義理人情の美風といふものも歌舞伎芝居の二番目ものなどで見る親分子分の關係などでは、歪んだ――めた窮屈なもので、無條件では好いものだといひかねる。立てなくつてもいい義理に、無理から無理を生ませてゐる。人情にしてもまことに低級卑俗だ。大局とか、大義とか、さういふものには眞つくらで、ただ、ただ親分のためとか、顏が立たぬとかでもちきつてゐる。しかも、その親分、いかさまでない實力と、金のはいるのは昔から曉天ぎやうてんの星のやうで、花川戸はなかはどの長兵衞をはじめさうした人たちは、人間としても一人物であり條理もわかりさうだが、そのほか、野晒悟助のざらしごすけのやうに、大概なのは氣がよければ金に缺けてゐる。男伊達が起つてきてからの社會では金がなければ、中々道理もひつこむ世の中なのだから、勢ひ、講談などできいても惡い親分が多い。ツつ、ツつも、正義や弱いものを助けるためのはすくなくて、繩張りの勢力爭ひで、弱者がほろびてゆく。
「文藝春秋」できかれた「姐御あねごぶり」といふものは、勢ひさうした見方からいつて、およそ、わたしのきらひなものだ。姐御とは、さうしたともがらの細君を敬稱したものかと思ふ。親分の顏のよしあしも、一つは、細君の子分操縱法――つまり臺所まかなひ、小遣ひ錢、仕着せの心附けなどの附け屆けの氣の利きかたで、だいぶ違ふのだらうと思ふ。で、以前役者の女房にそれしやが必要だつたごとく、姐御てあいもなかなか、粹もあまいも噛みわけた苦勞人でなければおさまらなかつただらうし、男まさりの氣強いものでなければ、無考へな、血の氣の多い、若い衆を操御し、ある折は親分とも夫婦喧嘩もしなければならなかつたであらうから、勢ひ、むかうつ氣の強い女でなければならない。鐵火てつくわにならざるを得ない。
 ところで、鐵火とは、卷き舌で、齒ぎれのよい肌合を差していつたものだが、氣のあらいいさはだのなかでも、鐵火といはれるのは、どうしたことかすこし下品さをふくんでゐる。鐵が火のやうに燒けて、カンカンなのか、火のやうに強い性格といふのか、それとも火のやうに燒けた鐵の棒を突きつけられても、おそれない人といふのか、そんなことは、さうした方面の研究をしてゐる人にでもきかなければ由來はわからないが、かん、もしくはかんなるものならば、女の時にもつてくれば、かんの高い馬のやうな跳つかへりをさしたものともおもへる。「言泉ことばのいづみ」を見ると、戰國時代に罪の虚實を糺さんために、鐵を赤熱せしめて握らせるものとある。そしてまた、心ざま兇惡無慙なること、野鄙殺伐やひさつばつともある。鐵火肌はさうした性質ともある。
 そこで、獨立した女親分――そんなふうなものをも姐御といひ、尊稱して大姐御ととなへるやうだが、わたしはこの位きらひなものはない。なぜなら、いやに偉らがつて、そこに、あざけきつたものが多分にあるからだ。
 ともあれ、まづ、江戸末期の頽廢した、朝酒あさざけでもひつかぶつてゐられるやうな時期の、大姐御といふもののかたちを示してみると、黒じゆすの襟のかかつた廣袖ひろそでの綿入れ半纒、頭髮はいぼぢり卷きか、おたらひ、長羅宇の煙管をついて長火鉢の前に立膝。白の濱ちりめんの湯まきに、藍辨慶のお召、黒の唐じゆすと茶博多のはらあはせのひつかけ帶――事實これが似合ふ女は、さうザラにあるものではない。甚ださつぱりしてゐるやうでゐて、おそろしく、人によつてなまめかしくなる。そこで素地きぢを洗ひ出す必要があつたのであらうが、當今の芝居で見るやうな、場違ひの、エロつぽいものも澤山あつたものと思へる。およそ、厭味なのが多かつたことであらう。
 しかも、早のみこみで、かんぐりで、小才がある。かういふ女がおつちよこちよいをけしかけたのだから、小喧嘩こいさかひは絶えない筈ではなからうか。ものの根本こんぽんをわきまへず、親分の顏――つらがたたねえといふだけで、蝗螽いなごのやうに跳ねあがる。今日でも、支那の古い方面では、何事も面態、めんずといふさうだ。面態めんずさへたてば、どうでもいいといふのは自分だけの立場がごまかせればよいといふのであらうが、つらが立たねえと、昔の芝居の二番目ものなどで見得をきるのも、多くはそれに似通つてゐる。誠にせまい道徳――道徳といつてをかしければ、狹い自己滿足だ。わたしはかういふ世界を好かない。その裏にある潔癖だけを――せまい正義感だけを買ひはするが、およそ、わたしの時代觀とはかけ離れたものだ。
 姉御とは本當は姉御前あねごぜの尊稱で、とは敬ししたしんだ呼び名ゆゑ、母御前はゝごぜとおなじに、よばれて嬉しい名でなければならないのを、きやん(侠)な呼名に轉化してしまつて、あばずれといふふうになつてしまつてゐる。ごくよい意味にとる時に女丈夫といつたものも含んでゐるし、サラリとした氣風をも籠めて、あねごはだといふやうだが、事實はすこし異つてゐる。サラリとした氣風といふなかには、生れだちの氣風もあるし、修業によつて超然たる悟りもあるし、ガラツパチの粗雜なものとは、てんから質においてちがつてゐることは、女丈夫をもその中に入れるやうだが、女丈夫は讀んで字のごとくますらをの魂がある女なのだ。
 もとより仁侠の、親分にしても姐御にしても、白刄しらはの中をもおそれぬ氣魄きはく正義觀せいぎくわんのあつた者を、當初はじめは立ててきたのであらうが、總稱して、姐御とは親分のおかみさんをさすことになり、それに似たつくりのあばずれ女などを多くさしていつたものとなつたのだ。丈夫魂ますらをだましひは、男の所有のものばかりだと思つてもらつてはちつと困る。男にだつて持ちあはせぬものの方が多い。だからこそ、わざわざますらをといふ言葉が立派さうにあるので、女にもますらをだましひの所有者は澤山たくさんにある。ごく大昔のことはいはなくつても、近代にも、武家の妻にも町人の妻にも娘にも、ぎやうに徹した尼さんなどにも實に多くある。女として外見からいかついのは、しんのますらをだましひの所有者ではない。
 で、よく人の面倒を見るやうだから姐御だといふならば、それは甚だ非理で、そこに心からほとばしるやはらぎと、人入ひといれ稼業をかねた、傍の迷惑をかへりみぬもの好きとの區別がなければならない。いはゆる女親分、姐御はそれが商業しやうばいで、勢力をつくるためにさうするのだ。だから、性分はケチンボでもきれはなれのよい顏をする。顏にかかはるからだ。無理な具面くめんも自分が可愛いからで、自分の口の問題だからだ。それを、些か、似るところがあるからとて、維新の女傑野村望東尼や、明治の愛國婦人會設立者奧村五百子を、そのものたちとならべる愚は、誰もしないであらう。
 私のいふ意味の、女親分、姐御の起つたはじめは――もとよりそれより前にも似た職分しよくぶんはあつたであらうが――男伊達をとこだて奴立やつこだてから來てゐる。旗本奴はたもとやつこ町奴まちやつこからの傳來の男立だが、幕末の侠客は博奕渡世になり、男を立てるたてないも、さうした繩張りの爭ひが主のやうだつた。もともとやつこといふ名からして、大昔からいやしめられ、罵しられた卑稱で、あやつ、こやつ、やつ、やつこ、いへの子、ツ子だといふことだ。奴は奴隷どれいで、女は奴婢ぬひであり、庶民より一階級下の賤民とされてゐた。江戸時代でさへ重罪人の妻子や、妹など、または關所破りの女たちなどは、本籍を剥がれ、無籍者、女奴をんなやつことして吉原へ無期限でおとされたといふ、奴とはいまはしい名なのだ。大昔の貴族は奴を多くもつてゐた。徳川期に江戸の武家の奉公人で、主人の供をしてあるく奴が、主人の伊達好みから、派手はでなふうをするやうになり、奴の腕つぷしの強いのを自慢にし、奴も仁侠の氣を帶び、鎌髭かまひげ撥鬢はちびんの風俗で供先へ立つたので、その颯爽たる氣風が、當時創業期の江戸に集つた負けぬ氣の諸國人の好みに合つて、斷然その風體ふうていが流行し、その仁侠――男を磨くといつた下に、漸く太平になつて、上は大名に、下は金持町人にはさまれて、世の中が欝陶うつとうしくなつてきた、血の氣のしづまりきらない三河系統の旗本の一脈が、旗本奴と名乘れば、その横暴我儘を通させまいとして、市民側からは町奴が出來た。それが顏役の先祖で、顏役とは、喧嘩口論のをり、取鎭めたり、事件を審いたりするうち、だんだん顏馴染になつて人氣肩入にんきかたいれが出來、その人がゆけば、すぐに落着するやうになつたので、顏をもつてゆくとか、顏をかしてくれとかいふのがもとなのであらう。こんなことは、私よりよく知つてゐさうな讀者の多い本誌へ書くといふのは誠に氣がさすが、順序なのでよぎない。
 そこで、盛り場の女などが奴風やつこふうをするやうになり、奴氣質かたぎを賣りものにしたが、それはきやんで、パリ/\とした、いい氣つぷ、ものに拘はらない、金に轉ばないといふたてまへで江戸藝者など、それをまづ第一の素質とした。これは夕立をこのみ、櫻花の散りぎはを賞美する、いさぎよさを好む、日本人的代表な、さつぱりした氣質なのだが、それつきりでは困りもので、江戸ツ子は皐月さつきの鯉の吹き流しなどと、得意になつてゐた一部もあるが、サラリとしたそのうらに、噛みしめた細かいキメはもつてゐる。それは、都會人特有のセンチメンタルだとばかりもいへない。しかし、それはよい方のことばかりいつたので、奴氣質とはなにかと、字典を開くと、放埓、無頼の氣質、折助根性をりすけこんじようとある。奴詞やつこことばは一種粗雜な言葉づかひ、六方ろつぱうことば、關東くわんとうべい、とある。
 徳川九代家重の寛延元年七月廿七日の禁令には(百八十八年前)
おつて供※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)り徒士の者、中間ちゆうげん、奴共風俗不宜よろしからずがさつに有之、供先にても口論仕不屆に候自今風俗相改かうとふと致し、相愼つゝし
 とある。同年八月十日にもまた、
すべて供※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りの徒士かちの者共風俗がさつに候、中間共も異風に取拵とりこしらへ候者共多相見えわけがさつに有之候。
奴共別てかさ高にて候間供先にても口論等致又者惡言等申者之有候はば急度お仕置申付にて可有之候。
とあり、同日の觸れには
近年町人異風に取拵候風俗の者多く就中髮抔かみなどを異形に結成ゆひなし共外異體のともがら有之候間、召仕等迄急度申付風俗かうとふに致萬事がさつに無之樣可致候。
とある。
 奴と名乘つた男女の侠客に、元祿げんろくの奴の小萬と、のちに奴の治兵衞といふのがある。小萬は大阪長堀に生れ、木津家といふ豪家の娘だつたといふ。ゆきといふのが本名かどうか、後に三好氏が祖先だからとて、三好ゆきとなり、剃髮して正慶尼となつたが、美人で侠氣があり、才藻ゆたかに學問もあつて、しかも金持ちの娘で腕が立つといふのだから、おあつらへむきでもあり、また驕慢でもあつたらう。つきまとふ男がうるさいといつて、顏に墨をなすつて痣をこしらへ、しかも妙齡十六の時、天王寺詣りの歸りに蛇坂へびざかで四人組の惡者が、ただの娘だと思ひ、引つ浚はうとしたのを、覺えの早業でとりひぢき恐れ入らせたので、奴の小萬の名は風のやうに廣まつた。
 二十の春、京へ上り、禁中に仕へ、長局ながつぼねが祐筆をして五年をおくつたが、また大阪へ歸つた。奴風俗伊達な刀の一本ざし、ある時には豐臣秀頼の追善にと、にはか雨にぬれる男女に傘百本を寄附したりしたといふが、柳里恭柳澤淇園りうりけふやなぎさはきゑんかよつたとも、堂上家だうじやうけの浪人を男妾にしてゐたが、その男が義に違ふことをしたので放逐し、その後は男を近づけなかつたともいはれてゐる。この小萬などが、まあ、つぶだつた女親分とか、姐御などの先人であらう。
 姐御――阿嫂あさうのほんもとは、なんとなく支那にありさうだが、支那のものを讀んでゐないから分らない。水滸傳など、ああした作りものとしても、あの虎を張り殺した武松ぶしやうにしびれ酒をのませ、母夜叉孫二娘ぼやしやそんじじやう――孟洲のみちの、大樹林の十字波の酒店で、頭には鐵環をはめ、鬢には野花をさした美しい女が、人肉の肉包を賣つてゐたり、これも登洲城の東門の外で、酒を商つてゐた、母大虫顧大嫂ぼだいちうこたいさうといふ勇力武藝男子にすぐれ、四五十個の男も敵とするあたはずといふ女猛者をんなもさは、おなじ、梁山伯りようざんぱくの女性のうちでも、扈家莊こやそうの女將で、五百の手勢を率ゐ、白馬にまたがつて兩刄をつかつた、お姫樣出の、美女一丈青扈三孃いちぢやうせいこさんじやうなどよりは、姐御といふことばのはまつた器であると思ふ。ああした粉本ふんぽんは、あの頃ばかりではなく、支那には澤山あつたのかも知れない。シベリヤお菊とか、おらんだお蝶とか、海外漂泊の女の中にも、さうした方面の人たちは、我國の實在の女性にも多かつたであらうが――
 それにしても、姐御とはどうしても、浮世ずれのしたところと、世帶ずれもあつて、いはゆる、下腹したはらに毛のないといつた、したたかものの人柄をも加味し、轉じては、當今でいへば野心家、かなり金錢慾も名譽慾も覇氣もあつて、より多く政治的でなければあてはまらない。
        ×
 だが、わたしがさういふと、あなたはその血をひいてゐるところがある。江戸ツ子の末だからといはれる。それは意味ありげで、意味のない言葉だ。江戸ツ子がガサツだといふのならうけとれるが、江戸には士、工、商の三階級があつて江戸といふ都會をつくつてゐた。その尤もガサツな職人風しよくにんふうなものいひが、どうも江戸ツ子といふ概念をあたへてゐるので、すべての好みが淺薄せんぱくに感じられると見える。だが江戸ツ子のまけだましひは、全國的のものを代表してゐる。といふのは、もとより、全國的代表移民の都會であるから、そのころの負けじ魂が、利かぬ氣のきつぷになつて殘つてゐるので、すべてがかんなくづのやうなものばかりではない。もすこしいつて見れば、それどころかあんまり頭が早くつて、冴えて冷たくさへなつてゐたのだ。で、無論、眞の江戸氣質などは、ほろびたのだ。殘骸はなにでも厭なもので、わたくしなどもその厭な殘骸から脱却して、新日本の一民として生きたいのだ。
 當今といへども、姐御がりたいものがないとはいへない。黨を組んでためにしようとするもの、自分の實力以上の力としようとするもの、或は皆無でないかもしれない。だが賢明なる周圍が、そんな時代錯誤をさせはしない。集團的の強さはみんなよく知つてゐるが集團は、個々の集りで、親分子分の關係でないから、自由であり、快活であり、卑屈でない。
 およそまあ、姐御なるものを想像してごらんなさい。心の肌のキメの粗いものだ。神經は馬の尻つぽの毛をりあはせたほど太く、強靱でなければならない。まして顏の皮は、昔でさへ千枚ばりといつたが、防彈ハガネほどでなければなれない。
 わたしなども、大姐御と書かれることもあるが、愛敬あいきやうなのはわかつてゐる。愛稱あいしようしてもらつてゐるのであつて、今の世の、ほんとの大姐御などといふものになれる資格があれば、それは、昔時の叡山の惡僧よりもたいした代ものだ。わたしはただ、害のない存在として、若い女友だちから愛されてゐる幸福者にすぎない。わたしには姐御などになれる荒つぽい勇氣がない。そんな風におもはれるのさへ恥かしい。
(「文藝春秋」昭和十一年二月號)

底本:「桃」中央公論社
   1939(昭和14)年2月10日発行
初出:「文藝春秋 昭和十一年二月號」
   1936(昭和11)年2月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月7日作成
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