余は狹い後甲板へ横に敷いた莚へ腰を卸して立膝をして居るので足の裏は直接に甲板を踏んで居る。五十格恰の男が余と相對して別な莚に胡坐をかいて居る。筋肉のきりつと緊まつた極小柄な男で汚れた白木綿の三尺帶を締めて傍に褪めた淺黄の風呂敷包を引きつけて居る。朴訥な顏をした若者が三四人と其他に二三人莚に坐して居る。乘客は皆船室へもぐり込んでしまつたのだ。此小柄な男と若者と噺をはじめた。若者は佐渡から小樽へ出稼に行つて居たのであるがもう季節に成つたので稻刈にもどつて來たのだといふと、さうか佐渡は仰山稻が出來たと大きな聲で小柄な男がいつた。彼は割合に大きな口を開いて喋舌る。其度毎に黄ばんだ反齒が抉き出しになる。俺は博勞だがもう先月から越後へ三度も渡るが雜用が掛つてよう儲からんといひながら其風呂敷包から梨を一つ引き出した。さうして手の平でこすつたと思つたら大きな口を開いて皮の儘むしや/\と噛りはじめた。朴訥な若者も云ひ合した樣に梨を出して皮の儘噛りはじめた。余も手拭へ括つてあつた梨を解いた。丁度拇指の爪が非常に延びて居たので其爪の尖で皮を剥きはじめた。むくといふよりも小さくはがしはじめた。ぼつり/\と鋲の頭のやうにへげる皮が莚と莚との間の甲板へほろ/\と落ちる。氣の永いことをするのうといひながら博勞が余の手もとを見つめる。みんなが余の手許を見る。余は一つ/\にはがしながら女の梨賣を憶ひ浮べる。
昨日は「ダシ」といふ嵐が越後の山から佐渡へ吹きつけたので、此汽船は昨日のうちに新潟へ來て居て今朝解纜する筈なのであつたが、今日の午近くまで佐渡を離れることが出來なかつたといふことである。余はまだ午にならぬ内から會社へ行つて待つて居たのであるが退屈に堪へないので腰掛へ蓙を敷いてうと/\と眠つた。起きた時には腰掛の端には菅の爪折笠を冠つた若い女が五つばかりの子を膝へ抱いて休んで居た。女の足もとには天秤棒を横へた梨籃が置いてあつて大きな梨が堆く積んである。女は余の起きたのを見て、佳味い梨ざます、買うとくなはれといつた。余は一つ取つて籃に刺してあつた庖丁でむいて見たら液汁の滴る甘い梨であつた。立ろに三つも噛つた。何といふ梨だと女に聞いたら、「巾着はたき」と女がいつた。さうして佐渡の土産に十も買うとくなはれと復た女がいつた。余は手拭の外に包むものがないので其兩端へ括れる丈括つた。小揚の人足のやうなのがぞろ/\と來た。一人が梨を一つむいて佳味いといつたら他の者も佳味い/\といつて噛る。堆かつた梨がめつきり減つた。梨の皮がそこらあたり一杯に散らばつた。女は一つ/\に拾つて川へ棄てた。一人の婆さんがそこへ無花果を持つて來た。小蓋のやうな箱へころ/\と入れてあつてまだ堅相な無花果である。女の膝に抱かれて乳房に縋つて居た子は無花果が欲しいといつてせがみ出した。余が三つ四つ買うてやつたら膝の上で跳ね上りながら悦んだ。さうして「盆だでがんに茄子の皮の雜炊だア、と小さな聲で怒鳴つた。女は盆踊の唄ざますといつて白い齒を出して微笑した。乘客が追々に集まつて汽船が佐渡から着いた時に梨賣が幾らも寄つて來てあたりは急に騷々しくなつた。女は隅へ蹙められたやうに成つて居たが軈て毛孺子の黒い笠の紐を締め直して、輕くなつた籃を擔いて去つてしまつた。女は終まで爪折笠は一度もとらなかつたのである。
こんなことを考へ出しながら梨はめぐし/\はがすうちに鋲の頭は落ちては落ちて甲板に積つた。曩にむいた所はだん/\錆びたやうに赤く變じた。一口噛つたら矢ツ張佳味い梨であつた。余は新潟は恐ろしく梨の安い所だといつたら、博勞は「アヽ越後は安い、俺は新發田まで行つて來たが仰山安いから俵へ二俵買うて來た。また今朝新潟の市へぶらつと行つて見たら此も仰山安いから此れだけ買うて來たといひながらまた風呂敷包から疵の入つた梨を引き出して皮の儘むしや/\と噛る。
佐渡が島は汽船の舳に當つて幾らか大きくなつたかと思ふ頃秋の日は落ちて黄昏の冷かさが身にしみて感じた。余は甲板の上をぶら/\と歩く。若者の一人は舷の欄に倚つて沖をぼんやり見ながら「ヨイトフイトサと唄つて居る。夜は眞闇になつた。舳を見ると掻きあげる波が眞白で、艫を見ると蹴返す波が眞白である。眞白な波の間には無數の燐光がちら/\と光る。遙方にぽつちりと見え出した一點の火光が一定の時間を措いてぴかりと光つては消え、消えては又ぴかりと光る。慥かに燈臺の光である。アヽ、姫崎も近うなつた博勞がいつた。左手の沖には一列の火光がちら/\と明滅する。
(明治四十年)