いつからともなく、どこからともなく、秋が来た。ことしは秋も早足で来たらしい。

 昼はつくつくぼうし、夜はがちゃがちゃがうるさいほど鳴き立てていたが、それらもいつか遠ざかって、このごろはこおろぎの世界である。こおろぎの歌に松虫が調子をあわせる。百舌鳥の声、五位鷺の声、或る日は万歳万歳のさけびが聞える。夜になると、どこかのラジオがきれぎれに響く。

 柿の葉が秋の葉らしく色づいて落ちる。実も落ちる。その音があたりのしずかさをさらにしずかにする。
 蚊が、蠅がとても鋭くなった。声も立てないで触れるとすぐす藪蚊、蠅は殆んどいないけれども、街へ出かけるときっと二三匹ついてくる。たまたま誰か来てくれると、意識しないお土産として連れてくる。彼等は蠅たたきを知っている。打とうとする手を感じていちはやく逃げる。いのち短かい虫、死を前にして一生懸命なのだ。無理もないと思う。

 季節のうつりかわりに敏感なのは、植物では草、動物では虫、人間では独り者、旅人、貧乏人である(この点も、私は草や虫みたいな存在だ!)。

 蝗は群をなして飛びかい、田圃路は通れないほどの賑やかさである。これにひきかえて赤蛙はあくまで孤独だ。草から草へおどろくほど高く跳ぶ。
一匹とんで赤蛙

 蟻が行儀正しく最後の御奉公にいそしんでいる姿は、ときどき机の上を歩きまわったり寝床を襲うたりして困るけれど、それは私に反省と勤労を教えてくれる。
 憎むべきは油虫だ。庵裏空しうして食べる物がないからでもあろうが、何でもかでも舐めたがる。いつぞやも友達から借りた本の表紙を舐めつくして、私にお詫言葉の蘊蓄を傾けさせた。
蜚※あぶらむし[#「虫+慮」、118-4]ほど又なく野鄙なるものはあらじ。譬へば露計りも愛矜あいけうなく、しかも身もちむさむさしたる出女の、油垢に汚れ朽ばみしゆふべの寝まきながら、発出おきいでたる心地ぞする。(風狂文章)
 古人がすでに言いきっている。油虫よ、私ばかりではないぞ、怒るな憎むな。

 げんのしょうこという草は腹薬として重宝がられるが、何というつつましい草であろう。梅の花を小さくしたような赤い花は愛らしさそのものである。或る俳友が訪ねて来て、その草を見つけて、子供のために摘み採ったが、その姿はほほえましいものであった。
げんのしようこのおのれひそかな花と咲く

 萩がぼつぼつ咲き初めた。曼珠沙華も咲きだした。萩の花は塵と呼ばれているように、曼珠沙華のように、花としてはさまで美しくはないけれど、何となく捨てがたいところがある。私は萩を見るたびにいつも故人一翁君を思い出す。彼の名句――たまさかに人来て去ねば萩の花散る――は歳月を超えて私たちの胸を打つ。

 今日はあまりの好晴にそそのかされて近在を散歩した。そして苅萱を頂戴した。
 素朴な壺に抛げこまれた苅萱のみだれ、そこには日本的単純の深さが漂うている。何の奇もないところに量ることのできないものがある。
 露草の好ましさも忘れてはならない。まいあさ、碧瑠璃の空へ碧瑠璃の花、畑仕事の邪魔にならないかぎりはそっとしておきたい。

 だんだん月が澄みわたってくる。芋が肥え枝豆がおいしくなるにつれて、月も清く明らかになる。とかく寝覚がちの私は夜中に起きて月を眺める。有明月の肌寒い光が身にも心にも沁み入って、おもいでは果もなくひろがる、果もない空のように。
 欲しいな、一杯やりたいな。――そんなとき、酒を求めないではいられない私は、亡き放哉坊の寂しい句をくちずさむ。――こんなよい月をひとりで観て寝る。
 私にもひょいと戯作一句うかんだ。芭蕉翁にはすまないが。――
一つ家に一人寝て観る草に月
(「愚を守る」初版本)

底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年7月10日第1刷発行
   2007(平成19)年2月5日第9刷発行
初出:「愚を守る 初版本」
   1941(昭和16)年8月
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年5月19日作成
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