わが寄席随筆



    大正末年の寄席

     百面相

 かの寺門静軒が『江戸繁昌記』の「寄席」の章をひもとくと、そこに「百まなこ」という言葉がある。「百まなこ」とは柳丸がよくつかった花見の目かづらのようなものだが、これが「百面相」を生んだ母胎だろう。そうして百面相自身も天保の昔には、わずかに瞳と眉と、顔半分の変化をもって、あるいは男、あるいは女、あるいは老える、あるいは稚きと、実にデリケートにさまざまの千姿万態を、ごらんに入れた演技だったにちがいない。だがなるほど、この方がほんとうだ! 魂の問題からいってもずっとほんとうで芸術的だ!
 それが春信や栄之の淡い浮世絵は、ついに時代とともに朱の卑しき五渡亭が錦絵となったがごとく、後年眉を彩り、衣装をまとい、惜しみなく顔と五体を粉飾しつくして、やれ由良之助だ! 舌切雀だ! そうしてステッセル将軍だ! と、ずいぶん、お子供衆のおなぐさみにまで、推移していったものらしい。
 しかし、考えると、かえって当初のものの方が、よほどほんとうの嘘のない文明精神の発露であったような気もされる。そうして、世の常の文明なるものも、みんな、このたぐいの、実は進歩だか、退歩だか、まったくもってわからない、いや、進歩でもあり、退歩でもあるもののような気もせずにはいられない……。
 ――ところで、近世の百面相では、なんといっても、先代の松柳亭鶴枝しょうりゅうていかくしだった。あのてかてかにあたまの禿げた、福々しい顔つきの鶴枝はまったく、覚えての上手だった。少し病的だと気になるくらい声がしわがれていた。――一番巧いのはなんといっても、ステッセル将軍だった。それから青い服を着た露助が、撃沈された軍艦で、手をあげて救いを求めている、その絵画的に巧みなポーズも私は今に忘れられない。桃太郎の誕生場をやると、仲見世の何とかいう、今の天勇のもう一つ向こうの通りの勧工場に、永らくかざられてあったいき人形にそっくりだった。まったくあれの再来かと疑われた。それからぴか一の景物は、なんといっても蛸! である。桃色の手拭いであたまをつつんで、それから豆絞りの鉢巻きをして、すててこにあわせて踊る蛸入道は、涙ぐましき見ものであった。今の鶴枝もやるけれど、これだけは、到底、ものがちがう。段がちがう。今の鶴枝のでは、ことに、手のふるわせ具合がはなはだ幼稚でお座がさめる。――だが、あの好々爺のせんの鶴枝がついには気が狂って死んだかと思うと、私は今も耳にのこる、あの一番芸の終わるたびに、なんと思いきりよくぱちんぱちんと叩いてみせた鶴枝のあたまの音さえも、そぞろ無気味にどこからか聞こえてきてならない。
 鶴輔からなった今の鶴枝も、しかし、けっして愚昧ぐまいでもない。第一、楽に時代と一緒に歩いているところに、先代同様の怜悧れいりを感じる。この頃、高座中真っ暗にして紅青いろいろの花火を焚いたりすることも、ますます百まなこ精神からは邪道なわけだが、凝ってあたわざりし思案だとも思えない。この男のでは、仁丹の広告が、時代的で妙に好きだ! 兵隊さんの行軍も先代のそれとちがって、もはや新世紀のカーキ色なることが大正味感が感じられていい。近頃、さらにその行軍から想いついて、マラソン競走を同じ段どりでみせている。まだ兵隊ほどこなれないが、いだてんの合方をひかせてやるのなど、いよいよ大正風景で愉快である。なんとも奇妙千万なのは、扇面で顔をかくして、いやらしい蝸牛かたつむりの顔つきを見せるのがある。あれは北斎漫画でも見ているようにものあやしい。
 だが総じて百面相は下座で、旧時代な楽隊の合方なんぞを思いもかけず、ひきだしてくれたりする時が明治情調で一番私は愉悦をおぼえる。
 ただ一つ、ここに特記しておきたいのは福圓遊だ。あの男の百面相ほど、まずい、智恵のない、しかし好感のものはない。瓜生岩子の銅像や、喇叭ラッパぶし高らかに村長さんの吉原見物や、みんな今は時代とあまりにも縁なき衆生! の風物詩ばかりを、飽きずにいつもとことことやっている、身装のほどもお粗末で、だが、気をつけて見てやるがいい。世の中に福圓遊の百面相ほど、たまらなくやるせないものはない。私はいつも世の中からてられた人と相対しているようでひとり涙ぐまずにはいられない。

     桝踊り

 もう、何年になることか?
 桝踊りというものが寄席に出ていた。
 春風亭柳仙という小づくりな年よりの男で、かなり、大きな桝を七つ、高座の真ん中へつみあげては、多彩な着つけで現れて、ひょいと身がるにてっぺんへ飛び上がると、※(歌記号、1-3-28)一本めには池の松 と、ふところから限りなき扇子をだしては、「松づくし」のひと手を踊った。
 それから、もう一度、どろどろで姿をかくして、今度は写し絵の口上にあるような、大きなでこでこの福助になる。そして牡丹の花の開くように、あやしくいぶかしく踊りぬいた。
 なんのただ、それだけの、いわれさえなきいろものではあったけれど、「五変化」「七変化」などという、江戸の所作事を見るように、何か、我ら、少年の日の胸ときめかせたものであった。
 それにしてもあの柳仙。
 この世を去ってしまってから、もう何年になることか?
 いや、それよりも残されていった七つの桝は、今頃どこで、昔の主人を憶っているか?
 桝踊りは、美しいいろものだった。

     橘之助

 この頃になってしみじみ橘之助を思い返す。もう東京では人気もあるまいが、しかしあれだけの芸人はいない。――ことに、阿蘭陀オランダ甚句の得わかぬ文句。テリガラフや築地の居留地や川蒸気などそんな時代の大津絵や。
 それからこどもがいやいや三味線を引っかかえてお稽古をする、あれなんぞは、どう考えても至上である。――仄かな瓦斯灯からぬけだしてきたような、あの明治一代の女芸人。だが惜しいとまこと思う頃にはこれまた東京の人でない。

     都家歌六

 私の好きな音曲師に都家歌六うたろくなる人がある。あの哀しげにいろの黒い、自棄のように背の高い、それから決して美声でない美声とは、珍重するに足ると思う。前の日のまた前の日で、あやしく燃えつきた蝋燭のような、変に侘びしい歌六の高座よ!
 まったく今の寄席へ行って、一番ひしひし感じることは、明日の時代に待たるべき音曲師の皆無!なことだ。やなぎ改め江戸家はじめなどという、大道で猿股くらいしか売れそうにない、くだらない手合から決して寄席音曲のよき発達のみられよう訳がない、あんな普通のいい声(ということはたびたび繰り返すところだが、寄席音曲、第一の最大条件としてよき悪声でなければならぬから)で、そのくせべら棒に名人がっていかにも巧かろうといりもしないところでそっくり返ったりしてみせて、余徳はせいぜいチクオンキの製造所を儲けさせるくらいの功績で、なんの高座の音曲師なる名称が投げてやれようか。
 初代三好の卑しくも美しき高座、万橘まんきつの、あの狐憑きの気ちがい花のように狂喜哄笑こうしょうするところ。「八笑人」のなかのひとりがぬけだしたかと思われるかんが鶯茶の羽織。――
 都家歌六もそういうなかのわずかに残った、ほんとうの寄席の音曲師だ! 春風亭楓枝のみぎりには、「宇治中納言」なる噺をしばしば私は聞かされた。中納言が落語の鼻祖で、日々、家臣をあつめて聞かせる。「あるところに山があったと思え、そこから川があったと思え、そこで白酒を売っていたと思え、これで山川白酒とはどうじゃ。おかしいか」というと一同「げにおかしき次第と存じ上げます」殿様「しからば次へ下がって、苦しゅうない一同笑え」――そこで次の間で声を揃えて、「あははのはあ」と頓驚とんきょうな笑いでサゲになる。それから「箱根の関所」をやった。「あらとござい」という声の、今も忘れ得ぬ妙なおかしさ――。
 ※(歌記号、1-3-28)東京の名所を知らないお方――を歌うと三代広重の開化三十六景が古びたおるごうるとともに展開され、※(歌記号、1-3-28)ありがたいぞえ成田の不動――とありがた節には愚昧でそぞろ哀れの深い、そのかみの東京人の安らかな生活の挽唄がある。※(歌記号、1-3-28)高い山から――を踊ると鳴り物入らずの仕方たくさんで、阿蘭陀渡来の唐人踊りは※(歌記号、1-3-28)さっさ唐でもよいわいな――と安政版の時花唄はやりうたを思わせる。あの時歌六の両の手が楽屋の鉦の音につれて棒のようになるのもいい。――改良剣舞源氏節で※(歌記号、1-3-28)三つちがいの兄さんも――と、重い太皷の鳴り渡るのも歌六がやれば嬉しい。すててこを踊る芸人も、二代目圓左えんざの他にはこの歌六ばかりになったろう、翫之助のではたまらないし。
 それにしても、いつも白い真夏が、しずかにあやしく東京の街へ訪れてくると、いっそう私は歌六の上を思うようになる。歌六のあの姿にはどうしてもぷんと紺の香の漂う手甲姿でやってくる、青い蝮売まむしうりを思わせるにふさわしいものがあるからだ!
きょうのこの日の蝮捕り――
渡りあるきの生業なりはい昨日きのうの疲れ
明日あすの首尾
 と白秋が去りにし日の「蝮捕り」をみつつ、都家歌六の高座を偲べば、こころ、何か、何かあやしく、※(歌記号、1-3-28)坊主だましてげん俗させてこはだの鮨でも売らせたい――とこんな小唄の必ず思いだされてくるのも可笑おかしい。

     昼席

 ――昼席ほど、しみじみ市井にいる心もちを、なつかしく身にしみ渡らせるものはない。
 そういっても、震災前の旧東京には、まだ昼席にふさわしい、ふるびた木づくりと、ちょっと小意気で古風な庭とをもったいろものの寄席があった。――新石町の立花なんぞは、そういっても、夜席より、昼間がよかった。あのだだ長く薄暗い寄席の片すみ、万惣まんそうの果物をかぞえる声が、荷揚げの唄のように何ともいえず、哀しくひびいてくるのを背にしながら、守宮やもりのように板戸にりかかって聞いている時、いつも世の中は、時雨ふる日の、さびしく、つつましい曇天だった――。冬の日の独演会の四席めには、そぞろ、高座が暗くなって、故人圓蔵のうら長い顔が、みいらのように黒くなった。私は、ひとしお、ひしと火桶を身に引き寄せては「野瀬の黒札、寄席の引き札、湯やの半札」と、可笑しき「安産」のとりあげ婆が、果てしなき札づくしを、そんな時、何にも換えがたく聞き入るのだった。そういえば、研究会の創立十六年記念演芸会(その時の番組はまだ手元にある! 大正九年四月の第四日曜で、圓蔵の「百人坊主」に山帰来さんきらいの実が紅かった。小圓朝がほんとの盲かと思われるほど、さびしい「心眼」を一席談じた。小さん(柳家・三代目は「小言幸兵衛」だった)をやったのも立花なら、先代助次郎の追善もまれに大阪から圓馬が来ても。――今の馬楽の独演会は決まって、第一日曜で、いつも二十人そこそこの人が、馬楽と一緒に寂しかった!。
 両国の立花家は、昼席に川蒸気の笛が烈しく聞こえた。永井荷風の著作を手にした、黒襟の美しい女たちが、どうかすると桟敷に来ていた。――はばかりへ立つ通りみちに、禿げちょろけた鏡が懸かって、「一奴、紋弥、小南」などと、当時でさえもすでに古びた、金字で芸名が書かれてあった。一奴は、今、大阪にいる立花家花橘かきつ。あれも私は、忘れかねる(ついでに言うが、路地を踏んでゆく寄席の味は、まずこの両国の立花だった。それから浅草の並木だった。ことに、雨でもふると、それがよかった。――昼席の記憶は、自分にはないが、二洲の高座もあやしく美しい思い出である。拓榴ざくろ口みたいにかかれた牡丹! がらんと空いていて青い瓦斯の灯、表を流しがよく通った)。
 薬師の宮松には落語研究会が、しょっちゅうあった。そこの盆の十六日に、ぎっちり詰まった二階から、仰いだ広重の空の色も、私は今に忘れられない。――宮松の庭には、拓榴があった、そうして、その頃、花が開いた。――大阪から笑福亭松鶴(四代目)がきて「植木屋の娘」というのをやった。小さんが「猫久」を「お前の魂を拝んでるんだ」より、あとを続けて、しかし一向につまらなかった。いやそれよりも、圓蔵が昔噺は「夏の医者」で、麦わら大蛇の可笑しさよ!
 ――ほんとうに、昼席の、やるせない薄ら明かりほど、夏といわず、秋といわず、冬といわず、しみじみと都会の哀しみを知らせてくれるものはない。
 震後絶えて久しき昼席を、それでも、今年辺りからまたぽつぽつと始めたらしい。つい、この間も人形町の末広で、燕路えんじの会というのがあった。「白木屋」や「山崎屋」や物真似や、梅にも春の芸者二十四刻の踊りを、まだ若い燕路(柳亭・四代目)は器用にやった。葭町の美しい人たちが、花のようにいっぱい集まって、私は久方で昼席のしじまのよさに涙ぐんだ。――と、相次いで立花に「稽古会」なるものが起こされると、私は、あすこのあるじから耳にした。――こうして昼席が相次いで起こってゆくのは、また、一つ、都会によきものの哀れが加わるだけでも、ほんとうにいいことだと想われる。
 しかし、くれぐれも昼席は、四季を通してほのかに曇った午後でありたい。あんまりギラギラとしたお天気の時ではことに夏など、寄席を出てからやるせなさすぎる! 昼席は、そこでお天気がよかったら、
「今日あまり、晴天につき、残念ながら、休席!」
 ということにしたら、どうだ※[#感嘆符三つ、76-5] 呵々。

     むらく

 朝寝房むらくは柳昇である。毛筆で描いた、明治の文学冊子における、小川未明氏が肖像の如き、坊主頭の今のむらくは、つい、先の日の柳昇である。――私は、この人を、今の東京の噺家の中で、それも老人大家たちの中で、かなり、高きに買っている。得がたき人だと思っている。
 今の世の、さても客べら棒は、むらくが出ると「酔っぱらい」とのみ注文するし、当人も、近頃人気のなくなったせいか、たいてい「酔っぱらい」ばかりでごまかしては下りてゆくが、その「酔っぱらい」にしても! だ。あの調子っ外れで、いやにはにかみ屋で、妙にきちんと両手を膝にのせて、うたう時決まって不自然に右手を高くあげたやぞうをこしらえて――といったような段どりよろしく諷い始める、めちゃめちゃに文句の錯乱した「梅にも春」や「かっぽれ」は、聞きこめばこむほどいいものである。――「くやみ」で、あるいはラジウムを説き、あるいは野菜ものの相場に至り、女房ののろけを言って帰ってゆく、そのとりどりの嘘でない可笑しさ!
輜重輸卒しじゅうりんそつ[#「輜重輸卒しじゅうりんそつ」はママ]」で、あの「ふ、ふ、ふあーっ」と世にも奇矯な声を随所に張りあげて、「電信柱に花が咲く」を朗々誦めば、
紅い夕日の照る阪で
我れと泣くよな喇叭ラッパぶし――
 と白秋の陶酔したかつての日の東京さえが、深紅にまざまざと映像する?
 が、何といっても、むらくの一番ありがたいのは、あの「ふ、ふ、ふ、ふあーっ」と、会話のなかで与太郎や生酔が随所に突拍子もなく叫ぶあの味である。「ふ、ふ、ふ、ふ、ふあーっ」と声を張り上げていって、あげくに、「ぎゅっ」といったような、まるで、卵を踏みつぶしたような音響をさせるあの味である。――爆破した軽気球か? と私はいつも疑いさえする。――まったくあれがしんしょうである――。「ずっこけ」で彼が諷うよしこのには、
※(歌記号、1-3-28)火事があるから出てみてごらん
 遠けりゃ戸をしめて――
 ここで一調子、奇妙にあがって、
お寝よ、ふわっ、ふわっ!
 と言うのすらある。最もむらくに風格的な歌だといってよかろう。
 しかし、どこから、何から、いったいはじめにああいう「ふ、ふあ、ふあ、ふあーーっ」といったようなことを言い始める了見になったのだろう? この私がいっぺんむらくにとっくりと膝を抱いて聞いてみたいところのものである――(作者註――このむらくのち発狂して死す)。

     君見ずや「かっきょの釜掘り」

 ※(歌記号、1-3-28)圓遊すててこ、談志の釜掘り、遊三ゆうざのよかちょろ、市馬いちばの牡丹餅――今もこういう寄席の竹枝こうたが、時おり、児童こどもくちにのぼる。※(歌記号、1-3-28)かっきょの釜掘り、てけれっつのぱあ――は、その先々代立川談志(私は、元より不知。風貌、聞くならく、桂小南に似たりという)の専売だったという。――すると、談志の創作なのか、それ以前にもあったのか、師、吉井勇の話によると、鼻の圓遊もやったそうだ。――今では、東西にたった二人、初代橘家三好(今の三代目圓好)と、大阪にいる橘家小圓太だけだ。
 しかし世の中にあんな痛快で得体がしれず、意味が紛花こかで、振りがでたらめで、節廻しと太鼓が悲哀の極みで、あやしく美しく所以ゆえんなく哀しく、あとからあとから泪のこみあげてくる踊りはない。――あれは、我が寄席がもつ、一番文明の踊りだと言ったってかまわない。
 圓好のと小圓太のとは、全然、もってゆき方がちがって、もちろん、圓好の開化な味に比すべくもないが、ムードは両方ともおもしろい。
 ――私は、まず、あの文句が好きだ、ちっとも意味のなさすぎる文句が!
 まず蒲団を畳んで子供のようにしっかとかかえる。鉢巻きをして、扇子を頭へさしかける(小圓太は支那人の意でさらに羽織を裏返しに着る。そしてあとのすててこのところでぬぐ)。そうして、はじまり、はじまり――だ。
 まず唐茶屋の台詞みたいな、※(歌記号、1-3-28)あじゃらかもくれん、きゅうらい、てこへん――といったようなことを言って「てけれっつのぱあ」とやる。どーんとここへ太皷が入る(哀しい!)。※(歌記号、1-3-28)高座にふとんに火鉢に鉄瓶、てけれっつのぱあ ふとんをこうして子供に見立てて、てけれっつのぱあ――かっきょはかかえた子供を、ほんとうに親愛をこめて、高座をぶらぶらしながら見入る。そうして、悲痛な面持ちで※(歌記号、1-3-28)お前があったら孝行ができない、てけれっつのぱあ――ここで片すみへ子供をおく。再び、ぐるぐる歩きだす。※(歌記号、1-3-28)一天四海は法華の法だよ、てけれっつのぱあ ――もう一度、高座のまんなかへ帰る。そうして、ぺちゃんと座って子供の顔を見る。※(歌記号、1-3-28)きょうが十七、あしたが十八、あさって十九でぱあ (これは日によってよろしくちがう)――いかにも「花暦八笑人」に死期の迫ったもののように、やるせなく指をかがなうる。このへんから、節はだんだんおろおろふるえる。※(歌記号、1-3-28)吉原花魁おいらん手紙は出すけど、外へは出られぬぱあ ※(歌記号、1-3-28)こっちでのろけて向こうじゃ知らない、てけれっつのぱあ ※(歌記号、1-3-28)くどいて、おどして、なだめて、すかして、やっぱりふられるぱあ ――唄はまったく泪にまぶれる。
 と、ここで調子が、にわかに早まる。さっと一脈の明るみが流れる。※(歌記号、1-3-28)さいこたくまか出た、てけれっつのぱあ ――圓好の手がくわになる。孟斎芳虎えがくの唐人に、さっと赤土が高座をかつちる。これから文句は、べら棒に急激! とど子供を投り込んで、すててこになるといったような次第である。が、小圓太の方は、もうちっと、ちがう。これは、本朝二十不孝! だ。無意識に構成された二十四孝への江戸っ子的文明の反逆! だ。すなわち、子供を埋める動機がまったく正風の逆である。曰く※(歌記号、1-3-28)この子があったら浮気ができない、てけれっつのぱあ――そこにすべてが出発している。だから、子供を蹴ちらすとたちまち二人は相乗り車! ※(歌記号、1-3-28)相乗り幌かけ頬と頬がぺっちゃり、てけれっつのぱあ――とおいでなさる!
 いずれにもせよ、だがこのくらい、悲哀を大きな玻璃玉はりだまにして打ちつけてくれる踊りはない。花やかな憂鬱。きらびやかな悲哀。
 ――私は、この踊りに見とれている時ほど、こよなき人のひとみの中をでもじっと見つめているような、うれしくかなしくいたましい思いをすることはない。
 されば、声を極めてかくは私も叫ぶのである。
 君見ずや、かっきょの釜掘り!ああ君見ずや、かっきょの釜掘り※[#感嘆符三つ、81-8]と。

     才賀の死

 やまとが死んだ。東京へつばくろが訪れ出したら、才賀となってとうとうやまとは死んでしまった。
 巧かった。
 せんの桂文楽(五代目)だ。
 惜しいものをこじきにした。
 そう思うと、圓右(初代)より、今輔(古今亭・三代目)より、やまといたが、一番惜しい。第一、やまとの晩年は、小圓朝(三遊亭・二代目)より暗かった。まるで看板に名がなかった。せんの談志(立川・五代目)で今の金駒(になって、そののち、どうしているか?)も、実に影のうすい二つめ所に堕ちていたが、やまとの方は、金駒の芸とは比べられないだけさらにまた惜しいと思う。ことに近年私は、彼、やまとを愛することより何より強く、せいぜい辻びらの隅っこに小さな彼の名を見つけしだい、追っ駆け追ん廻して歩いたが、ついに一度も聞けなかった。体が悪いというかどで、ただ、楽屋廻りだけしているのだと。これは昔、彼の世話になった今の若い真打たちがせめてもの彼への報恩のためであったらしい。しかし、おかげで私はとうとう最後まで、彼の近影に親しめなかった(最も、そういう内的な、楽屋うちでのやまとは晩年まで恵まれていた。林家正蔵のごとき、やまとのためにのおはなよみきりならそれこそ万障繰り合わせても出向いていったかの観がある。現に病歿のすぐ以前にも、むつみと協会と合同で、一昼夜にわたる演芸会さえ催した。やまとはそこで才賀なる父の名を襲いで、それから死んでいったのだ)。
 私が、やまとを聞いては感心していたのは、されば、まだ、文楽の時分だった。――勝栗のように頭が禿げて、声が江戸前に渋くれて、鼻唄ひとつが千両だった。江戸もん同士がひどく気さくで、御代は太平五風十雨ごふうじゅううで、なんともいえず、嬉しかった。私は、「俳諧亭句楽」の中の蛇の茂兵衛という小唄師をさえ、よく、彼を聞けば、考えさせられた。
 だが、それならば、私はそんなにしげしげ彼を聞いたかといえば、そうじゃない。うちに隠れては昼席入りをしていた、少年の日のどんたくに、あるいは、庭のかなしくなつかしかった暮春の若竹で、あるいは、瓦斯の灯のよるべなく青い、どこか、もう忘れてしまった町の夜席で、――そんなところで数えるほど、それも決まって「三人旅」の「とろろん」だった。同じ話を数えるほど。ただ、その「数えるほど」でありながら、なぜかそれが死ぬほど、私には愛好された。文楽は、ぼくの大好きだった品川の圓蔵(橘家・四代目)以上に、めずらしい、軽い、日傘のような、噺家ぶりであるよ! とさえ想われたのである。
 こういうことは、すこし、寄席入りに浮身をやつしている人ならかつて訪れた城下町の記憶を見るように、たいていがもっている心持ちだろう。現に、昔読んだ孤蝶さんの随筆では、禽語楼小さん(二代目)のことだか、圓喬のことだか、もう、今の私には記憶がうすいが、とにかくある名人の追憶に「しかし自分はこの男をわずか五、六度、しかも同じ仇討の話を、とびとびに聞いた限りだ」という風のことが書いてあった。それだけの記憶で、しかも馬場さんは、その男を、りっぱな芸だと、世にもはっきりめていた。私のやまと、またしかりだ。
 やまとは「富士詣」などという、やはり、江戸人の軽い旅情を扱かった噺も巧かったというが、前、言う通り「とろろん」だけの私には、なんともいい得ようはずがない。
「とろろん」のまくらで誰もがやるが、火の見櫓へよびかけて訊くところがある。「火事は、どこだーい」と訊いて「吉原」というとすぐに駆け出し、「葛西砂むら」と返事があると「寝ちまえー」と怒鳴る。あすこがいかにもめもけに高い夜の櫓を想わせた。あの火事のまくらは圓右より私には巧かったように考えられる。
 話へ入ってからは、例の鶴屋善兵衛を探すくだりだ。あすこを、やまと(当時、文楽)は、どどいつでやる。※(歌記号、1-3-28)三人揃って歩いちゃいれど、今夜の泊まりは――ここで、ぐいと調子をあげて、八方へ聞えるように「鶴や善兵衛」と言うんだぞと、兄貴が教える。いい声だ。心得て、やる。ところが歌う本人は※(歌記号、1-3-28)三人揃って歩いちゃいれど、どこが鶴屋だかわからない――ここんところがひどくよかった。――その前にまだ、みんなの無筆が表れないで、一人が実は鶴屋の看板の読めないことを白状する。兄貴がさんざん啖呵たんかをきる。「べら棒め、けえったら学校へゆけ……――」(この学校という言葉にも彼から聞く時、開化! があった)。相手は恐れ入って「じゃあ、兄ィ、読んでくんねえ」と言う。と「俺も読めない」。相手がまた言う。「じゃあ、東京へけえったら二人で学校へゆこう」云々。
 この「二人で学校へ」も、なんともいえず、おかしくもあり嬉しくもあった。もちろん「とろろん」は圓右もやった。箱根山は山師がこしれえたかときく弥太っ平の馬楽。湯へさかさまに入ると下げる故人小せん。先の品川の圓蔵のも聴いたし、※(歌記号、1-3-28)たまたま逢うのに東が白む、日の出に日延べがしてみたい――と渋い調子でこう諷う。志ん生も巧い。若いところで甲の強い馬に乗るのを圓楽もやる。お灯明の今の馬楽、「朝蠅」の正蔵。
 だが、つまるところ、いくたびか聴かされたこの文楽の「とろろん」が一番よかった。一番、近代味が無是候。そうして一番旅だった。江戸人の旅のこころだった。まこと、「三人旅」の情懐を一番よく知っていたのは、この文楽のやまとではなかったろうかと思っている。
 そのやまとが、ついに高座に影をしまったのだ。私としていかんともいっぺんの感懐なき能わず。泣いてやってもよかろうと思う。
 今夜あたり、高座でも沸る鉄瓶の白い煙が、人知れず嗚咽しているこったろう。南無桂才賀頓生菩薩!


     百面相異聞

 湊家小亀といえば、暮春の空に凌雲閣の赤煉瓦、燦爛さんらんと映えたりし頃、関東節と「累身しじみ売り」の新内をいや光る金歯の奥に諷い、浅草のあけくれに一時はさわがれし太神楽の、そののち睦派の寄席にも現れ、そこばくの人気を得しも、一人舞台の熱演にすぎ、あれはばち(場違い)よと、一部のお仲間うちにはとかくさんざんにさげすまれたり。
 遮莫さわれ、その小亀一座にはがんもどきと仇名打たれし老爺あり、顔一面の大あばた、上州訛りの吃々きつきつと不器用すぎておかしかりしが、ひととせ、このがんもどき、小亀社中と晩春早夏の花川戸東橋亭の昼席――一人高座の百面相に、その頃巷間の噂となりし小名木川の首無し事件を演じたりけり。まず犯人を逮捕せんと捕縄片手にいきまく刑事、お釜帽子も由々しき犯人、捕縛現場の赤前垂もなまめかしき料亭仲居と次々に扮したるいや果てが、水上たゆたうかびたる女の生首。何しろ、じゃんこ面の見るもいぶせき男だけに、この生首、物凄しとも物凄し、いやはやぞっとおののきし記憶あり。百面相も数々あれど、かかるぐろてすくなるはまたとあるまじ。まずは他日の思い出までに一筆ここに誌すとなん。
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    寄席の都々逸

 この頃は寄席にもいい音曲師がいなくなって、従って、いい都々逸も聴かれません。
 震災前では、先代のふみかしく、あの蟹のようにワイ雑な顔で、いつもきまって十年一日しゃっくりのまじる都々逸ばかりやりました。――※(歌記号、1-3-28)浅利、蛤やれ待て蜆、さざえのことから角を出し――というのが絶品だったといいますが、そういう文句や節廻しの記憶はなく、やはり、しゃっくりばかり。あとは、むしろ「蟹と海鼠なまこ」のとっちりとんが、あの顔にピッタリとしていて結構だったと覚えています。
 歌六だの圓太郎だのかんだの、その鯉かんはよく鶯茶の羽織をぞろりと着て、
※(歌記号、1-3-28)手に手つくしたおもとが枯れて
  ちょっとさした柳に芽が吹いた
 と歌った。それと、もうひとつ、上を忘れて残念だが、下は「芝の神明で苦労する……」というのでした。江戸前の文句にて忘れません。
 あの仁は風貌とこしらえが江戸末期的の感じで、それが都々逸とあいまっていい「いなせ」を感じることがありました。
 絶品は何といっても橘家三好爺たちばなやみよしやさんです。あのポツリポツリ一句一句を噛んで吐き出す歌いぶりは、およそ風格的で、まず橘之助の歌いようをげさくな味感にでっちたものでともに至宝だと感嘆される。
 噺家では三代目小さんが結構でしたが、志ん生になって死んだ馬生(金原亭・六代目)もよかった。のども富本のやれる人で渋かったが、あの歌い調子で「三人旅」など、
※(歌記号、1-3-28)別れてそののちたよりがないが
  心変わりがもしやまた
たまたま会うのに東が白む
  日の出に日延べがしてみたい
 と――こうした文句を地でしゃべる味が何としても忘れられません。
 ――あの頃の人では最近まで残っていた音曲師は万橘まんきつ爺さんでしょう。さすがに枯れていてうれしかったが、でも、万橘は都々逸以外の音曲――たとえば「ゼヒトモ」や「桜へー」や「桑名の殿さま」に全面目があると思う。昨今では当代のかしくが哀愁的ですが、訛りのあるのが惜しいことです。ずぼらを慎めば小半治がかなりのものなのに。
 大阪では、先代の千橘(立花家)が懐かしまれました。例の下五に入ればちの入る独特な都々逸で、たとえば、
※(歌記号、1-3-28)打つも叩くもお前のままよ
  惚れたんじゃもんの好きなんじゃ
 入れ撥はここであしらわれて、さて、
……もんの……
 と結ぶのです。
 同じ節廻しのを、隠退した圓太郎(橘家・五代目)がやり、さらに、その弟子の小圓太がやり、ある場合、小圓太節とさえいわれていますが、それぞれにおかしい。――圓太郎はあの鉄火な美音だし、さりとて小音ですがれたところに哀感のある小圓太のもまた捨てがたいと感じます。
 大阪の噺家では、林家染丸(二代目)が傷毒かさがかったしわがれ声で歌う都々逸が、かんじんのこの人の噺よりもいい。よしこのとか、そそりとかいった味で、
※(歌記号、1-3-28)舟じゃ寒かろ着てゆきゃしゃんせ
  わしが部屋着のこの小袖
 などをうたわれると、哀切で、古風で、いかにも遠い日の浪華の世相が考えさせられる……。
 尺八の扇遊(立花家)が喨々りょうりょうと吹く都々逸に、初秋の夜の明るい寄席で涙をこぼした頃は、あたしもまだ若い、二十一、二の恋の日だった。が――今でもあの人の尺八に言いがたなき悲哀味が、ことに都々逸を吹く時いっそうに強く滲み出ているように思う。
 おしまいに、寄席の、噺家の都々逸は、あまり美声でなく、どこかとぼけていて、やはり昔ながらに「和合人」式の手合いがのんでとろとろ言いながら歌い廻す、その空気のまざまざとでているのを至上とし、また、とこしえにそうあるべきだと信じます。
 そのイミで、春風柳のような、よほど高踏な小唄を一つずつ聞かせでもするかのように、ただ、都々逸ばかり立てつづけに歌って、
「さあ、そちらの大将いかがです」
「よッ、心得た。では……」
 てな、あの華やかな味の会話の全然オミットされている都々逸などは、音曲師としては下の下です。
 そこでやはり、前記の小半治、訛れどもおかしく――と、今は、この両名だけになるのでしょう。
 それからはげ亀、〔バンカラ〕辰三郎、〔バンカラ〕新坊、小亀、先代岩てこ、太神楽の人々の都々逸によろしいのが大分当時はありましたが、これはまた別の機会に申し上げます。
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    名人文楽

 一字一画を楷書でいくいわゆる本格の落語家には、気の詰まるほど陰性の芸風の人が多い。反対に、華やかないわゆる「人気者」と称せられる落語家手合いは、描写がなく、心理の運びも拙劣で、どうかすると、雌雄の区別さえつかない人が少なくない。
 これを人生にたとえるなら、前者は糠味噌ぬかみそ臭い世話女房で、たしかに貞節そのものではあるだろうが、亭主野郎の晩酌の味を決して愉しくさせてはくれなかろうし、後者は逢いつ逢われつしている間こそ無責任で面白かろうが、しょせんは気紛れの浮気おんな、野に置け蓮華草のそしりはまぬかれない。
 夫に仕えて貞節専一、しかも紅白粉の身だしなみよろしく、愛嬌こぼるるばかりの世話女房なんてのが、もしあったならば、およそこの人生は万朶ばんだの花咲き匂う。芸の世界においても両者を兼ね備えた、つまり本筋にして眉目麗しく華やかであるなどという人材の登場は、何十年にいっぺんしか約束されない。すなわち「名人」の名のいたずらに存しながら「名人」の実の容易に現れざる所以ゆえんである。
 しかるに、だ。現下東西落語界を通じて我が桂文楽は、まさしくそうした何十年にいっぺんという、尊いまたとない存在である。巨匠圓馬病みて以来ほんとうにもう彼以外の何人に、これを求めることができよう。
 この人の「鰻の幇間たいこ」に大正初年の旧東京のあぶら照りする街々の姿をば呼吸できる人、「花瓶」のお国者の侍がしびん片手に得意満面、馬喰町ばくろちょう辺りの旅籠さして戻り行く後ろ姿にうすづいている暮春の夕日の光を見てとれる人、さては「馬のす」の釣竿しらべている主のたたずまいに軒低く天井暗かりし震災以前の東京の町家の気配をさながらに目にうかべられる人。
 それらの人たちはことごとく、前述のこの人への私の言葉の過褒かほうにあらざることを、即座に首肯してくれるだろう。

 しかも、この文楽、今に永遠の青年としての不断の情熱を、研究心を、もち続けている。
 現に「富久」「馬のす」「花瓶」など、ついこの間、研究初演したばかりだし、引き続き「芝浜」「九州吹戻し」と一つ一つ年月をかけて、己のレパートリィを増やしていこうと精進している。それがまったく当たり前のこととはいいながら、これだけの芸境に達していてなおかつ、この努力、この勉強――。
 あえて――あえて言う。他に何人あるか(恐らく志ん生以外にあるまい、大看板では)。
 私はそこに傾倒するのだ。

 今、圓馬系の噺は、次々と文楽によって伝統正しく伝えられているが、しかも圓馬丸写しにしてはならないと、いしくも悟っているところに、さらに文楽の「非凡」がある。「明日」があるともいえるだろう。
 ご承知の圓馬の豪快味に比べる時、文楽の芸質はおよそ軽快にして繊細である。顔も、容姿も、持ち味全体も。
 その点、己を知ること厚き文楽は、ひととおり圓馬写しに腐心した噺をも個々の登場人物を地の文のメリハリを、さらに文楽流に養い育てていくべく、それぞれ第二の腐心をあえてしている。すでにそれが成功してしまったものもあり、今だ研究中のものもある。
 ゆえに我が文楽の「芸」の冴えは、今後においてこそいよいよ鋭く光芒を放つ楽しみがあるといえよう。同時に「芸は一生の修業」この言葉をこんなにも身をもってマザマザと見せつけてくれる人もまたない。
 ひと頃、文楽は巧いけれど噺の数が少ないと、よく言われた。そうしてこの私自身もまた、そう信じていた。少なくとも五、六年前までは。
 が、そののち私はこの人の修業法を親しく相見るに及んで、ようやくそうした非難の認識不足もはなはだしいことを悟るに至った。
 くどくも言うとおり、文楽の「芸」の歩みは、歩一歩。あくまでナンドリと、ネットリと、永い永い星霜の下、一つの噺を掘り下げ、磨き、艶出しをして、そうしてこれならばいいと得心のいったところで、はじめて次の「噺」へと第二の鍬を掘り入れていくのである。
 従って空に、他所目で見ている時、わずかまどろっこしい感じがされるけれど、この人、六十歳、七十歳にまでなった時、その上演種目の、意外におびただしき数にのぼっているに、人、驚きの目をみはる、必ずやその時があるだろう。私は、それを固く信じて疑わないとともに、それだけにまた我が文楽の自愛、自重、加餐かさんを、切に切に衷心から祈って止まないものである。
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    大東亜戦大勝利の夜の寄席

 プリンス・オブ・ウェールズが沈み、香港が陥ち、そこかしこの海戦にはめざましい捷報しょうほうが続々もたらされてくる年の暮ぎりぎり、病後の私は「近世浪曲史」六百枚の最後の項を急いでいた。
 たまたま年代その他のことで服部伸君の示教を得なければならないことが起こったので、近くの大塚鈴本の楽屋を訪れた。服部君の高座から下りてくるまで、楽屋で私は待っていた。左楽老人がいる。紙切りの正楽がいる、故柳枝(春風亭・七代目)門下の目の悪い若い前座がいる。
「何しろ日本の爆撃機が戦闘機を追い駆けていくってじゃありませんか、あなた」
 火鉢へ手をかざしながら正楽は、
「ソそんなあなた、それじゃ鼠が猫を追い駆けているようなもんでさ、ねえ」
「……強い……何にしても強い……」
 嘆ずるように左楽老人が口を開いた。昔、乃木将軍の幕僚として日露の役にせ参じ帰って来てから軍服で高座へ押し上がり、「突貫」や「凱旋」という時局落語に一躍人気者となってしまったこの人。「乃木さん」もしじゅう演っていたが――。いつまでも丈夫ではあるが、めっきり年とともに色が黒くなり、シミだらけになってしまったこの老勇士の顔を、しみじみと私は見つめた。
「年の暮れでこの寒さで、この戦争で、だのにこんなにお客様がやって来てくださる。みんな皇軍大勝利のおかげですよ」
 子供が大好きなお菓子を貰ったよりもまだ嬉しそうに、目の悪い若い前座は顔全体を雀躍じゃくやくさせてはしゃいでいた。この人のこの時の顔を生涯私は忘れないだろう。拍手が起こって服部君が下りて来た。
 こがらしが、しきりに格子窓の外で吹き荒れていた。
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    この二、三日のこと

 安住さん。
 晦日の晩の富士市へおいでになったそうですね。昨夜、高篤三のところへいって、お朔日ついたちの市をぶらつきあなたのお見えになったことを聞いて、たいへん残念に思いました。昨夜は、秋に日本橋倶楽部で催すことになった女房の新舞踊発表会の相談にいったのでしたが、同じ富士市でも六月のお朔日の時とはちがって、もうすっかり夏になりつくした明るい景色が、さまざまな植木にも、虫売りたちにも、また釣荵つりしのぶ屋の上にもマザマザと感じられました。ことによるともう夏の終わりを思わせるような儚ささえただよっていて、とりわけ虫売りは三軒も四軒も出ていました。ただ去年あったような赤や白や黄や水色や茶や、五色のお砂糖の雛菓子のように飾り立てたお菓子屋は、さすがに今年は六月の時も今度も見当たりませんでした。だんだん売るものが世帯じみてきて、この市のあくまで夏の巷のお祭らしい風情がなくなってゆくとしきりに高は嘆じていました。
 ……今日は朝から薄曇りして蒸し暑い。その中で、書下ろし長篇小説『寄席』の校正を、今までしていました。おかげでもう二百二十頁できました。もうひと呼吸で峠を越します。この本の出版記念演芸会をやる計画が本屋さんに今あって、じつは昨夜は女房のばかりでなく、私の方のその相談にも出かけたのでした。
 話が二、三日前へ遡りますが、二月から三月へこの『寄席』を仕上げたあと、また中篇短篇とりまぜて一冊分仕上げ、続いて、先月からこれも書下ろしの長篇小説『圓朝』にかかって、百余枚ほど書いてきたところで、すっかり、頭をやってしまいました。たいてい月にいっぺん、書けなくなってしまう時はあるのですが、今度のはちとひどすぎて、この間の晩、高が訪ねて来てくれた時なんてとんと態はありませんでした。声をつかう商売の人たちには調子をやるといって時々パタンと声の出なくなってしまう時があるのですが、私の頭もそれらしい。で、潔く『圓朝』当分放棄することにして、枕許に堆積している原稿紙を風呂敷へ包み、戸棚へしまってしまいました。そうしてただぼんやりと、空に、あだに、日々夜々をすごすことに覚悟のほぞを定めました。私のような何かしら書き続けていることのほかに歓びのない男にとっては、これがなかなか苦患なのですが、今度のようにほんのちょっとした雑誌の六号雑記、二、三行読んでもすぐクラクラとしてしまうようなことになっては……。
 幸いに二十九日。しとしとと霧雨が煙っていましたが、橘の百圓に頼まれて、八王子へ女房と妹とが防空監視隊の慰問に踊りにゆくことになっていたので、さっそくそれにくっついて行きました。小屋は舞台開きには六代目(尾上菊五郎)がきたといわれる昔の関谷座で、今東宝劇場とかいっています。そこへ駅からまっすぐに乗り込みました。小さい狭い楽屋の窓から裏の空地の梅の木に梅の実が一つ、赤黄色く熟れているのが寂しく見られました。雪の下がいっぱい無風味なほど大きく青黒い葉を繁らせていました。昔、女房と行った鳥取のある小屋の楽屋の景色をふっと私は思い出しました。正午にからだが空きましたので、百圓のやっている撞球店へ帰って来て中食。みんなで高尾山へ出かけました。バスを棄て、ケーブルを棄てるとしきりに霧がってきては私たちを包み、またスーッと遠のいてゆきました。ようやく見晴らし台まで上ったけれど、やはり霧ばかりでなにも見えない。ただしきりに山鳩が啼き立てていました。携えてきた冷酒を飲んだりして、またケーブルカーで引き返しました。続いてバスを待つ間、ひどく土砂降りの雨にあいました。辺りが真っ青に暮れかけてきました。八王子の町へ着いた頃にはもうとっぷりと暮れつくして、この甲州街道の親宿へは、ざんぎり物の書割のように灯が入っていました。何とかいう牛肉屋へ案内されて、ふんだんに牛と、豚を食べました(そうそう、昼間、この町の古本屋でまだ新しい久保田万太郎氏の『東京夜話』、近松秋江氏の『蘭燈情話』など求めました。そこには同じ久保田さんの『駒形より』のたいそう綺麗なものもありましたっけ)。さて、ぐずぐずに酔って、その晩、遅い電車で帰って来ました。

 晦日はおかげでだいぶ、頭が治りました。ハガキを書くと少し手がふるえたが、もう痛まないだけでも大助かりです。やっぱり八王子へ行っただけのことはあったと思いました。元気で、薄ら日の中を、浅草の熊谷稲荷のはなし塚の法会へ出かけてゆきました。いろいろの落語家たち、講釈師たち、野村さん、鈴本亭主人、伊藤晴雨画伯、それに小咄をつくる会の人たちなどに会いました。珍しく二階にしつらえられた本堂で私は、文楽君と並んで座って、ぼんやり読経を聞いていました。芥川さんの何かの小説に「読経を新内のように聴いていた」という一齣ひとこまがありましたね。何がなしあれを思い出しながら、ここから見渡される近所の屋根屋根がひどくバラックめいてお粗末なことに腹を立てました。文楽君も同感だと言いました。一時頃帰ってロッパ君の稽古場へ遊びに行こうか富士市へ行こうかと思いましたが、結局どっちへも行かないで宵寝をしてしまいました。この晩浅草へ足が向いていたらあなたにお目にかかれたのでしょう。夜中に三度目をさまし、またすぐ寝ました。いつか雨が降り出していたようでした。

 カラリと晴れたお朔日の朝は、巣鴨駅の方へ散歩に行ってはしなくも吉井先生の『相聞居随筆』を見つけました。発行所へたびたびお百度まで踏んだふた月がかりで待っていた新刊ですから、買って帰るが早いが、貪るように読みはじめました。生田葵山氏の若い時の話、永井先生の「矢筈草」の発端、フリツルンプや凡骨や都川という木下杢太郎氏の詩へ出てくる鳥屋の話など、ことに心を惹かれました。もう読んでいてもクラクラすることもなく、おかげで夕方まで退屈しないで過ごすことができました(ばかりか、たいへん愉しかった)。そうして、ひと風呂浴びて富士市の雑踏の中を、高のところへ訪ねていったという段取りになるのです。

 ……以上をおしまい近く書き続けていた時、文楽を味わう会の幹事さんたちが三人、お酒持参で見えました。すぐお酒がはじまって文楽君の話やその他の落語家たちの話で他愛なく半日を過ごしました。夜は夜で、大陸へ発つ松平晃君が訪ねて来てくれたりしました。どうやら私の頭もだんだん治っていきそうです。でも、このさい、わざとうんと休むことにして、せいぜい他日を期したいと思っています。いっぺん高とおあそびに。
 もう私どもの町々も、新内流しやアコーディオンの流しが毎晩、めっきりと増えて来ました。これが来はじめると、ハッキリ「夏」が感じられるのです。では。
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    馬楽供養

菜種河豚のころに延ばして弥太郎忌  容
 薄暗い本堂の中まで、かっと明るい春の光がさしこんできていた、三月二十三日午前、下谷桜木町浄妙院。貞山・山陽・蘆洲・小さん・文楽・可楽・志ん生・圓生・圓遊・左楽といったような講談師落語家がぐるりと居流れて合掌していた。野村無名庵君、斎藤豊吉君がいた。今村信雄君夫妻がいた。うちの女房は岡本文弥、宮之助二君と並んで座っていた。私と馬楽とは施主だからとて一番まん中に座らせられた。お経のすんだあと、
いやさらに寂しかるらむ馬道の
   馬楽の家の春の暮るれば
 と吉井勇先生の狂馬楽の短歌を、文弥君が宮之助君の絃で朗詠しだした。短歌はみんなで五つあった。その五つの歌と歌との間へ、新内流しが、騒ぎ唄が、下座囃子が、雪の合方が、心憎いまで巧緻に採り入れられて弾かれた。吉井先生の「俳諧亭句楽」「狂芸人」以下一連の市井戯曲を読んだことのある人たちは記憶しているだろう、あの狂死せる三代目蝶花楼馬楽(本名を本間弥太郎といったので、人呼んで弥太ッ平馬楽)の二十八回忌。一月十六日の祥月命日をお彼岸の今日に延ばして、私は師、吉井勇先生の代参に今年で七年、月詣りをしているところから馬楽はその五代目の名跡を襲っているところから、ともにこの法会を営んだのだった。馬道に、また富士横町に住んでいた狂馬楽は「註文帖」や「今戸心中」時代の吉原で、寄席へゆかない日夜の大半を生活していた。「夜の雪せめて玉丈ぎょくだけとゞけたい」は、この間の心境を痛切にうたった弥太ッ平馬楽の告白といえよう。すなわちその姿をば文弥君は、三下がりの騒ぎ唄の中に世にもクッキリと描いたのだった。うつらうつらと目を閉じて聞いていた私の目から、騒ぎ唄の弾かれたとたん、急におびただしい涙がはふり落ちてきた。そうして、生ぬるく頬へつたわった。
 明治末から大正初年の、のどかにも、ものしずかだった日の、芸人暮らし。あの日あの頃の、馬道界隈。浅草花川戸で幼時を送った私には、それらがまるで消えかけた祖父母の写真でも見るように、ボーッと瞼にちらついてきたからだった。それにはこの私自身とて、下町から山の手へ、上方へ、小田原へ、また東京へと、いかばかり幾変転の流寓の来し方ではあったことよ。初めて吉井先生の片瀬のお住居を叩いてのことにしてからが、そも幾年月になることだろう。故あって永いことおたよりもしないでいた先生からは、阪地に病みて久しい三遊亭圓馬(三代目)慰むる会を催したことをよすがに、ゆくりなくもこのほど音信に接することができた。それはつい十日と経たない前の出来事で、古川緑波ろっぱも徳川夢声も高篤三も、親しい友だちはみな我がことのように欣んでくれた。そうしたことも今この馬楽の歌の三味線に、いっそう私を泣かしめたのだった。ようやくにこらえてソーッと目を見開いた時、濃茶色の洋服にめっきり老いた三遊亭圓遊も、しきりにハンケチで目頭を拭いていた。私の死んだ時もこれをお経の代わりにやってくださいよ、その時古今亭志ん生はこう言ったっけ。
 お墓へ行った。お墓といってもほんとうのお墓は築地の門跡様の寺中にあったのだから、もう無縁で恐らく跡形もなくなっているだろう、三代目小さん・今輔・馬生・文楽・左楽・つばめ・志ん生・燕枝の柳派の人たちで建立した座像のお地蔵様ばかりがここに残っている。その建立した人たちも今ではみな死んでしまって、今日も来てくれている柳亭左楽がわずかに達者でいるばかりである。緋桃ひとうが、連翹れんぎょうが、※(「木+虎」の「儿」に代えて「且」、第4水準2-15-45)しどみが、金盞花きんせんかが、モヤモヤとした香煙の中に、早春らしく綻びて微笑わらっていた。また文弥君が、最前の短歌を繰り返し繰り返し、朗詠しだした。

 そのあと、近くの明月園で心ばかりの午餐を食べてもらった。寄せ書きをして、吉井先生、久保田さんへ送った。
 席上、貞山がこんな話をした。
 年の暮れ、この頃山の宿にいた馬楽のところへ行ったら「加藤清正蔚山に籠る」と書いてくれと言う。よしよしとそう書いてやったら、その次へ「谷干城熊本城へ籠る」と書いてくれと言う。また書いてやったら、今度はそのあとへ「本間弥太郎当家の二階へ籠る」と自分で書き、堂々と玄関へ貼り出した。そうしてそれを大家に見せて談じ込み(いったいどんな談じ方をしたのだろう!)とうとう家賃を負けさせてしまった、と。いかにも「古袷秋刀魚にあわす顔もなし」と詠んだこの男らしくておもしろい。
 左楽はまたこんな話をした。
 初音屋と呼ばれた人情噺の柳朝(春風亭・三代目)と馬楽と自分と三人でひと晩遊びに行ったが、その頃のお歯黒溝に沿った家々にはみな跳橋はねばしというものが向こう側まで掛け渡されていた。平常はそれがピーンと跳ね上げてあり、用のある時だけ下ろす仕組みになっているのだが、しかしながらそれを渡って帰ると滅法近い。で、廓内のもののような顔をして柳朝、
「ヘイお早ようござい、恐れ入りますが、ちょいとあの裏の跳橋を――」
 といちいち下ろさせ、平気な顔をして渡って行った。馬楽はまたその帰りひとッ風呂、朝湯へ飛び込むとそこに預けてある知らない人の石鹸をまるでその人の友だちのようなことを言ってはひとつひとつクンクン嗅ぎまわり、中で一番匂いのよさそうなのを選んではヌケヌケとつかった。
「そういう私も、あの時分は日掛けの金が払えなくって家へ帰れず、本間さんの二階へ転がり込んでいたんですが、ね」
 もう七十幾つになるだろう、思えば元気な左楽老人、つるつるの赤茶けた頭を撫でまわしながら、思い出深げにこう語った。
 ささやかな庭先、春の日がだいぶ傾きかけていた。
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    歳晩日記抄

 十二月二十六日。
 大寒の入りのような厳しい寒さ、風も烈しい。その中を岡本文弥君宅へ行く。先月の女房の発表会以来絶えて久しく会はなかったし、いろいろ来年度の打ち合わせあるためなり。来客中、少し耳の遠くなった宮染さんと話して待っている。お客が帰りだいたい打ち合わせを終えた時青い眼鏡をかけた玄人らしい赤ばんだ顔の中年の女の人が入って来て、心易げにそこの炬燵の中へ手をいれてきた。間もなく私の帰ろうとした時、もうその女の人は隣の部屋でしきりに宮染さんから稽古をしてもらっていた。ハッキリ聞きとれなかったが、「累身しじみ売り」のようだった。
 ワザと省線巣鴨駅下車。沿線の細い崖っぷちから見番の横のだらだら坂の方を遠廻りして帰ってくる。何となくこの道が愉しめて好きなのなり。「陸橋や師走の山の見えにけり」の句を得た。
 帰ると見馴れない男女の草履それに子供の靴、稽古場の電気蓄音器からは志ん生君の「氏子中」のレコードがせわしなく聞こえてきている。この間、馬楽君と南支へ皇軍慰問に行っていた橘の百圓君夫妻とその坊やの来訪なのだった。来年、橘家圓太郎を襲名するについて高座で吹き鳴らしたいと言っていた真鍮の喇叭ラッパ、豆腐屋さんが皆献納してしまったので入手困難だとかねがね百圓君が言っていたが、今度留守中に親切な人が手に入れておいてくれ、先日、三カ月の慰問を終えて同君がはるばる八王子駅まで帰って来たら、山なす出迎えの人たちの中で一人がブーブーこれを吹き立てた由だ。喇叭の圓太郎襲名に相応しいいかにもうれしい話ではないか。その話の最中へ、桂文楽君がやってくる。昨日文楽会忘年宴を休んだため、心配して来てくれたのなり。かたがた、来春の文楽会の打ち合わせ、向上会のことなど、いろいろ相談する。相変わらず文楽君の話はその得意とする「つるつる」や「干物箱」や「鰻の幇間」中の人物のように軽くやわらかく愉しくていい。師走を忘れて他愛なく笑ってしまう。
 文楽君帰り、やがて百圓君たちも帰る。
 早い夕食を終えて女房と、近くの大塚鈴本へ。今夜は太神楽大会。去年見損っていたものなり。入って行くとすっかり年老としとって見ちがえてしまったバンカラの唐茄子が知らない男と獅子をつかっている。楽屋で時々「めでたいめでたい」というような声をかけるのがひどく古風でおもしろい。続いて唐茄子がやはり知らない男と「神力万歳」というむやみに相手の真似ばかりしたがる可笑味のものを演る。理屈なしに下らなく可笑しい。温故知新というところだろう、まさしくこれなどは。そのあといろいろ間へ挟まる曲芸の、五階茶碗や盆の曲や傘の曲やマストンの玉乗りやそうしたものの中では丸井亀次郎(?)父子の一つまりががめずらしく手の込んだ難しい曲技を次々と見せてくれた。あくまで笑いのないまっとうな技ばかりで、その技がみなあまりにもたしかなので好意が持てた。近頃こんな上手がでてきたのは頼もしい。
 若い海老蔵が「源三位げんさんみ」を演るとて、文楽人形にありそうな眉毛の濃く長いそのため目の窪んで見える異相の年配の男を連れて出てきた。いずくんぞしらん、これが往年の湊家小亀だった。何年見なかったろう私はこの男を。その間の歳月がまるでこの男の人相を変えてしまっているのだった、でもだんだん見ているうちに額にこぶのあるなつかしいあの昔のおもかげが感じられてきた。それにこの頃少しも高座へ出ないが生活も悪くないと見えてチャンとしたこしらえをしていた。艶々と顔も張り切っていた。少なからず私は安心した。浅草育ちの私にとって湊家小亀は十二階の窓々へかがやく暮春の夕日の光といっしょに、忘れられない幼き夢のふるさとである。感傷である。新内もやらず、得意の関東節も歌わなかったが、そうして衰えは感じられたが、昔ながらの猪早太はなつかしくうれしかった。※(歌記号、1-3-28)ストンと投げた のあとへ、※(歌記号、1-3-28)あいつァ妙だこいつァ妙だまったく妙だね――の踊りの繰り返しにもめっぽう嬉しさがこみ上げてきた。※(歌記号、1-3-28)裸で道中するとても――の飛脚のような振りをするところも絵になっていてよかった。そのあと、「箱根関所」の茶番。これは巴家寅子、丸一小仙の役人、海老蔵の墨染、小亀の角兵衛獅子という贅沢な顔づけがわけもなくありがたかった。「親父が作兵衛、子供が角兵衛」と踊り出すここの繰り返しも軽妙で江戸前だった。総体に江戸茶番の愉しさはこうした可笑味の振りの繰り返しのところにあるといえよう。中入り過ぎに寅子のチョボで、小仙の松王、海老蔵の源蔵、唐茄子の千代、松太郎の熊谷、もう一人名前をしらないやせぎすの男の敦盛で、これもいっぱいに活かしていてなかなかにコクがあった。日本に、東京に、伝統されている「芸」の喜び。久しぶりで私は年忘れをした満足をしみじみと味わわされた。

 十二月二十八日。
 ボンヤリ日の暮れ、炬燵へ入っていた。すでに書き上げた長篇『圓朝』のテニヲハ直しが手につかず、あぐねてポカンとしていたからだった。古今亭志ん太君が入って来た。志ん生君が今夜私と忘年宴を張りたいからというその使者だった。すぐ仕度していっしょに出かけた。東宝名人会まで行って打ち合わせ、志ん太君の案内でひと足先へ新宿の廓の裏にあるささやかな料亭へ連れて行かれる。座敷に胡瓜と空豆の其角堂の夏の色紙がかかっていた。間もなく志ん生君、駆け付けて来て飲みはじめる。まず麦酒ビール、それからお酒。なめこの赤だしが美味しかった。私と志ん太君だけ海鼠なまこをやり、歯の悪い志ん生君は豆を食べる。豆で飲むとは奇妙なり。この間、同君が落語化上演した拙作小説『寄席』を中心に、いろいろ芸談が、次々とでる。今も決して自分を巧く思っていないという志ん生君の言葉に打たれる。私は五カ月悶々した『圓朝』について語る。同君、これも上梓されたら演りたいと言う。ぜひ私も演ってもらいたい。今の世にもっとも我が愛するところの落語家は志ん生、文楽の二君。この両君と酔いては芸談を語り合う自分は、いろいろの意味で幸福なり。うれしくなって大いに飲む。酔って何べんか志ん生君と握手する。夜更け、水道橋方面の新色のところへ駆け付ける、さながら「つるつる」を地でいったような志ん太君と大塚駅で別れる。私もぐでんぐでんのトラだった。帰ってきた時十二時過ぎていたそうなり。

 十二月三十日。
 やはり今年中もう何も手につきそうになし。うちのものたち、朝からすす掃き。引き伸ばしの出きてきた写真を、額へ入れ替えたりしている。
『横浜市史稿――風俗篇』を寝床で読みながら、うつらうつら眠ってしまう。
 夕方、女房と輪飾り、門松などとげぬき地蔵の方へ買いに行く。生の鰻の頭をみつけ、買って帰る。
あら玉の 春目の前に 根笹かな
 夜、緑波君の「船長さん」の放送を聴くべく、今この炬燵へ。まだだいぶ時間があるのでこの日記を書く。誂えて松と梅と万両を壺へ活けさせたのを、そこへ花屋から届けてきた。すぐラジオセットの上へ飾る。我が家にもう新春はるがおとずれて来ていることを感じた。

底本:「寄席囃子 正岡容寄席随筆集」河出文庫、河出書房新社
   2007(平成19)年9月20日初版発行
底本の親本:「随筆 寄席風俗」三杏書院
   1943(昭和18)年10月刊
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月5日作成
青空文庫作成ファイル:
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