あらすじ
検事の厳しい視線に、容疑者は動揺を隠せない。彼は、社会一般教育のために、若手検事の腕利きとしてこの場に呼ばれた。しかし、検事の言葉は少なく、鋭い視線は容疑者を追い詰める。容疑者は、濁った大きな川の流れに身を任せ、冷静さを保とうとする。だが、検事の視線は容疑者の心を揺さぶり、容疑者は自らの正義を貫くため、戦いを決意する。
とにかく向ふは検事の立場、
今の会釈は悪くない。勲績のある上長として、盛名のある君子として、礼を尽した態度であった。
わたしの方も声音から、動作一般自然であった。或ひはかういふ調子でもって、政治の実といふものを、容易に了解するかも知れん。それならわたしは、畢竟党から撰ばれて、若手検事の腕利きといふ この青年を対ごうに、社会一般教育のため、こゝへ来たとも云ひ得やう。
いかなる明文制裁と雖ど、それが布かるゝ社会に於て、遵守し得ざるに至ったときは、その法既に悪法である、それが判らん筈もない。だが何のため、向ふは壇をのぼるのだ。整然として椅子を引いて、眼平らにこっちを見る。
卓に両手を副へてゐる。正に上司の儀容であるが、勿論職権止むを得まい。たゞもう明るく話して来ればいゝのである。しかし……物言ふけはひでない。厳しく口を結んでゐる。頬は烈しい決意を示す。
わしは冷然無視したものか、気を盛り眼を明にして、これに備へをしたものか。あゝ失策だ! 出発点で! 何たるまずいこの狼〔狽〕! すっかり〔わな〕まったのだ。向ふは平然この動揺を看取する。早く自然を取り戻さう。一秒遅れゝば一秒の敗、山を想はう。建仁寺、いや、徳玄寺、いけない、さうだ 清源寺! 清源寺裏山の栗林りつりん! 以て木突ぼくとつとなすこと勿れ、汝喚んで何とかなす! にい※(感嘆符二つ、1-8-75) もう平心だ。よろしいとも、やって来い。生きた世間といふものは、たゞもう濁った大きな川だ。わたしはそれを阻せんのだ。悠揚としてこれに準じて流れるのだ。時には清波も来つて涵す。それを歓び楽しむことで、わしは人后に落ちはせん。しかし畢竟大江である。徒して渡れる小渓でない。その実際に立脚せんで、人の裁きはできんのだ。咄! 何たる非礼のその直視!
断じてわしも譲歩せん。森々と青いこの対立、
森々と…森々と……森森と青い………
…………
……いつか向ふが人の分子を喪くしてゐる。皮を一枚脱いだのだ。小さな天狗のやうでもある。それから豺のトーテムだ。頬が黄いろに光ってゐる。白い後光も出して来た。こゝで折れては何にもならん。断じてその眼を克服せよ、たかゞ二つの節穴だ。もっともたゞ節穴〔よ〕りは、むしろ二つの覗き窓だ。何だかわたしが、たった一人、居ずまゐ正してこゝに座り、やつらの仲間がかはるがはる、その二っつの小窓から、わたしを覗いてゐるやうだ。……あゝ何のことだ 縁起でもない。人の眼などといふものは、それを剔出して見れば、たかゞ小さな暗函だ。奥行二寸もあるんでない。さうかと云ってあ〔ゝ〕いふ眼付き、厭な眼付は打ち消し得ない。こんな眼を遺伝した、父祖はいったい何物だらう。かういふ意志や眼といふものが、一代二代でできはしない。代々糺罪の吏ででもあるか、或は逆に苛政の下、〔喘〕いだ民の末でもあるか。今は対等、正しく今は対等だ。まだ見るか。まだ見るか。尚且つ見るか。対等だ。瞬だけは仕方ない。
尤も向ふはそれをしない。年齢としの相違が争はれん。あゝ今朝いつもの肉汁を、呑むひまもなく来てしまった。前総裁は必ず飲んだ。出て来るときにわしも何かを忘れた感じ、妻もいろいろあるべきことを、思ひ出せない風だったのは、かう〔いふ〕種類の何かにだった。新らしい袴を出し、新らしい足袋と白扇を進めて、それが威容の料とはならず、罪問ふ敵への礼儀とあらば、何たる切ないことであらう。うなじが熱って来た様だ。万一わしが卒倒したら、天下は何と視るだらう、わしは単なる破〔廉恥〕のみか卑懦の称さへ受けねばならぬ〔。〕新聞雑誌はどう書くだらう。浅内或は長沼輩、党の内部の敵でさへ、眉をひそめて煙を吐き、わしの修養を嗤ふだらう。わしはまなこを外らさうか。下方したへか。それは伏罪だ。側方よこへか。罪を覆ふと看やう。上方うへへか。自ら欺く相だ。たゞもうこのまゝ、ぼうと視力を休めやう。年齢の相違気力の差、たゞもうこのまゝ……窓の向ふは内庭らしい。梅が青々繁ってゐる。
こゝで一詩を賦〔〕し得るならば、たしかにわしに得点がある。それができないことでもない。題はやっぱり述懐だ。仮に想だけ立てゝ見る。中原〔逐〕鹿三十年、恩怨無別星花転、転と来て転句だ……おゝ何といふ向ふの眼、燃え立つやうな憎悪である。わしがこれをも外らしたら、結局恐れてゐることだ。断じて、断じて戦ふべし。大恩のある簡先生の名誉のため、名望高い一門のため、郷党のため児孫のため、わしは断じて折れてはいかん。勝つものは正、敗者は悪だ。けれども 気力! 気力でなしに境地で勝たう。
わしは不識ふしきを観じやう。梁の武帝因みに僧〔に〕問ふ、あゝいかん、
梁の武帝達磨に問ふ 磨の曰く無功徳 帝の曰く
朕に対する者は誰ぞ 磨の曰く無功徳 いかん
朕に対する者は誰ぞ 磨の曰く不識! あゝ乱れた
洞源和尚にことばもない。
 (東京府平民 高田小助※(感嘆符二つ、1-8-75)
嗟夫!

底本:「【新】校本宮澤賢治全集 第十二巻 童話5[#「5」はローマ数字、1-13-25]・劇・その他 本文篇」筑摩書房
   1995(平成7)年11月25日初版第1刷発行
※底本の本文は、草稿による。
※本文中〔〕で括られた部分は、底本の編者により校訂された箇所である。〔〕とのみあるのは、そこにあった不要の語句が校訂の結果本文から削除されたことを示す。
 (例(校訂された箇所))この狼〔狽〕!
 (例(語句の削除))一詩を賦〔〕し得るならば
入力:砂場清隆
校正:noriko saito
2008年8月15日作成
青空文庫作成ファイル:
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