……音楽爆弾。
 突然、その言葉が頭の一角に閃光を放つと、衝撃によろめくやうにしながら人混のなかで立留まつてゐた。たつた今、無所得証明書とひきかへに封鎖預金から千円の生活費を引出せたので、その金はポケツトの中にあつた。それほどの金では一ケ月の生活を支へることも不可能だつたが、その金すら、いつ紙屑同然のものと化するかわからない。今も今、ポケツトの中の新円は加速度で価値を低下しつつある。それどころか、たしかに彼のやうな男の生存をパツと剥ぎ奪つてしまふ不可知の装置が、彼の感知できない場所で既に着々と準備されてゐる。――さうした念想が踵の方まで流れかけてゆくと左右の雑沓が急に緊迫して音響を喪つてゐた。
 ……音楽爆弾。
 突如、その言葉が通り過ぎると、冷やりとした一瞬がすぎ、眼の前の雑沓はまた動きだしてゐた。彼の体も二三歩動きはじめた。だが、脳裏を横切つた閃光は、遙か遠方で無限に拡大してゆくらしく、それを想つただけでも耐らなく頭が火照る。体全体が熱と光のくるめきに、つん裂かれさうになつた。いけない、いけない、と彼は努めて平静を粧ひ、雑沓の中を進んだ。が、爆発しさうなものは爪さきまで走り廻つた。
 省線駅入口に向ふ路が露店を並べて狭まつてゐた。彼はライター修繕屋のテーブルに眼をとめ、ピカピカ光る金属を視つめた。(今、何ごとも発生してはゐない。すべてはもとのままではないか。)だが、衝撃は刻々と何処かで拡大されてゆくやうにおもへた。もう一度、遭難地点を吟味するやうに、さきほどから自分の歩いてゐる場所を振りかへつてみた。銀行から電車通を抜けてK駅にむかふ路の入口まで来たとき、恰度その時、突然あの言葉が閃いたのだつた。
 その言葉の発想とともに無数の連想の破片が脳裏に散乱した。最初、音楽爆弾の言葉が浮ぶと同時に閃いた考は、すべて有機体は音楽に依つて影響を蒙るといふ仮説だつた。それなら、無機物も音楽の特殊装置によつて自在に変化できる。その装置による微妙な音楽は原子核をも意のままに操作配列さす。そして、この方法によつて発生する魔力は遂には全く人間の想像を絶したものになる。それは……、そして……、それから……、それらは……。この奇妙な着想とともに、その魔力が既にぞくぞく彼の肉体に影響してくるやうな錯覚と、それから、いつも彼の脳裏にある、あの広島の体験と、こんどの音楽爆弾の予感がひどく混乱して、何か制しきれない苦悩を叫んでゐた。
 ……アダム
 突然、一つの名称が奇蹟のやうに浮んだ。それは嘗て酸鼻と醜怪をきはめた虚無の拡がりの中に、底抜けの静謐を湛へてゐる青空を視たとき、不意と彼の念頭に浮び、それきり発展しなかつたアイデアであつたが、その名称が今何か救済のやうに思ひ出された。
(さうだ、アダム……。音楽爆弾の空想は君にまかせよう。君はあの死体の容積が二三倍に膨脹し、痙攣がいたるところに配列されてゐるシインのなかから、ぽつかりと夢のやうに現れたイメージだつた。君の名はアダム……だが君の名をいま僕はニユー・アダムと呼びたい。音楽爆弾でも何でもいいから勝手に勝手な空想をしてくれ給へ。いづれ僕はそいつも小説に書かうと思ふから、これからは時々やつて来てくれ給へ。だが今は僕はかうして街なかを歩いてゐるのだし、日常生活の姿勢でゐなければ、どうも困るのだ。)
 さういふ会話を仮想人物に与へると、さきほどまで彼を苦しめてゐた感覚は次第に緩められて行つた。漸く普通人の気分に戻ると、彼は吻として切符売場の行列に加はつてゐた。

 毎朝、彼はニユー・アダムの囁に悩まされだした。それを彼は次のやうにノートに書きしるした。
「顔を洗つたり、外食をすませてくる間に、一ダース位の小さな念想が泡立つてくる。素敵だ、ノートに書きとめてやらう、と直ぐペンをとりたい思ひに駆られながらも、目さきの用件に追はれてゐる。漸くつまらぬ用が済んで朝の部屋に落着くと、さきほどの念想は高い梢にとまつた目白のやうに、チラチラとこちらを嘲つてゐる。
 君たちを捉まへて、小器用にまとめれば、君たちはノートのなかで晴れやかに囀るだらう。だが、君たちを飛ばしたり囀らす母なる大地とその秘密の方が、もつとも僕を悩ましてゐるのだ。見給へ、僕の部屋は頗る無器用に朝の宇宙に突立つてゐる。……」
 彼の部屋は神田のある事務所の二階にあつたが、朝から晩まで騒音攻めにされてゐた。半年あまり部屋がないため、さんざ悩まされた揚句、漸くその事務所の一室に転がり込んで来たのだが、何ものかに追ひ詰められてゐる気持は今もまだ附纏つてゐた。
「悪意ある童話」――それは彼が原子爆弾遭難以来、絶えず条件に追ひつめられ追ひまくられて行く窮鼠の心情を述べようとするものだつたが――その題名だけがノートの端に書いてあつた。
 彼はある朝、頭上に真黒な一撃を受け、つづいて家の崩壊を眺め、それからそこを逃出して行つたのだが、あの時から、もはや地上に生存してゆくことを剥奪されたのかもしれなかつた。その後、うちつづく飢ゑと屈辱の底をくぐり抜け、田舎から東京へ出て来たが、そこでも同じやうな条件が待伏せてゐた。彼を迎へてくれた友人の家の細君は、彼がその部屋に居ついて一ケ月も経たないうちに、もうそこを立退いて欲しいと仄めかした。それからそこでは隠忍と飢ゑの生活が一年あまり続いた。が、そのうち彼の友人は社用で遠く旅に出掛け、そのまま消息がなかつた。その友人が旅先で愛人が出来、もはや東京へは戻らないといふ決意を知らせて来たので、彼は早急にそこを立退かうと思つてゐる矢さき、その家の細君からも立退命令を受けた。前からその細君の無気味な顔にいつも脅かされてゐた彼は、火のついたやうに狼狽ててしまつた。彼はその頃、やはり下宿を追出されて、友人の下宿に同居してゐる中野の甥のところへ無理矢理に転がり込んで行つた。それから、そこでも紛糾と困憊の蒸返しであつた。とにかく部屋が見つかる迄といふ約束で泣き附いたのだつたが、彼が持込んで来た荷物を見ただけで、この部屋の主人公は眉をしかめた。
 歯科医専の学生である、その甥の友人は、その部屋の特別席にあたるテーブルでいつも石膏いぢりをやる。その友人が出掛けて行くと、部屋中に散乱してゐる粉末や破片を甥は丹念に掃除した。人間一人増えたため、この甥は二倍も気を使つてゐたが、一番余計者の彼は片隅に身を縮め、できるだけその存在を目だたないやうに努めた。
 その友人が外に出て行くと、彼と甥は始めて解放されたやうに畳の上にのびのびと横はる。だが、さうしてゐても火がついて追ひまくられてゐるやうな、あちらの岸の火が衰へたかとおもへば、こちらの岸の火が燃え上つてゆく、あの日からひきつづく強迫があつた。衣類を売り書物を手離し餓死とすれすれに生きのびて来ても、インフレは後から後から彼を追つて来るのだ。重傷者がごろごろしてゐる炎天の砂地や、しーんとした死者の叫喚はすぐ眼の前にあつた。身軽に逃げのびて、日蔭に憩つてゐても、すぐ彼の隣では三尺幅の日蔭を争つて、両手片足を捩がれた男と全身血達磨の青年が低い声で唸りあつてゐる。あのとき、見た数々の言語に絶する光景はまだ彼にとつて終結したのではなかつた。……彼は避難民のやうな恰好で、若い甥と話し合ふのだが、この甥と話しあふとお互にもやもやしたものが燃え上つた。
「まるで、とにかく、今では生きてゆくことが吹き晒しの中にまる裸にされてゐるやうな感じがするな」
「だけど、君はまだ帰つて行ける処があるが、僕はもう、あの日から地上の生存権を剥奪されたのだ」
 すると、甥は何か不満さうに彼の言葉に抗議しだした。「そいつは少々言ひすぎだよ。とにかく、あんなひどい目に遇ひながら今日まで生きのびて来られたのは、やはり感謝していいだらう」
 甥は九州の連隊にゐたため惨劇には遭はなかつた。家の焼跡にもその後バラツクが建てられたので、とにかく身を容れる最後の場所だけはあつた。ところが彼の方は今もまだ身一つで逃げ惑つてゐる形だつた。……夢中で全速力で彼は走つてゐるつもりなのだが、忽ち条件が怪物の如く彼の行手を塞ぐ。かと思ふと、血走つた彼の眼には、突然一切がだらけ切つてどうにもならぬ愚劣の連続となる。……炎天の下、今にもつんのめりさうな、ふわふわに腫れ上つた火傷患者に附添つて、彼は立つてゐる。重傷者の列は蜿蜒と続いてゐるが、施療の順番は殆ど無用の手続のため、できるかぎり延期されてゐる。……銀行、郵便局、町会事務所、食糧営団、いたるところの窓口が奇妙な手続で弱者の嘆願を拒んだ。無器用な彼は到る処で悪意に包囲されてゐるやうにおもへた。それは予想を裏切り想像を絶した形で突如出現する。
(……ある瞬間、ある瞬間を境に、地上の凡ては変形してしまつた。到る処に、いたるところに人間が満ち溢れ、もう何処でも食事を摂ることも身を横たへることも困難になる。更に人間の増えてゆく予感がこの時ぞくぞくと彼を脅かし、「逃げよ、逃げよ、今度こそ失敗るな」といふ声がする。だが、彼は今暫らく情況を確かめた上でと躊躇つてゐる。そのうちにも人間はぐらぐらと増えてゆく。今はもう呼吸をすることすら困難になつた。切羽詰つて無我夢中で左右の人間を押しのけ、鉄道線路めがけて逃げ出す。が、線路のところは、ここはもう先を争ふ人々で身動きもならない。ふらふらになりながら列に押され、列をくぐり抜け、どうにかかうにか、今突進してくる急行列車目がけて投身自殺を試みる。自殺は成功した。だが、死んだ筈の彼は、ふと気がつくと、一向に情況は変つてゐないのだ。両手片足の捩げた男、血まみれの裸女、全身糜爛の怪物、内臓の裂けて喰みだす子供、無数の亡者、無数の死体がすぐ彼の側を犇めきあひ、ぞろぞろと押されて進んで行く。ざわざわした人声のなかから、「もう墓地なんかありはしないよ」と鋭い悲しげな声が聴きとれる。どこへ、それでは何処へ?……どこへ行つたつて、もう君たちの憩へる場所はないのだ。)――かうした「悪意ある童話」の断片はいつとはなしに彼のなかに蓄積されてゐた。
「人間は一本の葦に過ぎない。自然のうちで最も弱いものである。だが、それは考へる葦である。彼を圧し潰すには、全宇宙が武装するを要しない。一吹の蒸気、一滴の水でも彼を殺すに充分である。しかし……」
 彼がノートに書とめてゐるパスカルの言葉を読んできかせると、若い甥は目を輝かす。大学に籍はありながら、これまで殆ど纏つた勉強の出来なかつた甥は終戦後、飢ゑてゐるやうに書物を読みたがつた。だが、この二人が「考へる葦」として許されてゐる時間は極く限られてゐた。この部屋の主人公が戻つて来れば忽ち事情は一変する。頗る無表情な顔で、その医学生は脱ぎ捨てた服をポンと部屋の片隅に放りつける。すると、甥の顔つきは見る見るうちに戸惑つて行く。その甥の姿を見てゐると彼も直ぐ弾き出されるやうに、「さうだ、一刻も早くここを立去らねば」と外へ出てゆく。それから何か貸間の的があるかのやうに雑沓のなかを歩いてゐる。軒下にぎつしり並んだ露店や、あたりに犇めいてゐる人波は、みんな絡れあつて彼の眼に流れ込んでくる。「やつて来るぞ、やつて来るぞ」と、奇怪な狂気に似た囁があつた。
 そのうちに、部屋の主人公が休暇で帰省し、つづいて甥も休暇で郷里へ帰つて行くと、切迫した気分が一時に緩んだ。荒れはててゐる部屋だつたが、それでもとにかく下宿屋の六畳らしい落着があつた。日が沈んで、一日中ギラギラ光つてゐた窓の外が漸く穏かになる頃、彼はごろりと畳の上に寝そべつて、その部屋の天井板や柱をぼんやりと眺めた。妻と死別した男が火と飢ゑの底をくぐり抜け漸く雨露を凌げる軒に辿りついたやうな気持がするのだつた。
〈ボクハ コノ地上デ受ケタ魂ノ疵ヲコノ地上デ医ヤシタイノダ アマストコロアト 七千日……〉
 旅先で新しい愛人を得て、東京へはもう戻らないと宣言した友からの手紙だつたが、異常な悲壮が揺れうごいてゐた。あの男が揺れうごいてゐるのか、この地球が揺れうごいてゐるのか……。凝と考へてゐると、茫漠とした巨大な感覚が彼を呑込んでしまはうとするのだつた。
 休暇があけて甥が中野へ戻つて来ると、彼は再び緊迫した気持に戻つた。数少ない知人の間を廻つては、貸間のことを頼んだが、「さあ、部屋はね……」と誰もこれには確答ができなかつた。だが、焼跡には少しづつバラツクが建つてゐた。いつも彼は電車の窓から燃えるやうな眼ざしでそれを眺めた。鋏とボール紙で瞬く間に一都市が出来上つてゆく、映画のなかの素晴しい情景は、眼の前にある切ない夢とごつちやになつた。……ある日、藁にもとり縋る気持で、先輩を訪ねてみた。貸間の権利金について相談を持ちかけると、「いやあ、そいつはね……」と、もの柔かに断られた。徒労だつたと分ると彼はさばさばした気持で、この失敗を甥に打ちあけた。
「なるほどね、今となつては誰も僕のやうな者を相手にしてくれないのが当前だつた」
 絶望と滑稽感が犇きあつた。ふと彼はまた、もう一つの藁を夢みるやうに口走つた。
「広島の土地は、あれはどうしても売れないものかしら」
 それは前から兄たちに問合せたり、甥にも訊ねてゐたが、焼跡の都市計画が進捗しないため、何とも判断できないのだつたが、何も彼も剥ぎ奪つてしまふ怪物が既にその土地を呑込んでゐたとしても彼は差程驚かなかつたかもしれない。
「うん、近頃、畳一枚の値段で売買されてるよ」
 甥の意外な言葉で、彼は急に眼を輝かしだした。
「畳、一枚、それでは……」
 それでは、とにかく、彼の所有地を売却すれば今後一年位は生きのびて行けさうな計算だつた。
「助かつた、助かつた、それでは……」
 おかしい程、彼はいきいきと興奮してゐた。身代金が出来たのだつた。そいつを怪物の口に投げ与へて置けば、相手の追撃からまだまだ、ずらかつて行ける。生きのびよう、生きのびよう、(しかし、何のために?)しかし、とにかく生きのびて行きたかつた。
 そのうちに医学生も戻つて来た。「済みません、済みません、極力部屋を探してはゐますが」と彼は今暫くの猶予を哀願するばかりだつた。甥の顔には繊細な心づかひが漲つた。……踵まで火がついたやうな気持で、彼はいらいらと歩き廻つた。夕刊を買はうと思つて並んだ行列が、急にその日から値上のため釣銭に手間どつて一向捗らない。人々はしかし殆ど無感覚に列を組んでゐる。(苛立つな、麻痺せよ、遅緩して、石になれ)悪意の声がふと彼の耳に唸るのであつた。
〈人生ハ百万台ノ トラツクガ 疾走スルナカヲ 駈ケヌケル ヤウナモノサ〉
 旅に出て愛人と悲壮を得た友のハガキであつた。彼もまた夢の中で左右から数万台のトラツクに脅威される。もはや人生は彼にとつて満員列車以上に身動きできなかつた。が、たまたま一人の友人の厚意により神田の某事務所の一室が空けてもらへたのは奇蹟のやうだつた。リヤカー一台に荷を纏め彼はボストンバツグ一つで中野を脱出することができた。

 ニユー・アダムの囁は、その雑然とした事務所全体の発散する絶え間ない音響に混ざつて、近づいたり消えたりする。彼と彼の部屋は相変らず百万台のトラツクの下を逃げ惑つてゐるような気もした。襖一重向の廊下はドタドタと足音で乱れ、電話の滅茶苦茶の喚叫や、高低さまざまの人声が、襖の彼方は彼の理解できない性質のビジネスらしかつたが、つねにざわざわと沸き立ちながら、逆上のやうに建ものの中を流れて行くのだ。
 彼は茫然として万年筆のペン先を視詰める。それから外食のため外に出かけると、さつき視詰めたペン先がふと眼の前にちらつく。すると小さな万年筆ながら実に物凄く、まるで巨大な針のやうなのだ。何か制するに困難な無限感が湧上つて、そのなかに針は突立つて行かうとする。彼はほとほと困惑しながら事務所の二階に戻つて来る。それから、ごろりと畳の上に横たはり、天井を眺めてゐると、今度は彼の体全体が一つの巨大な針のやうに想へる。たしかに、その針は磁石のやうに一つの極を指差してゐる。ぎしぎしとその二階がゆるく回転し畳はむくむく揺れてゐるやうだが、彼の思考は石のやうに動かうとしない。だが、眼の前にあるこの無限感は、忽ち、(あツといふ叫びとともに)彼の上に崩れ墜ちさうになるのだ。
(ニユー・アダム、ニユー・アダムよ、待つてくれ給へ。僕は君を君の郷土へ連れて行かう。ほんとなのだ、どのみち、僕は少しばかしの所有地を売却するため近く広島へ行つて来たいと思つてゐる。だから、その時はきつと君をつれて行くから、まあ少し待つてくれ給へ。)
 土地の売却は兄に頼んであつたが、なかなか返事がなかつた。そのうちにも彼の生活は底をついて来た。踵に火のついた想ひで、とうとう彼は広島へ赴いた。
 東京を離れて十八時間汽車に乗つただけで、彼の眼は久しく忘れてゐた野や山の緑色に魅せられてゐたが、それは今、バラツクのまはりにも微風とともにそよいでゐた。縁側に腰を下して見渡すと、この家の麦畑の向に可憐な水色の木造洋館がある。それは音楽学校であつたが、ふと彼の目には原子爆弾から突如生誕した建物のやうな気もする。その凹凸の小路をヴアイオリンのケースを提げた若者たちがいそいそと通つてゐた。物置小屋の前の花畑には金盞花、矢車草、スイートピイなどが咲き揃つてゐた。
 彼は下駄をつつかけて辺りを歩き廻つてみた。中野の甥もたまたま春休みで此処へ戻つてゐた。「あの木だ」と甥は指ざし教へてくれた。庭にあつた樹木は悉く焼け滅んだのに、その黒焦の楓の幹からふと青い芽が吹き出したのは昨年のことだつた。豆畑の中に立つその楓は今も美しい小さな若葉を見せてゐた。……昔の位置のままの井戸に近寄つて、内側を覗くと、石で囲はれた隙間に歯朶は青々と茂つてゐる。この歯朶も恐らく劫火のなかに生命を保つて来たものだらう。麦畑の中にある、もう一つの井戸にはたしか蛙が棲んでゐるといふが、それも奇蹟かもしれなかつた。
 彼はまだ奇蹟を求めるやうに、敷石や池の跡がその儘残つてゐるあたりに佇んだ。八月六日の朝、彼は屋内にゐたため助かつたのだが、それも家が顛覆してゐたらどうなつたかわからない。壁や畳は散乱したが、その家の柱は静かにあの時錯乱を支へてゐた。――子供の頃、彼はよく母からその家の由来をきかされてゐた。父は一度ここへ新しい家を建てさせた。ある時、地震で壁にかすかな亀裂が生じると、父は忽ちその家作を解かせて、それから今度は根底から吟味を重ね新しく岩乗な普請をさせた。この亡父の用心深さが四十年後、彼の命を助けたのだつた。
 土地売却の話は漠然としてゐたが、買手が見つからないとも限らなかつた。「そんなに最後のものまで手離して一体このさきどうするつもりなのか」兄は呟くのだつたが、強く反対するのでもなかつた。
 彼は外に出た序に久振りにその焼跡の自分の土地を眺めようと思つて川端の方へ立寄つたが、草が茫々と繁つてゐて、どの辺に家があつたのかも見当がつかなかつた。そこの借家は母の遺産として彼が貰つたのだが、次兄がずつと棲んでゐた。生涯に一度はあの川端の家で暮してみたい、と妻は旅先の佗住居でよく彼に話してゐた。その妻とも死別れ、彼が広島の長兄の家に寄寓するやうになると、もう空襲警報の頻発する頃であつたが、彼はよくその次兄の家へ立寄つた。玄関に佇めば庭と座敷と川が一目に見渡せた。その庭の滴るばかりの緑樹は殆どこの世の見おさめのやうに絢爛としてゐた。今もふと暖かい春の陽気が、あの頃の不思議な巷の感覚を甦らせた。塀越しにそよいでゐたアカシアの悩ましげな青葉……恐怖に張りつめられて青く美しかつた空……それらが胸をふさぐやうだつた。
 饒津公園の方へ歩いて行くと、その辺は重傷者と死骸のごろごろしてゐた路だが、今は快適な温度と陽の光がひつそりと砂の上に溢れてゐるのだつた。烈しい火炎に包まれて燃え上つた兵営の跡は、住宅地域になつて、マツチ箱のやうな家が荒い路に並んでゐる。それから、駅の広場へ出ると、ここは闇市の雑沓ぶりで、突然彼の頭上から広告塔の女の声が叫びかけたりする。新しい雑沓や悲しげな荒廃の巷を歩き廻つてゐるうちに、何とも名ざすことのできない情感が満ちて来た。

世は去り世はきたる 地は永久とこしへ長存たもつなり

 次第に彼は少年の頃の憧憬に胸を締めつけられるやうな疼きをおぼえた。……彼がその昔その街の姿を所有してゐたと同じやうに、恐らくこれからの少年たちはこの街の新しい姿を疑はないだらう。彼がその昔、母の口から恐ろしい昔話を聴いたと同じやうに、焔の中に生きのびた少女たちはやがてその息子にあの戦慄の昔話を語るであらう。だが戦慄はまこと、その少女たちの記憶だけで地上から消滅するであらうか。測り知れない、答へてもくれないものが、まだ何処かに感じられる。(もしも人類が自らの手で自滅を計るとしても恐らく草木は焼跡に密生し、爬虫類は生き残るであらう)ニユー・アダムは微かに悲しげに呟く。
 ある日、雨に降り籠められて、彼は甥と雑談に耽つてゐたが、
「原子力以外にまだ発見されてゐないものがあるだらう」
 ふと、その言葉が口を滑り出ると、彼のなかにニユー・アダムがギラギラと眼を輝かしだした。何を描かうとするのか煽りださうとするのか、とにかく激しく悩ましいものが一時に奔騰した。そして彼はやたらに異常なことがらを喋りまくつた。
「今にきつと人類全体の消費する食糧なんか三日間で一年分生産できるやうになるよ、今に」
「うーん」と甥は曖昧に頷くのだが、彼の方は向に見えてゐる麦畑が既に幼稚きはまる過去の人類の遺跡のやうに思ひだす。
「今にすると、田地なんかもう不要になつて住宅難は昔の夢になる。その頃になれば、無機物から生物を創造することも出来るし、どんな人間の精神でも狂ひなく立派に調節できるやうになる。それどころか、人間の生命だつて、今の二倍三倍四倍位には延長できる」
 今あらゆる可能性が高揚して天蓋を覆ひ尽さうとした。できる、できる、何でもできるのだ、しかし……。ニユー・アダムは空想の頂点に達することはできなかつた。
 二三日つづいた雨が霽れると、地面の緑が遽かにいきいきと感じられ、バラツクのまはりの草花のそよぎは何か彼を遙かなところへ誘ふ囁のやうだつた。彼はふらりと外に出ると、昔よく登つたことのある比治山の方へ歩いて行つた。その山は橋の上から眺めても以前の比治山とは変つて何か生彩を喪つてゐることがわかつたが、麓のところまで行くと、あの時の光線で剥ぎ奪られたものが密度のない木立に感じられた。ゆるい坂路を彼は何気なく昇つてゐた。と、何かキラキラ光るものが向にあるやうにおもへた。彼は異常な心のときめきを覚えながら、その方へ近づいて行つた。それは生気ないあたりの草木のなかにあつて、ずばぬけて美事な、みづみづしい樫の大木であつた。まるで巨大な天の蝋燭のやうに、その樹は彼の眼に喰入つて来た。

底本:「日本の原爆文学1」ほるぷ出版
   1983(昭和58)年8月1日初版第一刷発行
初出:「近代文学」
   1948(昭和23)年10月号
※連作「原爆以後」の4作目。
入力:ジェラスガイ
校正:門田裕志
2002年7月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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