人物

トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルト・ヘルマー
ノラ(ヘルマーの妻)
醫師 ランク
リンデン夫人
ニルス・クログスタット
ヘルマー家の三兒
アンナ(三兒の保姆)
エレン(女中)
使の男

  場所

ノルウェーの首都クリスチアニアにあるヘルマーの家(大建物の内部を幾家屋かに仕切つた一つ)
[#改ページ]

    第一幕


居心地よく趣味に富んで、それで贅澤でない設備の一室、奧、右手は廊下へ通ふ扉、左手はヘルマーの書齋に通ふ扉、それから前によつて窓、窓の傍に小さい圓テーブル、二三脚の肱掛椅子、小さい一臺のソファ。また右側の壁には少し奧によつて扉、ずつと前によつて瀬戸で疊んだストーヴ、その前に二脚の肱掛椅子と一脚のロッキングチェアとがあつてストーヴと扉の中程に小さいテーブル。双方の壁には版畫が懸つてゐる。置棚には陶器、骨董品など、また見事な裝釘の書物を詰めた小さな本箱が据ゑてある。敷物は絨氈、ストーヴには火が燃えてゐる冬の日。廊下の方でベルが鳴ると、すぐ外の扉のあく音がして、ノラがはしやいだ樣子で鼻唄を唄ひながら入つてくる。外出服のまゝで、幾つかの小包を提げてゐる。それを右手のテーブルの上に置く、廊下への扉は明け放したまゝで使の男の立つてゐるのが見える。その男は持つてきたクリスマス・ツリーと堤籠とを戸を明けに出た女中に渡す。

ノラ そのクリスマス・ツリーをよく隱してお置きよ、エレン。晩にすつかり火をつけるまでは、子供達に見せちやいけないよ。(金入れを出しながら使の男に向つて)幾ら?
使の男 二十五エール。
ノラ はい、五十エール、いゝえ、おつりは取つてお置き。(使の男禮をいつて去る。ノラは戸を閉めて默つて嬉し氣ににこ/\し續けながら外出仕度のものを脱ぐ。隱しから一袋のパン菓子を取出し一つ二つ喰ひながら、夫のゐる室の扉の側へ爪立足で歩みより聞耳をたて)さうよ、家にゐるわ、ラヽヽヽヽ(右手のテーブルの方へ行きながら又鼻唄をはじめる)
ヘルマー (自分の室で)そこで囀つてるのは家の雲雀かい?
ノラ (忙しげに手近の小包を開きながら)さうですよ。(一つの包みをピアノの傍のマントの下にかくす)
ヘルマー 跳ね廻つてるのは栗鼠さんかい?
ノラ えゝ。
ヘルマー 栗鼠さん、いつ歸つてきたんだい?
ノラ 今歸つてばかし(パン菓子の袋を隱しに忍ばせ口を拭ふ)いらつしやいよ、あなた、買物をしてきたから御覽なさいよ。
ヘルマー うるさいな(暫くして扉を開けペンを持つたまゝ此方を覗いて)買物をした? それを皆かい? 家の無駄使家がまたお金を撒き散してきたね。
ノラ だつてあなた、もういゝわ、少しくらゐお金を使ひに出かけたつて。やつとクリスマスが樂にできるやうになつたんですもの。
ヘルマー おい/\、無駄にお金を使つちやよくないな。
ノラ いゝぢやないの(ヘルマーにすがる)少しでいゝから無駄使ひをさして頂戴、極少しでいゝから、ね? あなた、今に山ほどお金を儲けるんぢやありませんか。
ヘルマー そりや新年からはさうだが、しかし給料の手に入るまでには、まだまる三月もあるからな。
ノラ 構ふもんですか、その間借金して置けば。
ヘルマー ノラ! (女の方へ行つて戲れに耳を引つ張り)相變らず暢氣だなあ。まあ假に今私が五百クローネも借りたとするぜ、それをお前がクリスマスの間に使つてしまふ、そして年越しの晩に屋根から瓦が落ちてきて俺の腦天を割つたとする――
ノラ (男の口に手を當てゝ)嫌よ/\! 何て嫌なことをおつしやるの(自分の耳をふさぐ)
ヘルマー まあさ、さうなつたと假定する――さうするとどうなるだらう?
ノラ そんな大變な騷ぎになつちや借金のことなんか考へてやしません。
ヘルマー けれども貸した人はどうする?
ノラ 貸した人? 誰が構ふもんですか、赤の他人ぢやありませんか。
ヘルマー こら、ノラ! お前は何といふ女だ、まあ眞面目に考へて御覽、私の主義はお前も知つてるぢやないか。一切負債をしない、借りないといふのが私の主義なんだ。借りや負債で家庭が出來上るが最後、自由な美しい生活といふものは亡びてしまふ、私達はかうして今まで踏ん張つてきたんだから今少しのがまんだ。
ノラ (ストーヴの方へ行きながら、ちよつとスカートを擴げておじぎする)畏まりました――あなたのお氣に召すやうに。
ヘルマー (跡につきながら)おい/\、家の小雲雀はそんなに羽を落してしよげちやあいけない。おや! 栗鼠さん、拗ねてるのかい? (金入を取出し)ノラこれは何?
ノラ (急に振り向いて)お金!
ヘルマー そうら! (紙幣を幾枚か與へて)無論クリスマスには色んな物の入ることはわかつてるよ。
ノラ (勘定しながら)五、十、十五、二十クローネ、まあ! 有難う、有難うね。これだけあれば當分大丈夫ですわ(隱しにしまふ)
ヘルマー どうかさうして貰ひたいね。
ノラ 實際ですよ、當分大丈夫。まあこゝへいらつしやいな、買つてきた物を見せますから。非常に安いんですよ。そら、この新しい服と小さいサーベルとがイ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ールので、こちらの馬と喇叭がボブの。それからエンミーには人形と搖籠、これはあまり平凡でしたけれども直ぐ毀しちまふんですからねえ。それから女中達のは布地と襟飾りにしました。もつとも婆やにはも少し良いものが遣りたかつたんだけれど。
ヘルマー そのこつちの包みは?
ノラ いけませんよ。それは晩まで見せないで置くの。
ヘルマー あゝ、はあ、それでお前は何を買つたんだい、いたづら屋さん。
ノラ 私? えゝ、私は何もいらないの。
ヘルマー 馬鹿をいふなよ。氣の利いたもので何か欲しいものがあるなら、いつて御覽。
ノラ いゝえ、本當にいらないの――さうね、あのね。
ヘルマー ふむ?
ノラ (男の上着のボタンをいぢくりながら顏を見ないで)あなた本當に何か買つて下さるつもりなら、あのね、ほら、あのね――
ヘルマー ふむ、ふむ、いつて御覽。
ノラ (早口に)お金を下さる方がいゝわ、いくらでもいゝから。さうすると私、自分であとから何か買ひますわ。
ヘルマー だけれど、お前――
ノラ あら、さうして下さいよ、ね、どうか。さうすればそのお金を綺麗な金紙に包んでクリスマス・ツリーに吊り下げますわ。いゝ思ひつきでせう。
ヘルマー えゝと、いつも金を撒き散らしてる者を何とかいつたつけな。
ノラ 知つてますよ、無駄使家といふんでせう。けれどもね、あなた。どうかさうして下さいよ。さうすると何が一番先に買ひたいか、私ゆつくりと考へますわ、その方が利口でせう?
ヘルマー (微笑しながら)全くさうだ。たゞお前が自分の物を買ふ時までその金を持つていられゝばいゝがさ。みんな家の用だの下らない買物だのに無くしてしまつて、そして私がせびられるんだからな。
ノラ まあ、あなた。
ヘルマー 嘘だといふのかい? (女を片手に抱いて)こんな可愛らしい雲雀が隨分と物凄く金を使ふものだ。お前ほどの小鳥を一羽飼ふためにどれ位金がかゝるか人にいつたつて本當にはしないからねえ。
ノラ およしなさいよ、そんなこと。私、殘せるだけは殘しますわ。
ヘルマー (笑ひながら)よかつたね――殘せるだけ殘しますは――所が一向殘せません。
ノラ (得意さうな體で鼻唄、にこ/\しながら)ふむ、私のやうな雲雀や栗鼠がどの位お金を使ふか、今にわかるでせうよ。
ヘルマー お前は不思議な人間だ。丁度お前のお父つあんのやうだ。いつも金ばかり欲しがつてゐて、それで金が手に入ると、もう指の間からでもこぼすやうに無くしてしまふ。何に使ふんだかわかりやしない。が、まあいゝさ、ま、お前はいつまでも、お前でゐて貰ひたいな、かうやつて可愛らしい小鳥のやうに囀つてね。おや何だかお前は變に怪しいぜ、今日は。
ノラ 私?
ヘルマー あゝ、さうだ。こつちを向いて御覽。
ノラ (夫の方を見ながら)はい。
ヘルマー (指でつゝく眞似をしながら)此奴、今日はいけないといふ物を食べたな。
ノラ 嘘ですよ、ひどい人。
ヘルマー 菓子屋をちよつぴり覗きやしなかつたか?
ノラ 嘘ですよ、あなた、本當に。
ヘルマー ゼリーを一なめやりはしなかつたか?
ノラ 嘘、誰がそんなことをするものですか。
ヘルマー パン菓子を一つ二つ摘みやあしなかつたか。
ノラ 嘘ですつてばねえ。
ヘルマー よし/\、冗談だよ。
ノラ (右の上手のテーブルの方へ行き品を包む)あなたがいけないといふことを何で私がするものですか。
ヘルマー さうだらう/\。お前は誓つたんだものな(女の方へ行きながら)ぢやあ、まあお前が企んでることはクリスマスの祕密として取つとくさ。今にクリスマス・ツリーにあかりをつければみんなわかることなのだらう。
ノラ あなた、ランク先生をよぶことを忘れはなさらなくて?
ヘルマー 忘れちやつた。けれどもいゝよ。無論くるだらう。今日にもきたらさういはう。それからね、上等の葡萄酒を誂へて置いたぞ。私がどんなに今夜を待ち焦れてゐるか、お前には想像できまいね。
ノラ 私だつてさうですわ、子供がどんなにか嬉しがるでせう、ねえ。
ヘルマー あゝ、地位は固まるし、金は取れるし、素晴らしい勢だ。考へると實に愉快ぢやないか。
ノラ えゝ、すてきですわ。
ヘルマー お前去年のクリスマスのことを覺えてるかい。まる三週間も前から、お前は皆を驚かさうといふんで部屋に引込んだまゝ夜中過ぎになつても寢ないでクリスマス・ツリーの花だの色んな飾りだのを拵へたつけ、私はあの時ほど退屈したことはない。
ノラ 私はまた退屈するどころぢやあなかつたわ。
ヘルマー (笑ひながら)それで結果はどうかといふとまるで形なしでねえ。
ノラ あら、あなたは、またそんなことをいひ出して私をからかふつもり? だつて仕樣がなかつたんですもの。猫が入つてきてすつかり壞しちまつて。
ヘルマー さうだつたな、可愛さうに。お前は皆を喜ばせてやらうと思つて一生懸命になつたんだから、まあその志だけで澤山さ。とにかく去年は苦しかつたが、それが昔話になつたのは目出たいな。
ノラ ねえ、すてきですわね。
ヘルマー もう私もこゝに坐つて、獨りで退屈してる必要もなし、お前だつてその可愛らしい目や細つそりした指で夜通しかゝつてクリスマスの飾りをこしらへる必要もなしさ。
ノラ (手を打ちながら)えゝ、そんな必要もなくなりましたわねえ、全く考へるとすてきですわ(男の腕を取り)だから私、今日はあなたにお話しますわ、これから先どういふ風にやつて行くかといふ私の考へを、ね、クリスマスがすむと――(廊下の入口のベルが鳴る)ベルが鳴つてよ(室内を片づけながら)誰かきたんですよ、うるさいわね。
ヘルマー 俺は留守のことにして置くのだよ、忘れちやいけないよ。
エレン (室の入口で)奧さまご婦人の方がお出でになりまして、お目に掛りたいとおつしやいます。
ノラ 誰だらう? お通しして。
エレン (ヘルマーの方へ)それからお醫者さまも、いらつしやいました。
ヘルマー 書齋の方へか?
エレン はい。
(ヘルマーは書齋に入る。エレンが旅行服姿のリンデン夫人を通して跡の扉をしめる)
リンデン (おづ/\とためらひながら)ノラさん、お變りもなく。
ノラ (不審げに)お變りもなく。
リンデン お忘れなすつたでせうねえ。
ノラ はあ、つい――あ、さう/\――たしか――(俄に元氣づいて)まあどうしたんでせう、クリスチナさん! 本當にあなたでしたのね。
リンデン えゝ、私ですわ。
ノラ クリスチナさん、まあ、あなたを見忘れるなんてどうしたんでせう。だけどまるつきり――(一層柔かに)あなた隨分お變りになつてね。
リンデン えゝさうでせうとも。九年か十年の間。
ノラ お別れして、もうそんなになりますかねえ。さうね、さうなりますわ、あゝ、この八年ばかりは私本當に幸福でしたのよ。でかうしてあなたがいらして下すつて、よくまあ此の冬空に遙ばると出てらつしやつたわねえ。勇氣があるわ。
リンデン 今朝の汽船で着きました。
ノラ 樂しいクリスマスをしようと思つてでせう? よかつたわね。えゝ、愉快にやりませうよ。まあ、そんな物お取んなさい。冷えるでせう? (手傳ひながら)さあこれでいゝわ、火の側でゆつくり話しませうよ。いえ、あなた、その肱掛椅子におかけなさい。私はこの動く方がいいの(リンデンの兩手を取つて)なるほど、かうやつてみると、やつぱり昔の懷しい顏だわ。初めちよつと見た時には、さう思はなかつたけれど――たゞ少し顏色が昔よりか惡いやうよ、それから幾らかお痩せになつたんでせう。
リンデン それにね、お婆さんになつたんですよ。
ノラ さうね、幾らか年もお取りになつた――けどそんなぢやなくつてよ――ほんの少うしばかり(突然話を切り眞面目になつて)まあ、私なんといふうつかり者でせう。お喋りばかりしてゐて――クリスチナさん許して下さいね。
リンデン 何をです?
ノラ (柔らかに)あなた、お氣の毒ねえ、私忘れてゐた。未亡人にお成りになつたんでせう?
リンデン えゝ、あの人が亡くなつてから三年になります。
ノラ さう/\それでね、本當はね、手紙を差上げるつもりでしたの、ところが延ばし/\してる中に色んなことが起つたもんですから。
リンデン それはノラさん、よく承知してゐますよ。
ノラ いゝえね、申譯がないんですよ。でも本當にあなたはお可愛さうねえ。隨分色んな目におあひなすつたでせう? そして遺産もなんにも無いのですか?
リンデン 何もありません。
ノラ お子さんは?
リンデン 子供もないんですよ。
ノラ まるつきり何も無いんですね?
リンデン 無いつたら、それこそ、心配の種も無ければこれから先どうといふ望み一つも殘つちやゐないんですよ。
ノラ (不思議さうにリンデンを見て)だつてクリスチナさん、まあどうしてそんなことが。
リンデン (微笑しながら髮の毛を撫でて)それはあなた、折々そんなことになるものですよ。
ノラ まるで一人ぼつち! どんなにか心細いでせうねえ。私は三人子供を持つてゐますが可愛んですよ。今乳母と外へ行つてゐますからお目にはかけられないけど。それはさうと、まああなたのお話をすつかり聞かせて下さい。
リンデン いえいえ、あなたこそ、どうぞ。
ノラ いけませんわ、あなたからお始めなさいよ。今日は私自分のことはお話したくないんですから。今日はあなたのことばかし考へてゐたいんですから。あ、さう/\、一つだけお話することがありますわ――だけど、もうお聞きになつたでせう、主人が大變な出世をしましたことを。
リンデン へえ、どうなさつたの。
ノラ まあどうでせう、主人が銀行の支配人になつたんですよ。
リンデン ご主人が? ほんとにお仕合せねえ。
ノラ えゝ、まあ、辯護士なんてものは、きまつた當のない職業ですからね。ちよつとでも暗いことのある仕事はすまいとなると尚のことさうですし、主人は勿論暗いことが大嫌ひで、私だつてその主義ですから、とてもやり切れませんわ。それで今度は私ども、どんなにか喜んだでせう? 新年からそつちへ行くことになつてるのですよ。給料もどつさり取れて配當もあるんですからねえ、これからは、すつかり今までと違つて見違へるやうな暮しができます――實際どんな暮しでも好きなことができるんですよ。あゝ私、本當に氣が浮き/\して幸福ですの。お金が澤山あつて心配ごとは少しもなし、申分ないでせう。
リンデン えゝ、いるだけのものが取れゝばね、幸福に相違ありません。
ノラ いるだけぢやありませんよ、お金が山ほど――山ほど取れるんですもの。
リンデン (微笑しながら)ノラさん、あなたはいまだにねんねえですのねえ。ご一緒に學校に行つてる頃から、大變お金を使ふことの好な方でしたつけが。
ノラ (靜かに微笑しながら)えゝ今でもさうですつて、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトがいつてますのよ(指で突く眞似をしながら)けれどもね、この「ノラさん」は皆が考へてる程馬鹿ぢやあないんですよ。本當は私まだそれほど無駄使ひ家になれる身の上ぢやないんです。夫婦共稼ぎでしたもの。
リンデン あなたがですか?
ノラ えゝ、ちよつとした手細工仕事をよ、編物だの刺繍ぬひとりだの、まあそんなことをね(意味ありげに)それから、もつと外のこともしましたの、無論ご存じでせうがトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトは結婚するとすぐ役所の方を引きました。というのは、あんまり出世の見込もなかつたし、お金は段々いつて來ますしね。それやこれやで結婚した當座一年といふもの、あの人が無理な仕事をしたんです。何でも構はないからといふので朝早くから晩くまで色んなことをしてたうとう病氣になつて倒れちまつたのです。それでお醫者は是非南ヨーロッパの方へ轉地しろといふんでせう。
リンデン えゝ/\、たしかイタリアに一年行つてらつしやつた?
ノラ 行つてましたの。ですけれど、それまでの算段が容易ぢやなかつたんですよ。丁度イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ールが生れたばかりでしてね、それかといつて止す譯にはいかないから、まあやりくりをして出かけたんですが、旅行はいゝ旅行でしたわ。トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの命もそのお蔭でとりとめますし、たゞクリスチナさん、かゝりが大變でしてねえ。
リンデン さうでせうとも。
ノラ 千二百ターレル、隨分かゝつたでせう?
リンデン そんなお金があつたのですから、結構ですわ。
ノラ それは私の父の手元から出たのです。
リンデン なるほどね、あなたのお父さんは、丁度あの時お亡くなりでしたね。
ノラ えゝ、さうですよ、それでどうでせう。私行つて看護することもできなかつたんですよ、イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ールの生れるのを今日か/\と待つてた時でしてね、そしてそれがすむと今度は主人があの病氣で私はその方へつきつきりでせう? 私をあんなに可愛がつてくれた父ですけれど、可愛さうにそれつ切り會へないで死んぢまひました。結婚してから一番辛かつたのは、あの時ですわ。
リンデン あなたは大變お父さん思ひでしたわね。で、それからイタリヤへいらつしやつたの?
ノラ えゝ、お金はできますし、お醫者は是非といふもんですから、一ヶ月ばかりして立ちました。
リンデン それですつかり良くおなりなすつたのですか?
ノラ すつかり丈夫になりました。
リンデン ですけれど――さつきのお醫者さまは?
ノラ 何ですの?
リンデン 私、こちらへ參つた時に、丁度女中さんがさう申してゐやしませんでしたか?
ノラ えゝ、えゝ、ランク先生。あの人はね、病氣を見に來るんぢやありません。私共の親友でして、毎日缺かさず、あゝやつて話しに來るんですよ。トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトはその後一日でも病氣で寢たことなんかありません。それから子供も丈夫で元氣ですし、私もこの通りぴん/\してゐるでせう(とび上つて手を叩き)ねえ、まあ、クリスチナさん、生きてゐられて、それで幸福でさへあれば、これ程結構なことはありませんねえ。あら、私まあ、本當にどうしたんでせう、自分のことばかり喋つてゐて(すぐ前にある足載臺の上に坐りクリスチナの膝に兩手をかけて)どうぞね、怒らないでゐて頂戴。さあ今度は私が聽き手ですよ、實際ですか、あなたはお連れ合を愛していらつしやらなかつたといふのは? それでどうして結婚なすつたの?
リンデン その頃はまだ私の母が生きてまして、床へ就いたきり動けなかつたのですよ。で、一方には二人の弟の世話もしなくちやならないし、いつそのこと、あの人から申込んで來たのを幸ひ、身を固めるのが私の義務かと思つたのです。
ノラ それはねえ。で、その方は金持だつたんでせう?
リンデン 工面がよかつたやうですよ。けれども、やつてる事業が手固く行かなかつたもんですから、あの人が亡くなると一緒に目茶々々に壞れてしまひましてね、塵一つ殘らない目に逢ひました。
ノラ それから?
リンデン それから色々工夫しまして店を開いてみたり小さな學校もやつてみたり、できるだけのことはしてみました。この三年間は私に取つちや、長い絶間のない戰爭でしたよ。けれども、もうそれも終へました。心配してゐた母は、もう私に用のない身になつて墓場へ行くし、弟達は仕事の口があつて獨立してやつてゐます。
ノラ さぞ、自由な身になつたとお思ひでせうね。
リンデン いゝえ、ノラさん、何ともいへない淋しいものですよ。誰を當に生きてるといふぢやなし(いらいらした樣子で立ち上り)私があんな邊鄙な處に居たゝまらなくなつたのもそのためです。こちらへ來たら本當に仕甲斐のある仕事が見つかるだらうと思ひましてね。何でもいゝから私の氣を外へ散らさせない仕事がしたいと思ひますのよ。何かきまつた勤め口でもあればいゝんですがねえ――會社へでも出るやうな――
ノラ だけどクリスチナさん、そんなことは氣の詰るものでせうよ。あなたは大變疲れていらつしやるやうだから、それよりか温泉にでも行つて保養した方がよかありません?
リンデン (窓の方へ行きながら)私にはお金を出してくれる父もゐませんし。
ノラ あら、お氣に障つたらご免なさいね。
リンデン (ノラの方へ行きながら)ノラさん、ねえ、私こそお氣に障つたらご免なさいよ。私のやうな不幸な身になりますとね、氣難かしくばかりなつてね、誰を當ともなく、それでゐていつも油斷してはゐられないし、第一生きて行かなくちやなりませんから、どうしても手前勝手になります。さつきもあなた方がお仕合せな身分にお成りだと聞いた時は――お恥かしいことですが――私、あなた方よりも自分のために、まあよかつたと思つたのですよ。
ノラ といひますと? あゝわかりました。主人があなたのために盡力してくれるだらうと仰有るのでせう?
リンデン えゝ、さう思つたのですよ。
ノラ 盡力させますとも。そのことはすつかり私にお任せなさい。私が何かあの人の氣の向くやうにうまいことを考へて、見事にやらせて見せます。本當にまあ私、何かあなたのおためになるやうなことがしたいわ。
リンデン 美しいご親切ですわねえ。美しいといへば、あなたのご氣性は本當に美しい、浮世の荒い波風に揉まれていらつしやらないから。
ノラ 私が? 揉まれてゐないんですつて――?
リンデン (微笑しながら)さうですね、少しばかりの内職くらゐのものでせう。全くのねんねえでいらつしやるのですよ。
ノラ (頭を立てゝ室内を歩く)おや/\、そんなにねんねえ扱ひにするもんぢやありませんわ。
リンデン ぢやあないんですか?
ノラ あなたも外の人と同じことねえ、みんな寄つてたかつて、私をまるで眞面目なことの出來ない人間にしてしまつてよ。
リンデン それはね――
ノラ 私、この窮屈な世間の苦勞をまるで知らないと思つてらつしやるのね。
リンデン だつてノラさん、あなたは今、これまでの苦勞をみんなお話なすつたぢやありませんか。
ノラ ほゝ――あんな詰らないこと! (柔かに)私まだ大事件をお話してませんわ。
リンデン 大事件ですつて? どんなこと?
ノラ あなたが私を見くびつていらつしやるのは知つてますけどね、あなたにその權利はないわよ、お母さんのために長い間一生懸命お働きなすつたといふのが、あなたの誇りでせう?
リンデン 私、決して人樣を見くびりなんかしません、もつとも、私が母の最後を安樂にしてやつたことは、考へると嬉しくもあり誇りとも存じてゐます。
ノラ それから、あなたのご兄弟のためにお盡しなすつたことも誇りでせう?
リンデン 當り前のことぢやありませんか。
ノラ 無論ですとも。で今度は私の番ですがね。私も嬉しく思つて誇りにしてゐることがあるのですよ。
リンデン さうでせうとも。どうかそれを聞かせて下さい。
ノラ しつ! 大きな聲をしちやいけませんよ。トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトが聞かうものなら大變です。あの人にはどんなことがあつても聞かせられないことなんです。――誰にも知らさないで――たゞあなただけにですよ。
リンデン どんなことでせう?
ノラ まあ此處へいらつしやい(自分の傍へ、ソファに坐らせて)さうですよ、私、誇りにして喜んでゐることが一つあるのですよ。トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの命を救つたのは私です!
リンデン 命を救つたとおつしやると? どうしてです?
ノラ 私共のイタリヤに行つたことをお話したでせう? あの時、もしイタリヤに行かなかつたら、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトは死んでしまつたのですよ。
リンデン えゝ、それであなたのお父さんがお金を下すつて。
ノラ (微笑しながら)えゝ、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルト始めみんなさう信じてゐますけれどね。
リンデン けれども、どうしましたの?
ノラ 父は一文もくれたのぢやありません、私がそのお金を拵へたのです。
リンデン あなたが? すつかりそのお金を?
ノラ 千三百ターレル、四千八百クローネ。どうでせう?
リンデン まあ、ノラさん、どうしてそれが出來ました? 富籤でも當つたの?
ノラ (蔑んだ樣子で)富籤ですつて? そんなことならどんな馬鹿にでも出來ますわ。
リンデン ぢや何處からそのお金を手に入れたの?
ノラ (鼻唄を唄ひ、不思議な微笑を見せる)ふむ。ツラ、ラ、ラ、ラ。
リンデン 無論、借りる譯には行かなかつたでせうし。
ノラ 借りられないつて? なぜ?
リンデン だつて、妻が夫に内證で借金をする譯には行きますまい。
ノラ (頭を立てゝ)ですけれどね、少し實際のことを知つてゝ、手筈をさへ心得てゐれば何でもありませんわ――
リンデン ですけれどノラさん。私わかりません――
ノラ えゝ、おわかりにならないで、ようござんすよ。私、借金をしたとは申しません、何か外のことで儲けたんでせうよ。(ソファにかけたまゝ後へすがつて)誰か私を崇拜してる男からでも貰つたんでせう。これでもねえ――私くらゐの女なら――
リンデン ノラさん、あんまり駄々つ子過ぎますよ。
ノラ さうらね、わからないでせう? 不思議でせう?
リンデン まあお聞きなさい、ノラさん。あなた、少し亂暴ぢやなかつたんですか?
ノラ (眞直に坐わり直して)夫の命を救ふのが亂暴ですつて?
リンデン 亂暴といふのは、御主人に知らせないで――
ノラ けれども知らせたら命に障つたかも知れない場合ですもの。わかつたでせう? あの人は自分でどの位惡いか知らなかつたんです。醫者がそつと私の所へ來て命が危いから南ヨーロッパの旅行でもしなくちや、救ふ道はなからうと言ふのです。ですから私、最初に外交術を使ひましたの、それくらゐのことをしなくてどうするものですか。若い内は何處の細君でもやるやうに、外國旅行が是非したいといつて頼みました。泣いてせがんでやつたのですよ。私のことも考へて下さい、私のいふことに逆つてはなりませんてね。そしてお金は借りたらよからうと、それとなくいつたのです。さうすると、あなた、怒鳴らないばかりに怒りましてね、輕噪けいさうな奴だ、そんな出來心や空想は止めるのが夫の役目だといふのです――出來心や空想ですとさ。そんな風ですから、私は、よろしい、とにかく命は救つて上げなくちやあならないと決心しましてね、その方法を立てたのですよ。
リンデン そしてお宅では、そのお金のことを、先方からお聞きにはならなかつたのですか?
ノラ いゝえ、ちつとも。ちやうどその間際に父が死んだのですよ。私父に話して、宅へは何もいはないやうに頼んで置かうと思つたのですが、病氣が募つて――可哀さうに、口止めする必要もなくなつてしまひました。
リンデン で、御主人には何も打ち明けてはいらつしやらない?
ノラ 飛んでもないこと。あなた一體何を考へていらつしやるの? 借金といふことをあんなに嫌つてる人に、そんなことでもいつて御覽なさい。それにトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトのあの男らしい、獨立心の勝つた氣性で、幾らかでも私の世話になつてるといふことを聞いたら、どんなにか心苦しく、肩身が狹いでせう? それこそ私たち夫婦の仲を打ちこはしてしまひますわ。私どもの美しい幸福な家庭は二度と見られなくなりますわ。
リンデン ぢやあ一切話さないお積りですか?
ノラ (熟考の樣子で半ばほゝ笑みながら)さうですね、いつかは話すかも知れません――幾年かたつて、私がもう――あんまり美しくなくなつたら。あなた笑つちやいけませんよ。つまりね、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトが今のやうに私を愛してくれなくなつて、いくら私が跳ね廻つて、衣裳をつけたりお芝居をして見せたりしても、もう面白いと思はなくなつたら、その時取つて置きの材料があると都合がいゝでせう? (急に話を切り)あゝ、馬鹿々々しい! そんなことになつて堪るものか。それで、あなた、どう思つて? 私の大祕密を。やつぱり私には何も出來ませんか? これだけのことをするには、私、隨分苦心しましたよ。きちん/\と義務を果たして行かうと思へば、冗談ごとでは出來ません。貸借上のことでね、年賦拂といふのと年四季の利子勘定といふのとがあります。それを間違ひなくすませて行かうとすると實に骨ですよ。そのために手の屆く限り、そこら中から少しづつ掻き集めなくちやならず、それかといつてトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトにそんな非道い暮しもさせられませんから家の費用を剩すといふ譯にも行きませんしね、子供にだつてあまり非道いなりをさせて出したくもありませんから子供達に宛てた金はみんなそのために使つてしまひますし。
リンデン 骨が折れたでせうね、ノラさん。つまり皆なあなたのお小遣から出た事になるんですね。
ノラ さうなのです。つまり何もかも私獨りでやつたことになるでせう? 主人が着物を買へとか何とか云つてくれるお金を半分以上使つたことはつひぞありません。まあそれはいゝとして、その外にも私、別口でお金を拵へましたのよ。去年の暮大變好い都合でしてね、寫し物をどつさり頼まれました。けれどもあんな風に働いてお金を儲けた時は、いゝ氣持ですことねえ、まるで男になつたやうな氣持ですわ。
リンデン そんなにして今までにどのくらゐ借金しました。
ノラ さうね、正確にはわかりませんわ。そんなことといふものは、はつきりさせておくことのむづかしいものですからね、私たゞ丹念に集めて來ただけの金を、すつかり拂つて來たことは知つてゐます。時々は實際何處へすがつていゝかわからないこともありました(微笑して)その時には私、いつも此處に坐つて想像して見ますの、誰かお爺さんの金持があつて私を愛してくれて――
リンデン え、誰ですつて――
ノラ なあに誰でもないんですよ――そしてその人が死んぢやつて遺言状を開けてみると大きな字で「予が死する時所有せし一切の財産を直ちに彼の愛らしき人ノラ・ヘルマー夫人に讓渡すべし」と書いてある。
リンデン ですけど、ノラさん、あなた誰のことをいつてるのです?
ノラ おや/\、わからないのですか? 誰もお爺さんがゐるのぢやありません。たゞいつも私がお金の工面に盡きた時、獨りで想像して見る人なのですよ、だけど、もうそんなこともいらなくなりました――あの辛氣しんきくさい爺さん、私に用があるなら何處にでも待つてるがいゝや。私、そんな人に用もなければ遺言状にも用はない、私の心配ごとはもうすつかり無くなつたのですから(とび上りながら)ねえ、クリスチナさん、考へると、本當に大したことなのですよ。心配ごとがなくて自由の身になつて。自由です。すつかり自由なんです。これでもう子供と一緒にきやつきやつと騷ぎまはつてゐても差支へなし、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの好きなやうに家の中も綺麗に飾つたり、さうしてる中に春が來て、あの廣い青い空が見えて來ます。その頃にはちよつとした休みも取れるでせうし、も一度海も見られるでせう。ねえ、生きてゐられて幸福だといふことは何といふ素晴らしいことでせう。
(廊下口のベルが鳴る)
リンデン (立ち上りながら)ベルが鳴ります。私はお暇した方がいゝでせう。
ノラ いゝえ、まあいゝんですよ、來たのはきつとトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの客ですから。
エレン (入口の所で)奧さま、お客樣が見えまして旦那さまにお目にかゝりたいとおつしやいます。
ノラ 誰方? 支配人さんはとおつしやつたらう。
エレン はい、支配人さまと――でもあちらにはランク先生がいらつしやいますからお通してもよろしいかと存じまして。
クログスタット (廊下への入口で)私です、奧さん。
(エレン去る。リンデン立つて窓の方へ向ふ)
ノラ (一足男の方へ行き、心配氣にやゝ聲高く)あなたですか? 何です、主人にどんなご用があるんですか?
クログスタット 銀行の用事――といつてもいゝでせうな。私はあの銀行でちよつとした仕事をしてゐますが、今度ご主人があすこの新支配人にお成りになると聞きましてね。
ノラ それで?
クログスタット ごく詰らない用事ですがね、奧さん、たゞそれだけですがね。
ノラ ぢやどうか書齋にゐますからお通り下さい。
(クログスタット行く。ノラ無雜作に腰を屈め廊下への扉をしめる。そしてストーヴの傍により、火をおこす)
リンデン ノラさん、誰方でした?
ノラ クログスタットさんといつて、もと辯護士をしてゐた人です。
リンデン ぢや、やつぱりさうだ。
ノラ あなたご存じ?
リンデン もと知つてました――よほど前のことです。私どもの町の辯護士の所にゐましたつけ。
ノラ えゝ、さうですつてね。
リンデン あの人も隨分變りましたわねえ。
ノラ たしか結婚をしてうまく行かなかつたんでせう?
リンデン ぢや、今は獨身?
ノラ 大勢の子供をつれてね。さあやつと燃えつきました。(ストーヴの戸を閉め、ロッキングチエアを少し側によせる)
リンデン あの人のやつてる仕事はあまり立派なことぢやあないつてますね。
ノラ さう、さうかも知れません。私知りませんわ。仕事の話なんか止しませうよ――面白くもないから。
(ランクがヘルマーの室から出て來る)
ランク (入口に立つたまゝ)なあに/\私にお構ひなく。私はちよつと奧さんの所へ行つてお喋りをして來るから(扉を閉ぢる、リンデン夫人のゐるのを見て)や、失禮、こつちでもお邪魔になりさうだな。
ノラ いゝえ、ちつとも(二人を紹介する)ランク先生――リンデンの奧さん。
ランク あさうですか。お名前は度々伺ひました。さつき此方へ上つて來る時階段でお先へ失禮したのが、たしかあなたでしたね。
リンデン はあ、私ゆつくり/\と歩くものですから。上り下りに骨が折れるので。
ランク あんまりお丈夫でない?
リンデン たゞ無理な仕事をしたせゐですけれど。
ランク あゝ、それで此方へ來て少し呑氣に保養をなさらうといふのですね。
リンデン いえ、此方へ參つたのは、職を求めたいと思ひまして。
ランク それぢやあ療養にはなりますまい、無理な仕事をなすつて疲れておいでなのに。
リンデン でも生きなくてはなりませんもの、先生。
ランク さやう、世間ではさういつてますね。
ノラ あら先生、あなただつて生きてゐたいとお思ひでせう?
ランク さうに違ひありません。私の生涯がどんなに慘めだらうが、やつぱり出來るだけは長く引つ張つてゐたい。私の所へ來る患者もみなさういふ熱病に罹つてゐます。道徳上の患者だつて同じことだ。今丁度ヘルマー君が話してゐる人物なども、その仲間の一人です。
リンデン (柔かに)まあ!
ノラ 誰のことですか?
ランク あのクログスタットといふ奴ですよ。奧さん、あなたは何もご存じないが――心のどん底まで腐つた奴です。所があんな奴までが口を開けば眞面目くさつて生きなくちやあなりませんからなんていつてましたよ。
ノラ さう? そしてトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトにどんな用事があるといつてました?
ランク 實は私、何も知らないのですがね、話の樣子ぢや何でも銀行の事務に關したことらしかつたですよ。
ノラ 私はちつとも、あいつが――あのクログスタットさんが銀行に關係してゐるといふことを知りませんでしたわ。
ランク 何か詰らない仕事をしてるのです(リンデン夫人の方へ)何ですか、あなた方の地方でも、わざ/\道徳上の傷物を嗅ぎ出してほぢくり廻す連中がありますか? そして、何か事件が見つかると、その男を良い地位に据ゑて置いて見張つてゐるに都合のいゝやうにする。そんな連中に限つて道徳的な人間は相手にしないのです。
リンデン えゝ、それはさうでせうけれど――さういふ病人にこそ、尚のこと醫者の必要があるのぢやないのでせうか。
ランク (肩を搖つて)それだ! その考へからして人間社會を病院にしてしまふのです。
(ノラは自分獨りで何か考へ込んでゐたが、半ば押潰したやうに笑ひ出す)
ランク 何がをかしいのです。あなたは社會がどういふものかご存じですか。
ノラ 社會なんてそんな面白くもないものに、何でかゝり合ふものですか。私の笑つたのは他のことですよ――とても面白いこと。ねえ先生、何ですか? あの銀行に使はれてる者は、みんなもうトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの自由になるのですか。
ランク それがあなたにとても面白いことなのですか?
ノラ (微笑、鼻唄)いゝんですよ/\(室内を歩き廻る)さうなの、全くさう思ふと愉快ですよ、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトが、そんなに多勢の人を自由にする身分になつたと思ふと(隱しから小さい紙袋を取出す)ランク先生、お菓子を召上りませんか?
ランク おうやおや――菓子? 菓子はこの家ぢや禁制品だと思つてたが?
ノラ さうです、けれどもクリスチナさんが持つて來てくれましたの。
リンデン あら! 私が?
ノラ いゝえ、よくてよ。びつくりしなくても。あなたは主人がこれを禁じたことをご存じなかつたんですもの。實はね、私の齒に惡いからといふんで、主人がそれを心配するのですよ。けれど構ふものですか、一度つきり――これはあなたに、ランク先生(パン菓子を一つランクの口に入れてやる)それからクリスチナさんにも。それから私の番――ほんの小さいのを一つ、精々で二つ(又歩き廻る)あゝあ、實際私は幸福ね、けれど世の中にたつた一つ、是非やつてみたいと思つてることがあるわ。
ランク へえ、何です?
ノラ トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの聞いてる前で――是非いつて見たいと思ふことがあるんですよ。
ランク ぢやあ何故言はないのです?
ノラ 言へないのですもの、大變無茶なこと。
リンデン 無茶なこととは?
ランク そんならいはない方がいゝ。だが私達だけにはいへませう? ヘルマー君に聞かせたいといふのはどんなことです。
ノラ 馬鹿野郎ッ! といつたらどんなにいゝ氣持でせう。
ランク 奧さん、氣が違やしませんか?
リンデン まあどうしたんです、ノラさん。
ランク いつて御覽なさい――ちやうどあすこに來たから。
ノラ (菓子を隱す)しいつ!
(ヘルマー、手に帽子を持ち、腕に外套をかけて自分の室から出て來る)
ノラ (ヘルマーの方へ行きながら)ね、あなた、あの男の用は濟んだのですか?
ヘルマー あゝ、あの男は今歸つたよ。
ノラ ご紹介しますよ、クリスチナさん、丁度此方へお出になつて――
ヘルマー クリスチナさん? 失禮だが誰方だつたか――
ノラ リンデンの奧さんですよ、あなた――クリスチナ・リンデンとおつしやつて。
ヘルマー (リンデン夫人の方へ)さうしますと、たしか、妻の學校友達でいらつしやつたのですな。
リンデン はい、子供の時分からご懇意に致してをります。
ノラ でねえ、まあどうでせう、この遠い處をあなたにお話がしたいつて、いらつしやつたのですよ。
ヘルマー 私と話がしたい?
リンデン は、いゝえ、さういふ譯でも――
ノラ え、あなた、クリスチナさんは計算が非常にお上手なんですよ。ですからどうか第一流の事業家に使つてもらつて、もつと修業がしたいといふお考へなのです。
ヘルマー (リンデン夫人の方へ)それは結構ですな。
ノラ それから、あなたが今度支配人になつたといふことをお聞きになつて――それは勿論新聞で知れたでせうから――それで直ぐ思ひ立つてお出でになつたのですよ。ですからね、あなたよくつて、私を助けると思つてどうかして上げて下さらなくちやいけないわ。出來て?
ヘルマー 出來ないこともないが、未亡人でお出でのやうですね。
リンデン はあ。
ヘルマー で、會社などの事務にご經驗がありますか?
リンデン 充分ございます。
ヘルマー はゝあ、それなら何處かへお世話が出來さうですな。
ノラ (手を拍ちながら)そうらご覽なさい! そうらご覽んなさい!
ヘルマー 丁度いゝ時にお出でになつたのですよ、奧さん。
リンデン 本當にお禮の申しやうもございません。
ヘルマー (微笑しながら)どう致しまして(外套を着る)私はちよつと御免蒙りますから――
ランク 待ち給へ、私も一緒に行かう。(廊下から毛皮の外套を取つて火に暖める)
ノラ 直ぐ歸つて來て、よくつて。
ヘルマー ちよつと一時間ばかり。
ノラ あなたもお歸り? クリスチナさん。
リンデン (外出の支度をしながら)えゝ、これから下宿を探さなくちやなりませんから。
ヘルマー ではご一緒に出かけませうか?
ノラ (リンデンの世話をしながら)家に明いた部屋があるといゝんですけれどねえ、みんな使つてゐるので。
リンデン とんでもないこと、こちらへそんなご迷惑をかけてすむものですか。さようなら、あなた色々とご親切にありがたうございました。
ノラ さようなら、又すぐお目に掛りませう。無論今晩またいらつしやるでせうね? それから、あなたもね、先生。え? 達者でゐたらでしよ? 達者にきまつてるぢやありませんか。澤山着て、暖かにさへしていらつしやれば大丈夫ですよ。(皆々話しながら廊下へ出て行く。外では階段の上で子供達の聲が聞える)來た來た。(ノラ走つて行つて扉を開ける)お這入り、お這入り(屈んで子供に接吻する)おゝ、いゝ子/\。御覽なさいよ、クリスチナさん。可愛いゝでせう?
ランク 吹きさらしでお喋りをしてゐちやいけませんよ。
ヘルマー さあ、リンデンの奧さん、母親でなくちや此の寒さにあゝしてゐられるものぢやありません。
(ランク、ヘルマー、リンデン夫人、皆々階段を下りて行く。アンナが子供を連れて室に入る。ノラも一緒に入つて來て、エレンが扉をしめる)
ノラ お前たち、まあ元氣だわねえ。頬つぺたの赤いこと――林檎かバラの花のやうですよ。(イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ール「あゝとても面白かつた/\」と叫ぶ)とても面白かつたつて? それはよかつたね。(イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ール「ボブとエンミーを橇にのせてやつたの」ボブ「僕のつたの」)お前がエンミーとボブを橇に乘せてやつて――二人一緒に? まあねえ、おや/\、イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ールはすつかり大人だわねえ(イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ール「いゝかい、橇だよ」子供達、橇のまね、下手へ行き、又上手へ)アンナ、その子を少し私にお貸し、いゝ子の人形さん(末の子を保姆から取つて抱いたまゝ踊る、ボブ「ママ、僕と踊らうよ、ママ/\/\」)はい/\、お母さん、今にボブとも踊るよ。(イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ール「ママ、僕雪投げしたの」)え! 雪投げをしましたつて? おゝ、私もお仲間に入りたかつたね。(アンナ、子供達の服を此處までの間に脱がせてやる)いゝえ、みんな、さうしてお置きよ、私が脱がせてやります。私にさせておくれ(ボブ「本當に面白かつたよ、ママ」)面白いことねえ。お前、寒さうぢやないか、子供部屋へお出で、ストーヴの上にコーヒーの熱いのがあるわよ。(保姆は左手の室に入る。ノラ、子供の着物を脱がせて、そこら中に投げ出す。イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ール「ボブちやんさつきの犬こはかつたね」ボブ「でもあの犬食いつきやしなかつたよ」)さう! 大きな犬が家まで追つかけて來たつて? けれどもエンミーに食ひつかなかつたつて? あゝ、犬はね、エンミーのやうないゝ子に食ひつきませんて。いけませんよ、イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ールはその包を覗いちや。何だらうねえ、見たかなくつて? (イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ールさはつて「何かしら」[#「何かしら」は底本では「何かいら」])あゝ、用心おし、食ひつくよ。(ボブ「遊ばうよ/\」他の子も一緒に)え! お母さんも一緒に遊ぶのかい? 何をして遊ばうね(イ※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ール「かくれんぼしよう」)隱れんぼ? はいはい隱れんぼをしませう。ボブが先に隱れるのですよ。私が? ぢやあ私が先に隱れますよ。
(ノラ子供と一緒になつて、その室と右手隣室で笑ひ聲叫び聲の大騷ぎをする。ノラ終にテーブルの下に隱れる。子供達が駈け込んで來て探すけれど見つからぬ。そのうちノラのくす/\笑ふ聲を聞きつけ、テーブルの方へ駈けて來て覆ひの布をもち上げ母を見出す。一しきり大騷ぎ。ノラは子供をこはがらすやうな風で這つて出る。また一しきり大騷ぎ。その間、廊下への扉を叩く聞えてゐたが、誰も氣がつかぬ樣子。やがて扉が半ば開いて、クログスタットが出て來る。しばらく待つてゐると遊び事がまた始まる。)
クログスタット 奧さん、ご免なさい。
ノラ (押しつけたやうな叫聲で振り向き、半ばとび上る)お! 何かご用ですか?
クログスタット 失禮致しました。外の戸が開いてゐましてね、誰か閉めるのを忘れたのでせう――
ノラ (立ち上りながら)宅は今留守ですよ。
クログスタット 承知してをります。
ノラ ぢやどういふご用でいらつしやつたのです?
クログスタット あなたに少しお話し申すことがありましてね。
ノラ 私に? (子供の方を向いて柔かに)アンナの方へ行つてお出で。ママちよつとご用があるから。あの人が歸つたらまた遊びませうね(子供を左手の室へやり後をしめる、心配さうに息を潜める)私にお話があるとおつしやるのですか?
クログスタット はい。
ノラ 今日? だつてまだ一日にはならないぢやありませんか――
クログスタット なりません。今日はクリスマスの宵祭です。そこで、あなたのお考へ一つでクリスマスが愉快にも不愉快にもやれようといふものです。
ノラ どうなさらうといふんです? 今日は私少しも用意してませんから――
クログスタット その方はいまご心配には及びません。お話は外のことですが、ちよつとの間お差支へありますまいか。
ノラ さうですね、構ひませんけれど、たゞ――
クログスタット よろしうございます。ご主人のお出かけになるのを、私この向ふの料理屋に待つてゐて、突きとめたものですからな。
ノラ それで?
クログスタット 一人のご婦人と。
ノラ それがどうしました?
クログスタット もしやあのご婦人はリンデンの奧さんといふのぢやありませんか?
ノラ えゝ。
クログスタット 此方へお出でになつた許り?
ノラ えゝ今日。
クログスタット お親しくしておいでなさるのでせう?
ノラ えゝえ、ですけど、あなたどういふ譯で?
クログスタット 私もあの婦人とはもと知合ひでしてね。
ノラ それは聞きましたよ。
クログスタット あゝ、すつかりお聞きなすつた? そんなことだらうと思つた。ぢやあ打ち明けて申しますが、あの方が今度銀行へお入んなさるのですね?
ノラ クログスタットさん、何であなたはそんなにかさにかゝつて根掘り葉掘りお聞きになるの? あなたは私どもにとつちあ使用人の癖に。だけど聞きたきや聞かせて上げます。はい、リンデンの奧さんは、銀行へお勤めになるのですよ。それからあの方を推薦したのは私。わかりましたか、クログスタットさん。
クログスタット やつぱり思つた通りだな。
ノラ (歩き廻りながら)ねえ? これでもちよつと權力があるでせう? 女だからつていつもさう――ね、クログスタットさん、下に立つ者は氣をつけて失禮なことのないやうにしないと、私のやうに――
クログスタット 權力のある場合にですか?
ノラ えゝ。
クログスタット (調子をかへて)奧さん、どうか、あなたの權力で私をお助け下さる譯には參りますまいか。
ノラ え? 何ですつて?
クログスタット お慈悲でどうか、目下の私ですから、銀行の地位が保つて行けるやうにご盡力下さい。
ノラ なせ、そんなことをいふんです? 誰もあなたの地位を奪やしないでせう?
クログスタット あ、そんなに白を切らなくともいゝですよ。あなたのお友達が私に會ふのをいやがつてることも、そのため私が逐ひ出されなくちやならないことも、私はよく呑み込んでゐますよ。
ノラ だつて私は決して――
クログスタット まあ、何でもないことです。まだ後れてはゐませんから、一つ、そんな目に會はないやうにあなたの權力を揮つて下すつたらと、ご相談申すのです。
ノラ ですけどクログスタットさん、私何も權力なんかありやしません。
クログスタット 權力がない? しかし唯今伺つたところぢやあ――
ノラ 勿論、そんな意味ぢやなかつたのですよ。私なんぞ――どうして主人に對してそんな權力があるものですか。
クログスタット いや、ご主人のことは大學にゐた頃からよく知つてますが、奧さんに對してさう強硬な態度を取れるたちぢやありませんな。
ノラ あなた、手前どもに對して失敬なことをおつしやるなら、お歸りを願はなくちやなりませんよ。
クログスタット 思ひ切りがいゝですな、奧さん。
ノラ 私もう貴方を怖がつちやゐませんよ、新年がすむと早々すつかり片をつけてしまひますから。
クログスタット (我慢しながら)ま、お聞きなさい、奧さん。場合によつちや私は命けでも銀行のあのちつぽけな地位を爭つて見せますぞ。
ノラ えゝ、そんなこともなさりかねないやうね。
クログスタット 單に金錢のためばかりぢやありません、金のことはどうでもいゝ。もう少し違つた意味があります。さうさな、すつかりいつちまつた方がいゝかも知れない。無論誰も知つてることだからご承知でせうが、五六年前私にとつて少し面倒なことが持ち上りましてね。
ノラ 何かそんな話を聞いたやうですね。
クログスタット その事件は裁判沙汰とまではならなかつたが、しかしそれからといふもの私の前途はぱつたり塞がつてしまひました。そこでご承知の通りの商賣を始めたのですがね、さうするしか仕方がなかつたんです。けれども、もうあの方はすつかり止さなきやならなくなりました。伜どもが段々大きくなつてみると、あれらのためにも是非出來るだけの信用を取り返して置いてやらなくちやなりませんからな。で、銀行に入つたのがその第一歩といふ譯なのです。處が、そこへ此方こちらのご主人が出ておいでなすつて、折角登りかけた梯子から泥沼の中へ突き落しておしまひなさらうといふんだ。
ノラ ですけど、クログスタットさん、實際私は、貴方を救ふ力はないんですよ。
クログスタット 救つて下さる氣がないんだ、しかし是非救つていたゞく方法はありますな。
ノラ 借金の事を主人にお話なさらうといふのですか?
クログスタット ふむ、もしさうするとしましたら?
ノラ そんな不徳義なこと(目に涙をためて)私が悦んで誇りにしてゐる祕密を――そんな淺間しい非道い仕方で、それも貴方の口から打明けてしまふなんて! そんなことになつたら私はどんなにか不愉快な身の上になるでせう?
クログスタット たゞ不愉快なばかりですか?
ノラ (激して)まあ、やつてご覽なさいな、一番困つて來るのは貴方だから。主人は貴方を惡人だと思ふでせう? さうすると貴方の地位はなくなつちまふに決つてます。
クログスタット いや私はたゞあなたが家庭の不愉快といふことばかり氣にかけていらつしやるのかとお尋ねしてゐるのです。
ノラ 萬一、主人がその話を聞いたら、無論、お金は一時に拂つちまふでせう。そして、それで、もうあなたとは關係を絶つてゐますよ。
クログスタット (一歩進みながら)お聞きなさい奧さん、あなたは健忘症でいらつしやるやうだ。それとも實務上のことはまるでご存じないのですか。まあ、私がすつかり、事情を呑込ませて上げませう。
ノラ どうしたといふんです?
クログスタット ご主人がご病氣の時に、貴方は私の所へお出でになつて、千二百ターレル貸してくれとおつしやつた。
ノラ 他に懇意な方もなかつたものですから。
クログスタット で、私はその金を拵へて上げませうとお約束をしました――
ノラ そして、拵へて下すつたぢやありませんか。
クログスタット そのお約束をする時に私は條件を持ち出しましたね。あなたはその時ご主人の病氣に氣をとられて、旅行の費用を拵へたい一心でお出でになつたから、細かいことには碌々氣がつかなかつたかも知れません。ですから私がそれをここでお話して上げます。その時の約束は、私が書いた手形と引換にそのお金を拵へて差上ようといふのでしたな。
ノラ えゝ、それで私はその手形に署名しました。
クログスタット それに相違ありませんな。けれども、その時私は後から二三行つけ加へて、あなたのお父さんに保證して頂くやうにしました。そしてお父さんが、それに署名をなさるはずになつてました。
ノラ 署名するはずですつて? 署名したぢやありませんか。
クログスタット 日付の所を明けて置きましたらう? 即ちお父さんが自身で署名の上に日付をお入れなさるやうになつてました。ご記憶ですか?
ノラ えゝ、さうのやうでしたわ――
クログスタット そこで私はその手形をあなたに差上げてお父さんの方へお送りを願つた。さういふ順序でしたな?
ノラ えゝ。
クログスタット それで無論あなたは直ぐその通りになすつたでせう? といふのは五六日經たない中に、その手形を私の處へお返しになつたが、ちやんとお父さんのお名前が書いてありました。そこで私はお金をあなたにお渡し申しました。
ノラ それでどうしたといふんです? 私拂ふものはきちん/\とお拂ひしてるぢやありませんか。
クログスタット まづねえ。所で話の要點に成ると、その頃あなたは大變お困りのやうでしたね、奧さん。
ノラ 實際さうでしたよ。
クログスタット あなたのお父さんは大病だといふし。
ノラ とても助からないといふ時でしたからね。
クログスタット そして間もなくお亡くなりになつたでせう?
ノラ えゝ。
クログスタット 何ですか? 奧さん、あなたはお父さんのお亡くなりになつた日を覺えていらつしやいますか、月の幾日といふことを?
ノラ 父は、九月の二十九日に亡くなりました。
クログスタット 確かにさうです。私はすつかり檢べて來ました。所で、こゝに一つ重大なことが起つて來る――(手形を取出す)どうも私には理由がわからない。
ノラ 重大なことつて何です? どんなことか知りませんが――
クログスタット 重大なことと申すのはね奧さん、お父さんがこの手形に署名なすつたのは、お亡くなりになつてから三日後のやうですぜ!
ノラ 何ですつて? 私まだわからないんですが――
クログスタット ご親父は九月の二十九日にお亡くなりになつたでせう? 處がご覽なさい、この署名は十月二日になつてゐます。重大なことぢやありませんか、奧さん(ノラ默つてゐる)何か理由わけがありますか?(ノラなほ默つてゐる)その上注目すべきことは、十月二日といふ文句とその上の年號とがどうもご親父の手でないやうに見えます。何處か見覺えのある書體ですね。が、これあ説明がつきます。ご親父は署名なすつた時に日付を入れることをお忘れなすつた、それをお亡くなりの後まだそのことの知れない時に誰か勝手に日付を入れたのでせう。もつともそれだけなら一向惡いことぢやありません。大事なのは名前ですからな。名前の方は確かでせうな奧さん? 實際あなたのお父さんがご自分の手でちやんとこゝへ署名なすつたんでせうな?
ノラ (暫く默つてゐて、頭を後へそらせ、決然たる樣子で彼を見る)いゝえ、父の名を書いたのは私です。
クログスタット もし、奧さん、あなた危險なことをおつしやつてますぞ、よございますか。
ノラ 構はないでせう、お金はぢき拂ひますから。
クログスタット 尚一つ伺ひたいことがあります、なぜこの手形をご親父の方へお送りにならなかつたのですか?
ノラ それは、送るわけに行かなかつたからです、父は大病でせう? そこへ署名のことなどいつてやると、金の使ひ道も話さなくちやなりませんから、宅が病氣で命が危ないといふやうなことはとてもいつてやれなかつたのです。
クログスタット そんなら旅行をお止しなすつたらよかつたでせう。
ノラ どうしてそんなことが出來るものですか。その旅行一つで主人の命はどうにもなるといふ場合でしたもの。到底止めるわけには參らなかつたのです。
クログスタット で、あなたは私に對して詐欺をしてお出でになるとは氣がつかなかつたのですか?
ノラ まアそんなことは私何とも思はなかつたのですよ。貴方のことなんざ、まるで考へてゐませんでした。貴方は宅が大病であると知りながら殘酷な面倒なことばかしいつておよこしになるもんだから私我慢が仕切れなかつたのですよ。
クログスタット 奧さん、あなたは現にやつてお出でなさることがどんな事だかご存じないやうですね。私がかうやつて社會から投り出されたのも、あなたとおなじことをしたからですぜ。
ノラ まあ、この人は! 細君の命でも救ふために立派なことをしたやうな顏をして。
クログスタット 法律は動機の如何を問ひません。
ノラ それぢや、その法律は大間違ひの法律です。
クログスタット 間違つてゐようがゐまいが、この證書を裁判所にさへ持出せば、あなたは法律上の罪人にならなくてはなりませんよ。
ノラ そんなことがあるものですか、あなたのおつしやるやうだと、娘が大病の父に苦勞をさせまいとする權利はないわけですね――妻が夫の命を救ふ權利もないわけですね、私、法律のことはよく知らないけれど、きつと何處かに今いつたやうなことが許してあると思ひますわ。それを貴方はご存じないんだから――貴方のやうな法律家が! 貴方はきつと碌な法律家ぢやないんですね、クログスタットさん。
クログスタット さうかも知れません。けれどもかういふことになると――今起つてるやうな事件になると、私はよく知つてゐますよ。おわかりになりましたか? それぢやあ宜しい。それから先はご隨意になさい。たゞ申上げて置きたいのは、私がもう一度泥沼へ落ちるとなると、貴女もご一緒に來なくてはなりませんよ。(ちよつと腰を屈めて廊下から出て行く)
ノラ (暫く考へながら立つてゐて、そして頭を立てる)何でそんなことが! あいつ私を威かさうと思つてやがる。私、そんな間拔ぢやない! (子供の衣服を疊み始めるその手を止めて)けれど――いゝえ、そんなことのあらうはずはない。愛のためにしたんだもの――
子供 (左手の扉の處で)お母さん、よそのおぢさん、もう行つちまひましたよ。
ノラ えゝえ、知つてますよ。けれどね、よそのおぢさんの來たことを誰にもいつてはいけませんよ。わかりましたか、パパにだつていけませんよ。
子供 えゝ、だから一緒に遊びませうよ、ねえお母さん?
ノラ いゝえ、今はいけないの。
子供 ねえ、遊びませうよ。お母さん、約束したんですもの。
ノラ さうですけどね、今はいけませんよ。乳母ばあやのゐる方へいらつしやい。お母さんは澤山ご用があるから。さ、さ、いらつしやい。温和おとなしくしてゐるんですよ、よくつて? (子供達を靜かに向ふの室の方へ押しやり、あとの戸を閉め切る。ソファに坐り刺繍を取上げ、二針三針動かして直ぐ止める)そんなことがあるものか! (仕事のものを投出して立ち上り、廊下の扉の方へ行つて呼ぶ)エレン! クリスマス・ツリーを持つておいで! (左手のテーブルの處へ行つて抽出を開ける、またその手を止める)どうしてそんなこと、どう考へたつてそんなはずはない。
エレン (クリスマス・ツリーを持つて)何處へお立て申しませうか。
ノラ そこへ、部屋の眞中の處へ。
エレン 何かまだ他のものを持つて參りませうか。
ノラ いゝえ、よくてよ、それですつかり揃ひます。
(エレンは、木を置いて出て行く)
ノラ (忙しげに木を飾りながら)こゝは蝋燭にして向ふの方へ花をかける。あいつ本當に恐ろしい奴! 何でもない/\。何でもありやしない。クリスマス・ツリーをかうやつて飾つて貴方の氣にさへ入れば、私何でもしますわ。ねえ貴方、歌も歌ふ。踊もをどる。それから――
(ヘルマーが一束の書類を持つて廊下の扉から入つて來る)
ノラ あら! もう歸つてらしつたの?
ヘルマー あゝ、誰か來てゐたかえ?
ノラ 此處へ? いゝえ。
ヘルマー 變だな。クログスタットがこの家から出て行つたが。
ノラ お會ひなつたの? さう/\、何でしたつけ、ちよつとの間來てたのですよ。
ヘルマー ノラ、お前の樣子でちやんとわかるよ、彼奴め、お前に口をきかせようと思つて來たな!
ノラ えゝ。
ヘルマー で、お前はそれを自分の料簡一つでやらうと思つたのかい? お前は彼奴が此處にゐたことを知らせまいとしてゐるやうだが、それも彼奴の入智惠ぢやなかつたか?
ノラ えゝ、ですけどね――
ヘルマー ノラ! どうしてお前そんなことが出來るんだ! あんな奴と話をして約束までするなんて、それで私には嘘をついて、ごまかさうとする!
ノラ 嘘ですつて?
ヘルマー 誰も來ないといつたぢやないか(指で突く眞似をして)家の小鳥さんは二度とそんなことをいつちやいけないよ、小鳥が調子の違つた歌なんか囀つちや仕樣がない(片手に女を抱きながら)え、さうぢやないか――さうだらう、さうなくちやならない(女を放す)ぢや、もうそのことはいはないことにしようね(ストーヴの前に坐る)あゝ、靜かでいゝ氣持だな! (持つてゐる書類を覗き込む)
ノラ (クリスマス・ツリーに氣を取られてゐる。暫く默つてゐて)あなた!
ヘルマー え?
ノラ 私、本當に明後日のステンボルグさんの假裝舞踏會が待ち遠しいわ。
ヘルマー 私はまたお前がどんな趣向で私を驚かすだらうと、それが樂しみだよ。
ノラ 私も全く思案にあまつてゐるのよ。
ヘルマー どうして?
ノラ 幾ら考へても旨い思つきが出ないんですもの。何を考へてみても下らない、平凡なものばかりですから。
ヘルマー ノラさんがさういふ發見をしたんだな?
ノラ (夫の椅子の後から腕をもたせかけて)貴方、非常にお忙しくつて?
ヘルマー さうさな――
ノラ その書類は何のご用?
ヘルマー 銀行の用事だ。
ノラ もう?
ヘルマー 今度辭職する支配人と相談して少し役員の出し入れなんかさせて貰つたもんだからね。その方がクリスマス中かかるだらう。新年になるとすつかり片がつきさうだ。
ノラ ぢや、そのためですわ、可哀さうに、あのクログスタットが――
ヘルマー ふむ――
ノラ (尚、椅子の背の處によりかゝり、靜かに夫の髮の毛を掻きながら)貴方、餘り忙しくなかつたら本當にお願ひしたいことがあるんですけれどね。
ヘルマー 何だらう? いつてご覽。
ノラ 誰だつて、貴方ほど趣味の高い人はゐないんだから、私今度の假裝舞踏會には思ふ樣立派にして行きたいと思ふんですよ。で、貴方何ですか? 一緒にいらして私が何になればいゝか決めて衣裳を見立てゝ下さるわけにはいきませんか?
ヘルマー あはあ! 家の剛情屋さんが、途方にくれてしよげ始めて來たね。
ノラ えゝ、どうかね。貴方がいらして下さらなくちやどうにもならないんですもの。
ヘルマー よし/\、考へてみよう、そのうち何かつかるさ。
ノラ まあよかつた。貴方親切ですわね! (またクリスマス・ツリーの方へ行く、立ち止る)赤い花がいいこと! ですけれどね、あなた、あのクログスタットが惡いことをしたといふのは、大變怖ろしいことなのでしたか?
ヘルマー 私文書僞造といふだけだがね、それはどんなことか知つてるかい?
ノラ 何か止むを得ない事情で、そんなことをしたんでせうね?
ヘルマー さうか、またはよくある奴でほんの不注意からそんなことになつたのかも知れない。俺は何も、それ一つの過失あやまちで絶對に人に難癖をつけるほど、冷酷ぢやないんだがね。
ノラ でせう? 私だつてさう思ひますわ。
ヘルマー たゞ自分の罪を白状して、それだけの刑罰を受けちまへば、それですつかり道徳上正しい人間になることが出來るんだが。
ノラ 刑罰ですつて?
ヘルマー 所がクログスタットは白状といふことをしなかつた。彼奴は小細工やごまかしで逃れようとした。それが彼奴を腐敗させてしまつたんだ。
ノラ あなた、それでは――?
ヘルマー ま、考へてもご覽! 一度惡いことを承知でさういふことをした奴は、一生涯嘘をついて眞面目な顏をしてゐなくちやならない。何もかもごまかして生きて行く。彼奴は自分の妻子にまで假面を被つてゐなくちやならないんだ。第一、子供にとつてこれほど惡いことはないだらう。
ノラ 何故です?
ヘルマー 何故つてお前、そんなうそいつはりが入つて來ると、家庭の空氣はすつかり腐つてしまつて毒をもつて來るからな、子供が呼吸する度に罪惡の黴菌を吸ひ込むやうなものだ。
ノラ (夫の後の方へ近よつて行つて)貴方本當にさう思ふんですか?
ヘルマー 辯護士をしてる間に私は幾度もさういふ例を見たよ、子供の時分に惡いことをする奴は、十中八九まで母親が嘘をつくのに原因してるやうだ。
ノラ まあ――母親がですか?
ヘルマー まづ概して母親の方から來るやうだな。けれども無論父親の感化だつて同じことには相違ない。あのクログスタットなんざ、これまで何年となく嘘と僞善の生活で自分の子供を損つて來たんだ。それさ、私が彼奴を道徳的に破産した奴といふのは(兩手を女の方に差出して)そんなわけだから家のノラさんは、もう彼奴の辯護なんか誓つて止めなくちやいけないよ。さあ誓ひの印に握手しようか。おい、どうしたんだ。手をお出し。それでよし/\、それで契約濟だよ。實際私は彼奴と一緒に仕事をすることは不可能だつたんだ。あゝいふ奴に會ふと胸がむかついて來るからな。
(ノラは自分の手をひいてクリスマス・ツリーの向ふ側へ行く)
ノラ この室は暑いわ。私まだ澤山色んなことをしなくちや。
ヘルマー あゝ、俺も夕飯までに書類の必要なものだけすつかり見て置かなくちやならない、それからお前の衣裳のことも考へなくちやならないし。クリスマス・ツリーに金紙で下げるものも何か思ひつくかも知れない(女の頭に手を置いて)家の大事な小鳥さん。
(ヘルマー自分の室に入り後の扉を閉める)
ノラ (暫く間を置いて柔らかに)大丈夫そんなことはない。あらうはずがない。そんなことがあつて堪るものぢやない。
アンナ (左手の扉の處で)皆さんがママの處へ行きたいんですつて、此處へお連れしてもよろしいでせうか?
ノラ いけませんよ、いけませんよ、此處へよこさないでおくれ。お前みてゐておくれ、いいかえ、アンナ!
アンナ はい(扉を閉める)
ノラ (恐怖で顏が蒼白くなつて)私の子供を腐敗させる! 私の家庭に毒を撒く! (ちよいと句切りを置いて頭を上げる)嘘! 嘘! そんなことがあるものか。
[#改ページ]

    第二幕


前幕と同じ室、隅、ピアノの傍にクリスマス・ツリーが所々むしり取られて燃さしの蝋燭のついたまゝ立つてゐる。ノラの外出仕度の物がソファの上に置いてある。
ノラは落つかない樣子で歩き廻つてゐる。ソファの傍に立ち止り、外套を取り上げて、また下に置く。

ノラ 誰か來たやうだ(廊下の方へ行つて、聞耳をたてる)誰も來やしない。今日はクリスマスだから來る人はないだらう。明日だつて來やしない。けれども、ひよつとすると――(扉を開けて外を見る)さうぢやなかつた、郵便箱には何もありはしない、空つぽ(前の方へ出て來て)私、馬鹿なことを考へるわね。あいつ私を嚇かさうと思つてるに違ひない。そんなことになる氣づかひはありやしない。できないことだもの。だつて私には子供が三人もゐるぢやないか。
(アンナが左手から大きなボール箱を持つて入つて來る)
アンナ やつとタランテラの衣裳の箱を見つけました。
ノラ 有難うよ、テーブルの上に置いておくれ。
アンナ (さうする)ですけれども、大變ひどくなつてゐますよ。
ノラ 仕樣がないね、ずた/\に引つ裂いてしまへ。
アンナ いけませんよ。すぐ直ります――ちよつとの間、待つていらつしやい。
ノラ ぢや私、リンデンの奧さんにお手傳ひを頼んで來よう。
アンナ またお出かけなさいますか? こんな天氣にまあ、風邪をひいたらどうなさいます?
ノラ 風邪よりも、もつと惡いことがあるかも知れないよ。子供はどうしてるの?
アンナ みんなクリスマスの贈物を持つて遊んでいらつしやいます。お可哀さうにね、ですけれども――
ノラ 私のことを聞くかえ?
アンナ それはもう、ねえ、いつもお母さんとご一緒でいらつしやつたのですから。
ノラ さうねえ、けれどもアンナや、これからはね、私あんまり子供と一緒にゐられないの。
アンナ それはもう、お小さい内ならどうにでも仕つけやう一つでございますからね。
ノラ さういふ風に仕つけられると思へる? 母親がゐなくなつたら忘れてしまふだらうか?
アンナ まあ、何をおつしやいます。ゐなくなつたらですつて?
ノラ あのねえ、アンナ――私いつもさう思ふのだけれど――どうしてお前は自分の子供を他人にやることが出來たの?
アンナ ノラさんをお育て申すことになつて否應なしにさうしたのでございます。
ノラ けれども、どうしてそんな決心がついたの?
アンナ それはあなた、いゝ口が見つかつたのでございますもの。女の身で、年は行かず頼る所はなし、不幸續きでゐたのでございますから、何だつて見つかつたものを取り逃してはなりません。あの薄情男めは何一つ私の世話をしようともしなかつたのでございますよ。
ノラ それぢや、お前の娘さんは、お前を忘れてしまつただらうね。
アンナ ところがそんなことはございませんよ、奧さま。忘れないものと見えましてあれが聖體式を受けました時と結婚しました時には、手紙をよこしました。
ノラ (アンナを抱きながら)ねえ婆や、お前も年を取つたねえ――私小さい時は本當に母親も及ばない世話になつたつけ。
アンナ あの頃のノラさんは本當にお可哀さうでしたよ、お母さまはいらつしやらず、私ひとりが頼りだつたのですからね。
ノラ 私の子供が、また、母親をなくすやうなことがあつたら、お前きつと――よさう、よさう、馬鹿らしい(箱を明ける)子供の方へ行つて頂戴、さあこれから――私明日はどんなに綺麗だか見ておくれよ。
アンナ きつと明日の舞踏會には、ノラさんより綺麗な方はないにきまつてゐますよ(左手の室に入る)
ノラ (箱から衣裳を取り出す。けれども直ぐまた下に投出す)あゝ、思ひ切つて出て行つちまつたら、誰も來なければいゝがねえ、それまで何事もないといゝが、馬鹿なこと、誰も來やしない、考へないでさへゐればいゝ。何ていゝマフだらう。綺麗な手袋だこと、綺麗な手袋だこと。えゝ、忘れちまへ、忘れちまへ、一、二、三、四、五、六――(叫び聲を立てゝ)おゝ、あの男がやつて來た――(扉の方へ行つて躊躇しながらそこに立つ)
(リンデン夫人が廊下で外出仕度の物を脱ぎ入つて來る)
ノラ おや、あなた? クリスチナさん、外には誰も來ませんでしたか? まあよくいらつしやつたわね。
リンデン 私の所へお出でになつたさうですね。
ノラ えゝ、丁度通りかゝつたものですからね、私、あなたに是非手傳つて頂きたいことがあるんですよ。さあ、お掛けなさい、ソファがいゝわ――さう、明日の晩ね、この二階にゐる領事のステンボルグさんで假裝舞踏會があるのですよ、それでね、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトが私にナポリの漁師娘になれといふんです。そして私がイタリアのカプリで習つたタランテラを踊れといふんですよ。
リンデン さうですか、見物でせうね。
ノラ えゝ、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトがそれがいゝといひますから。ご覽なさい、これがその衣裳ですよ。イタリアで私に拵へてくれたのです。けれども、もうこんなにぼろぼろになつちやつて、どうしていゝか――
リンデン あなた、直ぐなほせますよ。たゞ縁が所々ほぐれたばかりですもの。針と絲がありますか? あゝここにあります。
ノラ まあ、すみませんねえ。
リンデン では明日は、すつかり衣裳をお着けになるのね。ノラさん、どんなにか――私、拜見に來ますよ。ちよつとでいゝから、お仕度の出來上つたところを。おや、お禮をいふのを忘れてゐた。昨晩はご馳走さま。
ノラ (立ち上り室を向ふへ歩く)いゝえ、昨日はね、不斷ほど面白くなかつたのですよ。もう少し早くいらつしやるとよかつた。トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトは實際、家の中を樂しくするのが上手なの。
リンデン あなただつてさうぢやありませんか。でなければお父さんのお子さんぢやありませんもの。それはさうと――ランク先生はいつもあんなに昨晩のやうに沈んでいらつしやいますか?
ノラ いゝえ、昨晩は特別でしたのよ。あの方はね、恐ろしい病氣を持つてゐます、背髓癆ださうです。
リンデン (縫物を續ける、ちよつと經つて)ランク先生は毎日此方へ見えるの?
ノラ えゝ、毎日。あの方はね、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの子供の時からのお友達で私も大變親しくしてゐるの、まるで家のもの同樣にしてゐるの。
リンデン ですがね、あなた――あの方は全く眞面目な方なの? 口先だけの出任せをいふ人ぢやありませんか?
ノラ そんなことはありませんわ、どうしてそんな風にお考へなすつて?
リンデン 昨日あなたがお引合せ下すつた時にあの方は、何度も私の名を聞いたといつたでせう? ところがお宅のご主人は少しも私をご存じなかつたでせう? それでどうしてランク先生が――?
ノラ あ、それはランク先生のいふ通りですの。クリスチナさん。全體トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトが私を愛してることといつたら一通りや二通りぢやないんですからね、私の體を全く自分の物にしきらないと承知しないの、いつも自分でさういつてるのよ。ですから結婚した當座なんか、私が里にゐる頃親しくしてゐた人の名でもいはうものなら、もうすぐ妬きもちをやくのですよ。そんな風で自然にさうしたことをいはないやうにして置いたのですけれどね、ランク先生にはよく昔のことなんか話しましたのよ、あの方はそんなことを聞くのが大變好きなものだから。
リンデン ですけれどねえ、ノラさん、あなたはまだ、どうしてもねんねえよ。私あなたよりは年も上だし、經驗も幾らか餘計に積んでるからいひますがね、あなたはランク先生との關係を、きちんとしておく必要がありますよ。
ノラ どんな關係?
リンデン あなたは昨日、金持であなたを崇拜してる人にお金を拵へて貰ふといつたでせう?――
ノラ えゝ、實際はゐない人にねえ、お氣の毒さま、それがどうしました?
リンデン ランク先生はお金を持つてるの?
ノラ えゝ、持つてます。
リンデン そして、遺産相續といつては、誰もゐないでせう?
ノラ 誰もゐません。だけれど――
リンデン それで以て、あの人は毎日この家へ來るんでせう?
ノラ えゝ、毎日。
リンデン 私は、あの人がもう少し嗜みを持つててくれるといゝと思ひます。
ノラ 私まだあなたのおつしやる意味がわからない。
リンデン 白ばくれちやいけませんよ、ノラさん。あなたまだ千二百ターレルのお金をあなたに貸した人が、誰だか私に當てがつかないと思つてるの?
ノラ はゝはゝ、どうかしてるわ、あなた、さういふ考へでゐたのですね。毎日家へ來るお友達から借金をするなんて! どんなに氣まづいだらう。
リンデン ぢやあ本當にあの人ぢやないの?
ノラ えゝ本當に。そんなことは今まで考へて見たこともありません――それにあの頃はまだ、あの方には人に貸すやうなお金は無かつたのですよ。財産の手に入つたのは後の事なの。
リンデン まあ、その方があなたのためにはよかつたと思ひます。
ノラ 全く私、ランク先生のことなんぞは考へても見なかつたのだけれど、もしあの方に頼んだらきつと――
リンデン けれども、あなた頼む氣は無論ないのでせう?
ノラ 無論ですとも。そんな必要なんかないんですもの。けれども、きつと何よ、もしランク先生に話したら――
リンデン ご主人にいはないで?
ノラ 私ね、これから切り拔けなくちやならないことがあるの、それも主人に隱して是非その方の片をつけなくちやならない。
リンデン それがいゝわ、私、昨日もさういつたでせう? たゞ――
ノラ (あちらこちらと歩きながら)えゝ、こんなことを運ぶのは、女よりもずつと男の方がいゝんだけれど。
リンデン 夫にさせるなら、無論いゝですとも。
ノラ そんな馬鹿な(じつと立止る)あのね、借りてたものをすつかり返せば證書は返つて來るのでせうか?
リンデン 無論ですよ。
ノラ 返つて來たら、あの汚れた嫌なものをずた/\に引き裂いて燒いてしまひたいわ!
リンデン (じつとノラを見て、仕事の物を下に置いて徐々と立上る)ノラさん、あなたは私に何か隱していらつしやるのね?
ノラ さう私の顏に書いてあるの?
リンデン 昨日の朝から何か變なことがあつたのね、何です? ノラさん。
ノラ (リンデン夫人の方へ行きながら)クリスチナさん――(聞耳を立てる)しつ! トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトが歸つて來た。さ、乳母の室へ行つてゝ頂戴、あの人は裁縫なんか見てることの出來ない人ですからね。それから、アンナに手傳はせて下さいな。
リンデン (手近の物を取り集めて)はい/\、ですけれども、すつかりお話を聞くまでは歸りませんよ。
(リンデン夫人は左手に出て行く、引きちがへにヘルマーが廊下から入つて來る)
ノラ (走りよつて迎へる)まあ、お歸りなさい。
ヘルマー 仕立屋が來てゐたのか?
ノラ いゝえ、クリスチナさんですよ、私の衣裳を手傳つてゐてくれるの、今に綺麗に出來上るから見ていらつしやい。
ヘルマー あゝ、俺のあの考へは、いゝ思ひつきだつたらう?
ノラ ほんとによかつたわ、けれども私があなたの考へに賛成したのも、えらいでせう?
ヘルマー (ノラの顎の下を捉へながら)えらい? 夫の考へに賛成したのが? まあ、よし/\、この氣まぐれ家、いや/\賛成したくせに。今こんな事をいつてお前の邪魔をしちやならない。お前はこれから着物を着て見るのだらう?
ノラ これから、あなたは仕事におかゝんなさるの?
ヘルマー あゝ(一たばの書類をノラにしめす)これをご覽(自分の室の方へ行く)今銀行へ行つて來たところだ。
ノラ あなた。
ヘルマー (立止りながら)えゝ?
ノラ あなたの栗鼠さんがね、大變可愛らしくて何か貴方にお願ひするといつたら――
ヘルマー ふむ?
ノラ 叶へて下さる?
ヘルマー まあどんなことだか聞かなくちやあ。
ノラ たゞ貴方が優しくしていふことを聞いてさへ下さればね。栗鼠はそこら中跳ねまはつてどんな藝當でもしますわ。
ヘルマー ぢやあ、いつてご覽。
ノラ あなたの雲雀は朝から晩まででも囀つてゐますわ――
ヘルマー いや、この雲雀は、いつでもよく囀るやうだよ。
ノラ 私、可愛らしい魔女になつて、月夜に踊つても見せますわ。ね、貴方。
ヘルマー ノラ――お前のいふのは、今朝遠廻しにいつてた、あのことぢやあるまいな。
ノラ (傍へよつてきて)あのことよ、ね、あなた、どうかお願ひですから。
ヘルマー お前は實際、またそれをいひ出す勇氣があるのかい?
ノラ えゝ、ですから私を助けると思つて、是非クログスタットを銀行に置いてやつて下さい。
ヘルマー でもお前、私がリンデンの奧さんをつけようと思ふのは、あいつの地位なんだよ。
ノラ えゝ、それは有難いんですけれどね、クログスタットの代りに誰か他の者を免職にして下さいな。
ヘルマー どうしたんだ、わからないにもほどがあるな。お前がよく考へもしないで、あんな奴に約束をするものだから、そのために私が――
ノラ さうぢやないのですよ、あなた。あなたのためなのです。あの男は幾つかの惡徳新聞に關係してるでせう、惡人のすることですもの何をほじくり出すか知れやしません。私たちはこれから睦じい穩かな家庭で幸福に暮らせるのでせう? 貴方も私も子供もね、ですから私お願ひなのよ、どうかね。
ヘルマー さういふ風にお前があいつの頼みを聞かうとするから、却つて益々あいつを置いとくことが出來なくなるのだ。私がクログスタットを出すといふ話は銀行へ知れてるのだから、萬一、新支配人は妻君の小指で引き廻はされたといふやうな噂がたつと――
ノラ さうすると、どうなります?
ヘルマー 仕樣があるものか、我儘女が剛情をいひ張つてる間は駄目だ、俺は人の物笑ひになつて嬶天下で頭が上らないといはれるだらう。さうなるときつとその結果は現はれてくる。のみならず、今一つ私が到底クログスタットと一緒に仕事の出來ない理由がある。
ノラ どんなこと?
ヘルマー 俺は已むを得なければ、あいつの暗い性格は我慢できるかも知れない――
ノラ えゝ、さう。
ヘルマー それから仕事にかけては立派だといふことも聞いてゐる。たゞかういふことがあるのだ。あいつはもと、私の大學の友達でね――よく後悔することだが、その頃の亂暴な向ふ見ずの交際をやつたものだ。ここで白状してもかまはないが、あいつと私とは實はそのため俺貴樣のつき合ひをするのだ。ところがあいつめ誰の前でも構はず、俺とさも親しげに振舞ふのを得意にしてやがる――おいトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトかうしろ、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトあゝしろといふ。それが俺に取つては實際苦痛で堪らない。あのまゝで行くと俺の銀行の地位は持ち切れなくなるかも知れないよ。
ノラ あなた、眞面目なの?
ヘルマー 眞面目なのかつて? なぜだ?
ノラ そんなことは小つぽけな理由ぢやありませんか。
ヘルマー 何だつて? 小つぽけな? お前は俺を小つぽけな人間だと考へるのか。
ノラ いゝえ、その反對ですわ、ですから私は――
ヘルマー いゝよ、お前は私の理由を小つぽけだといつたから即ち俺が小つぽけなのに相違ない。小つぽけな! 宜しい、この事件はもうここらで思ひ切つて最後の極りをつけよう(廊下の扉のところに行き呼ぶ)エレン!
ノラ 何のご用?
ヘルマー (書類の中を探しながら)結末をつけるのさ、さ、この手紙を使に頼んで持たせてやつてくれ。直ぐやるんだよ、宛名はそれに書いてある。これが使ひ賃だ。
エレン はい畏りました(手紙を持つて出て行く)
ヘルマー (書類を重ねながら)さあ、剛情奧さん。
ノラ (息をしないで)あなた、あの手紙は、どんな用のですか?
ヘルマー クログスタットの免職だ。
ノラ 呼び返して下さい、よ! まだ間に合ひますから。ねえ、あなた、取り返して下さいよ。私のためです。それから貴方のためにも、子供のためにも。ねえ、聞えましたか? ねえ、どうぞ。あなたは、その手紙が私達にどんな祟りをするかご存じないんですもの。
ヘルマー もう遲い。
ノラ もう遲い。
ヘルマー これノラ、お前のしてる心配は俺に取つては少しも有難くないんだが、それはまあいゝとするよ、何で私が惡徳記者の怨なんか恐れる必要があるか、けれども、それはそれとして、お前のいつたことは構はない、俺を非常に愛してくれる證據なのだから。(ノラを兩腕に取り)これで先づ片はついたといふものだ、な、ノラ。どうにだつてなるものはならせておくさ。時機が來れば必要に應じて力も出せば勇氣も出す。まあ見てお出で、俺の廣い肩でどんな重荷が來ても背負つて立つてやるから。
ノラ (恐怖に打たれて)あなた、それは何をおつしやるのです?
ヘルマー 重荷をすつかりといふんだ。
ノラ (決心して)あなたにそんなことは決してさせません。決して(ヘルマーを抱く)
ヘルマー よし/\。ぢやあ二人で分擔するさ、夫と妻とでねえ。(ノラを手で輕く叩きながら)それで得心が行つたかい、さあ、さあ、さあ、そんな顏をしないで。今いつたやうなことは何でもない、みんな空想だ。さあこれからタランテラをすつかり彈いてタンバリンの稽古をしなくちや。俺は書齋に引込んで、兩方の扉を閉めておくから何も聞える氣遣ひはない。幾らでも騷ぎたいだけ騷いでもいゝよ。(入口の所で振り向いて)それからランク君が見えたら書齋に來るやうにいつてくれ。(ノラに頷いてみせて書類を持つて自分の室に入り扉を閉める)
ノラ (恐怖に度を失つて地から生えたやうに突立つ、そして囁く)あの人は、やるに違ひない。どんなことがあつてもやるに違ひない。いけない、そればかしはどんなことがあつても、どんなことがあつてもさせやしない。そんなことをさせるくらゐならどんなことだつて出來る。あゝ、何とかそんなことにならない方法はないかしら、どうしたらいゝだらう? (廊下のベルが鳴る)ランク先生だ――そんなことをさせるくらゐなら何だつて出來ないことはない。何だつて何だつて。
(ノラ、兩手で顏を撫でて氣を取り直し、扉の方へ行つて開ける。ランクは外に外套をかけながら立つてゐる。次の臺詞の間に段々暗くなる)
ノラ 先生、今日は――ベルの鳴り具合で、あなたといふことがわかりますよ。けど、あなた、今はトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの方へいらしてはいけませんよ。忙しさうですから。
ランク あなたはお暇なのですか?
ノラ 私はもう、あなたのためなら、いつだつて時間を明けてるぢやありませんか。
ランク 有難う、ぢや、ご親切に甘えて出來るだけゆつくりして行きませう。
ノラ 出來るだけゆつくりですつて?
ランク はあ、それが氣に懸りますか。
ノラ 何だか變なおつしやりやうぢやありませんか。何か變つたことでもありさうですね。
ランク 前から仕度をして待つてゐたことが來さうです。たゞこんなに早く來ようとは思はなかつた。
ノラ (ランクの腕を取りながら)それはどんなことです? 先生、聞かして下さい。
ランク (ストーヴの傍に坐りながら)私は今、急な坂を馳け下りてるやうなものです。助けようといつたつて方法はありません。
ノラ (ホッと長い息を引く)あなたが――?
ランク 私でなくて誰のことをいふものですか――自分で自分を欺いてゐたつて仕樣がない。家へ來る患者の中で一番慘めなのは私ですよ、奧さん。私は久しい間自分の生命の計算をやつてましたが――たうとう破算です。一月經たないうちに私は墓場へ行つて腐らなくちやならない。
ノラ まあ! 何ていやなことをおつしやる。
ランク 事柄が全體情ない、嫌な事なんですからね。たゞ困つたことにはその外にまだまだ嫌なことを澤山通り越さなくちやなりません。それからもう一つ最後の研究が殘つてゐて、それが濟むと愈々破滅の始まる日限も決つてきます。それで一言あなたに申上げて置きたいが、ヘルマー君はあゝいふ神經質な人ですから、すべて恐ろしいものは避ける傾きを持つてゐます。だから、あの人を私の病室へは入れたくないものです。
ノラ ですけれど先生――
ランク いや、來ないやうにしなくちやいけません――どんなことがあつても、それだけはいけませんよ。來たつて戸を閉めて入れない、それで私がもういけないと決つたら、すぐ名刺の上に墨で十字架をかいて送りますから、その時には愈々恐ろしいことが始つたと思つて下さい。
ノラ まあ何てことを、あなた、今日はまるで駄々ッ子ですね、今日こそ愉快にして頂きたいの――
ランク 正面から死といふものに睨まれてゐてですか? そして他人の罪惡のために私が苦しまなくちやならない、そんな理窟に合はない話があるもんか。
ノラ (兩方の耳をふさぎながら)もう/\そんなことは止して下さい。さあ愉快になさいよ。
ランク あゝあ、要するに世のなかのことといふものはをかしなものだ。何も知らない私の背髓が親父の將校時代の放蕩の償ひをしなくちやならないなんて。
ノラ (左手のテーブルに向つて)多分、あなたのお父さんはアスパラガスや鳥の卵がお好きだつたでせうね?
ランク えゝ、それからきのこも好きでした。
ノラ さうでせうねきのこも。それからきつと牡蠣もお好きでしたらう?
ランク えゝ、牡蠣、牡蠣は勿論ですとも。
ノラ それから葡萄酒、シャンペン、皆お好きでしたらう? 全くみんな結構なものばかしだけど、それが背髓を惡くするなんてね、ホヽヽヽ。
ランク それも惡くなつた背髓が自分でそんなものを食つたわけぢやないんですからね。
ノラ えゝ、それが何よりもね。
ランク (探るやうな目付で女を見る)ふむ――
ノラ (ちよつとして)何をお笑ひなすつて?
ランク いゝや、お笑ひなすつたのは、貴女だ。
ノラ いゝえ、あなたですよ、先生、お笑ひなすつたのは。
ランク (立ち上りながら)あなた――あなたも相當なものですね。
ノラ 私、今日は氣が違ひさうなんです。(唐突に)
ランク さう、そんな風ですよ。
ノラ (兩手を男の肩にかけ)ね、先生、あなたをトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトや私から連れて行くことは死の力でも出來ませんわね。
ランク なあに、ゐなくなれば譯なく忘れておしまひなさる、去る者日々に疎しでね。
ノラ (心配氣に男の方を見る)さうでせうか?
ランク 新しい友達を拵へて、そして――
ノラ 誰が新しい友達を拵へるの?
ランク あなた方がさ、私のゐなくなつた後でね。現にあなたはもう機敏にその機會を捉へようとしてお出でのやうに見える。あのリンデンの奧さんといふのは、昨日ここで何をしてゐたのですか?
ノラ あら、あんなこと――クリスチナさんのことを妬いてらつしやるんですか?
ランク えゝ、妬けます。あの婦人が私の後繼になつてこの家へ這ひこむんでせう。私がゐなくなると、きつとあの人が――
ノラ 叱ッ! そんな大きな聲をして、あの方がそこにをりますよ。
ランク 今日も來てゐるんですか、さうれご覽なさい。
ノラ たゞ私の衣裳を直しにですよ――どうしてあなた、そんなに駄々をお捏ねなさる――(ソファに坐る)さあ、いゝ子におなんなさいよ、先生。私明日はね、本當に旨く踊つてみせますよ。その時には貴方、私が貴方を喜ばせたいばつかりに踊つてるのだと思つてらつしやい――無論それはトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトのためにもなんだけれど(箱の中から色々の物を取り出す)先生、こゝへお掛けなさい、お目にかけるものがありますわ。
ランク (坐りながら)何ですそれは?
ノラ さ、これ!
ランク 絹の靴下。
ノラ 肉色、綺麗でせう? おやどうしよう。暗くなつたこと、けど明日はね――あら、いけませんよ、踵の方ばかし見ていらつしやい、さ、もういゝわ、もう上の方を見てもよくつてよ。
ランク ふむ――(じろ/\眺める)
ノラ どうして、そんなにじつと眺めていらつしやるの? 私に似合はないこと。
ランク さあ何と云つたらいゝか。さうしたことは私にはわかりません。
ノラ (暫く男の方を見てゐて)まあ、いぢわる。(靴下で男の耳の處を輕く打つ)これが罰ですよ(靴下を元のやうに卷いておく)
ランク まだ外に何か珍らしいものがありますか?
ノラ もう、あなたには見せない。禮儀を知らないから。(ちよつと鼻唄を歌ひ、色々な物を探しまはる)
ランク (暫く默つてゐた後)かうして、あなた方と親しくして無駄口でも利いてると私はつくづくさう思ひますね、これが、もしまるでこの家に出入りをしなかつたら、私の身體はどうなつてるでせう?
ノラ (微笑しながら)さう思ふでせう? あなたは私どもへいらつしやると、全く樂しさうに見えますよ。
ランク (眞直に自分の前を見ながら、一層柔かな調子で)ところが、もう、すつかりそれも見納めにしなくちやならない――
ノラ 下らないこと、私どもを見限つていらつしやるには及びますまい。
ランク (前と同じ調子で)そして後には、何一つ禮をいはれるようなこともしておかないし、せめて當座だけでも氣の毒だと思つてくれる人もありません。――たゞもうゐなくなつて空虚が出來たといふだけで、そんなものは代りが來さへすれば直ぐ埋まつてしまふ。
ノラ ぢやあ、もし私がお頼みすることがあつたら――? 止しませう――
ランク どういふお頼みですか?
ノラ あなたのご友情の印に。
ランク ふむ――といふのは?
ノラ よさう/\。本當はね――大變な役目。
ランク 一生の思ひ出に是非それをさせて下さい。私はどんなにか嬉しいでせう。
ノラ だつて、あなた、どんなことだかご存じないぢやありませんか。
ランク ぢや、聞かせて下さい。
ノラ いけませんよ、本當にいへないんですよ。全く大變なことですもの――たゞ役目をして頂くといふのでなく、助けて頂くといふのですからね。
ランク なほ結構です。どういふ意味だかちよつと私には見當がつかないが、さあさあお話なさい。私を信用して下さらないのですか?
ノラ 外に信用する人はありません。私に取つては貴方が一番眞實なお友達なのですから。私お話するわ。それでね、先生、お願ひといふのは、ここに一つ事件が起りかゝつてゐましてね、それをやめて戴きたいのです、トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトはあんな風ですから、私を愛してることといつたら全く不思議なほどでせう。ですから何か起りでもしようものなら、私のために命を捨てるくらゐは何とも思つてゐませんの。
ランク (女の方に屈みながら)ノラさん、あなたはヘルマー君の外には誰も――
ノラ (ちよつと身體を起して)誰も――?
ランク 貴女のために命を捨てゝ厭はない者はゐないと思つてらつしやるのですか。
ノラ (悲しげに)まあ! (顏をおほふ)
ランク 私は――是非このことをお別れする前にいつて置かうと心に誓つたのですよ、こんないい機會はまたとなからうから――さうだ、ノラさん、これだけ申したら私の心持はわかりましたらう? それから、他に信用する者がなければ私を信用して下さいといふ譯もわかつたでせう?
ノラ (無雜作に靜かに立ちながら)ちよつとご免下さい。
ランク (女の通れるやうに道を開ける。けれども自分は坐つたまゝでゐる)ノラさん。
ノラ (入口の處で)エレン、ランプを持つてお出で! (ストーヴの方へ横切る)まあ先生、惡いことをいつて下すつたわね。
ランク (立ち上りながら)あなたを愛してるといふことがですか、愛してる點では誰にも讓らない。それがそんなに惡いことですか?
ノラ さうぢやありませんけど、私にさういつて下さつたのが惡いんです。おつしやる必要はなかつたのでせうに――
ランク どういふわけで? あなた、知つてたのですか?――
(エレン、ランプを持つて入つて來る。それをテーブルの上に置いて出て行く)
ランク ノラ、ヘルマーの奧さん――あなた知つてたのですか?
ノラ だつてそんな、私が知つてゐたか、ゐないかなんてことは言へませんわ。實際それはいへませんの、どうしてまあ、あなたはそんなにわからないのでせう? 本當に美しく治まつてゐたものをねえ!
ランク まあ、とにかく、私はこんなにして精神も肉體も貴女に捧げてるのですから、さ、お話の先を聞かせて下さい。
ノラ (男の方を見ながら)話の先ですつて――今になつて?
ランク どうか、貴女の頼みといふのを聞かせて下さい。
ノラ 今となつては私もう何も申し上げられませんわ。
ランク いや/\、そんな風にして私を罰しなくてもいゝでせう。男として出來ることなら何でもしますから、あなたのために働かせて下さい。
ノラ もう私のためになんてことは駄目ですよ。それに本當は私助けて頂く必要はありません。たゞ私の空想でそんなことを考へただけですから、えゝ、さうに決つてます。勿論さうですわ(ロッキングチェヤに坐り微笑しながら男の方を見て)あなたは好い人なんですけれどね先生、あんなことをおつしやつて恥かしくはなくつて? こんなにランプがテーブルの上で光つてるのに。
ランク いや、さうも思へません。が、もう私はお暇した方がよささうです――永のお暇を。
ノラ いけませんよ、そんなことつてありません。今まで通りにいらしてゐて下さいな。あなたがいらつしやらないと主人が困ることはよくご承知でせう。
ランク それはわかつてますが、あなたは?
ノラ それは知れきつてるぢやありませんか、私かうやつて貴方とお話するのが何よりも好きですもの。
ランク それだ、私に思ひ違ひをさせたのは、あなたは私にとつちや謎だ。殆んどヘルマー君と同じやうに私がお好きなのぢやないかと、そんなことを思つたのも何度か知れません。
ノラ ね? さうでせう? 自分の愛する人も好きですけれど、話をして面白い人も好きですわねえ。
ランク 左樣――さういふこともいへますね。
ノラ 私、子供の折には自然とお父さんが一番好きでしたわ。けれど下男達の部屋へそつと入つて行くのが大變面白かつたのですよ、第一、下男達は私にお説教をしないでせう? それにあれ達の色々な話を聞くのが非常に面白かつたものですから。
ランク おや、おや、ぢや、私がその下男代りといふわけですね。
ノラ (とび上つてランクの方へ急ぎ行く)あらまあ先生、そんな意味ぢやないんですよ、ですけれど、おわかりでせう? トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトは丁度私に取つては、お父さんのやうなものですからね――
(エレンが廊下から入つて來る)
エレン 奧さま――(ノラへ囁く、そして一枚の名刺を渡す)
ノラ (名刺を一瞥しながら)あつ! (名刺を隱袋に入れる)
ランク 何か變つたことですか?
ノラ いゝえ、何でもないの、たゞ――私の注文して置いた衣裳が來たのですよ――
ランク だつて衣裳はそこにあるぢやありませんか。
ノラ あ、そのはうはさうですよ。けれど、これはまた別なのです――注文して置いたのです――家に内緒なのですよ――
ランク あはあ、ぢや、大祕密なんですね。
ノラ えゝ、さうですとも。あなたちよつとトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトの方へ行つてらつしやいよ、奧の部屋にゐますから。そして出來るだけ長く出て來ないやうに引き止めてゐて下さいな。
ランク 安心してらつしやい。ヘルマー君をしつかり掴まへときますから(ヘルマーの室へ行く)
ノラ (エレンの方へ)あいつは臺所で待つてるのかえ?
エレン はい、裏の階段から上つて參りまして――
ノラ 私、今、手が塞がつてるといへばよかつたのに。
エレン さう申しましたけれど、利目がございませんでした。
ノラ あいつ、歸らないつていふのかい?
エレン はい、あなたにお話のすむまでは歸らないと申してをります。
ノラ ぢやお通し! 靜かにね! それからあいつの來たことをいつちやいけないよ。旦那樣に聞えるとびつくりするからね。
エレン はい承知いたしました。(出て行く)
ノラ 來た來た、たうとう近よつてきた。いや、いや、そんなことがあるものか、そんなことをさせやしない!
(ノラは、ヘルマーの室の處に行き、指錠をおろす。エレンは廊下への扉を開きクログスタットを通す。そして後を閉め切る。クログスタットは旅行上衣を着、長靴をはき、毛皮の鳥打帽子を冠つてゐる)
ノラ 靜かにお話下さい、主人が家にをりますから。
クログスタット 承知しました。そんなことはどうでもかまひません。
ノラ どんな御用ですか?
クログスタット 少しお知らせ申すことがありましてね。
ノラ ぢや早くして下さい、何ですか?
クログスタット ご承知かも知れませんが、私は免職になりました。
ノラ それはね、私止めることが出來なかつたのですよ、クログスタットさん。ぎりぎりまで爭つてはみたけれど、役に立ちませんでした。
クログスタット そんなにご主人は貴女のことを何とも思つてお出でにならないのですか。私が貴女をどんな目に合はせるかも知れないといふことはご承知でせうが、それでもやつぱり――
ノラ 貴方はすつかり主人に私がいつたと思つていらつしやるの?
クログスタット いや、實は貴女が、それを話しておいでなさらないといふ事はよく承知してゐました。私の知つてるトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルト・ヘルマー君なら、それを聞いてゐては、あれ程の勇氣は出ませんからな――
ノラ クログスタットさん、どうか主人についてあまり失敬なことはいはないやうにして下さい。
クログスタット 勿論ですとも、充分相當の敬意は拂つてをります。が、とにかく貴女がさう心配して事件を祕密にしようとなさるところを見ると、昨日よりは、大分あなたにことの性質がわかつて來たと見えますな。
ノラ 貴方に伺つた以上に、ずつとよくわかつてゐますよ。
クログスタット 左樣、私のやうな碌でもない法律家にお聞きなさるよりはね――
ノラ 貴方のご用といふのは?
クログスタット たゞ、貴女がどうしていらつしやるかと思ひましてね、奧さん、私は一日貴女のことを考へてをりました。ほんの金貸の、新聞ごろつき――まあいつてみれば、私のやうな奴でも――世間でいふ人情といふ奴を少しは持つてをりますからね。
ノラ ぢやそれを見せて下さい。子供達のことを考へて下さい。
クログスタット それで、あなた方は、私の子供のことを考へて下さいましたか? しかしもうそのことは宜しうございます。私はたゞ、この事件をあまり重大にお考へなさるなと申し上げたばかりです。私は今のところぢや、裁判沙汰にしようなどとは思つてをりませんからな。
ノラ さうでせう、そんなことをなさるはずはないと思つてました。
クログスタット 元來全部ごく穩かに落着かせられる事件です。誰にも知らす必要はありません。私ども三人の間で纏められる問題です。
ノラ ですけど、主人にだけはどうあつても知らせられません。
クログスタット どうしてさういふ事が出來ますか。貴女、ご自分で、すつかりお拂ひになりますか。
ノラ それは、直ぐといふ譯には參りませんが。
クログスタット それともこの兩三日のうちにその金を拵へる手段てだてがおありですか?
ノラ それも直ぐといつて間に合ひさうなのはありませんけれど。
クログスタット また、それがおありなさるとしても、今となつちや役に立ちますまい。すつかり金を積んで返さうとおつしやつても證文は貴女の手には返しません。
ノラ それを取つておいて何になさらうといふのです?
クログスタット たゞ保存しておきたいのです。私の所有物としてね。世間の人には何も知らせやしません。さうして萬一あなたが無法な考へなんかお起しなさるやうなら――
ノラ 起したらどうします?
クログスタット 例へば夫や子供を捨てゝしまつて、といふやうなことを考へるとか――
ノラ もし捨てゝしまつたらどうなります?
クログスタット または――何かもつと亂暴なことをお考へなすつた場合に――
ノラ どうして貴方は、それを知つてゐます?
クログスタット そんなことは殘らず頭の中から打つちやつておしまひなさい。
ノラ どうして貴方は、私の心で思つてることをご存じですか?
クログスタット 誰でも始めは、さういふことを考へるものです。私もそれを考へました、けれども私には勇氣がなかつた。
ノラ 私にも、それがない。
クログスタット その上――始めの嵐がすぎてしまふと――そんなことは至つて馬鹿らしいものです。私こゝにご主人に當てた手紙をポケットに入れて來てゐます。
ノラ すつかり打ち明けようと言ふのですか?
クログスタット あなたは出來るだけかばつてあります。
ノラ (早口に)どんなことがあつても、その手紙をあの人に渡して下すつちやいけない。やぶいて下さい。私どうにかしてお金は拵へますから。
クログスタット 相すみませんな、奧さん、しかし私はさう申し上げたと思ひますが。
ノラ いゝえ、何も借りてゐるお金のことをいつてるのぢやありません。一體あなたは主人からどの位お金を取らうと思つていらつしやるのですか――私がそれを差上げませう。
クログスタット 私はご主人からお金を貰はうとは思つてゐません。
ノラ 何がそれじや欲しいのです?
クログスタット では申しませう。私は世間に出る足場が取り返したいのです。身を立てなくちやなりません。それでご主人に助けて貰はうといふのです。この十八ヶ月間私の履歴には一點の汚れもありません。その間私は始終ひどい貧乏をしてゐました。けれども、もがきながら一歩一歩地位を作つて行かうといふ一心で滿足してをりました。ところをかうやつて突き落されてしまつた。ですから、もう一度元の地位に這ひ戻らしてさへ貰へばよいといふ譯には、今ぢや參りません。出世させて貰はなくちやならん。ようございますか、今一度銀行へ入れて貰つて、元よりも高い地位に据ゑて貰はなくちやなりません。ご主人は私のために地位を工夫して下さらなくちやならん。
ノラ 主人が、そんなことをするものですか。
クログスタット いや、なさるでせう、私はご主人の人物を存じてをります――よもや拒みはなさるまいと思ひます。そして私が銀行に入れば、見ていらつしやい、直に支配人の右の腕にはなつてみせます。トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルト・ヘルマーでなくニルス・クログスタットが株式銀行は切り廻してご覽に入れます。
ノラ おやまあ、そんなことができるものですか。
クログスタット では何でせうな、あなた――?
ノラ もう止して下さい。今こそ私勇氣が出ましたよ。
クログスタット 私を嚇かしちやいけませんよ。貴女のやうな華車な荒い風にも當らないものがどうして――
ノラ まあ、見ていらつしやい!
クログスタット おそらく氷の下に閉じ込められて? あの冷たい黒い水の底に沈んで? 翌年の春になつて浮き上つて來ると、醜い嫌な姿に代つてゐて髮の毛も無くなつて、誰だか見わけもつかないやうになつて――
ノラ 私を怖がらせようと思つたつて駄目ですよ。
クログスタット 貴女も私を怖がらせようたつて駄目です。さういふことはできるものぢやありません、奧さん。また、やつたところで何の役にも立ちません。どんなことにならうとも、こちらのご主人はもう、私のポケットの中へ入れてるも同然です。
ノラ 後々までも? 私がゐなくなつてからも――?
クログスタット 貴女の名譽は私の手に握つてる事を忘れましたね(ノラ無言で立ち上り、クログスタットを見る)よろしい。覺悟がついたと見えますね。馬鹿なことをなさるなよ。ヘルマー君は、私の手紙を受取つたら、すぐに返事を下さるでせう。よく覺えてゐて下さい。私がまた、こんなことをしなくちやならないのもご主人のお蔭ですよ。どうあつてもそのまゝにはすまされませんからな。さようなら、奧さん(握手、廊下から出て行く。ノラは扉の方へ急ぎ足に行つて細目に開けて聞耳を立てる)
ノラ あいつ、行つてしまふ。手紙は郵便箱に入れないらしい。どうして、どうして、そんなことの出來ようはずはない。(扉を段々大きく開ける)おや、どうしたんだらう? あいつはまだ立つてゐる。階段を下りて行かないやうだが、考へ直しでもしたのか知ら? ひよつとしたら――(郵便箱の中へ手紙が入る。クログスタットの階段を下りてゆく足音が段々遠くなつて聞える。ノラ押しつけたやうな叫聲を上げる。暫く間を置いて)郵便箱に――(おづ/\と扉の所へ拔足して行く)あなた、あなた――たうとう私達の破滅になりました!
(リンデン夫人が踊衣裳を持つて左手からよつて來る)
リンデン さあ、もうすつかり直りました。ちよつと着てご覽なさい。
ノラ (嗄れ聲で柔かに)クリスチナさん、こちらへ。
リンデン (衣裳をソファの上において)どうなすつたんです? あなた、まるで顏色が變つてゐますよ。
ノラ こゝへいらつしやい。あの手紙が見えますか? さう、ね――あの郵便受のガラスに。
リンデン えゝ、えゝ、見えてよ。
ノラ あの手紙はクログスタットから來たんですよ――
リンデン ノラさん――あなたに金を貸してるのはクログスタットでしたのね?
ノラ えゝ、ですからもう愈々トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトが何もかも知つてしまふことになります。
リンデン ノラさん、惡いことは言ひません、きつとその方が貴女がたお二人のためですよ。
ノラ 貴女はまだすつかりわけがわからないから、そんなことを言ふけれど、私、實は名前を僞署してゐるのですよ――
リンデン どうしたんですつて――
ノラ ですから、ねえ、クリスチナさん、あなた聞いてゐて下さい。私のために證人になつて下さいな――
リンデン 證人とは? 何のです――
ノラ もし私が氣でも違ふやうだつたら――そんなことになるかも知れませんから。
リンデン まあ、ノラさん――
ノラ それでなくとも何か私の身の上に變つたことが起つたら――さうして私がもうかうしてゐられない場合にでもなつたら――
リンデン まあノラさん、あなた――どうかしたの?
ノラ もし誰か出て來て何もかも自分が引き受けようと言ふ場合には――すべての罪をね――わかりましたか?
リンデン えゝ、けれども、どうしてあなたはそんなことをお考へになるの――?
ノラ その時には、あなた、證人になつてね、それは嘘だと言つて下さいよ、クリスチナさん、私はちつとも本心を失つちやゐません。かうして言つてることは私よく知つてゐますよ。それでいつておくのですがね、この事件はちつとも他の人の知つたことぢやありません、私が何もかもしたのです、私自身の罪です、どうかそのことを忘れないでゐて下さい。
リンデン それは覺えておきますがね、どうしてそんなことをおつしやるか、私にはわかりません――
ノラ それがどうして貴女にわかりませう? これから現れて來ようといふ奇蹟ですもの。
リンデン 奇蹟ですつて?
ノラ えゝ、奇蹟。けれども非常に怖ろしいことなの、クリスチナさん。どんなことがあつても起つてくれちやならない事です。
リンデン ぢや、私クログスタツトの方へ直ぐ行つて話してみませう。
ノラ いけませんよ。あの男は貴女に害を加へますよ。
リンデン あの人は私のためなら何でもした時代がありましたのよ。
ノラ あいつが?
リンデン あの人の家は何處ですの?
ノラ そんなことをどうして私が――? さう/\(隱しを探る)こゝにあいつの名刺があります。けれども、あの手紙をどうしませう――
ヘルマー (外から戸を叩きながら)ノラ!
ノラ (恐怖の叫び)なあに? 何かご用ですか?
ヘルマー びつくりしなくてもいゝさ、入つて行きやしないから。お前、戸の錠をかけちやつたな、衣裳を着てみてるところかい?
ノラ さうです、さうです、着てみてるんです。大變よく似合つてよ、あなた。
リンデン (名刺を讀んで)ぢや、あの人の家はすぐ近くですね。
ノラ さうですよ、けれども、もう、そんなことは無駄です。手紙があゝして郵便受に入つてるんですもの。
リンデン そして箱の鍵はご主人が持つてお出でなの?
ノラ えゝ、いつも。
リンデン それぢや、クログスタットにさういつて、あの手紙を讀まないうちに取返させませう。何かいひ譯をさせればすみますから――
ノラ けれども、もうトル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトがいつも郵便受をあける時刻ですから――
リンデン 引き止めておゝきなさいよ、いつも手を塞がせておくとよくつてよ、私出來るだけ早く歸つて來ますから(急いで廊下の扉を開けて行く)
ノラ (ヘルマーの室の扉を開けて中を覗く)あなた!
ヘルマー うむ、もうそつちへ行つてもいゝかね、さあランク君、行つてみよう――(入口の處で)おや、どうしたんだ?
ノラ なあに? あなた。
ヘルマー ランク君の話で、大變な衣裳稽古を見る積りだつたが?
ランク (入口の所で)私もさう思つてゐた。聞き違ひとみえる。
ノラ いけませんよ、明日の晩までは私の晴衣裳は誰にも見せないの。
ヘルマー どうしたんだ、お前は大變疲れてるやうにみえる、稽古をし過ぎたのだらう。
ノラ いゝえ、まだ少しも稽古なんかしやしません。
ヘルマー けれども、お前やらなくちやいけないんだらう――
ノラ えゝ是非やらなくちやならないんですよ。けれどもね、あなた來て教へて下さらなきや、やれないんですもの、私みんな忘れちやつた。
ヘルマー あゝ、そりやまた直に思ひ出すさ。
ノラ ですから教へて下さいな、ねえ、よくつて、それぢや約束して下さい――本當に私、氣にかゝつてならないの。あんな大勢の人の前で――今夜は貴方、すつかり私のために身體をあけておいて下さいな。これつぱかりでも仕事をしてはいけなくつてよ。さ、約束して下さいな、よくつてあなた?
ヘルマー 約束するよ、今夜はすつかりお前の奴隷になるよ。可哀さうに、氣の弱い奴だな――それはさうと先づ――(廊下の扉の方へ行きながら)
ノラ 何をなさるの?
ヘルマー 手紙が來てやしないか見るのさ。
ノラ いけません、いけません。そんなことをしちや、ねえ。
ヘルマー なぜさ?
ノラ あなた、お願ひですから止して下さいな、手紙なんか來ちやゐませんよ。
ヘルマー ま、ま、見てくるよ(行かうとする)
(ノラはピアノの前に坐つて、タランテラ踊の音樂の一小節を奏でる)
ヘルマー (入口の處に立止る)おや?
ノラ 私最初にあなたとおさらひをしておかなくちや明日踊れませんもの。
ヘルマー (女の方へ行きながら)お前本當にさう昂奮してるのかえ、ノラ?
ノラ えゝ、じつとしてゐられないんですよ。さ、すぐお浚へにかゝりませう。お夕飯までにはまだ時間があります。ね、坐つて彈いて下さいよ、あなた。いつものやうに指圖して下さいよ。
ヘルマー しろといふんなら、そりやもう悦んでするさ(ピアノの臺の前に坐る。ノラ、箱の中からタンバリンを取出す。そして急いで長い雜色織のショールを身にまとふ。そして一とびして床の眞中に立つ)
ノラ さあ、彈いて下さい! 踊りますよ!
(ヘルマーが彈きノラが踊る。ランクはピアノの前、ヘルマーの後に立つて眺めてゐる)
ヘルマー (彈きながら)もつと、ゆつくり、ゆつくり!
ノラ ゆつくりは踊れませんの。
ヘルマー これノラ、そんな亂暴でなく。
ノラ いゝんですよ、いゝんですよ。
ヘルマー (止める)ノラ! それぢや到底ものにならないよ。
ノラ (笑つてタンバリンを振り動かす)だから、さういつたぢやありませんか。
ランク 私が彈いてあげませう。
ヘルマー あゝ、どうか――さうすれば私が教へてやるのに都合がいゝから。
(ランクはピアノに向つて彈ずる。ノラは段々氣狂のやうに踊り出す。ヘルマーはストーヴの傍に立つて、絶えずノラの踊振りを直すやうに差圖する。ノラはその言葉が聞えないやうにみえる。その髮の毛がほぐれて兩肩に垂れかゝる。ノラはそれに氣も付かない樣子で踊り進む。そこへリンデン夫人が入つてきて、入口の處に襲はれた樣に立すくむ)
リンデン まあ――
ノラ (踊りながら)こんな面白いことをしてるんですよ、クリスチナさん!
ヘルマー どうしたんだ、ノラ、お前の踊りはまるで生死いきしにの騷ぎのやうだ。
ノラ えゝ、生命がけの踊りなの。
ヘルマー ランク君、止め給へ! これぢやまるで氣狂だ。おい君止め給へ。
(ランク、ピアノを彈き止める。ノラ、それと同時に突然立止つて身動きもせぬ)
ヘルマー (女の方へ行きながら)これほどまでとは思はなかつたが、お前、俺の教へてやつたものを、すつかり忘れてしまつたな。
ノラ (タンバリンを投出す)ね、ご覽なすつたでせう。
ヘルマー これぢやあ實際教へる必要がある。
ノラ ね、教はる必要があるでせう。だから愈々といふ間際まで、あなたすつかり稽古をして下さらなくつちやいけません。その約束をして下さいよ、ね。
ヘルマー よろしい、よろしい。
ノラ 今日と明日とは私のことのほか、何も考へないでゐて下さい。手紙一本だつて開けちやいけませんよ――郵便受なんか見ちやいけませんよ。
ヘルマー あゝ、お前やつぱり、あの男を怖がつてるんだな――
ノラ さうですよ、私怖いんですよ。
ヘルマー お前の顏にちやんと書いてあるよ。ノラ――あいつから來た手紙があの郵便受の中にあるな。
ノラ どうですか、さうかも知れませんね。けれどもあなた、今は何だつて讀んぢやいけませんよ。すつかり濟んじまふまでは、私とあなたの間には外のことは一切なしにするんですよ。
ランク (ヘルマーに向つて柔かに)逆らはないでおいた方がいゝ。
ヘルマー (手を女にかけながら)赤ん坊だからな、したいやうにさせておくさ。けれども、明日の晩踊りがすんだら――
ノラ その時は、あなたの自由よ。
(エレンが右手の入口のところへ出て來る)
エレン 奧さま、お夕飯の仕度が出來ました。
ノラ シャンペンを出しておおきよ、エレン。
(エレンお辭儀をする)
ヘルマー おや/\、宴會のやうだな。
ノラ えゝ、そして明日の朝まで飮み續けませうよ(エレン去る、その方へ向いて呼ぶ)それからね、エレン(エレン出る)パン菓子も出しておおき――どつさりだよ――これ一度つきりだから。(エレン去る)
ヘルマー (ノラの手を捕へながら)これ、これ、さう無闇に昂奮しちやいけない、もう一度家の小雲雀になんなさい。
ノラ えゝ、なります。けれども、まあ、食堂の方へいらつしやいよ。それから、あなたもね、ランク先生。クリスチナさん、あなたは髮を解かすから手傳つて頂戴。
ランク (彼方へ行きながら柔かに)この先き何か變つたことでもあるのぢやないかね? 何もなければいゝが――
ヘルマー なあに、なにそんな譯ぢやない、いつも話したのがあれなんだよ、物を氣にかけてくると、まるで赤ん坊になつてしまふ。
(兩人、右手の方へ出て行く)
ノラ それで?
リンデン あの人は旅行してゐて、こつちにゐません。
ノラ そんなことだらうと、あなたの顏を見た時に思ひました。
リンデン 明日の晩は歸つて來ますから、手紙をおいて來ました。
ノラ そんなことをなさらない方がよかつたのに。出來かゝつたことなら、ほつとくより他に仕方がありません。けれども、なんですねえ、奇蹟を待つてる氣持といふものは、何だかいふにいはれない晴れがましいものですねえ。
リンデン その待つてる奇蹟といふのを聞かせて下さい。
ノラ それは、あなたにはわかりませんわ、食堂の方へいらつしやい。私も直ぐ行きますから。
(リンデン夫人は食堂へ入る。ノラは考へを落着けるやうな樣子で、暫く立つてゐる。そして懷中時計を眺める)
ノラ 五時だ、夜半までもう七時間、それから明日の夜半まで二十四時間。さうすると、丁度タランテラがお仕舞ひになる。二十四時間と七時間? みんなで、あと三十一時間の命だわ。
(ヘルマーが右手の扉のところへ現はれる)
ヘルマー ヘルマー家の小雲雀は何をしてるんだい?
ノラ (兩腕を擴げて夫に走りすがる)こゝにをりますよ!
[#改ページ]

    第三幕


同じ室。中央にテーブル、その廻りに二三脚の椅子。テーブルの上にはランプが點つてゐる。廊下への扉は開いたまゝで二階から舞踏の音樂が聞える。
リンデン夫人は、テーブルの側によつて、放心の體で書物を繰り擴げてゐる。讀まうとして見るが注意が集まらない樣子。度々聞耳を立て、廊下の扉の方を氣遣はしげに見る。

リンデン (懷中時計を見て)まだやつてこない、時間はもう無くなりかけてゐるのに、もしあの人がこなかつたら――(また聞耳を立てる)あ、やつて來た――(廊下に行つて、そつと外の扉を開ける。靜かな足音が階段の方に聞える。リンデンは囁く)お入んなさい、誰もゐないから。
クログスタット (入口の所で)あなたの置手紙を讀みました、あれはどういふ譯でおよこしになつたのですか?
リンデン 是非あなたに、お話したいことがありまして。
クログスタット さうですか? そしてこの家で?
リンデン 私の間借をしてます家では、お目にかゝれないのですよ、別な入口がないものですから。まあお入んなさい、二人きりですよ、女中さんはもう寢てゐますし、この家では夫婦とも二階の舞踏會に行つてますから。
クログスタット (室に入つて來ながら)はゝあ! それぢや、ヘルマー夫婦は今夜、舞踏會に行つてますか。さうですかい。
リンデン えゝ、踊りに行つてたつていゝぢやありませんか。
クログスタット いゝですとも。何で惡いものですか。
リンデン ぢやちよつとあなたにお話がしたいんですが――
クログスタット 私たち二人の間に話があるといふのはなんですかな?
リンデン 澤山ありますよ。
クログスタット 別にあるはずもないと思ふがな。
リンデン それは、あなたが私を本當に理解して下さらないからです。
クログスタット 理解することが何かありますか。これほど當り前のことはなかつたでせう?――薄情な女が好い相手を見つけて前の男を捨てゝしまふ。
リンデン あなたは實際私をそんな薄情者だと思つていらつしやるの? 私があなたと別れたのはそんな簡單なことだつたと思つていらつしやるの?
クログスタット 簡單ぢやありませんか。
リンデン 本當にさう思つてらつしやるのですか?
クログスタット もしさうでないなら、なぜあんな手紙をよこしました?
リンデン だつて、あれが一番いゝ手段ぢやありませんか? 別れなくちやならない事情になつた以上、私に對するあなたの愛をなくさすのが一番よかつたでせう。
クログスタット (自分の兩手を握りしめながら)さういふわけでしたか? そしてその起りといへば――皆、金のためだ――
リンデン 私には頼りない母と二人の弟があつたことをお忘れなすつちやいけませんよ、私達はあなたの行末を當にして待つてゐるわけには行かなかつたのです。
クログスタット それであなたには、私を捨てゝ他人に見更へる權利があるのですか。
リンデン どうですか、私もそのことについては、折々自分が惡かつたか知らと思ひ直してみます。
クログスタット (一層柔かに)あなたに捨てられた當座は、大地が足の下から沈んで行くやうな氣持でした。まあ私を見て下さい、私は今ぢや帆柱にすがりついてる難船者だ。
リンデン あなた、すぐ傍まで救助船が來てるかも知れませんよ。
クログスタット 何、來かゝつてゐたんだ。ところへあなたが出て來て邪魔をしてしまつたんだ。
リンデン 私はちつとも知らなかつたのですよ、あなた。あの銀行で私と入替にされたのが、あなただといふことを、今日まで知らなかつたのですよ。
クログスタット ふむ、それぢやあ、その方はさうとしておいて、愈々それとわかつてみれば、どうです、私にそれを讓らうとおつしやるのでせうか?
リンデン いゝえ、そんなことはあなたを救ふ道ではないと思ひます。
クログスタット あゝ、その救ひです――私は是非ともさうして頂きたい。
リンデン ですけれども、私も冷靜にことを運べと教へられましたからね、世間とむごい辛い暮しとが私を教育したのですよ。
クログスタット それから、私には人の言葉を滅多に信用するなと世間が教へてくれました。
リンデン ぢや世間はあなたに本當のことを教へましたね。けれども實行すれば信用なさるでせう。
クログスタット といふと――?
リンデン お話によると、あなたは今難船して帆柱に縋りついていらつしやるのですね。
クログスタット さういへる理由が澤山あります。
リンデン さうすれば、私も難船して帆柱に縋つてゐる女でせう? 誰を愛するといふ當もなく。
クログスタット それは、あなたがすき好んでおやんなすつたことだ。
リンデン 好き嫌ひをいふ暇はなかつたのです。
クログスタット まあ、さうとして、それでどうするといふのです?
リンデン かうやつて難船した二人が手を握り合ふことが出來たら、どんなものでせう。
クログスタット 何ですと?
リンデン 一本々々の帆柱に縋りついてゐるよりか、それを組合せて筏にした方がいゝ譯でせう。
クログスタット クリスチナ!
リンデン 私がこの町へ來たのは、どういふ譯だと思つていらつしやるの?
クログスタット 何か私のことでも考へて來たのか?
リンデン 何よりも仕事をしなくてはなりますまい? 仕事をしなければ生きて行けませんからね、私の覺えてゐる限りでは、私は一生仕事のし通しですよ。仕事が私にとつては非常な樂しみになつてゐました、ところが、かうして唯一人になつてみますと、自分で自分を當に仕事をすると言ふことは、ちつとも幸福なものぢやありません。ですからねあなた、どうか當にして働く甲斐のある人を私に見付けて下さいな。そんな風にして仕事をさせて下さいな。
クログスタット いや、いや、それは駄目だ。たゞもう女が自分を犧牲にしようといふロマンチックな考へに過ぎないんだ。
リンデン あなたは私をロマンチックな女だと思つてらつしやつて?
クログスタット では、あなたは實際? 全體あなたは私の過去を知つてますか?
リンデン えゝ。
クログスタット そして世間の奴が私をどういつてるか、それも知つてますか?
リンデン ですけど、あなたは今、私と一緒だつたらまるで別な人になつてゐたらうとおつしやるやうなお口吻だつたぢやありませんか。
クログスタット それは確かにさうだ。
リンデン 今ではもう遲くつて?
クログスタット クリスチナ、あなたは自分で今何をいつてるか、知つてゐますか、あゝ、知つてゐるにちがひない。あなたの顏はさういつてゐる。ほんたうにあなたは、その勇氣を持つてゐるのか――?
リンデン 私には頼る男が要るし、あなたの子供には母が要るでせう? あなたには、私といふものが必要だし、私には――私にはあなたが必要です。ねえあなた、私はあなたの立派な本當の心を頼りにしますよ。あなたと一緒なら私は何にも怖いものはありません。
クログスタット (女の手を取りながら)有難う――(立つ)有難うクリスチナ、これから一つあなたが見てくれた本當の私に立ち戻つて世間の奴を見返してやるよ。あ、私は忘れてゐた――
リンデン (聞耳を立てながら)叱ッ! タランテラよ、早くお歸んなさいよ。
クログスタット どうして? どうしろといふんだ?
リンデン 上で踊つてるのが聞えませんか? あれが濟むと、直ぐここの人達が歸つてくるでせうよ。
クログスタット わかつた、わかつた。歸らう。だが今となつてはもう手遲れだよ。私がこのヘルマーの家に對してやりかけてゐることが、どんなことだか無論お前は知るまいが。
リンデン いゝえ、知つてゐます。
クログスタット クリスチナ、それでもあなたは、あゝいふことをする勇氣が――
リンデン それはね、あなただつて絶望すれば、どんなことでもやらうとするでせう? それは私察してゐますよ。
クログスタット あゝ、どうかして取消すことが出來るといゝがな。
リンデン 出來ます――あなたの手紙はまだ郵便受の中にあります。
クログスタット たしかに?
リンデン えゝ、けれどもね――
クログスタット (探るやうな目付で女を見ながら)あはあ! わかつた。あなたは、どんなことをしてゞもあなたの友人を救はうといふ腹なんだな。いつておしまひ――それがあなたの本心なのかい?
リンデン あなた、女は一度他人に身を賣れば、二度とそんなことはしないものですよ。
クログスタット ぢやあとにかく私は手紙を返して貰はう。
リンデン お待ちなさい。
クログスタット いや、さうするのがあたり前だ。ヘルマー君のくるまで待つてゐよう。そして返して貰ふやうに頼まう――それから用事はたゞ私の免職に關することだといつて――讀んで貰ふ必要のないことだといつておかう――
リンデン いけませんよ、あの手紙は取り戻さない方がいゝのです。
クログスタット けれどもあなたが私をここへ伴れてきたのは、そのためぢやなかつたか?
リンデン えゝ、始めはびつくりしたものですから。けれどもね、その後私は、この家に色々變なことがあるのを感づきましたよ。どうしてもヘルマーさんに何もかも知らせておかなくちやいけません。あの二人は、すつかり打明けて理解し合はなくちや駄目ですよ。こんな小細工や隱しごとばかりしてゐた日には、二人ともきつと今にやり切れなくなります。
クログスタット では、それもよからう。危險を冐してやつてみようと思ふのならね。たゞ私のすぐにやれることが一つあるが――
リンデン (聞耳をたてながら)早く、早くいらつしやいよ。踊がすみました、もうちよつとたつとかうしちやゐられません。
クログスタット ぢや、通りで待つてゐよう。
リンデン えゝ、どうぞ家へ連れて行つて下さいな。
クログスタット あゝ、今夜ほど、幸福なことは一生涯なかつたよ。
(クログスタット外の扉から出てゆく。廊下と室の間の扉は開け放したまま)
リンデン (器具を直して、自分の外出支度を一つ處へよせながら)すつかり變つた。すつかり變つた。頼りにして働く人も出來るし、幸福な家庭も作られる。私これから一生懸命で働かなくつちやならない。早く歸つてきてくればいいのに(聞耳を立てる)あゝ、歸つてきた! さあ、支度をしなくちや。
(リンデン夫人は帽子と外套をとる。ヘルマーとノラの聲が外側で聞える。鍵を錠前に差込んで廻す。そしてヘルマーがノラを殆んど引ずるやうにして廊下に入つてくる。ノラはイタリア衣裳を着て黒い大きなショールを上に羽織つてゐる。ヘルマーは燕尾服で黒いドミノの上衣をかけてゐる)
ノラ (入口のところでヘルマーと爭ひながら)いや、いや、いや! 私入りませんよ! も一度二階へ行きたいんですから。こんなに早く歸るのは嫌ですよ。
ヘルマー だつてお前!
ノラ ね、どうかね、あなた。もうたつた一時間でいゝから!
ヘルマー もう一分でもいけない。約束したことを覺えてるだらう! さ、さ、入つたり! こゝにかうしてゐては風邪をひくよ。
(男は女の抵抗するにも拘はらず、なだめるやうにして部屋の中に連れてくる)
リンデン 今晩は。
ノラ クリスチナさん!
ヘルマー おゝ、リンデンの奧さん! あなた、こんなに晩く、こゝにいらつしやつたのですか?
リンデン はい、ご免下さいませ、私ノラさんの衣裳をつけていらつしやるのが、是非拜見したかつたものですから。
ノラ あなたは、こゝに坐つたまゝ私を待つてたの?
リンデン えゝ、あいにくと私、遲くきてしまつたのですよ。あなた方はもう二階に行つていらつしやるし、お目にかゝらないで歸るも殘念でしたから。
ヘルマー (ノラのショールを脱がせながら)ぢや、まあ見てやつて下さい。充分見る價値があると思ひますよ。綺麗ぢやありませんか、奧さん?
リンデン えゝ、本當に――
ヘルマー 美しいぢやありませんか。皆がさういつてゐました。たゞこの女が恐ろしく剛情で困りましたよ、此奴めが。どうしてやりませうかな? 殆んど腕力で引つ張つて來たんですよ。
ノラ 今に見ていらつしやい。後悔なさる時がくるから。もうたつた半時間でもいいものを殘らせて下さらないんだもの。
ヘルマー それ! お聞きなすつたでせう、奧さん? あの通りです。しかしタランテラを踊つた時には皆が狂氣のやうに拍手しましたよ。そしてまた充分それだけの値打はあつたといつていいでせう――たゞ、その思想を現はす場合にですな、少うし實感が出すぎた嫌ひはあるかも知れませんが――つまりやかましくいひますと藝術的といふよりも少し行きすぎてゐたのですね。けれどもそんなことはどうでもいゝ――とにかく大成功でした。そして、それが大切な目的なんですからな。で、その後ときてゐますから、いゝところで切り上げないと拙いでせう?――折角の印象を弱めることになりますからね、さうと氣がついた以上、そんなことはさせられません。で、私はこの小さい可愛らしいカプリの娘を脇の下に抱へて大急ぎで部屋を一巡りしましてね、一同に挨拶して、そして――よく小説に書く奴ですが――その美しき幻は消えにけり、でした――引つ込みといふものは、いつもぱつとしなくちやいけませんからね、奧さん。所がノラにはどうしてもその譯がわかりません。いやあ! ここは暑いな!(ドミノの上衣を椅子の上に投げかけて、自分の室への扉を開く)おや、こちらには灯火がついてゐないな? うむ、そのはずか! ご免下さいよ――(入つて蝋燭に灯をつける)
ノラ (息の聞えないやうにつぶやく)どうしました?
リンデン (柔かに)あの人に話しましたよ。
ノラ そして?
リンデン ですけれどね、ノラさん――あなたは、すつかりご主人に打開けてお仕舞ひなさらなくちやいけませんよ――
ノラ (殆んど聲に出さないで)そんなことだらうと思ひました!
リンデン クログスタットの方は少しも怖がる必要はありません。けれども、とにかくすつかりいつてお仕舞ひなさる方がいゝのですよ。
ノラ いゝえ、いひますまい。
リンデン だつて手紙がいつてしまひますよ。
ノラ クリスチナさん、どうも色々ご心配下すつたわね、それでもう、私のすることはわかりました、叱ッ!
ヘルマー (歸つてくる)そこで奧さん、見てやつて下さいましたか?
リンデン えゝ、ぢや私はもうお暇申しませう。
ヘルマー え? もうですか? この編物はあなたのですか?
リンデン (それを取る)えゝ、どうも有難う、私、餘程忘れるところでしたよ。
ヘルマー ぢや、あなたは編物をなさるのですね。
リンデン えゝ。
ヘルマー それよりか刺繍ぬひとりをなさる方がいゝでせう。
リンデン さうですか? どうしてゞせう?
ヘルマー なぜといつて、その方がずつと綺麗です。ご覽なさい、刺繍の時には左の手にそれを持つて、さう、そして右の手を長いなだらかな曲線にして針を動かす、さうぢやありませんか?
リンデン えゝさう。
ヘルマー けれども編物となると、どうも見にくい。ま、ご覽なさい――兩腕を脇腹にくつつけて、そして針が上にいつたり下にいつたり――その樣子が何だか支那人のやうですね――時に今夜のシャンペンは實際素的だつたな。
リンデン ぢや、お休み遊ばせ。ノラさん、もう剛情を張つちやいけませんよ。
ヘルマー よくいつて下すつた、奧さん――
リンデン あなた、お休み遊ばせ。
ヘルマー (戸の處までリンデン夫人と一緒に行きながら)お休みなさい。氣をつけてお出でなさいよ。お送り申すといゝんだが――實際すぐそばですからね、さようなら、お休みなさい!(リンデン夫人去る。ヘルマーは後の戸を閉めて再び出てくる)やつと、あの女を歸しちやつた。全く氣のきかないやつだよ。
ノラ あなた、大變疲れてはをりませんか?
ヘルマー いや、ちつとも。
ノラ 眠くなくつて?
ヘルマー 少しも眠くない。それどころか非常に愉快だね。が、お前は? 疲れて眠さうにみえるな。
ノラ えゝ、非常に疲れちやつた。もう直ぐ寢ませう。
ヘルマー そらご覽! 早く連れて歸つてよかつただらう。
ノラ それは、あなたのなさることなら何でも本當ですよ。
ヘルマー (女の額に接吻しながら)それで、家の雲雀が大人しくなりました。お前、ランクが非常に愉快さうだつたのに氣がついてゐたかい?
ノラ さうでしたか? 私あの人と話をする折がまるでなかつたのですよ。
ヘルマー 私だつてあまり話はしなかつたがね、しかしあの男があんなに上機嫌なことは、めつたに見たことがないよ(暫らくノラの方を見て、傍へよつてくる)かうして自分の家に歸つて二人つきり差向ひでゐると、何ともいへないいゝ氣持だな! この罪作りめ。
ノラ そんな風に私の方を見ちやいけませんよ。
ヘルマー 私の一番貴い寶物を見てるのぢやないか――美そのものだ、そしてそれが私の物なのだからな、全然私一人で占領してゐるのだからな。
ノラ (テーブルの向側にゆく)今夜はそんな事をいつちやいけませんよ。
ヘルマー (後に退きながら)まだ、お前の血管の中にはタランテラが踊つてるな――それで益々お前が美しく見えるんだ。そら、聞えるだらう。他の人も、もう歸りかけてるな。(一層柔かに)ノラ――もうすぐ家中が靜かになるよ。
ノラ どうぞねえ。
ヘルマー ねえ、早く靜かになるといゝだらう? それ、私達が大勢の人の中に交つてゐる時には、私は殆どお前と口を利かないやうにしてゐただらう。そして遠く離れてゐて、たゞ時々お前の方を窃み見をしてゐたゞらう――あれはどういふ譯だか知つてるかい? 實はね、私が空想を描いてゐたのさ、私達は祕密に相愛してゐて、祕密に結婚約束をしてゐて、そして、誰もそんなことは知らないでゐるといつたやうなことを想像するからさ。
ノラ わかりましたよ、わかりましたよ。あなたはすつかり私のことばかり考へていらつしやるのでせう!
ヘルマー さうして、歸る時には、お前のそのすべ/\した柔かな肩から輝くやうな首のあたりへショールをかけてやつて、私はお前を花嫁だと想像してみる。結婚式が丁度濟んで、お前を始めて私の家へ連れて來る。そして始めて、たつた二人で全く他人を交ぜないで差向ひでゐると、お前の震へてゐるのが何ともいへず美しい。こんなことを考へて、今夜は、私、一晩中、たゞもうお前のことばかり思ひ詰めてゐたよ。お前がタランテラを踊つて身體を搖つたり、ぐるぐる廻つたりしてゐるのを見た時には――私の血は煮えくり返つた――愈々我慢がし切れなくなつて、それで私はあんなに早くお前を連れて歸つたんだよ。
ノラ あなた! あちらへ行つて下さいよ。そんなことは聞きたくないから。
ヘルマー どういふ譯なんだ? あゝ、お前は俺をじらしてゐるな! いけないよ――いけないよ、私はお前の夫ぢやないか。
(外の戸を叩く音)
ノラ (立ち上る)聞えましたか?
ヘルマー (廊下の方へ行きながら)誰ですか?
ランク (外で)私ですよ、ちよつと入つてもいゝですか?
ヘルマー (低い調子でいら/\して)えゝ、何の用事なんだらう? (聲高に)ちよつと待つた(戸を開ける)さあ、どうぞ、よく寄つて下すつた。
ランク 君の聲が聞えたやうだつたから、それでふと思ひ出してね(見廻す)あゝ、この部屋も隨分古い馴染だが、お二人で睦まじさうですね!
ヘルマー 君は二階でも隨分愉快さうに見えたね。
ランク 非常に愉快だつた。でなくつてまたどうするものか? この世で得られるだけの愉快をして惡いといふ法はないだらう? 出來るだけの愉快を出來るだけ長くやるがいゝさ。今夜の葡萄酒はうまかつたね。
ヘルマー シャンペンが特別に良かつたね。
ランク 君も氣がついたかね? 私が喉へ流し込んだ分量だけでも隨分なものだらう。
ノラ トル※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)ルトも隨分シャンペンを飮みましたよ。
ランク さうでしたか?
ノラ えゝ、シャンペンを飮みますとね、いつもとても上機嫌になるのですよ。
ランク 結構です、働き甲斐のある一日を送つた後で、一晩愉快を盡すに不思議はありませんからね。
ヘルマー 働き甲斐がある! さうだな、私はあまりその自慢も出來なかつたが。
ランク (ヘルマーの肩を叩きながら)けれども、私は働き甲斐があつたよ、君。
ノラ きつと、あなたは科學上の研究をやつてらつしやつたのでせう、先生?
ランク さうですよ。
ヘルマー おや、おや、ノラさんが科學上の研究なんてことをいひ出したね。
ノラ 結果はお目出たい方でしたか?
ランク 申分なく。
ノラ ぢや、いゝ方でしたね。
ランク 極上々です、醫者に取つても患者に取つても――確實といふ結果です。
ノラ (早口に、そして探るやうな樣子で)確實といふと?
ランク 絶對的に確實だといふことを確かめました。ですから、その後で私が一晩愉快にやるのも當然ぢやありませんか。
ノラ えゝ、さうですよ、先生。
ヘルマー 私もそれに異議はないが、たゞしかし翌日になつて償ひをしなくちやならないやうなことのないやうにしてもらひたい。
ランク それは君、この世の中で、何だつて償ひなしには得られるものはないよ。
ノラ ランク先生、あなたは假面舞踏が大變お好きなのね。
ランク はあ、滑稽な風をしたのが出てくるのは面白いですね。
ノラ ではね、この次の假面舞踏には、私達は何になりませうね――
ヘルマー 慾張り屋! もう次の舞踏會のことを考へてるのかい!
ランク 私達? それぢやいひますがね、あなたは幸運の天子におなんなさい。
ヘルマー 成程な、しかしどんな衣裳を着たら天子に見えるだらう。
ランク たゞもう不斷通りの着物を着てゐればいゝさ。
ヘルマー そいつはいゝ! けれども君は何になる積りか、まだ決つてゐないか。
ランク いや、その方はもうすつかり決つてるよ。
ヘルマー といふと?
ランク この次の假裝會には、僕は見えない姿で出席するね。
ヘルマー 隨分妙な考へだな!
ランク それ、あの大きな黒い帽子――君はあの目に見えない帽子の話を聞いたかね、そいつがお互の上に冠さるといふと誰も見えないやうになつちまふ。
へルマー (笑ふのを耐へて)見えない、それに違ひない。
ランク ところで私は、ここへ來た用事も忘れるところだつた。ヘルマー君、私に葉卷を一本くれ給へ。その黒いバナナを一つ。
ヘルマー さあ、さあ、どうぞ(箱を渡す)
ランク (一本とつて端を切る)有難う。
ノラ (蝋マッチをすりながら)火を點けさせて頂戴。
ランク 有難う。
(ノラがマッチを差出す。ランクはそれで葉卷に火をつける)
ランク それぢや、さようなら!
ヘルマー おゝ君、さようなら。さようなら。
ノラ よくお休みなさい、先生。
ランク ご好意有難う。
ノラ 私にも挨拶して下さいな。
ランク あなたに? 承知しました。お望みなら――よくお休みなさい。それから火のお禮も申しておきます。
(ランクは、二人に頭を下げて挨拶して出て行く)
ヘルマー (小聲で)あの男も、よつぽど飮んだやうだね。
ノラ (外のことに氣を取られてゐる體に)さうねえ(ヘルマーは隱しから一束の鍵を取出し、廊下の方へ行く)あなた、そこで何をなさるの?
ヘルマー 郵便箱を開けなくちや、一杯になつてゐて明日の朝の新聞が入らない。
ノラ 今夜これから仕事をなさるつもりですか?
ヘルマー 馬鹿をいふなよ――おや、どうしたんだらう、誰か錠前をいぢつたな。
ノラ 錠前を――?
ヘルマー さうに違ひない。どうしたのだらう。女中どもがいぢる譯もなしと――ピンの折れたのがあるぞ、ノラ、お前のやうだが――
ノラ (早口に)ぢや、子供でせう――
ヘルマー これからかういふ惡戲は止さすやうにしなくちやいけないよ。うむ――ね、そら、やつと開いた(中の物を取出し、臺所の方に向つて呼ぶ)エレン、エレン、表の明りを消しておけ。(室に歸り、戸を閉める。手には數通の手紙を持つてゐる)どうだ、これ見ろ。溜つてるぢやないか(手紙を繰り返しながら)何だこれは?
ノラ (窓の方で)手紙! あゝ、いけません/\、あなた!
ヘルマー 名刺が二枚、ランクのだ。
ノラ ランク先生の!
ヘルマー (名刺を見ながら)これが一番上に載つてゐたところをみると、入れて間もないのだらう。
ノラ 何が書いてありますか?
ヘルマー 名の上に墨で十字架が書いてある。ご覽、縁起でもない思ひつきぢやないか、これで見ると自分が死ぬといふ知らせとも取れる。
ノラ さうだつたんですよ。
ヘルマー 何だと! 何かお前は知つてるか? 何かあれが話したか。
ノラ えゝ、その名刺をよこしたのはね、私どもに暇乞ひのつもりですよ。あの人はこれから一人で閉ぢ籠つて死ぬ覺悟でゐるのですよ。
ヘルマー 可哀さうに。無論長くは持つまいと思つたが、しかしかう急にとはなア。
ノラ ですけど、成るやうにどうせ成るのですから、誰だつて默つて行く方がいいのですよ。さうは思ひませんか? あなた。
ヘルマー (あちこちと歩きながら)あの男とは特に親しくしてゐたものだから、ゐなくなつたと聞いても本當とは思へない。あの男の身についてゐた色んな苦しみだの淋しさだのが、雲の懸つたやうに私達の幸福な日光を包んでゐたのだが、さうさな、詰りはかうなるのが一番よかつたらう――少くとも當人のためには(突つ立つて)それからおそらく、私達にだつてその方がいゝかも知れない。ねえノラ。さあ、これで愈々私達二人は全く差し向ひになつたといふものだ(兩手に女を抱き)ねえ、お前、私は何だかまだお前をしつかりと私の物にすることが出來なかつたやうな氣がする。あのねえ、ノラ、私は折々さう思ふが、何かお前の身の上に非常な危險が降りかゝつてきて、そして私がそれを救ふために身體も生命も、その他、ありとあらゆる物をなげうつてみたらどうだらう。
ノラ (身をすり拔け確乎とした調子で)さあ、あなた、その手紙を讀んで下さい。
ヘルマー いや/\。今夜は止さう、お前のお伽をするよ、ねえ。
ノラ あなたの死にかゝつてゐるお友達のことを考へながらですか?
ヘルマー それもさうだな、お蔭で二人ともとんだ目に會つた。私とお前の仲にまで何だか厭なものが出てきて死ぬの亡びるのといふことを考へさせる。どうかしてこんな考へを忘れてしまはなくちやならないが、それまでは、まあ別々にゐてやるよ。
ノラ (夫の首に兩腕を卷いて)あなた、お休みなさい。
ヘルマー (女の額に接吻しながら)お休みよ、家の小鳥さん、よくお休み、どれ行つて手紙でも讀んでみるか。
(ヘルマーは自分の室に入り扉を閉める)
ノラ (狂氣の目付で身の廻りを手探り、ヘルマーのドミノの上衣を掴んで自身に打ちかけ、早口に嗄れた切々の口調で囁く)もう二度とあの人には會へない。もう/\どんなことがあつても(頭からショールを被る)子供にももう會へない。もう會へない。あゝ、あの黒い氷のやうな水――あの底の知れない――あゝ、こんなことにならずに濟んでしまつたら(ショールをかける)あゝ、丁度今あの人が手紙を取つて讀んでゐる。いゝえ/\、まだ/\、さようなら。あなた――そして子供達も達者でおいで――
(女は廊下から走り出ようとする。その瞬間にヘルマーが手荒く扉を開け、開いた手紙を手に持つて現はれる)
ヘルマー ノラ!
ノラ (叫びながら)あゝ!
ヘルマー これは何だ? この手紙の中に書いてあることを、お前は知つてるか。
ノラ はい知つてゐます。ですから私もう行きます。通して下さい。
ヘルマー (引き留めながら)どこへ行くといふんだ。
ノラ (振り離さうとして)私を助けて下さらなくてもいゝんです、あなた。
ヘルマー (よろめきながら)やつぱり本當だ! この中に書いてあるのは本當なのか?――いや、いや、こんなことが本當であらう筈はない。
ノラ 本當です、それといふのも私、あなたを愛するためには何をしてもいゝと思つたからです。
ヘルマー 辯解はしなくてもよろしい。
ノラ (一足夫の方へ進んで)あなた――
ヘルマー 困つた奴! 何といふことをやつたのか――
ノラ だから私を行かして下さいよ――私を助けて下さらなくともよいのです。あなたが自身で私の罪を着るには及びません。
ヘルマー お芝居は止せ(扉の錠を下ろす)こゝにゐて、すつかり自分のしたことを話すがいゝ。お前には自分のしたことがわかつてるのか、返事をしろ、自分のしたことがわかつてゐますか?
ノラ (固くなつてじつとヘルマーを見る)はい、今始めてよくわかりました。
ヘルマー (あちこちと歩きながら)考へて見れば實に何といふ恐ろしいことだらう。この八年の間――私の誇りにして喜んでゐたその女が――僞善者、嘘つき――そればかりならいゝが、もつと情けない、情けない罪人なのだ――えゝ汚らはしい(ノラは默つてじつと男を見てゐる)お前は私の幸福といふものを全く打ち壞してしまつた。私の將來は亡びてしまつた。あゝ、考へても恐ろしい。私は惡人の手中に陷つてゐるのだ。あの男のしたいまゝにさせろ、そいつの欲しいだけ貪られても私は默つて聞いてゐなくちやならない。そしてこの災難は、みんなお前のお蔭なのだ。
ノラ 私がゐなくなつたら、あなたのご迷惑はなくなります。
ヘルマー 甘いことをいふな。お前のお父さんも、いつも口が巧かつた、お前がいふ通り、お前が世の中から消えてしまつたところで、それが私に對して何の役に立つ? 何にもなるものぢやないよ。あいつはそんなことに頓着なく、この事件を公にするだらう。さうなると私は共犯人と見られまいものでもない。世間では私がこの事件の蔭にゐてお前を教唆したのだと思ふのだ。そして、それはみんなお前のお蔭なのだ。お禮をいつておくぞ。結婚して以來、たゞもう大事にして可愛がつてやつたそのお前のお蔭なのだ。さあ、これだけいつたら、お前のしたことがわかつただらう。
ノラ (冷靜に)はい。
ヘルマー 實に、あるまじきことだ。事實とは思へない。しかしとにかく打ち合せをして片をつけなくちやならない。その肩掛けを脱いでおしまひ。脱げといつてるぢやないか。先づどうかして彼奴を宥める必要がある――どんなことをしても祕密は飽くまでも保たなくちやならない。それから私とお前とは、今まで通りにやつて行く。しかしそれは勿論世間體だけのことだ。お前もやつぱりこの家にゐるのは無論だが、子供の教育はお前には任されない。こいつは決してお前に任す譯には行かない――たゞ、こんなことを、あれほど愛してやつた女にいはなくちやならんとは、今だつて愛してやる心は違ひないのだが。しかしもう駄目だ、今日からは幸福といふものはなくなつてしまふ。無意味な破れた幸福の影を引きずつて行くだけだ。(ベルの音がする。ヘルマー身を起す)何だあれは? こんなに遲く! 愈々やつてきたのかな? 彼奴かしら――ノラ、お前は隱れなさい。さうだ、病氣だといつてやる。
(ノラは身動きもしないで立つてゐる。ヘルマー扉の方へ行つて開ける)
ヘルマー エレンか?
エレン (着物を引かけたまま廊下で)奧樣にお手紙が參りました。
ヘルマー 私によこせ(手紙を引つかんで扉を閉める)さうだ、あいつからだ。お前はいけないよ、俺がよむ。
ノラ 讀んで下さい。
ヘルマー (ランプの傍で)讀む勇氣も出ない。二人の身の破滅だらう。私もお前も、いや讀む必要がある。(急いで手紙を荒く開く。二三行讀んで封入してあるものを見る、喜びの叫聲)ノラ!
(ノラは不思議さうに男を見る)
ヘルマー ノラ! どうしたといふんだ、待つた、もう一度讀んで見よう。さうだ/\。やつぱりさうだ。俺は助かつたよ、ノラ、私は助かつたよ。
ノラ 私は?
ヘルマー 無論お前もだ、二人とも助かつた、二人とも。これご覽、あの男がお話の證文を返してきた。手紙には思ひ返した、詫をすると書いてある。これから幸福な生涯に入ると書いてある――まあ、あの男のことなんかどつちでもかまはないが、俺達は助かつたな、ノラ、これでもう誰もお前を苦しめる者は無いよ。ねえ、ノラ、だが先づ何よりもこの嫌なものをなくしてしまはう。も一度見て――(證文をちよつと見て)いや見まい/\。今までのことは、私にとつては馬鹿馬鹿しい夢のやうなものだ。(證文と二通の手紙とを裂いてずた/\にする、そして火の中に投じて燃えるのを見詰める)さあ、これでいゝ。手紙によると、クリスマスの晩から――してみると、ノラ、この三日といふもの、お前は隨分辛かつたらうな。
ノラ この三日の間、全く死物狂ひでしたのよ。
ヘルマー そして他に苦しみを逃れる道といつては無いんだから――いや、もう、あの恐ろしいことは考へまいね。俺達はたゞ愉快に祝つて、もうすんだもうすんだと繰返しておかう――これノラ、お前俺のいつてることが聞えないかえ。まだ判然と事柄が呑み込めないやうだな。さうだよ、もう何もかもすんだよ。どうしたのだ、そのむつかしい顏付は。あゝわかつた。可哀さうにお前は俺がまだ怒つてると思つてるね。俺はもう許してやつたんだよ。誓つて許したよ。一切許してやつたんだからね。お前のしたことはみんな私を愛する心から出たことだと、それは俺にはよくわかつてるよ。
ノラ それだけは本當です。
ヘルマー お前は妻として充分私を愛してくれた。たゞ手段を誤まつたのだ。けれども私は、そんな弱點のためにお前を可愛がらないやうな男ぢやないよ。そんな男ぢやないから、たゞ私に寄り縋つてさへゐればいゝ。私はお前の相談相手にも案内者にもなるよ。萬一、お前の女らしい弱點が一しほ哀れに見えないやうな俺なら、本當の男でないさ。さつきは出しぬけでびつくりしたものだから非道いこともいつたが、あんなことを氣にかけちやいけないよ。あの時は全く世界が耳元で、でんぐり返るかと思つた。私はもうお前を許したよ。ノラ、誓つて許したよ。
ノラ お許し下すつて、有難うございます(右手から出て行く)
ヘルマー あ、これ、お待ち(覗き込んで)そつちへ行つて何をするつもりだ?
ノラ (内から)人形の衣裳を脱ぎます。
ヘルマー (入口の所で)あゝ、さうおし。少し靜かにして落着くといゝさ。家の小鳥さん、じつとして休むがいゝ。俺の廣い翼の下でかばつてやるから(扉の傍をあちこち歩きながら)あゝ、實に美しい――平和な家庭だな。ノラ、かうしてゐさへすればお前は安全なものだ。鷹に追つかけられた鳩のやうなお前をかうやつて私が救つてゐてやる。今にその胸の動悸も靜めてやるよ。ノラ、今すぐ靜めてやるよ。全體どうして私はお前を追ひ出すの叱りつけるのと、そんな氣持になつたらう。ノラさんは生粹の男の胸中といふものを知るまい。男が自分の妻の過去を――率直に許した時の、その氣持といふものはいふにいへない美しい穩かなものだよ。女はその時から二重に男の持物になる。いはゞ二度生れ替つたやうなものだ。妻であると同時に子供になる。お前もこの後は私に對してさういふ關係になるよ。いゝかい、もう何も氣にかけないでお出で。たゞもうその胸を開いて、私に任せてゐれば、私がお前の意志にも良心にもなつてやる(ノラ、不斷着に着かへて入り來り、テーブルの方へ横ぎる)おや、どうしたんだ? 寢室へは行かないのか、着物を着かへて――
ノラ えゝ、あなた、やつと着物を着かへましたよ。
ヘルマー けれども、どうしてこんなに遲く?
ノラ 今夜は私、寢ないのです。
ヘルマー でもお前――
ノラ (懷中時計を見て)まだそんなに遲くはありません。ちよつと坐つて下さいな。あなた、お互にいひたいことが澤山あるから(テーブルの一方の椅子にかける)
ヘルマー ノラ、どうした譯だ、その冷たいむづかしい顏付は――
ノラ 坐つて下さい。幾らか暇が取れるでせうから、私、澤山あなたに話したい事があるのですよ。
(ヘルマーはテーブルの向側に腰を下ろす)
ヘルマー 出しぬけに變ぢやないか、お前のいふことはさつぱりわからない。
ノラ おわかりになります? つい今夜まで――貴方には私といふ者がわからないし、私には貴方といふ者がわからなかつたのですよ。いゝえ、待つて下さい。私のいふことを聞いて下さればよいのです。私達は愈々最後の極りをつける時になりましたわ、あなた。
ヘルマー (大して氣づかずに)それはどういふ譯だ?
ノラ (暫く默つてゐた後)あなたは、かう二人向き合つてゐて、一つ不思議な事があるとはお思ひにならないの?
ヘルマー 何だらう?
ノラ 私達が結婚してから、もう八年になりますね。それに不思議ぢやありませんか[#「ありませんか」は底本では「ありせんか」]。あなた[#「あなた」は底本では「あな」]と私が夫婦差し向ひになつて眞面目な話をしたことは、つひぞ一度もありません。
ヘルマー 眞面目な話……ふむ、どういふ話?
ノラ 丸八年、もつと經つたでせう――始めて私達が知合つてからといふもの――私達はたゞの一度も眞面目なことを眞面目な言葉で話し合つたことはありませんよ。
ヘルマー すると、お前ぢやどうすることも出來ないやうな心配事まで持ちかけてお前に苦勞させろといふのか?
ノラ 私、心配ごとをいつてるのぢやありません。私達はどんなことだつて、つひぞ底の底まで眞面目に話し合つたことがないといふのですよ。
ヘルマー でもお前、眞面目なことなんかお前の柄にないことぢやないか?
ノラ えゝ、そこなの、あなたは少しも私といふものを理解していらつしやらなかつたでせう? 私は今まで大變まちがつた取扱ひを受けてをりました。第一は父からですし、その次はあなたからですよ。
ヘルマー 何をいふ? お前のお父さんと私から間ちがつた取扱ひだと?――あれほど深くお前を愛してゐた俺たちに?
ノラ (頭を振りながら)あなたは決して私を愛していらつしやつたのではありません。愛するといふことを慰みにしてお出でなすつたのです。
ヘルマー どうしたんだらう。隨分不條理な恩知らずのいひ方ぢやないか。お前はこの家へきて幸福だとは思はないか?
ノラ いゝえ、ちつとも、そんなことは思ひません。始めはさう思つてゐましたけれど、間違ひでした。
ヘルマー 幸福でなかつたと?
ノラ えゝ、面白をかしく暮らしてきたのです。あなたにはいつも親切にして頂きましたけれど、家は子供の遊び部屋でしかなかつたのですよ。その中で私は、あなたの人形妻になりました。丁度父の家で人形子になつてゐたのと同じことです。それから子供がまた順々に私の人形になりました。そして私が子供と一緒に遊んでやれば喜ぶのと同じやうに、あなたが私と遊んで下されば、私には面白かつたに違ひありません。それが私達の結婚だつたのですよ。
ヘルマー 大げさにいひすぎたところはあるが、お前のいふことにも道理はある。しかし今日からはそれを一變させる、遊びごとの時代が過ぎて今は教育の時代が來たのだ。
ノラ 誰の教育です? 私のですか、子供のですか?
ヘルマー それはお前、兩方さ。
ノラ あなたの力では、私を教育してあなたに適する妻になさることはできません。
ヘルマー お前がそんなことをいふのか?
ノラ それはそれとして、私は子供を教育するのに相應はしいかしら?
ヘルマー ノラ! もう止せよ。
ノラ あなたご自身で、つい二三分前に、子供は私に托されないとおつしやつたぢやありませんか?
ヘルマー 激したはずみにつひいつたのだ。どうしてお前そんなことに拘はつてるのだ。
ノラ やはり私には子供は托されません――あなたのおつしやる通りです。さういふ問題は、私の力に及ばないのです。私にはそれより先に解釋しなければならぬ問題があるのですよ――私は自分を教育する工風をしなくちやなりません。それにはあなたの助けは役に立ちませんから、私獨りで始めます。私がこれ切りお別れするのは、そのためです。
ヘルマー (びつくりしてとび上り)何だと?――どういふ意味だか――
ノラ 自分自身や周圍の社會を知るために、私は全く一人になる必要があります。ですから、この上あなたと一緒にゐることは出來ないといふのです。
ヘルマー ノラ! お前!
ノラ 私はすぐ行かうと思ひます。今夜はクリスチナさんが泊めてくれませうから――
ヘルマー お前は氣が狂つた。俺はそんなことは許さん。禁じますぞ。
ノラ 今となつて何を禁じようとおつしやつても無駄です。そんなことは無用ですよ。それでは私、自分の身の廻りの物を持つて行きます。あなたからは、この後も一切お世話にならない積りでゐます。
ヘルマー 狂氣の沙汰だな。
ノラ 明日、私は生れた所へ行きます。
ヘルマー 生れた町へ!
ノラ 生れた町といつても今は何にもありませんけれど。何か生活の便宜があるかと思ひますから。
ヘルマー どうしてお前のやうな何もわからない世間知らずが――
ノラ ですからあなた、生活の經驗を積む工夫をしなくちやなりません。
ヘルマー それで家も夫も子供も振り捨てようなんて。お前は世間の思はくといふものを考へてゐない。
ノラ そんなことには構つてゐられません。私はたゞしようと思ふことは是非しなくちやならないと思つてるばかりです。
ヘルマー 言語同斷だ、お前は全體そんな風にしてお前の一番神聖な義務を棄てることが出來るのか?
ノラ 私の一番神聖な義務といふのは何でせう?
ヘルマー それを私に尋ねるのかい。夫に對し子供に對するお前の義務を。
ノラ 私には同じやうに神聖な義務が他にあります。
ヘルマー そんなものがあるものか、どんな義務といふのだ。
ノラ 私自身に對する義務ですよ。
ヘルマー 何よりか第一に、お前は妻であり母である。
ノラ そんなことはもう信じません。何よりも第一に私は人間です。丁度あなたと同じ人間です――少くともこれから、さうならうとしてゐるところです。無論、世間の人は大抵あなたに同意するでせう。書物の中にもさう書いてあるでせう。けれどもこれからもう、私は大抵の人のいふことや書物の中にあることで滿足してはゐられません。自分で何でも考へ究めて明らかにしておかなくちやなりません。
ヘルマー お前は家庭における自分の地位といふものを知つてないのか? お前だつて何等かの道徳心は持つてゐようから、それとも何かえ、お前には良心さへもないのだらうか?
ノラ さうですね、それはむずかしいことでせう。私にはよくわかりません――そんなことには全く見當がつかないのです。ただ私、あなたのお考へなさるのと全く違つて考へてゐるといふだけは申されます。それからまた、法律だつて私の思つてたこととはまるで違ふといふぢやありませんか。そんな法律は私、正しいとは信じられません。娘が死にかゝつてゐる父をいたはる權利も夫の命を救ふ權利もないといふのですから信じられませんね。
ヘルマー お前のいふことは子供のやうだ。お前は自分の住んでゐる社會を理解しない。
ノラ えゝ、わかつてゐません。これから一生懸命わからうと思ひます。社會と私と――どちらが正しいか決めなくてはなりませんから。
ヘルマー ノラ! お前は病氣になつたのだ。熱病に罹つたのだ。殆んど本心を失つてゐはしないかと思はれるよ。
ノラ 今までに今夜ほど氣分のはつきりしてゐることはありません。
ヘルマー それほどはつきりした考へで、夫や子供を棄てるといふのかい?
ノラ さうです。
ヘルマー ではもう、説明の途は、たゞ一つしか殘つてゐない。
ノラ それはどういふのですか?
ヘルマー お前はもう俺を愛しない。
ノラ 愛しません、それが大事な點です。
ヘルマー ノラ! お前、さういひ得るかい?
ノラ あなた、お氣の毒です、いつも親切にして下すつて。けれどもどうすることも出來ません。もうあなたを愛してはゐないのですから。
ヘルマー (辛うじて氣を取り直しながら)その點も、はつきりと考へたのかい?
ノラ えゝ、はつきりと。もうこの家を出て行くといふのもそのためです。
ヘルマー ではもう一つ、どうして私がお前の愛を失つたか、聞かせてくれまいか?
ノラ えゝ、お聞かせしませう。それは奇蹟の現はれなかつた今夜のことです。あの時始めて私は、あなたが思つてゐたのとは違つた人だと氣づきました。
ヘルマー もつとはつきり説明してくれ。私にはわからない。
ノラ 私はこの八年の間、じつと辛抱して待つてゐたことがあるのですよ。それは勿論、そんな奇蹟が、しよつ中現はれるものでないことはわかつてゐたからです。ところへ今夜の大騷ぎが起つて私を嚇かしたものですから、その時私は「さあ、愈々奇蹟が現はれてくる」と自分にいひきかせました。クログスタットの手紙がまだ郵便受にあつた時は、私はあなたがまさかあいつの申し出しにへこたれるやうな考へをお起しなさらうとは思はなかつたのですよ。あなたはあいつに對して「そのことを世間殘らず公にしろ」とおつしやるだらうと信じてゐました、そして――
ヘルマー けれども、さうして自分の妻の名を恥辱や不名譽の中に曝すといふことは――
ノラ そして、あなたが進み出て、何もかも身に引受けて「罪人は私だ」とおつしやるだらうと信じてゐました。
ヘルマー (ハツとうけながら)ノラ!
ノラ あなたは、私がそんな犧牲は決して受けるはずはない、とおつしやるでせう。勿論受けませんとも。けれども私がさうだからといつて、あなたの決心が固ければ、それをおとめすることがどうして出來ませう。それです。私が見たくもあり、恐ろしくもあつた奇蹟といふのは、そして、そんなことをして頂かないために、私死なうと覺悟してゐたのです。
ヘルマー (立つ)お前のためなら私は晝も夜も喜んで働く――不幸も貧乏もお前のためなら我慢する――けれども、幾ら愛する者のためだつて名譽を犧牲にする男はないよ。
ノラ (靜かに)何百萬といふ女は、それをしてきたのです。
ヘルマー あゝ、お前の考へてることやいふことは駄々ツ子のやうだ。
ノラ さうかも知れません。けれど、あなたの考へていらつしやることやいつてらつしやることも、私が生涯を共にすることの出來る人のやうぢやありません。恐ろしい騷ぎが通りすぎてしまつて――私にでなくあなたご自身に――もう大丈夫となると――あなたは平氣な顏をしてどこを風が吹いたかといふ風にしていらつしやる。私はまたもとの雲雀や人形になつてしまふ――弱い脆い人形だといふので、これからは前よりも一倍いたはつてやらうとおつしやる(立上り)あなた、この時に私は目が覺めました。この八年といふもの、私は見ず知らずの他人とかうやつて住んでゐて、そしてその人と三人の子供まで作つた。あゝ、そのことを考へると私は耐らなくなつて――自分の身を引き裂きたいやうに思ひます。
ヘルマー (悲しげに)わかつた。私達の間には深い淵が出來たのだ。けれどもノラ、その淵は何とかして埋まらないものだらうか?
ノラ 今では、あなたの妻になれません。
ヘルマー 俺は生れ變つたやうな別の人になる力を持つてゐる。
ノラ さうかも知れません――人形と縁を切つてからはね。
ヘルマー 縁を切る――お前と縁を切る。駄目だ、ノラ、駄目だ、俺はそんなことは考へられない。
ノラ (右手の室に入りながら)仕方がありません、理由があれば、どんなことでも起つてきます。
(ノラは、外出仕度の物と小さい旅行鞄を持つて出てきて、それを椅子の上に置く)
ヘルマー ノラ、ノラ、今でなく明日まで待つてくれ。
ノラ (外套を着ながら)他人の家に寢ることは出來ません。
ヘルマー けれども、兄と妹のつもりで住つては行けなからうか?
ノラ (帽子を冠りながら)そんなことが長續きするものでないのはわかつてゐませう。あなた、左樣なら、いゝえ、子供の方には行きません。あれ達は私が世話をするよりも却つてよく世話して貰つてゐます。今の私の身では、子供達に何の役にも立ちません。
ヘルマー しかしいつかは、ノラ、いつかは――
ノラ そんなことがどうしてわかりませう。私は自分がこれからどうなることやら、少しもわかつてはゐません。
ヘルマー (大聲でわめく)だが、お前はいつまでも私の妻だ。
ノラ あなた、よく聞いておいて下さい。とにかく私にあなたの義務をすつかり無くして下さいますなら、私が自由なのと同じに、あなたも自由にして下さい。お互に少しも制限を置かないやうにしませう。これが貴方の指輪です。私のも下さい。
ヘルマー これまでもかい?
ノラ それもですよ。
ヘルマー さあ、これ。
ノラ はい、それですつかり濟みました。鍵はこゝへおきます。エレンがすべてこのことは知つてゐます。私よりも精しく知つてゐます。私が立つてから明日クリスチナさんがきて私の荷物を荷造りしてくれませう。あとから送つて貰ふことにしておきます。
ヘルマー あゝもう駄目だ! もう駄目だ! ノラ! お前はもうどんなことがあつても二度と私のことは考へてくれなからうか。
ノラ それは、あなたのことも子供のことも、この家のことも、どうして思ひ出さずにゐられませう。
ヘルマー 手紙をやつてもいゝか。
ノラ いけません。決してなりません。
ヘルマー けれども、お前に送らなくちやならないものが――
ノラ 何もいけません。何もいけません。
ヘルマー もし必要な場合には助けなくちやならないから。
ノラ いけませんてば。見ず知らずの他人からは、どんな物だつて貰ひません。
ヘルマー 私はもうどういつても、お前には見ず知らずの他人より以上のことはできないのか?
ノラ (旅行鞄を取りながら)それは、あなた、そんなことの出來る時には、本當の奇蹟が現はれなくちやなりますまい。
ヘルマー 本當の奇蹟とは?
ノラ 私達が二人ともすつかり變つて――あゝもう、私、奇蹟なんか信じない。
ヘルマー けれども私は信ずるよ。私達がすつかり變つて――
ノラ 二人の仲が本當の結婚にならなくてはなりません。左樣なら。
(ノラ出て行く)
ヘルマー (顏を兩手に埋めて扉の傍の椅子に沈む)ノラ! ノラ! (見廻はして立上る)誰もゐない。行つてしまつた(一の希望が吹き込まれてくる)あゝ! 奇蹟、奇蹟――※(感嘆符疑問符、1-8-78) (下から重い戸を閉ぢる響が聞える)

底本:「人形の家」角川文庫、角川書店
   1952(昭和27)年8月15日初版発行
   1961(昭和36)年4月30日17版発行
入力:土屋隆
校正:松永正敏
2008年6月2日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。