私には私らしい、庵には庵らしいお正月が来た。明けましてまずはおめでとうございます、とおよろこびを申しあげる。門松や輪飾りはめんどうくさいから止めにして、裏山から歯朶を五六本折ってきて瓶に挿した。それだけで十分だった。
歯朶活けて五十二の春を迎へた
 お屠蘇は緑平老から、数の子は元寛坊から、餅は樹明居から頂戴した。

 元日、とうぜんとしていたら、鴉が来て啼いた。皮肉な年始客である。即吟一句を与えて追っ払った。
お正月のからすかあかあ
 樹明君和して曰く、
かあかあからすがふたつ
 このふたつがうれしい、二羽といわないところにかぎりないしたしみがある。さて、このふたつが啼いてどこまで飛んだやら!

 今年の私は山村庵居のよろこびに添えて、二つの望みがある。
 好きなものは、と訊かれたら、些の躊躇なしに、旅と酒と本、と私は答える。今年はその本を読みたい。まず俳書大系を通読したいと思う。これが一つの望み、そしてその二つは、酒から茶へ転換することである。いいかえればアルコールを揚棄したい、飲まずにはいられない酒を、飲んでもよい酒としたいのです。前者は訳なく実現されましょうが、後者は自分ながらあぶない。そこでまあ出来るだけ割引して、せめて酒に茶をまぜたいと念じている(そんな無分別な考を起すなという悪友もある。じっさい、私にもそんな気がしないでもないのですが)。
 本集を発送したら、久しぶりに行乞の旅に出かけるつもりです。時々行乞しないと米塩にも困りますが、それよりも人間が我儘になって困ります。どの方角へ向うかは、まだ私自身にもはっきりしていません。どこでもよいのですから、半月ばかり、そこらあたりをぶらついてきましょう。

 畑作はなかなかおもしろい。ほとんど自給自足が出来る。
 ほうれんそうはたくさん播いた割合にはよくないが、新菊はよかった。ちしゃはすばらしく葉をひろげて、たべてもたべてもたべきれない。大根は根よりも葉が出来て、これでは大根という代りに大葉とよびたいほどです。菜は間引いてからぐんぐん伸びた。それを洗って干して漬ける。ひとりしみじみ噛みしめていると、ついほろりとする。このほろりが解りますか。
たべきれないちしやの葉が雨をためてゐる
けさはけさのほうれんさうのおしたし
霜の大根ぬいてきてお汁ができた
 こんな句がいくらでも出来ます。畑作よりも句作の方がまだ上手だという評判です。

 会費について二三照会せられた方がありますから、ざっくばらんにここへ書き添えて置きます。あれはまず米一升というところで、二十五銭としましたが、それに拘泥するには及びません。それより多くても、また少くてもかまいません(タダでは困りますけれど)。私の生活は伸縮自在、化方に通じています。金があればあるように、なければないようにやってゆきます。

 急にお寒くなりました。夜更けて物思いにふけっていると、裏の畑で狐が鳴きます。狐もさびしいのでしょう。
 諸兄の平安を祈ります。(一、一六、夜)
(「三八九」第五集)

底本:「山頭火随筆集」講談社文芸文庫、講談社
   2002(平成14)年7月10日第1刷発行
   2007(平成19)年2月5日第9刷発行
初出:「「三八九」第五集」
   1933(昭和8)年1月20日発行
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年5月19日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。