「あたい一度子供産んでみたい。」
「いや、真平だ。」
「療治すれば出来るといふわ、森元さんが……。」
「その時は相手をかへなけあ。」
子供が産めない躯だといつてゐた蓮見の死んだ妻は、こんなに沢山の子供を次ぎ次ぎに産みのこして、大きくなつてしまへば、経済や何かの問題は兎に角として、感情のうへでは別に何でもないやうなものの、人の赤ん坊を見てさへ、彼はうんざりするのであつた。それに生きてゐるうちに、子供の一人々々は何とか片が着かなければならないのが、普通人間の本能であるらしかつた。子供の運命が自身の寿命と生活力の届かないところへ喰み出ることは、誰しも苦痛であつた。母性愛はそれに比べると動物的なものらしいのであつた。
兎に角圭子は一人の子供をもらふことにしてしまつた。それはちやうど猫の仔か何かを貰ふやうに、いとも手軽なものであつた。
或日の夜彼はポオトフォリオをさげて入つて行くと、その女の子が皆んなと瀬戸の火鉢に当つてゐた。年は十だといふのであつた。色の浅黒い――と言つても余り光沢のある皮膚ではなかつた。細い額に髪がふさ/\垂れさがつて、頬が脹らんでゐるので、ちよつと四角張つたやうな輪廓だが、鼻梁が削げて、唇が厚手に出来てゐる外は、別に大して手落ちはなかつたし、ぱつちりはしないが、目も切れ長で、感じは悪くなかつた。虫歯の歯並が悪い口元に笑ふと愛嬌があつた。どこか男の子のやうで、少ししや嗄れたやうな声も大人のやうに太かつた。余り小綺麗でないメリンスの綿入れに、なよ/\の兵児帯をしめて、躯も小さいことはなかつた。
「今までどこにゐたの。」
「あたい? お父ちやんとこにゐたんです。」
「お父ちやん何してゐるんだい。」
「お父ちやんね、おでんやしてんだけど、体が悪いんです。」
「お母さんは?」
「お母ちやん私の三つの時死んだんです。」
蓮見は昨日圭子から聞いて、この子の生立や環境について一ト通りの予備知識をもつてゐたが、身装や何かに裏町の貧民窟らしい匂ひはしてゐても、悪怯れたところや、萎けたところは少しもなかつた。寧ろその反対に、大人の前に坐つてゐても、羞かしがりも、怖れもしなかつた。圭子の話によると、咲子といふこの子供の父親は、長いあひだ治る見込みのない腎臓や心臓の病気で、寝たり起きたりしてゐた。商売にも出られなくなつて、間代や何かうんと溜まつてゐた。それも整理しなければならないし、何うせ死ぬなら生れた田舎で死んだ方が安心だから、いくらかの金をもつて上州の兄のところへ帰りたい。それで咲子をどこか好い人に籍ごとおいて行きたいといふのであつた。
圭子はその前にも近所の人の口入れで、二人ばかり子供を見たことがあつた。一人は籍がないので、蓮見に見せないうちに還したが、それが近所の待合に貰はれて、今でも外で圭子の姿を見ると、駈けつけて来て、何か話しかけるし、今一人は月島の活版屋の子だつたが、其の家の地理や隣り近所の有様や、又は小さい子供を多勢もつた親達の夫婦喧嘩をして、瀬戸物や何かを打壊す時の紛紜を、六つにしてはまめ/\しすぎるほど細かに話して、もう自分の家へ来たやうに、二階へ上つたり、物干へ出たりして、圭子の後を追つてゐたものだつたが、それも着替へを拵へる隙もなく、余り手がかゝるだらうといふことで、帰してしまふと、ちやうど電車通りを越えた高台のところに、其の口入屋があつたので、そこへ還つてゐるあひだ、屡々圭子の家を覗きに来たり何かして、一晩でも泊めると、もうそこに淡い愛着が出て来るのが、切ないやうなものであつたが、今度の咲子にはさういつた哀れつぽいやうなところもなかつた。
「私めそ/\したのより、てきぱきしたの好きなの。それに世話する人も、周旋屋のやうぢやないんです。田舎では県会議員までしたんださうですの。親類が神田であの商売を手広くやつてゐるので、隠居仕事に手伝つてゐるといふ話で、実直さうなをぢさんだわ。」
蓮見はそんなことも聞いてゐたけれど、見て見ると子供には余り好い感じがもてなかつた。
その晩圭子は咲子を風呂へつれて行つて、体を見た。胴と脚の釣合も悪くなかつたし、皮膚も荒い方だとはいへなかつた。圭子は一躍、一人前の子持になつたやうな気がしてゐた。
毎晩そんな時間になると、大抵蜜豆とか、芋の壺焼とか、鯛焼、葛餅のやうなものを買つて来て食べる癖がついてゐたが、その晩もいくらかメンタルテストの意味で、咲子におでんを買はせにやつた。所を教へると、咲子は悦んで立ちあがつて、台所から手頃の丼を持出して来て、この子の癖で目をばしばしやりながら、入口へ飛び出した。
「煙草屋のところを左へ曲つて……。」
咲子は振返つて念を押した。
「それから自動の前を通つて右へ行くの。すると左側に黒い暖簾に古里庵と書いた家があるわよ。」
鏡台の前に坐つてゐた抱への一人の蝶子が言ふと、咲子はまた自分の頭脳へしつかり詰めこむやうに復習つてから、下駄を突かけた。
「私はしのだ巻ですよ。知つてる?」
「えゝ、知つてますとも。お父ちやんおでんやだつたんですもの。」
「さうか。駆出して行くんぢやないよ。」
言つてゐるうちに、咲子は駈け出した。
蓮見は首を捻つてゐた。
「何うかと思ふね。君あの子をつれて歩くかい。君の子にするんだつたら、もう少し何とかいふ子がありさうなものだ。籍はちよつと見合したら何うかね。後で迷感のかゝるやうなことがあると困りやしないか。」
蓮見も別に咲子が好きとか嫌ひとかいふのではなかつた。母の子で育てれば好い子になるかも知れないが、ならないかも知れない。好いとか悪いとかいふことも色々で、単純にはいへない。抱へのうちに顔や姿は綺麗だが、物事を単純に考へがちな圭子がじれつたがるほど不決断で、お座敷の取做しなどについて、何か言つて聞かせても、いつも俛いて何時までも黙つてゐる子が一人あるのに、かね/″\業を煮やしてゐた矢先きなので、咲子のてきぱきしたのが、直ぐ気に入つてしまつた。この子だつたら余り何かに世話を焼かせるやうなことはあるまいと思つた。圭子は一直線に進むやうな質の女で、そのために後で悔いるやうなことが出来ても、それに拘はつてゐるのが嫌ひだつた。金を使ひすぎたとか、着物を買ひ損つたといふやうな事があつても、何時までもそれを気にするやうなことはなかつた。
「でも世のなかにそんな好い子供がざらにある訳のものぢやないでせう。それだつたら貴方探して来てちやうだいよ。」
圭子が気色ばんで言ふので、蓮見も、「ぢや、君の好いやうにするさ」と言つて口を緘んだのだつたが、彼とても別に定見のありやうもなかつた。
皆でおでんを食べはじめた。咲子は誰よりも楽しさうに食べたが、そんなにがつ/\してゐるのでもなかつた。
「あんたとこのおでんと、孰がおいしい?」蝶子がきくと、
「うゝん、お父ちやんずつと商売に出ないんだもの。だからね、家ぢや御飯のないこともあるの。馬鈴薯をふかして食べたり、糠にお醤油ついで掻きまはして食べたりした。それにお父ちやん、お酒呑まないと何も出来ないの。元気がなくなると、お酒を呑んぢやおでん売りに行き行きしたもんだけど。」
咲子は「えへゝ」と虫歯を剥き出して笑つた。
圭子は十二三歳の時分、父が大怪我をしてから、貧乏の味はしみ/″\嘗めさせられた方だし、蝶子も怠けものの洋服屋を父にもつて、幼い時分からかうして商売屋の冷飯を食つて来たので、それを笑ふ気にもなれなかつた。
咲子は長い舌を出して、ぺろ/\小皿のお汁まで舐めて、きり/\した調子で皿や丼を台所へ持出した。そこへ電話のベルが鳴つた。咲子は押入の前にある電話機に駈けよつて、畳につく這ひながら、悪戯さうな表情で受話機を耳のところへ持つて行つた。
「駄目よ、駄目よ。」
「むゝん、ちよつと聞かさして……。」
圭子は微笑ましげに見てゐたが、まごついてゐるのに気がつくと、急いで受話器を取りあげた。
「何方さまでせうか。……はあ有ります。どうも有難とう。」
圭子は受話器をかけて、
「蝶子さん月の家!」
手捷こく顔直しをした蝶子の仕度が初まると、咲子は圭子と一緒に立ちあがつて、さも自分が悉皆それを心得てゐるもののやうに、「それをぐる/\捲くのね」とか、「今度これでせう」とか言つて、蓙のうへに一緒くたに取り出された帯揚を取りあげたりした。
「駄目よ、あんた邪魔つけだわよ。」
でも咲子はなか/\引込んでゐなかつた。
「あたいお父ちやんに教はつたんだから……。」
「下駄そろへときなさい。」
「母ちやん私も蝶子さんについて行つて可いでせう。」
「さうね、お出先き覚えときなさい。」
そして仕度が出来あがると、心得たもので、咲子は爪立して、けんどんのうへから燧石を取りおろすと、下駄を穿いてゐる蝶子の後ろからかち/\切火をして、皆んなを笑はせた。
「こいつは大したもんだ。何だか子供らしくないね。」
「でも少し気の利いた子は、皆んな面白がつて、あの位のことするものよ。」
「どこか商売屋にゐたんだね。」
「さうかも知れないわ。あの子の姉さんが十五で余所へ仕込みに住みこんでるさうだから、そこで覚えたんでせう。」
咲子は息急き帰つて来た。
「あゝ可かつた。これで皆んな極まつたんだ。」
蓮見は知らんふりして火鉢のうへで大衆雑誌を拡げて読んでゐたが、咲子は熱心に芸者の玉のことなぞ圭子に聞くのだつた。
「あゝ、さうすると一時間が三本で、二時間になると四本ですか。それから三十分、三十分に一本ですね。」
「さうよ。」
「一本いくらですか。」
「貴方子供の癖に、そんなこと聞かなくたつて可いわよ。」
咲子は肩をすぼめて、「ひゝ」と笑つた。
「お父ちやんお医者さまですか。」
「お父ちやんといふんぢやないよ。」
蓮見が少し不快さうに言ふと、
「だつて此方がお母ちやんでせう。」
「でも、をぢさんといへば可いの。をぢさんには沢山子供さんがあるのよ。」
「あゝ、さうか。ぢやをぢさんとお母ちやん結婚してないの。解つた。ぢやをぢさんに奥さんがあるんだ。」
「ないんだ。」
「ないの! 死んぢやつたんですか。」
「さうよ。」
「あゝ解つた。ぢやあお母ちやんは……。」咲子は独りで呑み込んで、
「ぢやをぢさん先刻家から来たの。こゝにゐるんぢやないの。」
「ゐることもあるし……。」
咲子は圭子を指して、
「お母ちやん今に棄てられる。」
「馬鹿!」
「さお早くお寝なさい。蒲団出してあるから、自分で敷いて……。」
「むうん、眠くないんです。」
蓮見は何か気味悪さうに、しみ/″\子供の顔を見てゐたが、むづと頭を掴んだ。
「抽斗頭だね。おれもさうだが……。鼻も変だね、こゝんとこが削いだみたいで。」
「をぢさんの鼻だつてさうですよ。」
咲子は負けない気で主張した。
日がたつに従つて、この子供の特異性が次第にはつきりして来た。貧乏でも、別にさう悪くは育つてゐないどころか、事によると乱次のない父親の愛情がさうさせたものらしい、子供にしては可愛気のない矜りのやうなものが、産れつきの剛情と一つになつて、それをどこまでも枉げまいための横着さといふものがあつて、何うかすると、現実的な利益の外には、どこまで掘つて行つても、他人の愛情の手に縋るとか、飛びつくといつたやうな可憐しさは微塵もなかつたが、決して卑屈ではなかつたし、柔順では尚更なかつた。後で段々わかつたことだが、圭子と同じやうな商売屋を既に三十軒も引き廻はされて来たくらゐだから、彼女はどこに落ちついて眠り、誰の手に縋つていゝか解らなくなつてゐるのに無理はなかつたが、それは環境が段々さうさせた事には違ひないとは言へ、そんなに多勢の人に見切りをつけられるのには、理由がなくてはならなかつた。
圭子もこの子の行先を考へると、ちよつと恐しいやうな気がした。わづか十年しか此世の風に曝されてゐない咲子は、或る意味で既に一つの完成品に凝まりかけてゐるやうに思へたが、年と共に其のなかにあるものが成長して行くことを考へると、何をされるか解らないやうな不安を感じて、半分厭気が差して来た。蓮見はその反対に寧ろ興味を感じはじめてゐたが、興味と実際問題とは別であつた。何うせ堅気の生活は出来ないやうに出来てゐるとすれば、この子の棲む世界は矢張りかう言つた特殊の環境だらうが、巧く行けば何処か水商売の女将くらゐにはなれさうに思へたが、そのルムぺン性は海外へでも出て働くのに悪くはないだらうとも思へた。
「あたいが芸言になれば、うんと働いてお父ちやんにお金やる。」
咲子はさう言つて、高慢な身振をするのだつたが、顔にも自信をもつてゐて、さういふ家ばかり歩いて来たからには違ひないが、毎日風呂へ行くことと、黙つて見てゐれば、蝶子や雛子たちの鏡台の前にちよこなんと坐りこんで、白粉やクレイムを塗るのも好きであつた。
しかし咲子は時々父親のことだけは思ひ出すものと見えて、「お父ちやんまだ下谷にゐるんですか」と圭子に聞き聞きした。
「もう田舎へ帰つたでせう。」
「でも、帰る前に屹度一度は私に逢ひに来ると言つてゐたんです。」
「でも、あの時直ぐにも立つやうに言つてゐたでせう。渡辺のをぢさんが……。」
「ぢや私のお父ちやん嘘吐きだ。私を瞞したんだ。」
咲子は真剣な目をした。
「お父ちやん私を売つたんでせう。」
「別に売つた訳ぢやないわよ。お金がなくちや田舎へ帰れないといふから上げたのよ。」
彼女は父親がまだ下谷のブリキ屋の二階にゐるやうな気がしてならなかつた。そして来た当座、毎日こゝに逢ひに来る彼を待つてゐるものらしかつたが、圭子の処へ子供を寄越して、父親が悉皆安堵してゐることは渡辺の話で圭子には解つてゐた。
子供が来た翌日、圭子の母親は、末つ子の着古した洋服や、メリンスの綿入れや、途中で買つたメリヤスのズボンにシャツ、下駄などを一トそろひ持ちこんで来て、どくどくに汚れてゐる着物を脱がし、大人の着るやうな胴着や、ばかに厚ぼつたくて大きい腰巻を取つて、着替へをさせたものだが、田舎風のぬけない圭子の母親を少し馬鹿にしたやうな調子で、なか/\手がかゝつたし、着せるものにも余り満足しないやうな風なので、母親は一度で懲りてしまつた。圭子の妹達は、皆な親が感謝してもいゝやうな子供であつた。
それゆゑ咲子は人には懐きにくい質の女で、それだけ自分の父親は愛してゐた。何か父親に裏切られたやうな気がしながら、理解はもつてゐるものらしく、
「あたい一度お父ちやん助けてやつたんだから、これで可いや。」
と其時はさう言つて呟いてゐたが、花柳界の習はしは、大体頭へ入つてゐるので、今五六年もたてば、芸者として一ぱし働く積りだつた。蓮見はそれが小憎らしいやうな気もした。
「お前、芸者には駄目だよ。」
「何故ですか」
と言ひさうに咲子は彼を見たが、さういふ時の目は余り感じがよくなかつた。
咲子は蓮見の注意したとほり、ひどいトラホームで、その上近眼なことが、近所の眼科でわかつたので、二回ばかり焼いてもらつて、毎日家で薬を注すことになつてゐたが、思ひのほか費用がかゝるので、少し遠かつたけれど、圭子は最初蓮見一家のかゝりつけへ行つたが、更に神田の方の病院へつれて行つた。そこでは焼いたり切つたりするのは、徒らに目蓋を傷つけるばかり、反つて目容を醜くするし、気永に療治した方がいゝといふので、其の通りにしてゐるのであつた。それに圭子は半ばこの子に絶望もしてゐたので、さう手をかけても詰らないと思ふやうになつてゐた。彼女は近所の子供の、洋服にランドセイルを背負つた学校通ひの姿を、いつも羨ましいものに思つてゐたので、咲子が来るとすぐ学校のことを人に聴き合せたのであつたが、大抵この界隈では夜学へやるのが多かつた。好い学校は少し遠くもあるし、夜の商売なので、朝早く出してやるには女中もおかなければならなかつた。誰か子供好きの女中が見つかるまで当分夜学へやらうかと考へてゐたが、その夜学も、思つたより風紀がわるくて、反つて子供の純白さが汚され、飛んだ不良になりがちだことを、経験者から教へられたので、それも考へものだと思つてゐた。何よりもトラホームが問題であつた。医者は雑誌など読ませないやうに、風呂へも長くいれては悪いし、御飯も咲子の不断の習慣の、三度々々の大盛の三杯を、二杯に減らした方がいゝといふので、出来るだけさうさせるやうにしてゐたが、何うかすると病院へ行くのを厭がつたり、自分で出来る洗滌も、成るべくずるけてゐたい方であつた。圭子はよく彼女を捉へて、注し薬をたらして滲みこませるために、目蓋を剥きかへして、何分かのあひだ抑へてゐるのであつたが、片目の目脂が少し減つたと思ふと、今度は他の片方が悪くなつたりして、いつ快くなるか解らなかつた。トラホームは絶対に癒らないと言ふものもあつた。
雛子が時々読本や算術をさらつてやつてゐた。咲子は何か美しいものには魅力を感ずるらしく、何うかすると大口を開いて、雛子の顔に見惚れてゐることもあつたが、お子姓のやうな顔をして、乱暴な口を利きながら、教鞭の代りに二尺差しを手にしてゐる雛子の前で、小型の餉台に向つて、チビはしや嗄れたやうな太い声をはりあげて、面白い節をつけて、柄にない読本を読むのであつた。浪花節でもやりさうな咽喉であつた。
「こら胡麻化しちやいけない。」
雛子は男のやうに口をきいて、咲子を笑はせた。
「雛子姐さん学校何年やつた?」
「そんなこと聞かなくとも宜しい。芸者はラブ・レタさへ書ければいゝんだ。」
「あゝ、ラブ・レタ、雛子姐さんも彼氏のところへラブ・レタやる?」
皆んなが呆れてどつと笑つた。
「ラブ・レタつて何だか知つとるか。」
咲子はへ、へと笑つた。
「君のやうなおませは、学校の先生も嘸手甲摺つたことだらう。」
「え、さうです。それに誰も私と遊んでくれないんです。」
それよりも、咲子は大人のやうな抑揚のある調子で、講談本を読むのが巧かつたし、侠客や盗賊の名前も能く知つてゐた。片目を瞑つて丹下左膳の真似もしたし、右太衛門とか好太郎とか、千恵蔵とか、飯塚とし子、田中絹代などの名前も口にした。誰れが好きなのかはわからないにしても、圭子と雛子に長唄をさらひに来る若い師匠には、何か憧れのやうな気持をもつてゐて、自身で口から顎のあたりを撫ぜながら、
「お師匠さんのこゝんとこ、私大好きさ。」
言ふくらゐだから、ませてはゐるのであつた。
講談本を好かない圭子は、そこらにある雑誌をみんな隠してしまつたが、馬鹿々々しい少女物をわざ/\買つて当がふ気にもなれなかつた。総ては目が癒つてからのことだし、育てるか何うかも決定した上のことだと思つてゐた。
それに何よりも厭なことは、この子の見え坊なことであつた。抱への座敷着を見る目にも、さう言つた慾望が十分現はれてゐたし、まだ道具などの不揃ひがちな、圭子の部屋にも、或る飽足りなさを感じてゐて、今まで見て来た家で、裕福さうな綺麗な家のことを思ひ出してゐるらしかつた。
不断口数の少ない圭子は、咲子が来てから、朝から夜まで何か小言を言つてゐなければならなかつた。近所の男の子に追つかけられて、入口の硝子戸に石を投げられたり、圭子が警告されたほど、居周りの家へ入りこんでお饒舌をしたり、又は遠走りをしたり、八飴屋の定連であつたりするのは可いとして、圭子の娘として、抱への人達を、奉公人のやうに見下す気持から圭子の留守の時は、何一つ彼女達の言ふことを素直に聞いたことはなかつた。
或る晩圭子は蓮見と一緒に、時節の半衿や伊達巻のやうな子供たちの小物を買ひに、浅草時代の馴染の家へ行つて、序でに咲子の兵児帯や下駄なども買つた。
「ここにセイラ服があるけれど、あの子の貯金がいくらか溜つたら買つてあげるつて言つてゐるの。其は其として、安いものだから一つ買つてもいゝんだけれど、あの子も余り可愛気がなさすぎるから……。」
圭子は店頭に立つて、暫く洋服やスエタアの飾窓を眺めてゐた。蓮見も思はないことはなかつたが、長年デパアトで子供洋服の見立をやつて来てゐたので、何か億劫であつた。甘やかせば甘やかすほど附けあがる咲子の性質も気に入らなかつた。此頃彼女は圭子をも舐めてかゝつてゐた。何んなに眠いときでも、蓮見がおこすと、渋くりながらも便所へも立つのであつたが、圭子では世話を焼かすばかりであつた。
圭子と蓮見は、買ひものがてら、見たい映画を見たのであつたが、今日のやうに二人そろつて外出する場合、咲子は箪笥から着物を出してゐる圭子の後ろへまはつて、
「お母ちやんいゝね。」
と、さも羨ましさうにしみ/″\した顔で言ふので、圭子も蓮見も気が咎めるくらゐだつた。圭子だけだつたら、そんな場合屹度連れて出たであらうと思はれた。
帰つて来たのは、九時頃だつた。咲子はと看ると、どこにもゐなかつた。
「咲子何うしたの。」
雛子が其処にゐて、
「咲ちやん表へ出ました。余り言ふこと聞かないから、出て行けつて言つたら、さつさと出て行つたんです。」
「どこへ行つたらう。」
「今に帰つて来ますよ。」
雛子は言つてゐたが、蓮見も圭子も気になつた。
「大分前?」
「え、ちよつと……一時問くらゐ。」
不良少年のゐる、仲通りの家具屋へ入り込んで、何か悪い智慧をつけられたことがあつたので、そこへ雛子を見にやつたが、ゐなかつた。其処らを探してみたが、チビの姿は見えなかつた。
それから兎に角交番へちよつと知らせておいたので、十二時近くになつてから、署から電話がかゝつて、父親が今咲子の来たことを告げに来たからといふ、下谷の其の署から此方の署への電話を伝へたといふのだつた。
圭子と蓮見は、更けた街を自動車を飛ばした。
咲子はブリキ屋の二階の、薄汚い部屋で、少し酔つてゐるらしい、しかし人の好ささうな父親に抱かれて寝てゐた。七輪や、鍋や土瓶のやうなものが、薄暗い部屋の一方にごちやごちや置いてあり、何か為体の知れない悪臭で、鼻持ちがならなかつた。
「姉は至つておとなしい質ですが、こいつと来たら親の手ごちにも行かない奴でして……。」
彼はそんなに貧乏や病気に苦しんでゐるらしくもなく、恵比寿のやうににこ/\した顔で恐縮してゐた、酒気をさへ帯びてゐるのだつた。
次ぎの月になつて、蓮見は試しに咲子を暫く娘に預けることにした。
蓮見の家は、歩いても二十分くらゐで行けるやうな高台にあつたが、何か急に取寄せたり、持たしてやるもののある場合に、家を教へて咲子を使ひにやることにしてゐたので、咲子はいつか蓮見の家族にもお馴染になつてゐたが、兎角玄関から上りたがる彼女を、裏口から入らせることにするには、相当手間がかゝつたが、その度に圭子は使ひ賃をやることにしてゐたし、近頃圭子の家から五六町離れたところに、愛人と一緒に下宿してゐる蓮見の長男の雅夫へ、家からの電話の伝達などさせる場合にも、三銭とか五銭とかの使ひ賃を雅夫から遣ることにしてゐたが、何うかしてそれを忘れてゐると、まるで世間摺れのした裏店のお神のやうな調子で、それを請求したり、蜜豆を催促したりするのだつたが、圭子が厳しく言つて聞かすと、本来卑しいところのない子供なので、今度は何んなにくれると言つても、意地にも手を出さないのであつた。しかしこの子の声の高いのは、耳が少し悪いのだといふことも解つたし、時々無気味な白い眼で斜に睨むやうな癖のあるのも、トラホームや近眼のせゐではないらしかつた。頭脳はひねてゐたし、子供にしては利害の打算も割方はつきりしてゐたが、大きくなるにつれて、何か生理的な欠陥が現はれて来さうな気がしてならなかつた。
蓮見の家庭でも咲子のことが噂されてゐた矢先きで、頭脳が異常に発達してゐるのは、反つて頭脳の悪い証拠ぢやないかとさへ言はれてゐた。
「どうだ少しお前にあづけて見ようか。」
蓮見が長女の藤子に言ふと、
「さうね、『一つ母の手で』やつて見ませうか。」
と笑談を言つて笑つた。
咲子の能弁と剛情は、一週間もたたないうちに、皆んなを呆れさせてしまつた。蓮見が行つてみると、いつも彼女は茶の間の集まりのなかにゐて、時には藤子の脇にちやんと坐りこんで、餉台のうへに煮立つてゐる牛肉で御飯を食べてゐることもあつたし、子供部屋で妹の鞠子の着物に縫ひあげをしてもらつて、着せられてゐるのを見たこともあつた。タプリンも圭子が買つたものより好いものを着せられてゐた。眼科へは家政をやつてゐるをばさんが、連れて通つた。
圭子は留守の間に電話をいぢつて、用もないのに抱へ達の出先きへかけたりするので、弱つてゐたが、自分が側にゐる時には、わざと受話器を持たせるやうにしてゐた。蓮見の家の裏には小さいアパートが一つあつて、咲子は蓮見を医者だと思ひこんでゐたところから、それを病室だと信じてゐて、隙があると廊下をぶら/\して、部屋のなかを覗きたがつた。
「どうだい、少しおとなしくなつたかい。」
或日蓮見が藤子に訊くと、彼女は擽つたい表情をして、
「え、気永にやれば少しづゝ矯正できるかも知れませんけれど、何しろ始末にいけないチビさんですよ。私のいふことだけは、幾許かきくんだけれど、松子なんか頭から馬鹿にして、昨日も奥のお火鉢を綺麗に掃除したあとへ行つて、わざと灰を引掻き廻して、其処らぢう灰だらけにしたんですよ。松子がちよつとした用事を吩咐けても、いつだつて外方むいて返事もしないつて風なんです。松子は泣いてしまつたんです。」
「成程ね。」
「だけれど面白い子ですわ。今日私が机に頬杖ついてぢつとしてゐると、あの子が傍へ来て、私の顔を覗きこんで、姉さんでも何か心配があるかと訊くのよ。それあ私だつて心配があるわよ。大人には小さい人にわからない心配があるのよと言ふとね、姉さんなんか些とも心配することなんかないぢやないか。をぢさんが死んでも、この家もアパートもあるんだから、ちつとも困りやしないつて言ふのよ。その癖自分のことは何も言はないの。敵はないわ。」
蓮見は笑へもしなかつた。
「へえ、チビの主観だ。」
「勝手で横着なだけに、可哀さうなところもあるの。だけど何だか少し厭な子ね。松やと一緒に寝かさうと思つても、何うしても厭だと言つて頑張るし、煙草でも買はせにやれば、入りこんで油を売つてゐるし、長くゐるうちには近所隣り何処へでも入りこんで、困ると思ふわ。」
「何しろ時々凄いこと言ふよ。」
傍にゐた三男も、林檎を食べながら笑つてゐた。
九時頃だつたけれど、咲子はもう納戸で寝てゐた。
藤子の話によると、ちよつとした言葉の行掛りから、或時咲子は意地づくで水風呂のなかへ飛びこんでしまつた。風呂好きな彼女は風呂の催促でもしたものらしかつたが、いつも藤子達が入つてから入れられ、時間の都合では、をばさんが洗つてやるので、咲子の番は遅かつた。しかしいくら勝手な彼女でも、そこまで考へる筈はなかつた。たゞちよつと奇抜な芸当をやつて見せたに過ぎないのであつたが、可なりの時間を水風呂のなかに立つて、えへゝ笑つてゐるのであつた。
「何しろ少し変だわよ。」
蓮見はこの子供の一番上の兄が、気が狂つて松沢にゐることを思ひ出した。二番の兄は運転手だつた。この二人の兄は、咲子と、今一人の仕込みに行つてゐる彼女の姉と、父を異にしてゐた。彼等の母は、咲子の三つの年死んだ。
再び圭子のところへ帰つて来た。
咲子は蓮見の家へやられた時、広いので悦んでゐた。
「うむ、これならをぢさんのとこ好い家だ。」
彼女は幸福さうだつたが、違つた環境の寂しさが段々しみて来た。悪戯は出来ないし、柄にあふ女達も近所にはなかつた。行儀や言葉づかひを直されるのも、気窮りで仕方がなかつた。圭子のところで、いつも謳つてゐた「奴さん」だとか、「おけさ踊るなら」も、人々の笑ひの種子だつた。口にしつけた焼鳥や蜜豆も喰べられないし、毎日の楽しみだつた八飴を嘗めに行くなどは思ひも寄らないことだつた。次第に彼女は寂しくなつた。苛められたり揶揄はれたりしても、まだしも雛子や蝶子が懐かしかつた。お出先きへ貰ひに行くとか、着替へを運んで行つたり、あの商売の手伝ひでもして、わあ/\言つてゐる方が、何んなに面白いか知れなかつた。何うかすると出先きで、酔つぱらひのお客に揶揄はれたり、銀貨をもらつたりするのも、忘られない楽しみであつた。
「うむ、お前好い児だ。今に芸者に出たら買つてやるぞつて……帽子横つちように冠つて、へべれけに酔つてんのさ。」
咲子はさう言つて、はゝ笑つてゐるのだが、習慣的にさういふ気分が好きだつた。いや、習慣的といふよりか、子供によつては先天的に、さういふ血を亨けてゐるのであつた。売淫が直りはまるやうな女も、世間にはないことでもないのだし、水商売にのみ適した女もない訳ではなかつた。さういつた傾向の女を、厳格な堅気風に仕立てることは、寧ろ徒労だと言つても可かつた。
「何うだつたい、をぢさんの家は?」
蓮見がきくと、持前の愛嬌笑ひをして、
「広い家は夜になると寂しいんですよ。」
咲子は言つたが、をばさんの良人のアパートの番人のをぢさんに蹴られたことを、今も不平さうに訴へるのであつた。
「蹴つたんぢやない。お前が長火鉢の前に頑張つてゐたから、退けと言つて膝で押しただけだといふぢやないか。」
蓮見は弁解した。
しかし咲子は、蓮見の家で暮らしたことによつて、何かまた少し考へるやうになつてゐた。いくらか温順しくなつたやうに見えたが、それも日がたつに従つて、前よりも一層附けあがつて来た。何よりも圭子を失望させたのは、父親に言はれて来たらしい、虐められたら警察へ飛込むのだといふことだつた。それに彼女は、何もかも知つてゐた。父が受取つた金の高、仲人がそのうち幾許はねたかといふやうな事まで。それに、父は積つてゐた部屋代も払はずに、ブリキ屋や、同宿の人の隙を覘つて夜逃をした事――それはブリキ屋が彼の田舎の落着先を圭子のところに聞きに来た時の話で解つたことだが、それを知つた咲子は怒つてゐた。
「私のお父ちやん矢張り悪い人だつたんだ。」
彼女は子心に父を色々に考へてゐるものらしかつた。兄と往来をしないところを見ると、悪人のやうにも思へたが、兄の方が悪いやうにも思へた。しかし何処へ行つて見ても、結局父が懐かしく思ひ出せるだけだつた。何うしてこんなに、彼方行つたり此方へ遣られたりするのか、その理由も解らなかつたし、考へて見るだけの智慧もなかつた。それが度重なつたところで、そんな神経が若しあつたとしても、いつか萎えてしまつて、常習的に感じがなくなつてしまつたものだつた。白い眼を剥き出す癖が、この頃特に目立つて来て、系統だから、折角一人前の女に仕揚げたところで、何んなことで頭脳が狂はないものでもなかつた。光沢に乏しい皮膚の色や、細つこい首筋を見ても、何か遺伝の毒がありさうに思へたり、突拍子もなく笑ひ出す調子も怪しかつた。――圭子はさう思ふと、一時に厭気が差して来た。
或日厄介ものを棄てに行くやうに、圭子は咲子をつれて、渡辺の家へおいて来た。渡辺は咲子の父のゐた、ブリキ屋のつい近くの路次に往んでゐた。
「私には迚もこの子は面倒見切れませんよ。」
渡辺は薄暗い部屋の炬燵の側で、狸のやうに坐つてゐた。
「さうですか。いや、それでしたら又何んとか考へませうが……。」咲子をぢつと見て、
「お前は馬鹿だね。この姐さんとこにゐられないやうなら、何処へ行つたつて駄目だぞ。――お父ちやんが好い家へ行つたと言つて、安心して田舎へ帰つたのにさ。」
「親父さんも手甲摺つたものらしいのですね。」
「いや、私も余り深いことは知らないので、講中の附合で知つてゐるところから、是非心配してくれといはれましてね。」
圭子の傍に坐つてゐた咲子は、遽にえへゝと笑ひ出した。ちよつと見ると、それは大人を小馬鹿にしてゐるのだとしか思へないので――今までもそれを悪摺れのせゐにしてゐたものだが、それの間違ひであつたことが、較々感づけて来た訳だつた。藤子の鑑定したやうに、早晩痴呆症の発作が咲子に起らないとも限らないのであつた。
兎に角置いて来たのだつたが、三日ばかり経つと、渡辺が再びチビを連れてやつて来た。そして、何といつても此処が籍元だからといふ理由で、否応なしになすりつけて行つてしまつた。無論三軒ばかり見せて歩いた結果であつた。
圭子は押返す勇気もなかつた。当分のつもりで預ることにした。
蓮見はといふと、彼は咲子に対する興味を、全く無くしてゐた訳ではなかつたし、かうなれば持久戦に入るより外なかつた。教会へでもやつたらとも考へたが、一度すつかり医者に診察してもらはうかとも思案した。それに生理的の欠陥は兎に角、何か一つの魂――正義感のやうなものを持つてゐるのも面白いし、彼が少し熱意をもつて言つて聞かせる場合、彼女の表情には明らかにそれに触れるらしい或る閃きが認められるので、扱ひ方によつては、長い間には何うかなりさうな気もするのであつた。
「仕方がないさ。かういふものが飛びこんで来るのも、一つの縁だから、当分ぢつと見てゐるさ。」
或る晩蝶子が出て行つたあとで、雛子にも口がかゝつて来た。咲子は躁ぎ立つて、彼女の下駄をそろへたり、伝票を出したりした。
「雛子さん矢張り出るね。今日はこれで二つだ。」
「生意気いふな。あんたが儲かる訳ぢやないだろ。」
雛子はいつもの調子だつた。咲子は鏡に映る彼女の黒ダイヤのやうな大きい瞳を覗きこんで、にこ/\してゐた。
「うむ、雛子姐さん矢張り美しい。」
「美しくなんかあるもんか。」
雛子は褄をつまんで出て行つた。
ちやうど圭子が風呂へ行つてゐたので、咲子が雛子の脱ぎ棄ての村山大島と安錦紗の襲ねを取りあげて畳まうとしたが、ちよつと匂ひをかいで見て、
「うむ臭い!」
と言つて、平べつたい鼻に皺を寄せた。そして畳むかはりに、くる/\と丸めて押入の隅へ投りこんでしまつた。
「臭いか。」
蓮見がきくと、
「臭い!」
「お前のお父さんの部屋は、迚も臭かつたぜ。あんな汚ない蒲団のなかで、熟柿くさいお父さんに抱かれて寝てゐても臭くなかつたのか。」
「臭くないんです。好い匂ひなんです。」
「あれは何の臭気だい。」
「私ね、おしつこすると、お父ちやんが翌朝外へ出して干すの。さうすると綿がふか/\して、迚もいゝ気持なんです。」
「寝小便するのか。」
「することもあるんですけれど、目がさめた時は、下へ行くの暗くて恐いから、七輪のなかへするんです。」
「それだとお灸もんだね。」
「をぢさんは?」
「子供の時から一度もしない。」
「ふむ!」咲子はぢつと彼を見てゐた。
やがて咲子は玄関脇の二畳へ入つて、寝床に就いた。
翌朝九時頃に、圭子が戸を開けに下へ下りて行くと、昨夕たしかにかけた戸の鍵が下つてゐた。多分咲子が明けたのだらうと思つて、讃めてやるつもりで、二畳の障子をあけて見ると、咲子の頭は見えないで、何か潜りこんでゐるやうな、蒲団が丸く脹れてゐた。
「咲子!」
圭子が声かけて、窃とめくつて見ると、咲子はゐないで、敷蒲団は一杯の洪水であつた。多分昨夕の蓮見の話で、寝小便やお灸のことばかり夢みてゐたので、こゝへ来てから長いあひだの経験か父親の戒めかで、夜になると湯水を怺へてゐたせゐで、一度も失敗つたことのなかつたのが、つい取りはづしたものらしかつた。
そして其きり彼女は姿を見せなかつた。
兄の運転手の細君につれられて、彼女が救世軍の手に取りあげられたことが解つたのは、それから五日ばかり経つてからであつた。
咲子は今どこに何をしてゐるか。社会局の人の話によれば、圭子に引取つてもらひたいが、引取る意思がなければ、健康診断をした上、児童保護所へでも送りこむより外、道がなかつた。そして其が太鼓をたゝいて、巷に慈善を哀求してゐる救世軍の仕事なのであつた。この救世軍の仕事は、社会生活の根本へ遡ることをしないで、さうした現象に対して到るところの抱へ主に個人的な私刑を課するやうなものだつた。――無論圭子は引取りはしなかつた。
(昭和十年六月)