しかし僕がそこをへんてこなところだなと思つたのは、次の瞬間、人が始めて風景といふものを見たやうな驚きに一變してゐた。
そこは實に靜かな場所だつたのである。どうも僕にはその位置の見當がはつきりつかないのだが、波止場をまごまごしてゐるうちに、いきなり迷ひ込んでしまつたのだから、むろん波止場の一部なのには違ひない。ただ僕に解つてゐることは、非常に低くなつて聞えてくる波止場のざわめきが、かへつてこの場所の靜かさを決定的にしてゐる位に、そこから離れてゐることだけだ。
その周りには、高い塀に取り圍まれた古ぼけた建物が、ただ一つきりしかなかつた。それはしかし僕の視野をきはめて狹くしてゐたのである。波止場はすつかりその蔭になつてしまつてゐて、そこから見えるのは殆んど海ばかりだつた。それがここを波止場の尖端のやうにも思はせるのである。そして僕の立つてゐるのはその建物の中庭らしい。中庭といつても、ここには一本の樹さへなく、ただ禿げた土の上にちよぼちよぼと雜草が生えてゐるばかりである。そして何の堤防らしいものもなしに、いきなり海に面してゐた。
そのやうに狹められた僕の視野のなかの海の上には、ただ一艘、前世紀の遺物のやうな古ぼけた汽船が浮んでゐるばかりだつた。その古ぼけた汽船はなんだか玩具めいて見えるのにも拘はらず、ふしぎに膨大で、この風景の額縁からはみ出てゐるやうな不調和な感じさへするのだ。それは光線の加減で水の上にばかに大きく映つてゐる船全體の影のせゐもあるらしかつた。
しばらくその汽船に子供のやうに見とれてゐると、僕の眼にはひとりで空の一部分がはひつてきたのである。それは硝子の破片のやうに光つて見えた。小さな眞白な雲が、たくさん、汽船のマストを中心にして塊まり合つてゐる。その中でゆるやかに動きつつあるものは、いづれも魚に似た形をしてゐる。中にはクラゲのやうなのもある。またぢつと動かずにゐるものは、僕に、きれいな貝殼を思ひ出させた。それはまるで海の中がそつくりそのまま空に反射してゐるやうなのである。いままで僕は遠くの方に對岸のやうなものを認め、そしてそこに數箇の骰子のやうな洋館が塊つてゐるやうに思つてゐたが、それは見る見るうちに船のマストの方へ昇つていつた。それもまた雲だつた。……
だが、僕が異常に魅せられてゐるのは、さういふ單なる風景の美しさではなかつた。それは何かしら超風景的なものだつた。あの第一印象――始めて風景を見たやうな驚きは、いまだにその生ま生ましさを失はずに僕の中に殘つてゐるのである。これは一たいどういふのだらう? そして僕はもう子供らしく雲や汽船に見とれてゐるのは止して、この風景の本質について哲學者のやうに考へ出した。……するとこの風景の美しさはどうも一ぱん人間の或種の表情に近いやうに考へられてきたのである。もつと正確に云ふと、この風景は、どこから鋭い眼でむさぼるやうに見つめられてゐるのを感じて、敏感な少女らがするだらうやうに、すこぶる緊張してゐるやうに見えるのである。そして波の絶え間ない動搖は、刻々に、この風景の緊張した脈膊をつたへてゐる。……
その時、僕はふと船の甲板の上で何かが動いてゐるのに氣づいた。僕はそれをよく見るために眼を細くした。そしてしまひに眼と眼との間が痛くなつてきた時分に、漸つと僕はその船の欄干に一人の水夫がよりかかりながらスパスパとうまさうに、煙草を吹かしてゐるのを認めたのである。
その煙りを見ると、僕も煙草が吹かしたくなつて、煙草入から一本とり出してそれを口に喞へた。が、たえず手もとに風がからまつてくるので、どうしてもマツチの火がつかないのである。と突然、さつきの魚のやうに泳いでゐた雲のことが頭の中に浮んできて、「ああ、この風ぢやあ」と僕は思つた。
そこで僕は僕のまはりを反射的に見

突然一つかみの砂利が僕の頭に向つて投げつけられたやうな音がしたので、僕は驚いてうしろを――建物の方をふりむいた。それは、いままでちつとも注意しずにゐた僕の頭の上の硝子窓が、内側から、亂暴に開けられたのであつた。そしてその開けられた窓からは、一人の異人じみた男が、ひどく腹を立ててるやうな顏をつき出してゐるのだ。
「こんなところへ入つて煙草をのんぢやいかんよ。」
その男はいきなり僕にさう怒鳴つた。僕はびつくりして、何が何だかすこしも解らずに、ただうらめしさうにその窓の中の男をにらみ返した。すると僕はその男の顏に、ことに二本の葉卷めいた茶色の口髭のあたりに、ちよつと見覺えのあるやうな氣がした。――が、それもほんの一瞬間に過ぎなかつた。再び頓狂な音を立てながら閉まつてゆく硝子窓のうしろに、ついとその男は顏を引つこめてしまつたからである。
僕はたうとう口にくはへたぎり火のつけられなかつた煙草と一しよに、窓の外に、それからまたその風景の外に、取り殘された。それとともに、さつき煙草をうつかり噛んでしまつたので、そこのところの紙が破けて出てきた葉つぱを、僕はへんに苦つぽく口の中で感じだした。
僕は仕方なしに、その庭から外へ出て行きながら、何氣なくそこの門らしいものに眼を止めた。門といつても入つてくる時はほとんど氣がつかなかつた位に、古くなつてゐて存在の認めにくい木の門である。僕はふとその建物がどういふ性質のものか知りたくなつて、それに門標を探した。その門標らしいものはすぐ見つかつた。が、その上の文字はすつかりかすれてゐて、とて讀みにくいものだつた。僕はやつとその上の文字を「××税關」と想像まじりに讀み得たのであつた。
「さうか。ここは税關だつたのか。だが一たい税關といふところは煙草を……おや、さつきの異人じみた奴、何だか見覺えがあるやうに思つたが、あいつ、あの「税關吏」のルツソオぢやあなかつたかしら。おれはあいつの自畫像でしかあいつを見たことがないが、どうもそんな感じのする奴だつた、あの窓からひよいと顏を出した男は。」
さう考へながら、僕はふとあの建物の中で新鮮なペンキの匂ひがしてゐたことを思ひ出した。あれはルツソオが畫室の中で使つてゐた繪具の匂ひではなかつたのか。さうだとすると、きつと彼は、僕の魅せられてゐた風景に彼もまた同樣に魅せられながら、それを描いてゐたのに違ひない。さうして彼がその製作に夢中になつてゐると、しいんとした沈默を破つて、シユツシユツと燐寸をする音が、窓の外から聞えてきたのである。はじめはあまり氣にしないでゐたが、いつまだたつても燐寸をすり損つてばかりゐるので、しまひには誰かがいたづらをしてゐるのだと思つて、すこし腹を立てながら、つかつかと、窓のところへ歩いて行つた。そしてそれを開けるなり窓のそとの男にいきなり怒鳴りつけたのである。……
僕の空想はここまで來ると、いきなり光を發したやうに感じられた。あの税關のなかで僕の見た風景はアンリ・ルツソオに描かれつつあるのを意識して、あのやうに異常に緊張してゐたのではないだらうか。そしてその意識的な美しさが第三者の僕までをあんなにも感動させたのではないだらうか。
この思ひがけない結論がすつかり僕を快活にした。僕の中でたえず明るさと暗さとが戰つてゐるやうに。それは何處かで夏と秋とが戰ひだしたやうな或日のことである。僕はまだ火のつかない煙草を口に喞へたまま、出來るだけ足を忍ばせながら、その税關の門を立去つていつた。