清は仲間の安三から金の分け前を要求せられてゐた。彼はそれを傍の者に知られないやうにと、自分の眼の前へひよつとこ顔を突出してゐる相手の言葉を押へつけた。
「まア、飲め、飲め、酒を飲まない奴は、話せないよ」
 清はビールのビンを手にして安三のカツプに注いだ。
「酒も飲むがな。酒も飲むが、あれも貰ふがな、」
 安三は小さな眼をちか/\動かした。
「君は夢でも見たのか、をかしな奴だな、つまらんことをいはずに、飲め、」
「つまらんことをいはんがな、あれを貰ふというてまうがな、」
「馬鹿だなあ、電車のパスしかなかつたといつてるぢやないか、欲しけれやくれてやらう、」
「ヘツ、ヘツ、ヘツ、ヘツ、」
 安三は相手を馬鹿にしたやうな笑ひ方をして見せた。
「馬鹿、」
「馬鹿でも阿呆でも宜しいがな、あれを貰へば、」
「パスならやるよ、」
「ヘツ、ヘツ、ヘツ、ヘツ、」
「しやうのない奴だな、ぢや何をくれといふんだ、」
「野猪貰ひまほか、」
「まだあんなことをいつてる、野猪も鹿もあるもんかね、パスだよ、パスといつてるぢやないか、煩さいな、」
「煩さいというたかて、あたい黙りまへんぜ、あんたが野猪くれるまで、」
 清の頭に昨夜の光景が映つた。それは電車からおりた女をつけて行つて、露次の内で押へつけたことであつた。
(声を出したら殺してしまふぞ、これを持つてるぞ)
 懐ろにしてゐた短刀を鞘ぐるみ出して、それを女の右の手先に触はらした。女は脊のすつきりした体を壁に寄せかけて、切れの長い大きな眼を暗い中におど/\さしてゐた。と、一緒にゐた安三が、女のかけてゐた灰色に見えるシヨールを引奪つて、その端を女の口に持つて行つた。
(声を立てたら命がないがな、おまはん好い子やから、黙つとりなはれ、)
 女は少しも抵抗しなかつた。
(よし、静かにしてゐるなら俺達も乱暴はしやしない、)[#「)」は底本では「」」]
 春先のやうな暖かな晩であつた。その露次はすぐ先が行き詰りのやうになつてゐて右に折れ曲り見附には長屋の横手の壁らしい物があつた。
 下駄の音が聞えて、何人かゞ此方の方へ曲つて来ようとした。
(来た、)
 安三がいつた時には、もう女から離れて逃げようとしてゐた。
(財布がありまつせ、)
 安三の声に気が注いて、離れようとした女の懐に手をやると、蟇口らしい物がすぐ手に触れた。で、それを掴むなり走つたが、走つてゐる内に安三と別れ別れになり、一人下宿へ帰つて、赤い衣でこしらへたその蟇口を開けてみると、三十円に近い金が這入つてゐた。……
 しかし清は、安三が幾等何んといつたところで、金の有無を知らう筈がないと思つてゐるので、気が強い。
「しつこい奴だな、好いかげんにしろ、君は俺がごまかしてるとでも思つてるのか、何か証拠でもあるのか、」
「証拠はありやへん、あたいは見てへんから、」
「見てゐないに、君は怪しからんことをいふぢやないか、」
「ヘツ、ヘツ、ヘツ、ヘツ、」
「馬鹿、人が笑つてるぜ、」
 清は背後の食卓にゐる洋服を着た会社員ふうの男が、此方を見て笑つてゐるのに気が注いた、其処には白粉をこて/\塗つた顔の平べつたい女中がゐて酌をしてゐた。
「あたい何もいひたい事ありやへんがな、あんたがけたいな事をいふよつて、笑つとりまうがな、」
「もう好い、よせ、俺は手前達に、おどかされるやうな男ぢやない、ぐづ/\いふと承知しないぞ、」
「さうだつか、あたいも承知しまへんがな、あんたが江戸つ子なら、あたいは大阪つ子や、」
「手前は、俺に向つてそんなことをいふのか、承知しないぞ、野郎、」
「そないなことをいうて、おどかしたかて、あたい、こはくはありまへんがな、」
「よし、好い、野郎、出て来い、外へ出よう、」
 清はこんな無礼なことをそのまゝにして置いては、この先しめしが利かなくなると思つた。彼は懐に手を入れて背後を向いて強ひて笑つた。
「姉さん、幾等になる、」
 女中は見附の台の傍に立つて、帳場のお神さんと口を利いてゐたが、勘定と聞いてやつて来た。
「一円九十五銭になります、」
 清は金を出した。
「よし、勘定が二円、これは姉さん、」
 女中に五十銭札を置いてから、安三を睨むやうにして腰をあげた。
「出よう、」
 安三も肩を聳かしてゐた。
「出まつせ、」
 清は先に立つて出ながら安三を尻目にかけた。
 二人が外へ出て迫つた感情をぴつたり並べたところで、一人の男がそゝくさやつてきた。
「や、松原さんだつか、えゝところや、」
 清は聞き覚のある声の主をぢつと見た。それは安松といふ仲間であつた。
「千吉か、」
「大変だつせ、有馬も、峰本も、皆な縛られましたがな、美風団に手が入りましたがな、」
「さうか、」
「早く逃げるが宜しうまつせ、」
 清はとかとかと一人になつて歩いた、空には灰色の雲が流れて、荒い風が吹いてゐた。清はその風の吹く方へと歩いて行つた。
 暗い横町がすぐ尽きて、電車通りになつた。一台の電車が右の方から音を立てゝ走つて来て、眼の前へと停まつた。清はその電車が何処行の電車であるといふことも、それから又自分は何処へ行かうといふことも考へずに、いきなりそれに飛び乗つた。そして、早く刑事の眼の届かない所へ行きたいと思つた。
 電車が動きだすと、清はほつとした。しかし、それは一瞬時のことで、すぐ車の中の人が気になりだした。彼はすばしこく眼を使つて、一種の型を持つた容貌の者をその中から見出さうとした。
 乗客は可成の人数で、十人ばかりの者は立つて釣革にすがつてゐた。清は先づ立つてゐる者からはじめて、次は自分の方の側に腰をかけてゐるものを見、それから向ふ側にゐる者を覗いた。それは殆んど電光のやうな早さであつた。
 色の青い鼻の下にちよびりと髭を生やした中折帽の男が、前の入口に近い所に立つてゐるのが見えた。清はぎよつとした。それは見覚のある刑事の顔であつた。彼はしまつたと思つたが、逃げることも出来ないので、恐る恐る注意してみると、どうも自分のゐるのに気が付いてゐないやうであるから、そつと逃げてやらうと思つた。で、立つてゐる人の蔭になるやうにして、後の出口の方へ行つたところで、都合よく電車が停まつた。彼は車掌に切符を投げつけるやうに渡しており、走るやうに十足ばかり行つて振り返つて見ると、動き出した電車に添うて、中折帽を着た彼の刑事らしい者が此方を見て立つてゐた。
 其処は橋の上であつた。清はいよいよ見付かつたやうだから、逃げられるだけ逃げやうと思つて走りかけた。それは中の島公園の上になつた橋で、すぐ下へとおりて行く階段の口があつた清はそれへとおりて行つた。
 冷たい荒い風がぼつぼつ点いた電燈を吹いてゐた。と、見ると、白いジヤケツのやうな物を着た二三十人の者が、その附近をひらひらと雪女の群のやうに走つてゐた。清はマラソンの稽古をしてゐるな、と思つた。そして、自分もジヤケツを着てゐるから、あの中へ交つて走つてゐるなら、刑事が来ても気が付かない、さうして時間を過ごしてゐて、刑事の眼が遠のいたら逃げようと思ひ出した彼はそのまゝ橋の下の暗い所へ行つて着物を脱いで円めて置くなり、足袋裸足となつて走つて出た。
 白いシヤツの群は、もう見えなくなつて、左側のベンチにその仲間らしい者が、三人ばかり腰をかけてゐるのが微白く見えた。清は皆がゐなくなつたのに、一人で走つてゐるのは嫌疑を増す原であると思つたので、走ることを止めて、大跨で白いシヤツのゐるベンチの方へと歩いて行つた。
 三人は黙つてゐて咳もしなかつた。清はどんな人だらうと思つて、その顔を覗いた、それは首から上の無い胴体ばかりの者であつた。彼は吃驚して逃げ走つた。
 中が太鼓に脹んだ小さな石橋を渡つたところで、やつと周囲が判つて来た。清は恐る恐る後の方を見た後に前の方に眼をやつた。二人連の男が向ふからやつて来た。それは怪しい風体の者で、一人は昨年の春、東京を逃げる時に追つかけまはされた白痘痕の刑事の顔であつた。彼は逃げようとしてうろうろしてゐると、すぐ傍に電柱のあるのが眼に入つた。彼はとつさにそれを避難所にしようと思つて、足音を立てないやうにそつと寄つて行つた。
 二人の男は、すぐ傍へやつて来た。清はそろそろと電柱に登つて行つた。其処には漏電しかけた電線が彼の来るのを待つてゐた。

 牡蠣船で一杯やつて公園をぶらぶらしてゐた二人の会社員は、電柱の上から落ちて来た職工のやうな若い男の死体を見付けて驚いた。

底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
   2003(平成15)年10月22日初版発行
底本の親本:「黒雨集」大阪毎日新聞社
   1923(大正12)年10月25日
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
2012年5月24日修正
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