星はない
風もたえた
人ごえも消えた
この驛を出た列車が
すでに山の向うで
溜息を吐く

白いフォームに[#「フォームに」は底本では「フオームに」]
おれと
おれの影と
驛長と
驛長の影と
それだけがあつた

見はるかす高原は
まだ宵なのにシンシンと
太古からのように暗い
その中で秋草が
ハッカの匂いをさせて寢ていた
海拔三千尺の
氣壓の輕さが
おれの肺から
空氣をうばつて
輕い目まい
このプラットフォームは
闇の高原に向つて 照明された
白い舞臺だ
おれは舞臺をおりて
闇の中に沒する
ブリッジはないから
線路を歩いて
左の方へわたると
あるかなきかの小道が
草の中へ消える

「もしもしそちらへ行くと
ズッと山ですよ」
驛長が呼びかけた
「いやいいんです」
驛長は
いぶかしげな顏で
すかして見たが
おれの微笑に
安心して
背なかを見せてコトコトと
驛舍の方へ歩み去つた
驛長よ
君はあと四半世紀
驛長の役を演じるように罰されている

おれはすでに
なぜここを歩くかを知らぬ
ああ
生れて三十五年
はじめておれは
理由のない行爲をする
ハハハ!
おれは笑つたが
笑い聲は聞えないで
あたりの草がサヤサヤと鳴つた
いつのまにか風が出ていた
振返ると
東の空がやや明るい

もうすでに
一時間歩いたのか
三時間歩いたのか
わからない
習慣になつている
左の手首をのぞいたが
時計も腕も見えないで
闇が見えた
そうだ
腕時計はおととい
板橋で賣つた
池袋の驛で
中村に會つて
いつしよに飮んでしまつたのだ
おれと中村が
いつもの店に行くと
いつもの仲間が飮んでいて
いつものとおり
議論と溜息と歌
中村と共に
そこを出て
目白の
彼の家に泊る
すでに一時になつているのに
今度は
彼の細君をまじえて
燒酎しようちゆうを飮む
やがて中村夫婦は奧に
おれは襖のこちらの居間に
眠つて
目がさめたら
今朝の十時だ
中村は
勤めに出かけたあとで
俺はすすめられるままに
細君を相手に
朝飯を御馳走になり
やがてそこを出て
會社への遅い出勤の途上
あれはどこだつたろう
まだ枯れつくさぬ
街路樹に
午前の陽が
ヒョイとかげつて
枝がかすかに搖れたのを
見た瞬間に
フイとその氣になつて
汽車の切符を買つた
「あの方が
そんなことをなさろうとは
どうしても思えません
私の家には
これまで
四五回もお泊りになつたんですけど
いつも快活な方で
ことにゆうべから今朝にかけて
よくお笑いになるし
朝など
中村が勤めに出たあと
味噌汁を吹き吹き
朝御飯を食べながら
ひわいな話をなさつては
私をからかうんですの
そして
やあお世話さまと言つて
フラリと出て行かれたんですの
前の晩の
宅との議論の中で
そんなつまらない會社などに
勤めていないで
宅の勤めている研究所の
統計課にあきがあるから
勤めを變つたらどうかと
宅がすすめるのを
あの方が
どこに勤めるのも同じだからと
笑つて返事をなさつていましたつけ
とにかく私には
どうして
そんなことをなさつたのか
まるでわからないんですの」

歩いていく足の下が
右の方へ
右の方へと
少しずつ傾いて
自然におれの足は
谷あいへ降りて行く
足の下の下ばえが
クマ笹を交え
風が死んで
高原に露がおりはじめたようだ

そうですよ中村の奧さん
あんたには
おれがどうしてこうなつたのか
どうしてもわからない
しかしねえ奧さん
あなた自身はどうして
そうやつて生きているのか
わかつているのかな?
肥料の生産を
もつとも大きな産業種目とするコンツェルンの
世間ていをとりつくろうための
勞働研究所で
グラフを作りながら
自宅ではセッセと
仲間とのゼミナールで
「東洋社會の形成」を研究している
中村の
社會學者としての大成を信じている妻
それを信じさせている中村
ほほえましい夫婦だ

右手をすかすと
うす白く光つて谷底を
夜の小川が流れていた
グラリと俺のからだが傾いて
ズルズルズルと熊笹をすべり落ち
傾斜の底の川ぶちに倒れた
しめりをおびた土の
はげしい匂いが鼻をついて
頬がかゆいので
手をあてるとヌルリと血だ
倒れた拍子に
切りかぶで切つたか
頬にさわりながら
そうだ東京を出てから
自分のからだに自分がさわつたのは
これがはじめてだと思つた
思つたトタンに
電流のように
女たちのことを思い出していた
戰場で銃彈に死ぬ兵士が
一瞬のうちに
自分の全生涯の大小あらゆることを
そのスミズミまでくつきりと
思い浮かべるそうだが
あの話はホントだ
女たちは
一度に五六人で來た
初子
松枝
クミ子
おけい
…………
お前たちはみな
すでに俺から遠い
そこでヒョイと暗い空を
見上げようとしたとたんに
突きあげてきた嘔吐おうと
ゲイ ゲイ ゲイ ゲイ
氣がついたら
小川のふちの岩に
さかさまになつたままで俺は寢ていた
おかしくなつて俺は
じかに小川の水に顏をつつこんで
氷のようなうがいをしてから
飮めるだけの水を飮んで
立ち上つて
足は小川の左岸に出た

その時遠くで
かすかにギァアと鳥の聲に似た
ひびきがあつた
いまごろ鳥がなく?
それを別に不思議にも思わぬ
その鳥のないた口の中が
くらやみの中に眞赤にみえた
同時に妻の節子のことを思い出した
赤い鳥の口と節子と
なんのつながりか?
現在までに俺と關係あつた女を
つぎつぎと思い出して
すでに十年もいつしよにくらした
妻のことを
最後に思い出す
しかも思い出すことごとくが
白茶けて味も匂いもなくなつている
どこもかしこも知りつくしたためか
それともあれで
俺がいちばん深く愛していたからか

川岸にクマ笹がなくなつて
灌木の林が
ピシピシと音をたてる

その次に思い出したのが
畠山
國本
織田
三人とも友人だつた
畠山よ 君は相變らず澁い顏をして
俺は甘くないぞという顏をして
それ故にこの上もなく甘い顏をして
「小野田がなんだよ!」
と言つて嘲笑した
君の嘲笑は
シンからの憎惡を含んでいる
君が小野田を嫉妬している嫉妬心はほんものだからだ
小野田は君と同年なのに
すでに花形小説家で
君はまだ世に出ざる小説家で
小野田は君を同輩として
重んじるような形でかろんじ
君は君で小野田を
呼びすてにしたりすることで
オベッカをして
そして互いに暗闇の中のマムシのように
憎み合つている
俺は君がそれほど嫉妬する
小野田という流行作家とは
どんな人間だろうと思つて
いくらか興味を持つていた
それが君に紹介されて
會つてみると
それは人間ではなくて豚だ
からだも心もグナグナで
なにかというとすぐに悲鳴をあげ
體中の粘液が多過ぎて
自分で自分の粘液をなめては醉いしれて
ヒョロヒョロになつて歩いている
豚…………

次に人生の被害者
國本のオッサン
この人間の
なんとこぼすことよ
この人生への不満と不平と缺乏と
生れた時からこぼしぬいて
三十六にしかならないのに
四十八歳のつらをショボつかせ
勤めている商事會社の
資本主義を呪い
共産主義にあこがれるから
共産黨になるかと思うと
新年の拜賀に
宮城に行つて感泣し
日本はよい國だと
祝盃をあげると
二合位の酒で泥醉して
それであくる日から
通勤電車の中で
日本は地獄だと呪つている
自分だけが
いつでも悲慘な人間で
その悲慘さを
アメチョコのようにしやぶつて
自分が幸福だということを
まるで氣がつかない位に幸福

國本が被害者ならば
織田は加害者と言えるかもしれない
全く無意味に積極的で
自分のオッチョコチョイを
アメリカニズムだと言い
ちかごろそれを
スプートニキズムと呼んで
大學の若い科學者と交際し
拳鬪選手とつきあつて
勤めている新聞社で
科學記事と殺人事件には
必ずとび出して行く
セックスがいつさいだと言うのが
口ぐせだ
そのくせ細君は三人目の情人を持つている

あと何人書きつけてみても
同じことだ
その最後にションボリと
この俺という人間の姿がある
いとわしい
みんなみんな いとわしい
これが憎惡なら
俺は生きていただろう
憎惡するだけの張合いもなく
ただ意味もなくいとわしい
俺は汽車の中で
なんとかして遺書らしいものを書こうとして
手帳に向つていくら鉛筆をなめても
ついに一行も書けなかつた
何を書いてもウソになるのだ
遺書に書けるようなことのために俺は死ぬのではない
自殺者が 書きのこした遺書はみんな
あれはウソだ
いやいや 人一人が消えてなくなるのだ
どういう意味でも
他人に迷惑をかけてはならぬ
そう自分に言い聞かせて
なおも書こうとしたが遂にダメ
何を言つてもむなしいのだ
何を書いてもいとわしいのだ
人と人とは互いにキチガイ同志だ
何を言つてもわかりはしない

いやだ
いやだ
いやだ
歌うようにくりかえしながら
ヒョイと氣がつくと
小川の水に踏みこんで
ザブリザブリと
向う岸に渡り
灌木をわけて
崖をはい登つていた
闇の灌木の小枝に
顏や手をかきむしられながら
登りきつて大地に立つと
高原の空氣は 急にひえきつて
腹の底まで氷をのんだようになり
水にぬれたズボンの中で
足の皮膚がビリビリと痛む

俺が渡り越えたのは
ヨミの川か
昔のぞいた三世相かで見たことがある
それともあれはダンテの神曲だつたか
どつちでもよい
死んだ人間が
トボトボと一人で渡る
暗い川だ
冷たい風と共に
俺は歩いた
死を前にひかえた人間には
あのように空白な瞬間があるのか
白紙のように
なんにも書いてない
なんのシミもない
なんの喜びもなんの悲しみもない
その上を
俺の足だけが動いた

ただ一つ
俺の胸のどこかに
輕い恐れがあつた
それは
やりそこないはしないかという不安だ
やりそこなえば
全部はおかしくもない喜劇になり終つて
人々は俺を許さないだろう
どんなことがあつても
やりそこなつてはならない
そう思つて俺は
ポケットの藥びんを握る
藥びんのガラスの冷たさが
俺の手のひらに吸いついた
…………
もうよかろう
俺は草の中に立ち止まる
近くに 二三本の木立があつて
すかして見ると
それが黒い疎林に續いているようだ
天地をこめて
夜露が降りていた
俺は草の中に坐り
藥のびんと
ウイスキーのびんを出して
膝の上に置く
びんの中のウイスキーが
チャプリとかすかな音をたてた
この藥を ウイスキーで流しこんで
しばらくジッとしていれば
ことはすむのだ
しかし
どうしてこんなめんどうなのだ
黒い空は
なぜスッと倒れかかつてきて
蟻をつぶすように
俺をつぶさないのだろう?
俺が蟻でないからだ
するとこの俺はなんだ?
また始めた
いまさら
戸籍簿をひろげ
身元證明を並べて
俺が俺を確認してみても
なんになるのだ
俺のとなりには
枯枝がある
それらと共に横になろう
そうなのだ
死ななければならぬ理由は
俺には無い
だから死ぬのだ
神よ
お前さんも
ここに降りて來て
この露の中に横になりなさい
お前さんと俺とは同僚だ
長い長い吐息を吐いてから
俺は仰向けに寢た
寢心地は良い
涅槃ねはんという言葉が
ヒョイと頭にきたが
ただそれだけのことで
俺は
藥のびんを開けたが
不意にひどく眠いような氣がして
手を止めてジッとしていた
…………
…………

はじめ俺は
自分の耳が鳴るのだと思つた
次に地虫が鳴くと思つた
俺という人間の最後に
地虫がとむらいの歌をうたう
…………
その地虫の聲が
不意にはね上つて
高くひびいたので
笛だとわかつたのだ
しかもごく近い
俺は知らぬまに身を起して
林の方をすかして見た
笛の音はそちらから流れてくる
俺は立ち上つて
二三十歩を歩き
林のすその草原の中に
高さ五尺、廣さ一坪ばかりの
草屋根の合掌小屋が立つていて
その吹きさらしの屋根の下に
チョコンと坐つた人影が竹笛を吹き
鳴らしている
音程は三つ位しかない
ただ
野獸がすすり泣くような音を
遠くへ遠くへ吹きつらぬいて
吹く人だけが
それに耳を澄ましている
そのうちにヒョイと笛がやんで
小屋の中から
「なんじや?」
………………
「誰だあ?」
田舍の少年の聲だ
まだ聲變り前とみえて
少女のようなこわ音だ
俺はびつくりして
返事ができない
少年はさして氣にかける樣子もなく
再び笛を唇に運んで
吹き始める
俺は合掌小屋の中にこごみ入り
少年と並んで坐つた
少年は息のあるだけを吹きすましてから
笛をわきに置き
しばらく黙つていてから
「さぶいなあ」
「君は誰?」
「あん?」
「君はここで何をしてるんだ?」
「おらかや? おらあ笛吹いてる」
「その笛はどうしたんだ?」
「俺の笛だ 俺がこせえた」
「……君はなんと言うの?」
「俺は捨吉だ」
「捨吉……」
「おめえは誰だよ?」
「僕は――」
俺は答えることができないで
闇をすかして少年を見た
「おめえは東京の人ずら?
おらんちに時々泊るから
東京の人はわからあ」
「そうだよ東京だよ
君はこの邊の子?」
「おらあごしよでえら
ごしよでえらのしの屋だ
しの屋の風呂の釜たきだ」
「捨吉というのか?」
「そうだ」
少年はまた笛をとつて口にあてた
今度はいくらか低い調子だ
俺はうつけたように聞いていた
この世に生きて
していることとは
どうしても思えない

知らぬ間に笛が止んでいて
少年はガサガサといわしていてから
何か重い荷物を背中につけて
スッと立つて小屋を出た
「どこへ行くの君?」
「だつておめえ 行くずら?」
草の中をサヤサヤと歩き出した
無意識に俺も立上つて
その後から歩き出す
少年は背負梯子に
松の丸太のようなものを
二十本も背負つている
ギシギシと繩がきしむ
しかし當人は輕々と足を運ぶ
やせていて
背は俺より高いようだ
「君は、そのしの屋へ歸るの?」
「うん」
「しの屋というのは屋の[#「屋の」はママ]うちか?」
「うん 宿屋だ
おいら釜たきだ」
「だけど 君は
こんな夜中に
あんな小屋の中で
なにをしていたんだい?」
「きのう
丸太背負いにこの奧に來てよ
うつかりしていたら
日が暮れて
歩けなくなつたから
あしこであかしていたんだ」
「そのしの屋までは
そんなに遠いの?」
「なあに 一里かな
へえ すぐだ」
「一里位を歸らないで
あんな小屋で泊つて歸るの?」
「へえ 年中だかんなあ」
「そいで今ごろなぜ歸るんだ?」
「だつて小父さん
汽車に出るずら」
どうやらこの少年は
俺を鐡道の驛まで
案内してくれる氣であることが
わかつてきた
「あんな所に一人で寢て
君はこわくはないのか?」
「こわいとはあんだい?」
「この邊にはけだものなども
いやしないかね?」
「穴熊が三匹いらあ
そいから狐がいらあ
鹿もいる」
「君はいくつだい?」
「おらかよ? 十六ぐれえだ
よくわからねえ」
「自分の年がわからねえのか?」
「おら捨子でのし
年あ わからねえ」
「捨子?
そうか」
「平太郎さが俺を拾つてよ
もつて行く所がねえから
しの屋へ持つていつたらば
しの屋のばあさまがな
馬の子ならば賣れるからええが
人間の子供なんぞ拾つてきやがつて
ものを食うからおいねえ
さんざん怒つてな
捨吉という名をつけた
ハハハハ…………」
少女のような聲をあげて
輕く笑つた
「平太郎さが
まながしの馬市へ子馬買いに行つただい
まながしで酒くらつてな
醉つぱらうと氣がでかくならあ
子馬の金でばくちうつてよ
金をすつかりとられたげな
そんで歸りに
まながしの町はずれまで來たら
馬のクソのわきに
おらが捨ててあつてよ
ほつとけば
馬にふんずけられるから
しかたなく拾つて歸つた」
スタスタと歩きながら
ポツリと一こと言い
また一丁行つて
ポツリと一こと言う
「學校へは行かないのか?」
「學校なんず行かねえ
しの屋のばあさまはけちんぼでよ
食うものもちつとしかくれねえ
お客が泊つて食い殘しがあると
魚だの肉だのくれらあ」
「どんな人が泊るんだ?」
「この奧のダムの石屋だとか
農林小屋の人もたまに泊らあ
小父さん どけへ行くだ?」
「どこへ――?」
そうだ俺はどこへ行くのだ
「道に迷つたずら
この奧はズーッと十里も二十里も
山ばつかだ
しまいに越後に出らあ」
少年は言いすてて
やや歩をゆるめると
笛をふき始めた
その笛の音に導かれて
ヨロヨロと歩きながら
俺は次第に氣が遠くなる
いつのまにか
やや道らしい場所に出ていて
どこからか
からまつ林の匂いが流れる
笛はけものの聲のように
林をめぐり
波をうち
高原のかなたに消える
そうだ
この捨吉と俺と
人に忘れられた闇の中を
こうして歩いているのを
この世の人間という人間が
だれ一人知らない
人生の帳面の
欄外にかいてある姿だ
いや 神樣も
俺たち二人に氣がついていまい
外道だ
外道を俺と捨吉は歩く

ドシンといつて
不意に笛の音がやみ
捨吉がクスクスと笑つた
すかして見ると
顏をなでている
道のかたわらに立つた
タケカンバの幹に
捨吉が正面からぶつかつて
額をうつた
「どうした?
けがはしなかつたかね?」
「なあに――」
クスクスとまた笑つて
「コヤツにぶつかるのは
これで二度目だ
フフフ
おらあ 目が見えねえからな
うつかりしているとぶつからあ」
「え? 目が見えない?
目が見えないのか?
盲か君は?」
「盲だあねえよ
鳥目だ
夜になると へえ
見えなくならあ
でも朝になつてお日樣がでると
なんでも見えらあ」
「そいじや
今なんにも見えないんだね?」
「だから へえ
ぶちあたつた
フフフ」
「すると
さあつきから
僕の姿も見えないんだね?」
「見えねえよ」
「小さい時からそうなのか?」
「うん 榮養が惡いだと」
「そいで君はあの小屋で
目が見えるようになるまで
待つていたんだな?」
「うん」
「目が見えないのによく歩けるな」
「なれてるだから
平氣だい
うう 腹あへつた
ちつと急がず」
「そうか…………
…………………………」
なにか言つたらしい
しかし覺えていない
横づらをひつぱたかれるようにハッとした
目の見えない少年に案内されて
俺は歩いていたのだ

不意にからだの重みがなくなつて
ストンと俺は路上にころんだ
おかしなことがおきた
あたりの闇と自分と等質になつて
目や鼻がむやみと涼しい……
「どうした?
ころんだかよ?」
少年がふりかえつて
待つている
手を出して助け起そうとはしない
そのような暖かさは
この少年にはない
やがて俺は起き上つた
起き上つたのが
自分か少年か
または全く別の人か
俺にはわからない
少年はなんのこともなかつたように
スタスタと歩き出しながら
また笛を吹きだした
何がおきたのだろう?
歩いている自分が
自分を知つているくせに
俺という人間はコナゴナにこわれて
いなくなつた
俺は知つている
少年の吹く笛の音だけが
三つの音階をでたらめに上下して
そのふるえる音だけが
たしかに通つて行く

道幅が廣くなつたようだ
兩側はからまつの林になり
次第に夜明けが近づくのか
ボンヤリと道が白い

「小父さんは
しの屋に泊らんかよ?」
捨吉が笛をとめて
ヒョイと話しかける
その聲にびつくりして
俺はしばらく返事ができない
「君は父親も母親も
わからないのか?」
「わからねえよ」
笑い聲もたてないのに
少年が闇の中で
ニッコリしたのがわかる
「ヘイブンブンとおんなじだ
しの屋のばさまが言つた」
「ヘイブンブンというのはなんだ?」
「小父さん ヘイブンブンを知らねえか?
夏になるとうちん中や
馬小屋なんぞに
ブンブン飛んでるずら
あやつのことだ」
蠅のことだ
少年は笑いもしないでまじめだ
「ヘイブンブンはな
馬のクソやなんずから
わくんだぞ
俺も 馬のクソかなんかからわいた」

わくと言つた
馬のクソから
ウジがわくように
人間がわいた
「そうやつて暮していて
誰がいちばん君を
可愛がつてくれるの?」
「誰が可愛がつてなんずくれねえよ
俺なんず可愛がつても
なんにもトクしねえからな
おなごしのおよねさんが
時々魚の殘りをくれるが
およねさんは
犬にも魚の骨をやるだからなあ」
「そいで君は父親や母親に
あいたくなることはないのかね?」
「ケ ケ ケ!」
と猿のように笑つた
「一度なあ
みつけてやるべえと思つて
驛の所に立つていたら
男の人や女の人が
いつぺえ通つてよ
そん中に
父ちやんや母ちやんが
いるような氣もするし
いねえような氣もするし
おんなじようなことだと思つて
さがすのはやめた」
ヒョイと氣がつくと
俺の兩頬がつめたい
いつのまにか涙が流れている
俺はポケットから
ウイスキーのびんをとり出して
一息に中味をあおつた
火のようなものが
ノドを通つた
俺はそのびんを
暗いからまつ林の中へ
ビューッと投げた
びんは遠くで、からまつの幹にあたり
ピシリとくだけて散つた
「なんだや今の音は?
なんかほうつたのか?」
「なんでもない」
言いながら左手の指は
ポケットの中の
藥のびんをまさぐつていた
急におかしくなつて
俺は聲をあげて
クスクスと笑い出した
腹の底からのおかしさが
こみ上つてくる

氣がついてみたら
俺の中から
死のうという氣が
まるでなくなつていた
そして もう一生 そんな氣が
俺にはおきないだろう
どうしてだかわからないが
それがハッキリわかつた
「小父さん
何がおかしいだい?」
「おかしくはないよ」
「せば なんで笑うだ?」
「笑いやしない」
「ウソをつけ
ほら 笑つてら」
おさえてもおさえても
俺の笑いはとまらない
なにか泥醉したように
俺の兩足は歩きながら
互いにもつれてヒョコヒョコする
「ヘイブンブンが
馬のクソに醉つぱらつた!」
ヨタヨタと音をたてる
俺の足音に
耳をすますようにしていた捨吉が
やがて
クスクスと笑い始め
アハハハと
夜空を仰いで聲をたててから
再び二人とも歩きだす
鳴り始めた捨吉の笛の音色が
ヒョイと變つたと思つたら
道はだしぬけに林を拔けて
高原のはじの崖の上に出ていた
空はうす明るくなつている
足だけが踊るようにしながら
捨吉が笛を吹き行く後から
崖道に出る
二匹の蠅が
笛の音に合わせて
手をすり
足をすつて現われた
夜明け前の冷たい空氣が
深い谷あいに開けて
はるかな向うの山脈の上は
すでにいくらか白みかけた
見おろすと
谷あいはまだ暗い
「さあついた」
捨吉は立ち止つた
「ここから下り坂を
どんどん下ると
この下がごしよでえらの村でよ
そこを通つて
しもの方へどんどん行くと停車場だ」
「もう君の目は見えるのか?」
「まだ見えねえ
この下り坂はあぶねえからのし
いつもここまで來ると
こけえらにぶつ坐つて
夜の明けるのを待たあ」
捨吉は道ばたの石に腰をかけた
見おろすと
谷底の村には
二つ三つ七つと
あかりがまたたいて
はるか左手に
五つ六つかたまつたのは
鐡道の驛だろう
「小父さん
この崖のすぐ下のなあ
上手かみてのはずれに
灯がともつてるずら
見ろえ
あれが しの屋だ
もうおよねさが
起きたかな?」
見えない目で
のぞき込む視線を追つて
右手の方をのぞいて見ると
闇の中に小さく小さく
まずしい宿屋の臺所口が ひらけていて
メラメラと燃えているのは
かまどの火か
人間はすでに起き出して
生活を始めた
生きるとも
死ぬとも
思わぬ間に
火をもしてる
捨吉と並んで坐つて
その暗い谷底を 眺めながら
泣きたくもない俺の頬に
とめどもなく涙が流れ下る
俺はもう永久に
生きようとはしないだろう
死のうとしない如く
馬鹿な!
捨吉の目をのぞくと
パッチリと開いたままに
なにも見えない目が澄んで
しかし北の空の
うす白さを反射しながら
底の方から明るんできた
捨吉の笛は尾をひいて
谷間を渡る
谷間からは
それにもつれて
遠く遠くの人の聲が
ひびきのぼつてきた。
(昭和三十三年三月)

底本:「三好十郎の仕事 第三巻」學藝書林
   1968(昭和43)年9月30日第1刷発行
初出:「放送文化」日本放送協會
   1958(昭和33)年5月号
入力:伊藤時也
校正:伊藤時也・及川 雅
2009年1月6日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。