■登場人物
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ
テオドール・ヴァン・ゴッホ
アンリ
ヴェルネ
デニス
老婆
ハンナ
ヨング牧師

シィヌ
ワイセンブルーフ
モーヴ
ルノウ

ペール・タンギイ
その妻
ゴーガン
エミール・ベルナール
ロートレック
ベルト・モリソウ
シニャック
学生
夫婦のお客

ルーラン
ラシェル
看護婦
[#改ページ]

     1 プチ・ワスムの小屋

ドス黒く、貧寒なガランとした室の、裏の窓から差し入る日暮れ前の光の中に、四人の人間が押しだまっている……。

アンリ ……ヴェルネ、もう、なん時ごろだろう?(こわれかけた椅子にかけている。右腕が肩のつけ根からない)
ヴェルネ そうさな……(これは中央の板椅子にかけて、火の消えたパイプをくわえている。窓の方を見て)そろそろ五時半と言うとこかな。
アンリ だって、まだこんなに明るいぞ。
ヴェルネ 天気が良いと、こうだ。これであと二十分として、おてんとさんが、ボタ山の向うに入ると、いきなりバタッと真暗になるやつだ。
アンリ でも、五時の交替のボウは、まだ鳴らねえぜ?
ヴェルネ 二、三日前から、ワイスの奴あ、ボウ鳴らすの、やめてるよ。
アンリ あ、そうだっけ。畜生め、ボウぐらい鳴らしてくれたって罰は当るめえ。
ヴェルネ だけどよ、アンリ、ボウは交替の合図だあ。こうなって、お前、交替もヘッタクレもねえんだから。
アンリ そらそうだけどよ、景気が悪くって、そうでなくても気がめいりそうだからよ。
ヴェルネ 炭車も昇降機も停っちゃってるしな、ボウだけのために釜に火を入れるの無駄だってバリンゲルさんが言ったそうだ。
アンリ ……ちくしょうめ。
デニス たまらねえ! 俺あ、たまらねえ! 俺あ――(これは先程から片隅の床の上にじかに置かれた藁のベッドのはじに腰をおろして、両手で頭をかかえこんでいた男。低い、すすり泣くような声で言いだす)十日前まで、炭車や昇降機はガラガラ、ガラガラ唸ってた、ボウも鳴ってたし、誰かが怒鳴ったり、歌ったりよ(立ちあがってイライラと床の上を歩きだす)……それがよ、こうしてみんな声も出さなくなって、犬も吠えねえんだ。山中がシーンとなってしまって、もう十日だ。
ヴェルネ デニスよ、まあまあ落ちつけ。
デニス ……(ガラリと窓をあける。窓の向うに、黒く静まり返った坑口近くの風景の一部が見える)見ろよ! 人っ子一人歩いてねえ。あんまり静かで、俺あ耳ん中がワンワン、ワンワン言って、気が変になりそうだ。
アンリ そりゃお前、ストライキだから、しかたがねえよ。
デニス だからよ、俺の言うのは、そのストライキがよ、こんなザマで、この先どうなるんだと言ってるんだよ。会社じゃ、俺たちが黙って言うことを聞かないようなら、四坑とも閉鎖すると言ってるし、今となっちゃ、ワスム中の百軒あまりの家で十サンチームと金の有るとこは一軒もねえんだよ。食えるものと言えば、木いちごや草の根はおろか、猫や鼠やトカゲからひきがえるまで取って食っているありさまだ。
アンリ だってお前、そりゃ、そうなって来たんだから仕方がねえよ。ストライキと言やあ、まあ戦さみてえなもんだ。つまりが戦さなんだから、ことと次第によっちゃ、ワラジ虫だって金くそだって食わなくっちゃならねえ。それが嫌なら、はなっから戦さあ始めねえことだ。
デニス 嫌だと誰が言ってるんだ! 俺あ最初からストライキをおっぱじめることを言い張った人間だ。たかがこれしきのことにヘコタレはしねえ。俺の言うのはな、こんなありさまになって来ているのにだ、こうして俺たちあ、ベンベンとして坐っていていいのかってことだ。いいかよ? ヴェルネは俺たちの坑夫頭で、まあ大将だ。アンリ、お前と俺とは組合の四人の代表の中の二人だ。言って見りゃ、責任がある。俺たちがここんとこで、どんな手を打つかで、ボリナーヂュ百二、三十人、家族を合せりゃ四百人からの人間が、生きるか死ぬか、どっちかに決るんだ。だろう? その三人が、こうしてお前、三時間も四時間も、こんな、宣教師の小屋なんぞに坐ったきりで待っているんだ。これでいいのかよ? それを俺あ――
ヴェルネ まあまあデニスよ、お前はそう言うが、ここの先生は俺たちのことをしんから心配して掛け合いに行ってくだすってるんだぞ。
アンリ そうよ! それはまちがいねえぞ! 先生のことをおかしなふうに言う奴あ、俺が承知しねえ! こねえだの爆発の時だって、ここの先生が身の皮あ、はぐようにしてよ、三日三晩いっすいもせず、食うものも食わねえで、まっ黒になってケガにんの看病したなあ、デニス、お前だって見ているんだ!
デニス しかし、そいつは宣教師の務めとしてしているまでじゃねえか。ああしてさえ居りゃ、伝道教会からチャンチャンと月給が送って来るんだからな。なんの心配もありゃしねえ。それにとどのつまりが、お坊さんだ。説教は出来るだろうが、会社に行って何が言えるんだな? 今どきお前、坊主の説教ぐれえで、はいさようでございますかと、こっちの言い分を聞いてくれるような支配人かよ、あのバリンゲルの畜生が?
ヴェルネ そこは何ともわからねえぞデニス。バリンゲルの旦那あ、そんなに話のわからねえ人でもねえ。俺あ知ってる。まあま、おっつけここの先生も戻って来るよ。万事はそれからのことだ。
デニス とっつあんは気が永過ぎるよ。年い取ってすこしボケた。
アンリ やいやいやい、デニス、お前、まだワッパのくせに、とっつあんに向って口がすこし過ぎやしねえか? お前の考えるぐれいのこと、ヴェルネが考えてねえと思うか? 俺たちが、じかにお百度を踏んで掛け合いに行っても会社じゃ、こっちの言い分はまるきり聞いてはくれねえ。この四、五日は労務の連中も俺たちに会ってもくれなくなった。それでこの先生が見るに見かねて支配人に会って話してやろうと出かけてくだすったんだ。物には順序と言うものがあらあ。それをよ、そんなにイライラと気を立ててよ、ヒステリイ犬が狂いまわるようなことをしては、何もかもぶちこわしだと思うから、腹の虫おさえて我慢してるだ。俺にしたってそうだ。見ろこの腕を。(ダラリとさがっている左袖をゆすって見せる)炭車のウインチに持ってかれて、こうだ。俺あ、この腕にかけて言ってるんだぞ。てめえ一人で何もかもひっちょったようなこと言うのは、なまいきだぞ。
デニス 何がなまいきだ! へっ、俺だって、ここの(と自分の痩せた胸を叩いて)ヨロケにかけて言ってんだ! 毎朝毎朝吐き出す血ヘドにかけて言ってんだ! これ、誰のせいだ? え、何のせいだ? それを――
ヴェルネ まあまあ、まあまあ、気い立てるな二人とも! わかってるよお前たちの心持あ。なあデニス、俺あ、まだお前が生れねえ前からボリナーヂュで炭い掘ってるんだ。ハハ、百も知ってるよ、そったらこと。まあ、いいて。今となっちゃ、ワスム中の人間、誰彼なしに腹んなかあ同じだ。なあ、このバコウのおっ母あにしたって――(と、片隅の椅子に、三本の大ローソクと紙包みを大事そうに握って黙々としてかけている老婆をあごでさして)よそ見にゃケロリとして坐っているが、亭主のバコウはヨロケで取られ、上の娘はチフスで取られ、今度はまた一人息子のシモンが爆発で死んで、死骸もあがらねえ。そいでも、こうして生きてるんだ。つれえのは自分一人のことじゃねえぞ。みんな、泣くにも泣けねえ心持をこらえながら、やってるんだ。(老婆は石つんぼだが、自分のことを言われていることに気づき、三人を見まわしている)
デニス だからよ、だから、そんなお前、そんなことが、俺たちのせいかよ? こんなひでえ目に逢うのが俺たちの――
ヴェルネ 俺たちのせいじゃねえよ。だから、そこんとこをどうやって行けば俺たち坑夫が生きて働いて行けるか、そいつをしっかりやってって見ようと言うのが俺たちの仕事だ。下手にジタバタすると、出来ることも出来そこなって、俺たちみんな死に絶えるぞ。
アンリ まったくだ。ハッパ、ぶっぱなすなあ、いつでも出来る。大事なこたあ、炭の筋に当るようにハッパをチャンと仕掛けることだ。なあ、そうだろ、バコウのおっ母あ?
老婆 あん?
アンリ (老婆の耳のそばへ)このなあ、ボリナーヂュ中の人間の命がよ、俺たちの肩にかかっているからなあ、めったなことでかんしゃくを起こしちゃいけねえよなあ! そうだろ?
老婆 そうだそうだ。ここの先生におたの申そうと思ってよ。町の教会までは、おらの足じゃ行けねえからなあ。
ヴェルネ フフ、フフ。
老婆 ここの先生、間もなく帰って来るかね?
アンリ まるでこりゃ、いけねえや。
老婆 (二人が笑うので、自分も歯の一本もない口をあけてニコニコして)……やっとまあ、こうして、あちこちからローソク貸してもらってなあ。へへ、今日はお前、死んだシモンの名付け日のお聖人さまの日だからな、お祈りだけでもあげてもらおうと思ってね。
デニス だって、バコウの小母さん、シモンは爆発で死んだんだぜ、つまり会社のために殺されたようなもんだよ? それを会社じゃ死体を掘り出そうともしねえ、その上、炭坑は閉鎖して生き残っている俺たちまで取り殺そうとしているんだ。お祈りをあげたからって、どうなると言うんだい?
老婆 そうだよ、お祈りをあげてやらねえじゃ、シモンは坑内に埋まったまま、いつまでたっても天国に行けねえからね。
デニス そ、そうじゃねえってば! (叫ぶ)俺の言うのはだな、バコウの小母さん!
アンリ ハハ、駄目だデニス。ソッとして置きなよ。
老婆 ホホ、ホホ、そうだよ、だからね、やっとまあローソクが間に合ったでね。見てごらん、こんな大きなローソクは、死んだ亭主の葬式の時だって使いはしなかっただから……ホホ。(ホタホタと喜んでいる)
デニス 畜生。どうしてこの婆さんは笑えるんだ?
ヴェルネ お前にゃ、おっ母あが笑っているように見えるかデニス?
デニス だって笑ってら。
ヴェルネ 笑ってる。泣くかわりにな。……こうやってお前、六十年、笑って、生きて来たんだ。
老婆 そうだとも。やっとまあ、お祈りがあげられるからなあ。ありがたいことだ。
デニス ……(それを見ているうちに再び頭をかかえこんでしまう)
アンリ ハハ、だがそれにしても、あんまり遅過ぎるなあ。ここの先生? どうにかしたんじゃねえだろうなあ?
ヴェルネ うむ。
アンリ バリンゲルの方であんまりわからねえ話をするんで、喧嘩にでもなったと言うような――
ヴェルネ いや、そんなこともなかろう。仮りにもお前、宣教師だ。それにあの人の腹ん中が綺麗だってことは支配人も知ってるよ。
アンリ そりゃそうだけどさ、あんな一本気の人だ。まるでお前、こうと思い込むと気ちげえみてえになるんだからなあ。今月も先月も、自分の月給が送って来たら、一文残さずそいつでパンを買って、みんなの家い配って歩いたりよ、ベッドはウィルヘルムんちの病気のおっ母あにくれてやっちまって、自分はこうして藁ん中に寝てる。毛布からジャケツまで、お前、ゴッソリ困ってる家にやっちまって、自分は着たきり雀のあのザマだ。たしかこの五、六日は、身になるような物あ何一つ口に入れてねえよ。あんなに痩せっこけて、ヒョロヒョロして、うまく歩けねえような加減だ。下手あすると、途中でぶっ倒れてやしねえか?
ヴェルネ そうさ、喧嘩よりは、そっちの方かも知れん。もう少し待って戻らねえようだら、迎えに行って見るか。
アンリ だけどなんだなあ、ありゃ全体、どう言うじんかねえ? わからねえ俺なんぞ。善い人で、お坊さんで、人のために尽すのが仕事だと言っても、どうもこのキツ過ぎやしねえかね? やることがよ? 自分には三文の得にもならねえ――言って見りゃモグラモチみてえな俺たちのめんどう見るために、お前、この半年の間にまるきり裸かになっちまったぜ、あの人は。住む所だって、こうだ。壁に絵がはりつけてあるから、ちったあごまかせてるけど、まるでへえ、なあんにもねえしよ、俺たちのどこの家よりも、ひでえよ、こいじゃ。
ヴェルネ うむ、変っていると言やあ変ってる。これまで宣教師もいろいろ来たが、あんな人は初めてだ。自分ではなんにも言わねえから、どんな量見だかサッパリわからねえが、並大抵のことであんなに夢中になって、お前、俺たち坑夫のために尽すこたあ出来るもんでねえ。内のハンナに、いつだったか、エス・キリストさまのしたのと同じことを自分はするんだと話して、涙あこぼしていたそうだ。
アンリ へえい、キリストさまと同じことをね?
ヴェルネ そう言ってたそうだ。俺にや何のことやらサッパリわかんねえ。なんでもブリュッセルや、そいからロンドンにも居たことがあるそうだ。
アンリ やっぱり宣教師でかね?
ヴェルネ いや、なんかこの、親戚の、絵を商ってる店に勤めていたそうだがな、うむ。
アンリ 道理で(壁の上の絵を見まわす)こんな絵を持っているんだなあ。
ヴェルネ なんしろ、きとくじんだ。自分の慰さみと言っちゃ、時々鉛筆なんぞで絵を描いてるぐれえで、着る物も食う物もあの調子、酒一滴飲むじゃなし、何がおもしろくって、こんな所でああしてるか。
デニス なあに、そいで自分で良い気持になっているんだい。俺たち労働者を救ってやろうてんで、つまり今言ったキリストと同じことをして福音をひろめると言うんだろう。汝自らを愛するが如く他人を愛せよか。そいで涙あこぼしたり苦しんで見たりして、良い気持になってるんだ。へっ!
アンリ また言うかデニス?
デニス なん度でも言わあ。世の中にはそういうおかしな人間も居ると言うことよ。当人は大まじめかも知れねえが、ホントウは道楽だ。第一おめえ、救うと言ったって、宗教だとか坊さんの力なんぞで俺たちのこんなありさまが、一体全体、救えるかよ? 冗談も休み休み言うがいいんだ。俺たちを救えるなあ、俺たちだけしきゃねえんだ。それによ、あの人の言うことあ決ってらあ。人はパンだけで生きるものに非ず、貧乏な人間が貧乏の中に福音を信じ祈りに生きてりゃ、いつかは神の祝福がある。へっ! だから、爆発で人がこんだけ死んでも、ただ祈ってろ。慰藉料を会社が三十フランずつしきゃ出さなくても、がまんしてろ。日給二フランと五十サンチームを三フランに値上げすることなんぞ要求するな。あべこべに二フランに値下げしようと言う今度の会社のやり方にも、御無理ごもっともで黙って働け!
アンリ ちがうぞ。ちがわあ! 今度の値下げについて黙っていろなんぞと、ここの先生は言ってねえ。三フランなきゃ暮しは立たねえとハッキリ言ってたぞ。今日もそのことを掛け合って来るんだって出かけたんじゃねえか。
デニス へへ、今に見な、チャーンとお前、バリンゲルにやりこめられて戻って来るよ。そして、会社の言うなりに、ストライキやめて働きなさいと説教するよ、きまってら。坊主なんてものは、どんな立派な坊主でも一人残らず、会社だとか金持の奴らの手先になって、俺たちをトコトンまでしぼり上げるための道具だい!
アンリ デニス、大概にしねえか!(今度は本気に怒って腰かけから立ちあがって、デニスの方へ詰め寄る)いつまでも先生のことをそんなふうに言やあがると――
デニス いくらだって言ってやらあ、俺あな、あんなインチキ坊主なんぞ――
アンリ ち!(デニスのえりがみをガッと掴む)
ヴェルネ おいおい!(立って行き、二人の間に割って入ってとめながら)いいかげんにしねえか! この大事な時に組合の代表のお前たちが、そんなことでどうなるんだ? いいから、やめろ!
アンリ 言わして置きや、ワッパのくせに、あんまり利いたふうな――
ヴェルネ まあさ! いいんだ、いいんだってアンリ!(そこへ入口の扉が外から開いて、ヴェルネの娘のハンナ「十四、五歳」と牧師ヨングが現われる)
ハンナ あら。(びっくりして口の中で言って)……おとっつあん!
ヴェルネ ……(そちらを見る。つかみ合いになりそうだったアンリとデニスも突っ立ったまま、入って来た二人を見る)どうしたんだハンナ?
ハンナ あのこちらの、あの――(とヨングを顧みる。ヨングは肥満した身体に、白い襟に黒の僧服をつけ、自足した落ちついた態度で、室内を見まわしている。三人の男が喧嘩でもしていたらしいことをすぐに見て取ったのだが、それに対して軽蔑の表情も現わさないほどに冷静である)
ヴェルネ ええと――(二、三歩出てくる)
ハンナ あたし、案内して来たの。あの、ブリュッセルから、おいでになって、ここの先生に会いたいからって。おっ母さんが、ご案内しろと言うから――
ヴェルネ そうか。……(ヨングに)そいつはどうも失礼いたしました。そうでございますか。そりゃまあ、遠い所を。まあま、おかけんなって。どうぞ。(と椅子をすすめる)
ヨング ……(僧服のすそをめくって、椅子にかけ)ベルギイ福音伝道教会ブリュッセル委員会から参った者です。ふむ。
ヴェルネ そりゃまあ、ようこそ――この、なんでやす、わしら、こちらの先生からいろいろお世話になっております坑夫でございまして――わしはヴェルネと申しまして、こっちに居ますのは――
ヨング ああ、よろしいよろしい、かまわないで下さい。ふむ。(と全く相手にしない)ここが、たしかにヴィンセント・ヴァン・ゴッホの住いだな?
ヴェルネ はいさようで。ここでございます。ええと、今日は、なんでございます、先生はチョットこの、よそに――チョット出かけていられまして――わしらも、こうして待たしてもらっているようなわけで――(ヨングの眼がジロリと老婆の方へ行くのを追いかけて)これはバコウと言いまして、亡くなったせがれのために、こちらの先生に御祈祷をあげてもらうために――
ヨング よろしいよろしい。私も待っていましょう。ふむ。(その癖のふむという鼻声が、相手を全く無視して、取りつく島がない)
間。老婆が口の中でブツブツと祈っている声。

ヴェルネ (マジリマジリしていたが、やがて娘に)ハンナ、そいで、なにかな、長屋のみんなは、どうしている?
ハンナ うん。四十人ばかり、小父さんやおかみさんが、かたまってね、事務所の前に居る。日給は今まで通りでいいから、入坑させてくれって、そう言って。フランシスの小父さんが、みんなを代表して事務所に頼んでいるんだって。
ヴェルネ そうか。フランシスがか?
アンリ そいつは、まずい! まずいぞ、そいつはフランシス! 俺たちが行くまで、どうして待ってくれねえんだ。そんなことすりゃ、会社の奴あこっちの腹あ見すかしてしまって、出来る話が出来なくならあ! なんとかしねえじゃ、そいつは、まずいぞ!
デニス 見ろ、鼻の先から、そう言う奴らが居るんだ。フランシスの裏切野郎!
ヴェルネ まあまあ待て。(ハンナに)そいで、ほかの連中はどうしている?
ハンナ うん、ほかの家じゃ、山へ草の根掘りに出かけたり――そうだわ、十人ばかり、坑口の炭車の所にかたまって、モータアなんか叩きこわしてしまえだって――
ヴェルネ え?(立ちあがっている)モータアを叩きこわす?
アンリ (これもギクンとして立ちあがっている)いけねえ! そいつは、いけねえ!
デニス やれやれ! 叩きこわしてしまえ! こんな腐れ炭坑なんぞなくなっちまっても、かまやしねえんだ!
アンリ デニス、何を言うんだ、きさま! 俺たちはここの炭坑といっしょに永年生きて来てるんだぞ。炭坑がつぶれて、どうして俺たちあやって行ける?
デニス へっへへ、いいじゃねえかよ! 炭坑が在ったって俺たちは生きては行けねえんだ。同じことだ。そうじゃねえか? どっちに転んだって、俺たちあ、神さまに見放された人間だい。
ヴェルネ まあ待て。こいつは何とかしなきゃ、ならねえ。……アンリ、お前、すまんけどな、すぐに坑口の炭車の所に居る連中の所へ走って行ってくれ。俺もすぐ行くから、それまで、無茶なことはさせねえようにお前からそう言って。
アンリ よし、大丈夫だ。
ヴェルネ そいから、ハンナ、お前な、おっ母あにそう言って、事務所の前に居る連中の所にすぐ行くようにってな。とにかく、俺がここの先生の返事を待って、すぐに行くから、それまでフランシスに、そのままで待っていてくれって、そう言うようにな。わかったか?
ハンナ わかった。お母さんにそう言うだね?
ヴェルネ そうだ。走って行くんだ。(ハンナとアンリが小走りに扉から出て行く)
デニス いいじゃねえか、ヴェルネのとっつあん。なるようにしかならねえよ。第一、モータア叩きこわすだなんて騒いでいても、どうせそんなこと出来るもんか。そんだけの元気がありゃ、とうの昔にストライキだって何とかなっているんだ。ウジ虫だ。ウジ虫が、コエつぼの中でただウジャウジャと騒いでいるだけだ。
ヨング ふむ。あんたは、この、ずいぶん勇敢なことおっしゃるが、ふむ――無神論者ですかな?
デニス ……あっしゃ、炭坑夫でさ。
ヨング ゴッホ君の説教は聞いておいでだろうね?
デニス 一度聞いたきりで、それから聞きませんねえ。
ヨング ふむ。……つまり、なにかな、あんたは、神さまは居られないと思っている――?
デニス よくわかりませんねえ。居らっしゃっても、俺たちはウジ虫ですからね、神さまは、あっちを向いて、肥え太って、鼻あつまんで――へへ、臭えからね俺たちは――そいで、俺たちが生きようが死のうが御存じねえらしいんでね。
ヨング 恐ろしいことを言う。ふむ。――涜神と言うことをあんた御存じか?
デニス とくしんと言うと――
ヴェルネ おいデニス、もう、いいかげんにしねえか!(ヨングに)牧師さん、この男は肺病でしてね、もう始終イライラして、いろんなくだらねえことばかり口走る癖がありまして、どうか、お聞きのがしくだすって――
デニス 心配してくれなくてもいいよ、とっつあん。俺あ正気で言ってるんだ。だってそうじゃねえか、神さまがチャンとして居るんだったら、今の俺たちみてえな、ウジ虫以下のこんな有様を、どうして黙って見ていらっしゃることが出来るんだね?
ヨング ふむ。すると、そう言うことをゴッホ君が言って聞かせたことがあるんだな?
ヴェルネ いいえ、そんなあなた、ここの先生は、そりゃもう福音通りにですな、エス・キリストさまと同じように自分が成って、この――
ヨング なに? キリストと自分が同じだと?
ヴェルネ いえ、そうじゃねえ! そうじゃねえんです! ここの先生は、つまり、わしらのことを心配して下すってです、今日なども、わざわざ、会社の支配人の所へ掛け合いに行ってくださって、この――(このヴェルネの言葉の間に、先程ハンナとアンリが出て行った時に開け放されたままになっている扉の、暗いガクブチの中に、足音もさせないで戻って来たヴィンセント・ヴァン・ゴッホが、しょんぼりと立つ。皆それに気づかぬ)
ヨング やっぱり、それでは、あんた方の先頭に立ってナニしているんだな?
ヴェルネ いいえ、そんな、そんなことあねえです。ただ、わしらのことを、この――
デニス わしらのことを会社に売りつけようとなすっているんでさあ。へへ。
ヨング (相手の言うことは聞かない)ふむ。……キリストと同じ……
その間もヴィンセントは、絶望し疲れ切った姿でボンヤリ立っている。帽子はかむらず、ヨレヨレのナッパ服に、ブリキを巻いて修繕したサボ。ひどく痩せた青い顔。……ヨングの声で、眼の色が動いて、ユックリそちらを見るがそこに居るのが誰であるかよくわからない。

老婆 ……(最初にヴィンセントを見つけて)先生、帰ってござった。
ヴェルネ ああ、お帰んなさい。御苦労さまで……(立って行って迎え入れる。デニスも立つが、これは何も言わない。ヨングは腰かけたまま全く無表情な眼をヴィンセントの姿に注ぐ)
ヴィン ……(ゴトリ、ゴトリと入って来る)
ヴェルネ こちらは、あの――(と身ぶりでヨングを指して)先程から、待ってござる――
ヨング ヴァン・ゴッホ君、わたしです。
ヴィン ……(言われてフッと我に返り、急にキョトキョト周囲を見まわす。それから改めてヨングを見て、黙って、ていねいに目礼する。ヨング軽くそれに答える)
老婆 あのな先生、こねえだお願いして置きやした、シモンの御祈祷を、今日あげていただこうと思ってね、こうして参りましたよ。どうぞまあ――
ヴィン ……(そのすこしトンキョウな調子の声で、そちらを振り向いた拍子に、身体の衰弱のため、フラフラと倒れかかる)
ヴェルネ どうしやした?(ヴィンセントの肩を支え、椅子にかけさせようとする。ヴィンセントは、もう一度ヨングに頭を下げてから、椅子にかけ、そのまま言葉を忘れてしまったように、グッタリとなって自分の足元を見ている……)
ヨング ……(しばらく黙っていてから)それで、どうしました、ヴァン・ゴッホ君? その、支配人との話しは――?
ヴィン ……(顔をあげてヨングを見るが、すぐに、喰いつくような鋭い目をして自分を見つめているデニスの方に視線を引かれ、次にヴェルネを見上げて、弱々しいしゃがれた声で)……駄目だった。……朝から今まで、なにしたが、……会社も苦しい。まるで余力がない。そう言う――バリンゲルさんは、悪い人ではない。会計の帳簿まで見せてくれた。……ボリナーヂュの出炭量は世界中で一番貧弱だと言う。だのに、それを売るのには、ほかと同じ値段で売らなくてはならん。だから、利益は非常に少なくて、株主への配当は僅か三パーセントだし、会社はいつでも破産の瀬戸ぎわに立っている。……坑夫の賃金を一サンチームでも上げれば、会社は確実につぶれる。そう言うんだ。嘘を言っているのではないことが私にわかる。……それでは、せめて労働時間を短くしてくれ、一日十三時間も入坑していたのでは、坑夫はみんな死んでしまう、と言うと……それは、事実上の賃金値上げと同じことになるから出来ない。……では、坑内の設備をもっとチャンとして、今度の爆発みたいなことの起きないようにしてくれと言うと、その金がない。それだけの利潤がないし、新株を売り出すことも出来ない。……では、せめて、爆発で生き埋めになった坑夫たちの死体発掘だけでもしてくれと私は言った。……そうです、私もなんとかして、そうしたいと思って重役や技師たちとも、さんざん相談して見たが、どうしても、それが出来ない。会社ではあの坑道は再開する意志がない。して見ても生産費だけの利益があがらない。しかも死体を発掘するには百人の坑夫で一カ月かかる。その費用は誰が出します? 会社にはそんな力はない。しかもそうして見ても、結局なんになる? 坑夫たちの死体を、あの墓場から、この墓場へ移すだけじゃないか?
デニス (低く、歯の間から)ちきしょう!
ヴィン ……バリンゲルさんも、悲しそうな、腹を立てた顔をして……言った。キリのない、絶望的な悪循環だ。わしは、もう何千回もこいつを回って来た。坑夫が悪いのでも、会社が悪いのでも、石炭が悪いのでもない。悪いのは出炭量が少な過ぎることだ。そんな炭坑からまで無理に石炭を掘らなきゃならんと言うことだ。そういう世の中であると言うことだ。しかたがない。……世の中をとがめて見ても、どうなりますか? すると、こんなみじめな有様については、神さまに責任があるんじゃないでしょうかね? わしが、カトリック教から、無神論者になってしまったのは、そのためです。神さまは、御自分でこんな状態を作り出して置いて、その中で人間が虫ケラのように死んで行くのを、見ておいでになるんだ――
ヨング 黙りたまい! 恐ろしいことを言う。もう黙りなさい、ゴッホ君! いいや、そんな恐ろしい涜神の言葉を吐くとは、仮りにもベルギイ福音伝道教会の宣教師ともあろう者が――
ヴィン ……(びっくりしてヨングを見ていたが、相手がなぜ怒り出したかを理解しないで)はい。……それで、そう言うわけで、坑夫たちがストライキをすぐにやめて、入坑して仕事を始めてくれなければ、会社では仕方がないから炭坑は永久に閉鎖する。それで、もう既に、レール、ボイラア、炭車、昇降機なぞ、機材の全部を南フランスの坑山会社に売り渡す交渉まで始めている。
ヴェルネ え? そ、そりゃ、ホントかね先生?
ヴィン ホントだ。
デニス 人殺しめ! 畜生っ! だから俺あ言ったんだ――
ヴェルネ まあ待て! そうだとすると、こいつは大事だ。こうっ、と。……(考え込む)
ヴィン ……そんなわけで、あんた方のために、なんとかしてと思って、一所懸命になったが――私には、なんにも出来なかった。……もう、なんにも出来ない。私には力がない……
デニス だから――だから俺あ言ったんだ! 坊主に何が出来る! それを、偉らそうにシャシャリ出やあがって、この――(拳をかためてヴィンセントに詰め寄る)
ヴィン ……どうしてくれてもよい。……私を許してくれ。(ガクリと頭を垂れる。その打ちくだかれた姿を睨みすえているデニス)
ヨング よろしい! もうよろしい! これだけ聞けば、もうたくさんだ! いや、どうも、私は、まさか、これほどだとは思っていなかった。いや、いや、もうよろしい! 実に、なんともかとも、驚き入りました。わが福音教会の宣教師が、毎月そのために月給を貰って神聖な事業に従事している宣教師が、人々の前で神さまを誹謗している! 無神論者になったことを公言していおる! もうたくさんです! ことは既に余りがある!
ヴェルネ 牧師さん、それは、あの――こちらの先生がおっしゃったことは、会社の支配人のバリンゲルさんの話を、この――
ヨング わかっている! あなた黙っていていただきたい! 私はゴッホ君に言っておる。どうかな、君の御意見を伺いたい? 神はないと君も思っているんだな? そうだな? そうでなければ先程のようなことが言える道理がない! え? なぜ返事をなさらぬ――
ヴィン そ、そ……(問いつめられて混乱し、苦しそうに喘いで)いえ、私はそんな、そんなことは思って、おりません。神さまは――バリンゲルさんの――
ヨング ハッキリ言いたまい。そうだな? え?
ヴィン (にわとりが、しめ殺される時のように、もがきながら)バリンゲルさんに、そう、言われると、私には、なんとも言えなかったのです。私には力がない。ボリナーヂュには神さまは、いらっしゃらぬ。私には見えない。そう言われると――
ヨング (ほとんど勝ち誇って)それ見たまい! これで全部かたづいた。よろしい、よろしい、もうよろしい。(急に落ちついた語調になって)あなたも御記憶の通り、これまで教会では、あなたに対して三度も四度も警告を発しておる。二カ月前にはビールテルセン牧師もやって来られてあんたに注意をなさった筈。それをことごとく聞き入れないで、あなたは、このようにけがらわしい所に説教所を設け、教会の威厳を損なうような不潔な服装をして、自分自らがキリストの再来であると言うようなことを口走り、教会から送る月給は、全部、犬のような労働者に与えて浪費してだな、キチガイじみたことばかりしておる。しかも、今度は坑夫を煽動して炭坑ストライキを起し、その先頭に立って騒いでいられる。
ヴェルネ そりゃ、違います! そんな、いいえ、ここの先生は、ただわしらのことを見るに見かねて――
ヨング 黙んなさい。あなたに言っているのではない。それで、こちらの炭坑会社からブリュッセルへ手紙が来て、教会から、あなたに対し厳重警告を与えてくれとあったので、私がこうして出向いて来たのだ。私の考えでは、実状を調査した上で、あなたによく忠告してだな、実は、なんとかしてあなたのために良かれと思って来て見ると、いやどうも、このありさまだ! すべてのことは前よりもひどくなっている。しかもそうして明瞭に、神さまを罵っている! これでは、もう、なんとしても弁護の余地はない。あなたとしても、そのように考えていられる神や福音のために伝道の仕事をなさる気は、もはや、おありでなかろうと思う。(椅子から立つ)私はブリュッセルに帰って直ちに、あなたを解職するような手続きを取ります。さようなら、それでは――(戸口の方へ歩き出す)
デニス やい、やい、やい! くそ坊主め、よくも言ったな! 犬のような労働者だと! おおよ、犬だ俺たちあ! おめえたちから、犬にされてしまった坑夫だ! 犬には教会は要らねえんだ。神も坊主も要らねえんだ。くそでも喰え! 俺たちにや、人間が居りゃ、たくさんだ。真人間が居てくれりゃ、たくさんだぞ。ここの先生は、俺たちのために、食うものも食わねえで、何もかも俺たちに投げ出してくれてる、真人間だぞ! 見ろ、この人のザマを! こんなザマになって俺たちに良くしてくれてんだぞ! お前みてえに食い太ったインチキ牧師なんかに較べりゃ、先生はキリストだ。へいつくばって、足でも舐めろ、畜生め!
ヴェルネ デニス! おい、デニス!
ヨング (冷笑して)よろしい。それでは、あんた方は、あんた方のキリストに救ってもらうがよい。(ユックリと戸口から出て行く)
デニス くそ!(ヴィンセントに)あんたも、あんまりおとなし過ぎるじゃないか、先生? あんなインチキ野郎、もうすこし何とか言ってやりゃいいのに。(ゴッホに対する自分の態度が全く矛盾していることに気づかない)
ヴェルネ さて、そうすると、会社では、そこまでハッキリして来ているとすると、もうこれ、ストライキをやめて、すぐに入坑するほかに方法は無いようだな。
デニス とっつあん、そいつは駄目だ。それが出来るくらいならお前、こんな所まで(言っている内に、筋道の通らぬことを言っていることに気づいて、プツンと言葉を切る)
ヴェルネ ふむ。……ええと……(考えている。目が自然にヴィンセントを見ている。デニスも無言でヴィンセントを見つめる。老婆も目をやっている。それらの視線の中でヴィンセントはガクリと、うつ向いている)
ヴェルネ しかたがない、五百人からの人間が死んでしまうわけにも行かねえ。デニス、行こう。事務所へ行って、みんなに俺から話す。……(ゴッホに)先生、あんたのことは、わしら、忘れねえ。皆になりかわって――ありがとうがした。でも、こうなって、まあ仕方ねえから――(心からの頭を下げてから、戸口から出て行く)
デニス ……(これも続いて行きかけ、ゴッホに向って何か言おうとして、口を開いて言いかけるが、遂に一言も言えず、片手で頭髪を掴み、前こごみにションボリして出て行く)
あとには坐りつくしているゴッホと、そのゴッホを見ている老婆。……夕陽は既に落ち、急にトップリと暗くなって、二人の姿がガラス窓の薄明りに向って、にじんだような墨色のシルエットになって動かない。……遠くで犬が吠えている。……やがて老婆が、マッチをすって、ローソクに火をつけ、それを壁のわきの粗末な小テーブルの端に立てる。ゆっくりと三本のローソクをともし終ると、室内が明るくなり、テーブルの上方の壁にはられた古い銅板のキリスト図が見える。

老婆 お願い申しますよ先生。
ヴィン う?
老婆 シモンのためにお祈りをあげてくださいまし。
ヴィン シモン?……(そのへんをキョトキョト見まわしているうちに不意に思い出して)……ああ、そうだった。(立ってゴトゴトとテーブルの方へ行く)
老婆 お金は一文もねえから、なんにも、へえ、お供えは出来ねえ。ホンの、まあ、わしの心持だけだ、これを、へえ、(と紙包みをガサコソと開けて、差し出す)たった一つだけんど、粉をお隣りから借りてね、わしが焼いたパン菓子だ。どうかまあ先生、めしあがってくだせえ。
ヴィン そりゃ、どうも……そう、そいじゃ、お祈りをしようか。ええと――(ポケットから聖書を出して、ローソクの前に立つが、それでは恰好がつかないので、近くの椅子を引き寄せて掛け、膝の上のパン包みの上に聖書を開くが、ゴロゴロするので、パンだけを取ってローソクのわきに置き、祈りに入るために壁の上のキリスト図に眼をやる)
老婆 ……(ヴィンセントのすることを眼で追って、これから祈祷がはじまることを知って椅子を立ち、ローソクに向って床の上に膝を突き、キリスト図を見て)なあシモンや、お前のために先生とおっ母あがお祈りをしるだよ。ようく聞いとくれ。……(胸のところで両手を合せて眼を閉じる)
ヴィン ……(しばらく眼を閉じていてから、低い声で)天にましますわれらの神よ。願わくば御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。御心の天に成る如く、地にも成らせたまえ。われらの日々のかてを今日も与えたまえ……(このあたりから、祈りの言葉が、非常にユックリになる)われらに罪を犯す者を、われらが、許すごとく、……(とぎれとぎれになる)われらの罪をも、ゆ――(プツンと切れる。しばらく、そのままジッとしていてから、再び努力して)われらに罪を犯す者をわれらが許すごとく、われらが罪を許したまえ。われらを試みに、あわせず、悪より、救い、いだし(再びとぎれとぎれになって来る)たまえ。国と、栄えとは、かぎり――(プツンと切れる。眼を開き、びっくりしたように四辺を見まわす。そこに、ローソクの光に照らされてひざまずき眼をとじて、ボシャボシャと口の中で祈っている老婆がいる。その姿をしばらく見ていたが、やがて苦しそうに膝の上の聖書を出まかせに開いて、いきなり読みはじめる)その時イエス答えて言いたもう「天地の主たる父よ、われ感謝す、これらのことを、かしこき人、さとき人に隠じて、幼な子に現わしたまえり」……(再び語調がノロノロとなり、そして、とぎれてしまう。やがてまた)父よ、然りかくの如きは汝の御心に、かなえるなり。……すべての働く者、重荷を負える者は、我れに来れ。……さらば、われ、汝らに安らぎを、あた――(プツンと切れる。そのまましばらくジッとしていたが、やがて、聖書を取って、ソッとパンのわきに置く。すべての力と抵抗を一度に失って、虚脱したような姿。眼は空虚にローソクの灯を見ている。……やがて、老婆に眼を移す。老婆は耳が聞えず、眼は閉じているため、ヴィンセントが祈りを続けていると思いこみ、口の中でボソボソと主の祈りを繰返して余念がない。……それをボンヤリ見守っているヴィンセント。右手が無意識に動いて、テーブルのパンへ行き、撫でる。しかしパンを撫でているとは彼自身は知らない。……次にその手が上着のポケットへ行く。それがポケットから出て膝の上に来た時には、ちびたコンテが握られている。そのコンテをボンヤリ見ている。やがて、パンの包まれていた紙の上に、ほとんど無意識にコンテが行き、線が一本引かれる。それを見ているヴィンセント。……ソッと老婆の方を見る。老婆はひざまずいて身じろぎもしない。ヴィンセントのコンテが紙の上で動く。やがて、ハッキリと老婆を見、紙のシワを伸ばして、老婆の姿のりんかくの線を二本三本五本引く。……その、うつけたような、しびれたような、そして次第に熱中の中に入りこんで行きかけた青白い顔)――(暗くなる)
[#改ページ]
    2 ハアグの画室
すぐに明るくなる。――
画室と言っても、居間も寝室も兼ねた粗末な裏町の一室で、そのガランとしたさまも、広さも、前のワスムの小屋に似ている。しかも、前に老婆のひざまずいていた場所にモデル女シィヌが裸体で低い台に腰かけているし、ヴィンセントが腰かけていた場所には、同じヴィンセントがイーゼルに立てかけた全紙の木炭紙に向ってシィヌを写生しているので、瞬間、前場の光景とダブる。
ただヴィンセントの絵を描く態度が、前のように弱々しい半ば無意識のものではなく、噛みつくように激しい集中的な描き方。木炭紙が破れるように強く速いタッチ。
シィヌは、前の所だけをチョット着物で蔽うて、ダラリとして掛けている。まだかなり美しいが、どこかくずれた顔や身体。長い葉巻を横ぐわえにしている。
……ヴィンセントの木炭のゴリゴリいう音。
女の葉巻の先から煙が、一本になってスーッと立ち昇っている。

シィヌ ……(低く口の中でフンフンと鼻歌。「アヴィニョンの橋の上で」。やがて歌詞も歌う。葉巻をくわえているので歌詞はハッキリしない)
Sur le pont d'Avignon,
L'on y passe, L'on y danse,
Sur le pont d'Avignon,
L'on y danse tous en rond.
(歌に合せて片足をバタバタやりはじめる)
ヴィン ……(それまで夢中になって描いていたのが、モデルの足が動くのでイライラしはじめ、しまいに我慢できなくなって)シィヌ! おいシィヌ!(シィヌは耳に入れないで歌いつづける)クリスチイネ! 頼むから、歌うのはやめてくれ。
シィヌ だってえ、――退屈だもん。
ヴィン 今、大事な所なんだ。
シィヌ 歌ぐらい歌ったって、いいじゃないか。声まで描くわけじゃないだろうに。
ヴィン そりゃそうだけど――なんでもいいから、じっとしていてくれ。
シィヌ あたしもこれまで、絵かきさんのモデルもずいぶんやって来たけど、あんたのように気むずかしいことを言う人は、まあなかったわね。ビタースは飲むなって言うし。
ヴィン それはまた別の――いや、だのに、お前はヂンを飲むから――
シィヌ ピーテルセンの先生がビタースがない時にはヂンだって良いって言ったんだもの、少しなら。薬なのよ私には。あたいは胃腸が弱いから――
ヴィン だから、ビタースなら良いけど――
シィヌ じゃ、お金ちょうだいよ。ビタースは、ヂンの倍も高いんですからね。
ヴィン 今一フランもないことはお前だって知っているじゃないか。あと二、三日すればテオが送ってくれるから、そしたら――
シィヌ 一にもテオ、二にもテオだ。飽き飽きしちゃった。なんでもいいから、テオさんもあんたの弟なんだから、それにお金持なんだから、毎月の金を一度に五十フランずつ三度に送るなんてケチケチしてないで、一度に百五十フラン送ってくれたらどうなの?
ヴィン 弟は精一杯のことをしている。グービル商会につとめて貰っている月給は三百五十フランぐらいなもんだ。その半分近くを僕に送ってくれているんだよ。そんなふうに言うもんじゃない。
シィヌ へん、そいで、じゃ、私たちの暮しはどうなるの? もうパンもないのよ。ヘルマンのミルクもないのよ。ここの室代も、もう三月も溜っているのよ。この上、私が入院するようなことにでもなると――
ヴィン コルの伯父が、良いスケッチが描けたら五枚でも十枚でも送って見ろと言って来てる。テルステーグさんも水彩画なら買ってやろうと言うんだ。良い絵さえ描けるようになりゃ、金はいつでも手に入るんだから――
シィヌ だのにあんたは、スケッチや水彩画なんぞサッパリ描こうともしないで、そんな汚ならしい真っ黒な絵ばかり描いているんだもの。
ヴィン 頼むから、クリスチイネ! 僕はサロン絵かきになろうとしているんじゃない。僕はホントの人間が描きたい。ホントの自然が描きたい。どんなに真っ黒で汚なくても、ここん所を卒業しないと駄目なんだよ。ね、頼むから、もう少し描かしてくれよ。じゃ、歌は歌ってもいいから、足を動かすのだけでも止めてくれ。
シィヌ いいわよ、じゃ。早くしてね、すこし寒くなって来ちゃった。
ヴィン すぐだ。(再び画面に向い、喰いつくような眼でシィヌと絵とを見くらべる)
シィヌ そのパンを少しおくれよ。おなかが空いちゃった。
ヴィン え、パン?
シィヌ そのさ、木炭を消すのさ。
ヴィン あ、これか……そう、じゃ……(と手元のパンのへりの所を割って、シィヌに投げてやる)ほら。
シィヌ なあんだ、へりの所ばかりじゃないのよ。中の軟かい所、おくれ。
ヴィン これは消すのに要るから、かんべんしてくれ。その代り僕はひとかけらだって食べはしないから。残ったら、みんなお前にあげる。
シィヌ しょうがないわねえ。(パンを噛み噛みポーズ。隣室で幼児が泣き出す)
ヴィン ああ、ヘルマンが、眼をさました。チョット行っておやりよ。
シィヌ なに、いいのよ。近頃、夜と昼をとっちがえてしまって、ゆんべもロクに寝てないから、うっちゃって置けば夕方まで寝てる。(幼児の泣声やむ)
ヴィン ……君は、自分の生んだ子に、どうしてそうじゃけんに出来るんだろうな?
シィヌ フフ、あんたはまた、自分とは何の縁もない私の連れ子を、どうしてそう可愛がれるの?
ヴィン そうさな、どうしてだか、自分にもわからないね。可愛いんだ。……そういうタチなんだろう。さてと……(絵に没入して行く、ガスガスガスと木炭の音。遠くで汽船のボウが鳴る)
シィヌ ああ、船が入ったな。
ヴィン うん?……(うわのそらで描いている)
シィヌ ハトバじゃ、いっぱい人が出てるよ、きっと。
ヴィン うん。……(描きながら半ば無意識に)いっぱい、人が、出て……人は、黒く見える。……肌の色は、ここん所がホンの少しカドミュームの混った白で……そいからオリーヴ、ここにオークル。そうさ、着物はブルウ・ブルッスであったり、赤やこげ茶もあるが……遠くから見ると黒く見える。ボリナーヂュでも黒かった。……黒の中にはすべての色が在る。
シィヌ あたしの黒のブラウズねえ、今のはもう痛んじゃってるから、入院するまでに新しいのを一枚こさえてくれない?
ヴィン うん。……こさえては、いけない。(返事ではない)見える通りに、描くんだ。……天使を見たこともないのに、天使を描けるものか。……(夢中で描き進む)
シィヌ (そういうことには馴れているので、勝手にしゃべる)だって、あたし、今度のお産では、もしかすると死ぬような気がするの。さんざん無理をした身体ですもん。病院の先生も、今度はちょっとむずかしいかも知れないって。
ヴィン え、死ぬ?(ヒョイと呼びさまされて)誰が――?
シィヌ ですからさ、ブラウズだけでも新しくなにしたいのよ。せめて死ぬ時ぐらい身ぎれいにしていたいじゃないの?
ヴィン いや、そんな君、そんな、シィヌ――どうしてそんなこと考えるんだ?(シイヌの所へ行き、肩をつかむ)――僕と言うものが居る。たとえ、どんなことがあっても――
シィヌ だってさ、あたしなんぞ、いっそ、その方が良いかも知れないんだ。小さい時から、腹一杯食べたこともない、大きくなると皿洗いや洗濯で骨がメリメリ言うほど働きづめ、そいからモデルになったり、ルノウの小母さんに引きまわしてもらったりしている内に五人も子供が生れちゃってさ。それも一人一人父親が誰だか、わかりもしない。……(自分で自分の話に悲しくなって涙を流しながら)せめて、今度の子が、あんたの子だったら、私、よかったと思うけど。
ヴィン いいよ、いいよ、そんなこと、気にしないで良い。生れて来たら、僕は自分のホントの子として育てて行くよ。心配しないでいい、大丈夫だ、ね、シィヌ! (抱きしめて、頬に激しくキスする)僕は君が好きなんだ!
シィヌ ううん。(おとなしく、されるままになりながら)ちがう。あんたはホントは私が好きじゃないのよ。あんたは、やっぱり、その、よそへお嫁に行っちまったケイさんとか言うイトコの人に惚れてんだわ。
ヴィン ケイのことは言わないでくれ。
シィヌ そらごらんなさい。そうなのよ。
ヴィン そんなことはないといったら。その証拠にこうして君と一緒になって暮しているじゃないか。
シィヌ ケイさんに失恋しちゃって、あんたガッカリしてたのよ。そこへ私が現われたのよ。そいで、あたしが、あんまり憐れな有様なもんだから、あんたの気持にピッタリしたんだわ。つまり、憐れんだのよ私を。
ヴィン ちがう、ちがう。そんなことはないよ。僕は君なぞよりズットズットみじめな人間だ。神さまからも人々からも見はなされた人間だ。君を憐れんだり、どうして出来るものか。
シィヌ 憐れむと言うのが悪ければ、みじめな者同士が寄り合ったんだわ。たとえて言うと、捨てられた犬同士が寄って来て身体を暖ため合ってるの。
ヴィン それでもいいじゃないか、だから。人間には、ただ男と女として愛するとか惚れるとか言うより、もっと深い意味で愛すると言うこともあるんだ。……僕はミレエの描いた畑の絵を見ると、そこの地面に抱きつきたくなる。そこを歩いている貧乏な百姓女の足にキスしたくなる、……(シィヌの足を見て、いきなりかがみ込んで足の甲にキスする)こんなふうに。こんなふうに。
シィヌ いやあ、くすぐったいよ! フフ! あたしは百姓女じゃないわよ。
ヴィン なんでもいいんだ、僕は愛している。
シィヌ 無理しなくたって、いいの。ねえ、私は五人も父なし子を持ってる悪い女――
ヴィン 悪いのはお前じゃない。まちがっているのは、そんな目に君を逢わせて、どっかへ行ってしまった男どもだ。
シィヌ だって、それが男じゃないの。見ていてごらんなさい、あんただって間もなく、あたしなんかうっちゃって、行ってしまうから。
ヴィン 絶対にそんなことはない。誓う。
シィヌ 誓ったって駄目。いいえ、あんたのそんな気持はうれしいけどさ、男も女も世間も、そんなんじゃないのよ。あんたにゃ、わからない。あんたと言う人は、そう言う人よ。いえさ、聞きなさいよ。あたしは、一口に言うと、淫売婦だ。さっきね、ハトバから汽船のボウが聞えて来たわね? あん時、あたしが何を考えていたと思う? フフ、このおなかの子の父親のこと。いいえ、その男だったかどうかハッキリとはわからないけどさ、マルセイユ航路の貨物船の水夫でマルタンてえ名、とっても毛深くって、力が強いの、ギュッとやられると背中が折れそうなの、フフ、去年の秋三、四度ハトバで逢って、そいでなにしてさ、そいから、黙って行っちまった――日を繰って見ると、そうじゃないかって気がするんだ。その男のことを思い出していたのよ。あんたとこうして居ながらね。そう言う女。だから――
ヴィン そんな、それは、今までのことはどうでもいいんだ。問題はこれからだよ。ね、頼むから、シィヌ、頼むから、もうルノウのおかみさんの所へは行かないと約束してくれ!
シィヌ だって、そんなこと言ったって、お金がこんなになくっちゃ――それにおっ母さんの方の仕送りだってどうすればいいの? あんた、四人の子をおっ母さんにおっつけたまま、そんな――
ヴィン だからさ、それは今に必らず僕が引き取って、絶対にチャンとなにするから――大丈夫だ! ね、シィヌ、僕にまかしといてくれ。僕は正式にお前と結婚するつもりだ。
シィヌ だけどさ――そんなこと言ったって――(ヴィンセントを見ている内に、相手を理解出来なくなっている)……変な人だわねえ、あんたって――
ヴィン ルノウのおかみさん所にまた君が行って、変な男なぞとナニしたら、僕あ、殺しちまう。
シィヌ そりゃ、あんた……(ヴィンセントからゆすぶられて、されるままに頭や髪をグラグラさせながら、不思議なものを見るように相手を見ている。……互いに全く理解し合えない男と女の抱擁)……痛い。
ヴィン ……うむ?
その時、ドアが開いて、画家ワイセンブルーフ(五十歳前後)と、ヴィンセントの義理の従兄で同時に絵の師である画家モーヴ(四十二、三歳)が入って来る。ワイセンブルーフは零落した天才画家と言ったふうの、極端に投げやりな身なりの、顔つきも言葉つきもソフィスト流に皮肉で活気がある。モーヴは堂々たる身なりの、落ちついた人柄。――入って来るや、いきなり鼻の先におかしな形の抱擁を見せられて、二人ともあきれて、言葉も出ないで、突っ立って見る。やがてワイセンブルーフは、ニタニタと笑い出す。モーヴが左手のステッキで、戸口の板をコンコンと叩く。音に気がついてヴィンセントとシィヌが振り返る。

シィヌ あら!
ワイセ (朗唱の調子で)昼は日ねもす、夜は夜もすがらくちづけの、か――さはさりながら、もうそこらでやめんかねえ。
ヴィン モーヴさんもワイセンブルーフさんも、いつ来たんです? ちっとも知らなかった。
ワイセ ちっとも知らないは、ひどかろう。いくらノックしても開けてくれないじゃないか。
ヴィン 聞えなかった。
ワイセ ごあいさつだ。ひひ!
シィヌ ……(恥じて、大急ぎで、膝の上の衣類で身体を蔽いながら)いらっしゃい。あたし、ちょっと[#「ちょっと」は底本では「ちよっと」]、あの――(困って、後ろさがりに、直ぐ上手につづいている小部屋「寝室」の方へ引っ込む。それを、にがり切って見送っているモーヴ)
ヴィン どうぞ掛けてください。(二人に椅子をすすめる)
モーヴ (突っ立ったまま)ヴィンセント、君は絵を描いているのかね、色ごとをしているのかね?
ヴィン え? そりゃ――
ワイセ 始まったね、モーヴ先生の訓話か。ハハ、そりゃわかりきっているじゃないかね。絵を描く暇々に色ごとをやっておる。または、色ごとをする暇々に絵を描いておる。同じだ全く。そして、それで何が悪い、え、モーヴ?(言いながら室内をブラブラ歩いて壁に立てかけてあるカンバスや半出来の素描などを一枚一枚見て行く)
モーヴ (それには相手にならないで、ヴィンセントに)人にはそれぞれのやり方がある。私も画家だ、人のやり方にうるさく干渉しようとは思わない。なんでもいいから、君が絵の勉強を一所懸命にやってさえくれれば、私はなんにも言わない――
ワイセ だが、案外に良いからだをしとるじゃないか。第一、ちょっとこう、荒れたような肌がいけるよ。五人からの子持ちとは、思えんな。ゴッホ君の好みもまんざらではない。見直したよ。うむ! そもそもこの、女の身体と言うものは――(フッと言葉が切れてしまう。ちょうどヴィンセントが描いていた全紙のシィヌの素描に目が行って、口がお留守になったのである。やがて、そのほとんど完成に近い絵の方へ三、四歩近づいて行き、妙な顔をして見ている)……
モーヴ (椅子にかけて)しかしねヴィンセント、私は君の従兄だ。それに君の両親やテオから、君の絵の勉強の指導をしてくれと頼まれている。つまり私には責任がある。それでこれまで、さんざん、いろんな忠告をしつづけて来た。だのに君は一つも聞いてくれん。石膏像のデッサンをもっとやった方がいいと言うと、アカデミスムはごめんだと言って、私に喧嘩を吹っかけて、石膏像を粉々に叩きこわしたね? いやいや、喧嘩のことはいいさ、とがめようとしているんじゃない。石膏像だって、それほど惜しいとは思わん。アカデミスムはごめんだと言うのもわかる。君も知っているように私自身アカデミックな絵は描いていない。むしろ反対だ。しかしだな、アカデミスムを、君のような意味で否定していいものかね? ……それを君は考えて見ようとはしない。そしては、こうして、意地になって、あんな女と、くだらない遊びにふけっている。その点を――
そこへ、なにも知らないシィヌが、大急ぎで仕度をしたと見え、来客たちに茶を入れて出すための道具をのせた盆を持って、隣室から戸口に現われるが、話が自分のことなので、立ちどまってしまう。モーヴもヴィンセントもそれに気づかぬ。ワイセンブルーフは無心に絵を見ている。

ヴィン 遊びにふけったりしてやしませんよ。シィヌを描いていたんです。第一、あなたはすぐにあんな女と言うけど、あれのどこがどうだと言うんです? 女が絵のモデルになるのが、いけないんですか?
モーヴ すぐそれだ。まあ聞きたまい。モデルモデルと言うけどね、なるほど時にはモデルもするにゃするけれど、実は――この、ハアグ中の絵かきが、あの女のことを何と言っているか、君は知っているのか?
ヴィン し、知りません。
モーヴ じゃ聞かせてあげよう。いいかね? 共――
ヴィン 黙ってください! 黙れ!
モーヴ なんだと――?
ワイセ やかましいなあ。
それまでジッと立っていたシィヌが、なんのこともなかったようにスタスタとテーブルの方へ行き、貧しい茶道具を一つ一つテーブルの上に置く。モーヴもヴィンセントも黙ってしまって、彼女の姿を見守っている。……その時、盆の上に最後に一つ残った茶わんが、小きざみにカチャカチャカチャと鳴る。

シィヌ (その盆をガチャンとテーブルの上に置く。その拍子に茶わんが床に落ちてパリンと破れる。それを見ながら、しばらく黙っていてから、思いがけなく落ちついたユックリした語調で)そうなんですよ。……みんな、私のことを共同――
ヴィン 黙ってくれシィヌ! だ、だ――
シィヌ ……(言葉を切って、しばらくジッとしていてから、フッと顔を上げてヴィンセントを見、それからモーヴを見、再びヴィンセントを見た時にニヤッと笑い、それから、破れた茶わんのカケラをガリリと踏んでユックリと歩いて戸口から出て行く。それを見送っているモーヴとヴィンセント)
ワイセ どうしたんだよ?(しかしすぐにまた、素描の方に注意を惹かれてしまう)
ヴィン (急にモーヴに振り向いて)仮りにそうだとしても、悪いのはシィヌじゃないんだ。その証拠に、仕事さえ有れば、あれは洗濯や掃除に雇われてチャンと稼いで来ているんです。悪いのは、そんな仕事では食べて行けないほどしか賃金をくれないからなんだ。いや、そんな仕事さえも、時々なくなってしまう。あれは身体が弱いんです。その病身の、なんにも持たない、教育もない女が、一人っきりで、しかも五人の子供と母親を抱えて、やって行かなくちゃならないんですよ! 人間なら――いや、神さまだって――だのにアントン、あなたはあれを、はずかしめることが出来るのか?
モーヴ 私は事実を言っているまでだ。事実を言われて、はずかしめられたと思う者は、まず自分ではずかしいことをするのをやめたらよい。第一、君がこうして、絵の勉強はそっちのけにして、あんな女に同情したり、同棲したりしているのは愚劣だよ。そいつは、センチメンタルな人道主義遊戯だ。
ヴィン 絵の勉強はやっていますよ! いや、僕にとっては、これがホントの絵の勉強です。絵を本気になって描いて行けば行くほど、僕はシィヌに引きつけられて行くんです。いや、シィヌとは限らない、踏みにじられた者、打ちくだかれた者、つまり世の中の不幸な、善良な人間たちに――
モーヴ そらそら、君は不幸なと言う言葉の次に必らず善良なとつづける。それさ、甘っちょろい人道主義と言うのは。不幸な人間は善良だと、きめている。へ! 果してそうだろうかね? まあいい、まあいい。今にあの女は君に嘘をついて、悪い病気をうつすかもわからないぜ? 酒を呑んで酔っぱらって、君の絵をやぶくかもわからないぜ? ハハ、君はミレエの絵の感傷的な説教主義にかぶれ過ぎたんだ。ディッケンズやミシュレのお涙ちょうだい小説を読みすぎたんだよ。
ワイセ (先程から二人の議論をよそに、身動きもしないで、全紙の素描に見入っていたのが、やっといくらかラクな態度になり、モーヴの言葉をヒョイと耳に入れて)うん、ミシュレか。ここにも書いてある。ええと、「悲しみ。世の中に弱い女が唯一人、打ち捨てられていて、よいのか? ミシュレ」
モーヴ それ見たまい。君はそんなふうな感傷的な文学を絵の中にまで持ちこんでいるんだ。私が心配するのは、それさ。絵は文学とは違う。文学などから切り離して独立させなければ絵は良くならない。人生の意義だとか、人生にわたると言うか、そう言ったふうの物語を持ちこんじゃならない。絵はもっぱら美を、美しいものを描くべきだ。
ワイセ うむ、たしかに、そういう所があるね、これにも。文学が持ちこんである。(言いながら、眼を素描から引き離そうとしても離せない)……しかしだな、この絵には、だな、そう言う所もあるし、なんと言うか……荒っぽすぎる。だけど、……(ブツブツ言った末に、不意に厳粛な顔になったかと思うと、それまでかぶったままでいた山高帽子をぬいで、心臓のところに当て、片足を後ろに引いて、素描に向ってうやうやしく敬礼をする)
ヴィン (それをチラリと見るが、気が立っているので、その意味がわからない)そ、そりゃ、しかしアントン、あなたの言う通りかもわからないけど、僕は何も人生の意義だとか、文学なんかを持ち込もうとしているんじゃないんです。美しいと思うから――美しいと思えるものを描いているだけです。ただ僕には、ホントに人生に生きている人の姿――なんの飾りもなく、しんから生きている――泥だらけのジャガイモが地面にころがっているように、人生そのものの、どまん中に嘘もかくしもなく生きているものが、美しく見えるんだ。そのままで美しく見える。だから、そいつを描いてるまでなんだ。理窟だとか文学だとか、そんな――
モーヴ 見たまい、ワイセンブルーフが君の絵に脱帽した。飲んだくれの、しようのない男だが、絵の良し悪しだけはわかる男だよ。それがシャッポを脱いでる、ハハ。……ま、とにかく議論は、もうたくさんだ。するだけの忠告はこの半年間、私はしつくした。もう私も飽きた。今日来たのは、こうして――(とポケットから二通の手紙を出して、卓上にポイと投げ出して)君のおやじさんと、テオから手紙が来た。テオのは、二、三日前に来ていたんだがね。読んで見たまい。気の毒に、おやじさんもテオも君のことをそいだけ心配している。……(ヴィンセント、手紙を開いて、読みはじめる)私は、自分の責任として、このことを君に伝えてだな、最後の忠告をしたいと思って来たのさ。忠告を聞き入れてあんな女と別れて、気を入れかえて勉強しはじめてくれさえすれば、私の方は、君の従兄だ、家のアリエットも君に対しては好意を持っている、喜んで今後もめんどうを見てあげる。聞いてくれなければ、一切これっきりだ。絵の指導はもちろん、お目にかかるのも、ごめんこうむる。いいかね?
ワイセ ヘヘヘ、フフ!
モーヴ どちらが君自身のためになるか、よく考えて決めるがよい。私の言うことは、それだけだ。いずれとも君の好きなように。
ワイセ ハハ、ヘヘヘ!
モーヴ なにかね、ワイセンブルーフ? 何を笑っている?
ワイセ なにね、いや、説教はそれくらいにして、ここに来てこの絵を見たまい。
モーヴ うん? 得意のミシュレかね?(立って素描の所へ来る)
ワイセ 飲んだくれだけはよけいだが、君は今、絵の良し悪しだけはわかる男だとわしのことを言った。
モーヴ 言ったがどうしたんだ?
ワイセ だから、この絵をよく見たまい。なんなら、もう一度シャッポを脱ごうか?
モーヴ (それまでニヤニヤしていたのが、素描を見るや、スッと笑顔を引っこめる)……ふん。……(ジッと見ている)
ワイセ (これも絵を見ながら)手ひどい絵だ。なんともかんとも、ひど過ぎる。
モーヴ うむ。……(ほとんど嫌悪の表情で絵を見守っている)
ワイセ 美しくもなんともない。むしろ醜悪だ。絵ではない。
モーヴ 絵ではないな。
ワイセ それでいて、この中には、何かが在る。どんなものが来てもビクともしない、恐ろしいような、何かがある。泥だらけのジャガイモか……ふん……だから、これで、絵なんだ。
モーヴ ふん。
ワイセ ゴッホ君が君の言うことを聞けば、また絵の指導をしてやると言ったが、どっちにしろ、指導などするのはやめたまい。指導してはいかん。また、指導はできないよ君には。
モーヴ どう言う意味だね、それは?
ワイセ 君は良い絵かきだ。わしは好きだ。しかし、こんな絵を描く奴には――そいつの将来については――(と、先程からの二人の会話を全く耳に入れないでテーブルの所で手紙を読みふけっているヴィンセントに目をやり、一歩そちらへ進んで、再び山高帽をぬいで)脱帽! ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ!(ていねいに敬礼する)
ヴィン (気づいて、びっくりして)え? なんです?
モーヴ からかうのも、良いかげんにしたまい。
ワイセ からかっているのか、わしが? ハッハ! モーヴ、君は今までの絵の伝統にとりつかれているために、今の所、わからないような気がしているだけだよ。伝統の久しきにわたれば、すべてそれだ、君の罪ではない。ヴィンセント、君はこれでいいんだよ。この調子でグイグイ、ゴツゴツと描きたまい。ほかの絵かきが美しいなどと言うものを信用するな。自分がホントに美しいと思うものだけを、それだけを、描くんだ。
ヴィン (しかし彼はそれまでの話を聞いていなかったのと、父と弟の手紙を読んで非常にガッカリしているために、ワイセンブルーフの言葉の意味あいがわからない。苦しそうな、ションボリした声で)ありがとうワイセンブルーフさん。しかしまだ僕にはデッサンがチャンとやれないんです。
ワイセ これでいいんだよ。自分の眼を信用したまい。
ヴィン ……(モーヴに)アントン、それで、僕はどうすればいいんです? こんなにまで父に心配をかけ――母も僕のことをあんまり考えていたんで病気になったそうだし、それにテオはこうして「兄さんのことは、私の力に及ばないような気がします」と書いて来ているし……まったく、僕はロクでなしの、みんなの重荷だ。どうすればいいか、僕は、それを思うと苦しくって――
モーヴ だから、私の言う通りだな――
ワイセ ゴッホ君、聞くな! 君は絵かきだ。絵かきは絵さえ描いていればいいのだ。その他のことは、どうでも良い! ハタが困ろうと、親兄弟が泣こうと、うっちゃって置け。誰と寝ようと、梅毒になろうと、餓え死にしようと、そんなことはどうでもいい。絵さえ描いて行けばいいんだぞ!
ヴィン いいえ、僕は、とてもそんなことは出来ません。僕はこんなに弱虫で、みんなに迷惑ばかりかけているのが、とてもたまらないんです。早く、僕の絵が売れるようになれば、少しは――
モーヴ だからさ、そんなふうに思っているのが嘘でなかったら話は簡単じゃないかね。おやじさんもテオ君も、君が絵を描いて行くことそのものに反対はしていない。むしろ援助しようとしている。わしも同じだ。だから――
ヴィン しかし僕はシィヌと別れるわけには行きません。あれは僕と一緒になってから、やっと変な男たちを相手にしなくなりましたし、酒も飲まなくなった。それをまた、僕が突き放すと、どうなると思うんです?
ワイセ ハハハ、だからそう言うミシュレ好きの感傷主義を捨てろとわしは言っているんだよ。画家は絵のためには一切のものを踏みにじり、捨てなきゃ、いかん。たかが女一人が何だね?
ヴィン でも、僕には現在、全世界よりもシィヌ一人の方が大事なんです。僕は間もなくあれと正式に結婚しようと思っています。
モーヴ 結――? ……本気で君は、それを、言っているのか?
ヴィン 本気です。
ワイセ やれやれ。(両肩をすくめる)
そこへゴトゴトと外からサボの音がして、ノックもしないで、ルノウのおかみさんが入って来る。身なりはひどく汚いが、まだどこか綺麗な四十前後の女。

ルノウ (入って来てキョロキョロ室内を見まわし、モーヴやワイセンブルーフを認めるが、挨拶もしないでヴィンセントに向って、いきなり、まくし立てる)ああ、やっと居たねゴッホさん? やれやれ、私は昨日も一昨日も来たのに、絵を描きに写生に行ってるとかって、たんびに無駄足ばかりさせられて、ホントにまあ、絵だか屁だか知らんけど、しとを茶にするのもいいかげんにして下さいよ。やれ、どっこいしょと。(と勝手に椅子に掛ける)
ヴィン ああ、ルノウのおかみさん。
ルノウ ルノウのおかみさんじゃ、ありませんよ! あんた一体、内の借金をどうしてくれる気ですよ? こうして、ツケを持って来たがね、ごらんなさいよ、ミルク、バタ、玉ねぎ、ジャガイモ、そいからニシンと、みんな先月から溜っていて、みんなで四十フランあまり、それにパン代の立て替えが二十フラン、しめて六十フラン。いいかね? 時々クリスチイネがやって来ちゃ引っかけて行くヂンのお代は勘定に入れなくてもですよ。いつ来ても、もう二、三日すれば払うからとか何とか言って、あたしん所だってお前さん、慈善事業で食料品や野菜を扱っているんじゃないんですからね。
ヴィン わかっている。わかっているから、今度金が来たら、必ず――
モーヴ (椅子からスッと立って)ゴッホ君、これで話は片付いたと言うものだ。君は君の好きにやるさ。ただ今後、私の所には一切来てくれたもうな。では。(サッサと出て行く)
ヴィン (それに追いすがって)待って下さい、アントン、待って下さい。(振り切ってモーヴは戸外へ消える)
ルノウ どうしたんだよう!
ワイセ (これも立ち去りかけながら)さては、お前さんとこだね、ハトバの近くで、食料品のほかにもいろいろ商なっているルノウと言うのは?
ルノウ (ジロジロと相手を見て)そりゃあね、世の中あセチがろうござんすからね。なんでも売りますよ、儲けにさえなりゃ。
ワイセ 帆立貝なども売ってるかね?
ルノウ 売りますね、注文さえ有れば。へへ。
ワイセ じゃ、こんだ注文に行くかな。(言いながら、おかみのふくらんだ尻をキュッとこすって、すまして出て行く)
ルノウ 助平爺いめ。……ねえ、さ、ゴッホさん! どうしてくれるんですかね? 今日は、あたしあ、払いをいただかなきゃ、テコでも帰りやしませんよ。
ヴィン ……(戸のわきにボンヤリ立っていたのが、ユックリこちらへ歩いて来ながら)すまない。ホントにすまない。なんとかすぐに――
ルノウ ただすまないで、すむと思うんですか? あたしんちだって、ああしてあんた、露店に毛の生えたような店なんですからね、こんなにカケを溜められたんじゃ立ち行かないんですからね。こちらのクリスチイネが頼むからまあ――クリスチイネとはズット以前からナジミですからね、食べるものがないと言って泣き付かれりゃ、うっちゃっても置けないしね、それに、近頃じゃ、あの子のおふくろまで時々やって来ちゃ、バタなんぞ持って行って、あんたんとこの帳面につけといてくれと言うんですよ。しかしそれも無理もないさ、クリスチイネの子供を四人もおっつけられて養ってやってんだからね。とにかく、そんなこんな全部、ゴッホさん、あんたの責任なんだから、ただそうやって、すまないすまないで、三文にもならない絵ばかり描いていちゃ駄目じゃありませんかね? こんなザマだと、また、クリスチイネは、あたしん所へ金を借りに来ますよ?
ヴィン ルノウのおかみさん、どうか頼むから、その、あれを引っぱり出すのは、よしてくれ。
ルノウ 引っぱり出す? あたしが? 冗談言ってくれちゃ困るよう! なあによ――これまでだって、いつでもあんた、あの子の方から是非にと言って頼まれてあたしゃ、めんどう見て来たんだよ。こいでもあたしゃ、女郎屋のやり手婆あじゃないんだから。シィヌの身になって気の毒と思やあこそ――だって、おふくろや子供たちにも、仕送りはしなきゃならない、自分は年中医者にかかっている、で、あんたはその調子、すると女の身で金え稼がなきゃならないとなると、こいで、元手はウヌが身体だけだあね。ひひ。そうじゃありませんかね? そうさせたくなかったら、あんたが奮発して、何か仕事を見つけて稼ぐんだね。
ヴィン 僕にやれるような仕事があるだろうか?
ルノウ そりゃね、今こんな不景気だから、割の良い仕事はなかなかないけど、やる気になりさえすりゃ、ハトバの仲仕だとか道路掃除の人夫など、ないことはないねえ。
ヴィン よし、じゃ、それをやって見よう。……だが、すると、絵はいつ描くんです?
ルノウ いつ描くんだって、そりゃあんた、仕事をおえて、帰ってから夜でも描きゃいいでしょう。
ヴィン 駄目だ。夜じゃ色が見えない。色が見えなきゃ、ホントはデッサンも出来ないんだ。色彩とデッサンとは別々のものじゃない。僕は早く色を掴まなきゃならない。
ルノウ へえ、色をね?(眼をむいている)
ヴィン それに時間が足りない。そうでなくても、僕はもう三十だ。始めたのが、ほかの絵かきよりもズッとおそかった。レンブラントもミレエも三十の時には、とうに立派な仕事を仕上げている。僕は急がなきゃならないんだ。人が五年かかってやることを三月でやらなきゃ。急がなきゃならない。
ルノウ だってあんた、どうせ絵なんて、まあ道楽に描くんだから、急ぐったって、なにもそんなに血まなこにならなくたって――
ヴィン そうじゃないんですよ。そうじゃない。僕は、じゃ、どうしてやって行けばいいんです?
ルノウ どうしてって、あんた――そんじゃ、なんじゃないの、まあ、やって行けるようになるまで当分絵を描くのは、よしとくんだね。
ヴィン よす? ……すると、僕は、どうして生きて行けばいいんです?
ルノウ え? ……(頭がもつれて)ですからさ、生きて、この、暮して行くためには、絵を描くのをやめなきゃならないなら、また当分がまんしてですよ――
ヴィン 絵を描かないで、どうして僕は生きて行けるんです?
ルノウ だからさあ、いつまでも絵ばかり描いていると、あんたもシィヌも死んじまうことになるから――
ヴィン そうです、絵を描かないと、僕は死ぬ。そうなんだ。
ルノウ ……(あきれてしまって、口を開けてヴィンセントを見ていたが、不意にゲラゲラと椅子の上でひっくり返りそうに笑い出す)ヒヒ! フフフ、アッハハハ、なんてまあ、ヒヒ! アッハハ、ハハ、アッハ。
ヴィン ……(びっくりして、おかみを見ている)
そこへドアが外から開いて、キチンとした身なりのテオドール・ヴァン・ゴッホが、急いで入って来る。

テオ 兄さん。……(ルノウのおかみが、まだ笑っているので、びっくりして立って見る)……兄さん!
ヴィン ああ、テオドール! ……(かけ寄って抱く)
テオ どうしたんです?(おかみの方を気にしている)
ヴィン (身体を離して)いつ、来たんだ、テオ?
テオ ヌエネンに行ったんです。パリを一昨日立って。そいで急に、兄さんに逢いたくなったもんだから。
ヴィン よく来てくれた、よく来てくれた。(言いながら、喜んでソワソワと椅子をすすめ)何かね、お父さんやお母さんは元気かね?
テオ (ルノウのおかみに、えしゃくをしてから)元気です。……兄さんのことを心配なすってるもんだから、そいで、僕――
ヴィン ああ――(と先程のモーヴの手紙のことを思い出してテーブルの方をチラリと見て)……すると――そのへんで、モーヴに、君、逢いはしなかった?
テオ すると、モーヴが来たんですね? 何か言ったんですか? 手紙のことを言ってやしませんでしたか、お父さんからの――?
ヴィン 読んだ。君からの手紙も読ましてくれた。
テオ そうですか。いえ、ヌエネンに行って聞くと、お父さんも二、三日前にモーヴあてに兄さんのことを書いた手紙を出したと言うでしょう? 僕も実は五、六日前にパリから同じような手紙をモーヴに出してある。もしかすると、その二つを持ってモーヴがここへ来て、手きびしいことを言やあしないか。……すると、同じような手紙を二通も読まされたら、兄さん、こたえ過ぎやしまいか、こいつは、いけないと思ってね……実はそれが心配になったもんだから、こっちへ廻る気になって、そいで停車場から馬車を雇って、モーヴの所へも寄らないで、急いで来たんです。
ルノウ あんたが、するとパリにいらっしゃる弟さんだね?
テオ やあ。(ヴィンセントに)手紙のことは、あんまり気になさらんで下さい。
ヴィン モーヴは、そして、絶対にシィヌと別れろと言うんだ。別れなければ今後一切めんどうは見ない。……だけど、テオ、僕として、それをどうしてウンと言えるかね? そしたら、モーヴは怒って帰ってしまった。そりゃ、お父さんや君に始終心配ばかりかけて、僕はすまないと思う。しかし――
テオ いいんです、いいんです。お父さんは、とにかく、ああして牧師なんですからね、手紙に書くと、どうしてもこの、道徳的なむつかしいことになってしまって、この、厳格な調子になる。そこは兄さんも理解してやらないといけないと思うんだ。僕の手紙は、ただ兄さんのことをくれぐれもよろしく頼むと言う意味の手紙で、しかし相手があの調子のモーヴだから、こっちの書きようも少しきびしくなるんで――
ヴィン ありがとうよテオ!(テオの手を何度も握りしめる)ありがとう! 実はあの手紙を読まされて、君から見捨てられやしないかと思った。お父さんは、まあ、仕方がない。しかし君から見捨てられたら僕はどうしていいかわからなくなる。ありがとう!(涙声になっている)
テオ いいんですよ、そんな、――いいんですよ兄さん。(ボロボロ泣いている。それをテレて笑って)馬鹿だなあ、兄さんを僕がどうして見捨てることができるんです? 兄さんは、これから立派な画家になる。そうですよ。そして、画家の仕事は戦いだって、ミレエの言葉を、手紙に書いてよこしたのは兄さんだったじゃないですか? アンダーラインまで引いてね。ハハ。
ルノウ いいねえ! 兄弟衆の仲の良いと言うもんは!(彼女流に、しんから感嘆して)そうですよ、ここのゴッホさんは、腹ん中のきれいな人ですからね。弟さんもまた、良い弟さんだねえ!
テオ (ヴィンセントに)こちらは、あのう――?
ヴィン 食料品屋のルノウと言って、僕がいつも厄介になってる――
テオ そう。そりゃどうも。どうか一つ、今後ともよろしくおたのみします。
ルノウ へえい、なにね、大したことは出来ませんですよ。なんしろ、ちっちゃな店でね、カケの二つ三つ倒されりゃ、それでポシャツちまうような身上ですからね、へへ、今もあんた、それなんですよ。待ってあげたいなあヤマヤマだけんどさ、六十フランとなると、わしらの店では大金だからね。それがねえと毎日の仕入れも出来ねえような始末だ――
テオ (聞きとがめて)六十フラン、では、カケが溜っている――?(兄を見る)
ヴィン (すまなそうに)そうなんだ。シィヌの母や子供たちの方へも食い物をまわさなきゃならないんで――
ルノウ (ツケをテオに見せながら)しかしまあ、こちらにねえとあれば仕方がねえから、もう少し待たざあなるめえと思っていたとこでね――
テオ そう、それはすまなかった。(兄に)ちょうど、送ろうと思って五十フランをここに持って来ています。ここんとこ僕もちょっと苦しくって、今、他に持ち合せがないんだが、帰ったら都合して残りもすぐに送ります。(言いながら、五十フランを出して、おかみに渡す)
ルノウ いんごうなことを言ったようで、すみませんねえ。いいんですかあ? そんじゃまあ……助かりますよ、こいで。
ヴィン テオ、すまない。……
テオ なに、もう少し早くなにすればよかったんだが、なにしろ、僕もこれできまっただけの月給で、目下ギリギリ一杯なもんだから。間もなく、店の支配人にしてくれるらしいから、そうなれば、もう少しなんとか出来るから。
ルノウ 支配人ですって? 結構ですねえ。どんな会社におつとめで?
テオ グービル商会と言って、ギャラリイを開いて、この、絵を商っています。
ルノウ ギャ、ギャラ――へえ、絵をね? どうれで、兄さんが絵かきになろうと言うんですね。兄さんがセッセと描いたのを弟さんがセッセと売るんだね? へえ! よっぽど、この、絵なんてえものは、利廻りの良いもんですかねえ?
テオ (苦笑)いえ、それほど良いわけでもない――
そこへ、ドアにガタンと音がして、外から、身体ごとぶっつけてドアを開けてフラフラと入って来るシィヌ。片手にヂンの瓶をさげている。

ヴィン ああ、シイヌ、お前――(相手が足元もきまらぬ程に酔っているのを見てドッキリ言葉を切る)
シィヌ ――Sur le pont d'Avignon……
ルノウ あら帰って来たね。どこへ行っていたんだよ?
シィヌ え?(薄暗い室に、外から、いきなり入って来たのと酔眼のため、眼を据えて、すかして見て)あらあ、ルノウの小母さん、こんな所に来てたの? なあんだあ!
ルノウ どうしたんだよ?
シィヌ ハハ、あんたん所へ行ったのよ私。留守だろ? だから、しかたがないから、キューペルの酒場に寄って、これ――(ヂンの瓶を示して)借りてね、フウ!
ルノウ キューペルで、よく貸してくれたねえ?
シィヌ 小母さんちを訪ねて行って、またなにして稼ぐ気だって、あたいが言ったら、そんならまあ貸してやろうって――へへ!
ルノウ またなにするって、お前――(とヴィンセントの方を気にしてジロジロ見る。ヴィンセントは真青になって言葉もなくシィヌを見つめている)――なんせ、いい御きげんだね?
シィヌ 御きげんだわよう。ラララ、ラ、Sur le pont d'Avignon, L'on y passe, L'on y danse,――(ロレツのまわらない口調で歌いながら、スカートをつまみ上げてグルグルとワルツのステップ。あげく、スカートを踏みつけて、ヨロヨロと倒れる)
ヴィン シィヌ――(それを助け起こそうとする)そんなにお前――そんなに酔うほど飲むなんて――
シィヌ 酔ってなんか居ませんよう! 薬なんですからね。あたいには、これは薬なんだから――ひっ!(シャックリをしいしい、やっと助け起こされる)
ヴィン 僕がお前のことを、どれだけ何しているか、それを考えてくれたら、そんな――シィヌ、僕はお前と結婚しようと思っているんだ。だのにまたそんな――
シィヌ 結婚? へへ、結婚なら、してるじゃないのよ! なあによ? んだからさ、あんたあ、あたいを食べさせてくれて、その代りずうっとタダで私を抱いて寝たじゃないか? 何が不足があるのさ? そうでしょ?
ヴィン 僕の言っているのは、正式に式をあげて――
シィヌ 式? ふん、式かあ。式なら、良いとこの、そこらの紳士がたの――(と酔眼で、先程モーヴやワイセンブルーフの居た辺をキョロキョロとすかして見る。そこには、テオが先程からいたましさに耐えない顔をして立って、そちらを見ている)――お嬢さんと式をあげなさいよ! どうぞ御勝手に。いいわよう、あたいにかまわなくたって。
ヴィン シィヌ! 頼むから、お願いだから、少し落ちついてくれ! ね、クリスチイネ!
シィヌ あたしゃ、ハトバへ行って、ルノウの小母さんに頼んで、愉快にやるんですからね! ねえ小母さん!(ルノウのおかみに、かじりついて行く)そんな、紳士がたとのつき合いは、あたいの性に合わないんだ。水夫や荷揚人足相手に、ハシケの蔭かなんかで式をあげる方が気楽ですよ。シンキくさい、絵かきだなんて、薄っ汚い、子供のラクガキみたいな物描いて、理窟ばっか、こねてさ、シンキくさいったら! ヤだあ、そんなの、あたいは。もう、フルフル、ごめんだよっ!
ヴィン 頼むから、シィヌ、頼むから――
シィヌ 頼むから、小母さん、ハトバへ連れてってくれよ。頼むわよ。今すぐ連れてって!(ルノウのおかみを引っぱって戸口へ行きかける)
ルノウ そりゃね、なんだけどさ、そんなに酔っていたんじゃ――
シィヌ 酔ってなんぞ居ないと言ったら! へ、どんな男だって相手にして見せるわよ、ヘッチャラよ!
テオ あの――(見るに見かねて、隅から一歩出て)シィヌさん、私は、あの――
シィヌ ええ、ええ!(振返ってテオの方を見る、酔眼でテオをモーヴだと思っているのである)どうせ、あたしは共同便所ですからね! 臭いでありますよ! 紳士さまがたのお歯には合わないでありますよ! ハハハ、へっ! 何よう言ってやがるんだ! さ、行こう小母さん!
ルノウ 困るねえ!(シイヌに引っぱられながら)ねえゴッホさん!
ヴィン お願いだ、シィヌ! シィヌ!(引き戻そうとする)
シィヌ 石炭酸で、ようく洗いなよ。あたいにゃ病気があるんだから。うつってんだよ、お前さんにも。(ヴィンセントの手を振り切って)絵かきがバイドクになったらなんになるんだっけ? ハハ、ヒヒ!(笑い捨てて、酔っぱらいのクソ力で、ルノウのおかみを引っぱって、ドアの外へドタドタと消える)
ヴィン ……(叩きのめされたようにグタリとして、戸口のわきに立ちつくしている)
テオ……(これも、急には何も言えず、動かない)
――間。遠くで、はしけのホイッスル。

ヴィン ……テオ。(力なく、こちらへ歩いて来る)
テオ 兄さん。……(なんにも言えず、そこの椅子に兄をかけさせる)
ヴィン ……僕は、まちがっているんだろうか?
テオ そんな……兄さんは、まじめに、なにしたんだから……
ヴィン 駄目だ俺は。……ただ、可哀そうなんだ僕はシィヌが。……先刻ね、モーヴとワイセンブルーフが、あれを侮辱した。いや、モーヴは別に、そうしようと言う気があってしたことじゃないけど。……そいで、そのためにシィヌは、ああなったんだ。……僕はどうすればいいんだろう?
テオ ……私には、なんにも言えない。どうしろと兄さんに言うことは出来ません。……しかし、兄さんが悪いためじゃない。兄さんが悪いんじゃない。
ヴィン いいや、俺が悪い! ……俺は実に、自分のわきの人間を、みんなダメにしてしまう。疫病神のような人間だ俺は。現に、絵を描くために、お前にこんな迷惑をかけたり、――(言っているうちに、ちょうど前に置かれた全紙の素描に目が行き)こ、こんな、うす汚い絵を描くために!(ガッとその板を掴んで、片手でその木炭紙を引き裂こうとする)
テオ 兄さん、何をするんだ!(と、そのヴィンセントの手を掴む。その拍子に板が動いて、素描がこちらに向く。シィヌの裸体の坐像)
ヴィン 見ろ! シィヌの言う通りだ。子供のラクガキみたいな、うすっ汚い――(スーッとあたりが暗くなる)
テオ そんなことはありませんよ!
ヴィン (ほとんど泣き声)俺は三十だ。だのに、この通り、まだデッサンひとつ、ちゃんとやれない。……死んだ方が、ましだ。どうすればいいんだよ。え、テオ?
テオ そんな、そんな、気を落しちゃ、いけない! 兄さんには描けるんだ。よく、ごらんなさいこの絵を。ようく、ごらんなさいよ、この絵を。
既に真暗になってしまって、ヴィンセントの姿もテオの姿も、室内の影も全部見えなくなり、「悲哀」の素描だけがクッキリと浮びあがって見える。……隣室でヘルマンのまた泣き出した声が弱々しく低く聞え、続く。……
[#改ページ]

     3 タンギイの店

軽快な浮々とした音楽。
パリの町の、繁華の場所からチョット引っこんだ、古いクラウゼル街の、ペール・タンギイの絵具屋の店内から街路を見たところ。店と言っても、ごくささやかな、浅い内部で、一番手前に茶テーブルと二、三の椅子、上手は絵具を入れた箱の並んだ棚を背に売台になって居り、下手はガラスの飾窓の中に額に入れた数枚の絵が、裏向きに(つまり奥の街路から通行者が見られるように)並べてあり、開け放たれた正面の入口へ十歩も歩めば、すぐ外は横町の街路である。
よく晴れた、しかしシットリと明るい秋の午後の、路ばたに一、二本見えるマロニエの葉がすこし黄ばんで、その下を人通りがチラホラ。入口の柱や窓のワクや売台から、ハメ板まで眼のさめるような碧色に塗られ、それが外景の軟かい白や薄黄に対照する。……上手の手前に店の奥への通路。下手の茶テーブルのわきに斜めに片寄せたイーゼルの上に半分描きかけの「タンギイ像」がのっている。壁のあちこちに、フチに入れた浮世絵の版画が四、五枚と、フチに入れない小さい油絵が二、三枚。
上手の売台の中に立って、下手の「タンギイ像」によく似た、ただしそれから麦わら帽子だけをぬがせたタンギイが、若いボヘミアン風の画学生に絵具を売っている。表では通りがかりの娘が一人、めずらしそうに飾窓の中を覗きこんでいる。

学生 オークルを、もう一本。
タン もうそれでいいでしょう。
学生 またはじまった。僕は風景を描くんだぜ。オークルがなくて、どうして描けるんだい?
タン さあ、それは私にはわかりませんな。とにかく、もう絵具は有りません。
学生 小父さんちは絵具屋だろう?
タン そりゃ、そうでさ。看板にもちャンと書いてあります、絵具販売業、タンギイ。
学生 だから業じゃないか。業なら客に売らなくちゃなるまい?
タン 売りますよ、売るぶんにはいくらでも。
学生 だからオークル一本。
タン 聞きますが、売ると言うのは、品物をお客に渡して、お客から金をもらうことでしょうな? あなたは、この前の分も、まだ払ってくださらない。
学生 だから、こんだおやじから金が送って来たら、今日の分もいっしょに、くださろうと言ってるじゃないか。信用しないかね僕の言うのを?
タン 信用はしますけどね……困りますねえ、とにかく、家では家内があんた、やかましくって。
学生 ははん、クサンチッペか――(店内を見まわす)今日は留守かね?
タン 奥に居ますけどね、とにかく私が後でえらく叱られますから。
学生 クサンチッペとはよく言ったな。ゴーガンが初め言い出したんだって?
タン そうですがね、ありゃ、どう言うわけがあるんですかね?
学生 へえ、知らないのかい? ハハハ、こいつは良いや!
タン どうでゴーガンさんだ、やっぱり悪口でしょうな?
学生 いいや、褒めたんだよ。ギリシャの大哲学者ソクラテスの妻君クサンチッペ。美人でね。ただ少し、口が悪かった。ハハハ、とにかく、だから小父さんはソクラテスと言うことになるじゃないか。
タン 冗談でしょう、へへ。
学生 だから、オークルを貸せよ。
タン 困ったなあ。
学生 それに小父さんは、貧乏絵かきのパトロンだろう? みんなそう言ってる。ペール・タンギイこそ、新しいパリ画壇の守り神である!
タン おだてたって、その手には乗りません。そいつで今までずいぶん引っかけられて来たんだから。第一あなた、こんなちっぽけな店で、そうそうナニしていたんじゃ、忽ち破産ですからね。せいぜい私らに出来ることは、若い絵かきさん方に時々僅かの融通をしてあげるくらいのとこでさ。それと言うのが、私あ絵が飯よりも好きですからな。
学生 その若い絵かきさんじゃ僕はないの? だからさ、よ! その僅かの融通を、ね頼むよ。(十字を切って)金が来たらきっと払う、サン・ラザールのマリヤにかけて!
タン ……どうも、しようがないなあ。じゃま、こんだ必らず払って下さいよ。ええと、二十フランに、今日のぶんが、オークルを加えてと、九フランと、二十サンチームと――(言いながら、棚の箱から絵具のチューブを出して、今までの二本に加える)
学生 ありがたい、助かるよ……(と、ホクホクしながら、そのへんを見まわしていたが、「タンギイ像」に目をとめて)ほう、小父さん描いたの? 似てるなあ。自画像ってわけだね?
タン へへへ、やあ、そういうわけでもありませんけどね……ちょっと、その――はい、これ。(とチューブを渡す)
学生 ふむ。……(絵をジロジロと見て)おもしろいじゃないか。思い切って荒っぽい所が良いよ。われわれ玄人には、こうは描けんな。(ニヤニヤ笑いながら)恐いもの知らずと言う奴だね。ふん。
タン わしは、それが、気に入っているんですがね。
学生 しかしね、絵を本気でやって行くつもりなら、もう少し絵具を殺して描かないといかんな。これじゃ、みんな生だよ。それに、いくら商売物で絵具はいくらでもあると言ったって、いきなりこんなにどっさり塗っちゃ駄目だよ。まるで、ダブダブに盛り上っているじゃないか。
タン なるほど、そんなもんですかねえ。
学生 まあ、しっかりやりたまい。じゃ、さいなら。(手のチューブを振りまわしながら出て行く)
タン へい、ありがとうござ――(途中で言葉を切って、ゴマ塩ひげの頬をガシガシ掻きながら学生を見送っている。――その学生は、通りすがりに、先程から飾窓を覗いている若い娘をからかう。娘がモジモジした末に、コケットに笑いながら通りを小走りに向うへ逃げて行く。それを追って画学生も駆け出す。それらが全部見える――パリの裏町の秋の午後のちょっとしたパントマイム)
どこかの教会の鐘が、鳴っている。

おかみ あなた――(言いながら、上手の通路からコトコト出て来る。小柄な五十ぐらいの女)お客さんでしたか?
タン うむ、いや、コルモンさんのアトリエに居る、若い絵かきさんで、たしかマルタン――
おかみ また、絵具を貸したりはなさらないでしょうね?
タン いや、そりゃお前、そんな――
おかみ あんたはチョットおだてられると、良い気になっちまって、ポイポイと貸しちゃ、それなりけりで、代金は払っちゃくれない、そのカタにわけのわからない絵など掴まされてばっかり居なさるんだからね。……コーヒーはここであがるんですか、奥にしますか?
タン そうさな、ここでもらうかな。……
おかみ でも、飲んでいる所へ絵かきさんでも来ると、そちらへも出さなきゃならないんだから――ホントに、いくらあんた金が有ったって、こんな調子だと、たまったもんじゃありませんよ。また、絵かきなんて言う人たちは、皆が皆どうしてこう、揃いも揃って、いけずうずうしいと言うか自分勝手と言うか、気ちがいじみて、グウタラなんだろう。因果なことにその絵かきさんが、家のお客なんだからねえ。
タン じゃ奥へ行って飲むか。
言っている所へ、三人の人が通りの方から来る。エミール・ベルナールとロートレックとベルト・モリソウ。ベルナールは、温和な美貌の青年で絵具箱を肩にさげている。ロートレックは貴族的な黒の礼服を着た小男で、それほどの年でもないのに、一見五十過ぎに見える。ベルト・モリソウは富裕な夫を持った四十四、五歳の女画家で、ハデで上品な身なりと美しい顔のために、三十歳ぐらいにしか見えない。――三人はこの店に入って来かけて、飾窓の前でチョット立ち止る。ロートレックが、ステッキで、中の絵の一つを指している。

おかみ そら、おいでだ。ロートレックさんと、ベルナールさんと、あの奥さんは何とか言ったっけ――
タン モリソウの奥さんだよ、ベルト・モリソウ。綺麗な絵を描く人だ。……(言っている内に三人が店に入って来る。タンギイその方へ寄って行き)これは、いらっしゃいまし、モリソウの奥さん、良いお天気でございますな。
ベルト (やわらかな会釈をして)モンマルトルの丘の上から見ると、空がルリを溶かしたように見えてよ小父さん。パリは今頃が一番ですわね。
ロート (酔っている。タンギイに)やい、詐欺師! また、うまくやりやがったな。どうして巻きあげた、あれは?
タン (相手の口の悪いのには馴れている。微笑しつつ)なんですかな、ロートレックさん?
ロート あのマルチニックさ、ゴーガンの。あれは小さいけどポールが離したがらないでいた奴だ。
タン 良いもんでしょうかね?
ロート へっへへ、しらっぱくれていやあがる。そうだとも、あんな絵は馬鹿か気ちがいでなきゃ描かないんだぞ。ねえベルト。(モリソウは笑っている)ただで貰っても迷惑と言うしろものさ。
タン そうですかな? いや、ゴーガンさんの絵具代が二十五フランも溜っていましてね、どうしても払って下さらないもんですから、しかたなしにあの絵を、ああしてお預かりして置いてあるんですが、なかなか売れないんで弱っていますよ。
ロート どうせ、そんなことだろうと思った。売れるもんかあんな絵が、今どきのパリで。
エミ 二十五フランか。僕なら二百五十フラン出しますよ。ただし、目下一フランもないけど。
タン (ロートレックの言葉も、ベルナールの言葉も深くは理解できないで)え? いえね、とにかく、昨日などあなた、立派な紳士が飛びこんで来て、あの絵は逆さまに置いてあると注意してくれましたよ。上の青い所は、あれは空ですからと言いますとな、あんな空がこの世に在る道理がない、あれは海だ。そう言うんですよ、ハハ!
ベルト ホホ、まあねえ!(他の二人も笑う)
ロート は! そう言う豚どもだ!
おかみ (ベルトに)いらっしゃいまし、奥さん。どうぞこちらにお掛けんなって。(椅子をすすめる)
ベルト ありがとう。どうぞお構いにならないで――いえね、これから御一緒にタンボランの展覧会に行くんですの。エミールさんが、御主人の肖像をゴッホさんが描いているから、寄って見て行こうとおっしゃってね――これですわね。(「タンギイ像」に目をやる)
ロート いよう、やっちょる。(言いながら、ステッキを突きヨロヨロとびっこを引いて絵の方へ行く)……なんだ、もう出来あがってる。
エミ 一撃で描く。そう言うんですよ、いつも。実際、一昨日は半日かからないで、これだけ描いてしまったんです。筆がまるで刃物みたいだ。見ていて、僕は怖くなる。……
タン いかがなもんでしょうかな、絵の出来ばえは? 家内は、あんまり私に似ていないと言いますがな……(三人の画家は絵ばかり見て、相手にしない。しかたなしにおかみに)ええと、お前、お客さま方にコーヒーさしあげてくれ。
おかみ え? ……(ムッと怒ってタンギイを睨みつける)
ロート コーヒーなんて、堕落した飲み物を、わしが飲むと思うのか。わしは――(とポケットからブランディの瓶を出してラッパ飲み。しかし目は「タンギイ像」から離さない)
タン (客の手前、虚勢を張って)では奥さんとベルナールさんにコーヒーを持って来なさい。
おかみ ……(プリッとして、何も言わず上手の通路から奥へ去る)
ベルト きれいだ! ホントにきれいな色! ですけど、どうしてこの方は、こんな人の真似をなさるんだろう? 構図はゴーガンさんだし、日本の浮世絵なんぞグルッと描きこんだりしたのは、言わば、まあ、アンリ・ルッソウじゃなくって? タッチにはスーラさんも取り入れてある。
エミ 僕はそうは思わないですね。なるほど、影響は受けています。非常に素直だから。素直すぎるんです。なにしろ、去年、アントワープからパリに出て来て、出しぬけにマネエやピッサロやゴーガンを見さされて、たまげてしまって、自分も明るい色を手に入れなきゃならないと言うんで、一週間ぐらいの内にパレットの絵具をすっかり取り変えてしまったくらいですからね。そう言う男ですよ。情ないくらいに謙遜な、特にゴーガンの前ではまるで卑屈なんです。見ていて泣きたくなるくらいに気が弱い。
ロート 弱いかねえ? わしには猛烈すぎるように見えるがねえ。ゴーガンは人間は強引だが、絵では、自然と仲良くやって、つまり自然を撫でたりさすったりしている。こいつは、歯をむいて、噛みつこうとしている。ふん。……セザンヌが、こないだ、奴さんの自画像を見て「この人は気ちがいの絵を描いてる」と言ったっけか、フフ、さすがに、うがったことを言う。もっとも、そう言う夫子自身、ちゃんともう気がちがっているがね、へへ!
そこへ、しかたがないと言ったふくれっ面で、おかみが三人分のコーヒーを盆にのせて持って出て、茶テーブルの上に並べる。

エミ すみませんねえ、おかみさん。(おかみは黙々として、右手の売台の方へ行く。タンギイは立ったまま先程から三人の話をむさぼるように聞きいっている。表の飾窓の所には、着飾った若い夫婦が中の絵をしきりに[#「しきりに」は底本では「しきにり」]覗いている)
ベルト すると、トゥルーズ、あなた御自身はどうなの?
ロート もちろん、気がちがっている。こうして、曲った背中と、なえた足を持って貴族の家にオギャと生れた瞬間からね。(再び瓶から飲む)
ベルト あなたの言うことを聞いていると、たいがいの人が狂人みたいだわね?
ロート そうさ、この世の中は元から気ちがい病院でね。ただ、幸福な気ちがいと不幸な気ちがいが居るだけだ。スーラだとかセザンヌだとかマネエだとかピッサロは幸福な気ちがい、なかんずく、われらが税関吏アンリ・ルッソウは幸福なる気ちがいの最たるものだ。そのほかは、みんな不幸なるおキチさんでね。なあエミール。
エミ 僕は、まだ気ちがいでもなければ不幸でもありません。これから、どっちかになるんですよ。
飾窓を覗いていた若夫婦が少しオズオズしながら入って来て、売台のおかみに、飾窓を指して何か言う。おかみは飾窓の所へ行き、ガラス戸を開いて、フチに入ってない小さな絵を取り出して売台の所へもどって来て、客に見せ、双方で小声で何か掛け合っている。

ベルト すると私などは、どっち?
ロート あなたは幸福なる――いや、あなただけは気ちがいじゃないね。まあ、気ちがい病院の看護婦と言う所かな。
ベルト あら、どうして?
ロート あなたは、金持ちの銀行屋の御亭主を持ち、愛し愛され、そしてサロン風のアトリエに坐って程よく美しい花の絵などを描いて、そうやって四十過ぎになっても三十前のように綺麗で色っぽくてさ、まだ恋愛の一つや二つはいたしましょうと言う――
ベルト よござんす。たんと皮肉を言って、おからかいなさいまし。
ロート からかうなどとは、とんでもない。うらやんでいるんです。ゴーガンなら皮肉を言うでしょうが、私は、うらやましい。ゴーガンは土人だ。私は地獄に落ちたウジ虫でね。このまま、バイドクと脳軟化とアルコールでグジャグジャと腐って行くことが残されているだけだ。「淫婦のごとく、脚空ざまに投げ出して、血にたぎり毒素を放し、しどけなくふてぶてしいザマをして、悪臭みてる腹をひろげて横たわる」うまいことを言やあがるボードレールと言う奴は。「悪臭みてる腹をひろげて横わる」
おかみ (売台の所から)ねえお前さん、ちょいと――(声が大きいので、こちらの話はやんでしまう)
タン ……え、なんだね?
おかみ このお客さんがねえ、このりんご、一つだけ売れないかとおっしゃっているんですけどねえ?
タン うん?(そちらへ行きながら)りんごを一つと言うと――?
おかみ これさ。セザンヌさんの、この――(カンバスをこっちに向けると、りんごが四個置いてある)いくらだとおっしゃるから、二十フランと申し上げたらね、四つは多過ぎる一つだけ欲しいとおっしゃってね。(こちらの三人は、びっくりして見ている)
タン しかし、一つだけと言うのは――
夫 いや、その、なにしろ、あっしの所では今度、スッカリ店の手入れをしましてね、その方に金をつぎ込んでしまって、この――あっしはラピック通りで八百屋をやっていまして、今度、まあ果物も置くようにしまして、この――いえ、今日は、家内の妹の誕生祝いによばれましてね、その帰りでさあ、そこの窓でチョットこの、絵を見かけたもんで、家内とも相談しましてね――
婦 (まだ二十くらいのパリの下町の、あまり教育のない、しかし可愛い嫁。ういういしくはにかんで)とても、あの、良い絵だもんですから、ロベールに私が言ったんですの。果物の店は、あの、綺麗にして、なんですわ、美術的にして置かないとお客さんが寄り付いて下さらないから――
夫 そいでまあ、このりんごの絵なら飾っとくのに打って付けだと思いましてね。そこで、こんなに絵具がたんと塗ってあるんでやすから、二十フランは別に高いとは言うんじゃねえんですけどね、この、店の手入れに、えらい金がかかったんでね、まあ、一個だけ売ってもらえるとありがたいってわけで、なんでさ、四つで二十フランだから一個なら五フラン――
タン ……(さっきから、たまげ切って口だけパクパクさせていたが)だが、一個だけ、この、売ると言っても――そりゃ、せっかくの何だから、なんですけど、とにかく、四つ、こうして描いてあるんだから、それをあんた、どうして――
おかみ じゃ、これ、ハサミで切り取って差しあげたらどうだろう、一個だけ。ね、そうすりゃ、また残りも売れるんだから。(棚から大鋏を取り出す)
タン ま、ま。待ってくれ! 困ったなあ。いえね、これはあなた、セザンヌと言う、この、まあ天才の絵かきさんの描いた絵でございましてな。
婦 はあ、ホントに立派な絵ですわ。うちのロベールは美術品には、それはもう眼がないんですの。
タン ですけどね、この切って売ったとなりますと、セザンヌさんがガッカリなさるだろうと思いましてな、この――
夫 わたしんちなんざあ、どんな果物でも一個売りをことわったことあねえんですけどねえ。お客有っての商売だからね。
おかみ いいじゃないかねお前さん、この絵は絵具代のカタにセザンヌから受取ったもんなんだから、家のものだろ? なら売ろうと、どうしようと、こっちの勝手じゃないか。
タン そりゃそうだが、これ、切ってしまうとなると、いかになんでも、この――(客に)決して売りおしみの何のと言うわけじゃございませんが、どうも都合がございまして、今日の所はまことにすみませんが、どうかまあ、ごかんべん下さいまして――
夫 そうかねえ。(しぶしぶと)無理に買おうと言うんじゃねえ。……(妻の腕を自分のわきに取りながら)なんだな、売られないものは店から引っこめとくんだなあ。シュゾン、行こう。
婦 あの、おじゃまさま。(二人、腕を組んで出て行く)
その後姿が見えなくなるまで、見送っていてから、こちらの三人が同時に笑い出している。

ロート ヒッ! ヒヒ、ヒヒ!
ベルト ホ、ホ!
エミ ハハハ、ハハ!
ロート 今のを、ヒヒ、今のを、セザンヌに、ヒヒ、聞かせたかった! ワッハハ。
タン (これもニヤニヤしながら)どうも、この――
おかみ (笑っている人々をジロリと尻眼にかけた末にタンギイに)なにが、おかしいんです、また商いをしそこなったんですよ! こんな絵、切って売って、どこが悪いんです?
ロート (テーブルを叩いて喜こんで)まったくだあ、切って売ってどこが悪い! ねえベルト! みんな気ちがいだろう? ハッハハ。(他の三人笑う)
おかみ (これも笑い出してしまって)気がちがっているのは、あんた方だけでございますよ!
ロート そうだそうだ、クサンチッペ万歳! よし、これを一つ献じよう。(ブランディの瓶を差し上げてヒョコヒョコ歩いて、売台の方へ)
そこへ、表からポール・ゴーガンを先きに、それに後から追いすがるようにして何か話しかけながらテオドール・ゴッホの二人が入って来る。……ゴーガンはドッシリと重々しい感じの大男で、自我を制御する力を持った人間特有の無表情さで、いくらテオから話しかけられても、すましている。アストラカンの帽子に、濃青色の大きなマントに東洋風のステッキ。テオは例の通りキチンとした黒服で、この前より顔色が青い。

テオ (話のつづき)そういう訳ですから、ゴーガンさん、お願いです。どうか一つ――兄を説きつけることの出来るのは、あなただけなんです。兄はあなたを怖れています。いや怖れていると言うわけではないんですが、つまり尊敬しているのです。一番頼りにしているのです。あなたのおっしゃることなら、何でも兄は聞きます。忠告してほしいんです。お願いですから――このままで行けば兄の頭はどうにかなってしまいます。兄は病人なんです。どうか、ゴーガンさん、あなたの力で――
ゴー フフ。(笑うが、顔は笑わない)私は看護婦じゃないよ、テオドールさん。……(所内を見わたして、ロートレック、ベルナール、ベルト・モリソウ、タンギイなどを目に入れるが、別に目礼もしないで、売台の所のおかみを見て、初めて微笑)やあ今日は、クサンチッペ。
おかみ いらっしゃいまし、ゴーガン先生。(このおかみはゴーガンを見ると妙に機嫌が良い)
ロート そうら、お前の色男が来たぞ! 見ろ、トタンにニヤニヤしやがって。
ゴー どうしたね、伯爵?
おかみ いやだと言うのに、どうしても飲めとおっしゃるんですよ、このブランディ。
ゴー そうかね。(と瓶を取って)のどがかわいた。……(一息に全部をラッパ飲みに飲みほして平然としてカラの瓶をおかみに返す。酒を飲んだような顔もしていない。その間にテオは、ベルトやベルナールに目礼する)
ロート ちえっ、タヒチの種牛め!(フラフラと元の椅子の方へ)
テオ (再びゴーガンに)ねえゴーガンさん、お頼みしますよ、この調子でやって行けば、兄は今にどうにかなってしまいます。目に見えているのですそれが。それに、私も、もうたまりません。兄がパリへ出て来てから私は、こうしてあなた、目方が五キロから減りました。たまらないのです。このままで行けば兄も私も共倒れになります。
ゴー 追い出したらいいじゃないか。
テオ それが、そ、それが出来るくらいなら、こんなに私苦労しやしません。兄は今絵のことで夢中なんです。まるで頭が絵のことだけで燃えるようになっていて、ほかのことを考えることが出来ないんですよ。何か話しても、まるきり相談にはならない。わかってくれようとはしないんです。兄としては、それも無理ないんです。オランダから、いきなりこっちへ来て――私がまだ早いからといくら止めても聞き入れないで、勝手にいきなり飛び出して来て、そして、あなた方の、この、印象派の皆さんの明るい色の中に叩きこまれて、カーッと昂奮してしまったんですよ。色を掴むんだ、太陽を手に入れるんだと言うので、あなた、がりがりと一日に五枚も六枚も描き上げているんです。見ていると、可哀そうになるんです。……兄の気性を知っているので、無理もないと思えば思うほど、私は兄が可哀そうになるのです。……私は兄を愛しています。
ゴー (ニヤリと微笑して)そう言う話は好かんな私は。大体、ヨーロッパのこの辺の人間が、愛するなどと言うと、こっけいでね。人を愛することの出来るのは、まあタヒチの女だけだな。
ロート それと種牛だけだろう、へっ、まったくだ!
ゴー そうだよ、トゥルーズ。
テオ いえ、私は、何よりも誰よりも、時によって私自身よりも兄を愛しています。嘘ではありません。
ゴー じゃ、追い出さないで、一緒に暮すんだな。(アッサリ言い捨てて、「タンギイ像」に目をつけ、ユックリそちらへ行く)
テオ ですから――いえ、この、そこの所をです、どうしていいかわからないので、お願いしようと思ってあなたにですね――(いくら言ってもゴーガンは「タンギイ像」を無表情な顔をして見ているだけで、取りつく島がない)
ベルト まあ、こちらへお掛けなさいな、ゴッホさん。どうなすったんですの?
テオ ありがとうございます、モリソウの奥さん。いえ、この、兄のことではホトホト手を焼いていましてね、どうしようかと思っている所に、ちょうど、タンブランでゴーガンさんに逢ったものですから、お願いしようと思って、こうして――
ベルト そうですの、タンブランにいらっしたんですの? 私たちは、これから行くんです。どんな具合、それでお客さんは? ちっとは絵は売れてます?
テオ まだ一枚も売れていません。レストランでの絵の展覧会は珍しいので、客はまあ相当来ているようですけど。
エミ すると兄さんもタンブランですか?
テオ いえ、今日は朝から郊外の方へ写生に出かけて――シニャックさんと一緒じゃないかと思います。外に描きに行ってくれると、いくらか助かりますけど、帰って来ると忽ちまた、イライライライラして、とにかく一日中昂奮しているんですから。夜は夜で私をつかまえて、絵の議論です。私はこの、昼間のつとめで疲れていますし、それに身体もあまり丈夫でないものですから、静かにして早く寝たいと思っても寝せてくれません。寝せてくれと言うと、怒り出すんですよ。徹夜して議論を聞かされるのが二晩も続いたりすると、私はもうフラフラで、頭が変になりそうなんです。それに兄には、物を整頓しようなどと言う気はまるでないのです。兄と一緒に暮すようになってから私の室は、まるでおもちゃ箱をひっくり返したようにメチャメチャになってしまいました。おまけに、絵具をあちこちに置き放す、それを踏みつぶす、着物にまでベタベタくっつくと言うテイタラクで、もうどうしてよいかわかりません[#「わかりません」は底本では「わかまりせん」]。……私はグーピル商会に使われている、平凡な勤め人です。まあ、キチンと生活して、身なりなどもキチンとしていなければならない立場にあります。兄と一緒に住んでいたんでは、到底それが出来ないのです。ホトホト私はもう疲れ果ててしまいました。どうしたらいいでしょうかね、ベルナールさん?
エミ ……(困って)僕にはよくわかりません。以前から兄さんは、今のような調子だったんですか?
テオ そうです。以前から何かに熱中すると、当分カーッとなってしまって、もうまるで夜も寝ないようになるし、ほかの事を忘れてしまうんです。それが続いて、今度はどうにかすると、ガクッと黙りこくってしまって、恐ろしく陰鬱になるんです。するうちに、またカーッとなる。その変り方が激しいんです。何かの病気じゃないかと言った人もあります。……そういう兄の性質を知らないわけではなかったんですけど、極く小さい時以来私とヴィンセントは一緒に暮したことがほとんどないものですから、実はこんなだとは知らなかったんですよ。それに、今度パリに来てからの様子は、これまでのそんな調子とはまたちがっているような気がするんです。私は心配でたまらないんです。ねえ、タンギイさん、どうしたらいいだろう私は?
タン そうですなあ。兄さんと言う人も、あなたも、善い人ですがねえ。
テオ そうなんだ。私はとにかく、兄が善い人間なことは間違いありません。兄としては悪気が有ってしていることではないんです、兄にはああしか出来ないのです。兄自身としては、一所懸命に人のことを考えたり人に親切にしたいと思ってそうしていることが、実際は人を苦しめ人に迷惑をかけているということが兄にはわからないんです。そういう人間です。エゴイスト――まるで、微塵も悪意を持たないエゴイスト――そう言った、わかってもらえるかどうか知りませんが、そう言ったエゴイストなんですよ。兄は実に善良な人間です。それなのに、兄と一緒には誰も三日とは暮せないんです。兄の中には二人の人間が住んでいます。一人はおとなしい、心の弱い、もう一人は粗暴で自分勝手な。その両方がいつも戦っているのです。つまり、兄はいつでも兄自身の敵だと言えます。そのために人を苦しめるのと同時に自分を苦しめているんです。わかっていただけるでしょうかね?
ベルト ええ、ええ、わかるような気がします。
テオ 兄をパリに来させたのは失敗でした。しかし、兄が一人前の立派な画家になるためには、やっぱりパリに来て、皆さんの絵を見て、皆さんと交際することが必要だったんですよ。そして、その効果は、たしかにあったんです。兄の絵がこの半年の間に明るくなって、技術的にも進歩しているのは事実です。でしょう、ベルナールさん? そうですね?
エミ そうです、それは確かにそうです。
テオ ですから、兄がパリに来たことを私は後悔はしていません。それに、あなた方も私の店で御覧くださった「ジャガイモを食う人々」――あの絵です。あの絵を兄がオランダから送ってくれた時に、兄さんの絵は暗過ぎる、もっと明るくならなければならない、今パリの印象派のすぐれた画家たちがどんなに明るい絵を描いているか兄さんは早く知らなくてはならない、と言ってやったのは私なんですからね。私には責任があるんです。それだけに私には、どう処置してよいか、わからないんです。
ベルト それは、部屋を捜して別々にお暮しになればよくはなくって?
テオ それも考えました。いえ、結局、そうするより仕方がないだろうと思って、捜してもらってはいますが、でもそうしてもパリに居て今のようにやっている限り、似たようなことじゃないだろうかと思うんです。
ロート じゃ旅行させるんだなあ。
テオ 旅行と言うと、どこへ?
ロート マルセイユかそこらの地中海岸あたりだなあ。ねえ、エミール、いつかそう言ったことがあるね?
エミ ええ。地中海、アフリカ――とにかく、太陽に近ければ近い程良い。そう言っていました。
テオ そいで、一人でですか? あの兄を、そんな遠くへ一人で行かせるんですか? そりゃどうも心配で、私――
タン いっそ、日本へ行ったらどうですかな?
テオ へ、日本?
ベルト 日本と言いますと? あの――東洋の?
タン あの方は、いつも言っていますよ。日本は太陽の国だ。太陽に一番近い。それから、これです。(と壁にかかっている浮世絵をグルリと指し示して)これを見て、日本へ行きたがっています。こんな色とこんな線を生み出した天才たちの居る国へ、そのうちに僕は必らず行く。死んでも行く。
ロート 死んでも行くか。フフ。ヴィンセントだねえ! 何かと言うとすぐに死ぬと言う。ハハ、この人生に耐えきれないんだなあ。自分の与えられたライフを悠々として享受することに耐えきれない。自分の命の財布の中から金をチビリチビリと小出しにして使っていられない。大急ぎで、一気に全部をはたかないと我慢が出来ない。ヒヒ、わが輩と同じさ、その点では。ただ、わが輩には、これを託するに酒がある。ヴィンセントにはカンバスが有るだけだ。そうして、わが輩は酒と心中する。ヴィンセントは間もなくカンバスに頭をぶっつけて死ぬよ。そういう運命だ、心配したもうな。
ゴー 始まった、猿の哲学が。
ロート うん? わが輩のが猿の哲学なら、お前さんのは牛の哲学かね? いや、哲学じゃない、牛の、いちもつだ。(ベルトに)これは失礼。
ゴー (相手の言葉は歯牙にかけないで)ああの、こうのと諸君はヴィンセントを憐れんだり、心配したりしているが、ふっ! 君たちにそんな資格が有るのかね? なるほど、人間としてはあの男は、ウジウジした、オランダの田舎者だ。キャアキャア騒いだりメソメソしたり、うるさい男だよ、ヨーロッパ文明のオリの中に飼われてヒステリイになっている猿さ。諸君と同じようにね。しかし、これを見ろ。(と「タンギイ像」を示す)こいつは猿の描いた絵じゃないよ。ウジウジしたりキャアキャア言ったりメソメソなんぞ、まるきりしてない。惚れ込んで、なんにも疑わないで、ウットリして、堂々と描いている。色にしたって、そうだ。塗り方にはスーラやピッサロなんぞの点描が入って来ているんで少し気に食わんが、まじりっけなしだ。マルチニックの透き通った海の水の中から太陽を見た時と同じ色だ、こりぁ。まるで土人の眼だ、こいつは。
ロート また土人か。ぜんたい、それは褒めてるのかい、くさしているのかい?
ゴー 黙れ、トゥルーズ! 君たちヒステリィ猿どもは、絵を見るには褒めるのとくさすのと二色しかないと思っている。ところが絵は絵だ。マンゴウがマンゴウであるように絵は絵だ。ホンモノとニセモノが有るきりで、理窟はいらん。こいつは下手クソだがホンモノだよ。土人の絵だ。真人間の描いた絵だ。これがゴッホの正体だよ。だからあの男は、うわつらはヒステリィ猿だが、シンは真人間だよ。憐れんだりしていると、罰が当るぞ。帽子を脱いで、この絵に敬礼してればそれでいいんだ君たちは。
テオ (感動して立ち上っている)ほ、ほんとうですかゴーガンさん? ほんとうにそう思いますか? すると、兄は、兄は、もう立派な一人前の画家になったと思ってもよいのでしょうか?
ゴー なんですか? ……(不愉快そうな顔でそちらを見る。テオの感動が、この男には軽薄に見えて、不快なのである)
テオ いえ、もしそうだとすれば、私は弟としてどんなに嬉しいか! ありがたいのです! 兄のことを、めんどう見て来た甲斐があって私は、この――ゴーガンさん、ありがたいのです! 私は、私は兄のためなら、どんなことでもします! どうか、頼みます、兄のことを、ゴーガンさん、よろしくお願いします!(パラパラと涙を流し、ほとんどオロオロせんばかりに言う)
ゴー ふむ。……(相手を全く軽蔑して、ムッとして、三、四歩テオを避けながら)どんなことでもしますと言っている人が、ホンの先程までは、一緒に暮すことさえ出来ないと言っていた。
テオ (相手の言葉を理解しないで)兄のためなら、私は私の持っている一切のもの、血液を全部でも、命でも、やります! どうか頼みますから――
ゴー (彼は彼で、そう言う矛盾した子供らしいテオの姿の中に在る真情の偉大さを理解せず、テオの涙はただ感傷的な三文芝居のように見えるだけなので、ほとんど怒って)ユーゴー好みの抒情詩か。ふん。そんなふうに、チンコロみたいに騒ぐのは、私は好きませんよ。あんたとヴィンセント君が、そう言うふうにもつれ合って、キャンキャン、キューキューやっているのを見ると、両方とも一緒に踏みつぶしてしまいたくなるね私は。
ロート ハ! まさに土人だ。いや蕃人だね。
テオ え!(けげんそうにゴーガンを見るが、相手が冗談を言っていると思って、モリソウとタンギイとともに笑い出す)
ベルト でも、なんじゃありません、テオドールさんのお兄さんに対するお気持は、あたし、わかりますわ。今どき、あなた、兄さんに良い絵を描かせるために、自分を何もかもギセイにしている人なんか、ザラに居るでしょうか? それは単に兄弟だからとか、センチメンタルな愛と言ったことなどより偉大なことじゃないかしら? 私はそう思うの。ゴーガンさん、あなたがどんなに賢い方でも、世の中には、あなたにわからないことだって有ってよ。
ゴー なに、そうじゃない。私が賢いから、わからないことがあるんですよ。その証拠に私は三十過ぎまで証券屋だった。そいつをいっぺんに放り出して絵描きになった。ところが、あなたの御主人は現に一流の銀行屋でさ、マネエのモデルをしていたあなたと結婚して、ぜいたくさせて着飾らして絵画を描かして、膝の上にのせて、撫でまわして、ヒュンヒュン言わして、おしあわせそうだ。へっ、そこいらが、私にはわからないですよ。
ベルト まあ!(真赤になっている)
ロート 無礼なことを言うと承知しないぞ、蕃人め。
ゴー 無礼じゃなくて賛辞を呈しているんだよ。
ベルト ええええ、あなたが、私を軽蔑なさっていることは知っていますとも。あなたは、すべての人を軽蔑なさるんです。特に女をね。よござんすとも。しかしお気をつけなさいよ、最後にあなたは、地獄に落ちますよ。
ゴー 地獄じゃなくて極楽に落ちますね。また、女を軽蔑したりもしません。ただ私の尊敬する女はあなた方じゃない。御存じですかね、マルチニックの女の腰は、あなたの腰の二倍はあります。
ロート (表の通りに目をやっていたのが)そらそら、チンコロが帰って来た!(一同がそちらを見る)
奥の、店先から少し離れた明るい通りに七つ道具をさげた二人の画家が立ちどまって何か語っている。写生帰りのシニャックとヴィンセントで、シニャックは普通の画家らしい身なりだが、ヴィンセントは鉛管工夫などの着るナッパ服にあちこちに絵具のくっついたのを着ている。話しているのは主としてヴィンセントの方で、それもただの話しようではなく、夢中になって、足を曲げたり、手に持った濡れたカンバスを振りまわしながら何かを説き立てている。それが声は聞えないので、まるでギニョール芝居を見ているようだ。――語り合いながら、戻って来たのが、話に熱中して、立ち止ってしまったのである。

ロート なるほどキリキリ舞いをしておる。
テオ ああなんです。夜まであの調子で――
エミ 全体、なんの話をしているんだろう?
ちょうどその時、こちらへ向ってまた歩き出したシニャックとヴィンセントのわきを通りかかった中年の男が、ヴィンセントの振りまわしたカンバスに突き当りそうになって、びっくりして飛びのく。

おかみ あらま!
ロート ヘヘヘ!
ベルト ホホ、ホホ!
テオ (哀願するようにゴーガンを顧みて)ね、ゴーガンさん、あの調子なんです。なんとかして、お願いですから、兄が少し落ち着くように仕向けてくださらないでしょうか? あなたのおっしゃることなら聞くんです。どうぞ一つ――お金の要ることなら、私何とでもしますから。……(ゴーガンは返事をしないで、壁の浮世絵を見ている)ええと、では、私はこれで失礼します。ここで私に逢うと、兄はまた昂奮して、私を離そうとしませんから。これから私はまだ商会の方に仕事が残っているもんで。おかみさん、すみませんが[#「すみませんが」は底本では「すみまんが」]、裏口から出させて下さい。(おかみが売台の所から立って来る)ではみなさん……(とベルトと一同に会釈をし、おかみを先に立てて上手の通路から出て行く)
ロート どりゃ、われわれも、タンブランの方へ行くか。(言っている所へ、ヴィンセントとシニャックとが店に入って来る)
ヴィン (話しをつづけながら)いいやシニャック、君はまだわかっていない! 僕の言うことがわかっていないんだ。ギョーマンは、そりゃ、すぐれた画家だ。技術的な点では文句のつけようがないし、もちろん本質的にもすぐれた点を持っていることも確かだ。しかし、絵には、絵となってしまってからの、いろいろのことの前に、つまり絵画以前の問題として、もっと大事なことがある。それが一番大切だと僕は思うんだ。どんな風に見て、どんな風に描くか、どんな風に色を塗るか、どんなエフェクトを狙うかとかなんとか言うのは問題ではないんだ。いやいや、勿論それらも大事ではあるが、それよりもさらに大事なことがありはしないか。え、そうじゃないか? マネエは光それ自体を描く、セザンヌは自然を分光器にかけて描く、ゴーガンは色を追いつめ還元して描く、スーラは分析して点で描く。どれにも真理はある。しかしだよ、考えて見ると、しようと思えば、そのどれで描くことも出来るじゃないか? そうだろう? だから、逆に言うと、どれで描いてもよいのだ。技法はどれを使ってもいいと言える。(熱してしゃべっているので、店内に居る人たちを眼で見ながら見ていない)
シニ (これは一同を見て、一人一人に黙礼でうなずきながら)しかしね、マチェールは結局、その画家の本質に根ざしたものなんだから、その画家の個性そのものだと言えはしないかねえ? 少くとも個性の一部分じゃないかな。
ヴィン ちがうよ! ちがうんだ! いやいや、君の言うのは、それはそうさ。たしかに、マチェールは画家の個性そのものだ。僕の言うのは、そのことじゃないんだ。つまりね、つまり、どう言えばいいのかな? そうだ、画家が絵筆を取る前に、その画家の中に準備され、火をつけられて存在しているものだ。そのことなんだ。つまり、画家の生命そのものだよ。それが、どっちの方向を向いているかと言うことだよ。それが、どんな色で燃えているかと言うことだよ。何をどんな風に描くかと言うことを、最初に――そして、だから最後にだ、決定して来るもののことだよ。マチェールはその次だ。その一番大事なもののことなんだ。それがギョーマンに欠けている。不足している。僕はそう思うんだ。ギョーマンは良い画家だけど、それが不足している。すくなくとも、昨日あの人が見せてくれた「砂利人夫」には、それがない!
シニ しかし、僕にはあの「砂利人夫」は良く描けていると思ったがなあ。
ヴィン 良く描けているよ! そりゃ、そうだ。それを否定しているんじゃない。そうじゃないんだ。わからんかなあ、僕の言うのが? つまりね、つまり、ギョーマンは、労働している、砂利をシャベルでしゃくっている労働者を描いているんだよ。そうだろ? 労働者と言う、この、ホントの人間を描こうとしているんだ。だのに、ギョーマンは、ただそれを、花だとか樹だとか言うものと同じようにだな、つまり美の素材、絵の対象としてだけ描いている。それは間違っている。花や樹を描くんだって、実は、そうであってはいけないんだが、人間を描くのに、それでは間違いだ。現に、そのために、あのギョーマンにして、絵がウソになっている。虚偽だよ。どんな画家だって、美のために虚偽を犯してよいとは言えない。そうじゃないか、だって、あの「砂利人夫」が、シャベルをこう持ってだな、腰をこうして、左足をここに置いて、こうやっているのは、あれはウソだ。僕は炭坑に居たし、いろんな労働者をよく知っているから、言えるんだ。こうしてだね、シャベルがこうなっていれば、左足はだね、ここまで行っていなければ、砂利は投げられない。つまり、こうして――(手のカンバスを振りまわし、イーゼルをシャベルに仕立て、肩からさげた絵具箱をガラガラ鳴らして夢中になって仕方話)
エミ (驚き、微笑しながら聞いていたが、振りまわされるカンバスでなぐられそうなので、わきにのいて)おっと、あぶない!
ヴィン エミール、ちょっと、これを持っていてくれ!(サッとカンバスをベルナールに渡す。渡す拍子に、カンバスの表がわきにかけていたベルト・モリソウの肩をこする)
ベル あら!(ヒョイと見ると、その純白の上着の肩から胸へかけて、眼がさめるような原色の油絵具がベタベタと散らし模様のようにくっ付いている)
タン こりゃ、どうも!
ベル まあ!
ロート わあ、ベルトさんの胸に花が咲いた!
ゴー はは、ハハ!
ヴィン どうも、これは、失礼しまして、モリソウさん、あの――ええと――(あわてて、ベルトの肩を掴んで、自分のナッパ服の袖で拭き取ろうとする。するとなおいっそう絵具はひろがってしまう)
ベル いいんですの、いいんですの。いいえ、ようござんすから。ホホ、まあ! いいえ、ようござんすから。ホホ、ホホ!
ヴィン 失礼しました。許して下さい。つい、どうも――
ロート (笑いながら)全体君、なんの話をしているんだ、ヴィンセント?
ヴィン いや、昨日、シニャックと一緒にギョーマンの所へ行って見せてもらったんだ、その「砂利人夫」と言う絵を。良く描けていた。良く描けていたけど、僕に言わせるとだな――
シニ その人夫がシャベルで砂利をおろしているのが、デッサンがちがっているとゴッホ君が言い出してね――
ヴィン だから、こうしてだね。これがシャベルだ、砂利は重いんだよ。石炭も重い、石炭よりも砂利は重いんだ。だから、こんな風に足をふん張ってないと、しゃくって投げることは出来ない。それをギョーマンは、こんな風に、左足をこんな位置に描いている。間違いだ。虚偽だよ。虚偽はどんなに美しく描いてあっても、美ではない。だから、手がこう構えていれば、腰はこうなって、足は――(しきりと仕方話で、イーゼルを振りまわす)
ベル もう、よして下さいゴッホさん。(笑いながら)ブラウズはよごされても結構ですけど、イーゼルで突き殺されたくはないわ。
ヴィン だって、そうじゃありませんか、ベルトさん。あなたも絵をお描きになるんだ。そんなら、わかって下さるでしょう。画家には色よりもデッサンの方が大事です。こんな風にしてですね、足をふん張って、こうしていれば――
ゴー もうやめないか、ヴィンセント君!
ヴィン ああ、ゴーガン君? 君もいたんですか。
ゴー もうよしたまいよ。相変らずの旅団長だなあ。
ヴィン うん。……(ゴーガンを見ているうちに、燃えていた火に水をかけられたように、不意に静かになってしまう)しかし……(言葉を切って、落ち物がしたようにそのへんを見まわす。その間にベルナールが、ヴィンセントのカンバスを正面の壁に立てかける。ほとんど完成している「セイヌ河岸」。……一同が自然にそれを見守ることになる……)
ベル ……まあ、綺麗!
ロート ……うん、悪くない。だけど、空が、君の空じゃないな。この頃ルノアールでも見たんじゃないかね?
ヴィン そ、そんな、トゥールズ――
ゴー ルノアールは、年中自然と野合してイチャついてるよ。だが、ルノアールもルノアールだが、ここん所の(絵を指して)木や土手なぞの点描が気になる。スーラをこんなに受入れるのは無邪気すぎる。川の水は、シニャック、君じゃないかね? どれ、(とシニャックの手からカンバスを取り、ゴッホの絵と並べて置く。似た構図の絵)ね、どうだい?
シニ そんなことはない。僕のは僕ので、ヴィンセントのは、あくまでヴィンセントの絵だ。
ゴー とにかく、ほかからの影響を受け過ぎるんじゃないかなあ。
ヴィン そんなことはない。僕はただ君たちの色を取り入れ、学んでいるだけだ。僕にはそれが必要なんだ。必要だったんだ。
ゴー それはいささか。しかし、もう少し落ちつくことだな。そんなにあわてていると、ロクなことはないよ。第一、君は色を学んでいると言っていながら、先刻は色よりもデッサンの方が大事だと言っている。その時々でああ言ったりこう言ったり、メチャメチャじゃないか。
ヴィン メチャメチャじゃないよ。だから、必要だった、だったと言っているじゃないか。それを僕はパリへ来て、ピッサロやセザンヌや君や――君たちから学んだ。来て見て、ホントにびっくりしたんだ僕は。一度にグラッグラッとして、まるで立っていられないくらいに革命が起きちゃった。
ゴー また、大げさなことを言う。そういうのは僕は嫌いだ。
ヴィン でも事実そうだったんだもの。そいで、学んだ。僕のパレットの上はスッカリ変ってしまった。明るくなった僕の絵は。ね、そうだろ? そうは思わないかねトゥールズ?
ロート そうだ、そうだ。しかし、もうその話はいいじゃないか。(立つ)
ヴィン そうだねエミール?
エミ そうですよ、たしかに。
ベル さあ、もうタンブランの方へ行かないと、おそくなってしまいますわ。(立つ)シニャックさんも御一緒にいらっしゃいません?
シニ 展覧会ですか、ええお供しましょう。
ヴィン (あわてて)ま、待って下さい待って下さい。ねゴーガン! ところが僕は近頃、気がついたんだ。先刻シニャックにも話したんだが、色彩は大事だ。しかし一番大事なものは色彩じゃない、やっぱりデッサンだ。いや、デッサンと言うと、やっぱり違う。技法としてのデッサンではない。実体のことだ。描こうとする物の、当の実在のことだ。リアリティのことだ。そこに物が在ると言うことなんだ。セザンヌのリアリザシォンのことじゃない。あれは表現上の方法のことだ。僕の言うのは物自体のことなんだ。これを掴まえることが画家の一番大事なことだと言うことに気がついたんだ。もちろん色彩は大事だよ。しかし、色彩だけでは片付かない問題がある。それに気がついて僕は――
ゴー 物自体なんてないね。イマジナシォンが在るきりだよ。画家は自分のイマージュで、自分の中に在る絵を描くんだ。また、人間にはそれしきゃ出来んよ。
ヴィン ちがう! ちがうよ、ポール! 聞いてくれ、それは――
ロート (ベルトやシニャックやベルナールなどとともに店を出て行きかけながら)物の実在なんてないぞヴィンセント。人が在ると思っているきりだ。在るのは夢だけだよ。幻だけだよ。君が実在していると思っているのは、君がそう思っているだけだ。フフ、もういいじゃないか、そんなこと。いっしょにタンブランへ行って、飲もう。
ヴィン いや僕は行けない。これから、タンギイを描かなきゃならん。だから、ま、ま、ちょっと、みんな待ってくれ。ね、ゴーガン、僕の言うことをわかってくれ。その――
ゴー わかったよ。君はただ混乱しているだけだよ。忠告して置くが、そんな調子だとロクなことはない。現に、その絵だ。(と「タンギイ像」を指し)絵として悪くはない。しかし、よく見るとメチャメチャだ。トーンがない。アルモニイがない。統一が欠けている。それは君が、グラグラとセンチメンタルにばかりなっているからだよ。(ヴィンセント、ギクンとして、石になったように「タンギイ像」を凝視する。その間に、ゴーガンは、その絵を先程テオに向って褒めたのと今の批評の言葉が矛盾していることに自ら気がついているのかつかないのか平然として、タンギイに)……タンギイ小父さん、十フランだけ貸してくれないかね。昨日の朝から何も食っていない。すこし腹がへった。
タン ……でも、この前にお貸ししたのが、まだ――
ゴー グーピルでテオドール君が一枚売ってくれそうなんだ。売れたら、一度に返す。(彼の言い方には妙に圧力がある。タンギイは、それに押されて、しぶしぶしながら、ポケットの財布から金を出して、ゴーガンに渡す。……ゴーガンは別に礼も言わず、それをポケットにほうり込んで、出て行きかける。他の四人は入口の所で待っている)
ヴィン ……(絵の凝視から不意に醒めて、あわててゴーガンの前に廻って)ま、待ってくれ。僕の言っているのはね、いや、いや、この絵はそうかも知れない、メチャメチャかも知れない。トーンがないのは、君の言う通りかも知れない。そのことじゃないんだ。僕の言いたいのは、それじゃないんだよ。わかってくれ、ゴーガン。君は僕の先輩だ。すぐれた画家だ。頼りにしている僕は。ね、わかってくれ、僕が実在だと言うのは、この、つまり、タンギイならタンギイの、こう描いてある着物の下にだな――いや、僕でも良い。この、この着物の下に――(と、せき込んで言っている内に気がいらって、いきなりナッパ服を脱いでしまう。下には襟なしのシャツだけ)こうして、身体がチャンと在る。こ、これが人間だ。ヴィンセント・ヴァン・ゴッホだ。これが実在なんだ。(ズボンまでぬいでしまう。滑稽なズボンした)ね! ね! それを画家は描かなきゃならないんだ。表面の着物だけでなくだ、色だけでなく――それを僕は――わかってくれゴーガン。頼むから!(ゴーガンの膝に取りついて、何度も頭を下げる)
ゴー 僕は君に忠告する。そこをどきたまい。そして、もう少し落ち着きたまい。
ロート (笑って歩き出しながら)さあ、もう行くぜ。
ヴィン ま、待って、トゥールズ! ベルナール! どうか頼むから――(と、そちらへ向ってもお辞儀をする)
ゴー うるさい。……(すがりついて来るヴィンセントを、いきなり軽々とひっかかえて、わきの売台の上にヒョイとのせ、サッサと出て行く。ゴーガンを迎えた四人は、こちらを振返って見ながら、向うへ立ち去って行く……)
不意に店にはヴィンセントとタンギイの二人だけが残されてしまう。……売台の上に滑稽な下着だけで、両足をブラリとさせて、黙りこんでしまってキョロンと坐ったヴィンセントの寂しい姿。それをタンギイが気の毒そうに眺めている。
間……どこかで、微かな鐘が鳴る。

タン ゴッホさん。
ヴィン ……。
タン 風を、ひきますよ。……そんな恰好で、いつまでもいると。
ヴィン ……。
タン ……(奥へ)おい、お前――(おかみは奥で居眠りでもしているか、返事なし。タンギイ、売台の方へ寄って行き、落ちているズボンと上着を拾って、台の上に置く)さあさ、着なすったら……
ヴィン ……(唖になったよう。顔も急に陰鬱になり、眼の色も暗く鈍くなっている)
タン (しかたなく、垂れた足にズボンをはかせる)どうしました? ……なに、ゴーガンさんは善い人でさ。……あんまり、あなたが、昂奮して言いなさるもんだから。フフ、そんな、あなた、先は永いんだから……
ヴィン ……(人がちがったようにノロノロした動作で売台からおりて、ズボンのボタンをかけ、上着に手を通す)……(非常に沈んだ声で)どうして、こうなんだろう僕は? ……ゴーガンは偉い人間だ、たしかに。……ホントだ、僕は昂奮しすぎる。僕が、悪い。……(言いながらユックリ歩いて「タンギイ像」の前に来て、無意識にそれを見ている)ふん。……先は永い……先は永い?(ヒョイとタンギイを見る)……いや、そうじゃない。僕は急がなきゃならない。……(再び「タンギイ像」に眼をやる。片手を前に出して、画面をいろいろにさえぎって見ながら)……トーン? アルモニイか。イマージュ。……(ほとんど無意識に先程投げ出してあった絵具箱の方へ行き、それを抱えて絵の方へ行き、箱を開け、パレットと筆を出して、椅子を引き寄せて絵に向っている)
タン 坐るんですか? 今日は、よしにしといたら、どうですかね?
ヴィン ……(そう言っているタンギイを、既に画家の眼でみつめ、筆が知らず知らずパレットに行っている。タンギイは、それから縛られたようになって、ひとりでに、いつもモデルとして掛けることになっている壁の前の椅子に行って掛けている)
ヴィン シャッポは?
タン ああ、そうそう。(と、壁の下方にかけてある麦わら帽子をかぶる。「タンギイ像」のタンギイになる)
ヴィン ……(それを見、次にパレットの上で絵具をつけた筆をカンパスに持って行き、塗りかけるが、塗らないで、筆を持った手で、自分の額をつかむ)
タン どうしました?
ヴィン ……頭が痛い。
タン あんまり、この、昂奮なさるから。……いっとき休んでいったらどうですかな。
ヴィン いや、大したことはない。近頃ちょいちょい、こんなことがあるんだ。……痛むと言うよりも、何か鳴るんだ。キューンと鳴って、そこら中がキラキラと白く見える。
タン あんまり根をつめて描き過ぎるんじゃありませんかねえ。……すこし旅行でもなすったら? ……アルルかニースあたりに行ったらって、ロートレックさんも、こないだ言ってらしたじゃありませんか?
ヴィン ロートレック……あれは良い男だ。アルル……でも、そんなことをすると、また金がかかる。テオドールに苦労をかけることになる。……そうでなくても、テオは楽ではない。そりゃ、僕の描いた絵はみんなテオの物になると言う約束で金を出してくれていて、嫌な顔などテオはしない。しないけど時々僕は、すまなくなることがある。
タン テオさんて方は、まったく良い弟さんだ。兄さんのことをあんだけ気にかけている弟と言うのは見たことがありませんね。
ヴィン 僕にはもったいない弟だ。だのに、僕は一生あれの厄介になり、あれを苦しめなけりゃならない。だって、僕の絵はまだ一枚も売れない。
タン なに、そのうちに売れますよ。これだけ立派な絵を描いていらっしゃるんだ。そりゃ、みんな、すぐれた絵かきさんは、なかなか認められません。現にピッサロさんやマネエさんなどもう五十過ぎです。それが、やっと売れはじめたのはこの二、三年のこってす。世間と言うものはそんなもんでさ。目の前で天才が飢えて死んでも知らん顔をしているくせに、ズーッと後になるとヤイヤイもてはやす。世間と言うものは、そういう馬鹿でさ、私なんぞ、なんにも深いことはわかりゃしませんけど、絵が好きですからね、とにかく良い絵と悪い絵くらいはわかりますからね、まあとにかく、すぐれた絵かきさんで、世間の馬鹿が認めないために貧乏している皆さんのために、ホンの少しでも役に立てばと思って、こうやって絵具屋をやっていますが――
ヴィン 小父さんには、いつも、ありがたいと思ってる。……でも僕は時々、自分が絵かきになったのは間違っていたんじゃないかと思うことがある。もう、よしちまおうかと思うことがあるんだ。実際、人に厄介をかけるだけだ。こうしていると。……しかし、よせない。絵を描かないではいられない。人から誰一人、認められなくても――
タン 認められないなんて、そんなことはありませんよ。現にロートレックさんもベルナールさんもモリソウさんも、あなたの絵を認めています。たった今さっきも、この絵を、モリソウの奥さんなど、綺麗だって、そりゃあなた――
ヴィン モリソウさんは、ありゃ君、絵は描くが、結局は金持の奥さんで、僕らの行き方とは違う。それから、ロートレックやベルナールが、そう言ってくれるのは、友達だから、同情すると言うか、憐んで褒めてくれてるのかも知れない。
タン そりゃ、疑い深か過ぎると言うもんですよ。じゃゴーガンさんは、どうです? ゴーガンさんは、あなたの来る前には、この絵をえらく褒めていましたよ?
ヴィン ゴーガンが褒めた? ホントかね? 何と言って?
タン よく憶えてはいませんが、ゴタゴタして下手な所もあるが、しかし、良い絵であることは間違いない。敬礼しろとか何とかってね。ホントです。
ヴィン ふうん。……だのに、僕の前で、どうしてあんなにくさすんだろう?
タン そこんところは、わかりませんねえ。変りもんですからねえ、なにしろ。
ヴィン ……ゴーガンは天才だ。しかし、意地が悪い。あの男の気持は僕にはわからない。しかし見ていると、あの力強い無愛想さに僕は引きつけられる。それでいて時々腹の底から憎くなる。……尊敬している。しかし先刻みたいなことをされると、畜生! と思う。……あれは小父さん、気ちがいだ。
タン (笑う。そして笑えるような空気になったことを喜んで)ハハ、向うでは、あなたのことを気ちがいだと思っているかも知れませんな。
ヴィン (これもチョット笑って)……だけど、ゴーガンは小父さんに金を借りて行ったが、昨日から何も食っていないんだって? ホントにそんなに貧乏なのかな?
タン そうらしいですね。食い物がないのはチョイチョイらしいですよ。
ヴィン 家の奥さんの方からは、金はよこさないんだろうか? だって、家は金持なんだろう?
タン さあ、金が有ると言っても、奥さんと子供さんたちがやって行ける程度じゃないですかねえ。よしんば、家からよこすと言っても、あの気性じゃ受け取りはしないでしょう。
ヴィン あれだけの偉大な絵かきが、食う物がない。……畜生! 世の中の人間はみんな阿呆だ! と言っても世の中の人間が急に変ったりはしない。とすると、やっぱり僕が始終言っている貧乏な画家が集まって共同生活をする計画を一日も早く実行する必要がある。
タン 共産コロニイですか? そりゃ出来ればよござんすけどねえ。
ヴィン 出来るとも、皆がその気になれば。そりゃ初めは理想的に行くまい。だから初めは気の合った者が二人でも三人でも集まって――そう、パリじゃまずい、田舎へ行く。そこで、みんなセッセと絵を描いて、それをパリへ送ってテオの手で売って貰う。誰の絵が売れてもその金はコロニイ全体の収入として、それで食料や絵の道具を買って、それを皆が入用なだけ使ってやって行く。どうだね? ゴーガンやベルナールにも話したら、不賛成ではないようだった。
タン 場所は南の明るい所が良いですね。いっそアルルはどうです?
ヴィン そうなったら、小父さんも一緒に来ないか?
タン 行きたいですね。しかし、こう老いぼれては、駄目でさあ。それに店も有るし、第一、家の奴が何と言うか……(奥の方をうかがう)
ヴィン コンミューンの勇士が、何をいくじないことを言うんだ?
タン それを言わないで下さい。あれも若い時の血気と言うもんで――
ヴィン だって嘘じゃないんだろ? 普仏戦争終り、パリにコンミューン新政府樹立さる。人はすべて自由に平等の権利を以て生れ、かつ生活す、か。自由、平等、博愛。ガンベッタ万歳! ……共和万歳! ヴェルサイユの軍隊を向うにまわして小父さんは市街戦をやったと言うんだろう?
タン なに、市街戦と言っても――私など、遂に人を殺すことは、ようしませんでしたよ。気が弱くって、ハハ。つかまってサトリイに送られ軍法会議にかけられ、ニュー・カレドニヤに流されることになっていたのを、アンリ・ルーアールさんが運動して下さって釈放されたと言うのも、つまりが私が兵隊を殺したりはしなかったせいでしょうな。とにかく、今から思うと二十年前、あれもこれも夢でさ。
ヴィン でも、フランスの飢えた平民のために戦った小父さんの気持は、今でもチャンと残っている。この店だって、これが有るために僕ら貧乏な絵かきが、どれだけ助かっているか知れやしない。僕はそう思うんだ。世の中が、たとえどう変ったって、平民が、つまり貧しく働いている人間が幸福にならなきゃならんと言うことは、いつでも、どこでも真理だと言うことだ。僕も貧乏だ。そして貧乏な人間を絵に描く。僕は金持とは縁がない。貧乏人が一人でも食う物がなくて泣いている時に、僕だけが天使の絵なぞ描いて自分だけで良い気持に幸福になってはいられない。(先程の陰鬱な、状態から、いつの間にか再び昂奮状態に入っている。その変化の波の激しさ)
タン そうですとも! 全くです! 今の世の中で、一日五十サンチーム以上で暮している奴は、みんな悪党ですよ!
ヴィン それでペール・タンギイだ。よし、描くぞ。(低い鼻歌で「マルセーズ」のメロディを口ずさみながら、カンパスに向う。モデルに坐っているタンギイも、それに和する)……アルモニイ。統一。……トーンがない? ……そうか。畜生! ……(無意識に独語しながら、眼をギラギラ光らせて、モデルを見ている。モデルは動かないで「マルセーズ」を低くハミングしている)ねえ小父さん、その壁の、こっちのは、ウタマロだったね?
タン そうですよ、こっちがウタマロ。ウタマロ。そして、こっちがイロシゲだそうです。
ヴィン イロシゲ。……うむ。(唸って、その浮世絵を睨んでいる。不意に立ってツカツカと、その縁の前に行き、噛みつくように顔をくっつけて見て)どうしてこんな単純な、こんな深い色が出せるんだろう? え? この絵具は一体これは何だ? こんなに明るい、そして落ち着いた色は? え? ……日本へ行きたい。俺は日本へ行きたい。……(サッと自分のカンバスの所にもどって来て、自分の絵を睨む)……そう、落ち着きがない! ……たしかに、アルモニイがない。(唸っていたが不意に絵具箱から大きなパレット・ナイフを取り上げて、生がわきの画面をガスガスとけずり取ってしまう)
タン あ! なにをなさるんだ、ゴッホさん!
ヴィン フフ、なあに。初めから、やり直すんだ。小父さん、動いちゃ、いけない。(手早く、新しい絵具をパレットにしぼり出し、並べる)
タン しかしあなた、頭が痛いんじゃありませんかねえ?
ヴィン セルリアン・ブルー。もっと明るいカドミュームをくれ。そいから、ブルー・ド・プルッスと。ええい、くそ!(とパレットの端にこびりついた絵具を指ではじき飛ばし、カンバスとモデルをキッと睨んで筆をおろす)……フフ。くそ!(ニヤニヤしたり、怒ったり、つかれたように描き進む)
――はじめ遠くから、次第に近く、わき起って来る「パストラール」――(ビゼー「アルルの女」第二組曲1パストラール)が高く鳴り響くうちに――
[#改ページ]

     4 アルルで

――この場は、最後のくだりをのぞけば全部輝かしい風景だけ。ヴィンセントの声だけが、六つの風景が移り変って行くのを縫って語る。(このヴィンセントの声は、観客の背後、劇場の入口の発声機から流れ出て来なければならない。即ち、われわれは、その風景をヴィンセントが描いたところの、そしてそれは今日残っているヴィンセントのアルルでの作品をそっくり引伸して拡大した風景を、ヴィンセントとともに眺めながら、ヴィンセントの語るのを聞いていることになる。――スライド使用)
――遠ざかり行く「パストラール」のうちに。

   「アルルの平野」
この上もなく明るい空の下に拡がっている田畑の絨毯模様と、気の遠くなるように快い地平の曲線。
ヴィンセントの声 (落ちついて快活な)愛するテオよ、俺はやっとアルルに来た。暖かい、明るいアルルに俺は居る。太陽の光と、物の色と、土の匂いの中に立っている。そうだ、あのヴォルテールがコーヒーを飲んでいる間に喉が乾いてしまったと言ったという、実に輝かしい太陽の光だ。君は到る所で思わず知らずゾラとヴォルテールを感じるだろう。南は実にはつらつと生きている! この土地では農場や村の居酒屋も北フランスほどに物うげでなく、悲劇的でもない。暖かさが貧乏の辛い味と憂うつさを和らげ割引いてくれる。おお、これらの百姓家と、その麗わしく深紅の大輪のプロヴァンスの薔薇よ。また葡萄と無花果よ。すべては詩だ! そして永遠に明るい日光もまた――しかもその日光の明るさにもかかわらず、樹々の茂みは常に深々とした緑!
テオよ、俺は堅いパンと牛乳と鶏卵で暮している。暖かさが俺の体力を取りもどしてくれた。俺は他の人たちと同じように丈夫になった。土方やペール・タンギイや、老ミレエや百姓のようになったよ! あの貧乏で、身体を悪くしていると言うゴーガンが、早くここへ来るようにと、いくら俺が手紙を出しても、まだやって来ないのは、なんと残念なことだろう! ここへ来ればゴーガンは丈夫になる。一緒に安あがりに暮せる。ゴーガンも俺もドンドン絵が描ける。それが売れる。すればテオよ、お前にかける厄介も少しずつ軽くなる。早く来るように、お前からもゴーガンにすすめてくれ。
   「二本の李の樹」
ヴィンセントの声 (すこし早口で)テオよ、こちらでは、毎日良い日が続く。と言っても天気のことではない。天気は、アルルでは風のない静かな一日に対して風の日が三日つづく。この風を土地の人はミストラルと言う。恐ろしくイライラと神経をかき立てる風だ。だが、花の咲きそろった果樹園は早く描かないと、待ってくれない。だから俺は地面にくいを差して、それにイーゼルを縛りつけて、風の中でも仕事をしている。俺はドンドン、ドンドン描いて行く。ライラック色の耕地、赤い色の葦の垣根、かがやかしい青と白の空に伸びている二本のローズ色の李の樹。これは恐らく、俺の描いた一番良い風景だ(言葉の調子がシンミリと沈んで来る)……ちょうどこの絵を描きあげて、黄色い家に持ち帰ったら、モーヴが死んだことを知らせる妹からの手紙が来ていた。モーヴは最後には俺を突き放した。しかし親切な良い人間だった。何か――それは何だか俺にはわからないが――俺を捕えたものがあって、俺のノドの奥に塊のようなものが、こみあげて来た。俺はこの絵に描き入れた。「モーヴの想い出のために。ヴィンセントとテオ」。もし君が賛成ならば、これを俺たち二人からモーヴ夫人に贈ろう。俺にはモーヴの想い出についてのすべてのことは、直ちに和やかな明るいものにならなければならぬ。そして一枚の習作でも墓場の暗い感じを持たせてはならぬと思う。
死者を死せりと思うなかれ、
人々の生ある限り、その中に
死者は生きむ、死者は生きむ。

   「英国橋」
ヴィンセントの声 (神経的に快活な)テオよ、今日俺は、青空にクッキリと輪郭を浮べている「はね橋」と、その上を渡りかけている小さな荷馬車との油絵を描き上げて帰った。河水も同じ青、河岸はオレンジ色で、緑の草が繁り、野良着を着て色とりどりの帽子をかぶった洗濯女の一群がいる。女たちの笑いさざめく声が川面にひろがり、橋を渡る馬車のわだちの音がガラガラと鳴り、それらが響きかわして、絵を描いている俺の所までとどいて来た。あの馬車には、アルルに来てから俺の知り合いになった百姓が乗っているかも知れない。洗濯女の中には、善良な郵便配達ルーランのおかみさんが、まじっているようだ。……俺は筆を使いながら、遅まきながら画家になった自分をシミジミと幸福だと思った。俺はホントに幸福だ。……俺はまた、もう一枚田舎の小さい橋と、もっと大勢の洗濯女との風景を描いた。駅のそばのプラターヌの並木道も描いた。仕事のための着想は群がるように湧いて来る。だから孤独ではあってもそれを感じている暇もない。俺は蒸気機関車のように描きつづけている。グイグイと仕事が進む。一日に一枚ずつ時によると二枚も仕上げることがある。俺はまるで自分が日本に居るような気がする。俺はここに来てはじめて、自分を発見した。完全に独創的な画家として自分を打ち立てた。形も色も恐ろしい程にハッキリ見え、見たものを少しの疑いもなくカンバスに描ける。パリでは、いろいろの刺戟が強過ぎたし、他からの影響に動かされ過ぎて、自分を失い、乱れ疲れてばかり居たのだ。それがわかった。もう俺はどんなことがあっても自分を取り失いはしないだろう。テオよ、とは言っても俺はゴーマンにはなっていない。俺にはまだ傑作は描けない。俺の技術はまだギクシャクして完全ではない。しかし独創的な――他人からの借り物でない――これこそヴィンセント・ヴァン・ゴッホであり、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ以外のものではない線が描けるようになった。これもお前のおかげだ。お前は俺を愛してくれ、尊敬してくれ、俺が絵を描きはじめて以来、一月もかかさずに、自分の働いて得た金の中から、俺の生活費と絵の材料の費用を送ってくれる。何と言うお前は良い弟か。そのお前の愛情と尊敬とギセイに、いくらかふさわしい画家に、やっと俺はなりかけている。俺がもし立派な絵を描くことが出来れば、その作品は文字通りお前との合作だ。わかるかいテオ? 俺はお前にこう言えることが、こう言えるようになったことが、うれしく、誇らしくてならないのだよ。俺はボリナーヂュで神を見失った。その後ハーグでもヌエネンでもアムステルダムでもパリでも、神は俺には見つからず、現在でもキリストの神がどこに居るのか俺にはわからない。しかしお前がこれほど俺を愛してくれ、俺がこれほどお前を愛し、してまた、俺はゴーガンやベルナールやタンギイや労働者や百姓や、しいたげられた女たちを愛している。そして俺には絵がある。絵を描くための労働がある。それならばもし神が居ないとしても、何かが居るのだ。
   「黄色い家」
ヴィンセントの声 テオよ、やっとやっとゴーガンが到着した。彼は元気だ。そして、お前の斡旋で自分の絵の売れたことを喜んでいるし、こちらでは俺が家や部屋など一切のことを、スッカリととのえて置いたので、すぐに気持良く仕事が出来るので、ひどく悦んでいる。俺も勿論非常に愉快だ。生活は今までよりも軽くなる。彼はすぐれた画家だし、面白い人間だ。彼と一緒ならば、俺も彼もともにたくさん仕事が出来るだろう。すべては、実にうまく行きつつある。テオよ、これがゴーガンと俺の住んでいる黄色い家だ。ラマルチーヌ広場にある右がわの二階家で、ルーランの世話で家賃はたった月に十五フラン。俺は家をペンキで黄色く塗った。部屋が四つ有るから俺とゴーガンは、それぞれ自分の寝室を持っている。……テオよ、白状すると、しばらく前から俺は身体の調子が悪かった。食事が不規則なために胃が悪いのと時々頭がボンヤリして意識が薄れるような気がすることがある。外で絵を描いていて、倒れたこともある。俺は何か、ひどく身体が悪くなりそうな気がして、不安で不安でたまらなかった。そこへゴーガンが来てくれた。不安は消えた。いまでは無事に切抜けられる自信を持っている。俺たち二人は一カ月二百五十フラン以上は使わない。ゴーガンは料理がうまい。俺も彼から習おうと思っている。こうして安上りに共同生活しながら、二人でグングンと立派な製作をする! そのうちに、印象派の画家たちや若い画家たちがここにやって来ていっしょに暮し、いっしょに絵を描いてその指導者にゴーガンがなる! 愉快ではないか。ハハ!(神経的に、しかし愉快そうに笑って)ゴーガンは早くも、自分のアルルの女を見つけたらしいよ! 俺も、あれくらいに恋愛の腕があると良いと思うが、しかし俺の手の届くのは風景だけだ。フフ! 俺たちは大いに女郎屋を研究しに行くつもりでいる。毎日、朝から晩まで二人とも仕事仕事で過ぎて行く。夕方になると俺たちはヘトヘトになってカッフェへ行く。そのカッフェの夜の景色をそのうち俺は描こうと思う。ガス燈がきらめき、青い夜空に星がまたたく。そのテラスでは、ここに来て俺が知り合った士官のミリエや、画家のボッシュや喜劇俳優や、たまにはルーランも寄って、コーヒーを飲み、小さいパンを食べ、白葡萄酒に時々はアブサンを飲む。アルルの夜のとばりが、さわやかな物音を沈めて落ちて来る。テオよ、俺は幸福だ。
   「夜のカッフェ」
ヴィンセントの声 (前とはガラリと変って暗く、ギクシャクと言葉の調子が乱れている)テオよ、俺は相変らずグングンと製作している。しかし時々頭がグラグラしたり、ここから逃げ出して行きたくなる。どうしてか、わからない。俺の頭の中で妙なものが、うごめいている。時々俺は絶望におそわれる。俺は遂に画家として完成されないだろう。ゴーガンの絵は売れるのに俺の絵は一枚も売れない。俺は部屋の中をカンバスで一杯にしていながら、一枚も送れるものがない。ゴーガンは俺のことを「旅団長、旅団長」と言うが、実際、俺は才能もなんにもない歩兵旅団かも知れないと思うことがある。……それに較べるとゴーガンは偉大な芸術家だ。彼は「葡萄をもぐ女たち」を完成した。これは「黒人の女」にも劣らぬ見事なものだ。彼は「夜のカッフェ」もほとんど完成し、今は非常に独創的な裸婦を乾草の中に、豚といっしょに描いている。これは非常に立派な実に特異なものになりそうだ。ゴーガンは、いつでも堂々と自信を持ち、牛のような力で描いて行く。実にうらやましい、見事な態度だ。俺は彼から学ばなければならぬ。しかし、俺はゴーガンのようにユックリ絵具を塗ってはいられない。仕事が間に合わないほどたくさんあるからだ。俺には俺の行き方がある。俺はゴーガンと競争しようとは思わない。しかしゴーガンを見ていると、俺はイライラして、手がふるえ出し、頭がキーンと鳴り出すのだ。俺はまた、病気の発作に襲われるのではないかと言う気がする。しかしテオよ、あまり心配しないでくれ、俺は充分気をつけている。ミストラルが吹く時には、屋外の写生には出ないようにして、アトリエで描く。心配しないでくれ。……ゴーガンが昨日、クロード・モネエの「向日葵」の絵を見た話をした。その向日葵は日本製の大きな花瓶にさしてあるそうだ。実に立派な絵だそうだ。しかし、そのモネエよりも俺の「向日葵」の方が好きだとゴーガンは言った。……俺はゴーガンの言葉を信じない。ゴーガンは立派な人間だから嘘を言っているとは思えない。しかし俺は信じない。信じられない。
   「向日葵」
ヴィンセントの声 (続いてソワソワとした早口)ゴーガンは強い。意地が悪い。絵を描くために罪もない奥さんと子供たちを捨ててしまって平気な男だ。画家としては偉大だが、人間としては悪魔のような男だ。……いやいや、そうではない、彼は実に親切な人間だ。彼はこの間も俺に、あんまり厚く塗った絵具の油を時々拭きとる方法を教えてくれた。そうすると色が鋭く冴えるのだ。ゴーガンに反感を持ったり憎んだりするのは俺が悪い。それは俺が弱くて、イライラばかりしているからだ。……テオよ、これがその描きかけの「向日葵」だ。君は、どう思う。俺は今三十五だ。とにかく、四十歳になるまでに俺は、そのモネエの「向日葵」に匹敵するような人物画を一枚でも描くことが出来たら、俺は芸術の上で誰か――それは誰でもかまわない――誰かの隣りに一つの席を占められるだろう。だから、ヴィンセントよ、忍耐しろ、忍耐しろ! ……近頃ゴーガンは、アルルの町や俺たちの黄色い家や、特に俺に対して、機嫌をそこねているように思う。何かと言うとアルルの一切のものを呪い、一日も早く、金の出来次第、南洋群島の方へ行くんだと言う。しかし俺は今ゴーガンに行ってしまわれるのが恐ろしい。だから行かないように頼んでいる。そのことで時々口喧嘩のようになる。それらのホントの原因は、外部によりも俺とゴーガンの内部に在る。自分のうちに強烈な創造力を持った人間が二人寄ると、長くは一緒に暮して行けないのだろうか? ゴーガンと俺とは昨夜、ドラクロアとレムブラントについて議論した。俺たちの議論は物凄く電気的だ。議論の後では、俺たちの頭は、電池が放電してしまった後のように困憊しつくす。そしたらゴーガンが自分の絵と俺の絵のことを言い出した。やっぱり君は旅団長だ、人の影響を受け過ぎる、現に俺の色の塗り方を真似て、ツーシュの幅が広くなってるじゃないか、そう言うのだ。俺はグッと来た。しかしジッと我慢した。頭の中が鳴り出したが我慢した。……するとゴーガンが出しぬけに、せせら笑いをしながらラシェルのことを言い出した。ラシェルと言うのは、はじめ俺と仲好くなり、ゴーガンが来てからはゴーガンと仲好くなった五フラン屋の女だ。――カーッとなってしまった俺は、眼の中から光が飛び散る。ゴーガンの歪んだ鼻! それを目がけてアブサンのコップをビュッと投げた! どこかで、チャリンと鳴って、白い炎が立ちあがる、白い炎が――
   「製作へ」
アルルの街道をヴィンセントが七つ道具をかついで写生を行っている絵。ただし、この場合は幻燈スライドではなく、この絵からヴィンセントの姿だけをのぞいて実景大に引き伸ばし、ホリゾントを使って眼もくらめるばかり明るくした装置である。風景の中に人影はない。

ヴィンセントの声 (しばらく沈黙していてから、弱り果てた低い声で)テオよ、これがアルルの街道だ。夏の間は毎日のように俺はここを通って写生に出かけた。今は夏も過ぎ、秋も終って、そろそろ冬だ。近ごろではたいがいアトリエで仕事をするが、今日はしばらくぶりでここへ出かけてスケッチして来た。俺はこの絵のまんなかに、絵の具をかついで製作に出かけて行っている俺の自画像を描きこむつもりだ。……ほらほら、向うから俺の仲好しのルーランがやって来た。今日はもう夕方で、配達は全部終ったと見えて、カバンも軽そうだ。良いヒゲだろう? ね、顔はソクラテスに似ているだろう!(言葉の中に、そのルーランが、青い制服制帽に大きなカバンを肩から斜めにかけて、街道を上手から歩いて来る。一日の働きを終った後の上機嫌で、何かの鼻歌を小声でやりながら)ルーランは、これから家に帰るんだ。気が向くと、途中であのカッフェに寄ってペリティーフを一杯ひっかける。しかし、深酒はしない。家には人の好いおかみさんと子供たちが、一緒に夕飯を食べようと首を長くして待っているからだ。テオよ、心貧しく、人を憎まず、働いて妻と子を養っている人々の姿の、なんと美しいことだ! 俺は涙が出る! ……(ルーランは中央あたりまで来て、道ばたの草むらの中に何かを見出してギョッとして立ち停る。やがて、怖わ怖わ近より、覗いてそれが人であることに気がつく)
ルー ……これこれ、あんた――(その人の肩に手をかけて)ああ、ゴッホさんじゃありませんか! どうなすった、こんな所で眠ったりして? おやおや、イーゼルも何も、ひっくり返して!(言いながら助け起す。実際の「製作へ」の中に描かれているのと同じナッパ服にムギワラ帽のヴィンセント。気を失って倒れていたもの)
ヴィン うん? ……(ボーッとして、自分がどこに居るかわからない様子)
ルー どうしました? 気分でも悪いかね?
ヴィン ああルーランさんか? ええと――
ルー もう間もなく日が暮れますよ。さあさあ、いっしょに帰りましょう。おやおや、せっかくの絵があなた、砂だらけだ。(くちこごとを言いながら、絵の道具をまとめてくれる)
ヴィン すまない。つい、寝込んでしまって――(やっと我れに返り、頭をブルブル振り、痛むと見えて額に手を持って行く)
ヴィンセントの声 (観客の背後から)眠っていたのではない。気を失って倒れていたのだ。……俺はこの風景をセッセと描いていた。ゆうべのアブサンがたたって頭が少し重かったには重かった。しかし、俺はいつもカンバスに向うと、すべてを忘れてしまう。今日も描き進むうちに頭の痛いことは忘れてしまっていた。絵はうまく行きそうな気がした。そのうちに、ヒョッと風が吹いて来た。ああまた、ミストラルが来るなと思った。カンバスがゴトゴトした。そのため木立の色を塗りそこなった。それでパレット・ナイフを取ってけずり取ろうとして、ナイフの刀を見た瞬間に、ゴーガンの顔がナイフの向うからヒョイと覗いた。ゆうべ俺からアブサンのコップを投げつけられて、ジロリとこっちを見た顔だ。眼が軽蔑で光っている。その青い眼だ。……それを見ているうちに、俺はクラクラとしてあたりがすべて白くなり、そして、どこに居るかわからなくなった。遠くで、どこかの鐘が鳴りわたっていた。キリン、カン、キリン、カン、キリン、カン、遠い所で……
ルー さ、これでまとまった。絵の具箱は私が持ってあげます。行きましょう。
ヴィン ありがとう。いいんだ、僕が持つ。(立つが、すこしヨロヨロする)
ルー 大丈夫ですか?(ヴィンセントの片わきを支える)
ヴィン 大丈夫。(七つ道具をさげて立った姿は「製作へ」の中の自画像と全く同じである)
ルー なにしろ、あなたはあんまり詰めて仕事をなさり過ぎる。どうです、一つ、くたびれ直しにジヌーのカッフェで一杯ひっかけて行きますかな? ハハ、なあに、今日は私がおごりますよ。
ヴィン ルーランさん、ホンにあんたには、アルルに来て以来、ずいぶんお世話になるなあ。
ルー なあに、――これで私は何にもわかりやしませんがね、そいでも絵が好きで、そいでまあ、こうしてあなたともナニしてもらって、肖像画も描いていただいたし、お世話のなんのと、そいつはアベコベでさ。(ゴッホを助けて歩き出す)
ヴィン いやいや、僕の方が――悪いのは僕の方だ。
ルー え? 悪いとおっしゃると?
ヴィン 僕の方なんだ。
ヴィンセントの声 悪いのは俺だ。ゴーガンは悪くない。ゴーガンはいつでも正しい。ゴーガンは強い。強いと言うことは正しいと言うことだ。しかし、しかし、ゴーガンは、ホントに正しいのか? そして俺はいつでも旅団長なのか? 耳の長い驢馬なのか? ゴーガンに俺のことを耳の長い驢馬など言う資格があるのか? いやいや、いやいや、それでも悪いのは俺だ。あんな偉大な画家で先輩のゴーガンにアブサンぶっかけたりしたのは悪いとも! 今日帰ったらゴーガンに俺はあやまらなければならぬ。そうだとも!
ヴィン そうだ、あやまる。
ルー なあに、あなた、あやまるなんて、そんな大げさなことをおっしゃらなくたって、ハハ!
ヴィン ルーラン、君はホントに、ホントに善い人だなあ!(言いながらルーランの大きな手を取って、その手へ自分の頬を持って行く)
ルー おや! あんた、泣いているね。
ヴィン ? うん、いや。何でもない。何でもないんだ。
ヴィンセントの声 そうなんだ。人間はみんなみんな善いんだ。ゴーガンも善い人間だ。人間はお互いにホントにあやまり合って、仲よくやって行くのが本当だ。何を俺は苦しんでいるんだ? 貧しい、打ちくだかれた心で、生きて行けば、すべては明るく、すべては幸福に行く。それに気がつかないとは、何と俺は馬鹿だろう。こんなに明るい空がある。この空を俺は描ける。なにが不足なんだ? ゴーガンは善い奴だ。俺は帰ったら直ぐに、心からあやまろう……
声がそう言っている間に、ルーランとヴィンセントの姿は街道を下手へ歩み去って消える。
[#改ページ]

     5 黄色い家で

「アルルの女」第二組曲4の「ファランドール舞曲」。曲の途中から、それに合せて踊っている小さな靴音がカタコト、カタコトと混る。
かなり広い二つの室をぶちぬいてアトリエにしてある。下手にベッドのある小部屋(ゴーガンの寝室)。上手に、あまり高くない階段があり、階段の上にベッドのある小部屋(ゴッホの寝室)。正面に入口。アトリエの上手前寄りにスタンドがあり、それに水差しや洗面器、コップなどのせてあり、洗面場になっていると同時に簡単な食事の仕度もそこでするらしい。アトリエには中央に寄せた二つのテーブル、四、五の椅子、テーブルの上には壺に差したままカラカラに枯れた向日葵。ゴーガンのイーゼルとヴィンセントのイーゼルが、テーブルの右と左に立っており、ゴーガンのイーゼルには、向日葵を描いているゴッホの肖像の完成に近いのがのっており、ゴッホのイーゼルには、何枚目かの「向日葵」がのっている。壁のわきにはたくさんのカンバスが向う向きに立てかけてある。アトリエも寝室もガランとして貧しい。上手半分がゴッホの領分になっているらしく、床の上にデッサンの紙やチューブやボロ切れがメチャメチャにちらかり、階段には本が開いたまま投げ出してあったり、二階の寝室もひどく取りちらしてある。それに較べるとゴーガンの領分の下手半分と寝室はキチンと整理してある。その対照が一目でハッキリわかる。二つの窓から日暮れ前の広場の冬ざれた樹立が見える。――ゴーガンが、テーブルの下手の椅子にダラリとかけて、三角パンをムシャムシャやりながら、気のない風に膝の上のスケッチ・ブロックにクレヨンを走らせている。中央の床の上で、十七、八の女ラシェルが、すぐ裏にあるレストランから聞えて来る「ファランドール舞曲」の笛の音に合せて、手振り足振りスカートをなびかせて、自己流に踊っている。乳房のへんまで切りさげた派手なブラウスに黒いスカートの、言うこともすることもひどく軽くて、五フラン屋の商売女じみた所はなく、すこし馬鹿な小妖精じみた感じの女。……曲が終る。

ラシ フウ、くたびれた!
ゴー うまいじゃないか。
ラシ だって、あたしの村では、春の祭りには毎年これを踊るんだもの。アルルの、このへんでも踊るわ。みんなで広場に集ってね。(ドサンと椅子の一つに掛けて)そんでも、こっちい来て、お店に出るようになったら、もう駄目だな。足のさばきが以前のように早く出来ない。
ゴー 毎晩毎晩、あんまり足をさばくからな。
ラシ いやあだ!
ゴー あの店に来て、君、どれくらいになる?
ラシ この冬でそろそろ一年になるわ。
ゴー どうだ、田舎に居るのと、今の商売と、どっちが良い?
ラシ そりゃ、今の方が良いわ。田舎に居ると、おっ母さんには始終ガミガミ言われるし、綺麗な着物一つ着られるじゃなし、第一食物があんた、肉なんぞ一週間にせいぜい一度、チーズもない時があるのよ。ここだと、肉は毎日、お客さんが葡萄酒は飲ましてくれる――
ゴー 飲ましてくれる代りにゃ、それぞれチャンとお相手をつかまつらなきゃなるまい?
ラシ それだって、暮しを立てる仕事だと思やあ、それほどつらくもないわよ。だって、どこに居たって、どっちみち私たちみたいな身分では、自分の身体を使って食べて行かなきゃならないもの。田舎では私もおっ母さんも大百姓の家へ日雇いに出て働いていたのよ。同じことじゃない?
ゴー ふん。
ラシ そりゃ、今のお店、時には、つらくないことはないわ。でも仕方がないでしょう? だから私、なんにも考えないことにしているの。馬鹿だと思ってんの、人間なんて。自分もお客さんも。だから、いっそ面白いわ。ただ、兵隊のお客さんだけは嫌だわね、乱暴で。
ゴー また、よく来るなあ、スワーヴ兵の奴ら。中尉のミリエなんぞ近ごろ来るかね?
ラシ よんべも来たわよ。しかし、あの人は、ローザのお客よ。あたいは、よんべは、お茶引いちゃった。
ゴー ははん、そこで今日はお前、ヴィンセントを呼び出しに御出張と来たな?
ラシ そういう訳ではないのよ。おかみさんに頼まれて、駅んとこまで買物があったんで、どうなすってるかと思ってチョット寄って見たんだわ。
ゴー しかし呼び出すにしたって、エサがこんな二つや三つの三角パンくらいじゃ、ごめんだぞ。ゴッホが行くと言ったって、俺がやらない。
ラシ エサなんて、そんなつもりじゃなくってよ。あんた方、絵ばかり描いていて、一日中なんにも食べないことがよくあるんでしょ? 可哀そうだと思って、私のおこづかいで買って来てあげたのよ。……だけど、フウ・ルウは、どこへ行ったの、ずいぶん遅いわね?
ゴー そら見ろ、ヴィンセントを待ってるくせに。ハハ、なに、もうすぐ帰って来るよ。だが、どうしてお前たちは、あの男のことをフウ・ルウなんて言うんだい?
ラシ 町の人がみんなそう言ってるのよ。だって、そうでしょ、あの人と来たら夏の間じゅう、七つ道具をかついで、熱病やみのような眼をしてさ、日の出ないうちに町から駆け出して行くんだもの。そうしちゃ、頭のテッペンを生肉のように真赤にして、描きあげた絵を振りまわして、ブツブツひとりごとを言いながら帰って来るのよ。だから、赤毛の馬鹿、フウ・ルウ!
ゴー 赤毛の馬鹿か。
ラシ あたしん所へ初めてあの人が来た時、ベッドに入ってから、あたい、そう言ってやった。あんたのこと、町の人が何と言ってるか知ってる? って聞いたら、あの人ったら悲しそうな顔して、何と言ったと思って? 知ってるよ、多分俺は赤毛の馬鹿なんだろう。だって俺にはそれをどうしようもないじゃないか。
ゴー フフ、フフフ!
ラシ あたいも笑っちゃった、しかし、そん時から、あたしあの人と仲好しになっちゃった。ホントに好きになったくらいよ。
ゴー すると、お前もあの男も、すっかり御満足になったと言うわけだね? そいつは結構だ。
ラシ え、なにさ? ええ、ええ、そりゃそうだわよ。だから、これからチョイチョイ来てちょうだいと私言ったのよ。そしたらね、来たいには来たいけど、金がないからそんなには来られないと言うの。だから私、金のない時はあんたの耳を私んとこに持って来てちょうだいって言ってやった。あの人、とても大きな飛び出した耳をしてるでしょ、ホ、ホ、まるで驢馬の耳みたいな?
ゴー そう言やあ、そうだ。(自分の描いたヴィンセントの肖像に眼をやって)フフ、そうさ。
ラシ ね、ホホ、そしたら、あの人とても喜んで、じゃそのうちキット持って来ると言うの。ハハ! うれしくなっちゃった、あたい! あんな怖い顔をしてるくせに、あんな善い人ってないわよ。
ゴー そりゃそうだ、たしかに。まあ、せいぜい可愛がってやってくれ。
ラシ だけど、あの人、ここが少しこれでしょう?(こめかみに指を持って行って廻して見せる)じゃなくって?
ゴー む、ちょっとね。だが、変だと言やあ、俺なぞも相当だぞ、わかるかね、だから、こんな所にグズグズして本物の気ちがいにならぬうちに、俺なぞ一日も早く南の天国へ行くよ。
ラシ え、どっかへ行くの、あんた? よしなさいよ。アルルよか良い所、世界中になくってよ。第一あんたがどっかへ行っちまうとフウ・ルウ、とても寂しがってよ。
ゴー そんなこたアないよ。ゴッホのためにも俺あ早くここを立ち去った方がいいんだ。俺が居るとあの男は気が立っていけない。
ラシ そんなことない! だってこの間あの人言ってたわよ。ポールが行ってしまうと言ってる。ポールが行ってしまうと俺あ一人ぽっちで、どうしてやって行っていいかわからない、そうなると俺は悲しくて絵が描けなくなるかもわからない。俺はポールをホントに尊敬している。ホントに愛している。そりゃ、少し意地の悪い所はある、あるけどそんなことなぞ、どうでもいい。ポールをここに居させて置くためになら、俺あどんなことでもする。左の手一本ぐらいならローソクで焼いて見せてもいい!
ゴー ふむ。……(それを言っているのが、子供っぽい売笑婦であるだけに、かえって、強く打たれて、不意に黙ってしまい、眼を据えて「ヴィンセント像」を見ている)
ラシ (これは、ただ軽佻に)怖いくらい真剣な顔してそう言ってたわ。よくよくあんたに惚れてんだわ。あたい、少し妬けちゃったな。あんた、一体、あの人の何? 兄弟分? それとも絵の先生? 先生じゃないわね? だって生徒がポールなんて呼び捨てになんぞしないでしょ?
ゴー (苦しそうに、しかし強く)……友だちだ。……そう、一番仲の良い友だちだ。
ラシ ホント? ホントに? そいじゃ、あの人の言うこと聞いてあげなさいよ。寂しい人だわよ、フウ・ルウ! ね、そしたら、私、あんたにキッスしたげる! だから、そうしてあげて! ほら!(サッとゴーガンの膝に乗り、ゴーガンの頭を手にはさんで、口のわきにキッス)
ゴー ラシェル、お前は良い子だな。
ラシ だからね、そうしてよ!(もう一つ、別のがわにキッス)
ゴー フフ!
そこへ音もなくドアが開いて、ヴィンセント。絵の道具をさげ、ルーランと一緒に一杯ひっかけて来たと見え、すこし元気に、何の気もなく入って来たのが、ゴーガンがラシェルを膝の上に抱いているのを見て、サッと顔の色が変り、棒立ちになる。

ヴィン ……
ラシ あら、フウ・ルウ!
ヴィンセントの声 (観客の背後から、低い早口で)畜生! マルチニックの種牛め! この女まで俺から取り上げるのか? この女は俺の女だったんだ。アルルへ来て、絵を描きすぎて疲れてイライラしている俺を最初に慰め落ちつかしてくれたのはこの女だったんだ。この女は俺にとっては、自分の欲情の相手以上の存在だったんだ。俺の焼けてくるめく頭を、この女の乳の上にのせると、熱が引いて静かになりウトウト眠れた。それを、この畜生は、ただ一時の欲情だけで俺から取り上げるのか? こいつは俺の作品にいちいちケチをつけては、絵を描いて行く落ちついた気分を取り上げた。しょっちゅう議論を吹きかけては、俺の頭をメチャメチャに引っかきまわした。あんまり酒を飲むな、タバコを吸うななどと、したり顔して忠告するようなフリをして俺の生活から空気を取り上げた。まだ取り上げたりないのか?
ラシ (立って来て、ヴィンセントの首に手をかけて)どうしたのフウ・ルウ? また、絵を描きに行ってたの? 冬の間ぐらい、ちっと休みなさいよ。ごらんなさい、こんなに痩せちゃった。今日もまた何にも食べていないんでしょ? 私三角パンを買って来たわよ。(テーブルの所へ駆けもどってパンを掴んでゴッホの方へ行き、握らせる)お食べなさいよ。
ヴィン ……。
ヴィンセントの声 (ますます早口で)嘘をつけ、淫売め! 今お前はこの男と何をしていたんだ? 俺をナメて馬鹿にしても、その手には乗らないぞ!
ラシ どうしたの、黙りこくって? ね、フウ・ルウ、今あたしポールさんに頼んでたのよ、アルルからどっかへ行っちまうの、フウ・ルウのために、よしてくれって、そしたら、行かないと言うのよ。そいじゃ、行かないで、あんたとズッと一緒にここに居るんだって。(ゴーガンに)ねえ、あんた。そうだわね、そうでしょ?
ゴー フフ。……(ただ笑っている)
ヴィンセントの声 さては、この女が手に入ったものだから、また当分この女に飽きるまでここに居ようと言うのか? ゴロつきの浮浪人め!
ヴィン ……。
ラシ だからさ、安心して、このパンお食べよ、ね!
ヴィンセントの声 いや、いや、いや、待て待て。……(同時に舞台のゴッホは無表情のままユックリ上手の階段の下へ行き、さげていた絵の道具を置く)いけない! 気をつけろ! 俺は、ゴーガンに昨夜のことをあやまって、仲直りをするつもりで帰って来たんじゃないのか? ルーランと一緒に一杯飲みながらも、俺はそのことをルーランに話して、ルーランに約束して来たんじゃないのか? 落ちつけヴィンセント。もっと素直な気持になれ。ゴーガンは、今の俺に取っては唯一人の友だちだ。そして俺よりもすぐれた天才だ。ラシェルは何だ? たかが一人の淫売だ。ラシェルをゴーガンが取りたければ取ったっていいじゃないか。それくらいのことで俺はポールを失ってはならない。失ってはならない。素直に、素直に、素直になって、俺はポールに詑びを言わなければならない。ければならない。
ヴィン (低くつぶやく)ければならない。ければならない。うん。
ラシ 何をブツブツ言ってるのよ。お食べよパンを。
ゴー どうした、うまく描けたかね? ……風がひどかっただろう?
ヴィン う? ああ、いや。
ラシ ホホ、ぼんやりしちゃ、いやだわよ。ね、フウ・ルウ、今夜お店へ来ない? いっしょにアブサン飲んで踊りましょうよ。そしたら元気が出るわよ。ううん、お金がなきゃ、なくてもいいわ。その代り、持って来て、ね、これ?(とヴィンセントの左の耳を引っぱる)ホホ、よくって? 来るわねフウ・ルウ?(ヴィンセント無言でうなずく)
ヴィンセントの声 この女は何を言っているんだ? さっきはゴーガンと抱き合っていて、こんどは、こんなことを言っている。こんな無邪気な顔をして、こんな明るい目をして、パンを食えと言って、金がなければ耳を持って来いと言って、耳? 耳、耳? 俺にはわけがわからない。どう言うんだ? どう考えたらいいんだ? わけがわからない、わからなくなった、わ、わ、わ――(言葉の間から裏のレストランからのファランドールの笛が曲の途中から鳴りはじめる)
ラシ あら、また、裏で笛を吹きはじめた。(踊りの調子に靴をカタカタ鳴らして)じゃ、あたい帰る。あんまりおそくなると、おかみさんにしかられるから。きっと来てよ今夜。いいわねフウ・ルウ。ポールさんも、どうぞね。さあさ、これチャンと食べて。(と、ゴッホの手のパンをちぎってその口にねじ込んでから、入口の方へ)さいならあ! ランラ、ラー、ラー、(ファランドールに合せて三つ四つ踊りの身ぶりをして靴を鳴らしてから、戸を押してサッと出て行く)
取り残されたゴーガンとヴィンセント。ヴィンセントは立ったままで、バラバラの表情で、無意識にパンを噛んでいる。ゴーガンは、こっちからそれをジッと見守っている。……鳴りつづけるファランドール。

ヴィン ……(顔が不意にゆがみ、両頬に涙が流れて来ている。自分ではそれを知らない。ファランドールに聞き入っているだけ。ヒョイと右手の三角パンを見る。そのパンを自分が噛んでいることに気がつく。ピクンとしてゴーガンを見、それからラシェルの立ち去った戸口に目をやる。それから再びパンを見る。見ているうちに急に声をあげて泣き出す。ファランドールやむ。ヴィンセントのオーオーと犬のほえるような泣声だけが残る)
ゴー (びっくりして見ていたが)どうしたんだ?
ヴィン ……(泣き出した時と同様に出しぬけに泣きやんで、ボンヤリ立っている)
ゴー (立って行き)どうしたんだよヴィンセント?(ゴッホの肩に腕をまわして、テーブルの方へ連れて来ながら)まあ、掛けたらいい。急に泣いたりして?(ゴッホを椅子にかけさせ、自分もかける)
ヴィン (いきなり、ゴーガンの手を握って)ポール、俺を許してくれ! 俺が悪かった! どうか許してくれ!(床にひざまずいてしまう)俺は、たしかにどうかしているんだ! たしかに、どうかしていた!(床に額をすりつける)
ゴー (びっくりして)どうしたんだよ全体? そんな――ヴィンセント?
ヴィン 俺にはそんな気はちっともなかったんだ、そんな気はちっともないのに俺の手がひとりでに動いちまった。俺はただ、ミレエが偉大な画家だってことを君にわかってもらいたいと思って話していただけなんだ。それがツイ君から何か言われて、あんな議論になってカッとなってしまった。僕の悪い癖だ。すぐに後先もわからないようになってしまう。君は冷静だ。僕はまるで子供みたいな人間だ。僕は時々自分でも自分が自由にならなくなってしまう。僕は君にアブサンを投げつける気なんか、その瞬間まで、まるでなかった。
ゴー ゆうべのカッフェでのことかね? なに、僕はなんとも思ってやしない。いいよ、いいよ。ハハ、まあ起てよ。
ヴィン いいや、許すと言ってくれ。でなければ僕は起たない。ポール。どうか許してやると言ってくれ。
ゴー (ゴッホのわきに手を入れて立たせながら)いいじゃないか、そんなこと。大したことじゃない。じゃまあ、許すよ。ハハ。
ヴィン (やっと立って)ありがとう。僕はもう今後気をつけて、あんなことは絶対にしない。約束する。
ゴー (ゴッホの両肩を抱いて)ヴィンセント、君って男は、良い奴だなあ。
ヴィン (これも、しっかりと相手を抱いて)ありがとう、ありがとう。
ゴー また泣くのか?(ポケットからハンカチを出して、ヴィンセントに握らせながら)拭けよ、みっともない。そのツラじゃフウ・ルウと言われても不平は言えないよ、ハハ。第一、僕はそんなセンチメンタルなのは、好きでないね。よしよし、仲直りの祝いに、ゆんべ俺の買って来たアブサンを開けよう。(言いながら、下手の自分の寝室に行き、ベッドの下からアブサンの大瓶を出す)
ヴィン (ハンカチで顔を拭き、機嫌よく笑いながら)まったく、俺はフウ・ルウだ。ラシェルがね――いや、ラシェルも、君が取りたいと思ったら取っていいよ。あれは良い娘だ。アルルの太陽の光の中からヒョイと生れて来たような女だ。もともと、僕があの女の所に通うようになったのが、君が来る前、僕はここにたった一人ぼっちで居て、とても孤独で寂しかったからなんだよ。寂しくってやりきれなかったためだ。(ゴーガンはその間にノシノシと歩いて上手の洗面台へ行き、コップを二つ持って来てテーブルの上に置き、瓶を開けてアブサンを注いでコップの一つをヴィンセントに持たせる)ありがとう。(グッと一気に飲む。ゴーガンも飲む)そりゃ俺も唯の人間だ。女が欲しい。女が居なければ俺は凍えてしまう。しかし、それにも、もう馴れた。そう言う意味では俺はもう諦めている。女には俺は縁がない。俺の恋人は俺の絵だ。それに、こうして君と一緒に暮しているんだから俺はもう寂しくはない。だから、ラシェルは君にあげるよ。
ゴー (グイグイとアブサンを飲みながら)ハハ、せっかくだが、いらんねえ、あんな小娘なぞ。そんなことより、問題はそんなふうな君の考え方について廻る、なんと言うか、大げさな禁欲主義的な、福音書風な行き方だなあ。女なんて、君が考えているようなもんじゃないよ。欲しくなりゃ、好きなように取ったらいいんだ。女もすべて取られることを望んでいる。アダムとイヴの道だ。女も動物だ。男が動物であるようにね。それ以上、めんどうなことを考えて自分をしばりつけること自体が既にもう一種の堕落だよ。男と女が動物であった時は、堕落なんぞ起きはしなかった。神を創り出したり、道徳を考え出した時から堕落したんだな。それと、機械だ。機械は今にわれわれ全部を奴隷に引きずりおろしてしまうよ。神と道徳と機械――これがわれわれヨーロッパの文明だ。だから文明は堕落のシノニムだね。今に完全に腐って亡びるよ。特にこのフランスなんて言う所は、もう腐り果ててズルズル溶けかけている。ボードレールはその腐った匂いをかぎ過ぎて、頭が変になった男だし、マラルメはそいつをかぐまいと思って、鼻をつまみ過ぎたためにフンづまりになった男だ。君も、いいかげんに福音だとか道徳なんぞ、いじくりまわしていると、気違いになるかフンづまりになるのが落ちだぞ。どっちみち、こんな腐った匂いから逃げ出す方法は、一切合切かなぐり捨てて、まっ裸になって海に飛びこむ以外にないんだからね。
ヴィン そりゃ、君の言う意味はわかる。わかるけれど、それも結局は一時の逃避だと思うんだ。今は、そりゃ、マチニックやタヒチへ行けば美しい楽園が在るかもしれない。しかし、そこがいつまで楽園であり得るだろう? え?(再びゴーガンのついだアブサンをあおる。そして自分もゴーガンのコップについでやる)しょせんは人間が住んでいる所だ。今のところ原始的で、文明から毒されていないから良いが、やがて、そこも開けて来る。人間は自然に文明の方へ進む。原始の方へ後帰りすることは出来ない。すると早かれおそかれタヒチもパリも変りはないことになる。だから問題は本当は片づいたんじゃない。ただ一時、君は逃げ出すだけだ。(もう酔いが廻って、次第次第に早口に昂奮して来ている)
ゴー (この方は酒に強く、冷静さを失わない)そうだよ、たしかに逃げ出すだけだ。後のことを知らん。ほかの奴らのことは知らん。自分がもうたまらないから逃げ出すのだ。卑怯だの、独善だのと笑わば笑え、問題が片づかなくたって俺の知ったことじゃない。俺が確実に持っているのは、この自分だけだからな。しかも俺がこうして生きているのは一遍こっきりなんだからね。俺は来世を信じない。だから、今、現在、自分を大事にするんだ。臭いのをがまんしているのは、御免なんだ。それだけの話だよ。悪いかね、それで?
ヴィン 良い悪いではなくて、俺の言うのは、こうしてやって行きながら、この腐敗や堕落の中で苦しみながらだな、そのなかに、俺たちは救われる道を見つけ出せないだろうか、と言うことなんだ。また、結局、このなかにしか、救われる道は見出せないんじゃないだろうか、と思うんだ。それに、君は笑うかも知れないが、今現にこうしてゴチャゴチャした不合理な不愉快な世の中に生きていても、正直のところ、俺たちはまだ素朴なやさしい心をお互い同士感ずることが出来る。真実を与え合うことは出来る。愛はあるのだ。それが在るならば、何がホントに根本的に腐敗しているのかね? だから、だからさ――だから、例えば――自分のことを言ってなんだけど、僕がね、ベルギイの炭坑で宣教師をしていた時、炭坑が爆発したことがある。死人がたくさん出た。一人の男が死にかかっていた。会社では、どうせどんな手当をしても死ぬものだから打っちゃって置けと言うんだ。僕はその男を見ていて、もしキリストだったら、どうするだろうと考えた。そしてね、僕はその男を自分の室にかついで来て、疵を洗ってやって、つきっきりで看病した。毎日湯に入れてやった。その男が恢復するにつれて、僕は餓えてきた。一カ月して男は助かって、僕の方は病人みたいになった。そしてその男は今ではスッカリ丈夫になって、毎日曜日僕のために神に祈っている。……いや自慢するためにこんな話をしてるんじゃないよ。それに僕はとうの昔に神やキリストを見失っている人間だからね。ただ、そういうこともあると言っているんだ。その男が僕のために、死ぬまで祈ってくれていると言う点なんだ。神だか何だか俺は知らない。しかし、もしそれを神だと言えば言えるんじゃないだろうか? すれば、人間は逃げないで、このままでやって行っても救われるメドは有るんじゃないだろうか?
ゴー ……(先程から、自分の全く持っていないものを持っている人間に対する驚異と感嘆のために、アブサンを飲むのをやめて、ほとんど厳粛な顔になってヴィンセントを見つめていたが)まったく、君と言う男は、おかしな男だ! どうも、うむ。聖なる魂か。
ヴィン 聖なる――? またからかうのかね?
ゴー からかっているように見えるかね? フフ、まったく君という男はおかしな人間だなあ。どうだい、明日僕に君の肖像を描かしてくれないか?
ヴィン 僕の? ああ、いいとも。そいでね、僕がここにこの家を借りて、君を呼んでこうしてさ、そして、もっと貧乏で世間から認められない画家たちをたくさん呼び集めて、仲よく共同生活をしながら製作して行こうと思ったのも、結局それなんだよ。俺はやっぱり人間を信ずる。逃げ出そうとは思わない。貧しい心とあたたかい胸を持った人々を捨てない。どんなに苦しくとも、俺はここで、やる!(ドサン、ドサンとテーブルを叩く)
ゴー おっと、そんな、なぐりつけるのは、よせ。酒がこぼれる。(コップを取って飲む。以下、話の間に、ついでは飲んで、二人の酔いは深くなる。ヴィンセントよりもゴーガンの方がずっと酒に強いだけでなく、酔い方も違う。ヴィンセントの方はカーッと発揚してイライラと白熱して来る酒で、ゴーガンのはドロンと底に沈んで行って、どこか少し凄味のある酒だ)
ヴィン だから俺は、君を画家としてはホントに尊敬しているけど、でも、奥さんや子供さんまで有るチャンとした家庭を、まるで古靴を捨てるようにして捨ててしまって顧みない君の気持が、俺にはわからない。
ゴー ハッハ、そいつは俺にもわからないさ。ただ、ある朝ヒョッと、人間はいつまでも生きてるもんじゃないと思った。俺も、だから、自分のホントにしたいと思うことをしなくちゃならんと思ったんだ。それまで十五年間俺は証券屋をやって、妻子を養って来た。今後もなんとか困らないだけの金は稼いでやった。だから後は、自分たちで何とかするがいい。これから先の俺の月日は俺のものだ。自分だけのために使うんだ。だから絵を描くんだ。あとはどうでも良い。俺の知ったことじゃない。そう思って、そうしたまでさ。ハハ!
ヴィン そうら、そう言って君は笑う! そんな風にだね。自分の親しい者をギセイにする資格が人間にあるのかね! しかも君は笑っている! 君の奥さんと子供さんは君から捨てられて、今ごろは泣いているかも知れないのに、君は笑うんだ! まるで君は悪魔だ。
ゴー アッハハ、俺が悪魔なら、君はダニだよ。だってそう言う君自身はどうだい? 弟のテオドールを君はギセイにしてないのか? もう五年もテオ君は自分の月給の中から毎月百五十フランずつ君に送って来ているが、そのためにテオ君は結婚しようにも、思うように行かないで、行きなやんでいるそうじゃないか?
ヴィン そ、そ、それを! そ、そ――(一度に真青になって立ち上っている)き、君は――テオは、テオとは、そう言う約束なんだ! 俺の描き上げた絵はみんなテオに提供する、だからそれはテオの財産であって、それが売れるようになればテオがもうけて――だから、今兄さんに金を出してあげるのは、言わば共同出資の前払いだから、兄さんは安心して、ひけめを感じないで絵を描くように言って――(昂奮と酔いのために絶句してしまう)
ゴー そりゃ、君に気づまりな思いをさせないために、そう言うのさ。人の善い男だからね、あれは。しかし、実はどいだけ君のことを重荷に思っているか知れんよ。パリで僕に何度も愚痴をこぼしたことがある。時々兄のことでは耐えきれぬことがありますと言ってね。
ヴィン そ、そ、それはテオが俺のことを愛して、俺のためを思ってそう言うんだ。それが君にはわからんのだ。君はそれを反対の意味にしか取れない。そう言う冷血漢だ君は!
ゴー 現に、君の絵が売れるようになればと言うが、一枚でも売れたことがあるかね? ない。今後も売れる筈はない。つまりテオはボロクズを背負いこんでいるだけだ。それをテオは知ってるよ。知ってるけど、頭の少しおかしい兄を落ちつかせるための気休めに共同出資だなんて言っているのさ。そんなことをちっとも知らないで、ただいい気になっているのが君だ。いや、ホントは君はそいつを知っている。知っても、今のようにしているのが自分が得をするから、頬っかむりをしているだけだ。実は腹の底では気がとがめているんだ。でなければ、僕からこんなこといわれてそんなに怒るわけはない。いや、俺がこんなことを言うのは、だからけしからんと君を非難してるんじゃないぜ。ただ自分のことはタナにあげて人のことばかり君が言うからさ。人間は結局エゴイストだ。自分を中心に考える以外にない。人をギセイにするのは、やむを得ないさ。弱虫は人をギセイにしていることを認めるだけの勇気がないもんだから、愛だの涙だのと持って来て自分でごまかそうとして――
ヴィン だ、だ、黙れっ!(テーブルの上の、あらかた空っぽになったアブサンの瓶を掴んでテーブルにガシャンと叩きつける。瓶は割れて、そのへんに飛び散る)黙らないと――!
ゴー ……(ヴィンセントの調子から殺気のようなものを感じて、いっぺんに黙ってしまう)
間――いつの間にか、室内はすっかり暗くなっている。まだ少し明るい窓の外の広場にガス燈がポツリポツリともっている。

ヴィンセントの声 (背後から。死んだように静かな室内に向って、はじめはほとんど聞えないくらいに低くつぶやくように)いやいや、テオが、あのテオがそんなふうに思っている筈がない。テオは俺を愛している! 俺の絵を良い絵だと思ってくれている! 結婚のじゃまになるなぞと俺のことを思っている筈はない! そんな筈はない! それならば今まで、何かそんな所を俺に示している筈だ。愚痴をこぼしたと言うのは、テオの弱い性質のために、つい、そう言ったのだ。それもキット俺のために良かれと思って、俺のことをゴーガンに頼むために、つい、そう言ったのだ。それをこの悪魔は、こんなふうに言って、俺に毒気を吹き込むんだ!、テオと俺との仲を裂こうとしてるんだ。そうだ、こ奴はマムシだ! ……しかし、もしかすると、テオは、もしかすると俺のことをそう思っているのか? 重荷だと思っているのか? 頭の少し変な兄が、下手の横好きで絵を描いてる、よせばいいのに、よせばいいのに、でもソッとして描かして置かないと、いっそう厄介なことになりかねないから、気休めを言って仕送りをして描かして置く。そう思っているのか? そう、ちっとでも思っているとなると、俺は俺は俺は――
ヴィン (暗い中に立ったままで)俺は、どうしたらいいんだ?
……ゴーガンがノッソリ立って、ゆっくり歩いて、マッチをすり最初天井からさがっているガス燈に、次に隅の小テーブルの上にのっている石油ランプに火をともす。落ちついているようでも、さすがにマッチを持った手が少しふるえている。――室内が明るくなる、石のように突っ立ったままヴィンセントがまだ握っている割れた瓶の首の、割れ目のガラスが宝石のようにキラキラ光る。

ゴー ……(それをジロリと横眼で見ながら、元の椅子へ行ってかける)
ヴィン ……(その椅子のきしむ音で、ゴーガンの方へ眼をやり、二人いっとき見つめ合っている。そのうち、手に持った瓶の首が眼に入り、ギクンとして、どうしてそんな物を自分が手に持っているかわからない様子で、それとゴーガンの顔を見くらべていたが、急に恐怖の色を浮べ、キョロキョロとあたりを見まわした末に、上手の洗面台の下に、瓶の首を押しこむ。そして元へ戻ろうとするが、また不安になって、再びそれを取り出し、階段下のカンバスの向う側にかくして、その上に何枚ものカンバスをのせる。そしてゴーガンの方をオズオズと見て)……あの、俺は、何か、したかね? 何か乱暴な事を君に、したんだろうか? 今の、この――
ゴー ………いいよ。別に何もしない。だけど、もう、しゃべるのは、よした方がいい。君は酔ってる。
ヴィン 何か、したんだろう? 悪かった。悪かった。……なんだか、先刻、テオがここへやって来たような気がしたんだ。そいでつい――
ゴー 来やしないよテオ君なんか。君は昂奮しているんだ。……俺もいけなかった。君があんなこと言うもんだから、つい僕もカッとしちまって――
ヴィン いや、僕がいけないんだ。どうも、この、近頃、時々、頭が妙な風になる。変な声が聞えたり――許してくれ。すまん。(言いながら打ちくだかれた様子でヨロヨロとテーブルの方に戻りかけ、そこのイーゼルに足がけつまずき、イーゼルが倒れそうになったので、それを支えて、元のように直す)
ゴー 僕も酔った。もう寝ようじゃないか。
ヴィン (フッとそのイーゼルの上の絵に眼を引かれて、ジッと見ている。自分の「向日葵」である。立っていても身体がフラフラとゆれている)
ゴー (白けきった言い方で)それとも、ローザのおかみの所へ出かけるか? どうもこの部屋がいけない。どうだい、君はラシェルの所へ行くんだろう?
ヴィン え、ラシェルだって? ……(おうむ返しにそう言うが、またすぐ絵にすいつけられる)
ゴー ラシェルがあんなに来いって言ったじゃないか。
ヴィン ラシェル……ふむ。(と無意味に繰返して)この「向日葵」は良いって、君言ったね?
ゴー うん? ……うむ、よく描けているよ。(気のない。しかし言い方に気がないだけに、本心からそう思っていることがわかる)
ヴィン マネエの「向日葵」より良い?
ゴー ああ良いね。
ヴィン ……すると、テオにはそれがわからないと君は思うかね? ただ俺が下手の横好きで描いているんじゃないと言うことがだね、つまり、ただ俺が重荷だって言う――
ゴー しつこいなあ、まだ言っているのか。そんなことどうでもいいじゃないか。とにかくテオはシロウトだからね、ホントのことはわからんよ。とにかく、この絵は良いよ。俺が言ってるんだから間違いない。君は僕の描き方をかなり取り入れてるが、しかし君でなきゃ描けんものがある、その絵には。良いよ。僕のこの絵と取り替えっこしないかね?
ヴィン ふん。……(ゴーガンのイーゼルの方へ行き、自分と向日葵の描いてあるその絵を見る)……うまい。……トーンがある。どうしてこんな色が出るのかな? ……だけど、ホントに僕の顔はこんなかね?
ゴー そうだとも言えるし、そうでないとも言える。僕は目に見えたものを、そのまま写生はしない。そんなのは写真にまかしとけば良いんだ。僕の絵は僕の頭の中に在る、それをカンバスに一つの装飾として描き出すだけだ。
ヴィン すると君の頭の中の僕という人間は、こんな顔をしているんだね? つまり、僕と言う人間を君はこんなふうに見ているんだね?
ゴー まあ、そうだね。
ヴィン すると、君はやっぱり僕を気ちがいだと思っているんだ。だって、この絵の僕の顔は、これは狂人の顔だ。
ゴー そう取りたければ取ってもいいが、僕はそうは思わない。
ヴィン そうか。せっかくだが、「向日葵」と取り替えるのは、ごめんだ! (再びイライラしはじめている。ツカツカと自分の絵の方へ戻って来てそれを睨みながら)ふむ。君は今、俺が君の描き方を取り入れていると言ったがそれはどう言う点かね?
ゴー いいじゃないか、もう。取り入れたっていいし、そんなもの以上に君独特の所が出ているんだから。
ヴィン 嘘をつけ! 君はこれを模倣だと思っているんだ。自分の技法を模倣しているんだと言いたいんだ。そうだろ? そう言う傲慢な人間だ君と言う男は! なるほど君は俺なんかよりすぐれた画家だ。それは認める。しかし俺にだって、いくらまずい絵かきの俺にだって、俺にしきゃ描けないものはあるんだ。
ゴー だから、それはそれでいいじゃないか。
ヴィン 言って見ろ、卑劣野郎! どこがどんな風に模倣なんだ? 言え!
ゴー (ムカッとして)そうか。そんなら言う。模倣だって言うんじゃないぜ。影響だ。聞きちがえてもらいたくないよ。この、ここん所のエロウだとか、もちろん全体の構図も、特にバックの効果、そいから、この壺のカドミュームの輪郭など、君はどっから持って来たんだ? え? みんな僕の理論からの影響だ。そうじゃないか。
ヴィン ……(全く蒼白になり、卒倒する直前のような姿で石のように立っている)
ゴー 批難してるんじゃない。誰だって人の影響は受ける。現に僕だって、(肖像画を指して)向日葵の描き方は君の行き方で行ってる。だから、それはそれでいいんだ。ただ僕が言いたいのは、君は人からの影響に対してあまりにスナオ過ぎる。無抵抗すぎる。もう、そんな必要はないのに、つまりもう既に君は独自の芸術家になっているのに、あんまり正直に他からの――
ヴィン (ゴーガンの言葉を全く聞いていない)……(無言で眼を据えて、スーッと洗面台の方へ行き、その隅にのせてあったカミソリを掴んで戻って来て、刃を出すや、いきなり「向日葵」のカンバスをガスガス、ガスガスと切り裂く)
ゴー な、何をするんだ! こら――(ヴィンセントに飛びかかって、その腕を掴む)ホントに気が狂ったのか!
ヴィン 離してくれ! この絵は、君になぞ渡さないぞ!(カミソリを持った手を振りまわす)
ゴー あぶない!(その手をピシッと打つ。カミソリは室の隅へ飛んで行く。なおもあばれようとするヴィンセントを背後から羽がいじめにする)落ちつけ、ヴィンセント! 馬鹿!
ヴィン (酔いと昂奮としめ上げられているため、既に言うことに脈絡がない)くしょう! 俺は駄目だ! ダニだ! テオに厄介になっている価値がない! そうだ、へへ。人真似なんだ! 俺の絵は人真似だ! そうだよ、そうだよ、ポール! お前さんは偉大な画家だ、天才だよ、畜生! 放せ! 俺はな、もう絵なんか描くのよして、ラシェルの所へ行くんだ、耳を持って行ってやる! 放せと言ったら! (しきりともがくが、ゴーガンの強い腕でしめられているので動けない。そのうち体力が尽きたのか不意にクタッとなって、ウウ、ウウと泣くような唸り声を出す。口からヨダレをたらしている)
ゴー (抵抗がなくなったので、びっくりして)どうした? おい?
ヴィン (ほとんど失神している。ゴーガンの足元にクタクタとくずれ折れそうになりながら、うわごと)うう、うう……テオ、許してくれ。許してくれテオ! ううん。
ゴー しっかりするんだ!(相手が発作のようなことを起していることを見て取り、倒れこみそうなヴィンセントの身体をグッと抱えあげ、どうしようかと、あちこち見まわした末に、階上の寝室を見上げ、やがてヴィンセントを抱えて、階段の方へ行き、ゆっくりそれを昇って、寝室に入り、ヴィンセントをベッドに寝せる。ヴィンセントはグッタリして意識がないらしい。……それをジッと見おろしていたが、やがてその額に手を当てて、そのまま眠るらしいのを見すましてから、寝室を出て、いったんドアをしめるが、また開け放って、階段をおりて来る。室の中央まで来て、階上を見あげ、ヴィンセントが寝ているのでホッとして、しばらくジッと立っている。切られた「向日葵」のカンバス。……気がついて、カミソリの飛んだあたりへ行き、床の上を見まわすが、見つからぬ。なおもその辺を捜すがないので、あきらめて、テーブルの所へ来て、椅子にドッカリと腰をおろし、再び階上を見る。……それから目の前の壺にさした向日葵を見るともなく見ていたが、やがてテーブルに両肱をつき、両手で顔を蔽うて、動かなくなる。……間。どこかで何の音かわからない、非常に低い、ほとんど聞えるか聞えないほどに微かな唸り声のようなものが流れて来る――(三十人くらいの低いハミング)……。やがて身を起したゴーガン、ゆっくり立って階上を見あげた顔が涙に光っている。……気を変えて、ゆっくりした動作で、ガス燈の紐を引いて消す。そして、片隅の小テーブルの上のランプを取り、下手の自分の寝室に入り、ランプを枕元の台の上に置き、上着だけを脱いで、ベッドに横たわる。……しばらくして、首だけあげて階上の寝室の方の気配をうかがうが、なんの物音もしないので、枕元のランプを吹き消して横になる。……室内も二つの寝室も真暗になり、窓をすけて見える公園のガス燈だけが、ボンヤリと頼りなげにともっているだけ)……。
闇の中にハミングだけが、低く、底深く流れる。間。ハミングの波の上に、チラホラと極く低く、少し調子の歪んだ、そして時々とぎれながら「ファランドール舞曲」が浮びあがって来る。
その最後の音とともに、人がうなされているような「ヒイイ」と言う声がして、階上の暗い寝室のベッドの上にヴィンセントが起きあがった姿が、戸外からの微かなガス燈の光で見られる。それがしばらく、ジッとして動かない。……ハミングは既にやんでおり、ファランドールもやむ。……間……そのうちに、遠い所でミサでもあるか、キリンカン、キリンカン、キリンカン、キリンカンと微かな鐘の音。それが次第に急調になって来る。ムックリ起き出したヴィンセントの姿が、しばらく突っ立ったままでいる。その黒いシルエット。シルエットが不意に動き出し、スッスッスッと寝室を出て階段を下りアトリエの中央に立つ。ベッドに寝かされる時に靴はぬがされているので、ほとんど足音はしない。……遠い鐘の音がますます急調に同時に、乱調になる。
ヴィンセント、自分の寝室に引き返すように、階段の方へ戻りかけ、再び立ち停り、無意識にポケットに入れた手が掴んだものを鼻の先へ持って来て見ている。(マッチとクレヨン)……マッチをする。その光で真青な彼の顔と、身のまわりだけが照らされる。その光の中の壁ぎわの低い台の上に、ランプが一つのっている。ヴィンセントはそれに目をつけ、かがみこんで火をつける。その明りに下から照らされたヴィンセントの顔の錯乱……ランプを持って身を起こそうとした彼の眼に、そのランプの光を反射してギラリと光って、先程飛ばされた裸のカミソリが床の隅に落ちているのが見える。ヴィンセントそれを拾いあげ、いぶかしそうに見ていてから、ゴーガンの寝室の方に眼をやり、再びカミソリを見る。何かを思い出せそうでいて思い出せないイライラしたものが彼の顔に現われる。……

ヴィンセントの声 (背後から、低くささやくように)なんだ、これは? どうしたんだろう? うん? こんな所に裸のままで置いといてはあぶないじゃないか? ゴーガンが置いたのか? ゴーガン、ゴーガン……ゴーガンは、どうしたんだ? もう寝たのか?
ヴィン ……(ヒョッと何かを思い出すが、自分でも何を思い出したのかわからないで、妙な表情をしている)
ヴィンセントの声 いけない。あぶない! あぶない、こんな所に置いといては!
ヴィン ……(恐怖の顔、遠くの鐘の音にはじめて気づき、ビクンとして聞き入る)
ヴィンセントの声 なんだ、あれは? 今ごろ、今ごろミサがあるのか? いやいや、あれは俺の心臓の音だ。いや違う、あれは俺の頭の中で鳴ってるんだ! ……俺は気が狂ったのか、すると? どうして俺はこんな所に立っているんだ? いや、いや、今は、夜だ。俺はこれから寝るんだ。そうだ、俺は気が狂っているんじゃない! 俺は正気だ、チャンとしている! 俺は正しい! なあに、俺の精神は、カンカラン、カン、カラン、え、なに? 俺の精神は、俺は――
ヴィン ……(カミソリをランプを持った左手に持ち添え、ポケットから出したクレヨンで、すぐそばの正面の壁に、ブルブルふるえる手で急いで大きく書く。「おれは聖なる魂なり。おれの精神は、健全なり」……。その自分の書いた字を見ている。遠くから潮が寄せるように再び起るハミング。鐘の音はやんでいる)
ヴィンセントの声 さあ、もう寝ないと! 明日はまた早く起きて描かなきゃならない。よく寝ておかないと、また頭が痛んで、うまく描けないぞ。向日葵を仕上げるんだ。明日は向日葵を仕上げるんだ。早く仕上げてテオに送ってやらなくちゃ。あれを見たらテオは、きっと喜んでくれる! テオ、テオ、テオ、テオは向日葵を見れば、テオは立派な兄を持ったと思って、テオはよろこんで、テオは今まで仕送りをした甲斐があったと思って、テオは、テオ、テオ、テオ、向日葵、向日葵、向日葵……
ヴィン ……(キョロキョロとそのへんを見まわし、自分のイーゼルの方へ行き、ランプをかざしてカンバスを見る。むざんに切り裂かれた画面)
ヴィンセントの声 なんだこれは! これはどうしたんだ?
ヴィン ……(ランプに持ち添えたカミソリが眼にとまり、右手に持ちかえてそれを見、それから画面を見、何かを思い出し、それから、ゴーガンのイーゼルの方へランプをかざして、「肖像」が何ともなっていないのを見調べ、いぶかしそうな顔をして、しばらくジッとしていたが、やがてグッタリとなり、カミソリを持った手の空いた指で右のコメカミをおさえながら、ユックリ歩いて自分の寝室への階段の方へ行く。ハミングは消えており、あたりは全く静かである。……自然に足が停り、ボンヤリ前を見て立っていたが、不意にスッスッとすべるように急に歩いて下手のゴーガンの寝室の所へ来て、ドアを開けて入って行き、左手のランプを差しつけて、ゴーガンの寝室をジッと見る。ゴーガンは全く動かないで寝ている。……間……ゴーガンの身体がピクンと動いて、眼を開く。ヴィンセントは動かないで、うつけたように、それを見ている。ゴーガン、ゆっくり起きあがる。ヴィンセントの右手のカミソリを見る。しばらくそうして、息づまる睨み合いが続く。……)
ゴー ……(押し殺した、シッカリした声で)ヴィンセント、どうしたんだ今じぶん?
ヴィン ……(ボンヤリ立って返事をしない)
ゴー どうしたんだよ?
ヴィン ……
ゴー ……(ヴィンセントの顔から視線を離さないままで、ベッドの上の上着に手を通し靴を突っかけて床に立ち、ヴィンセントのわきをすり抜けてアトリエの方へ出て行く。ヴィンセントは無感覚になったように、その後からノロノロとついて出る。彼の手にあるランプの光が、二人の影を大きくいろいろに壁に動かす。そのランプをテーブルの上に置く)
ゴー ……(しばらく、ヴィンセントを睨んで立っていてから)やっぱり、僕は出て行く。ここに居ると君のためにも、僕のためにも良くない。
ヴィン え? 出て行く? どうして? どうしたんだ急に?
ゴー そのカミソリはどうしたんだ?
ヴィン え? こ、これは、これは――(カミソリを見て非常にびっくりして)どう、どうしたんだろう?
ゴー 君も、もう少し気を静めるんだな。僕あ今夜は、どっかその辺の宿屋か、ラシェルの所にでも泊めてもらう。
ヴィン え、ラシェル? すると、すると今夜すぐ君は行ってしまう?
ゴー どうせ間もなく俺はタヒチへ渡るつもりで居たんだ。
ヴィン (事態を急に理解して、ギクンとして)え! 行くんだって? ゴーガン、ホントに行くんだって? そんな、そんな君、どうしてそんな――行かないでくれ! 頼むから行かないで、ポール! 君が行ってしまったら、俺はどうなるんだ? どうすればいいんだ? 頼む! お願いだから! 何か俺が悪いことをしたんだったら、あやまるから! 俺には君だけしか居ないんだ! ね! 君だけしかない。テオは間もなく結婚する。俺は一人ぼっちになる。居てくれよ、ポール! 俺は寂しいんだ! 君に行ってしまわれたら、どうなるんだ俺は? ゴーガン、どうか、どうか、俺を助けてくれ!
ゴー ……(相手の必死の姿も既に彼を動かさない。ヴィンセントの言葉のうちに、ドアの方へ歩き出しながら、フト壁の上の「おれは聖なる――」の文句を目にしてチョッと足を止めるが、表情を変えず)……さようならヴィンセント。(ドアを開けて大股に出て行く)
ヴィン 待ってくれ! 待ってくれ! 待って!(追いすがって、ドアを再び開くが、既にゴーガンの姿は見えず。……ガックリして、ノロノロと歩きテーブルの方へ)
ヴィンセントの声 ゴーガン。ポール。ゴーガン。行ってしまった。畜生。畜生、行ってしまった。テオ、来てくれ。どうしたんだお前は? テオ、テオ、テオ、兄さんは気が狂いそうになってるよおう! よおう! 助けて、兄さんを助けて! ラシェル、ラシェル、ピジョン! 可愛いラシェル! え? なに? ゴーガンはラシェルの所に行って寝るのか? 畜生、ゴーガン、ちく!
ヴィン ……(テーブルのわきにフラリと立った、その眼が次第に光り、再び錯乱に落ちて行くらしい)
ヴィンセントの声 ラシェル、ラシェル! ケイ! 可愛いケイ! シィヌ! クリスチイネ! ラシェル、ラシェル、ラ、ラ、ラア、ラアアア……(その声に混って、遠くでカタカタ、カタカタと床を踏む踊りの足拍子。やがて、それにダブッて、狂うように追って来る「ファランドール」)
ヴィン ……(それらを聞きすまして、ジッとしていたが、不意にキョトキョトと周囲を見まわしてから)よし俺も行くぞ、ラシェル。行くぞ。ラシェル。待っていろ、待っていろ。耳を持って行ってやるからな。フフ! 待ってろ。(カミソリを見て、左手で左の耳を掴み、引っぱって、ゆっくりと右手のカミソリを、その方へ持って行く。眼は正面をカッと見ている。……)
不意に暗くなって、何も見えなくなる。
潮が寄せるように、深いハミングが起る。
ハミングは嘆き唸るように次第に強くなる。
その中に――
[#改ページ]

     エピローグ

スポットの中に白い小さい室が、夢のように浮びあがり、そこに四人の人間がいる。
室は病院の一室だということがわかる。
四人の人は、ヴィンセントとテオとルーランと若い看護婦。ヴィンセントは、一八八九年冬作の、毛帽をかぶり耳にホウタイをしてパイプをくわえた「自画像」の身なりをして、鉄のベッドに腰かけ、前にすえられたイーゼルのカンバスと、並べてすえられた大鏡とを等分に見くらべながら、パレットにチューブから絵具を並べている。痩せて鋭くなった顔だが、機嫌が良い。テオはホッと安心して疲れが一度に出て来た様子でグッタリと、しかしまだ心配そうな顔つきで兄を見守りながら、片隅の椅子にかけている。ルーランはカバンこそさげていないが、これから仕事に出かける途中に寄ったと言った制服姿で入口近くに立ってニコニコして眺めている。看護婦は、白衣の少女で、ベッドのわきに身を曲げて、ベッドの上の絵具箱から絵具を出してヴィンセントに渡している。ハミングは、続いている。
ヴィンセントはパレットに絵具を並べ終り、パレットと持ち添えた筆の中から一本を右手で抜きとり、鏡とカンバスを見くらべてから、眼をテオに移す。テオがうなずいて見せる。次にヴィンセントの眼がルーランへ行く、ルーランうれしそうにニッコリして、制帽のひさしに右手をチョットあげる。次に、絵具を渡しおえてキチンと直立して、びっくりしたようなきまじめな顔をしてヴィンセントを見ている看護婦に眼をやると、その少女がヴィンセントの眼の中を覗くように見ていた末に、思いがけなくニコッと笑う。
ヴィンセント、筆でパレットの絵具をスッとさらって、鏡を見、描きはじめる。
――以下、朗読の間、ヴィンセントの右手がユックリ動き、眼が動くだけで、四人とも、ほとんど動かぬ。深く沈んで続くハミング。
そのハミングのバックの前で男声ソロの朗読(薄暗い袖に朗読者を出し、マイクロフォン使用)――

男 (ボキボキした調子で、早く)
それから四日たって精神状態が完全に元にもどった。
ゴーガンは去り、テオが駆けつけて来、ルーランは毎日花を持って見舞いに来る。二週間たつと、医者は絵を描くことを許した。そしてまた描き出した。

それから二年
また病気が出て
二度三度と入院し、
少し良くなっては退院するが、
また自ら望んでサン・レミイの脳病院の三等に入院し、
やがてオーヴェルの医師ガッシェのもとに移り、
一八九〇年、明治二十三年七月、
オーヴェルの丘で自ら自分の腹に
ピストルの弾をうちこむまで
あなたは描きつづける。

あなたの頭は時々狂ったが
あなたの絵は最後まで狂わない。
脳病院の庭で、発作の翌日描いた絵でも線と色はたしかだ。
絵はあなたの理性であり、
絵はあなたの運命であった。
運命のまにまに、あなたは燃えて白熱し、飛び散り、完全に燃えつきた。
最後の時にあなたはテオの手を掴んで
もう俺は死にたいと言った。
もう俺は死にたいと……

ヴィンセントよ、
貧しい貧しい心のヴィンセントよ、
今ここに、あなたが来たい来たいと言っていた日本で
同じように貧しい心を持った日本人が
あなたに、ささやかな花束をささげる。
飛んで来て、取れ。

苦しみの中からあなたは生れ
苦しみと共にあなたは生き
苦しみの果てにあなたは死んだ。
三十七年の生涯をかけて
人々を強く強く愛したが
やさしい心の弟のテオをのぞいては
誰一人あなたを理解せず、愛さなかった
あなたはただ数百枚の光り輝くあなたの絵を
世界の人々にえがき贈るだけのために
大急ぎに急いで仕事をして
生涯を使い果した。
絵を描く時の歓喜だけがあなたの生甲斐で
あとは餓えと孤独と苦痛ばかりであった。

そして、あなたの絵は
今われわれの前にある。
これらはわれわれに、いつも新しい美と
新しい命への目を開いてくれ、
貧しく素朴なる人々に
けなげに生きる勇気を与える。
このような絵を
あなたが生きている間に
一枚も買おうとしなかった
フランス人やオランダ人やベルギイ人を
私はほとんど憎む。
ことにはまた、こんなに弱い、やさしい心と
こんなに可哀そうに傷つきやすい魂を

あなたが生きている間に
愛そうとしなかったフランスの女とオランダの女とベルギイの女とを
私はほとんど憎む。
ほとんど憎む!

日本にもあなたに似た絵かきが居た
長谷川利行や佐伯祐三や村山槐多や
さかのぼれば青木繁に至るまでの
たくさんの天才たちが居た
今でも居る。
そういう絵かきたちを、
ひどい目にあわせたり
それらの人々にふさわしいように遇さなかった
日本の男や女を私は憎む。
ヴィンセントよ!
あなたを通して私は憎む。

さもあらばあれ、ヴィンセントよ!
あなたの絵は今われわれの中にある。
貧乏と病気と、世の冷遇と孤独とから
あなたが命をかけて、もぎとって
われわれの所に持って来てくれた
あなたの絵は、われわれの中にある。
それならば、われわれも、もう不平は言うまい。
それならば、あなたも、笑って眠れ。
あなたは英雄ではなかった。
あなたは、ただの人間であった。
人間の中でも一番人間くさい弱さと欠点を持ち
それらを全部ひきずりながら
けだかく戦い
戦い抜いた。
だから、あなたこそ
ホントの英雄だ!

貧しい貧しい心のヴィンセントよ!
同じ貧しい心の日本人が今、
小さな花束をあなたにささげて
人間にして英雄
炎の人、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホに
拍手をおくる!
飛んで来て、聞け
拍手をおくる!

唸り、どよもすハミングの中に、拍子。
一九五一年七月初旬

底本:「炎の人――ゴッホ小伝――」而立書房
   1989(平成元)年10月31日第1刷発行
※「グービル商会」と「グーピル商会」、「カンバス」と「カンパス」の混在は底本の通りです。
入力:門田裕志
校正:伊藤時也
2009年3月24日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。