第一話 寄席ファン時代

 毎々言うが、私の青春は暗黒だった。で、その頃寄席へ行って名人上手の至芸に接するたび、つくづくアベックで聴きに来ている人々がうらやましかった。ことに相手が美しい人たちだといっそうだった。俗にかみはくと仲間から呼ばれていた神楽坂演舞場へよく来ていた美男美女のカップルなど、二十余年を経た今日といえども、まざまざとそのあえかな面輪を羨ましく思い泛べることができる。かくして私はいつも自分一人か野郎同士で、品川の圓蔵を聴いた、圓石を聴いた、三代目小さんを聴いた、盲の小せんや先代文楽や先代志ん生や先々代市馬を聴いた、ただし、三代目小さんだけは、大震災直後、大阪南地の紅梅亭でたったいっぺんだけ久恋の人と聴いた。小さんは「堀の内」をその時演じ、その前にこれも震禍を避けて来阪中の伯山が関東震災記を例の濶達な調子で読んだ。
 伯山のこの震災記がニットーレコードに間もなく二枚続きで吹き込まれたが、今日あったら珍品だろう。女は当時宝塚の人気スターで私より二つ上の二十二、私は二十で作家に成り立て、「文芸春秋」へ寄せた新作黄表紙が芥川さんに激賞されおよそ得意の絶頂時代だった。
 余談ではあるが、今日、とにかく私を五十歳、六十歳の老人だと思っている向きが多いのは、好んで取材する世界が明治東京であることと、二十の年に家が潰れて以来二十余年の作家生活をしだしたのであるということとをまったく計算に入れていないからである。女は、その時私の帽子(たしかいまだ新秋で麦藁帽子)を自分の膝の上に置いてくれたことが、どんなにどんなに嬉しかったろう。こう書くと情緒纏綿てんめんのようであるが、遊びのひとつもしているくせに愛人の前ではいつも固くなりすぎて機会があったのにプラトニックに終始、そのためかえって別れてしまうようなこととなったくらいだから、この時も彼女のお母さんと三人連れで、じつはあまり大したことではない。でもあまりにもスターでありすぎた彼女は、男連れで人中へ出たので、いつもおずおずしとおしていた。しかもこの晩限りで私たちは当事者から一時仲を割かれ、病弱だった彼女は、療養生活にやるというのを表面の理由として伊予の一村落へ向けて出発させられてしまった。取り残されたこの私の、いうようなき失望よ、落胆よ、また悲嘆よ。
 女はその年の暮れには健康恢復かいふくして再び宝塚へ帰ってきたが、二年のち、やっぱり別れた。その理由はかつて「下町育ち」という小説の中で書いたからここではいわない。ただそのおしまいまでプラトニックであったため、かえってつい十年ちかくまで不忘の幻になって目先に蘇り、私の半生を苦しめぬいて困った。後年、柳家三亀松が宝塚のスターを女房にしたと聞き、かりそめにも「新婚箱根の一夜」居士などに惚れる宝塚少女があるのに、この自分が掌中の白珠をむざむざ喪失するなどは何ごとぞと、文字どおり私は全身の血の冷え返るのを覚えたくらいだった。話が前後するが、私の宝塚の彼女は、その三代目小さんを聴いた翌年九月、休暇を取ってはるばる上京してきた。私はその頃好きでもあり別懇でもあった先々代林家正蔵に頼んで、もし私が情人と君を聴きに行ったらぜひぜひその晩は十八番の「居残り佐平次」を演ってくれと言ったものだったが、その晩は彼女の主張で築地小劇場へ、ゲオルグカイゼルの作だったろうか、当時流行していた表現派戯曲「瓦斯」の方を見物に行ったので、ついに正蔵を聴くの一夜を共有することはできなかった。小劇場の帰り月淡き震災後二年の築地河岸で、私たちは幾度か熱いくちづけを交わした……。
 さて、そのごとく寄席ファン時代はアベックで名人たちを聴くことに憧れつづけ、次いで自分が高座へ上がるようになってからは何とか高座の人を情人として、なるべく彼女の上がった直後の高座へ上がりノメノメとしたことを言いたいなどと「湯屋番」の若旦那さながらの愚かな夢想を抱きそめた。同時に、鳴り物入りの落語を多く演じていた私は、その人に専門の下座(ツレ下座と仲間のテクニックでは言う)を兼業してもらいたいと念願していたこともまた事実だった。
 よく青春期に耽読した文学は、その人の終生の人生観芸術観を支配するというけれども、私のこの二つの観念は、鬢髪しばらくに白きを加えた四十余歳の今日といえどもまったく変わらない。けだし、若き日において二つが二つとも叶えられなかったその心の打ち身の名残りであろう。今や顧みて不憫な奴めと思わざるを得ない。
 しかし私は前にも言ったごとくたった一人、もしくは野郎同士ばかりで、毎晩毎晩寄席通いをした。今の桂文楽君は、当時の私の姿を高座の上から覚えていてくれて唯一の旧知である。私は灯が点くとさびしくなり、さびしくなるから寄席へ行った。蕩児のように。が、寄席へ行って太神楽や手品の、米洗いとか竹スとかきぬたとかしころ[#ルビの「しころ」は底本では「しろこ」]とかの寄席囃子を聴き、当時はいまだいまだ正統派な軽妙江戸前のが多々といた万橘三好、かん、勝次郎、枝太郎、歌六などの音曲師のうたう市井の俗歌を耳にすると、いっそうホロホロとさびしくなった。ましてそこの寄席に、美貌なるアベックの寄席ファンでも見出すならば、なおさらである。
 でも私は寄席通いが止められない。また行く。また、出かける。あまり毎晩毎晩同じ顔付けの寄席へばかり行っていたもので、とうとう一夜、誰がどんなギャグを言おうと全然笑えなくなってしまった。この時ばかりは打ち出しののち表へ出て、もうもう寄席もあまりにも食傷したから、当分行くまいと心に誓った。にもかかわらずあくる晩の灯点し頃がおとずれた時、私の姿はやはり同じ寄席の片隅に見出された。神田の花月だったろうか、それとも白梅だったろうか、ちょっと今記憶にないが、ともに今はない、たしか神田の寄席である。ところが昨晩に相違してこの晩はたいへん笑えた。じつに無邪気に無心に笑えた。そういっても、出てくる人出てくる人のギャグをひとつひとつ笑い得た。思うに私の寄席修業のこれが第一の「悟り」の日であったらしい。同じ頃神田立花亭主人大森君は、私に寄席の淫乱という尊称をあえてたてまつってくれた。世の中には、今日もかつての私のごとくこのような苦労苦患を重ねた寄席ファンがあるだろうか。以来、今日まで二十年、私は、寄席の楽屋から、客席から、高座のユーモアに子供のごとく哄笑することができる。ゆえに、私はあまり馬鹿笑いをして高座や他の聴衆の迷惑になるようなお客も困るが、ひたすら笑わないでいさえすればそれが大した落語通だと心得ている人たちもまた大悟以前のファンとして高く評価し得ないのである。徳川夢声君のごときも先年私が大阪から笑福亭松鶴君を招いて独演会を企画した時、その「しゃっくり政談」を客席からじつに愉しそうに呵々大笑して聴いていられたことを、あえて特筆しておきたい。
 年少から寄席をで、落語を愛してきた私のその頃のメモは、また他日稿を新たとすることとして、ここではあくまで青春感傷の日の私を中心に大正大震以後から昭和戦前までの落語界の人々について語ってみたいが、その頃東京の落語界には三世小さん、先代圓右、先代志ん生、三語楼、小勝が落語協会の巨頭で、今の左楽、先代燕枝えんし、華柳、先々代柳枝、先代助六、先代今輔、先々代正蔵、先代圓生、当代文治がむつみ会に参加していた。金語楼と先代正蔵が小三治で前者に属し、まさしくしのぎを削って売り出し中だった。金語楼君の「落語家の兵隊」のごときたしかに優秀な軍隊軽蔑落語であって、徴兵に閉口するまくらのごとくじつに痛快そのものでおかしく、私は今にその一言一句を記憶しているし、正蔵君の「源平」や「お七」のことに籠の鳥を歌う前後の愉しさも、晩年の数倍活気があっておもしろかった。年来の友人だったからあえて正直に書かせてもらうが、晩年の同君は生活的に余裕ができすぎ、それは個人としてはもちろん慶賀にえないけれども、もういっぺん今日の少うし間延びのしすぎた話法でなく、あの日あの頃の弾みきった呼吸を取り戻してもらいたいものだと思ったことだった。両者ぐんぐんと売り出していくその人気は、のちの歌笑、痴楽を[#「痴楽を」は底本では「痴薬を」]上超すものがあった。
 急逝して私をかしめた四代目小さん君はその頃馬楽で、手堅い渋い話術の中に警抜な警句を言い放ち、一部の寄席ファンをして随喜せしめていた。睦会の方には、いまの柳橋、柳好、小文治、文楽君が若手四天王で売り出していた。落語界というところ、明治中世に柳、三遊と別れて以来、(私はその柳、三遊最終期以来の寄席修業者だったが)柳が女子供向けの色物たくさんで、三遊が本格話術を看板の渋向き、この二つの伝統は不思議に今日といえども継承されている。大正末年には落語協会が三遊派的で、睦会の方が柳派的。現今では文治、文楽、志ん生らの落語協会が三遊派的で、柳橘、柳好、小文治、今輔の芸術協会が柳派的である。しかも圓朝以来の本格話術をもって鳴っていた三遊派の方にへらへらの万橘やすててこの圓遊が現れ、小さん、圓右君臨していた落語協会の方から三語楼、金語楼、小三治(正蔵)登場し、今また渋いとか地味だとかいわれる文治、文楽の落語協会の方からかえって、歌笑を世に送り出した。私はこの原因の那辺に存するかを、いまだよく検討していないのであるが、明治の三遊派の昔以来、本格派の方へとにかく爆笑的存在の落語家の次々に誕生してくるところまで、同じく伝統を守っている点はすこぶるおもしろいと思う。言い落したが、柳家三語楼君の全盛はこの時代がまさに頂点で、いつも自動車の爆音けたたましく楽屋入り。同君の人気は盲の小せんが夭折した大正中世から次第次第に上昇し、大震災直前いよいよ華やかな存在とはなっていた。
 私が前述の宝塚の歌姫と別れた頃、三代目小さんはしばらく老衰しだし、しばしば高座で噺をまちがえるようになった(圓右は二世圓朝を襲名したまま倒れ、これにいなかった)。忘れられない痛ましい思い出は、帝国ホテルで松井翠声君が仏蘭西から帰朝した歓迎会が華やかにひらかれた席上でのことだった。私は徳川君にはもう別懇で(ばかりか半年後、東京を売って漂泊の途に上る時は同君と金語楼君とに旅費その他を恵まれた!)いたけれど、松井君には、この会でが初対面で、同君はその頃私が第一次「苦楽」誌上へ松井君のお祖父さんである先々代五明楼玉輔の自作人情噺「写真の仇討」についていささか書いたので、あなたによって祖父のことをいろいろ教えられたとにこやかに語られたことを記憶している。思えばあの頃も今日も少しも変わっていない若い若い松井君ではあることよ! 小山内薫氏がテーブルスピーチをされ、他に東健面、鈴木伝明、英百合子君らがいたように覚えている。三代目小さんは、この歓迎会の余興に来て「高砂や」を演り、いまだ前の謡のけいこの内に突如終わりの御詠歌をうたい出し「親類一同が婚礼に御容赦」と落ちを言ってさっさと下りて行ってしまったのである。多くの聴衆は夢中で拍手していたけれど、私はあんなにヒヤリとさせられたことはなかった。同時にあんなに暗いさびしいはかないものを感じさせられたこともまたなかった。左翼作家には珍しい抒情詩人しげる・ぬやま氏が、
じゃんこ面の小さん狂へり梅の頃
 となげかれたのは恐らくやその頃のことであったろう。
 先々代正蔵と今日の三木助(当時は小柳)両君以外に、金語楼、小三治君が私の交友録の中に加わりだしたのもこの時代だった。私はこうした人たちの談笑の世界の中へ没入して、やっと失恋の哀しみを忘れていたのだったといえる。
 小勝、三語楼らの横暴を憤って、少壮の不平児たちが落語協会を脱退。浅草の橘館と牛込亭へ立て籠って、当時台頭の左翼もどき、菜っ葉服よろしく自らサンドイッチマンとなってビラをまいて歩いたのも同じ頃だった。圓楽、小山三、小はん、龍生らの革新派。小はんはこの事件以後幇間となり、また渡支したりしたのが戦後復帰して大阪で働いている仁。龍生はのちに出世前後の広沢虎造君の一座へ入って台本を書き、またモタレへ出て落語を演っていた。そして圓楽が今の正蔵君、小山三がなんと今の今輔君である。恋失ってちかぢかに土地を売ろうとしていた私が、他人事ならずさびしい思い出、こうした不平不遇の青年落語家の高座を牛込亭に聴いたのはその年の晩秋の一夜だった。今輔君は今のような沢潟屋張りの声で、開口一番、「魔子ちゃんも上京してまいりました」とぐっと客席を睨み廻したので、一面すこぶる気の弱いところもある私は、たいていびっくりしたこっちゃない。魔子ちゃんとは、その前々年惨殺された大杉栄の遺児だったからである。それぞれが一席ずつ演ったあと、大喜利には全員がズラリ高座へお題噺のよう居並んで、各自五分間ずつの落語協会大幹部の弾劾だんがい演説、あるいは憤りあるいは叫び、怖しくもまた物凄しと大薩摩の文句をそのままのすさまじさを顕現した。あれが大正十四年、私の二十二の秋だったから、あれからちょうど今年で二十三年経つ、二十三年の歳月は今では正蔵君をも、今輔君をもそれぞれ両派の大幹部として落ち着くところへ落ち着かせてしまっているが、つわものどもが夢のあと。今や往時を顧みて、両君の感慨は如何。
 ところで私の方は、この時宝塚の女優と別れたのが原因で、西下放浪加うるにその前後、いかんとしても寂しさの棄てどころがなく、たいていもうやけのやん八になっていたので自ら文学の世界を放棄する(にも何にもお恥ずかしい話だが、てんで身心めちゃめちゃになってしまっていたのだった)と、落語家として出発することを堂々世間へ発表してしまった。破れ布に破れ傘、これも誰ゆえ小桜ゆえ。つまり亭主を芸者に奪われた女性がとたんに自らもダンサーか花街に身を投じたごとく、私もまたその歌姫への面当てに、落語家たらむとは決意したのだというところで、さて第一章の紙数が尽きた。
[#改ページ]

    第二話 落語家時代

 私が、宝塚少女歌劇のスターとの恋を失って、そのため文士くずれの落語家たらむと志したに至るまでは、すでに書いた。
 が、私のことにすると、単に寄席の高座へばかり上がりたかったのではなく、一個、変わり種の落語家として、じつはあっぱれ宝塚の大舞台へ一枚看板で押し上がり、彼女を見返してやりたかったのだ。でなければいくら当時の私の売文先が「苦楽」はじめ多く関西だったとしても、敵城近く乗り込んだりすることはなかったろう。そののち小林一三先生の辱知を得た時、先生は私に君は落語家でなく、役者になったらどうだ、それならうちの舞台を貸すがと言われたが、私は立ち上がって何かを演る方の自信はなかったので御辞退した。だから、またそののち数年、旧知古川緑波君がたしか山野一郎君と相携えて宝塚のステージへ一躍映画記者から転身出演し、花のおとめたちにかこまれて虹色のライトを縦横に浴び、いと華やかなフィナーレまで演じて、小林先生から当時の出演料で金一千円也をもらったと聞いた時には、嘘もかくしもなく、しんしんと私は羨ましかった。しかもその頃私は生まれてからはじめての困苦窮迫のどん底にいたのだったにおいてをや。が、それからさらに十年ののち、私は過去の落語家生活の体験を生かした『圓太郎馬車』という小説を書いて世に問い、それが緑波君によって宝塚系の劇場である有楽座に上演され、私の出世作とも更正作ともなったことを思えば、世の中のことはすべて廻り持ちであると言わざるを得ない。
 ところで第一次「苦楽」の、たしか大正十四年早夏号の、私の寄席随筆の中へ、私は自らいよいよ落語家になりますという口上を書いている。そしてその自分の文章の中へは、徳川無声、林家正蔵(先々代)、正岡容の三枚看枝を並べてみたと覚えている。
 けだし当時の徳川君は説明者としては第一流だったが、いまだいまだ話術家として高座へ現れてはいなかったから、この企画は超斬新であったのだ。またこの正蔵君はもちろん前に書いた流弁なりし先々代で、さらにその文章の中にはワクでかこんで先々代正蔵君の私の落語界入りのための口上文が書いてあったが、これは当時「苦楽」を編輯へんしゅうしていた川口松太郎君が執筆したものだった。この年の九月、すなわち私の都落ちの直前、読売新聞社からは社会部の記者が写真斑同行でやってきて記事を取り、間もなくそれは写真入り三段抜きで仰々しく社会面へ報道された。この記事を取りにきたたいそう愛想のいい記者が、のちの小野金次郎君だった。
 翌十五年一月号の「苦楽」へは、生まれてはじめて自作自演落語と題して「法界坊と俄雨にわかあめ」を発表した。折柄の俄雨に傘を借りにきた男が、破れ傘にちなみある法界坊の話をいろいろと聞かされているうち、とうとうお天気になってしまったという埒口らちくちもない一席。亡友吉岡島平君が私の高座姿だけは漫画でなく大真面目に描いてくれ、当時はこの作も本人いっぱしの気でおさまっていたのであるが、近年に至って鶯亭金升おうていきんしょう翁の落語集「福」(なんと明治三十三年発行!)にこれにほとんど同様の落ちの新作あることを発見して、もうその頃はあの落語をなんか巧いとも何とも思っていなくなっていた時だったのにやはり一瞬少なからず落胆したのだからおかしい。
 大阪放送局から毎月鳴り物入りの自作や西洋種の噺を放送しだしたのがその翌年あたりから。松竹座の花形説明者で私の美文たくさんで書いていた幻想小説が大好きで多少私張りの美文で情熱的な「椿姫」の説明などに全関西の女学生たちの憧れの的になっていた里見義郎君の紹介でニットーレコードへはじめて鳴り物入りの噺を吹き込み出したのが、その翌々年の春あたり。すなわち昭和二年頃であったと思う。ニットーレコードも、晩年は、タイヘイレコードと併合され、末路はかなくついえてしまったが、その頃関西から九州へかけての地盤はたいしたもので、今の山城少椽(当時古靭太夫)、観世左近、清元延寿太夫、吉住小三郎、関屋敏子、先代桂春團治、立花家花橘などがその代表的な専属芸術家で、かの「道頓堀行進曲」以来今日の流行歌や歌謡曲の前身をなすジャズ小唄なるものが台頭しだしてからは、故小花、それから美ち奴の両君もこの会社から華々しく打ってでたし、新人時代には、東海林太郎、松平晃、松島詩子君なども、この会社へみな吹き込んでいたものである。
 文芸部長は戦争中歿した木村精君(長谷川幸延君と会うと私はよくこの亡友の話をする)で、その幕下に今も懇篤な作曲家草笛道夫君がいる。やがて三遊亭金馬君がこの社からさっそうと売り出すのであるが、あとで書こう。私は、こうした会社の異色レコードとして発売されたので、その第一回の宣伝広告のごときは、まったく今日のことにすると、馬鹿馬鹿しいほど、華やかなものだった。「サンデー毎日」「週刊朝日」の裏表紙の半分を割いて、大きく私の写真が出た。その頃の両誌は、ちょうど今日の倍の大きさだったのであるから、つまり今日のあの「週刊朝日」「サンデー毎日」一頁全部に私の広告が出たということになる。でもその当時はそうたいした宣伝だとも思っていなかった。正直のところが――。
 話が相前後するが、この前年から私は三遊亭圓馬の門を叩いて、ことごとくその神技に傾投、間もなく圓馬のせがれ分となり、また圓馬夫人の媒酌で世帯を持つことになった。芝の協調会館で催された第一回ナヤマシ会(たしか大正十五年早春)へ私が臨時出演したのはその直前である。私はたいそう酔っ払ってテーブルの上へ座り、「気養い帖」一席を熱演したまではよかったが、そのあとまた二度高座へ上がって落語家の物真似とまた何か演ったので満員のお客をだいぶ追い返してしまい、文字どおりナヤマシ会の実を挙げた。飛び入りの三度上がりなどはお客の帰るのが当たり前で物心ついてからでは到底頼まれてもできない芸当、「猫久」の侍ではないが、我ながら天晴れ天晴れ感服感服の至りである。この時古川緑波君、いまだ早大の学生服を着て来演、二十余名の活弁の物真似(声帯模写という新名称を、同君はこの時もう考えているのだったろうか)を演じて大喝采を浴びたのだから、前述の華やかな宝塚出演はこれから何年ののちだろうか。『ロツパ自叙伝』が今手許にあると仔細にわかるのだが、あの本は戦災死した高篤三が死の直前たまたま私のところから持ち出していって、ついに彼と運命をともにしてしまったから判然としない。もっとも緑波君自身はこの旧著のことを言われるのがたいそう嫌いだから、私を通じて親しくなった高篤三といっしょにあの本が灰となったことは、かえって安心するかもしれない。
 のちに私が大谷内越山翁に話術の教えを仰いだ時、中学校の英語の教師から講談界に身を投じて露伴の「五重塔」、紅葉の「金色夜叉」、鏡花の「註文帖」「高野聖」、風葉の「恋慕流し」、涙香の「幽霊塔」、綺堂の「木曾の旅人」(この間、六代目と花柳章太郎君が演った「影」の原話である)を自在に使駆して文芸講談のジャンルを開拓した同翁は、やはり世の中には次々と自分のやったことの後継者が出てくるものだと私の志している道をたいそうよろこばれたが、今日、東西の落語界には、私の側近から桃源亭花輔(今日の梅橋)、三笑亭夢楽[#「夢楽」は底本では「夢薬」]、桂米朝君その他、文学徒の落語家が続出してきているし、私はいまだいまだあの頃の越山翁より十幾歳も若いが、今やほとんど同様の感慨に耽らざるを得ないのである。
 ところで圓馬の忰になって本行どおり「寿限無」を教わった時の詳細はそっくりそのまま「寄席明治篇」というかつての長篇小説の中へ描写してあることを、この際ここで白状しておこう。孤児の私は、心から圓馬の芸と人とに傾倒し、ほんとうの親のようにも愛慕していた。圓馬夫人もまた近所の人たちに「おっちゃんが若い時東京で生ましてきた子なのやで」と言っていた。そう言われると近所の人たちも「ほんによう似てはる」と言ったものだ。が、師父圓馬と私とは若き日の谷崎潤一郎氏のごとく似かよってはいず、圓馬は角張り、私は細長い顔立ちであるが、濃い太い眉と、険しく大きい目とだけはいささか似ている。初手から父子だと踏んでかかれば、それでもどうやら見る方では勝手に類似点を発見してうなずいてくれるものなのであろう。でも残念なことに肝腎の私が圓馬夫人の手引きで持たせてくれた家庭の方は全然うまくいかなかった。私はあくまで圓馬好みの意気なおかみさんが選ばれてくるものと安心して一任していた。まして相手はさる遊廓なにがし楼の娘だというのでいよいよ安心しきっていたところ、そうしたところの娘なのに雁次郎をいっぺんも見たことのないという風な女が私と生活をともにしだした。圓馬夫人は文士というのは学者のような堅苦しいものであると確信し、その文士の中でも私のごときは進んで芸人社会へ飛び込んでいったりしている変わり種の存在であるという点を、当初に計算してかかられなかったため、いたずらにお互いが悲劇を将来してしまったのではある。
 いや、こう書いたら、その前にあなた方は言うだろう。かりにも正岡容ほどの侍がそんな青春二十一や二でいくら圓馬盲拝の結果とはいえ、どうしてくだらなく平凡な見合結婚をしてしまったのだ、と。仰せいかにもごもっともであるが、まあお立ち合いしばらく待ってください。人間目がでなくなるとこうもどじにいくものかと自分ながら呆れるほどその時代の私は人生万端駄目に駄目にとなっていき、つまり私はその相次ぐ不幸の連続にもろくも惨敗してしまったのである。まずその最初がこうである。大島得郎君の紹介で一夜京は島原の角屋すみやに遊んで相知ったS太夫という若い美しい堺の芸妓くずれの傾城に私はたいそう心を傾けてしまったのであるが、生来、花魁(明治中世以降濫出の安女郎の意味!)嫌いの私がなぜそのように陶酔してしまったかといえば、今でもそうかもしれないが、当時の島原のくるわは新選組の侍が遊歩していそうな古風な情趣満々で、蝋灯の灯かげに金糸銀糸の裲襠りょうとうきらめき、太夫と呼ばれる第一流遊女のあえかな美しさは、英泉や国貞の錦絵がそのまま抜け出してきたかと思われるばかりだったからだった。
 心身荒漠としきっていたその頃の私は、のちにはこんな女を恋人として現実曝露の悲哀を見るであろうこと必定であるなどわかろうわけもなく、せめても現在の虚しさを忘れるべくかよい続けているうちにだんだん女の年の明けたのちの相談ぐらいまでするようになってはいたのである。その頃たまたま久しぶりに東京の席を休んで遊びに西下した先々代林家正蔵君は、私に会うが否や今度の旅行ではじめて島原へ行きましてねとニヤニヤ額を光らせながら談った。で、フフンおいでなすったな島原のことなら近頃この俺に聞けと「五人廻し」の通人よろしく顎を撫で廻した私は、して何という花魁がでましたとことさらに訊ねた。エーそれがねえ、S太夫というので……と次の瞬間あっさりこう答えられてしまった時のこの私の驚愕、落胆。ほんとうに落語の「近江八景」のあの職人じゃないが、その時の私は島原にもS太夫が二人あって甲乙に区別されており、私のは甲、今度正蔵君の買ったのは乙だったらよかったにと大真面目にそう考えずにはいられなくなったくらいだった。しかもあくまで冷たるげんたる現実はまさしく現実である。失恋の痛苦を癒すべく落語家たらんとしたこの私を大いに支援しようと誓ってくれたこの年長の友だちは、同じく失恋の痛手を一時たりとも癒すべく恋々していたこの夢幻の世界をものの見事に破壊してしまった。しかも、相手は売女であって、正蔵君の方はあくまで偶然であり、さらに私の方はまた年少ながら意気な江戸伝来の文明世界を好んで描かんとしている洒落と寛容とがモットーの作者くずれときてはどう野暮に誰を怨み、なげこうすべもない。さりとて当時の私に親近の知人の買った女をあきらめてまた買いに行くことはしょせんできなかった。潔癖でほんとうは生野暮な私は今でもやはり駄目かもしれない。事情がわかってすっかり憂鬱になってしまった私を眺めた正蔵君はたいそうたいそう気の毒がってその晩近くのビヤホールへ私を連れて行き、その代わりいくらでも飲んでくださいとこう言ったが、たとえそこにあるだけのビヤ樽の生ビールを飲み干してしまったとて、このまちがいだけはどう解決のつくものでも、なかったろう。
 さてこの事件をまく開きとして、ついで今の女流作家の真杉静枝さんが折柄、妙齢美貌の婦人記者で、この島原の事件の前後に知り合い、宝塚の彼女に同じく私より少し年上ではあったが、私はこの人により更生しようと意を決したので、手紙をおくると彼女もまた現在の境涯のさびしさを訴えた返事をすぐにくれた。で、欣喜雀躍近寄って行くと彼女にははやその頃同じ社の校正記者の愛人があってすでに同棲をさえあえてしていた。亡き渡瀬淳子女史や島平君がずいぶん心配して奔走してくれたが、結局どうにもならなかった。師、吉井勇イミテーションの私の短歌を愛誦して、同じ頃長崎からペンの字美しい手紙をくれた少女があった。私は「サンデー毎日」へ連載した「蔓珠沙華亀山噺」という幻想小説の原稿料三、四百円を渡辺均君からもらうと、一気に長崎まで訪れて行ったが、わざわざ停車場へ迎えに来ていてくれた少女は文字どおりの少女でいまだ十六の春を迎えたばかり。握手をした袖の下からはいかにも子供子供した紅いジャケットがはみだしていた。いくらなんでもこの人と相携えて同棲はできなかった。滞在月余げつよ、世にもつまらなく引き返したが、この時の紅いジャケットの少女がのちにいろいろの話題を世人へ投げかけた映画女優志賀暁子君のいとけなき日であろうとは誰が知ろうぞ。つまりジュール、ラフオルグではないが、「天下のこと日にあらずなり」私は打つ手も打つ手もみなことごとく駄目だったのだ、それもきまってあまりにも馬鹿馬鹿しい思いもかけないような理由ばかりから。私は度重なる心の疲れ、心の寥しさにやりきれなくなって、とうとう圓馬夫婦の見立てならとそれをせめてもの己れへの申し訳にしてあたふた見合い結婚をし、またまたこれさえが駄目になってはしまったのだ。
 もちろん例外もないとはいえないが、全体に肉親の愛に飢えている天涯倫落の孤児ほどかえって恋愛に弱く、孤独のさびしさにも弱い人が多くはないか。四十五十まで双親の健在な人々の方に平気で女性をもてあそんだり独身でいられたりする人たちが多くはないか。菊田一夫君なども私同様の孤児であるとか聞いているが、同君の恋愛観など親近の人たちから仄聞そくぶんすると、よほど私の抱有しているものに酷似していてはなはだ思い半ばにすぐるときが少なくないのである。
 さあ、このへんで今度は大正末年の上方落語界について言及しよう。
[#改ページ]

    第三話 続落語家時代

 戦後、吉本興行部の桎梏しっこくを離れた上方落語界だが、私が西下した頃の斯界は吉本のひと手に統合され、その暴威をほしいままにされていた時代だった。とはいえいまだいまだ漫才氾濫以前ではあったから吉本といえども営業政策上、大看板に表面の叩頭こうとうすることくらいは忘れてはいなかった。ただし師父圓馬だけは私が忰分となってから二年ほどして借金がなくなったが、三木助、春團治みなみな落語家らしい無邪気な浪費生活のため巨額な借金を背負っていたから、ほんとうはこの二巨頭、吉本へ頭は上がらず、陰で不平を並べているばかりだった。当時私がこの吉本の寄席で連夜勉強していたならばもう少し早く噺の呼吸も身についていたろうが(吉本以外に席らしい席はまったくなかったからだ)俺はよんどころなく出演しているが、お前は決して決してあんなところへ出てはいけない、始終圓馬がこう私を戒めていたからどうつてを求めて出させてもらおうすべもなかった。つまりそれほど全大阪の落語家は、圓枝とか文治郎とかの好人物を除いては不平不満のまんまでよんどころなく吉本に勤めていたのだ。もっとも席主が元来落語というものを感情的に大嫌いで、いつかは亡ぼそう亡ぼそうとかかっていた。これではいくら表面、どう巧いことを言われていても以心伝心、自ら芸人たちにもそれが感じられてくるから、つい居心地のいいわけもなかったのだった。ただし、吉本の宣伝法だけはじつに偉かった。たとえば席の表へ掲げる看板一つにしても、ちゃんと文芸部(という名称はいまだなかったろうが)がいて一年三百六十五日出演している桂春團治でも必ず抱腹絶倒爆笑王と肩書をつけるし、三遊亭圓馬の説明には東京人情噺の名人と註することを常に忘れなかったくらいである。東京の寄席のただ「文楽」とか「志ん生」とか「柳好」とのみかいてほったらかしておく商売気のなさとはちがってどこまでもどこまでも売り物には花お客には親切、この商売熱心の点だけは大いに大いに今日とても関東方学ぶべきものがあると推称しておく。その代わり文芸部の先生方あまり名筆をふるいすぎては出演連名を「クリエーション」、三人会を「三覇双」、さては「インタレストは講談に重きを置く」などといったような珍妙至極の新語を羅列してしまう失敗もまたしばしばだったけれども――。
 が、そうした風だからくどいようだがあくまで商売は上手で客足もよく、大正末から昭和初頭の寄席不況時代も大阪の落語界はかなりに殷賑いんしんをきわめていた(事変後急に漫才を重点的に起用しだしてからこの東西の位置は顛倒てんとうしだし、しばらく東京方から挽回しだした)。当時の元老には松翁の先代松鶴が、京都の文之助がいたが、すでに隠退してしまってラジオへだけ、時々出ていた。枝雀、枝太郎あたりが老大家で、圓馬、三木助、春團治、染丸、音曲噺の圓太郎が現役の大家だった。鼓の圓子、三十石の小文枝、廓噺の文治郎、鬚を生やした蔵之助、今の遊三、レコードで売った花橘かきつ、枯淡な円枝が中堅格。新鋭の筆頭に、のちの松鶴の枝鶴、宗十郎のような声をだした露の五郎、きどりや延若になった勝太郎、今の圓馬の小圓馬、今の春團治の福團治、花柳芳兵衛に転じている小春團治、青白い美男子だった二代目千橘。音曲には釜掘りの小圓太、めっかちの圓若。色物には尺八の扇遊、ビール瓶の曲芸の直造、紙切りのおもちゃ。ほかに英語をよくつかったざこばやお題噺の扇枝や、小男の塩鯛や、京都の三八や桃太郎や三馬や……こう書いているうちも、巧かったあまり巧くなかった、巧いけれど愉しめなかった、拙くても割合に好意の持てた、いろいろさまざまの高座の姿が見えてきて、私はこれらの人たちについて一々筆を走らせているだけでも百枚やそこらの随筆は、忽所たちどころに書き上げられてしまうことだろう。
 私はその頃の吉本連がJOBK不出演なのをいいことにラジオへ出たり、レコードへ吹き込んだり、あとは臨時出演ばかりしていたが、「南極のラジオ」「ラジオ幽霊」「恋のケーブルカー」「マリアの奇蹟」「新気養い張」「禁酒」「競馬場騒動」「道頓堀行進曲」「流れ木」これらがその時代の私の主なるレパートリーだった。自作や古典の新釈のほかは、西洋人情噺と銘打ってアイッシェ兄弟や最近みまかったトリスタンベルナールの作品、もちろんそれを神戸あたりの世界に直し、随所に和洋楽をはさんで演じた。
 大阪で最長期の出演は、千日前の楽天地(今の歌舞伎座)で、何とか座と題して武田正憲、金平軍之助、小笠原茂夫の三君が組織した喜劇グループの幕間余興、今の木下華声君も小猫八で出演していた。今日でいうならアトラクションで、十日ずつ演題を改めてちょうど二カ月出演したが、なにしろこの小屋、日本一台詞のとおりが悪く、どんな怒号する剣戟けんげき役者でも必ず一度は調子をやる(声を潰す)という折り紙つきのところの上に、文字どおりの幕間余興で、遠慮なく大道具の金槌の音が噺の最中に響いてくる。尋常一様ではとても演っていられたものではなく、それでもはじめの二日ばかりはまっとうに噺を喋っていたものだが、やめよがしに無遠慮な大あくびをされたり、もういっそう手ひどいのになると私が喋っている舞台のところへ大きく顔を突き出してきて楽屋のほうを覗き込み、「早よう芝居を演ってくれはりまへんか」などとこられてはとても落ち着いて一席喋っていられません。で、日一日と工夫をして私はなるべく多く囃子をつかい、照明をつかい、バンドの洋楽をつかい、「ラジオの幽霊」の一節では自分でほんとうにマッチを点けて人魂の燃えるところまで実演してごらんにいれたのだから、今の貞山の怪談噺のことなんか言えない。しかし考えてみれば本来が喜劇を見に来ているのが全半のお客のところへたったひとりで駆け出しの私が一席喋ろうというのだからその方が無理。とはいえ、サラリーをもらって出演している以上、毎日けじめを喰って引き下がるばかりでは、興行師に対してただすまない。
 当時は今日も隆盛な坂妻についで、市川百々之助とのちの伏見直江(当時霧島直子)のコンビの勤王剣戟映画の全盛期で、「東山三十六峰春の夜の眠りの中に……」云々と弁士が叫んでさえいれば大喝采の時代だったから、そこで苦しまぎれに私はどんな一席の終わりへもこの映画説明を演り、その時満場の照明を真紅にオーケストラボックスから「勧進帳」の合方を景気好く奏でてもらってフィナーレとした。こうさえすれば、どうやら受けて毎回お茶が濁せたこと、まるで昔、北海道の旅芝居ではいかなる劇中へも必らず義経が登場しては、お客さまを満足させたというあの珍談を宛らである。
 しかも、北海道の義経の方は、芝居の筋にはかけかまいなく、ただ何となく来さえすればそれでいいのであるが、こちらは必ず何らかの形で理屈をつけて自演の落語と剣戟とを結んでいかねばならないのだから、ずいぶん無駄な苦労をした。もちろん、右のような雰囲気のお客だったから、会話の噺(つまり本来の落語様式)は全然駄目で、地噺(地の言葉が主でいく、たとえば「源平」や「お七」の様式)しか演れない。地噺へ和洋の鳴り物をふんだんにつかってなおかつ照明まで用いたものは、落語界はじまって以来私のほかにはたんとあるまい。
 おかげで私は話術の世界へ飛び込んですぐ、噺の嫌いなお客に噺を頼んでつまり懇願して聞いてもらうという情ない卑屈な手法をまず覚えるべく余儀なくされてしまったが、これははしなくも今日、映画ファン七分というようなところで寄席文化講座をやった場合、はじめ十二分以上に映画を讃美しておいてガラリ居所変わりで寄席の世界のよさへ彼らを連れ込んでくるという方法を採ることにいかばかりか役立っていることよ。しかも今度の場合は昔日のように下からでて御機嫌をうかがわず、高所からでて説き来り、説き去れるに至っては演者たる私、快無上である。同時に剣戟映画の弁士の真似(それはあくどい上方流)をして塩辛声に咽喉のどを潰してしまったおかげで、今日、容易にあの先代春團治の一種しわがれたような声をそっくりにだしてみせてその呼吸の具合を、彼の高座を知らない後学の人たちに聴かせてあげることができる。人間万事塞翁が馬とは、けだしこのへんのことだろう。その頃私の吹き込んだレコードはニットウのほかにはオリエント、ヒコーキ、ツル、内外そして日本盤を売り出し当初のビクター。オリエントとヒコーキは今日のコロムビア系で、リガールレコードの関西版というところである。小春團治君と私の掛け合いに、めっかちの圓若(最近まで老後健在で、復興の夷橋えびすばし松竹へも返り咲いたと聞く)老人の音曲を加えて吹き込んだこともあったが、それらの中でやはり特記しておいていいのは今日の漫才をもっともインテレクチュアなものにした「ハムレット」のオフィリア狂乱の場なる掛け合いなんせんすを妖艶な支那服の似合ったよくユーモアを解する女流文筆家とレコードへ吹き込んだことだろう。
 例の「サンデー毎日」や「週刊朝日」の裏表紙の広告へは私が大柄の揃いの浴衣で羽織と着物をこしらえたのを一着に及び、彼女、ふちなし眼鏡には支那服で三味線を弾いている写真が掲げられたのだから、浪華雀の噂はひとときはかまびすしく毀誉囂々きよごうごうとなったけれども、じつは彼女とは深間に入らないで死の前後まで何となく交わっていただけだった。いや当然深くなるべきのが、妙な外れ方をしてしまい、そのまんま一生をおわってしまったのだった。男女の間にはどうかするとこうした場合があるものである。ところで今これを書きながらふと思い出したのだが、私が彼女と吹き込んだ時代はたいていどこのレコード会社もいまだいわゆる喇叭ラッパ吹き込みだった(ビクターへ吹き込む頃になってやっと各社とも今日の電気吹き込となった)。マイクの吹き込みは楽だが、喇叭の方は吹き込んでいる後ろから時々文芸部の人に子供が写真を撮される時のよう頭を喇叭の中へ押し込まれたりまた引き離されたりして決して愉快なものじゃない。先代正蔵君、金五楼君は私と相前後して吹き込んでいたからもしこの一文を読んでくれたら当時の吹き込み室の有様をなつかしく想起してくれるだろうが、思えば私は喇叭吹き込みの最終期から電気吹き込みの黎明れいめい期にかけて関西のレコード界へ登場活躍していたのである。この掛け合い吹き込みの宣伝写真で私のパートナーは支那服姿で三味線をろうしてと書いたが、じつは彼女、三味線はペンともツンとも鳴らせなくて、ほんとうの吹き込みの時は下座の老女が弾いてくれ、私はその絃で新内や大津絵を歌った。こうした私のありのすさびの悲しき戯れも、しょせんは例の宝塚の歌姫への対抗を意識してのこと、もちろんだった。が、それはそれとし今日に至って私たちの構成したこの軽演芸そのものについて考えてみると、当時は浅草オペラ亡びて数年、代わるにカジノフォーリーもプペダンサントとてもなかった。エノケンと緑波の台頭、ムーランルージュの出現も、まだまだ数年ののちだった。私の彼女と試みたことは明らかに時代より十年くらい早過ぎていたといえる。この支那服の人が、のち三上於菟吉おときちと艶名をうたわれ、汎太平洋婦人会議へ出席、女流飛行家となって死んだ北村兼子君である。今日まで健在だったら、当然女流代議士として松谷天光光とか山ロシヅヱとかいう人々の間に伍して泉山三六閣下を手玉に取っていたことだろう。
 この吹き込みの時、前述のごとく私は対の浴衣の羽織と着物とを着ていたのであるが、他に高座着は冬はオレンジ色、夏は水浅黄の羽織を別染めにして軽気珠の五つ紋をつけていた。西下以前、岩佐東一郎、藤田初巳君らと季刊雑誌「開花草子」を発行していた時、その扉絵に水島爾保布画伯が軽気珠飛揚げの図を恵んでくだすった。私の羽織の紋はこれを下図に縫わせたのであって、私の芸術全体を明治開花の軽気球は最もよく象徴していてくれていると考えたからである。黒と鼠と牡丹色の大きな水玉のあるリボンを巻きつけた麦藁帽子を見つけて、得意で冠って歩いていたのもその頃なら、襦子しゅすの色足袋、三角の下駄といった風に変わったものの目につくたんび、きっと求めては身につけたのもその頃だった。こう書いたら関西方面の読者の多くは恐らく先代春團治のあの派手で怪奇な高座着(今の春團治君がそっくり踏襲している由だが)を連想させるだろうし、その先代春團治はまた盲の文三の高座着のデザインから案出したものであると聞くが、たしかに私が春團治の多彩なあの服装が決して嫌いではなかったし、従ってそのモダン化という狙いもあったが、もうひとつ北原白秋が「思ひ出」「雪と花火」「桐の花」のカラリストとしての苦境を、現実においてやってみようというはらもまた少からずあったのだ。女のみが派手な服装をして、男が地味にすることを廃し、よろしく平安朝や元禄時代のように男も華美になったらどうだと、ちょうどその頃そうした見解を発表したのは、稲垣足穂君だったろうか、矢野目源一君だったろうか。この所説にも私は大いに共感し、相変わらず「人生のこと日に日に非ず」なる嘆きのピエロである自分を、せめても服装だけでも多彩に飾りたかったのではある。
 かくして、私はその頃関西には漫談も新落語(小春團治君の救世軍の落語がアッピールしたのはこの「ハムレット」吹き込みの翌々年あたりである)もなかった頃のこととて、技、いまだしであってもたしかに一方のいい格になれていたのであるが、肝腎の精神生活が全然駄目だった上に、二十三や四や五では「金」の使い方が、全然なっていなかったので、ほんとうの成功は見られなかった。私は生来、決して欲張りではなく、子供の時分から気に入った人にはずいぶん愛蔵の本やレコードも惜し気なくくれてやるという風な気性であると多少は他からもほめられてきていた方だったが、なおさら、お坊ちゃんの崩れだけに生きたお金はつかえなかったのだ。急所のお金、捨石のお金がちっともまけず、マネージャーをやとってそれにいくらかでも持っていかれるなどということはまた、なまじ肚からの芸人ではなくて近代の学問もしているだけにどうも馬鹿を見るようで、要するにつまりひと口に「金」の性能がまったくにわからなかったのである。だから私はいい生活のでき得たのが、自分からことさらにその機会を追い払っていたのだということが今日になってじつによくわかる。
 現にこの前後、私は年に幾度か上京して、先々代正蔵、金語楼、金馬、現下の正蔵の諸君に二人会を演らせてもらったことがある。と今だからこう殊勝らしく書くが、当時は堂々上記の人々と二人会を演ったと本人は思っていた。もっとも一般の寄席はもう大不況で、下手でも何でも漫談家とか我々とかがメンバーで特殊会をやるほうが多少客足のよかったことは事実であるが――。それにしても金語楼君には報知講堂で、金馬君、正蔵君とはそれぞれ神田の立花亭で、別に先々代正蔵君のは銀座の東朝座での独演会を一席助演した。マ、それはいいとして、今日考えても冷汗三斗に堪えないのは二人会の場合、金語楼君なり金馬君なり正蔵君なりがその晩の上がり(収入)を折半して多分私には大阪からわざわざきたからとてやや余計分よこしてくれただろう、それを平気でノメノメもらってきてしまったということである。なぜその時、自分の方でそれへなにがしか足して、楽屋の人たちにお酒の一杯を飲ましてあげなかったか。その上、徳川君には二度無料で助演してもらった。さすがに二度めに立花へ出てもらった時には、あまりもののわからない奴だと思ったのだろう、高座から徳川君、正岡の会だと私が出る、どうも何か義理があるようだが、あいつには多少の貸しがある、してみるとこりゃたしかに義理があるのでしてと諧謔かいぎゃくたっぷりにトドメをさされた。まさしく私は当時同君にその上借金までしていたのだから、まことにまことにおおせごもっとも。いやはやどうもお坊ちゃん崩れの二十四、五歳などというものはじつにじつに仕方がないものでござる。今日私が弱冠の落語家桃源亭花輔君などにとにかく金の心得までいろいろやかましく言うのは、じつは、わが若き日にこんな失敗があるからである(花輔君よ、うるさい先輩だと思うなかれ!)。さて楽天地の二カ月以後、今度は私は東京の浅草の金竜館へと出演した。
[#改ページ]

    第四話 続々落語家時代

 金竜館もやはり今日のアトラクションで、九郎とか五蝶とか扇蝶とか、子供の時分五九郎一座の舞台で顔馴染みの人たちばかりが喜劇春秋座で常打ちに出演しており、他に木下八百子に三河家荒二郎合同の歌舞伎劇がひと幕あった。昭和三年の七月末から八月へかけて一ヵ月間、昼夜二回(日曜は三回だったろうか)ここでも私は楽天地で演ったような演題のものをいろいろと演ったのだったが、これは楽天地よりもむしろやりにくかった。というのは文芸部がとんだ大べら棒で、「モダン漫才」という看板を上げ、そうプログラムにもまた印刷してしまったからだった。かりにも蕎麦だと看板を上げてある以上、どんなに美味しい与兵衛や安宅あたかの寿司を提供したとてお客は元来蕎麦を食べにきたのだから満足はしない、いわんやそれが私という未熟な駄寿司たるにおいておや。楽天地の当初のように大欠伸なぞ喰わなかったが、毎日、じつに中途半端ないやないやな思いで舞台を勤めた。三つから十四まで育った生れ故郷の浅草へ久し振りに帰って来て、こんなやりきれない思いの高座を勤めようとは――。つくづく「モダン漫才」の看板が怨めしかった。
 ところで繰り返して言うが、その頃の東京の落語界はほんとうに大不況で、江川の大盛館には今の柳橋君が二人羽織の余興などで悲壮に立て籠っていた。また私が楽天地にいる頃は、弁天座の万歳大会(漫才と書いた第二次の流行期ではない。これは砂川捨丸の黄金時代で、かのエンタツなどは菅原家千代丸という老練につかわれてお尻ばかり振る惨めな高座をいまだ勤めていた)へは、今の三木助君が一度は戦災死したかの二代目岩てこの、一度は今の巴家ともえや寅子の、つまり太神楽の太夫となってやってきた。太夫といっても、もちろん曲はつかえないから同君もっぱら踊るばかりなのであるが、妙な太神楽の構成があったもので、かりにも寅子なり岩てこなりというそうそうたる人たちが、曲のできない三木助君をなぜ頼んだのだろう。何かそれだけの特別の理由があったのだろうか。師匠の柳橋君は二人羽織で、弟子の三木助君(その頃柳昇)は太神楽の一座へ入ってお茶を濁していたのであるから、思えばその時代の落語家生活のいかに苦しかったかがわかるだろう。同君は、この少し以前三代目三木助門下となって、また三木助氏が天王寺公園横の家にいた頃、三木男を名乗って内弟子だったことがあったが、この時の内弟子らしからぬ大ずぼら振りは、今考えても痛快だった。ある夏の午前十時頃、たびたび前にも引き合いにだした吉岡鳥平君と私が三木助氏宅をおとずれると、律義な三木さん(私たちは陰ではこう呼んでいた)はすでに朝飯をすませたらしく片づけ物をしているのに三木男先生の姿が見えないで、
「師匠、小林(三木助君の本姓)は」私が訊ねると、「坊ッちゃん……」とわざと目を細めながらこう呼んで笑って、二階の方を小首でしゃくりながら三木さんは、「まだ寝ンねですわ」と穏やかに眉をしかめた。この真夏のカンカン天気に、嘘にも内弟子が師匠より遅くそれも十時までも寝ているという法はない。その上、訊いて見ると夜も師匠よりは早く寝てしまうのだと言う。いよいよ私は恐縮し、たとえ昼寝をしてなりとも朝は師匠より早く、夜は師匠より遅く寝るべきであると、元来私の十五歳からの友だちだからさっそく三木男君を呼びつけて厳談に及ぶと、しばらく黙ってジーッと聞いていた同君、やがてのことにムックリあの白い兎に似た顔を持ち上げると、とたんに言ったね。
「いえ私ア昼寝もしているんで」
 ……じゃ、のべつたらに寝てるんだ。いまだいまだこのあとで、続けてその時述懐した彼の言い分がまたじつにおもしろいからついでに紹介してみよう。
 曰く「それに私が師匠のところへ来たてには前の公園で共進会があってね、毎朝九時てぇときっとドカーンと大きな音をして花火が揚がったもんでびっくりして目がさめたんだけれど、あいにく共進会が先月でおしまいになっちまった。で、以来寝坊をするようになったんだが、だから今だって花火さえ揚げてくれりゃ[#「くれりゃ」は底本では「くれりや」]……」云々。
 冗談だろう、いくら大阪市に冗な費用があったって、彼のために毎朝花火は揚げられない。
 閑話休題――私は、この東奔西駛せいしの二年間ほどのうちに、前に言った圓馬夫人斡旋の家庭がいよいよいけなくって服毒自殺を企てた。そののちさらにさらに家庭が駄目で、その頃来阪した師、吉井勇の座敷で、堀江のある若い妓に知り合うと、この妓を連れ下座(専属の伴奏助演者)にしてせめては自分の噺を完成しようと、世帯を畳んで大正橋のほとりの下宿へ移り住み、時々妓と逢っていた。が、この妓を落籍するには、二千円余のお金がいった。当時の私は一カ月の生活が乱酒さえしなければ楽にいけるという程度だった上に、前にもいう金づかいの下手な男だったからしょせんその才覚はできなかった。その上、そんなこんなで師父圓馬の一家ともスムーズにはいかなくなり、内憂外患だんだん私は心の苦悩を忘れるため四六時中酒を煽り、とうとう酒気が絶れると舌がもつれ、手が痺れ、しごとができなくなり、ひどいアルコール中毒患者となってしまっていたのだから余計どうにも仕様がない。今日だから何もかもぶちまけてしまうが、あの頃私はなけなしのお金でお酒を飲み続け、大酔して夜、寝る時が一番辛かった。なぜならまた明日も現金払いで医者へ注射を打ちに行くがごとく、起きる早々みすみすお金をつかって一杯飲みに行かなければならなかったからである。とにかくいくらどんなに酔っていても、あくる朝になるとことごとく酒気はなくなっており、再び舌がもつれ、あらぬ強迫観念が起こりだす。つまりアルコール中毒者の場合は、宿酔ふつかよいの現象がいっさいなくなるらしい。さあそうなると舌のもつれを一時的に癒すため、すぐさま一杯引っ掛けなければならない。ところが私の流浪していた昭和初頭の頃、上方には東京のような酒屋の店頭で、一杯十銭の兜酒をきめ込むあの設備はできていなかった。始めからないのか。この頃からなくなったのか、いまだに私は知らないが、これは私のようなしごとのできなくなりつつあった懐中の乏しい中毒者にはじつにじつに不自由だった。十時頃安食堂のやっと開くのを見つけては飛び込み、不必要な肴(この肴代で二杯飲みたかったのだ)を取って、やっとどうやらお酒にありつく。従って、兜酒の三倍くらいのお金が一回にいる。しかも朝酒だけですむのならいいが、体内から酒がきれると絶えず補給していなければならないのだから、なかなか毎日となるとこれが並大抵のことじゃない(その代わり食事の方は一日一回、それも夜更けにはじめて空腹となって来る頃を見計らって、握り鮨の三つか四つ摘んでおくと事足りた)。「これ小判たったひと晩いてくれろ」という古川柳があるが、ほんとうに当時の私は、腹中のお酒よせめて明日のお昼頃までとどまっていておくれ、そうしたら私は明日の朝の一回のアルコール分だけ助かるのだからと衷心から祈りたい思いでいっぱいだった。なにしろそんな精神と肉体の状態だからムシャクシャしてしごとができないとすぐ収入が絶え、前借の利かなくなる時だって始終あり、しかもその時も舌のもつれ手の痺れの方は日々規律面にやって来るのだからまったくどうにもやりきれなかった。私は友だちの顔の利く新本屋から本を買っては友だちの帳面につけさせ、こちらはすぐそれを古本屋で金に代え、やっと一杯にありつくなんてこともあれば、温厚な人格者たる某大阪文化研究者の書庫から愛蔵の稀書を借り出して売り払っては酒に代えてしまったこともあった。もっとも前者の方は計画的だったが、後者の方は決して決してそうではなかったことを神かけてここに誓っておく。「花色木綿」ではないが、それこそほんの出来心だったのだが、結果においてはその罪悪は同一で、だから世のポン中毒者の犯罪をとがめる権利は未来永却私にはない。二十余年後の今日もほんとうにいけないことをしたものだと心から申し訳なく思っている。この物語の冒頭において私の青春は暗黒だったと書いたけれど、事実このようにわが青春は、二十代は、惨憺暗黒なるものだったのだ。この頃芸術と人生の上に深い大きな懊悩があるとかえって何日か私は酒を断つのは(これを書いている今日もまた幾日かずつの第三次禁酒を断行している)青春惨酔の日の己れを思って、せめて今日、「酒」という己れの心の卑怯な、逃げ道を断って、まっとうに文覚那智山の荒行のごとく自分自身を責め、さいなみ、鍛えたいとは思うからである。もちろん、こんな精神的悲運の連続だったから私に二千円の身代金のオイソレとできようわけもなく私はひたすら日夜を焦燥悶々し続けてばかりいた。
 以上のうち私の自殺未遂の時がちょうど北村兼子君との「ハムレット」吹き込み前後で、妓との馴れそめが楽天地時代、世帯を畳み、また圓馬一家との確執が金竜館出演時代、アルコール中毒に悩んだのがこれから書く生涯にたったいっぺん南地花月、北の新地花月この二つの吉本系の檜舞台の寄席へ出演した時代前後数年のことである。
 さて私の吉本出演は、昭和四年の二月頃だったのではなかろうか。どうもこのあたりからこの物語の終末に至るまでの月日がおよそハッキリわからなくってしまっていることを今これを書きながらもしきりに感じるのであるが、けだし忌なこと続きだった私の半生の中でもとりわけ忌だった精神生活の部分であるから、多分心の中で早く忘れたい忘れたいと思っているためいっそう年月の記憶がアヤフヤになってはいるのだろう。で、かりに早春としておくが、吉本系の寄席へ金語楼君、大辻司郎君が十日間出演していたのが、そのうちのひと晩だけ大辻君が前から受け合っていた警視庁の余興に帰らなければならなかった。で、急にその南と北のそれぞれの花月へ代演をしろという白羽の矢が、突如この私に立ったのである。金語楼君はその時南も北も私よりは遅い出番で、どちらの寄席も私の直前にはのちの五代目[#「五代目」は底本では「五台目」]松鶴君(その頃枝鶴)が登場し、まくらで如才なく口上を言ってくれた。そのあとへ上がって私は「南極のラジオ」を二十分演じた。南の方が和洋合奏で、お客も派手なので演りよかった。北は伴奏が和楽ばかりの上にひねったお客いわゆる笑わざるをもって大通とするお客が多かったから、南よりやや演りにくかったが、それとても楽天地や金竜館のお客に比べれば天地雲泥の相違だった。嘘もかくしもなくその晩私は、ここで、というのとはこうしたお客の前で、ひと月ふた月勉強させてもらえたならば、どんなに自分の腕が上がるだろうとしみじみ考えさせられたことだった。なにしろ伴奏が本格で、お客がまた本筋だったから、それに助けられてまずまず私の噺も実力以上によく演れたのだ。とこう書いたらたまたま当夜北の花月の桟敷に来合わせておられた故渡辺均君は、なんだちっとも巧くもなんともありはしないや、あの晩の君の噺は、と冥途からこう言われるかもしれないが、均君よ、私の平常落語以外の小屋で演っているときよりは、という意味なのであるから、なにぶん諒解してちょうだい。呵々。それにしてもたった一夜代演のこの私を、吉本では大きな立看板にじつにいろいろと口上文を書き、華々しく飾ってくれた。大局から見ては落語界に絶対プラスしなかった吉本ではあるが、この点の商売熱心だけは、再びここで特筆称揚しておきたいのである。
 私の大辻君代演の一夜はたまたま吉本への手見せとなり、吉本でもどうにかつぶしの利く高座だと思ってくれたのか、来月、京都の新京極の富貴で金語楼、小春團治、九里丸とあんたで新人会を演るさかい出演しなはらんかと言われた。こちらはお客のよさに相恰を崩している折であるから、よろしい、でましょうと給金も決めずに受け合って、うちうち、来月を楽しみにしながら、ある晩、南の花月の楽屋へ行って遊んでいると、たまたまそこへ微醺びくんを帯びて入ってきた吉本の支配人でTという中年の男が、京都へ出てもらう代わりには圓馬師匠へ無条件に詫びてくれんと……という条件を持ち出してきた。三木助も春團治も借金があったが、前述したよう圓馬のみは借金を返したあとで、押しも押されもしない名実ともに大看板。吉本も圓馬の無理は一も二も三も聞いていなければならなかった時代だった。同時にあの前後数年間が、師父としても最後の全盛時代であり、吉本としてもまた故人へ空前絶後の儀礼を尽くしていた時代だったと言えよう。だからTもまたこうしたことを私に対して言いだしてはきたわけなのだった。が、私のことにすると日夜師父の芸が恋しくて恋しくてならず、師父にもまたじつに逢いたくて逢いたくてならずこれほど敬慕しているのが少しもわかっちゃくれず、そもそも芸のわからないのが根本の原因で世帯をしまうようになった我々を、その女の方へばかり芸人のくせに味方をして、一にも二も正岡が悪い悪いと簡単に私を抑えつけてしまおうとする圓馬一家の態度がどうにも不平で承服できなかったのだ。で、詫びるのは断じていやですと言下に断ったら、酔っているせいもあってだろうTは、私に対して、そんなことを言わずあっさり詫びてうちの寄席へ出る方がいい、その方が君の地位がぐっと上がる、第一そうすりゃこんな襟垢えりあかのついたものを着ていないでも――と私の紺絣対服(例の軽気球の高座着は世帯を畳むとき置いてきてしまったからもうなかった)の襟のあたりをスーッと手でしごくようにした。私は今もありありその時のTの手の重味というか、触感というか、それを激しい屈辱感とともに肩先へ蘇らすことができる。なるほど、その時の私はさびしい紙衣かみこ姿であったろうが、それは家庭のこと、妓のこと、精神的不如意のためのアルコール中毒ゆえで、心境さえよくなったら、明日からでも精一杯に働く自信は全身に満ち満ちていたのだ。ましてその時、妓は一時遠国へ働きに行っており、襟垢のつくまで私が一つ紺絣を着ていたというのもじつは当座のその妓の生き形見であるためだったのだから、いっそう烈しい烈しい侮辱を感じ、憤然とせずにはいられなかった。もちろんその晩Tには諾否を与えず、黙々としてそのまま私は花月の楽屋をあとにすると、翌日、私は天王寺に桂三木助氏を訪れて、一切を話し、身の振り方を相談した。かねて私の家庭の不幸を密かに憐れんで橋本(圓馬の姓)にも似合わないと言っていてくれた三木さんは、言下に明答を与えくれた。曰く、あなたがあんたの師匠の吉井勇先生だけの看板やったら吉本は橋本に謝罪しろなどと言わんと黙って出演させまっしゃろ、それを謝罪してくれ言うのは、まだまだあんたが売り出しておらんのや。サここから速達で吉本へ断り状出して、あんたは故郷の東京へんでえらい人になんなはれ。なるほどなるほどなるほどと思ったので、その場で三木さんの言うとおりにして出演断りの速達をTへ宛てて出すと、旬日ののち何年振りかでひとまず私は東京へ帰った。三木さんのこのひとことなくんば私は永久に帰京のふん切りがつかないじまいでいただろう。今に私が先代桂三木助氏を、わが人生行路の恩人のひとりとするゆえんである。

 この前後、師父圓馬と難波駅近くで口論格闘して号泣したこと、みぞれの一夜中の島公会堂で大辻司郎君と乱闘したことはじめ、帰京後何年かの落語家生活までをつぶさに書いてそれで前後四回に纒め上げるつもりでいたところ、どうしてどうしていざ書いてみたら私の腹案の半分も来ないうち、予定の四回が終わってしまった。でもこれ以上あまりながながと続けることも御迷惑であろうと思う。
 ※(歌記号、1-3-28)あまりながいは皆さんお飽き、ちょいとここらで変わりまアす――華やかなりし昔日の音曲師は、三好も万橘もかしくも鯉かんも勝次郎も歌六も、その高座の最後において楽屋の大太鼓、小太鼓賑やかに、よくこんな甚句を諷っては、瓢々と下りていった。いでや私もそのひそみならって、以後はまた他日を期することとしよう。
[#改ページ]

   続わが寄席青春録



    第一話 正蔵君 金馬君 米若君

 私が正式に東京に帰ってきたのは昭和四年の春だった。つまり四年めに故郷の土を踏んだわけであるが、宝塚スターの恋愛時代だった大正大震災前後も一年の半分は下阪していたのだったから、今度の帰京はずいぶん久しいもののように思えた。
 もっともその前年の秋あたり、先代三木助に言われる前から、うすうす帰京のことは考えており、当時は博文館から「文芸倶楽部」「講談雑誌」の二誌が発行されていて、前者は横溝正史君が活発に編集しており、後者も師、吉井勇をはじめ長田秀雄、長谷川伸、畑耕一、サトウハチロー諸家が力作を寄せていた時代で、ともに私の明治開化小説を例月載せてくれていたから、いっそう帰ってくる気にもなれたのだった。しかし、当時の私の開化小説などは我流の書きなぐりで、かかるがゆえに、大半以上を後年破棄し、近年朱を加えて単行本へ収めたのは、わずかに「キネオラマ恋の夕焼」一作しかない。その少しのちに「講談雑誌」へは、サトウ君の「浅草」と二枚看板で、青春自伝「道頓堀」をも連載したが、これもまた不本意の作品なのでのちに火中に投じてしまった。なによりアルコール中毒のひどい時で、朝来、冷酒を煽っては執筆、いい加減どろんけんで書くのだから、いっぺんなんか挿絵を担当してくれた山口艸平画伯をひどく面喰らわせた珍談があった。それはかつて浪花政江一座という中流の安来節のコーラスガールで、川口の中華料理の女給になっている女との情事をテーマとした小説だったのであるが、一夜、その飯店の中国人たちと私は懐中していた下駄を振り廻して渡り合いかけた事件があった。そこだけはあくまで私の体験した実話だったので、酔余かいているうちにだんだん実感が迫ってき、はじめは主人公をスマートな洋服姿で登場させていたのに、乱闘の章へきたら、俄然この洋服のはずの主人公が懐中へ忍ばせておいた下駄を取り出して啖呵を切った、云々と書いてしまったのだった。こうしたらたちまち山口画伯から手紙がきて、「洋服か和服かどちらかにしてくれ」仰せいちいちごもっともの次第で、我ながらこういう下らないところ、あくまで私は文士くずれの落語家だった。さてそういう風に売文の瀬踏みにちょいちょい上京していた前年の秋、私は今の八代目林家正蔵君の雑司ヶ谷の家へ長いこと草履を脱いでいた。圓楽から蝶花楼馬楽になって何年にもならない時分で、けだし同君の貧乏生活の絶頂だったろう。いい奥さんになり、いま可愛い娘さんのできている同君のお嬢ちゃんが、いまだその今の娘さんぐらいのじぶんで、「艶色落語講談鑑賞」の「牡丹燈籠」の中でも書いたが、貧しい中から遠来の泊まり客たる私に朝に晩にきっと正蔵君はお膳へ一本付けてくれた。永らく阪地にあった私には、久し振りに故郷へ帰ってその時同君の宅で食べた秋刀魚やいわしがどれほどなつかしく美味しかったろう。ある日は豚のコマぎれをちりにして正蔵君は、
「つまりは貧乏人の御馳走さ」
 とすすめてくれたが、戦後の今日は牛肉よりも豚肉が高級品。ぶりの切り身より塩鮭のほうが高価ときては、この点の頭の切り換えだけが、いまだにどうしても私にはつかない。なにしろ名人一立斎文慶は「四谷怪談」で伊右衛門が博奕に負けて帰ってき、お岩に食事を求めると、塩鮭を焼いて出す。それがいかにも貧家の景情をよく出しているといって激賞されたという芸談や、「鰻の蒲焼で喰べる御飯も塩鮭のお茶漬を掻き込むのも、美味いという感じに相違は無く、ただし、翌朝の糞に軽重は有之可と存候」と緑雨張りの小品を書いた盲の小せんのウィットに積年教育されてきたこの私だから――。
 これも「牡丹燈籠」で言及したが、この頃、神田の立花亭で連夜大切に芝居噺を演じていた正蔵君は、千秋楽には霜深い夜道具を荷車に積んで、印絆纏を着て自ら雑司ヶ谷まで曳いて帰ってきた。
「ああこの人は今に売れる。この熱心だけでも売れ出す」
 感嘆して私は心にそう思ったが「芸」の神様はなかなか一朝一夕には白い歯を見せてくれないもの。同君の話技がようやく円熟の域に入ったのは、戦後、八世正蔵襲名以後で、前述の「牡丹燈籠」(お峰殺し)や「春風亭年枝怪談」や「ちきり伊勢屋」の秀作はまさしく瞠目に価するとよろこんでいる。昨夏も私のせがれ分たる永井啓夫に正蔵君は、
「あなたのお師匠さんとは二十三年のお交いですよ」
 と言ったそうだが、事実、お互いに汲む時も同君は、この雑司ヶ谷時代を語っては深い感慨に耽るのである。
 こうして翌年四月、上京したとたんに快弁の先々代林家正蔵が胃病で歿り、旧知の急逝に私は銀座裏で安酒を煽って涙し、目が醒めたら牡丹桜の散る吉原のチャチな妓楼で眠っていた。間もなく日暮里の花見寺での葬儀では、落語家の座席の哄笑爆笑、さすがに今はもうあんなバカバカしいおとむらいは見られない。この時には四谷石切横丁にいた三遊亭金馬君の家へ私は泊まり、夏近くまで厄介になった。金馬君はようやく売り出しという時代で、先夫人が長唄の師匠をしていられたが、売り出しだけに別の意味ではなかなか生活はたいへんだったろうと、今になってよくわかる。なにより勝負事に自信のあった同君自らが、仲間の通夜があるたんびに、きっとはじまる勝負事で必ず大勝しては寄席での収入を補い、
「お通夜(お艶)殺してんだよこれを」
 と洒落のめしていたにおいてをや。この滞泊中に、私の専属だったニットーレコードが上京して、東京側芸能人の吹き込みを開始したので、先代春團治と金語楼君以外はてんで落語レコードの売れなかったその時代、私は一計を案じて同君の十八番「居酒屋」のA面冒頭へさのさ節を配し、B面で夜更けの感じに新内流しを奏でさせて吹き込んだ。同じく私の推称した先代木村重松の「慶安太平記」(善達京上り)とともにこれが大ヒットして、トントン拍子に金馬君は旭日昇天の人気者になった(重松の善達もこのニットーの節調が一番哀しく美しいのに、私は今パルロフォンのややできの劣った方をのみ蔵している)。
 ところで「青春録」と上げた看板の手前、ここらでまた少しく当時の情痕をも振り返らせてもらうならば、依然として恋愛面は暗闇地獄の連続で、上京前後、堀江の妓女との恋愛にももう終止符が打たれるばかりになっていた。養生方々、近来成功者となった近県の伯父の許へ行くとて去った彼女だったが、その行先は少しもわからず、堀江の自家宛の通信の中へさらに封筒の周りを小さく折り畳んで入れた私宛の手紙がくる。それを堀江の家から、同じく妓女上がりの義姉が、私の宿へ運んで来てくれるのだったが、何とも言えないその感じの寒さ情なさ。森田屋へ、三千歳を預けた直はんもかくやで、いくら大べら棒の私でもたいていそれがどんな種類の「伯父さん」だかくらいはもうわかっている。にもかかわらず、一方では妙に乗りかかった舟というか、よもや引かされてというか、入った原稿料を三分しては一を彼女の落籍料の内金に堀江の留守宅へ送り、一を別れた妻子に送り、残りを自分の生活費(アルコール代を含む)に充てていた。吉本出演に際して襟垢云々と言われたのも、かくては無理がなかったかもしれない。彼女は四月の上京寸前に帰阪したが(というが、市中に囲われていたのかもしれない。堀江の茶屋では、その旦那を片眼で焦脚の山本勘助のような醜い老爺であると罵っていた。いやはや!)、その時ふと洩らした告白によると、教養なく古風な教育のみを受けてきた妓だけに、正直に私が妻子への送金を告白したため、てっきり元木へ戻ると誤解し、素早く身を隠したのに一向に私が家庭へ戻らなかったため、何が何だかわからなくなっていたものらしい。しかし、その時の私は、もう妙にチグハグな心持ちで、ハリスのところから帰ってきたお吉を迎える鶴松にもさも似ていた。でも、元々が好きな女だったので、いまだ一、二回は上京後も送金していたろうか、近松秋江の「黒髪」や「津の国屋」を読むたんび、この作者の悲恋に似た境涯から早く足を洗えた自分自身を心から祝福しないではいられない。その代わり生涯かかっても、私の述作はついに秋江文学の靴の紐を結ぶにも至らないが――。
 堀江の女の韜晦とうかい中(昭和四年早春)、寂しさに私は東京生まれのインテリで五郎劇の女優を経て道頓堀の酒場に働いている、その頃の美人女優筑波雪子に似た人と知った。が、深い交渉を生じてから五郎劇の俳優が夫だとわかったため、心ならずも妙な関係はヅルヅル続いていた。この夫というのが戦後歿った曽我廼家勢蝶で、その勢蝶の夫君が今の桂文團治老。私の人生と落語の縁はいよいよ尽きない。人になって考えると、もし彼女が性格の合わないと言い言いしていた勢蝶とつとに別れていたなら、当然私はこの人と結婚したことだろう。だのに、彼らの腐れ縁はいつまでも終わらず、その上、帰京後の夏、点呼で二度目に下阪した時には、もう酒場に婉な姿はなかった。夫との間を清算しようとして失踪したのだそうで、しかしこれも成功せず、数年後、東京銀座の大阪系酒場で再会した時も、やはり勢蝶との同棲は余儀なく続けられており、あきらめて私が遠ざかって多年ののち、勢蝶が新橋演舞場の美人の案内嬢と結婚したとの報せを耳にした。としたらしばらくその頃になって不幸なこの夫婦は別れたのだろうが、事変のたしか前年頃で、以来、今日まで私は彼女の安否を知らない。不幸な時というものはまったくそんなもので、その上、点呼をかこつけて楽しみに行った大阪に肝腎の彼女がいなくなっていたので、くだらなく遊びに入った場末の酒場で子守女のようなつまらない女と知り合い、帰京して小田原へ、さらに東京へ、およそ不本意な生活をその下根な女と六年も続け、いよいよ私は傷つき、すさみ、果ては芸道の精進をさえ怠りだした。今度は勢蝶夫婦のよう、こちらが果てしない腐れ縁に悩まされだしたのである。
 その前後、「文芸落語」と銘打って(酒井雲が文芸浪曲とて、菊池寛や長谷川伸文学を上演していた最盛期だった!)名古屋の御園座と新守座とへ、それぞれ名人会で出演した。御園座の時は、死んだ先代の丸一小仙、柳橋で幇間になった先代三遊亭圓遊、今の桂文楽君と私とで、その前講に看板へ名もつらねず出演していたのだが、数年後めきめきと売り出したのが寿々木米若君で、この時は第一回渡米から帰り立ての青年浪曲師だった。劇場前の宿屋の二階で、初夏の朝、眼を醒ましたら、

┌────────────┐
│       香取幸枝 │
│正岡容さん江      │
│       春日恵美子│
└────────────┘
 ののぼりが、へんぽんと[#「へんぽんと」は底本では「へんぼんと」]薫風にひるがえっていてびっくりした。香取君は、文豪独歩の遺児国木田虎雄君の最初の夫人で、虎ちゃんが戯れに松竹蒲田のエキストラだった時、同僚として知り合って結婚、のちに別れて松竹関西系の舞台女優としてたまたま来名、一座の春日恵美子とで私にのぼりを祝ってくれたのだった。香取君は薄手細おもての美人で春日君は子供子供した愛嬌のある少女。ともに、のち松竹家庭劇へ参加し、事変の頃は香取君は松竹の社員と江州彦根で結婚生活に入ったと聞いたが、その後の消息をようとして知らない。「鮒鮓ふなずしや彦根の城に雲かかる」という私の好きな蕪村の句をむたび、彼女の美しい細おもてを、上海引き揚げ後これも行方のわからない虎ちゃんともども偲ぶのである。この時文楽君と同行していた支那服の麗人が、今の文楽夫人と十余年後わかった。
 翌年の夏の新守座出演は、水死した先代たちばなまどかが助演で、滋味ある「天災」や「三味線栗毛」の話風は、豊麗な六歌仙の踊りとともに、悠久に私の目を耳を離れまい。今端席にいる富士松ぎん蝶も出演した。この時に一座したのが今の私の妻で、初日に出演のことで大喧嘩してしまった顛末はかつて書いたから、繰り返さない。
 いい落ちとしたが、昭和四年春帰京、高円寺にいた西村酔香君のそばの下宿に旬日いたが、今日では見られない、入り口へ宿泊人の生国と名前を小さく木札へ書いて提示してある、宇野浩二氏の「恋愛合戦」に出てくるような下宿屋で、その田臭に、純東京育ちの私はとうてい耐えられなくて、金馬君のところへ逃げ込んだ。大阪ではいつも旅館の一室ばかりを借りていたから、私にも辛抱ができたのである。
[#改ページ]

    第二話 浪曲師たち

 春は虎杖いたどりの葉が薄紅色に河原へ萌え、夏は青々と無花果が垣に茂り、秋は風祭へ続く芒野、冬は色づく蜜柑畑と、相州小田原は早川べりに、ずいぶん風流めかした居を卜としても、無教養で醜い安女給との同棲は、しょせんが私のアルコール中毒を深めていくばかりだった。
 日夜、荒れてばかり、私はいた。
 こうした私の荒涼生活の中に、音曲師の小半次が、今の小せん(当時三太楼)が、今の圓太郎(当時百圓)が、いた。三人とも定命に達した今でもなかなかコワイ彼らが、当時はみな三十歳前後だったのだから、川柳点にいわゆる「片棒を担ぐゆうべのふぐ仲間」で、たいてい察してもらいたい。小原庄助さんではないが、朝寝朝酒朝湯はもちろんのこと、彼らのコーチよろしく、勝負事の嫌いな私が、壺皿を伏せて丁半の真似事までやったりした。
 なにしろ家庭がつまらなくて、原稿料を取るとすぐ狭斜街へ、大半以上を費い果たしては帰ってくる私だったのだから、お台所が持つわけがない。酒屋から米屋から肉屋から肴屋、およそ借金だらけにして、たしか昭和七年のはじめ頃か、東京へ夜逃げをしてしまった。北条秀司君の令弟が土地の電灯会社につとめていて、溜った電気代を私の家へ請求にきたが、ついにもらえなかったと、これものちに北条君から聞かされて私は、大恐縮した。
 この小田原の生活の中で、今考えてもおかしくてならなかったことがさらに三つある。ひとつは、私の上京中、師吉井勇が、旅行の帰りに立ち寄られた時のことである。師もあの頃は一年の大半を旅ばかりしていられた時代であるから、その時もどこかの旅のお帰りで、かなり旅塵にまみれていられたにちがいない。そうしたら、留守番をしていた小半次が応接に出て、私の帰庵後こう言ったものだ。
「ねえ先生、先生の留守におお先生が見えたけれどネ、私の考えじゃいくらか借りにきたんじゃねえかと思うんだ」
 って、あくまで自分の了見から割り出して考えたところが小半次らしくてとんだおかしい。
 ひと夏、湯河原の映画館へ、小半次、三太楼、百圓の三人会で私のスケ(あまりいいメンバーじゃない!)で二日間興行に行ったことがある。古風な馬車で太鼓を叩いて町廻り、私は車上からビラを撒きながら、長田幹彦先生の出世作「旅役者」で、作者が北海道を漂泊中、紙芝居の群れに入って町廻りをしたひとこまを哀しく嬉しく思い出していた。この時不動祠畔の茶店で麦酒を飲んだら、小せんが出てきたがまへ石を投げつけ、圓太郎が滝壺へ放尿した。とたんに今まで清冽だった滝の水は、たちまち赤ちゃけた色に変わってしまったので、さすがの面々が真っ青になって、
「ねえさん、この滝の水の色変わったのは……」
 とこわごわ茶店の娘に訊いたら、
「今日はこの上の川で土木工事をしてるんですよ」
 ……出演した映画館は、湯河原だけに泊めてくれた自宅の方に温泉が湧いており、なかなか愉しかったが、もちろんお客は不入り。従って二日目を打ち上げても一文ももらえるお金はないはずを、中年の好人物らしい主人は、忘れもしない五十銭銀貨で二十何円かを番頭役の百圓の圓太郎に支払ってくれた。実演興行にはまったく不馴れな主人は、我々の賃金の方から差し引くべき二日分の税金を、全額自分の収入で支払ってしまったから、こちらへそんなもらい分が増えたのである。その二十何円をおよそもっともらしい顔で財布の中へしまってしまうと圓太郎先生、
「御主人、我々落語家は正直だが、旅を行く万歳(当時はいまだ漫才とは書かなかった)や安来節にはひどい奴があるからお気をおつけなさい」
 とヌケヌケと言ったものではないか。どっちがひどい奴だかわかりゃしない。凱歌を上げて一同が近くのそば屋へ、冷めたい麦酒で祝杯を上げていたら、小半次だけは浮かない顔、
「百さん(圓太郎の前名)、その金だけは気の毒だから返したらどうだえ」
 他の顔を見るとすぐ「五十銭(戦後は暴騰して百円になった!)くれ」と手を突き出すくせに、一番彼が気の弱いところのあるのも、浪曲界の元老浪花亭峰吉を実父に、先代木村重友を養父に、しょせん名家の生まれだからか。
 報知講堂で文芸落語旗揚げ祭をやった時には、前述の関係から峰吉老をはじめ、先代三語楼、今の正蔵(馬楽時代)、権太楼、春日清鶴、今の玉川勝太郎(次郎時代)諸君が助演してくれた。これも小田原時代だった。
 小田原の清楽亭という寄席では、次郎時代の玉川勝太郎君と二人会も演った。いまだ牧野吉晴君が青年画家で、即興の浪曲自伝を唸り、夭折した詩人の宮島貞丈君は、顔面筋肉を伸縮させるだけの百面相を演り、大河内から栗島すみ子、酒井米子まで巧みに見せた。これはのちに私が推称して、「映画時代」編集長たりし古川緑波君を激賞せしめたが、これをそっくり覚えて今日も高座で活用しているのが、柳家三亀松君である。
 私が関東浪曲の甘美な感傷を溺愛するようになったのが、前に書いた大正十五年浅春、長崎に少女期の志賀暁子君を訪れて、滞留中の金子光晴、森三千代夫妻にその醍醐味を説かれて以来であることはたびたび書いたが、なに事も究め尽くさないではやまない私の性情は、やがて勝太郎、清鶴両君から、木村重浦、友忠、先代重行、松太郎、小金井太郎の諸家と交わるに至った。
 ことに上京後は師匠三語楼と義絶し、フリーランサーだった権太楼君と、故木村重行君の一座に加わって、場末の寄席を打って歩いた。浪曲の間で落語を演るのは辛かったが、かつての大阪楽天地や金竜館でのアトラクションを思えば、よほど気が楽だった。大岡山の寄席では、席亭である大兵肥満の一立斎文晁なる老講談師も一席、力士伝を助演した。今考えると、名人文慶の門派だったにちがいない。大森の弥生館、神田お成道の祇園、山吹町の八千代クラブ、その他、本所にも深川にも未知の寄席がじつに多くて浪曲をかけていた。あんなにたくさん席があったから、青年浪曲家は毎夜連続長篇の勉強ができ、腕も上がったわけである。それが今日では旅が多くて、一カ所を二日も打てば精一杯ゆえ、若手は二席も受ける読み物があれば事が足りるのは情ない。従って、語る(描写)はずの浪曲が、だんだん歌うだけの歌謡まがいに堕落していく。第一、指導者たるべき作者側に、自ら宇田王介(歌はうかい)の洒落の筆名の御人が存する以上、浪曲が「非芸」になっていっても仕方があるまい。
 しかし、何といっても昭和初頭から事変以前までの浪曲と落語との無縁さ加減には、今昔の感に堪えないものがある。落語家は浪曲を場違いとばかり一蹴し、浪曲師はまた博徒のような気質が日常座臥に殺伐にのこって孤立していた。滑稽軽妙な先代重松は門人に始終落語を聴けと言っていたそうだし、同じく飄逸な至芸だったと聞く先代浪華軒〆友は八代目林家正蔵君とも盟友だった由であるが、他は多く犬猿の仲でないまでも、犬と猫ぐらいの不仲ではたしかにあった。落語家と浪曲家が笑顔で話し合うようになったのはかの東宝名人会へともに出演して以来で、それが事変から戦争へ、ともに慰問に出かけることによって、いよいよ両者の垣根は取り除かれた次第である。
 柳家権太楼君と駒形の動坂亭へ立て籠ったのは、昭和七年の夏だったろうか。一座はいま中風になった二世三語楼や、戦後高齢で郷里高崎でみまかった蜃気楼龍玉老人や、今の正蔵君も時にスケにきた。近頃ラジオ研究の俳優グループに名をみいだした守登喜子君も、当時はいまだ若く妖婉で、「かんかん虫は歌う」(吉川英治原作映画主題歌)をレコードで踊ったりして、一味、新鮮な匂いを漂わせた。吉井師が牧野宮島両君と桟敷へ現れたり、久保田万太郎、村上浪六、岩田専太郎、野村無名庵諸家も、当時近隣におられたので、客席にそのお顔を見た。一夜、いつかかいた「マリアの奇蹟」という西洋芝居噺で、牧師が「罪を憎んで人を憎まず」と盗人をさとすのを、「人を憎んで罪を」と反対に言い、正直に「まちがいました」とさらに訂正したので客席がき、大失敗をしたことがある。以来私はこう悟った。たいへん人が悪いようだが、リズミカルに言えたまちがいならなまじなまなか訂正なんかしないで、堂々とまかりとおってしまうことである、と。現に邑井貞吉翁は、「頼政ぬえ退治」に音吐朗々あの調子で「時鳥がホーホケキョウと啼いた」と演ってのけたことがあったが、客はほとんど気がつかなかった。反対に「伊井直人」で「薙刀なぎなたの尻手」と言うべきを、槍同様に「石突き」と言ってしまった時、堂々と客席を睨め廻して、かえって客の方がまちがったかのような錯覚を与えた上、悠々そのあとを講じ続けたは、近年では田辺南龍老あるばかり。あの平常がおとなしい南龍老にしてこの大胆、この気魄と、少なからず私はおどろき、敬服したことである。
 私は、この時分権太楼君が独立していたので、旧師三語楼氏へ柳家を返上し、暁亭を樹立せよと極力勧めたことがある。すなわち、暁の鐘がゴンと鳴るという洒落である。しかるに、むしろ野暮な闘士に近い同君は、
「今に落語家も柳家Aだの、柳家Bだのができましょうよ」
 とあくまでこの点モダーンボーイだった。幸いにして敗戦後の今日も、落語界にはむかし家今松だの、山遊亭金太郎だの、鶯春亭梅橋だのと、風流めかした芸名のみが栄えているのもまことにめでたく、A介B介などという名はかえって漫才の方に輩出しだした。
 この動坂亭の興行はなかなかに有望だったが――と書いて今小憩し、ラジオへスイッチを入れたら、山野一郎君の「なつかしの活弁ジンタ」が音楽入りで「ラジオ東京」から放送され、私は目裏を熱くして聴いた。かくてわがこの回想録には、いっそうの拍車が掛けられることだろう。――では、どうして、その興行が中絶してしまったかといえば、当時の私が性格破産したアルコール中毒者なら、若き日の権ちゃんがあれでいて「天災」の紅羅坊名丸のいい草じゃないがすこぶる恚乱いらんのたちで、無闇に怒りぽかったから、到底永続きのするわけがなく、私はこれからしばらく高座を退いてしまった。
 この時代の権太楼夫人が、戦後、離婚して家庭裁判まで起こし世間を騒がせた女性で、弱り目に祟り目で相前後して権太楼君は記憶喪失症になって病床にあること多年だったが、昨秋からようやく再起、今度再婚もしたと聞く。往事を思えば、同君の回復もまた、速からんことをせつに祈りたい。
[#改ページ]

    第三話 談譚聚団

 これから昭和八年の春、再び夜逃げをするまで私は、滝野川西ヶ原の陋巷ろうこうにいた。
 すぐ裏が寄席で、夜毎、寄席噺子が洩れ聞こえてくると、寄席へのノスタルジアに全身全魂が烈しくゆすられ、この心事をそのまま、のちに私は小説「圓朝」へ写した。
 ここにいるうちに前年面識のあった大阪島の内柳屋画廊の女店員でAという娘と文通しだし、家庭生活に絶望していた私は、西下して忍び逢ったが、彼女の日記が寄宿先の伯母に発見され、たちまち郷里である山口県へ帰されてしまった。
 昭和十九年夏、戦争非協力文学のゆえをもって私が禁筆の厄に遭っていた時、結婚三周年記念私家豪華限定版の名に隠れて『寄席噺子』なる随筆集をせめても開版した時、彼女と同じ山口県の某寺から一部を申し込んできた女性があった。姓名も筆蹟も違っていたが、十年の歳月は婚後その通称を改めることもあろうし、筆蹟もまたずいぶん変わるものである。「いつまでもおん睦じくあれと祈ります」という意味の手紙が送本後に届いたので[#「届いたので」は底本では「屈いたので」]、チラと私の心にありし日のA女の、仄白い顔が思い出されたことだった。
 再び滝野川の陋宅をも失踪しなければならなくなったのは、その頃交りを結んだ小金井太郎一家が転げ込んで来て、毎晩酒乱で太郎が凶刃をふるうため、私は神経衰弱になってものが書けなくなってしまった上に、博文館関係の雑誌が不況で二、三急に潰れ、まったく収入がなくなってしまったからである。居候の太郎一家を残して、こちらがドロンをしてしまったのだった。
 この時にことごとく蔵書とレコードとを入質して流してしまったが、そのレコードの中に、盲小せんの「ハイカラ」、初代圓右の「五人廻し」、先代文團治の「四百ブラリ」のあったのは惜しんでも惜しみ足りない。
 小金井太郎は、今日の勝太郎君の兄弟子で、哀切果敢な江戸前の浪花節だったが、傷春乱酔、半生をまったく棒に振って夭折してしまったのである。彼については[#「彼については」は底本では「波については」]他日小説に書きたいのでここではあまり言及しないが、そののち一年、またまた居を移した杉並の私の家へ同居を強要し、酔余、槍の切尖を振り廻したのでついに杉並署へ連行され、昭和九年一月警察署の表で袂を分かったまま、翌夏、一度市川の映画館で武蔵、伯猿、それに故伯龍の珍しい顔触れで「屋代騒動」の後半を聴くこと間もなく酔中、急死してしまった。こう書くと何かよほど私が太郎に弱い尻でもありそうだが、こっちはあくまで彼の大ファンで、レコードへ世話をし、国民講堂で公演させ、揚げ句に転がり込まれて暴れられたのだからだらしがない。
 この杉並の家ではさらにさらにひどい貧乏生活をおくった。文芸講談の大谷内越山翁に師事して、その独演会の前講を演じさせてもらい、話道の開眼をさせていただいたのも、この前後である。もちろん、私は翁の前講を無料で勉強させていただいたので、代わりに翁はいつも帰りには一杯飲ませてくだすったが、初対面が盛夏大下宇陀児氏らと武州飯能の座談会で、そのとき無闇に麦酒ばかり煽ったので、よほどの麦酒好きと私を思われたのだろう、以来厳寒の独演会の帰りにも常に麦酒の御馳走だったのにはふるえ上がった。
 昭和九年末、松崎天民氏歿後の雑誌「食道楽」主筆となってから、だんだんまた私の生活は軌道に乗り出し、その頃幾年か絆を断ちかねて苦しんでいた酒場女が、自分の方から私の原稿料を懐中に家出してしまってくれた。けだしわが半生であんな助かったと思ったことはない。お天道さまは見透しで、やっと自分は夜が明けそめた夜が明けそめたとしみじみ嬉しかった。
 やがて亡妻を迎える前後に、一、二年続けていた、例月芝の恵智十という古い寄席でひらいていた創作落語爆笑会をおわり、談譚聚団同人となった。
 爆笑同人には死んだ燕路、蝠丸(伸治の父)もいたが、出世頭は志ん生、今輔、圓歌、可楽、三木助の五君であろう。モダン雑文家でムーランルージュの女優高輪芳子と心中未遂を諷われ、のちに眠剤ねむりぐすりをのみ過ぎて死んだ中村進治郎君も私とともに御同様のつたない一席を申し上げていた。
 談譚聚団の方は今も余興団体として残っているが、当時は徳川夢声を中心に雑誌「談譚」を月刊、牧野周一、木下華声、奈美野一郎、吉井俊郎、丸山章治、福地悟郎、東喜代駒、山野一郎に私などが同人格で、東宝小劇場で毎月の公演が催された。この中で徳川君以外に活躍しているのは、山野、牧野両君だけで、他の大辻、井口、西村君らの漫談家も今は鳴りをひそめてしまった(後註――こう書いて一、二カ月後には大辻君は航空事故で惨死した)。
 これが私の話術修業の最後で、二・二六事件のあった夏頃私は一切の出演を辞し、すでに禁酒(前後六年間続いた!)もしていたので、再び文学勉強に専念しだした。
 三十過ぎての火のでるような文学修業も辛かったが、禁酒六年の精進はどうやら数年後の暮れ、小説『圓太郎馬車』を世に問い、私は作家として返り咲き得た。荊妻けいさいと結婚したのは、古川緑波君がその『圓太郎馬車』を有楽座四月興行に上演した翌昭和十六年の、立秋後だった。
 先年、拙著『雲右衛門以後』(浪曲史)出版記念演芸会に森三千代女史は、
「私たち夫婦で浪花節のよさを教えると、すぐ小金井太郎と共同生活までしてしまうし、まったく正岡さんという人はハラハラさせる人だけれど、その収穫はこうした一冊になった」
 と講演してくだすったが、ほんとうに私に文学の、芸能の、ことに寄席の救いがなかったら、良家に生まれてその家が潰れ、思春期に天涯孤独の身となった自分は、今時分薄志の不良青年となり、与三郎同様、佐渡送りにでもなっていたろう。腕に桜の刺青は入ったが、遠山の金さんのラインで踏み留まることができたのは、再び言うが、文学の、芸能の、寄席のおかげであると言わなければならない。幸いに後継永井啓夫を得た今日、残生の大半を私は寄席文化の普及と探求とに、父子して尽くそう。
 わが「寄席青春録」続編の執筆は、今村信雄君にも忰分啓夫にも勧められていたのが、今日やっとこうしてここに完結した。前篇を書いてから、いつしか五年の歳月がけみしている。
 その五年間にも、芸の、人生の悩みは尽きせず、定命近い今年になって、しばらく諸事順調に向かいつつあるが、最早それは青春録どころか、晩春録でもないのだから、ここでは触れまい。かつて村松梢風氏はその随筆中で、自分は生涯に三度廃業しようと思ったが、他に適業がないので、ついにこれで終始したと書いておられた。私もまた、しかりである。故三升家小勝も三度廃業を決意、明治中世から大正初世かけて「ムジナ」の異名で謳われた都々逸坊扇歌(先代)に至っては、七度も廃業しかけたと自伝中に述べている(人生行路の苦しさよ!)。
 おしまいに、「落ち」をつけよう、「青春録」らしい落ちを。
 それとてすでに数年前になるが、戦後新春、銀座街上でたまたま往年の宝塚スターに呼びかけられたが、老残衰貌、今も女優をしていながらも悪疾あるエキストラの夫をかかえて見るかげもなく、私は目をそらすのに骨を折った。少時、大好きだった初代松旭斎天勝の晩年に会談した徳川夢声君は、
「初恋の人に三十年も経って逢うものじゃない」
 と書いておられたが、その時の私の幻滅はまさにまさにそれ以上のものだった。
 でも、ただちに自棄やけ酒をひっかけるべく、当時の日本には、幸か不幸かまだ自由販売のお酒がなかった……。

底本:「寄席囃子 正岡容寄席随筆集」河出文庫、河出書房新社
   2007(平成19)年9月20日初版発行
底本の親本:「艶色落語講談鑑賞」あまとりあ社
   1952(昭和27)年12月刊
※「軽気球」と「軽気珠」の混在は底本通りにしました。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2009年1月7日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。