにならないで下さいまし。私はどうしてもこの世に生き長らえていることのできぬ身体からだなのでございます。まあ! 本当にお優しいお嬢さま。……では、ご親切に甘えまして何もかもお話し申しあげてしまいます。何を隠しましょう。私はこの一月に二十万ズロオチイ、つまり二十万フランを持ってモンテ・キャアロに参りました。実はこれを百倍にして波蘭土ぽーらんどの戦債を払うつもりだったのでございます。さて、球賭盤ルウレットの象牙玉に連れて廻る、人の運などというものは、本当に不思議なものでございますわ。一時は十五万フラン以上も勝ち越して、「凄腕の波蘭土女ポロネエズ・テリイブル」とまで綽名あだなされた私も、落目になると恐ろしいもので、赤へ賭ければ黒と出る、3へ張れば4と出るというわけで、勝ちあげた十五万法は朝日の前の霜と消える。そうなるとあせるからたまりません。覚えのない三十トランテ四十キャラントをやる、銀行賭博バカラをやる、手持ちの二十万法は、たった三日のうちに、みな指の間からずり落ちて、残ったのがわずか三百法。そこで思い付いたのがこの花馬車競技でございます。一等賞を取れば五千法。……これに限ると、四輪馬車に馭者ぎょしゃをつけて一日二百五十法で借り、「生きた花馬車」を作りました。もともと花を買う金などはないので、花は、――薔薇の模様の着物を着た、つまり私自身なんでございました。さて、その後の次第はもうお話申しあげるまでもないことでございます。ただ今手元にありますのは、五十文サンカンサンチームの真鍮玉一つ。……ここにおりますのは、夜会服ソワレを着た乞食でございます。でも、私は満足でございますわ。世にも名高いニースの花合戦に加わり、一等を争って敗れたのでございますもの。天晴あっぱれ華々しい最後と申してよろしゅうございましょう。では、アイス・クリームの溶けぬうちに、そろそろおいとまいたします。はなはだ勝手でございますが、これで失礼させていただきとう存じます。はい、何でございますか? ワルソオへ帰りますには、三千法もあれば充分なのでございます。ああ、懐かしいヴィスチュウルの河よ! ちっちゃな電車よ! 私の金糸鳥カナリヤよ! さようなら。二十八歳まで生きて来て、そう、アイス・クリームになってこの世を去りますのも、みな神様の思召おぼしめしでございます。ではご機嫌よう。冷蔵庫の中からお幸福しあわせをお祈りいたします。あの、なんとおっしゃいます? いいえ、とんでもない。どうして私が、見ず知らずのお両人ふたりさまから、三千法などという大金をちょうだいできましょう。そんなことを致しますくらいなら、この窓から飛び下りて死んだ方がましでございます。どうぞご心配無用に、……有難うございます、けれども、……なんというご親切……まるで夢のようで、夢ならばどうぞめませんように、……はい、はい、ではお言葉に甘えまして有難くちょうだいいたします。……このご返礼と申すわけではございませんが、お両人ふたりさまに幸福の鍵を一つお譲りいたしとうございます。「明日午後二時」、オテル・リッツの一〇一号室をお訪ね下さいまし。そこで非常な幸運に廻り合うことがおできになりましょう。……一〇一号室でございますよ。どうぞ、お間違いなく。
 五、「招けば来る森羅万象」の秘法。アフリカの叢林ジャングルもかくやと思うばかりに、棕櫚しゅろの大鉢を並べ立てた薄暗い部屋の隅から、「これは、これは、ようこそ御入来」といいながら立ちあがって来た、眼の鋭い、三十五六歳の白皙美髯はくせきびぜんの紳士。床に額を打ちつけるほどうやうやしく一しゅうした後、「花馬車一等賞万歳! まずもって祝着しゅうちゃくの至りに存じます。……さて、手前がつまりご紹介にあずかりました一〇一号室でございます。お国の安南アンナンには、併合前六ヵ月ほど滞留いたしまして、キャオ・ワン・チュウ殿下のご知遇をかたじけなくいたしました。時に、両殿下には、今日はいかような御用向きで御高来くださいましたか」と、たずねた。タヌは、急に安南アンナンの女王のような重々しい声で、「君は『幸福の鍵』ってのを持っているそうですが、本当ですか」と、ご下問になった。すると、一〇一号氏は、うわッと一礼してから、
「いかにも仰せの通りでございます。しかし、それは鍵と申しましても、鋳物で作った鍵ではございませン。つまり、幸福を握る秘訣といったようなものでございますヨ。一口に申しますとですナ。無限に金を儲ける術でございます。……一九二五年のことでございますヨ。手前は交趾支那こうちしな安交アンコオルから暹羅シャム迷蘭メエランク地方へ猛獣狩りに参りました。するてえと、ある夏の暑い日でしたナ。ちょっとした水溜りのわきへ『虎落し』を仕掛け、米の樹のそばで銃を構え、虎が水を飲みに来るのを待ってると、近くで怪しいうなり声がするんですナ。近寄って見ると、まるで玉蜀黍とうもろこしくきのようにやせた百五六十歳の老人が、日射病にやられて苦しんでいるのですヨ。そこであり合せの兎の足で喉を撫でたり、はすの葉っぱで頭を包んでやったり、いろいろ介抱しましたら、それでどうにか一命は取り留めたんですナ。非常に感謝しましてネ。教えてくれたのがこの術なんです。つまり、五フィート以内にある物体なら、なんでも手元へ呼び寄せることができるんですナ」
 といいながら、チョッキの衣嚢かくしから、朱色の模擬貨幣ジュットンを取り出して、大きな白鳥を薄浮彫すかしぼりした机の上に置いた。
「これはモンテ・カルロの球賭盤ルウレットに使う百フラン模擬貨幣ジュットンですがネ、手前が呪文を唱えると、ヤッと掌の中へ飛び帰って来るんですナ。……つまり、これが無限に金を儲ける方法」といって、眼を細めながら、「時に両殿下には球賭盤ルウレットをなすったことがおありですかネ」とたずねた。
「いいえ、まだよ。もっとも護謨球賭戯ラ・ブウルなら、やったことがあるけど……」と、タヌが答えると、
「いや、おやめになった方がいいですナ。一体球賭盤ルウレット必勝法システムには、たとえばシャルル・アンリの倍賭法パロリ、アランベエルの早見法バレエム、ウエルスの勝ち乗り法モンタントなぞと、およそ一万もありますが、計算カルキュウル罫線フィギュウルで勝てるわけがないんですヨ。一体話がおかし過ぎますテ。ところが、この手前の方法は負けるということがない。そして無限に勝つ。……いいですか。たとえば、こいつをどこでもかまわない3なら3へ張る。すると不幸にして、まあ27が出る。その瞬間ですヨ。一座の注意が、球賭盤ルウレットの文字板に集まっている瞬間に呪文を唱えてヒョイとそいつを手の中へ呼び返してしまう。もし、都合よく張った3が出たら、そのままにしておいて三十五倍の支払いを受ける。……百フランの三十五倍で、つまり一挙にして三千五百法ですナ、どうです、負ければ引っ込ます。勝てば支払わせる。……百戦百勝、絶対に負けなし、というのがこの術です。アランベエル君出直して来い! でサ」
 コン吉は、もはや大乗り気。昂奮で狐面を赤らめながら、
「なるほど、これは絶対ですな。大勝利、大勝利」と、しきりにうなずくと、タヌも、
「まあたいした術ね。一目瞭然だわ」と、心からなる感嘆の声をあげる。
 一〇一号は、我が意を得たりというふうに、薄い唇をほころばせながら、
「お望みならご伝授申しますヨ。なにしろ私は安南おくにの王様にいろいろお世話になった。また、この方法も東洋で伝授されたものです。つまり、東洋に対する報恩の一端として、いさぎよく御伝授しましょう。無料ということが、両殿下の御気性として、御意にかないませんなら、金銭のお礼も申し受けましょう。ただし、額はきめません。両殿下の誠意、――換言すればですナ、そこに御所持の金額を全部、最後の五文アンスウまでここへ御提供くださいナ。その誠意さえお示し下さるなら、喜んで御伝授いたしますヨ。東洋のものを東洋へ返すのです。決してケチなことは申しませんヨ」
 タヌは息をはずませ、感謝の志を満面に表わしながら、
「ま、本当にご親切ですわ。……ええ、財布の底を払って誠意を示しますよ。では、早速ですけど、ここに三千フランと、ほかに二十六法あってよ。さ、これで全部」と、机の上へ押しつけるように紙幣を並べる。
「コン吉、さ、あんたも皆出したまえ」
 コン吉は、
「おいきた」と、勇み立って、あちらこちらの衣嚢かくしから、五十法紙幣さつ一枚、十法二枚、二法真鍮貨二つ、と、探し出しそれから日本の郵便切手を三枚景物に添えて机の上へ並べた。
 一〇一号は懐疑的な眼付で、じろじろ二人の様子を見ていたが、どうやら両人ふたりが、最後の五文アンスウまで出し切った様子を見定めると、紙幣を財布へ納めてから、
「よろしい。では、始めます」と、いって模擬貨幣ジュットンを浮彫りの白鳥の眼玉の上に載せた。
「よろしいですか。この呪文は暹羅シャム語で、(アルス・ロンガ・ヴイタ・ヴレヴイス)というのですが、モナコの模擬貨幣ジュットンシャム語を知ってるはずはありません。そこでこれを翻訳して、Gar※(セディラ付きC小文字)on, Viens iciギャルソン・ヴィアン・イシイ!(小僧や、ここへおいで!)と、こういうのです。この兎の足でもって三遍鼻の頭を撫でてから、なるたけ大きな声でこの呪文を唱えるのですヨ。論より証拠。一つやってみましょう」
 そこで一〇一号は、樺色の野兎の足で、うやうやしく鼻の頭を三度撫で、
Gar※(セディラ付きC小文字)on, Viens iciギャルソン・ヴィアン・イシイ!」と、叫ぶと、不思議や模擬貨幣ジュットンは、まるで生き物のように、目にも見えない速さでテーブルの上から躍りあがり、待ち構えている一〇一号のてのひらの中へ飛び込んで来た。
「さ、両殿下も一つ実験して御覧じろ。模擬貨幣ジュットンに聞えるように、なるたけ大きなお声で。……よろしいですナ。模擬貨幣ジュットンをキチンと白鳥の眼玉の上へ置いて。……そうそう、その通りですヨ」
 六、大は小を兼ぬ粗布製の手提てさげ金庫。亡者を地獄へ送り込む火の車のように、めざましい焔色ほのおいろに塗り立てたモンテ・カルロ行きの乗合自動車は、橄欖かんらんの林と竜舌蘭りゅうぜつらんと別荘を浮彫りにしてフエラの岬を右に見て、パガナグリア山のすそ纒繞てんじょうする九折つづらおりの道を、目まぐるしいほどの疾駆を続けてゆく。
 コン吉は世界に名高きこのコルニッシュの勝景も眼に入らばこそ、広漠たる幸運の平野のまっただ中で、ただもう一さい夢中に逆上し、取り留めない空想の足踏みをするばかり。
「なにしろ、十フランでやって一回勝てば三百五十法、百回で三万五千法か……うわア、とんでもないことになった。ア、スチャチャンのチャン……」と、昨夜ゆうべからの計算を、また飽きもせず繰り返してはしゃぎ立てると、タヌはいまいましそうな顔で、
「君はずいぶんおたんちんね。十法なんてそんなまだるっこいことでどうするもんですか。いきなり千法で始めるのよ。突撃よ。つまり、日モナ戦争だわ。陸軍の比率は百対零よ。それに新兵器でしょう。(小僧や、ここへおいで!)よ、驚くもんですか」と、叱呼しっこしながら、シャルムウズの袖をまくり、河童頭かっぱあたまを一振り振って勢い立ったる有様は、さながらシノンの野におけるジャンヌ・ダルクのごとく意気沖天のおもむきがあった。コン吉は膝を打って、
「お! それは名案だね。一回勝てば三万五千法、百回で三百五十万法。……するとなんだね、三日もカジノへ通ったら、モナコ公国の国庫は破産することになりはしないかね」
 タヌは快心の笑をもらしながら、
「そうよ。そのくらいでたいてい店仕舞みせじまいになるわね。ベネガスクとコンダミイヌの没落よ。なんでも持っていらっしゃい。みな抵当に取ってあげるわ。グリマルディ城、よし来た。プランセス・アリス号、よろしい。海洋博物館、※(セディラ付きC小文字)avaけっこう よ。ルウドウィック二世君、……これはすこし困るわね」
 余りにも過激なタヌの威勢に、コン吉はいささか不安になったものか、急に声をひそめ、
「しかし、そうむやみに勝っていいものかね。噂によれば、大勝ちしたら生きては帰れないともいうが、せっかく勝ったところでズドンなんてのは有難くないからね。なにしろ、命あっての物種ものだねだ」と、弱音よわねを吹くと、タヌは、情けなそうにコン吉をみつめてから、
「君の真綿のチョッキには、金比羅様こんぴらさまのお札が縫い込んであるそうだから、たいていの弾丸たまなんかとおりはしないでしょう」と、無情つれないことをいう。コン吉は、なるほどとうなずいて、
「いや、それもそうだ。でもネ、三百五十万法なんていう模擬貨幣ジュットンは、一体どこへしまったらいいのかね。もちろん、衣嚢かくしなんかにははいり切れはしまい」と、いうとタヌは、
「よくまあ君はくだらないことを苦にする人ね。心配無用よ。これを御覧なさい」といって、腰掛けの下から紙包を出してそのひもを解くと、そのなかから、小馬なら一匹まるのまま、尻尾も余さず入るかと思われるような、巨大なズック製の買物袋が現われた。
 七、日軍肉迫すモンテ・カルロの堅塁けんるい。金鍍金めっきとルネッサンス式の唐草と、火・風・水・土の四人に神々にまもられた華麗けばけばしき賭博室サル・ド・ジュウ。十二台の青羅紗のテーブルの上には、美しいニッケルの旋回盤ルウレットが、『六日間自転車競走』における自転車の車輪のごとく、朝の八時から夜中の二時までやむ時もなく旋回する。テーブルの周囲に蝟集いしゅうする面々は、いかなる次第に属するのか、みな一様に切迫した面持をし、手帳に数字を書き込み、何やら計算し、忙しくささやきかわし、はなはだしきは額に玉の汗をうかべ、髪を引きむしってしきりに焦慮苦心する様子は、さながら学年試験の試験場の光景に異ならない。
 コン吉とタヌは、遠慮会釈もなく人垣を分けて、最も回旋盤ルウレットに近い椅子に割り込み、まさに美膳に臨もうとする美食家のような会心の笑みを浮べながら、ゆうゆうとテーブルの風景を観賞していたが、やがて、コン吉はがいがい
「どうだね、そろそろ始めることにしよう。見廻すところ花々しい勝ち方をしている諸君もあまりいないようだ。ひとつ、この青羅紗の上へ、驚天動地の旋風を巻き起こして諸君の目を醒ましてやろうではないか」というとタヌは、うなずいて、
「急ぐにも当らないようなものだけど、じりじりなま殺しにされるよりも、ひと思いにやられた方が、モナコ公国だって助かるでしょう。じゃ気の毒だけど、そろそろ始めましょう。……コン吉、兎の足は持ってるわね」
「大丈夫だ、いま撫でるところだ。……それはそうと、どこへったっていいようなものだが、ともかく、最も距離の短いところへ置くことにしよう。飛んで来る賭牌ジュットンにしたってあまり疲れないですむわけだからね」と、いいながら、大判の名刺ぐらいもある、紺青の千法の賭牌ジュットンを、すぐ手近かの MANQUEさきめ と刷ってある青羅紗タピの上へ、まるで古い財布でも捨てるように、ポイとばかりに投げ出した。
 廻し役クルウピエは、※(始め二重括弧、1-2-54)賭けたり、賭けたりフェエト・ヴォ・ジュウ・メッシュウ※(終わり二重括弧、1-2-55)と、しきりに勧誘していたが、おおかた一座がり終えたのを見すますと、やがて廻旋軸シランドルを右に廻し、その運動の方向の反対側へ、白い象牙の玉を投げ込んだ。
 玉は仕切りの横金に衝突しては飛びあがり、ニッケル盆の斜面を駆けあがってはすべり落ち、はなはだ活発な運動をしている様子。
 一座げきとして声なく、ただ聞えるものは、白骨が打ち合うようなカラカラと鳴る玉の音ばかり。
 コン吉は、野兎の足を衣嚢かくしから取り出し、念を入れて三度鼻の頭を撫で、様子いかにと待ち構えていると、玉はおいおい活気を失い、廻し役クルウピエ※(始め二重括弧、1-2-54)賭け方最早これまでオン・ヌ・ヴァ・プリユ※(終わり二重括弧、1-2-55)と、披露アノンセするとほとんど同時に、MANQUEさきめ とは縁のない PASSEあとめ23に落ち着いた。
 お、これはいかん、とコン吉が、丸天井もつん抜けるような胴間どうま声を張り上げ、
小僧や、ここへ来いギャルソン・ヴィヤン・イシイ! 小僧や、ここへ来いギャルソン・ヴィヤン・イシイ!」と、けたたましく連呼したが、青札ジュットンは急につんぼにでもなったのか、泰然自若として身動き一つするでもなく、さればとて恥入ったような面持をするでもなく、のめのめと金方バンキエ熊手ラットオにさらわれていってしまった。
 これは! と、あきれて、声もなく顔を見合わしている二人のそばへ、四方八方から駆け寄って来たのは、空色の家令服に白い長靴下をはいたカジノの給仕ギャルソン達、およそ二十人あまり、
何か御用でムッシュウ・エダアム?」と、うやうやしく一斉にお辞儀をした。狐につままれたような顔をして給仕ギャルソンの大群を見廻していたコン吉は、おろおろと舌をもつらせながら、
「なんですか? 別に用事はありません」と、いうと、給仕ギャルソンたちは声をそろえて、
「でも、ただ今、(給仕来い!ギャルソン・ヴィヤン・イシイ 給仕来いギャルソン・ヴィヤン・イシイ!)と、続けさまにお呼びになりました」と、申し立てた。
 八、ぜろに通ず不可思議なる霊感。どうやら詐欺に引っかかったようだ、とおそまきながら気が附いたのは、およそ四千法ほどすってしまってからのこと。二人はカジノの正面にある、朱塗りの床几バンに腰を掛け、鼻っ先にり立った白堊の山の断面が、おいおい赤から濃い紫に変ってゆくのをわびしげに眺めながら、言葉もなく鼻を突き合していたが、コン吉はやがて力なく、
「日モナ戦争は日本の敗けだ。われわれが抵当にならぬうちに、どうだろう、タヌ君、もうそろそろ退却しようではないか。僕はもう、城も、遊艇ヨットも欲しくない。ニースのホテルへ帰って心おきなく給仕ギャルソンを呼びつけてみたい。それが僕の望みだ」と、半ば慰め顔にこれだけいうと、タヌは激昂の余憤がいまだおさまらぬらしく、
「あたしの望みはね、一〇一号をこのズックの袋に入れて、松の木へ吊して、いやっていうほどお尻を蹴っ飛ばしてやりたい、ってことよ。モナコの征伐はそれからでもいいわ」と、しきりに甲声をあげているその背中を、ポンとたたくものがある。振り返ってみると、そこに立っていたのは、白い医務服を着たモンド公爵。
 二人はそれを見るより、左右から腕をとって、
「うわア、モンド公爵」
「ま、どうしてここへ!」と、口々にたずねると、モンド公爵は、意味不明瞭な微かな微笑をもらしながら、
「あはあ、ちょっと散歩」と、軽くうなずいてみせた。
「でも、侍従長がよく外出させましたね」
彼奴きゃつ、椅子にゆわえつけられていました。この白いのが……」と、医務服の裾をつまんでみせ、「彼奴きゃつの式服です。わたくしがこれを着ていると、やはり侍従長ぐらいには見えるでしょう。……王宮の生活は無味閑散で困ります。今日はぜひとも散歩をしたくなったので、ご城中へうかがいましたら、こちらの方角へ御台臨になったということで御追踵ついしょういたしました。……時に、どうです。賭球盤ルウレットですか。銀行賭戯バカラですか」
 そこで二人は、今までの仔細いきさつを手短かに述べると、公爵はあまたたびうなずいて聞いていたが、やがて、空を見上げて雲の流れを見、そばの松の樹の幹にてのひらを当てて、何かしばらく考えていたが、
「今日は南が吹いていますね。……湿気も温度もちょうどいい。珍らしく良い状態コンディションだ。よろしい、やりましょう! いらっしゃい!」と、鋭くいいすてたまま、つかつかと遊楽館カジノの中へ入っていってしまった。
 二人はあっけにとられて見送っていたが、なにしろ、そろそろ夕風も冷たくなって来た、いささが[#「いささが」はママ]空腹の模様でもある、公爵を捨ててニースへ帰ろうか、それとも、遊楽館カジノに引き返し、運を公爵の天に依頼して、もう一度モ軍対日仏連合軍の戦闘を開始しようかと協議を始めた。『生きた花馬車』ならびに一〇一号事件以来、多少人生に懐疑をいだくようになったコン吉は、あまり思わしくない顔色をしながら、
「なにしろ、僕はもうしばしば公爵の霊感には手を焼いている。ことに今度は、相手が賭球盤ルウレットだからどんなことになるかわかりゃしない。どうせ、まともなわれわれがやったって勝てないのに、どうしてまともでない公爵の勝つわけがあるものか。僕なら、早く帰って、またマカロニでも喰べてひっくり返ってる方がましだ」というと、タヌは、
「でもね、コン吉、どうせ賭球盤ルウレットだって狂人きちがいでしょう。公爵も、ま、それに近いわけね。だからこの二つを組合わせると、ことによったらことによるかも知れない、と思うのよ。どうせここに持ってるのは千法とちょっとよ。さっき皆負けてしまったことにすれば、これで公爵の珍技を拝見するのも悪くないわね。万一、ひょっとしてあの公爵が勝ったら、賭球盤ルウレットよ、大きなことをいうな! だわ」
 公爵は二人が賭博室サル・ド・ジュウへ入って来るのを待ちかねて、
「あなたがたの負けたのはどのタアブルですか」とたずねた。コン吉が食堂に近い No. 6 のタアブルを指し示すと、公爵は、玉廻し役クルウピエの隣りの椅子にムズとばかりに坐りながら、
「ひとつ総仕舞そうじまいにして、花を飾らしてやらなければならん」
 公爵は天井を仰ぎ、人々の顔を眺め、悠然ゆうぜんと、あちらこちら見廻していたが、やがて、窓越しに見える巴里珈琲店キャフェ・ド・パリの屋根にとまっている鳩を一羽、二羽……と数え始めた。
「お! みなで十七羽いる! さ、十七へ百五十法。十七の隣数ヴォアザン1617171814171720……というふうに、これへ二百法ずつ。残りは全部ノワアルと奇数へ!」
 コン吉とタヌが青羅紗タピの上を這い廻るようにして、賭牌ジュットンを配置する間もなく、出た数はまぎれもなく17であった。金方バンキエが熊手の先で押して寄越した二万八千法の賭牌ジュットンの小山を忙しく例の大袋へ投げ込んだ。
 公爵は、またもやしきりに眼玉の視角を変えながら、直感と虚心をさがしていたが、突然、窓のそとを指差して叫んだ。
「あ、あそこへ子供が大きな輪を廻しながらやって来る! さ、御両氏、急いでゼロへおりなさい! できるだけ沢山に!」
 ちょうど二十五万法勝ったところでタアブル No. 6 は陥落した。タアブル主任シェフ旋回盤ルウレットにおおいを掛け、その上に薔薇を飾って『お祝い』した。
 九、春先の地中海の名物は『西北風ミストラル』。モンテ・カルロ第一という巴里旅館オテル・ド・パリの豪奢な居間にこもりっ切りになって、四五日前から、沈鬱な顔をして額を押えながら、「西北風ミストラルが来る! 西北風ミストラルが来る!」と、公爵がいっていた通り、果してその日の正午ひるごろから、ものすごい勢いで西北風ミストラルが吹き出した。
 公爵は朝から社交廊ロビイと居間の間をそわそわ歩き廻っていたが、
「ちょいと拝借」と、いって、千フラン札で二十五万法を入れたタヌの手提げサッカ・マンを持ったまま、ひょろりと戸外そとへ飛び出していってしまった。コン吉とタヌは、公爵がまた西北風ミストラルに乗って大勝して来るのだろうと、大いに期待していると、二時間程ののち、オテルの室付給仕パレエが、息せき切って二人の部屋に駆け込んで来た。
「大変だあ! 早く行っておつかまえなさいまし! 公爵が千法札を、まるで売り出しの引札ちらしのように他人ひとに配って歩いてますぜ! 遊楽館カジノの『鳩打ち場』の横んとこでサ!」

底本:「久生十蘭全集 6[#「6」はローマ数字、1-13-26]」三一書房
   1970(昭和45)年4月30日第1版第1刷発行
   1974(昭和49)年6月30日第1版第2刷発行
初出:「新青年」
   1934(昭和9)年4月号
入力:tatsuki
校正:伊藤時也
2009年10月26日作成
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