ひどい風だ。大川の流れが、闇黒に、白く泡立っていた。
本所、一つ目の橋を渡りきった右手に、墓地のような、角石の立ち並んだ空地が、半島状に、ほそ長く河に突き出ている。
柳が、枝を振り乱して、陰惨な夜景だった。三月もなかば過ぎだというのに、今夜は、ばかに寒い。それに、雨を持っているらしく、濡れた空気なのだ。
その、往来からずっと離れて、水のなかへ出張っている岸に二階建のささやかな一軒家が、暴風に踏みこたえて、戸障子が悲鳴を揚げていた。
腰高の油障子に、内部の灯がうつって、筆太の一行が瞬いて読める――「御石場番所」
水戸様の石揚場なのである。
番所の階下は、半分が土間、はんぶんが、六畳のたたみ敷きで、炉が切ってある。大川の寄り木がとろとろ燃えて、三人の顔を、赤く、黒く、明滅させている。大きな影法師が、はらわたの覗いている壁に倒れて、けむりといっしょに、揺らいでいた。
番小屋のおやじ惣平次と、ひとり息子の庄太郎とが、炉ばたで、将棋をさしているのだ。母親のおこうは、膝もと一ぱいに襤褸を散らかして、つづくり物をしながら、
「年齢はとりたくないね。針のめどが見えやしない。鳥目かしら――。」
ひとりごとを言いいい、糸のさきを噛んだ。
いきなり惣平次が、白髪あたまを振った。癇癪を起したのだ。盤をにらんで、ぴしりと、大きな音で、駒を置いた。
「えれえ風だ。吹きゃあがる。吹きゃあがる。風のまにまに――とくらあ。どうでえ庄太、この手は。面ああるめえ。」
「庄太、しょた、しょた、五人のなかで――。」
庄太郎は、「酔うた、酔た、酔た」をもじって、低声に唄った。持ち駒を、四つ竹のように、掌の中で鳴らした。
そして、炭のように黒いであろう戸外の闇を、ちょっと聴くような眼つきになって、
「なあに――。」
「おっと! こりゃあ! いや、風にもいろいろあってな、吹けよ、川風、上れよ、すだれ、の風なんざあ粋だが――おい、庄太、手前、砂利舟は、しっかり舫ったろうな。」
惣平次は、いま打った駒で、取り返しのつかなくなった盤面を庄太郎に気づかれまいとして、何げなく、ほかの話をしかけて注意を外らすのにいそがしかった。
が、庄太郎は、二十三の青年らしい、ほがらかな微笑をひろげていた。
「うふっ! 父、すまねえが、おらあ勝ってるぜ。」
ごろっと、後頭部へ両手をまくらに、引っくり返った。
「出直せ、出なおせ。」
「この風だ。今夜はお見えになるまいて。」
盤の駒をあつめながら、惣平次が、いった。
おこうが、
「久住さんかい。」
針を休めて、訊くと、
「なんぼあの旦那が物好でも、こんな大風の晩に出歩くこたあねえからな。」惣平次は、将棋に負けたので、八つ当り気味に、「おらあ好かねえよ。稼業たあ言い条、こんな石場の突鼻に住んでるなんざあ、気の利かねえはなしだ。まるでお前、なんのこたあねえ。千川っぷちの渡守りみてえなもんじゃあねえか。御近所さまがあるじゃあなし、何があったって早速の間にゃあ合やしねえ。ああ嫌だ、嫌だ。この年齢になって石場の番人なんて、外聞が悪くて、人に話もできやしねえ――。」
おこうは取り合わずに、
「また愚痴がはじまったね。まあ、いいじゃないか。もう一ぺん将棋をおさしよ。今度はお前さんが勝つだろうから、それで機嫌を直すんだね。」
息子の庄太郎が、むっくり起き上って、
「ほんとだ。父もおふくろも、もうすこし辛抱していてもらえてえ。おいらが一人前の瓦職になるまであ、ま、隠居仕事だと思って、この石場の番人をつとめていてくんねえよ。なあに、おいらだって、いつまでもこのまんまじゃあいねえつもりだ。おっつけ親方の引き立てで、相当の人区を取るようになる。そうすりゃあ、父にもおふくろにも、うんと旨えものを食わして、楽をさせてやらあ。」
急にしんみりと、おこうは、涙ぐんで老夫を見た。
「庄太が、まあ、あんなたのもしい口をきくじゃあないか。いい若い者で、悪遊びに一つ出るじゃあなし、――あたしゃなんだか、泣かされましたよ。」
「やい、庄公。」惣平次も気を取り直して、「こりゃあおやじが悪かった。てめえのような評判の孝行息子を持ちながら、不平すなんてのは、有難冥利に尽きるこった。いや、おいらの子だが、庄公は感心者だ。どこへ出しても恥かしくねえ、なんと立派なもんじゃあねえか、なあ婆さん。」
「だからさ、庄太ひとりを柱と頼んで、末をたのしみにこつこつやって行けばいいんだよ。なにもぐずぐず言うことはないじゃないか――ほんとに、よく飽きずに吹くねえ。屋根を持ってかれやしないかしら。」
庄太郎が、小さく叫んで、腰を浮かした。
「あ、来たようだぜ、誰か――久住さんに違えねえ。」
石のあいだを縫って、跫音が、近づいて来ていた。建付けのわるい土間の戸が、外部から軋んで開いた。
「皆さん、御在宿かな?」
番小屋を訪れるにしては、しかつめらしい声だ。しかも、武家の語調なのである。
「久住さんだ――。」
惣平次が、そそくさと起って、迎えに出た。おこうは手早く縫いものを片付けて、庄太郎が、炉の火に、焚木を加えているうちに、風といっしょに久住希十郎がはいってきて、戸口で、惣平次と挨拶を済ますと、色の変った黒羽二重の裾を鳴らして六畳へ上って来ながら、
「いや、吹くわ。吹くわ。それに、墨を流したような闇黒じゃ――こんな晩にお邪魔に上らんでも、と、大分これでも二の足を踏みましたが、またしばらく江戸を明けるでな、思いきって、出かけて来ましたわい。おう、おう燃えとる。ありがたい。戸外は、寒うての。」
久住は、大小を脱って傍へ置くと、きちんと炉ばたにすわって、手をかざした。
そして、激しく咳き入った。
二
この、水戸様の石揚場で、「お石場番所」を預かっているおやじ、惣平次夫婦は、若いころ江戸へ出て来たが、九州豊後の国、笹の関港の生れである。
笹の関は、中川修理太夫の領内で、したがって、藩士の久住希十郎とは、故郷許からの相識だった。もっとも、しりあいといったところで、身分が違う。惣平次は漁師上りで、久住は侍――が、しかし、これも、怪しいさむらいだった。笹の関からすこし離れた焼津の浜に、中川藩のお舟蔵があって、久住はそこのお荷方下見廻りという役の木っ葉武士なのだ。しじゅう船に乗って、豊後水道を上ったり下ったり、時には遠く朝鮮、琉球まで押し渡ったりする。これは、名は貿易だが、体のいい官許の海賊で、希十郎は、まず、その海賊船隊の小頭格だ。からだが明くと、休養かたがた江戸見物に呼ばれて来て、何カ月もぶらぶらしている。そうかと思うと、ふっと、帰国されて、また焼津の浜から船へ乗り込んで、どこへとも知らず錨を上げる。
海で育った惣平次とは、話が合うのだった。
今度は、わりに長く江戸にとどまっていて、神田筋違御門ぎわの修理太夫の下屋敷から、こうして三日に上げず、この惣平次の番所へ遊びに来るのである。
いつも親子三人を前に、いろいろ話しこんで行く。海の冒険談、そういったものが主で、江戸育ちの庄太郎には、珍しかった。
それが、急に、もうじき豊後へ帰郷ることになったというので、庄太郎は、名残り惜しそうに、
「また海へお出になるのでございましょうね。このたびは、どちらへ? 唐天竺でございますか。それとも、南蛮とやら――。」
「いや、」久住は、首を傾げて、「南蛮まで伸すことはござらぬが、しかし、それもわからぬ。どこへ参るのやら、船出した後までも、われわれ下役には、御沙汰のないのが常でな、とんと見当がつき申さぬよ。」
木の瘤のような肩と、油気のない髪をゆすぶって、いつまでも哄笑がひびいた。
潮焼けしたとでもいうのか、恐ろしい赤毛である。身長が高くて、板のような胸だ。そして、茶色の顔に、眼がまた、不思議に赤い。交際っていて、見慣れているから、惣平次一家の者は平気だが、誰でもはじめて会う人をちょっとぎょっとさせる、うす気味のわるい人間だった。が、気は、至極いい。穏和しいのである。
風が、いきおいを増した。
おこうが、あり合わせの物に、燗をつけて出すと、久住は、惣平次と酒盃をかわしながら、その、風のうなりに耳を傾けて、暗夜の海上――帆音を思い出すような眼つきをした。
例によって座談が弾んで、久住の口から、遠い国々の港みなとの風景、荒くれた男たち、略奪、疫病、変った人々の生活ぶり、などが物語られる。
尽きない。
「なにしろ、二十年も、焼津船にお乗りになっていなさるのだからな。」惣平次が、おこうをかえり見た。
「はじめてお舟蔵へ上られたころから、存じあげているのだが、いまの庄公より年下の二十歳の少年衆だったよ。」
「まあ、それにしても、よく御無事でおっとめなすって――。」
母親のことばを、庄太は、そばから奪うように、
「おいらも、琉球へ行ってみてえな。ぶらっと見物して来るんだ。」
「話に聞けば、面白い土地のように思われるかもしれんが、なに、江戸に勝るところはござらぬよ。」
久住は、さかずきを置いて、にわかに酒が苦くなったように、ちょっと眉を寄せた。
何か思い出して、惣平次が、膝を進めた。
「お? そう言えば、いつかちょっとお話しなすった竜の手――竜手様とか、あれはいったいどういうことでござります。」
「竜の手、か。いや、何でもござらぬ。」
顔の前で手を振って、炉のけむりを避けながら、
「何でもござらぬ。」
繰り返した。
おこうが、好奇気に、
「竜の手――? 何でございます。」
「まあ、いわば手品――手品でもないが、切支丹の魔術とでも呼ぶべきものでござろうな。しかし、切支丹ではない。」
聞手の三人は、乗り出して、久住の顔を見た。黙って、久住は、杯を取り上げた。空なのを気がつかずに、口へ持って行って、また、黙って下へ置いた。
惣平次が、銚子を取り上げて、満たした。
「見たところは――。」
と、言って、久住は、ふところへ手を入れた。
「ただの、細長い、魚の鰭のようなものでな、ま、こんな、こちこちの乾物じゃ。」
何か取り出して、親子の眼の前へさし出した。おこうは、ぎょっとして、気味悪そうに反ったが、庄太郎が受け取って、掌の上で転がして凝視めた。
「これがその竜の手――竜手さまですかい。」
惣平次が、息子の手から取って、
「何の変哲もねえように見えるが、どういうんでございますね。」
とみこうみして、火から遠い畳の上へ、置いた。
久住の、すこし嗄れた太い声が、言っていた。
「琉球の、古い昔の聖人の息が、この竜の手にかかっておりますんじゃ。先ざきのことまで、ずんと見通しのきく、世にも偉い御仁であったと申す。そのお方は、人の生命を司る運命と、宿縁をないがしろにする者のかなしみとを、後代のものに示さんとおぼし召されて、これなる竜の手をお遺しなされた。三人の別べつの人間が、それぞれ三つの願望を祈って、それを、この竜手様が即座にかなえて下さるようになっておる。」
久住の様子が、いかにも真面目なので、三人は、笑えなかった。
口のまわりを硬張らせて、くすぐったそうな表情をした。
真剣を装って、庄太郎が訊いた。
「竜の手って、ほんとに、あの、竜の手なんですかい。」
「さよう。竜手様は、竜の手でござる。」
「竜に、手があるかなあ――。」
久住は、答えなかった。
庄太郎は、露骨に、冷笑かすような口調を帯びて、
「一人につき三つだけ、何でも願いごとをかなえて下さる。ふん、どうです。旦那は、何か三つ、お願いにならねえんですかい。」
三
たしなめるような眼で、庄太郎を見据えた久住は、
「いかにもわしは、わしの分を、三つだけお願い申した――そして、かなえられました。」
重々しく答えて、白い額部になった。
「ほんとに、三つお願いになって、三つとも、聞き入れられたのでござりますか。」
「さよう。」
「ほかに誰か、願った人は――。」
「拙者の以前に持っておった者が、やはり三つの願をかけて、それも三つとも応ったとか聞き及んでおるが――。」
風が、渡って、沈黙のあいだをつないだ。大川の水音が、壁のすぐ向うに、聞えていた。
「ふうむ。」惣平次は腕を組んで、「三つしか願えぬなら、旦那には、もう用のない品でござりますな。いかがでございましょう。わたくしめに、お譲り下さりませんでしょうか。」
久住は、その、不思議な形をした、牛蒡とも見える、魚の乾物のようなものを、しばらく、指で挾んでぶら下げて、何かしきりに考えていたが、いきなり、ぽいと、火の中へ抛り込んで、
「焼いたがいい。」
あわてた惣平次が、
「お捨てになるなら、いただいておきましょう。」
手で、素早く掴んで、じぶんの膝へ投げ取ると、久住は、じっと深い眼をして、その惣平次と竜手様を見較べながら、
「わしは、もういらぬ。が、あんたも、お取りなさらぬがいい。悪いことは、言わぬ。お焼きなされ。」
「願いごとをするには、どうすればよろしいので――。」
惣平次が、訊いた。
「竜手様を、右手に、高く捧げて、大声に願を唱えるのじゃ――が、言うておきますぞ。どんなことがあっても、拙者は、知らん。」
もう一度、調べるように、手の竜手様を眺めている惣平次へ、久住は、つづけて、
「願うなら、何か尋常な、分相応のことを願いなさるがいい。くれぐれも、滅茶を願うてはなりませぬぞ。」
「お大名になりたいなどと――。」
親子三人は、声を合わせて笑ったが、久住は、苦渋な顔で、自在鉤の鉄瓶から、徳利を掴み出して、じぶんで注いだ。
明朝早く出発して、豊後への帰国の途につく――そういって、大小をうしろ気味に差した久住は、いつもよりすこし早めに、風に抗らってかえって行った。
送り出して、三人が炉ばたへ帰ると、
「父!」庄太郎が、にやにやして、「いいものが手に入ったぜ。さあ、これからおいらの家は、金持ちになる。おいらなんか、お絹ぐるみで、あっはっはっは――。」
大の字に引っくり返って、爆笑った。
「竜手様さまと来らあ! 竜の手だとよ、うふっ、利いた風なことを言っても、田舎ざむれえなんて、下らねえ物を持ち廻りやがって白痴なもんだなあ。」
惣平次は、懐中の竜手さまを取り出して、しげしげと見てみたが、
「こうっ、と。おいらは、何を願うべえかな。」
ふざけ半分の、わざと真面目な顔で、おこうを見た。
庄太郎[#「庄太郎」は底本では「床太郎」]が、代って、
「百両!――父、百両の現金を祈りねえ。」
惣平次は、照れたように微笑って、その、竜の手という、汚ない乾物のようなものを、右手に高くさし上げた。
そして、おこうと庄太郎が、急に、謹んだような顔を並べている前で、大声に、呶鳴った。
「竜手様へ、なにとぞわしに、百両の金を下せえまし。お願え申しやす――。」
言い終らぬうちに、惣平次は、竜手様を投げ捨てて、躍り上って叫んだ。
「わあっ! 動いた! うごいた! 竜手様が動いた!」
びっくり駈け寄った妻と息子へ、蒼くなった顔を向けて、
「おい、動いたぜ、おれの手の中で。」
と、不気味げに、自分の手から、畳に転がっている竜手様へ、眼を落した。
「おれが願え事を唱えると、蛇みてえに曲って、手に巻きつこうとしたんだ。」
「だが、父、百両の金は、まだ湧いて来ねえじゃねえか。」庄太郎は、どこまでも嘲笑的に、「へん、こんなこって百両儲かりゃあ、世の中に貧乏するやつあねえや。畳の隙からでも、小判がぞろぞろ這い出すところを、見てえもんだ。竜の手などと、人を喰ってるにもほどがあらあ。」
「気のせいですよ、お爺さん。そんなからからの乾ものが、ひとりで動くわけがないじゃありませんか。」
「まま、いいや。」惣平次は、口びるまで白くしていた。「動くわけのねえ物がうごいたんで、ちょいとびっくりしたんだ。おいらの気のせいってことにしておくべえ。」
夜が更けて、狭い家のなかに、斬るような寒気が、迫って来ていた。烈風は、いっそう速度をあつめて、戸外に積み上げた石を撫でる柳枝の音が、遠浪の崩れるように、おどろおどろしく聞えていた。
三人は、消えかかった炉の火を囲んで、しばらく黙りこくっていたが、やがて、日常の家事のはなしになって竜手様のことは、忘れるともなく、忘れた。
要するに、一時の座興である。
寝につくことになって、老夫婦は、二階へ上る。庄太郎は、階下の炉ばたに、自分の床を敷き出す。
竜手様は、部屋の隅の、茶箪笥の上へ置いて。
野猿梯子を上って行く惣平次へ、庄太郎[#「庄太郎」は底本では「床太郎」]が、またからかい半分に、
「父よ、おめえの床ん中に、百両の金が温まってるだろうぜ、ははははは。」
惣平次は、妙にむっつりして、にこりともせず二階へ消えた。
四
日光が、風を払って、翌朝は、けろりとした快晴だった。
藍甕をぶちまけたような大川の水が、とろっと淀んで、羽毛のような微風と、櫓音と、人を呼ぶ声とが、川面を刷いていた。
お石場にも、朝から、陽がかんかん照りつけて、捨て置きの切り石の影は、むらさきだった。
雑草が、土のにおいに噎せんで、春のあし音は、江戸のどこにでもあった。
そんな日だった。
前夜の、理由のない恐怖と妖異感は、陽光が溶かし去っていた。階下の茶箪笥の上の竜手様は、金いろの朝日のなかで、むしろ滑稽に見えた。
手垢と埃塵によごれて、小さく固まっている竜の手――忘れられて、馬鹿ばかしく、ごろっと転がっていた。
朝飯の食卓だった。
庄太郎は、この一つ目からすぐ傍の、弥勒寺まえ、五間堀の逸見若狭守様のお上屋敷へ、屋根の葺きかえに雇われていて、きょうは、仕上げの日だ。急ぐので、中腰に、飯をかっこんでいた。
おこうが、味噌汁をよそいながら、
「つぎの仕事は、もう当りがおつきかえ。」
「親方のほうに、話して来ているようだ。」
惣平次も、口いっぱいの飯の中から、
「庄公はまだ、瓦職とは言っても、下から瓦を運ぶ組だろう。なかなか屋根へは上げてくれめえ。もっとも、高えところへ上って、瓦を置くようになりゃあ一人前だが――。」
「冗談いっちゃあいけねえ。今度の仕事から、どんどん上へあがって、瓦を並べていらあ。おらあ何だとよ、手筋がいいとよ。親方が、そ言ってた。」
「そうか。この野郎、そいつあ鼻が高えぞ。しかし職人の中で、この瓦職なんざあ豪気なもんよな。殿様が下をお通りになっても、こう、上から見おろして――まったく、家のてっぺんの仕事だからな。床柱を削る大工といっしょに、昔から、まず、諸職の上座に置かれてらあ。」
惣平次が、おこうを見ると、おこうは、誇らし気な眼を、庄太郎へやった。
「うんにゃ、おいらなんざあ、駈け出しだから――。」
庄太郎は、得意に、微笑して、丈夫な音を立てて沢庵を噛んでいた。
おこうが、惣平次に、
「十日ばかり、ぱっとしない日が続いたねえ。お洗濯がたまって、大事だよ。」
「手隙を見て、おれが乾してやろう。」
もう起ち上って、庄太郎は、法被に袖を通した。突っかけ草履で、土間を戸口へ、
「父は、今日は、暇かえ。」
「ひまでもねえが、この二、三日、お石舟のお触れもねえから、揚げ石もあるめえと思うのだよ。」
「まあ、石場で、日向ぼっこでもしていなせえ。晩、帰りに、安房屋の煮豆でもぶら提げて来らあ。」
思い出して、おこうが言った。
「ゆうべのように風の強い晩などは、なんでもないようでも、やっぱり、心持ちがどうかしているとみえるねえ。馬鹿らしいことを、ちょっと真に受けたりして――。」
惣平次が、訊いた。
「何だ。」
「竜の手さ。竜手さま、とか――。」
「あはははは、おらあ、すっかり忘れていた。」茶箪笥を振り返って、「百両、百両――。」
「そうだ。」庄太郎も、半分戸ぐちを出ながら、「昨夜の百両は、まだ授からねえじゃねえか。今にも、ばらばらっ! と、こう、天から降って来るかもしれねえぜ。」
妻と息子と、二人にひやかされて、惣平次は、人のよさそうな微笑を笑った。
「だが、この天気だ、久住さんも、およろこびで早発足なすったろう――百両か。なあに、おらあその内に、ひょっこり浮いて出ると思ってる。なるほどというような廻り合わせで、手に入るんだ。それに違えねえ。」
と、また、竜手様へ視線を向けると、庄太郎は、
「ははははは、そのことよ。気長に待ちねえ。じゃ、行って来るぜ。」
踊るように弾む若いからだが、石場を通り抜けて、一つ目橋の袂から、往来へ出て行った。
おこうは食事のあと片付け、それから、家の中のこまごました女の仕事に、取りかかる。ひとまわりお石場を掃いて来て、惣平次は、陽の射し込む土間に足を投げ出して、手網の繕いだ。
白昼の一刻一ときが、寂然と沈んで、経ってゆく。
もうあの、竜手様のことなど、老夫婦のあたまのどこにもなかった。
庄太郎は、弁当を持って行って、午飯には帰らない。
正午だ。惣平次とおこうが、さし向かいで、茶漬けを流し込む。
食休みに、雑談になって、おこうが、
「お前さんどう考えているか知らないけれど、庄太郎に、もうそろそろねえ――。」
「嫁の心配かえ。」
「早すぎるってことはありませんよ。心掛けておかなければ、ほかのことと違って、こればかりは、急に、おいそれとは、ねえ。」
「そうだ――しかし、早えもんだなあ。昨日蜻蛉を釣っていたように思う庄公が、もう嫁のなんのと、そのうちに初孫だ。婆さん、めでてえが、おれたちも、年齢を取ったなあ。」
「ほんとにねえ。それにつけても、庄太郎は働き者だけに、いっそう早く身を固めてやったほうがよくはないかと、わたしゃ思いますよ――おや! なんでしょう?」
突然、石場を飛んで来る二、三人の乱れた跫音が、耳を打った。
ふり向く間もなかった。
開け放しの土間ぐちを、人影が埋めて、走りつづけて来たらしく、迫った呼吸が、家じゅうにひびいた。
庄太郎の親方の、瓦長、瓦師長五郎と、二、三人の弟子だ。うしろから、用人らしい老人の侍が割り込んで来ようとしていた。
呑みかけの茶碗をほうり出して、惣平次は、突っ立った。おこうも、上り框へいざり出て、
「何でござります、何事が起りました。」
長五郎は、鉢巻を脱って、ぐいと額の汗を拭いながら、やっと、声を調えた。
「何とも、誰の粗相でもねえんで――運でごわす。」
惣平次夫婦は、唾を飲んで、奇妙に無関心に、黙っていた。
弟子の一人が、興奮した声だ。
「おらあ見ていたんだが、足が辷って、真っ逆さまに落ちたもんだ。下にまた、間の悪いことにゃあ、こんなでっけえ飛石が――。」
おこうの眼が、一時に上吊った。
「あの、庄公が――庄太が――!」
「お気の毒で――、」長五郎は、ぴょこりと頭を下げた。「何と言ったらいいか、挨拶が出ねえ――。」
膝が折れて、惣平次は、がたがたと、そこの履物を掴んだ。
押し退けて、駈け出そうとした。
長五郎の背後から出て来た侍が、前に立った。
「察する、が、取り乱してはならぬ。これ、取り乱してはならぬ!」
「大怪我、大怪我、でござりますか、庄公は。」
「うむ。まず、怪我は大きい。」
惣平次の両手が、侍の袴を掻いた。
「苦しんで、おりますか、苦しんで。」
「苦しんでは、おらぬ。」
「ああよかった。それでは、たいしたことはないので――。」
「もう、苦しんではおらぬ。」静かに、「極楽――。」
「ははあ――。」と、意味が、はっきり頭へ来ると、惣平次は、上り口に腰をおろした。宙を見詰めたまま、そっと、老妻の手を取った。
ふと、長いしずけさが落ちた。
「ひとり息子でした。」惣平次の口唇が、動いた。「孝行者で――。」
誰も、何とも言わなかった。
侍が、咳をして、
「わしは、逸見家の用人だが、屋敷の仕事中に亡くなったのじゃからと、上より、特別の思召しをもって、破格の葬金を下し置かれる。その使いにまいった。」
おこうと惣平次は、ぽかんと顔を見合っていた。
「一職人に対して、前例のないことじゃが、」用人は、つづけて、「百両の香奠、ありがたくお受けしまするように。」
「え?」
惣平次が、訊き返した。
「爺つぁん、百両だ。百両――。」
長五郎が口を添えると、
「百両! ううむ、百両、か。」
と、呻いて、突如、真っ黒な恐怖が、むずと惣平次を掴んだ。
咽喉の裂けるようなおこうの叫びが、惣平次には、聞えなかった。かれは、気を失って、ぐったりと円く、土間へ崩れた。
五
水戸様お石場番所の番人の倅で、瓦職の庄太郎というのが、仕事先の、逸見若狭守お屋敷の屋根から、誤って滑り落ちて、飛び石で頭蓋を砕いて死んだ――それはそれとして、その陰に、こんな面妖な話がある。
――と、風のように聞き込んだ八丁堀合点長屋の岡っ引釘抜藤吉が、乾児の勘弁勘次にも葬式彦兵衛にも告げずに、たった一人で、その、本所一つ目の、岬のようになっているお石揚場の一軒家へ出かけて行ったのは、ちょうど、庄太郎の初七日の晩だった。
いかにも、奇体な話だ。
ただ、直接老夫婦の口から、詳しく聴いておきたいと、そう思ってやって来た藤吉だったが、
「御免なさい。あっしは、八丁堀の者ですが――。」
戸を開けるとすぐ、異妖に悲痛な気持ちに打たれて、藤吉は、声を呑んでしまった。
あの晩と同じに、炉に火が燃えて、煙の向うから、別人のように窶れた惣平次が、
「八丁堀のお方が、何しにお見えなすった。」
虚ろな、咎めるような口調だ。
「じつあ、ちょいと、見せてもらいてえ物がありやしてね。その――。」
竜の手、とは言わなかったが、老人は、すぐそれと感づいたに違いない。嫌な顔をして、黙った。
藤吉は、構わず、上り込んで、部屋の隅の壁に凭れて、坐った。
仏壇に、新しい白木の位牌が飾ってある。燈明の灯が、隙間風に、横に長かった。
惣平次とおこうは、炉を挾んで対坐したまま、黙して、石のように動かない。勝手に上り込んで、影のように壁ぎわに腕を組んでいる、見慣れない、不思議な客――いや、その藤吉親分を、ふしぎな客と感ずるよりも、藤吉の存在それ自身が、二人の意識に入っていないらしいのだ。
「あの部屋で、三人じっと無言でいた時ほど、凄いと思ったことはねえよ。」
後で藤吉が、述懐した。
本所の南、五本松の浄巌寺に、庄太郎の遺骸を埋めて、今は陰影と静寂の深い家に、老夫婦は、こうして、ぼんやりすわって来たのだった。
あんまり急な出来事なので、庄太郎の死を、現実に受け取ることは、なかなかできなかった。いまにも、あの元気な顔で、最後の朝、出がけに言ったように、安房屋の煮豆でも提げて、ぶらぶら帰宅って来そうな気がしてならない。
とにかく、これでお終いという法はない。これで、すべてがおわったのでは、自分たちの老いた心に、あまりにも残酷すぎる。こんなはずはないのだ――ふたりは、そう信じきっているようだった。今に、何かきっと、いいことが起る。なにもかも、とど笑いばなしになるような、素晴らしい突発事が、近く待っていなければならない。
そして、庄公は帰宅ってくる。必ず、にこにこ笑って、かえってくる!
と、固く、思いこんでいるようすなのだ。
が、日を経るにつれて、この、考えてみると根拠のない期待は、薄らぐ一方だった。万一の儚ない希望が、しんしんと心を刻む痛さ、寒さに、置き代えられて来た。
おこうも惣平次も、言葉を交さなかった。口をきかなかった。何も、いうことを有たないのだった。日が、長かった。夜は、もっと長かった。
やがて、初七日の今夜だった。
通夜をするような心持ちで、壁を背に、じっと坐している藤吉に、細い、低い、押し潰れた声が、聞えて来た。
また、おこうが、涕り泣いているのだった。
「寒い。二階へ上って、寝ろよ。」
惣平次が、言った。
「つめたい石の下で、庄坊こそ、どんなに寒いことか――。」
おこうは、こう言って、泣き声を新たにした。が、すぐに止んで、藤吉の見ているまえで、おこうの小さなからだが、すうっと伸びて起った。
「手じゃ!」人間の声らしくない声なのだ。「竜の手じゃ! ほれ、ほれ、竜手様――。」
藤吉よりも、惣平次が、慄然としたらしかった。
「どこに、どこに竜手さまが――おこう、どうした。」
炉を廻って、老夫の前へ進んで、
「貸して下さいよ、竜手様を。」おこうは、もう平静にかえっていた。「棄てやしますまいね。」
「押入れの奥に、投げ込んである。なぜだ。どうするんだ。」
泣き笑いが、おこうの全身を走り過ぎると、ふっと彼女は、不自然な、真面目な顔だった。
「思いついたことが、あるんですよ。なぜ早く、気がつかなかったろう――お前さんも、ぼんやりしてるじゃないか。嫌だよ、ちょいと!」
急に、若やいだ態度で、おこうは、娘のように、甘えた手を振り上げて、打つ真似をした。ぎょっとして、惣平次が、一歩退った。
「何を、なにを思いついたと――。」
「あれ、もう二つの願いさ。三つ叶えてもらえるんだろう? あと二つ残ってるじゃあないか。」
「竜手様のことか。馬鹿な! 止せ! あの一つで、おれは、おれは――もうたくさんだ。」
「そうじゃないんだよ。わからない人だねえ。」
おこうは、奇怪に、少女めいた声音になって、しなだれかかるように、
「もう一つだけ、願ってみようよ。よう、もう一つだけさ。はやく、竜手様をお出し! さ、庄公が、今すぐ立派に生き返りますようにって、ね、願うんですよ。」
暗い隅から、藤吉は、光った眼を上げて、固唾を呑んだ。
ひっそりと、沈黙がつづいた。
「何をいう――気でも違ったのか。」
「お出し! 竜手様をお出しってば! しっかり、お願いするんだよ。たった今、庄太郎が生きかえって来ますように――。」
惣平次は、手を、妻の肩へやって、優しく、
「寝な。な、寝なよ、二階へ上って、よ。」
おこうが、激しく振り切って、老夫婦は、二人でよろめいた。
「おこう、お前は、どうかしているな。」
「どうもしてやしませんよ。初めの願いが叶ったのだから、二番目の願いも、聞き届けられるにきまってるじゃないか。竜手さまを持っておいでというのに、どうして持って来ない。ようし! どうあっても、願わないか。」
眼が、血走って来た。白髪が、顫えて、顔へかかった。
はじめて気がついたように、ちらと藤吉を見て、惣平次は、平らな声を出そうとつとめた。
「いいか。死んでから、何日経ったと思う――。」
「お願いするんだよ。竜手様へお願いするんだよ。なぜ願わないか。」
おこうは、惣平次へ武者振りついて、異常な力で、押入れのほうへ引きずった。
二人の影が、もつれて、天井に、壁に、大きく拡がって、揺れた。
老いた人々の、痩脛も、肋骨も、露わにしての抗争は、見ている藤吉に、地獄――という言葉を想わせた。
「惣平! 出せ! 出して、願うんだ。」
思わず出た、藤吉の声だった。
六
偶然ではあろう。竜手様という、竜の手が、海蛇の乾物か、とにかく、伝説的な品ものを手に入れて、それに、いたずら半分の試しごころから、百両の金を祈った翌日、ちょっとした自分の不注意で、庄太郎があんなことになったのは、つまり、そういう巡り合わせだったのだろう。
その逸見家の香奠が、百両だったばっかりに、ちょうど、この願いが届くために、百両のかたに庄太郎の生命を奪られたようなことになって、そこに、言いようのない怪異が生じるものの、所詮は、偶然――すべてが、再び、そういう廻りあわせだったのだ、と、藤吉は、信じたかった。
不可思議――どうしても、人間の力で説明がつかないなどということは、この人間の世の中に、あり得ない。
一見、まことに不可思議な事件であっても、それはみな、一言の下に明かにすることができる――「偶然事」という簡単な言語で。
否、不可思議な出来事であれば、あるほど、その連鎖に、偶然の力が色濃く働いていて、いっそう解決は容易なのである。
釘抜藤吉は、漠然とだが、いつも、こんなようなことを考えていた。岡っ引藤吉の、岡っ引らしい、これが、唯一の持論だったと言っていい。
が、この竜手様の一件だけは、その最後まで考え合わせると、ただ単なる偶然として、片づけ去ることのできないものがあるように、思われてならない。
「薄っ気味の悪い不思議だて――。」後あとまで、藤吉はよくこう呟いて、首を捻ったと言う。不思議ということばを、釘抜藤吉は、はじめて口にしたのだった。
偶然を、藤吉親分は、巡り合わせと呼んでいたが、そのめぐりあわせだけでは説き得ない、割りきれないものが、藤吉の心に残ったに相違なかった。
惣平次は、しなだれて、押入れを開けた。奥へ這い込むようにして、しばらく押入れ中ごそごそ言わせていたが、やがて、発見け出した竜手様を、汚なそうに、怖ろしそうに、指さきに挾んで、腰を伸ばした。
額部が、汗に冷たく、盲目のように、空に両手を泳がせて、部屋の真ん中に立った。
おこうの顔も、米のように、白く変っていた。いま何よりも惣平次の恐れている、いつものおこうのようでない表情が、眉から眼の間に漂って、すっかり、相違いがしていた。
「願いなさい!」
強い声だ。おこうが、命令したのだ。藤吉もわれ知らず起って、炉の火の投げる光野のなかへ、はいって来ていた。
「ばかばかしい――。」
惣平次が、呻くと、おこうは、蒼白く笑って、
「お前さんこそ、そのばかばかしいことで、庄太郎を殺したんじゃないか。お前さんが、百両の代に殺した庄吉を、生き返らせるんですよ。さ、願いなさい!」
竜手様を持った惣平次の右手が、高く上がった。
「どうぞ、庄太郎が生きかえって来ますように――。」
「今すぐ!」
「今すぐ!」
竜手様は、畳へ落ちて、小さくもんどりを打った。それを見つめながら、惣平次も、気が抜けたように、べたんと坐っていた。
おこうは、異様に燃える眼を、土間の戸口へ据えて、男のように、立ちはだかったままだった。
三人を包んで、深夜の静寂が、ひしめいた。
つと、おこうが、しっかりした足取りで、部屋を横切った。そして、石場に面した連子窓の雨戸を開けて、戸外に見入った。
湿った闇黒が、音を立てて流れ込んで来て、藤吉は、屋棟を過ぎる風の音を、聞いた。
いつの間にか、黒い風が出ていた。
七日前の晩と同じ、ひどい烈風だ。大川の水が、石場の岸に白く泡立っていた。柳が、枝を振り乱して、陰惨な夜景である。この番所の一軒家は、突風に踏みこたえて、戸障子が、悲鳴を揚げているのだ。斬られるような、寒気だ。それが、河風に乗って迫って来た。積み石を撫でる柳枝の音が、遠浪のように、おどろおどろしく耳を噛んだ。おこうは窓のまえを動かない。
冷えた肩を硬張らせた惣平次は、その、老妻の背後すがたに眼を凝らして、ちょこなんと、坐ったきりだ。
諦めたらしく、おこうが窓を締めて、炉ばたへ引っ返そうとした時である。
野猿梯子が、ぎしと軋んで、つづいて、壁の中を掠めて、鼠が騒いだ。行燈の油が足りなくなったのか、圧迫的なうす暗がりが、四隅から、絞ってきていた。
戸を、そとから叩く音がするのだ。三人の顔が、合った。いっしょに、戸のほうを向いて、おこうが、
「何でしょう――。」
惣平次は、ちら、ちらと、藤吉へ眼を走らせて、
「鼠だ。」
戸を叩く音が、高くなった。
「庄太郎です! 庄公が来た、おう! 庄公が来た。」
おこうが、叫んで、跣足で、土間へ駈け下りた。
「おうお、庄太かい。いま開けるよ。今あけるよ。」
割れるように戸を叩く音が、家じゅうに響いた。すると、惣平次は、その怪しい場面が、たまらなくなって来たのだ。頭部を砕いた庄太郎が、墓へ埋めたままの姿で、いまここへはいって来ようとしている、竜手様に呼ばれて――。惣平次は、わが子ながら、その妖怪庄太郎の帰宅が、恨めしかった。厭わしかった。入れてはならない。そんな気がして、また、藤吉を見やると、藤吉の視線も、いつになく戦いて、同じ意味を返事して来た。
おこうの手が、戸にかかって、がたぴし開こうとしている。そとに立って、戸を叩いている「物」の、白い着衣――経帷子が風にひらひらして、見えるのだ。惣平次は、一直線に土間へ跳んで、おこうを押し退けようとした。が、おこうが、「何をするの! 寒いお墓から来たんじゃないか。五本松の浄巌寺から――庄太郎なんだよ! 庄太が来てるんですよ!」
戸にしがみついて、また、一、二寸引き開けた。同時に、どんと一つ、戸外から、大きく戸が叩かれた。
戸は、開こうとしている。惣平次は、六畳を這い廻って、手探りに、竜手様を捜しているのだ。戸が開くまでに、右手に握りさえすれば――あった! 戸が、あいた。
「さあさ、庄太郎や、おはいり、寒かったろうねえ。」
このおこうの声を消して、惣平次が、竜手様をかざして、三つめの、最後の願いを呶鳴った。
「庄太が元の墓場へ帰りますようにッ!」
藤吉は戸へ走って覗いたが、重い風が飛び込んで来て、炉の火を煽っただけで、そとには、誰もいなかった。
底本:「一人三人全集1[#「1」はローマ数字、1-13-21]時代捕物釘抜藤吉捕物覚書」河出書房新社
1970(昭和45)年1月15日初版発行
入力:川山隆
校正:松永正敏
2008年5月20日作成
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